寺島文庫

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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 岩波書店「世界」 脳力のレッスン 2015年 岩波書店「世界」2015年1月号 脳力のレッスン153【特別編】 二〇一五年の意味 ― 高齢者となった団塊の世代の責任

  二〇一五年は戦後七〇年という節目であり、いよいよ昭和二五年生まれが六五歳を迎える。つまり、戦後生まれの先頭世代として生きてきた「団塊の世代」が、ほぼ全て「高齢者」になることを意味する。昭和二二年生まれの私自身を含めて「戦争を知らない子供たち」も高齢者になったのである。

 団塊の世代が高校を卒業し社会参加する頃、一九六六年に日本の人口は一億人を超えた。そして団塊の世代が定年退職を迎え始めた二〇〇八年、日本の人口は一・二八億人でピークアウトした。つまり団塊の世代は、日本の人口が三〇〇〇万人増えた過程を社会人として並走したことになる。既に日本の人口は減少過程に入り、二〇四〇年代後半には一億人を割ると予測される。現在でも百歳以上が六万人を超えており、その頃、数十万人の団塊の世代は百歳を超えて生きているであろう。既に二〇一四年、人口の二五・九%が六五歳以上によって占められているが、「超高齢社会」がヒタヒタと迫っている。三十数年後に人口が一億を割る時、それは一九六六年の一億人に戻るわけではない。当時の一億人はその七%しか六五歳以上の人はいなかった。だが、一億を割る頃、四〇%が六五歳以上、しかも二五%が七五歳以上になると予測される。超高齢社会がもたらす社会構造の変化と顕在化する課題の中核的担い手が団塊の世代になることも間違いない。

 ところで、二〇一四年は「第一次世界大戦勃発から一〇〇年」という年であった。日本が真珠湾に至った歴史を考えるとき、実は一九一〇年代の日本の選択が運命の分岐点であったと、私は考える。欧州大戦の勃発を好機ととらえ、大英帝国との日英同盟に基づく「集団的自衛権」を根拠に中国におけるドイツの権益を奪うべく参戦、一九一五年には「対華二一ヵ条の要求」を突きつけ、遅れてきた植民地帝国としての野心を露わにしていった。その一九一〇年代を生きた世代を考察しておきたい。一九一二年に日本の人口は五〇〇〇万人を超した。現在の日本の人口の四割にも満たない極東の小国であり、六五歳以上の比重も五%程度であった。幕末・維新から約半世紀が過ぎ、当時の平均寿命からすれば、維新の動乱期に辛酸を嘗めた世代の大部分は世を去り、幕末・維新を知らない世代が人口の九割を占める時代になりつつあった。普通選挙(一九二五年に男子の普通選挙法実現)もない時代であり、国民の政治的意思決定への参加は限られていたが「時代の空気を作る」という意味で、時代を支えた世代の判断は重い。日清・日露戦争での「戦勝」、朝鮮併合という歴史と並走した世代の日本人は、指導者を含め、次に世界史が向かう方向を見抜けなかった。かの孫文が遺言ともいうべき神戸での講演で、「日本が、これからのち、世界の文化の前途に対して、西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている」と述べたのは一九二四年であった。残念ながら日本は欧米列強模倣の帝国主義国家へと向かい、「敗戦」を迎えた。
 世代が担う責任というものがある。「戦争を知らない子供たち」(一九七〇年、ジローズによって歌われた)の先頭世代として生きた団塊の世代が自分たちをどう認識するのか、そして残された時間にどう時代に関わり、歴史を繋ぐ責任を果すのか、「終活」などと言い出す前になすべきことがあるはずだ。


団塊の世代が生きた戦後なる時代――経済主義と私生活主義

  団塊の世代は「戦争を知らない子供たち」であったが、戦争の余燼くすぶる時代の空気を感じとった世代でもある。私の記憶の中に白い服を着て物乞いする傷痍軍人の姿がある。ある時、温厚だった親父が惨めな姿を晒す傷痍軍人に「貴様はそれでも帝国軍人か」と激昂した瞬間を見た。「ポツダム中尉」ではあったが軍歴を誇りとしていた父には耐えられない何かがあったのだろう。父は涙ぐんでいた。敗北を抱きしめながら生きることに必死だった大人の背中を我々は見てきた。

 戦後の混乱を引きずり、日本は貧しかった。私は親父が「傾斜生産方式」で戦後復興を支えた石炭産業で働いていたため、北海道・九州の炭鉱で育った。私の原体験は写真家土門拳が『筑豊のこどもたち』(一九六〇年)に写し出した「弁当を持ってこられない子供」である。筑豊の小学校では弁当を持ってこられない級友が昼食時に我慢して本を読んでいた。閉山して両親が失踪し小学生の姉が小さな妹にザリガニを煮て食べさせていた。子供心にこの世には不条理が存在すると知った。

 日本の一人当たりGDPが一〇〇〇ドルを超したのは一九六六年、東京五輪の二年後で、私が高校を卒業し進学のため上京した年であった。中高時代は札幌で過ごしたが、テレビの草創期であり米国のホームドラマに釘付けになり、大型の冷蔵庫から取り出したミルクをがぶ飲みする豊かな米国への憧憬を埋め込まれた。狸小路商店街の福引の一等商品にトヨタのコロナが出され話題を集めていた。復興から成長へ、一九六〇年代から七〇年代にかけての日本は、右肩上がりの経済の中で、豊かさへの願望が確信に変わる時代であった。
 一九七一年、大学三・四年生と大学紛争・全共闘運動と向き合った私は、その総括の意味を込めて「政治的想像力から政治的構想力へ」という論稿を書いた。左翼黄金時代の早稲田のキャンパスで、「右翼秩序派」と決め付けられながら一般学生として大学変革運動に参画した私は、大学院生として荒れ果てた野に立つ思いで、全否定のゲバルトの論理に走る学生運動の未熟さに覚えた違和感を整理し、変革の構想力が必要なことを論じた。その思索の中から現場に立つことの重要性を感じ、日本経済の縮図ともいえる総合商社への就職を決め実社会へと踏み込んだ。七三年、石油危機の年であった。
 日活が石原裕次郎らを擁して展開した「青春路線」を転換し「ロマンポルノ」に社運をかけたのが一九七一年、第一弾が『団地妻昼下がりの情事』であった。学園紛争の挫折を受け自分の身辺状況に引き戻された多くの若者は「企業戦士」としてそれぞれの経済社会の現場に身を置いた。「真っ赤なリンゴ」と表現されたが、「表面は左翼がかって真っ赤に見えるが、一皮剥けば真っ白だ」という意味であった。私自身も総合商社という現場で格闘する仲間と眼前の課題に向き合った。

 戦後日本の通商国家としての最前線を支えた先輩の言葉を思い出す。一九八〇年代後半から一〇年間米国東海岸に勤務していた頃、訪ねてきた先輩に「お前たちは贅沢になったな」とため息をつかれた。一九五〇~六〇年代の米国で働いた先輩達は「三条燕の洋食器とクリスマスツリーの電飾の見本をボストンバックに入れけんもほろろの応対を受けながら売り歩いた」という。戦後日本の貿易収支が赤字を脱したのは一九六五年だが、七〇年代始めまで「国際収支の天井」という言葉がのしかかっていた。「売るものがないから買うものも買えない」と、外貨を稼げる産業が育っていなかったのである。

 入社七年、『中央公論』一九八〇年五月号に「われら戦後世代の『坂の上の雲』」という論稿(PHP新書所収、二〇〇六年)を書いた。欧米・アジアを動き始め少し視界が広がりかけた頃で、三〇歳台に入った自分の世代のアイデンティティを確認するために戦後世代を形成した要素を考察し、身に着けた価値観として「経済主義」と「私生活主義」という特性を抽出した。「経済主義」とは、敗戦を米国の物量への敗戦と総括し、イデオロギーや思想よりも経済の復興で合意形成した時代に育った人間として、何よりも経済的価値を優先させる傾向であり、世界を動いて同世代の外国人と向き合って感じた実感であった。また「私生活主義」とは戦後民主主義を通じて身に着けた思想としての「個人主義」(全体に対する個の確立)ではなく、自分の人生を自分で決めてよい時代に生きて身に着けた「不干渉主義」(他人に干渉したくもされたくもない)というライフスタイルへのこだわりという意味である。一九八一年、日本の一人当たりGDPが一万ドルを超す時が迫っていた。
 その後、都市中間層として生きた多くの団塊の世代は、八〇年代末から九〇年代へとバブル期を中間管理職として享受した。バブル崩壊後、「リストラとデフレの時代」で息苦しくなっていくが、退職金と年金は保障される立場を確保し、総じて平和で安定した時代を生きてきた。復興期からバブル期を生き、「なんとなくクリスタル」なものに郷愁を覚える意識が潜在し、アベノミクス的時代の空気に同化する土壌がある。

      
世界史の中の戦後日本――特殊なアジアの国としてのトラウマ

   戦後日本の七〇年は、一九九〇年前後(一九八九年ベルリンの壁崩壊、九一年ソ連崩壊)までの冷戦期の四五年間と冷戦後の二五年間に分けて考えることができる。敗戦の衝撃の中、東西冷戦の時代を生き抜くために日本は西側陣営の一翼を占める形でサンフランシスコ講和会議(一九五一年)に臨み、日米安保条約に基づく「日米同盟」で戦後を生きてきた。考えてみると二〇世紀の日本は、初頭の約二〇年間(一九〇二~二三年)、大英帝国との日英同盟を外交の軸とし四五年の敗戦後の半世紀以上を日米同盟に拠ってきた、アングロサクソンの国との二国間同盟で二〇世紀の大半を生きたアジアの国という特殊な存在である。しかも間に挟まった四半世紀が戦争に至る迷走の時期で、日英同盟を背景に日露戦争、第一次大戦と彗星のごとく国際社会に台頭した記憶、日米同盟を支えに復興・成長の過程に入った記憶が埋め込まれ、「アングロサクソン同盟は成功体験」との認識が固定観念となったとさえいえよう。それが「アジアの国でありながらアジアの国でない」日本の立ち位置の淵源になっているのだ。戦後日本は一貫して米国との同盟に支えられ「軽武装経済国家」として生きた。その中で米国への過剰依存と期待が醸成され、「米国を通じてしか世界を見ない国」になってしまった。冷戦終結当時、一九九〇年の日本の貿易総額に占める対米貿易比重は二八%、これが中国を始めとするアジア貿易の増大によって二〇一四年には一三%にまで下がったが、軍事同盟では日米の一体化が深化している。この段差に日本の立ち位置の危うさがある。


 日米同盟の本質を再考するうえで重要な設問がある。「何故、北海道に米軍基地はないのか」という問いである。つまり、日本列島の南端で、国土の〇・六%にすぎない沖縄に米軍基地の七四%が集中する理由とは何なのか。日米安保は冷戦構造を前提に成立した同盟であり、仮想敵国をソ連と想定するならば、侵攻の危険の高い北海道にこそ米軍が配置されてよいはずだった。在日米軍の北限は三沢の通信基地であり、その意図は、米議会の秘密会などでの議論を踏まえるならば、「ソ連侵攻の場合、まず北部方面の自衛隊が戦って、米軍は南に構え、行動を選択する」というものである。それが冷厳な現実で、米国はいつでも駆けつけてくれる足長おじさんではない。今日の日米中のトライアングル関係においても、米国の本音は「日中の紛争に巻き込まれて米中戦争になることは避けたい」ということで、「日米同盟で中国の脅威に向き合う」という日本の期待とは温度差があると認識すべきである。

 米国のアジア戦略の本質がアジアにおける影響力の最大化にあるのは当然で、「同盟国日本も大切だが二一世紀の大国中国も大切」というゲームであり一方的にどちらかに加担することは賢くない。それは戦後の経緯を静かに想起すれば分る。一九四九年、中華人民共和国の成立によって?介石が台湾に追われ中国が二つに割れた。以来一九七二年の米中国交回復まで米国の対中政策は「台湾支援」で迷走する。その間隙を突いて米国の支援を一身に受けて復興・成長の流れに入ったのが日本であった。「もし蒋介石が本土を掌握し続けていたら日本の戦後復興は三〇年遅れた」という見方は的確だ。米国の中国への投資・支援が優先され、日本に回る余地は限られたであろうという意味だ。日本が敗戦後わずか六年で「講和」を迎え国際社会に復帰できたのも、共産中国の成立と朝鮮動乱に衝撃を受けた米国が「日本を西側に取り込んで戦後復興させ、アジアの防波堤にしよう」と判断したことによる。
 僥倖にも近いタイミングで中国が割れ、一九七二年の米中国交回復をフォローした日中国交回復までの四半世紀、日本は中国を忘れていられた。復興・成長に専心できたのである。大きな転機は一九五五年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)であった。中華人民共和国が国際会議に参加した最初の会議であり、インドのネルー、中国の周恩来、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルなど戦後の新興国のリーダーが一堂に会した。この会議に招請され、及び腰のアジア帰り(「対米協調を軸としたアジア復帰」)を果たした日本であったが、結局、アジアとは経済的利害だけを優先させ、決定的な相互信頼関係を構築できぬまま二一世紀に入って来てしまった。

 このことが、米国のアフガン・イラク戦争といった冷戦後の世界史の転換においても「アメリカに付いていくしか選択肢なし」という沈鬱な状況をもたらした。つまり、日本は冷戦後のマネジメントに失敗し、世界の構造変化に対応してこなかったのである。同じく敗戦国のドイツは冷戦後の一九九二年に「在独米軍基地の見直しによる縮小(在独米軍を二六万人から四万人に削減)と地位協定の改定」に踏み込み主権回復に舵を切った。対照的に日本は「アジアでは冷戦は終わっていない」という認識で、大事な九〇年代を日米安保の自動延長どころか、九六年の「日米安保の再定義」、九七年「ガイドラインの見直し」と、むしろ米軍の世界戦略と一体化する方向に向かった。知的怠惰であり、アフガン・イラクに展開した米軍が「同盟国軍隊との共同作戦」を期待して推進した「米軍再編」には思考停止のまま引き込まれていくしかなかった。
      

団塊の世代が直視すべきこと―――戦後を問い詰め次世代に繋ぐ

  我々はこんな自堕落で矮小な時代を目撃するために生きてきたのであろうか。戦後世代の先頭世代として怒りを抑えながら、直視すべきことを整理したい。
  まず、経済社会の在り方について、「アベノミクス」なるものに拍手を送る知見の低さを省察せねばならない。日銀総裁を取り換えてでも超金融緩和に踏み込み、株高と円安を誘導、それが実体経済を押し上げ、デフレからの脱却をもたらすという「好循環」を描いたのが「アベノミクス」だが、現実に進行しているのは金融政策だけに過剰依存した株高主導経済と円安反転による輸入インフレであり国民生活の毀損である。経済社会の現場に立つ人間は、決してこんな安易な経済理論を信じなかったはずだ。もたらされたのは「吊り天井経済」とでもいうべき状況で、金融を溢れさせて株が上がっているから天井の高い母屋が建っているように見えるが、柱や土台である実体経済が動かず、株高で恩恵を受ける一部の人と取り残された人の格差と、エネルギーと食料を海外に依存する国として「輸入インフレ」に苦しむ国民という歪んだ結末である。一四年一〇月末に日銀が追加金融緩和を発表して以降の奇怪な展開を直視すれば、その本質が分る。さらなる金融緩和によって日経平均は一・七万円台へと上昇したが、一一月一四日までの四週間の株取引内容を見ると、「外国人投資家が一・八兆円の買越し、日本の法人(機関投資家)は九九七億円の売越し、日本の個人投資家は実に二・五兆円の売越し」であり、日本人はアベノミクスなどを信じておらず、外人買いに並走して売り抜くという構造は加速している。産業を育てる資本主義とは無縁なマネーゲームを高揚させ、額に汗して働く人は苦闘するという愚かな構造に気付かねばならない。


 しかも、一〇月末の追加金融緩和と機を同じくして、GPIF、つまり年金基金の運用方針を転換し、年金基金の五割(従来は二四%程度)を国内外の株で運用できることにした。国債での運用では制度が回らないほど国債の価値を毀損しておいて、運用力など期待できる体制にもないGPIFに株への投資を促すわけで、国民は知らぬ間に大きなリスクを背負いこんだのだ。我々が目指すべき経済社会は、マネーゲームで景気浮揚の幻覚をもたらし、株価と政権の支持率が相関するような次元のものであってはならない。実体経済を直視し、産業を育て、未来に繋がるプロジェクトを組成し、国民経済を豊かにし、分配の公正を実現することこそ重要なのである。そして、安易な財政出動を繰り返し、一〇〇〇兆円を超す債務を後代に回すような財政構造を脱し、歳入に見合った歳出という規律を取り戻すことである。アベノミクスは「好循環」を祈って金融を肥大化させる呪術経済学の産物である。
 次に、目指すべき国際社会における日本の国家像について、考えねばならない。「中国・韓国には侮られたくない」という時代の空気を投影した国家主義・国権主義への回帰にいかなる緊張感を持って向き合うべきか。民主党政権の自滅ともいえる崩壊を受けて、「日本を取り戻す」として衆議院三二六議席の巨大与党に支えられて安倍政権がスタートして二年、近隣外交の緊張、首相の靖国参拝、特定機密保護法の成立、集団的自衛権行使容認の閣議決定などを積み上げてきたこの政権が目指すものは何なのか。明確に透けて見える意思は「憲法を改正して、戦後レジームからの脱却を図ること」であろう。では、どのように憲法を変えたいのか。

 改めて、二〇一二年四月に決定された自民党の「憲法改正草案」を読んでみた。まず、第一条に天皇を元首として明記することや、第九条における「紛争解決の手段として武力を行使することを放棄する」条項を消し、「自衛権の発動を妨げない」として「国防軍の保持」を明記するなどの改正点に目がいくが、気付くべきは「前文」の改正であり、その草案に自民党が目指したい国の形が描きだされているのである。
 日本国憲法の前文は、米国に押し付けられたというより、戦後の出発点における日本人自身の真摯な決意であった。そのことは「総司令部案」と比べ、はるかに踏み込んだ理念が盛り込まれていることから分る。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し」として、「国民主権」を「人類普遍の原理」として強調する文脈が続くが、自民党改正案では「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」とさらりと触れるに留まり、代わって、我が国が大戦や大災害を乗り越えて「今や国際社会において重要な地位を占めており」という認識に立ち、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」という新たな方向付けが示されている。また、日本国憲法精神の根底に存在する平和主義に関する文章「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という条項と「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」という謙虚な姿勢は後退し、「平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」という文脈が登場する。ここに見えるのは国権主義への回帰願望でありこれこそが我々が対峙すべき「力への誘惑」である。

 人間は環境の子であり、生きた時代に制約される。団塊の世代が、戦後なる時代によって刷り込まれた限界を自覚するにせよ、後代に残してはならない課題を心して直視すべきである。「シルバー・デモクラシー」時代が迫る。人口の四割が高齢者という超高齢化社会では有権者人口の五割、「老人は投票に行く」という傾向を踏まえれば現実に投票に行く人の六割を高齢者が占めることになる。「老人の老人による老人のための政治」になりかねない。戦後民主主義が与えられた民主主義であるにせよ、また民主主義が「悪平等」を助長して煩瑣で時間がかかる仕組みであるにせよ、我々は国家主義の誘惑に引き込まれてはならない。「戦争を知らない子供たち」ではあるが、戦争を意識の奥に置き、戦前と戦後をつなぐ時代を生きてきた団塊の世代は、「国家」の名における犯罪を拒否する責任を有す。民主主義の価値を尊ぶからこそ、代議制民主主義を鍛える意思を持つべきで、「代議者の数の削減(議員定数削減)」「議員の任期制限」などによって代議制を通じたリーダーの育成と意思決定の高度化を図らねばならない。

 改めて、戦後日本に光の部分があったとすれば、一つは、冷戦期の「社会主義」からの体制転換の圧力の下に、「分配の公正」を真剣に論ずる資本主義を模索したことであり、空虚なマネーゲームを抑制し「産業と技術」を志向する経済社会を目指したことであろう。さらにもう一つは、日本近代史の省察に立って「開かれた国際主義」に真摯に生きたことであり、大国意識に立つ「国威発揚のための国際貢献」を「積極的平和主義」と言い換える浅薄なものではなかったはずだ。
 そして戦後日本の忘れ物としての最大の課題は「米国との関係の再設計」だ。それは「独立国に長期にわたり外国の軍隊が駐留し続けるのは不自然」という世界史の常識に還ることだ。この意思を失った国を世界では「独立国」とはいわない。

 


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