2016年 「寺島文庫オフィシャルウェブサイト」は、様々な志を持った人が集い、何かを共有するためのウェブサイトです。 その志を実現していくために、寺島実郎が世界の現場をフィールドワークして得た「世界を知る力」とネットワーク、そして産官学の仕事を通じて得たプロジェクト構想力のヒントを少しづつ伝えていきます。 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016.feed 2024-04-29T09:13:40+09:00 寺島文庫 webmaster@terashima-bunko.com 岩波書店「世界」2016年12月号 脳力のレッスン176 人間機械論の変遷―デカルトからAIまで―一七世紀オランダからの視界(その40) 2017-07-13T01:13:51+09:00 2017-07-13T01:13:51+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1342-nouriki-2016-12.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">単純化すれば近代史は人間機械論への挑戦だったともいえる。人間なるものを解明・要素分解していけば、人間も機械のように部品を組み合わせたメカニズムによって稼働しているという認識に至り、限りなく人間再生の試みを繰り返してきたのである。中世の欧州では宗教的権威の中に人間が置かれ、創造神を中心にした「宇宙」という世界観の下に神によって創られた人間が生きていると考えられていた。その宇宙観を覆したのがコペルニクス、ガリレオであり、「人間とは」という問いかけを探求し、自己の合理的自覚を試みたのがデカルトであった。「理性の勝利」の時代の到来についてはこの連載でも確認してきた。今人工知能ブームの中にあってふと思うことがある。これはデカルトに始まった挑戦をバイオリズムのように繰り返してきたことの究極の現代版ではないのか。そのことの持つ意味を冷静に認識する必要性を痛感する。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">デカルトの自動人間―――ロボットの原型</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一七世紀思想の研究者上野修は『デカルト、ホッブス、スピノザ 哲学する一七世紀』(講談社学術文庫、原本『精神の眼は論証そのもの』、一九九九)において「一七世紀は、自動人形=自動機械の創作に異様な関心を見せる点で際立っている」との視界を提示する。確かに近代合理主義の開祖ともいえるデカルトは「水力装置で対象を感知して洞窟から出現するディアナやネプチューン、片言をしゃべる自動人形」などカラクリ仕掛けの自動人形に強い関心を寄せ、オランダ滞在中に家政婦ヘレナとの間に設けたフランシーヌと名付けた、五歳で死んだ娘そっくりの自動人形をトランクに入れて持ち歩いていたという不気味な伝説も残している。どこまで本当の話かは分からない。デカルトは理性が勝利する時代を切り拓いた人物であった。あらゆる事象や権威に関し「本質的に疑ってみる」という懐疑論に立ち、その先にどうしても否定しえない思考する自分自身の存在を確認することによって「我思う、故に我あり」という視界を拓き合理主義の扉を開いた。その彼が自動人形にこだわった事実には違和感を覚えるが、「心身二元論」を主張したデカルトだからこそ「人間とは何か」を探求する中で、どこまでが身体(機能的メカニズム)で、どこからが心(精神、魂、意思)かを極めるべく自動人形に異様な好奇心を寄せたともいえる。<br /> デカルトについては、「一七世紀オランダからの視界・その14」において、その生涯と作品『方法序説』に論究した。そして「我思う、故に我あり」に至る、思惟する主体としての個の自覚が近代を突き動かすパラダイム転換になったことを論じた。彼は一六〇六年から一四年、一〇歳から一八歳までの八年間、仏イエズス会のラ・フレーシュ学院でスコラのカリキュラムに基づく、当時としては最高の人文学教育を受けた。日本では大坂夏の陣から江戸幕府の初期の時代である。そして一六一九年一一月一〇日、二三歳の時、相次いで三つの夢をみて電撃のような衝撃をうけた。悪夢と啓示、激しく吹き荒れる風、稲妻と閃光、そして三つ目が静けさの中で詩集の文言が現れ、自分が立ち向かうべき道に関し、あらゆる学問・科学の統一に向けて、「理性を正しく導き、あらゆる学問における真理を求める方法の探求」という使命に目覚める。<br /> デカルトは無神論者ではない。合理的な神の存在証明を試みていた。だが彼は本質的に幾何学者であり、全ての事象は「数値化された世界」に置換できると考えていた。神の啓示ともいえる霊的体験に突き動かされる部分と、全てを幾何学的に分解できると考える部分を共存させるデカルトの「心身二元論」は、突き詰めると心と体が結びつく「心身結合」を容認するに至る。<br /> デカルトの評価は揺れ動く。それは近代なるものへの評価にもつながる。一九九三年に『デカルトなんかいらない?』(松浦俊輔訳、産業図書)という刺激的な本が出版されている。フランスのル・モンド紙などに掲載された一九八〇年代の仏内外の科学者のインタビューからなる対話集(原書、一九九一)で、原題を『デカルトを葬り去らねばならないのか カオスから人工知能まで』といい、「偶然か決定論か、問われる科学」が基調となっている。ここでのデカルトは近代合理主義の象徴、「決定論に立つ過去の古典」とされ、「カオス、ファジー、曖昧」などIT革命の一時代前に盛んだった議論を投影する論稿が並び、科学にも流行り廃りがあることを思わせる。<br /> 西欧の自動人形へのこだわりは一八~一九世紀のカラクリ人形作りへと継承された。ゼンマイ仕掛けの自動人形には時計職人などの技術が使われ、驚くほど精巧な機械人形が開発された。興味深いことに江戸期の日本でも「からくり人形」が登場する。出島経由で入ってきたオランダからの機械時計の技術に注目し、細川半蔵(?~一七九六)が作った「茶運び人形」や田中久重(一七九九~一八八一)の「弓曳き童子」など驚くべき作品が生まれた。国立科学博物館の「万年自鳴鐘」(万年時計)は田中久重の作品だが、その精巧さは日本人の技術吸収力、器用さを象徴しており、その技術は後の東芝の礎となった。ただしいかにその動きが精緻であれあくまで動きをプログラムされた人形であり、決して人造人間ではない。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">コンピュータの登場とサイバネティックス―――人間機械論PARTⅡ</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> コンピュータ科学、サイバネティックスの父とさN・ウィーナーは『サイバネティックス』(一九四八)、『人間機械論』(一九五〇、改定版一九五四)において、通信と制御を一体化する「電子計算機」の開発に向けた問題意識に関し、「人間の非人間的利用」からの脱却を語っている。人間機械論と訳された本の原題は“The Human Use of Human Beings”であり、「人間を鎖でつなぎ動力源とする労働」や「頭脳の一〇〇分の一しか使わぬ単純労働」から解放するためにサイバネティックスの進歩が求められるとの認識を示している。つまり、人間の可能性を信じ人間の人間らしい活動を促すために「閉じた機械仕掛けによって動く自動人形」を超えた機械を構想しているのだ。ウィーナーの時代を微妙な形で投影して誕生したのが手塚治虫の『鉄腕アトム』である。一九五一年のクリスマス島での米水爆実験を受け、「この科学技術を平和利用できたらいいな」という思いで産み出されたのが「超小型原子力エンジンと善悪が見分けられる電子頭脳の産物」である「百万馬力の人型ロボット鉄腕アトム」であった。五一年四月に連載が開始された「心優しい科学の子」たるアトムは技術楽観論の象徴ともいえる存在であり、物語上ではア二〇〇三年四月七日に誕生することになっているが、AIブームとの今日でも人工知能ロボットといえるものは誕生していない。<br /> 不思議な因縁を感じるのはアトムが人間の代わりとして開発されたというストーリーである。開発者の天馬博士が、ロボット科学の粋を集めて、死んだ一人息子トビオの代わりを創ったというのがアトム誕生の背景であった。何やらデカルトのフランシーヌ人形を思い出される。アトムは一六〇の言語を話す優れたロボットだが、成長しないアトムに苛立った博士はサーカスに売り飛ばしてしまう。そこから育ての親たるお茶の水博士との出会いなどの物語が展開するのだが、戦争による親の無い子供が溢れていた戦後日本を背景に、無機的ロボットの物語は人間社会の情愛と絡みあう表情を持ち始める。我々はアトムに機械と心の融合の幻影を見たのである。<br /> A・C・クラーク原作キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』は一九六八年の作品で、人工頭脳コンピュータHAL9000が一九九二年に完成し宇宙の旅を可能にしたことになっているのだが、スーパー・コンピュータの能力が飛躍的に進歩した今日現在でも、HALのような人工頭脳コンピュータは完成していない。コンピュータ科学の進歩が、SFの想定より遅れているのかといえばそんなことではない。進歩の方向が変わり、インターネットの登場に象徴されるネットワーク情報技術革命の方向に動いたということである。<br /> インターネットの原型となった米国防総省のARPANETの開発思想は「開放系・分散系」の情報技術で、一九六九年に完成した。冷戦期であり、中央制御の大型コンピュータで情報を管理してもソ連の核攻撃には無力で、「一つの回路が破断されても柔らかく情報が伝わる開放系・分散系のネットワーク型情報技術」が必要だったのである。このARPANETの基盤技術が冷戦後の軍事技術の民生転換の象徴として技術解放されて登場したのがインターネットであった。冷戦が終わって二五年が経つが、正に世界の情報環境はネットワーク情報技術によってパラダイム転換を起こしたのである。<br /></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>AI(人工知能)という挑戦―――新しい次元の人間機械論</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 今、我々は新次元の人間機械論の渦中にある。AIの開発の流れである。AIの基本的考え方は、「脳は神経細胞であり、電気回路と同じ」であり、CPUによる演算能力の高度化により限りなく人間の思考・認識・記憶・感情はプログラミングで実現できるとする試みといえる。これは鉄腕アトムの電子脳の実現のようなもので、既に囲碁や将棋などでは「ディープ・ラーニング」という高度なプログラミングで、プロの人間を凌駕する能力を持つシステムが開発されている。コンピュータ・サイエンスの進化は凄まじく、我々の生活を取り巻く情報環境は大きく変わりつつあり、BigDataの解析を取り込んだ人工知能が人間生活や産業活動を便利で効率的に導いていることも否定できない。既に「人工知能は人間を超えるのか?」というテーマが現実味を帯び、AIより賢いAIの開発をAI自身が行うという「特異点(シンギュラリティ)」への到達が二〇四五年には実現するとの議論さえ登場している。AI研究者の中には、「現存する労働の七五%がAIによってなされる時代の到来」や「天才にしか仕事の無い時代」を予測する議論をする者もいる。ある意味では、「非人間的労働」から人間が解放される時代の到来ともいえ、ウィーナーの夢、さらにはデカルトの夢の実現かとも思われる。だが、そんな時代が来たとして、「人間は何をするのか?」という疑問が残る。より付加価値の高く、より人間的喜びを味わえる分野に専心できるともいえるが、普通の人間にとってそれはどんな分野なのか。もしそれがスマホで「ポケモンGO」をする時間のごときものだとすればあまりに悲しいことではないのか。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> もっともそうした先走った悩みに向き合うことはない。どんなに進んだ人工知能でもそれは目的・手段合理性における優秀性であり、設定された目的の下での最適合理性の探求においてプログラムされたコンピュータが効率的なことは確かだが、問題は目的の設定、つまり「課題設定能力」である。人間が高次元の課題設定力を維持できるのかが重要となる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人間の脳はわずか一・五kg前後にすぎない。しかし、その潜在力は無限とも思われる。最新の神経科学の成果ともいえる伊のトノーニ他著『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房、二〇一五、原書二〇一三)は興味深い。「人間の脳は意識を生み出すが、コンピュータは意識を生み出さない」というのである。月面に着陸した宇宙飛行士が彼方の地球を見て覚える感動のような意識はコンピュータでは生まれない。さらにいえば人間には神仏を想い意識する力がある。つまり、大きな力に生かされているという、謙虚に自分を見つめる意識がある。究極の人間機械論が突き動かしてくる時代において、人間の正気を保たねばならない。人間が六〇兆の細胞から成り立つ生物であることを解明しても、その一〇倍を超すウィルスと共生することで生まれる「個体差」を一括りで対応できないと、友人の医師が語っていた。</span></span>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">単純化すれば近代史は人間機械論への挑戦だったともいえる。人間なるものを解明・要素分解していけば、人間も機械のように部品を組み合わせたメカニズムによって稼働しているという認識に至り、限りなく人間再生の試みを繰り返してきたのである。中世の欧州では宗教的権威の中に人間が置かれ、創造神を中心にした「宇宙」という世界観の下に神によって創られた人間が生きていると考えられていた。その宇宙観を覆したのがコペルニクス、ガリレオであり、「人間とは」という問いかけを探求し、自己の合理的自覚を試みたのがデカルトであった。「理性の勝利」の時代の到来についてはこの連載でも確認してきた。今人工知能ブームの中にあってふと思うことがある。これはデカルトに始まった挑戦をバイオリズムのように繰り返してきたことの究極の現代版ではないのか。そのことの持つ意味を冷静に認識する必要性を痛感する。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">デカルトの自動人間―――ロボットの原型</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一七世紀思想の研究者上野修は『デカルト、ホッブス、スピノザ 哲学する一七世紀』(講談社学術文庫、原本『精神の眼は論証そのもの』、一九九九)において「一七世紀は、自動人形=自動機械の創作に異様な関心を見せる点で際立っている」との視界を提示する。確かに近代合理主義の開祖ともいえるデカルトは「水力装置で対象を感知して洞窟から出現するディアナやネプチューン、片言をしゃべる自動人形」などカラクリ仕掛けの自動人形に強い関心を寄せ、オランダ滞在中に家政婦ヘレナとの間に設けたフランシーヌと名付けた、五歳で死んだ娘そっくりの自動人形をトランクに入れて持ち歩いていたという不気味な伝説も残している。どこまで本当の話かは分からない。デカルトは理性が勝利する時代を切り拓いた人物であった。あらゆる事象や権威に関し「本質的に疑ってみる」という懐疑論に立ち、その先にどうしても否定しえない思考する自分自身の存在を確認することによって「我思う、故に我あり」という視界を拓き合理主義の扉を開いた。その彼が自動人形にこだわった事実には違和感を覚えるが、「心身二元論」を主張したデカルトだからこそ「人間とは何か」を探求する中で、どこまでが身体(機能的メカニズム)で、どこからが心(精神、魂、意思)かを極めるべく自動人形に異様な好奇心を寄せたともいえる。<br /> デカルトについては、「一七世紀オランダからの視界・その14」において、その生涯と作品『方法序説』に論究した。そして「我思う、故に我あり」に至る、思惟する主体としての個の自覚が近代を突き動かすパラダイム転換になったことを論じた。彼は一六〇六年から一四年、一〇歳から一八歳までの八年間、仏イエズス会のラ・フレーシュ学院でスコラのカリキュラムに基づく、当時としては最高の人文学教育を受けた。日本では大坂夏の陣から江戸幕府の初期の時代である。そして一六一九年一一月一〇日、二三歳の時、相次いで三つの夢をみて電撃のような衝撃をうけた。悪夢と啓示、激しく吹き荒れる風、稲妻と閃光、そして三つ目が静けさの中で詩集の文言が現れ、自分が立ち向かうべき道に関し、あらゆる学問・科学の統一に向けて、「理性を正しく導き、あらゆる学問における真理を求める方法の探求」という使命に目覚める。<br /> デカルトは無神論者ではない。合理的な神の存在証明を試みていた。だが彼は本質的に幾何学者であり、全ての事象は「数値化された世界」に置換できると考えていた。神の啓示ともいえる霊的体験に突き動かされる部分と、全てを幾何学的に分解できると考える部分を共存させるデカルトの「心身二元論」は、突き詰めると心と体が結びつく「心身結合」を容認するに至る。<br /> デカルトの評価は揺れ動く。それは近代なるものへの評価にもつながる。一九九三年に『デカルトなんかいらない?』(松浦俊輔訳、産業図書)という刺激的な本が出版されている。フランスのル・モンド紙などに掲載された一九八〇年代の仏内外の科学者のインタビューからなる対話集(原書、一九九一)で、原題を『デカルトを葬り去らねばならないのか カオスから人工知能まで』といい、「偶然か決定論か、問われる科学」が基調となっている。ここでのデカルトは近代合理主義の象徴、「決定論に立つ過去の古典」とされ、「カオス、ファジー、曖昧」などIT革命の一時代前に盛んだった議論を投影する論稿が並び、科学にも流行り廃りがあることを思わせる。<br /> 西欧の自動人形へのこだわりは一八~一九世紀のカラクリ人形作りへと継承された。ゼンマイ仕掛けの自動人形には時計職人などの技術が使われ、驚くほど精巧な機械人形が開発された。興味深いことに江戸期の日本でも「からくり人形」が登場する。出島経由で入ってきたオランダからの機械時計の技術に注目し、細川半蔵(?~一七九六)が作った「茶運び人形」や田中久重(一七九九~一八八一)の「弓曳き童子」など驚くべき作品が生まれた。国立科学博物館の「万年自鳴鐘」(万年時計)は田中久重の作品だが、その精巧さは日本人の技術吸収力、器用さを象徴しており、その技術は後の東芝の礎となった。ただしいかにその動きが精緻であれあくまで動きをプログラムされた人形であり、決して人造人間ではない。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">コンピュータの登場とサイバネティックス―――人間機械論PARTⅡ</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> コンピュータ科学、サイバネティックスの父とさN・ウィーナーは『サイバネティックス』(一九四八)、『人間機械論』(一九五〇、改定版一九五四)において、通信と制御を一体化する「電子計算機」の開発に向けた問題意識に関し、「人間の非人間的利用」からの脱却を語っている。人間機械論と訳された本の原題は“The Human Use of Human Beings”であり、「人間を鎖でつなぎ動力源とする労働」や「頭脳の一〇〇分の一しか使わぬ単純労働」から解放するためにサイバネティックスの進歩が求められるとの認識を示している。つまり、人間の可能性を信じ人間の人間らしい活動を促すために「閉じた機械仕掛けによって動く自動人形」を超えた機械を構想しているのだ。ウィーナーの時代を微妙な形で投影して誕生したのが手塚治虫の『鉄腕アトム』である。一九五一年のクリスマス島での米水爆実験を受け、「この科学技術を平和利用できたらいいな」という思いで産み出されたのが「超小型原子力エンジンと善悪が見分けられる電子頭脳の産物」である「百万馬力の人型ロボット鉄腕アトム」であった。五一年四月に連載が開始された「心優しい科学の子」たるアトムは技術楽観論の象徴ともいえる存在であり、物語上ではア二〇〇三年四月七日に誕生することになっているが、AIブームとの今日でも人工知能ロボットといえるものは誕生していない。<br /> 不思議な因縁を感じるのはアトムが人間の代わりとして開発されたというストーリーである。開発者の天馬博士が、ロボット科学の粋を集めて、死んだ一人息子トビオの代わりを創ったというのがアトム誕生の背景であった。何やらデカルトのフランシーヌ人形を思い出される。アトムは一六〇の言語を話す優れたロボットだが、成長しないアトムに苛立った博士はサーカスに売り飛ばしてしまう。そこから育ての親たるお茶の水博士との出会いなどの物語が展開するのだが、戦争による親の無い子供が溢れていた戦後日本を背景に、無機的ロボットの物語は人間社会の情愛と絡みあう表情を持ち始める。我々はアトムに機械と心の融合の幻影を見たのである。<br /> A・C・クラーク原作キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』は一九六八年の作品で、人工頭脳コンピュータHAL9000が一九九二年に完成し宇宙の旅を可能にしたことになっているのだが、スーパー・コンピュータの能力が飛躍的に進歩した今日現在でも、HALのような人工頭脳コンピュータは完成していない。コンピュータ科学の進歩が、SFの想定より遅れているのかといえばそんなことではない。進歩の方向が変わり、インターネットの登場に象徴されるネットワーク情報技術革命の方向に動いたということである。<br /> インターネットの原型となった米国防総省のARPANETの開発思想は「開放系・分散系」の情報技術で、一九六九年に完成した。冷戦期であり、中央制御の大型コンピュータで情報を管理してもソ連の核攻撃には無力で、「一つの回路が破断されても柔らかく情報が伝わる開放系・分散系のネットワーク型情報技術」が必要だったのである。このARPANETの基盤技術が冷戦後の軍事技術の民生転換の象徴として技術解放されて登場したのがインターネットであった。冷戦が終わって二五年が経つが、正に世界の情報環境はネットワーク情報技術によってパラダイム転換を起こしたのである。<br /></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>AI(人工知能)という挑戦―――新しい次元の人間機械論</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 今、我々は新次元の人間機械論の渦中にある。AIの開発の流れである。AIの基本的考え方は、「脳は神経細胞であり、電気回路と同じ」であり、CPUによる演算能力の高度化により限りなく人間の思考・認識・記憶・感情はプログラミングで実現できるとする試みといえる。これは鉄腕アトムの電子脳の実現のようなもので、既に囲碁や将棋などでは「ディープ・ラーニング」という高度なプログラミングで、プロの人間を凌駕する能力を持つシステムが開発されている。コンピュータ・サイエンスの進化は凄まじく、我々の生活を取り巻く情報環境は大きく変わりつつあり、BigDataの解析を取り込んだ人工知能が人間生活や産業活動を便利で効率的に導いていることも否定できない。既に「人工知能は人間を超えるのか?」というテーマが現実味を帯び、AIより賢いAIの開発をAI自身が行うという「特異点(シンギュラリティ)」への到達が二〇四五年には実現するとの議論さえ登場している。AI研究者の中には、「現存する労働の七五%がAIによってなされる時代の到来」や「天才にしか仕事の無い時代」を予測する議論をする者もいる。ある意味では、「非人間的労働」から人間が解放される時代の到来ともいえ、ウィーナーの夢、さらにはデカルトの夢の実現かとも思われる。だが、そんな時代が来たとして、「人間は何をするのか?」という疑問が残る。より付加価値の高く、より人間的喜びを味わえる分野に専心できるともいえるが、普通の人間にとってそれはどんな分野なのか。もしそれがスマホで「ポケモンGO」をする時間のごときものだとすればあまりに悲しいことではないのか。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> もっともそうした先走った悩みに向き合うことはない。どんなに進んだ人工知能でもそれは目的・手段合理性における優秀性であり、設定された目的の下での最適合理性の探求においてプログラムされたコンピュータが効率的なことは確かだが、問題は目的の設定、つまり「課題設定能力」である。人間が高次元の課題設定力を維持できるのかが重要となる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人間の脳はわずか一・五kg前後にすぎない。しかし、その潜在力は無限とも思われる。最新の神経科学の成果ともいえる伊のトノーニ他著『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房、二〇一五、原書二〇一三)は興味深い。「人間の脳は意識を生み出すが、コンピュータは意識を生み出さない」というのである。月面に着陸した宇宙飛行士が彼方の地球を見て覚える感動のような意識はコンピュータでは生まれない。さらにいえば人間には神仏を想い意識する力がある。つまり、大きな力に生かされているという、謙虚に自分を見つめる意識がある。究極の人間機械論が突き動かしてくる時代において、人間の正気を保たねばならない。人間が六〇兆の細胞から成り立つ生物であることを解明しても、その一〇倍を超すウィルスと共生することで生まれる「個体差」を一括りで対応できないと、友人の医師が語っていた。</span></span>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年11月号 脳力のレッスン175特別篇 二〇一六年の米大統領選挙の深層課題―民主主義は資本主義を制御できるのか 2017-06-15T02:33:24+09:00 2017-06-15T02:33:24+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1338-nouriki-2016-11.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">何とも色あせた対決となったものである。二〇一六年米大統領選は七〇歳の共和党<span lang="EN-US">D</span>・トランプと六八歳の民主党<span lang="EN-US">H</span>・クリントンの戦いとなった。シルバー・デモクラシーの究極の選択である。高齢だということだけではない。何の新鮮な要素もない不人気な候補者が二大政党の党内事情で生き延び、お互いの過去を攻撃し合いながら未来なき選択を国民に迫っているのだ。世界と米国が直面する問題について世界のリーダーたるべき国を率いる大統領としてはあまりに未来ビジョンに欠けることは明らかであり、この選択自体「劣化するアメリカ」を象徴している。米国が英国に代わり世界のリーダーとして台頭した頃のウィルソンの「国際連盟構想」にせよ第二次大戦期のルーズベルトのニューディールや「平和の構想」にせよ、冷戦期に向き合ったケネディの「自由を守る義務」にせよ、次の時代に向けた理念性において米国を際立たせたが、二人の候補にそうした構想力はない。時代が人を呼ぶのか、人が時代を象徴するのか、これが今のアメリカなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0mm 0mm 0pt;"><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 米国の大統領選挙は、その仕組みにおいて次世代を担う若いリーダーが登場するチャンスを孕んでいる。日本のような議員内閣制は、代議者の投票で首相を決めるため、どうしても政治のボスが選ばれがちだが、国民が直接選ぶ米国の大統領制は、議員、州知事、ビジネス・リーダー、社会運動家など広いジャンルから候補者が登場するため、これまでもライジング・サン型の指導者を創りだしてきた。JFKが選ばれた時は四三歳、ビル・クリントン四六歳、オバマも四七歳であった。ヒラリーとトランプ、どちらが就任してもこれまでの最高齢、<span lang="EN-US">R</span>・レーガンの六九歳に匹敵する高齢なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">二〇一六年米大統領選挙―――不毛の選択への視界</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> ビル・クリントンが米大統領選挙に登場した一九九二年、私はNYでの四年の生活を終え、ワシントンで仕事をしていた。ビル・クリントンは一九四六年生まれで私にとっても同世代であり、当時アーカンソー州知事であったこの人物に注目し、「冷戦後のアメリカを率いるリーダー」として期待もし、彼に関する情報を集めた。そして、寄稿したのが「アメリカの新しい歌――クリントンとは何か」(『文藝春秋』一九九三年八月号)であり、その結末を見る思いで書いたのが「結局、クリントンとは何者だったのか」(『フォーサイト』一九九六年四月号ト)であった。<br /> 調べるほどに、米国のベビーブーマーズ世代の先頭に立つ形で登場してきたこの人物が、思想、信条、哲学を練磨してきたのではなく、「カメレオン型パーソナリティー」と表現する心理学者もいたが、その場に適当に合わせて変容して生きる人物であることに気づいた。「ベトナム徴兵忌避」「フリーセックス(爛れた異性関係)」「ドラッグ」というこの世代のアメリカ人が手を染めたネガティブな話題にはことごとく関与し、巧みな言い訳で自己正当化を図る鉄面皮な政治家であった。<br /> だがこの人物は今日でも米国民に嫌われてはいない。笑いながら妻の大統領選挙キャンペーンの横に立っている。モニカ・ルインスキーという研修生との「不適切な関係」が記憶に残るが、八年間の任期が冷戦後のアメリカが唯一の超大国として存在しえた期間でもあり、米国人にとって9・11に襲われる前の比較的幸福な時間のリーダーという印象があるのかもしれない。しかしクリントン政権は、財務長官サマーズ、同次官ガイトナー体制の下に新自由主義的な政策を展開、一九九九年には銀行と証券の垣根を設けたグラス・スティーガル法(一九三三年制定)を廃止し、ウォール街による金融資本主義の肥大化を招き、二〇〇一年のエンロンの崩壊、〇八年のリーマンショックへの伏線を引いたといってよい。つまり、「強欲なウォール街」に拍車をかけた政権であった。<br /> ところで、前記の「クリントンとは何者なのか」という論稿において、私はビル・クリントンと同じ年生まれの経済人としてトランプとマイケル・ミルケンに論及していた。二人は同じくウォートン・ビジネススクールを卒業、トランプはNYのビルの再開発を進める「不動産王」として、片やミルケンはウォール街の「ジャンクボンドの帝王」として時代の寵児のごとく話題を集めていた。ミルケンはその後インサイダー取引で逮捕され、映画『ウォール・ストリート』の主役のモデルとなる運命を辿るが、金融工学のフロントランナーとして「リスクをマネジメントする新しい金融ビジネスモデル」を生み出した人物で、マネーゲームを肥大化させた張本人でもあった。一方トランプは父の威光の中でNYのビルの再開発を進める目立ちたがり屋、スキャンダルまみれの好色家で、とても実業を生きる誠実な事業家とはいえぬ存在であった。<br /> 九〇年代初頭、既に時代の最前線に登場していたクリントン、ミルケン、トランプという三人のベビーブーマーズを見つめながら、「この世代にまともな人物はいないのかね」という思いが込み上げてきたものである。あれから二五年、再びアメリカは代わり映えのしない選択肢の中でもがいている。<br /> ヒラリーとトランプ、この二人もアメリカの戦後なる時代を歩いてきた。第二次大戦の戦勝国であり、一九五〇年代の米国は冷戦期の西側のチャンピオンとして「黄金の五〇年代」を謳歌し、幼少年期だったベビーブーマーズは「偉大なアメリカ」へのノスタルジーを感じるはずである。キューバ危機と向き合ったJFKとその暗殺、そしてベトナム戦争で疲弊し七五年サイゴン陥落を目撃した青年期、映画『七月四日に生まれて』ではないが同世代の友人が戦争に傷つき死んでいったのを体験したはずである。そして七九年イラン革命後の中東における迷走、冷戦の終焉と9・11後の混迷と、知見のある米国人ならば暗転する祖国に深い悲しみを覚えたであろう。こうした時代と並走した心象風景を二人はどこかに内在させているはずである。誠実に向き合ったか否かは別にして。<br /> 対照的に見えるトランプとヒラリーだが、戦後アメリカが生み育てた世代のコインの裏表である。ホームルームにこの二人がいるクラスを想定し、その後の二人の人生を想像しながら読み進めてもれえればその同質性が見えてくるであろう。ヒラリーは聡明で野心的な上昇志向の女性で、計画通り高学歴を極め奨学金による欧州留学で知り合った青年ビル・クリントンと結婚した。J・ムーアの『クリントン 急ぎ足の青年』(Clinton: young man in hurry, 1992)は彼の本質を描き出した本だが、決して優れた資質を持ってはいないが「負け続けても級長選挙に立候補し続ける異様な上昇志向を持つ」「恵まれない出自を留学・ロースクールといった金メッキで覆い一流を装う青年」と描写されている。この乗りの良い危い青年を操縦し、夫婦の情愛を超えてクリントン・ブランドの事業の共同経営者として生きてきたのがヒラリーであった。<br />トランプは父親の威光と支援でビルの再開発やカジノの経営で「金ピカのアメリカ」を象徴するように生きてきた男であり、人生を貫く価値は「DEAL(取引)」である。はったりで相手をたじろがせ落とし所で取引するワザが人生だと考えている。思慮も哲学もない反知性的存在なのだが、その彼が饒舌なヒラリーとの対比において率直で本音を語る人物に見える瞬間がある。彼が大統領候補として台頭した過程には「民主党の大統領候補はほぼヒラリーになる」という状況が前提として存在していた。彼女への国民の不信感、「ヒラリーは嘘つきで何かを隠している」という印象に火をつけたのが彼の歯に衣着せぬ舌鋒であった。彼女への拒絶感がトランプを際立たせたともいえその意味で二人はコインの裏表である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">オバマとは何だったのか―――二〇一六年の選択はその結末でもある</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> オバマの八年が終わろうとしている。オバマ政権は「イラクの失敗」と「リーマンショック」が成立させたといえる。イラク統治の失敗と消耗に苛立っていた米国民は、イラク戦争に反対していたオバマの「イラクからの撤退」という主張を支持した。民主党の大統領候補の座を競っていたヒラリーが「イラク戦争に賛成していた」という事実が、二〇〇八年に彼女を失速させた一因であった。また、直前のリーマンショックの衝撃が「強欲なウォール街を縛る」という彼のメッセージが国民の支持を引き付けた。公約に対しオバマは一応やることはやったともいえる。イラクからの撤退については二〇一〇年八月に主力部隊の撤退を開始、一一年には訓練部隊を除き全面撤退、結局米国はイラク戦争後、六八八三人の米兵士を死なせイラクを去った。ただし、アフガニスタンについては〇九年一二月に三万人の増派を余儀なくされ、「オバマのベトナム」といわれるほど泥沼に引きずり込まれ続けたが、一二年以降は順次撤退開始、中東における米国の軍事プレゼンスは、石油権益を持つ湾岸産油国を除き、大きく後退した。それが、イラクのスンニ派過激勢力を起点とするISIS(イスラム国)なる存在を生み、シリアの混乱、そしてイスラム・ジハード主義者によるテロの拡散を誘発し、米国民の不安と苛立ちは増幅されるばかりである。アトランティック誌は9・11以来の米国のホームランド・セキュリティーのための費用が一兆ドルに達したという特集を組んだ(二〇一六年九月号)。<br />「ウォール街を縛る」という公約についても、何もしなかったわけではない。二〇一〇年七月に「金融危機の再発を防ぐ」として金融規制改革法を成立させ、「監督体制強化、機動的破綻処理、高リスク取引の制限、ヘッジファンドの透明性向上」など一定の方向付けを行った。一九八〇年代からの金融市場の競争促進(自由化)で動いてきた米国の政策転換と見方もあったが、したたかなウォール街にとっては「ザル法」にすぎず、その後の経緯をみても、FINTECHなる言葉に象徴されるごとく、ICT革命の成果を金融に取り入れた複雑怪奇な「ルール不在の領域」が増殖しており、マネーゲームの制限は中途半端なものに留まってしまった。<br /> オバマの八年の最終局面における米国経済は堅調を維持している。リーマンショック後、二〇〇九年に前年比▲二・八%に落ち込んでいた実質GDP成長率は二〇一〇年代に入って堅調に転じ、二〇一四年からは二年連続で二・四%成長を達成、本年も二%台の成長が見込まれている。先進国の中では際立って高い成長軌道にあり、リーマン後一〇%を超していた失業率も四・九%(8月)と、大きく改善した。金融政策も引き締めを模索する段階に至り、量的緩和(QE3)も一四年一〇月に終わらせ、政策金利も一五年一二月に〇・二五%引き上げ、年内に更なる引き上げを探る段階を迎えている。<br />しかしながら、米国経済の好転をオバマ政権の成果とする認識は米国民の中にはない。何故か。米国経済好転の要因は大きく二つある。一つは化石燃料革命であり、北米大陸の足元からシェールガスやシェールオイルが生産され、米国が二〇一四年から世界一の原油・天然ガスの生産国になったことである。このところ生産過剰で価格の軟化を招き、米経済の不安定要素にさえなっているが、基本的には化石燃料の増産は米国の追い風要素として機能してきた。このことは、「再生可能エネルギー重視」「グリーンニューディール」といってスタートを切ったオバマ政権にとってはまことに皮肉な話である。<br /><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;">  </span>もう一つは、IoTといわれる情報技術革命の新局面であり、米国経済・産業活動のあらゆる局面において、BIGDATA時代を迎えた情報技術革命の成果が浸透し、効率化と生産性向上に機能しているという要素である。確かに、米国の企業活動の現場を見るとネットワーク情報技術革命の浸透を実感するし、UBERのような自動車社会を「所有から共有に」変える新しいビジネスモデルが生まれつつあることもわかる。<br />だが、マクロ経済指標の好転にもかかわらず米国民の苛立ちの背景にある構造にも気付かざるをえない。注目すべきは貧困率の高まりである。米国には「貧困率」という統計があり、二〇一四年の場合、四人家族で年収二・四万ドル(日本円で二六〇万円)以下の家計を貧困とするという指標が存在する。二一世紀に入って貧困率は二〇〇〇年の一一・三%から一四年には一四・八%にまで上昇しており、特に白人の貧困率が増えている(下表)。この「プアー・ホワイト」がトランプに心動かされるトランプ現象の震源地になっているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nouriki173.jpg" alt="" width="439" height="326" /></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 堅調な景気回復にもかかわらず、何故貧困率が高まり続けているのか。確かに、景気拡大に伴い雇用環境も良くなり失業率も低下しているのだが、IoT時代のパラドックスというべきか、雇用の量ではなく質が問題なのである。増えている仕事は、俗にいう「BAD JOB」、つまり付加価値の低い単純労働であり、資源開発、素材供給、生産、流通、販売などのあらゆる局面でネットワーク情報技術が活用され、「雇用なき景気回復」、正確に言えば「高付加価値の仕事を増やさない経済成長」が進行しているといえる。したがって米国においては金融経済の肥大化がもたらす格差の深刻化と、雇用の質の劣化による貧困率の高まりが同時進行する事態を生じており、それが国民の不安と不満を掻き立てているといえる。<br />  オバマがやろうとしたことは「核なき世界」の実現、「オバマ・ケア」と言われた健康保険制度の充実などを含め歴史的挑戦であった。だがベトナム戦争後に登場したJ・カーターが「癒しの大統領」といわれたごとく、イラク戦争後が生んだ黒人初の大統領は「いい人」ではあるが、「きれいごと」と「建前論」の繰り返しで、米国の世界における主導力を失わせた「弱腰な指導者」というイメージが米国民の中にできあがっているといえる。「偉大なアメリカ」という表現が大統領選で飛び交うのも、強い豊かなアメリカへの郷愁が蘇るのであろう。<br /></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>本質的課題―――民主主義による資本主義の制御</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> この夏、米外交問題評議会(CFR)が発行するフォーリン・アフェアーズ誌に載ったブラウン大学のマーク・プリウス論文「危機の資本主義―――もはや民主主義では資本主義を制御できない」(一六年八月号)には考えさせられた。政治経済学の常識では、資本主義は「市場を通じた資源配分」、すなわち市場による自律調整を原則とする。そして、民主主義は「投票を通じて権力配分」、民意に基づく価値の配分を正当なものとする。そして、民主政治は利潤追求のみに向かいかねない資本主義に対して制動をかけてきた。この民主主義と資本主義の緊張関係のバランスが近現代史の主題でもあった。<br />特に、第二次大戦後は社会主義陣営との対立を横目に、労働法、社会保障、金融規制など、行き過ぎた資本の論理を制御する制度の導入が国民の意思として選択されるなど、民主主義は一定以上に機能してきた。ところが一九八〇年代から冷戦の終焉以降、「新自由主義」の名による規制緩和とグローバル競争の加速の中で、金融資本が肥大化して優位性を高め、金融破綻が起こっても政府介入による資本の救済が行われるなど、歪んだ資本主義へと傾斜していった。資本の圧力による景気浮揚のための「債務(赤字財政)を前提とする政府」、超低金利下の消費刺激がもたらした「ローンまみれの民衆」など、資本主義を構成する主体はすっかり歪んでしまい、健全な経済社会へと制動をかける力を失ったかにみえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> こうした問題意識と資本主義の総本山たる米国の大統領選挙を重ねると、ことの本質が見えてくる。皮肉なことに両候補の政策が一致している点を注目したい。実は両候補ともオバマが進めてきたTPPは見直しか反対であり、証券と金融の垣根を作るグラス・スティーガル法の復活を掲げ、金融規制強化に踏み込むことを主張している。つまり新自由主義からの決別を語っているのだ。市場原理を泳いできたトランプやウォール街を友としてきたヒラリーがどこまで本気かは別にしてサンダース支持者や白人貧困者を取り込むには有効な政策と判断したのであろう。つまり、「資本主義改革」に触れざるをえないほど資本主義の変質は深刻であり、米国の民主主義が機能するかどうかの試金石ともいえる注目点なのである。<br />「経済の金融化」が進む二一世紀資本主義の変質と民主政治に齟齬が生じ格差と貧困を増幅させていることは、欧州においても政治の中心課題に浮上しており、BREXIT後の英国を率いることになったメイ首相も、就任演説以来「資本主義改革」(格差と既得権益の解消)を強調している。英国も唯一のバイタル産業が一・六km四方のシティ(ロンドン金融街)に集積する金融で、ウォール街と並んでFINTECHと租税回避地を駆使する金融資本主義の居城を抱えている。BREXITの影で、金融規制を嫌うシティ、とりわけシャドーバンク系の意思が働いたことは確かで、メイの資本主義改革も本質に切り込むことは容易ではない。今や地球全体のGDP、つまり実体経済の四倍を超すまでに肥大化した金融資産(銀行の与信、債券・証券市場の総額)、ICTで武装した金融工学の進化により制御不能とさえ思われるマネーゲームの自己増殖をいかに人間社会のあるべき仕組みにおいてコントロールできるのか、それこそが格差と貧困を克服する基点であり、新しい公正な政策科学が求められている。EU一〇カ国が進めている金融取引税の導入など国際連帯税の動きが重要になる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> おそらく、この「資本主義改革」という世界的テーマが全く自覚できていないのが日本であろう。日本は米国が採用する経済政策の川下に置かれてきた。今世紀に入って、米国の新自由主義的潮流を受け、小泉政権の規制緩和、とりわけ「郵政民営化が本丸」という小泉改革に邁進し、新自由主義のエピゴーネンのような経済学者が跋扈にしていた。ところが〇八年にリーマンショックが起こり政府主導の金融危機の回避に動くと、日本政府は緊急避難的政策であった米FRBの超金融緩和策(量的緩和とゼロ金利)を「デフレからの脱却」という目的に置き換え、政府の主導の下に日銀が「異次元金融緩和」に踏み込んだ。第一の矢「異次元金融緩和」と第二の矢「財政出動」で景気は良くなるというリフレ経済学は機能しないことは、二〇一四年から三年間の日本の実質成長率がゼロ成長軌道を低迷していることが証明している。異次元緩和はエスカレートし、日銀のマネタリーベースは二〇一六年七月には四〇二兆円と二〇一二年比で四倍近くにまで拡大、名目GDPの七割超という異常な金融肥大化状況をもたらしている。欧米も金融緩和基調にあるが、二割程度である。さらにマイナス金利にまで踏み込み、金融秩序の動揺を招いている。産業活動や家計消費など実体経済は動かず、金融政策に過剰依存した経済政策が展開されているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  にもかかわらず、あたかも「株価を上げる政治が良い政治」であるかのごとく時代が動いている。本誌九月号「二〇一六年参議院選挙に見るシルバー・デモクラシーの現実―――それでもアベノミクスを選ぶ悲哀」において、私は日本の高齢者がアベノミクスに拍手を送る構造を解析した。金融資産の保有状況をみると、貯蓄の五八%、有価証券の七二%は六〇歳以上の世帯によって保有されている。貯蓄がマイナス金利を受けて一切の利息を産まない状況となり、年金だけでは苦しくなってきた高齢者にとって、保有する株が上がることへの関心は尋常ではなく、「株を上げること」につながる政策誘導を支持する心理がアベノミクスに向かうという論旨であった。政府主導の金融緩和だけでなく公的マネーを突っ込んでも株価を支える方向に向かい、GPIF(年金基金)と日銀のETF買いだけで、実に三九兆円(一六年三月末)もの額を直接日本株に投入している。その結果、日経新聞が八月末に報じた如く、上場企業の四分の一の筆頭株主が公的マネーという事態が生じており、国家資本主義ともいえる様相を呈しており、健全な市場機能が急速に失われている。アベノミクスに入り三年は外国人投資家の買い越し(ピーク時累計で二一兆円)が日経平均を二・一万円に押し上げたが、今年に入って八兆円の売り越しとなり、代わって公的マネーの投入でなんとか一・六万円台を維持している。これがなければ、日経平均は既に一・二万円を割り込んでいるであろう。株価の維持が政権基盤となり、安易に株価を上げる政策だけに誘惑を感じるという高齢者心理で政治が動くという現実を噛み締める必要がある。二〇一六年のシルバー川柳の当選作「金よりも大事なものが無い老後」には、笑えない現実が滲み出ている。<br /> 日本のような産業国家は、「経済の金融化」に振り回されることを極力避けねばならない。マネーゲームを抑制し財政を健全化し、技術を重視する産業政策をもって実体経済に地平を拓かねばならない。世界が「資本主義の改革」を遡上に乗せざるをえなくなった今こそ議論の先頭に立たねばならない。日本のシルバー・デモクラシーにとって真正面の課題である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">何とも色あせた対決となったものである。二〇一六年米大統領選は七〇歳の共和党<span lang="EN-US">D</span>・トランプと六八歳の民主党<span lang="EN-US">H</span>・クリントンの戦いとなった。シルバー・デモクラシーの究極の選択である。高齢だということだけではない。何の新鮮な要素もない不人気な候補者が二大政党の党内事情で生き延び、お互いの過去を攻撃し合いながら未来なき選択を国民に迫っているのだ。世界と米国が直面する問題について世界のリーダーたるべき国を率いる大統領としてはあまりに未来ビジョンに欠けることは明らかであり、この選択自体「劣化するアメリカ」を象徴している。米国が英国に代わり世界のリーダーとして台頭した頃のウィルソンの「国際連盟構想」にせよ第二次大戦期のルーズベルトのニューディールや「平和の構想」にせよ、冷戦期に向き合ったケネディの「自由を守る義務」にせよ、次の時代に向けた理念性において米国を際立たせたが、二人の候補にそうした構想力はない。時代が人を呼ぶのか、人が時代を象徴するのか、これが今のアメリカなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0mm 0mm 0pt;"><span style="font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 米国の大統領選挙は、その仕組みにおいて次世代を担う若いリーダーが登場するチャンスを孕んでいる。日本のような議員内閣制は、代議者の投票で首相を決めるため、どうしても政治のボスが選ばれがちだが、国民が直接選ぶ米国の大統領制は、議員、州知事、ビジネス・リーダー、社会運動家など広いジャンルから候補者が登場するため、これまでもライジング・サン型の指導者を創りだしてきた。JFKが選ばれた時は四三歳、ビル・クリントン四六歳、オバマも四七歳であった。ヒラリーとトランプ、どちらが就任してもこれまでの最高齢、<span lang="EN-US">R</span>・レーガンの六九歳に匹敵する高齢なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">二〇一六年米大統領選挙―――不毛の選択への視界</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> ビル・クリントンが米大統領選挙に登場した一九九二年、私はNYでの四年の生活を終え、ワシントンで仕事をしていた。ビル・クリントンは一九四六年生まれで私にとっても同世代であり、当時アーカンソー州知事であったこの人物に注目し、「冷戦後のアメリカを率いるリーダー」として期待もし、彼に関する情報を集めた。そして、寄稿したのが「アメリカの新しい歌――クリントンとは何か」(『文藝春秋』一九九三年八月号)であり、その結末を見る思いで書いたのが「結局、クリントンとは何者だったのか」(『フォーサイト』一九九六年四月号ト)であった。<br /> 調べるほどに、米国のベビーブーマーズ世代の先頭に立つ形で登場してきたこの人物が、思想、信条、哲学を練磨してきたのではなく、「カメレオン型パーソナリティー」と表現する心理学者もいたが、その場に適当に合わせて変容して生きる人物であることに気づいた。「ベトナム徴兵忌避」「フリーセックス(爛れた異性関係)」「ドラッグ」というこの世代のアメリカ人が手を染めたネガティブな話題にはことごとく関与し、巧みな言い訳で自己正当化を図る鉄面皮な政治家であった。<br /> だがこの人物は今日でも米国民に嫌われてはいない。笑いながら妻の大統領選挙キャンペーンの横に立っている。モニカ・ルインスキーという研修生との「不適切な関係」が記憶に残るが、八年間の任期が冷戦後のアメリカが唯一の超大国として存在しえた期間でもあり、米国人にとって9・11に襲われる前の比較的幸福な時間のリーダーという印象があるのかもしれない。しかしクリントン政権は、財務長官サマーズ、同次官ガイトナー体制の下に新自由主義的な政策を展開、一九九九年には銀行と証券の垣根を設けたグラス・スティーガル法(一九三三年制定)を廃止し、ウォール街による金融資本主義の肥大化を招き、二〇〇一年のエンロンの崩壊、〇八年のリーマンショックへの伏線を引いたといってよい。つまり、「強欲なウォール街」に拍車をかけた政権であった。<br /> ところで、前記の「クリントンとは何者なのか」という論稿において、私はビル・クリントンと同じ年生まれの経済人としてトランプとマイケル・ミルケンに論及していた。二人は同じくウォートン・ビジネススクールを卒業、トランプはNYのビルの再開発を進める「不動産王」として、片やミルケンはウォール街の「ジャンクボンドの帝王」として時代の寵児のごとく話題を集めていた。ミルケンはその後インサイダー取引で逮捕され、映画『ウォール・ストリート』の主役のモデルとなる運命を辿るが、金融工学のフロントランナーとして「リスクをマネジメントする新しい金融ビジネスモデル」を生み出した人物で、マネーゲームを肥大化させた張本人でもあった。一方トランプは父の威光の中でNYのビルの再開発を進める目立ちたがり屋、スキャンダルまみれの好色家で、とても実業を生きる誠実な事業家とはいえぬ存在であった。<br /> 九〇年代初頭、既に時代の最前線に登場していたクリントン、ミルケン、トランプという三人のベビーブーマーズを見つめながら、「この世代にまともな人物はいないのかね」という思いが込み上げてきたものである。あれから二五年、再びアメリカは代わり映えのしない選択肢の中でもがいている。<br /> ヒラリーとトランプ、この二人もアメリカの戦後なる時代を歩いてきた。第二次大戦の戦勝国であり、一九五〇年代の米国は冷戦期の西側のチャンピオンとして「黄金の五〇年代」を謳歌し、幼少年期だったベビーブーマーズは「偉大なアメリカ」へのノスタルジーを感じるはずである。キューバ危機と向き合ったJFKとその暗殺、そしてベトナム戦争で疲弊し七五年サイゴン陥落を目撃した青年期、映画『七月四日に生まれて』ではないが同世代の友人が戦争に傷つき死んでいったのを体験したはずである。そして七九年イラン革命後の中東における迷走、冷戦の終焉と9・11後の混迷と、知見のある米国人ならば暗転する祖国に深い悲しみを覚えたであろう。こうした時代と並走した心象風景を二人はどこかに内在させているはずである。誠実に向き合ったか否かは別にして。<br /> 対照的に見えるトランプとヒラリーだが、戦後アメリカが生み育てた世代のコインの裏表である。ホームルームにこの二人がいるクラスを想定し、その後の二人の人生を想像しながら読み進めてもれえればその同質性が見えてくるであろう。ヒラリーは聡明で野心的な上昇志向の女性で、計画通り高学歴を極め奨学金による欧州留学で知り合った青年ビル・クリントンと結婚した。J・ムーアの『クリントン 急ぎ足の青年』(Clinton: young man in hurry, 1992)は彼の本質を描き出した本だが、決して優れた資質を持ってはいないが「負け続けても級長選挙に立候補し続ける異様な上昇志向を持つ」「恵まれない出自を留学・ロースクールといった金メッキで覆い一流を装う青年」と描写されている。この乗りの良い危い青年を操縦し、夫婦の情愛を超えてクリントン・ブランドの事業の共同経営者として生きてきたのがヒラリーであった。<br />トランプは父親の威光と支援でビルの再開発やカジノの経営で「金ピカのアメリカ」を象徴するように生きてきた男であり、人生を貫く価値は「DEAL(取引)」である。はったりで相手をたじろがせ落とし所で取引するワザが人生だと考えている。思慮も哲学もない反知性的存在なのだが、その彼が饒舌なヒラリーとの対比において率直で本音を語る人物に見える瞬間がある。彼が大統領候補として台頭した過程には「民主党の大統領候補はほぼヒラリーになる」という状況が前提として存在していた。彼女への国民の不信感、「ヒラリーは嘘つきで何かを隠している」という印象に火をつけたのが彼の歯に衣着せぬ舌鋒であった。彼女への拒絶感がトランプを際立たせたともいえその意味で二人はコインの裏表である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">オバマとは何だったのか―――二〇一六年の選択はその結末でもある</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> オバマの八年が終わろうとしている。オバマ政権は「イラクの失敗」と「リーマンショック」が成立させたといえる。イラク統治の失敗と消耗に苛立っていた米国民は、イラク戦争に反対していたオバマの「イラクからの撤退」という主張を支持した。民主党の大統領候補の座を競っていたヒラリーが「イラク戦争に賛成していた」という事実が、二〇〇八年に彼女を失速させた一因であった。また、直前のリーマンショックの衝撃が「強欲なウォール街を縛る」という彼のメッセージが国民の支持を引き付けた。公約に対しオバマは一応やることはやったともいえる。イラクからの撤退については二〇一〇年八月に主力部隊の撤退を開始、一一年には訓練部隊を除き全面撤退、結局米国はイラク戦争後、六八八三人の米兵士を死なせイラクを去った。ただし、アフガニスタンについては〇九年一二月に三万人の増派を余儀なくされ、「オバマのベトナム」といわれるほど泥沼に引きずり込まれ続けたが、一二年以降は順次撤退開始、中東における米国の軍事プレゼンスは、石油権益を持つ湾岸産油国を除き、大きく後退した。それが、イラクのスンニ派過激勢力を起点とするISIS(イスラム国)なる存在を生み、シリアの混乱、そしてイスラム・ジハード主義者によるテロの拡散を誘発し、米国民の不安と苛立ちは増幅されるばかりである。アトランティック誌は9・11以来の米国のホームランド・セキュリティーのための費用が一兆ドルに達したという特集を組んだ(二〇一六年九月号)。<br />「ウォール街を縛る」という公約についても、何もしなかったわけではない。二〇一〇年七月に「金融危機の再発を防ぐ」として金融規制改革法を成立させ、「監督体制強化、機動的破綻処理、高リスク取引の制限、ヘッジファンドの透明性向上」など一定の方向付けを行った。一九八〇年代からの金融市場の競争促進(自由化)で動いてきた米国の政策転換と見方もあったが、したたかなウォール街にとっては「ザル法」にすぎず、その後の経緯をみても、FINTECHなる言葉に象徴されるごとく、ICT革命の成果を金融に取り入れた複雑怪奇な「ルール不在の領域」が増殖しており、マネーゲームの制限は中途半端なものに留まってしまった。<br /> オバマの八年の最終局面における米国経済は堅調を維持している。リーマンショック後、二〇〇九年に前年比▲二・八%に落ち込んでいた実質GDP成長率は二〇一〇年代に入って堅調に転じ、二〇一四年からは二年連続で二・四%成長を達成、本年も二%台の成長が見込まれている。先進国の中では際立って高い成長軌道にあり、リーマン後一〇%を超していた失業率も四・九%(8月)と、大きく改善した。金融政策も引き締めを模索する段階に至り、量的緩和(QE3)も一四年一〇月に終わらせ、政策金利も一五年一二月に〇・二五%引き上げ、年内に更なる引き上げを探る段階を迎えている。<br />しかしながら、米国経済の好転をオバマ政権の成果とする認識は米国民の中にはない。何故か。米国経済好転の要因は大きく二つある。一つは化石燃料革命であり、北米大陸の足元からシェールガスやシェールオイルが生産され、米国が二〇一四年から世界一の原油・天然ガスの生産国になったことである。このところ生産過剰で価格の軟化を招き、米経済の不安定要素にさえなっているが、基本的には化石燃料の増産は米国の追い風要素として機能してきた。このことは、「再生可能エネルギー重視」「グリーンニューディール」といってスタートを切ったオバマ政権にとってはまことに皮肉な話である。<br /><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;">  </span>もう一つは、IoTといわれる情報技術革命の新局面であり、米国経済・産業活動のあらゆる局面において、BIGDATA時代を迎えた情報技術革命の成果が浸透し、効率化と生産性向上に機能しているという要素である。確かに、米国の企業活動の現場を見るとネットワーク情報技術革命の浸透を実感するし、UBERのような自動車社会を「所有から共有に」変える新しいビジネスモデルが生まれつつあることもわかる。<br />だが、マクロ経済指標の好転にもかかわらず米国民の苛立ちの背景にある構造にも気付かざるをえない。注目すべきは貧困率の高まりである。米国には「貧困率」という統計があり、二〇一四年の場合、四人家族で年収二・四万ドル(日本円で二六〇万円)以下の家計を貧困とするという指標が存在する。二一世紀に入って貧困率は二〇〇〇年の一一・三%から一四年には一四・八%にまで上昇しており、特に白人の貧困率が増えている(下表)。この「プアー・ホワイト」がトランプに心動かされるトランプ現象の震源地になっているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nouriki173.jpg" alt="" width="439" height="326" /></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 堅調な景気回復にもかかわらず、何故貧困率が高まり続けているのか。確かに、景気拡大に伴い雇用環境も良くなり失業率も低下しているのだが、IoT時代のパラドックスというべきか、雇用の量ではなく質が問題なのである。増えている仕事は、俗にいう「BAD JOB」、つまり付加価値の低い単純労働であり、資源開発、素材供給、生産、流通、販売などのあらゆる局面でネットワーク情報技術が活用され、「雇用なき景気回復」、正確に言えば「高付加価値の仕事を増やさない経済成長」が進行しているといえる。したがって米国においては金融経済の肥大化がもたらす格差の深刻化と、雇用の質の劣化による貧困率の高まりが同時進行する事態を生じており、それが国民の不安と不満を掻き立てているといえる。<br />  オバマがやろうとしたことは「核なき世界」の実現、「オバマ・ケア」と言われた健康保険制度の充実などを含め歴史的挑戦であった。だがベトナム戦争後に登場したJ・カーターが「癒しの大統領」といわれたごとく、イラク戦争後が生んだ黒人初の大統領は「いい人」ではあるが、「きれいごと」と「建前論」の繰り返しで、米国の世界における主導力を失わせた「弱腰な指導者」というイメージが米国民の中にできあがっているといえる。「偉大なアメリカ」という表現が大統領選で飛び交うのも、強い豊かなアメリカへの郷愁が蘇るのであろう。<br /></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>本質的課題―――民主主義による資本主義の制御</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> この夏、米外交問題評議会(CFR)が発行するフォーリン・アフェアーズ誌に載ったブラウン大学のマーク・プリウス論文「危機の資本主義―――もはや民主主義では資本主義を制御できない」(一六年八月号)には考えさせられた。政治経済学の常識では、資本主義は「市場を通じた資源配分」、すなわち市場による自律調整を原則とする。そして、民主主義は「投票を通じて権力配分」、民意に基づく価値の配分を正当なものとする。そして、民主政治は利潤追求のみに向かいかねない資本主義に対して制動をかけてきた。この民主主義と資本主義の緊張関係のバランスが近現代史の主題でもあった。<br />特に、第二次大戦後は社会主義陣営との対立を横目に、労働法、社会保障、金融規制など、行き過ぎた資本の論理を制御する制度の導入が国民の意思として選択されるなど、民主主義は一定以上に機能してきた。ところが一九八〇年代から冷戦の終焉以降、「新自由主義」の名による規制緩和とグローバル競争の加速の中で、金融資本が肥大化して優位性を高め、金融破綻が起こっても政府介入による資本の救済が行われるなど、歪んだ資本主義へと傾斜していった。資本の圧力による景気浮揚のための「債務(赤字財政)を前提とする政府」、超低金利下の消費刺激がもたらした「ローンまみれの民衆」など、資本主義を構成する主体はすっかり歪んでしまい、健全な経済社会へと制動をかける力を失ったかにみえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> こうした問題意識と資本主義の総本山たる米国の大統領選挙を重ねると、ことの本質が見えてくる。皮肉なことに両候補の政策が一致している点を注目したい。実は両候補ともオバマが進めてきたTPPは見直しか反対であり、証券と金融の垣根を作るグラス・スティーガル法の復活を掲げ、金融規制強化に踏み込むことを主張している。つまり新自由主義からの決別を語っているのだ。市場原理を泳いできたトランプやウォール街を友としてきたヒラリーがどこまで本気かは別にしてサンダース支持者や白人貧困者を取り込むには有効な政策と判断したのであろう。つまり、「資本主義改革」に触れざるをえないほど資本主義の変質は深刻であり、米国の民主主義が機能するかどうかの試金石ともいえる注目点なのである。<br />「経済の金融化」が進む二一世紀資本主義の変質と民主政治に齟齬が生じ格差と貧困を増幅させていることは、欧州においても政治の中心課題に浮上しており、BREXIT後の英国を率いることになったメイ首相も、就任演説以来「資本主義改革」(格差と既得権益の解消)を強調している。英国も唯一のバイタル産業が一・六km四方のシティ(ロンドン金融街)に集積する金融で、ウォール街と並んでFINTECHと租税回避地を駆使する金融資本主義の居城を抱えている。BREXITの影で、金融規制を嫌うシティ、とりわけシャドーバンク系の意思が働いたことは確かで、メイの資本主義改革も本質に切り込むことは容易ではない。今や地球全体のGDP、つまり実体経済の四倍を超すまでに肥大化した金融資産(銀行の与信、債券・証券市場の総額)、ICTで武装した金融工学の進化により制御不能とさえ思われるマネーゲームの自己増殖をいかに人間社会のあるべき仕組みにおいてコントロールできるのか、それこそが格差と貧困を克服する基点であり、新しい公正な政策科学が求められている。EU一〇カ国が進めている金融取引税の導入など国際連帯税の動きが重要になる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> おそらく、この「資本主義改革」という世界的テーマが全く自覚できていないのが日本であろう。日本は米国が採用する経済政策の川下に置かれてきた。今世紀に入って、米国の新自由主義的潮流を受け、小泉政権の規制緩和、とりわけ「郵政民営化が本丸」という小泉改革に邁進し、新自由主義のエピゴーネンのような経済学者が跋扈にしていた。ところが〇八年にリーマンショックが起こり政府主導の金融危機の回避に動くと、日本政府は緊急避難的政策であった米FRBの超金融緩和策(量的緩和とゼロ金利)を「デフレからの脱却」という目的に置き換え、政府の主導の下に日銀が「異次元金融緩和」に踏み込んだ。第一の矢「異次元金融緩和」と第二の矢「財政出動」で景気は良くなるというリフレ経済学は機能しないことは、二〇一四年から三年間の日本の実質成長率がゼロ成長軌道を低迷していることが証明している。異次元緩和はエスカレートし、日銀のマネタリーベースは二〇一六年七月には四〇二兆円と二〇一二年比で四倍近くにまで拡大、名目GDPの七割超という異常な金融肥大化状況をもたらしている。欧米も金融緩和基調にあるが、二割程度である。さらにマイナス金利にまで踏み込み、金融秩序の動揺を招いている。産業活動や家計消費など実体経済は動かず、金融政策に過剰依存した経済政策が展開されているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  にもかかわらず、あたかも「株価を上げる政治が良い政治」であるかのごとく時代が動いている。本誌九月号「二〇一六年参議院選挙に見るシルバー・デモクラシーの現実―――それでもアベノミクスを選ぶ悲哀」において、私は日本の高齢者がアベノミクスに拍手を送る構造を解析した。金融資産の保有状況をみると、貯蓄の五八%、有価証券の七二%は六〇歳以上の世帯によって保有されている。貯蓄がマイナス金利を受けて一切の利息を産まない状況となり、年金だけでは苦しくなってきた高齢者にとって、保有する株が上がることへの関心は尋常ではなく、「株を上げること」につながる政策誘導を支持する心理がアベノミクスに向かうという論旨であった。政府主導の金融緩和だけでなく公的マネーを突っ込んでも株価を支える方向に向かい、GPIF(年金基金)と日銀のETF買いだけで、実に三九兆円(一六年三月末)もの額を直接日本株に投入している。その結果、日経新聞が八月末に報じた如く、上場企業の四分の一の筆頭株主が公的マネーという事態が生じており、国家資本主義ともいえる様相を呈しており、健全な市場機能が急速に失われている。アベノミクスに入り三年は外国人投資家の買い越し(ピーク時累計で二一兆円)が日経平均を二・一万円に押し上げたが、今年に入って八兆円の売り越しとなり、代わって公的マネーの投入でなんとか一・六万円台を維持している。これがなければ、日経平均は既に一・二万円を割り込んでいるであろう。株価の維持が政権基盤となり、安易に株価を上げる政策だけに誘惑を感じるという高齢者心理で政治が動くという現実を噛み締める必要がある。二〇一六年のシルバー川柳の当選作「金よりも大事なものが無い老後」には、笑えない現実が滲み出ている。<br /> 日本のような産業国家は、「経済の金融化」に振り回されることを極力避けねばならない。マネーゲームを抑制し財政を健全化し、技術を重視する産業政策をもって実体経済に地平を拓かねばならない。世界が「資本主義の改革」を遡上に乗せざるをえなくなった今こそ議論の先頭に立たねばならない。日本のシルバー・デモクラシーにとって真正面の課題である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年10月号 脳力のレッスン174 科学革命の影としての魔女狩り―一七世紀オランダからの視界(その39) 2017-04-25T08:54:34+09:00 2017-04-25T08:54:34+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1327-nouriki-2016-10.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 近代は一直線に到来した訳ではない。謎めいた話だが欧州社会が近代への啓蒙の時代の扉を開かんと動き始めていた正にその頃、一六世紀から一七世紀においてなぜか残虐極まりない「魔女狩り」が最盛期を迎える。これにより火刑に処された人の数は全欧州で三万人から一〇万人といわれ、人間社会の歴史は複雑かつ不可解である。科学革命、資本主義、近代デモクラシーの潮流につながる近代的理性や知性が花開きかけていた中で狂信的殺戮が繰り広げられた理由とは何か。<br />魔女狩りの熱狂は一五八〇~一六七〇年が最高潮であったという。フランス、スイス、イタリアが先行、最も悲惨で過激だったのがドイツで、やがてイギリスにも波及した。魔女狩り最盛期の時代の欧州は、本連載でも再三触れてきた最後の宗教戦争「三〇年戦争」とオランダのスペインに対する八〇年間にわたる独立戦争の終結点で結ばれた「ウェストファリア条約」(一六四八年)の締結を挟む時代であり、こうした時代環境を背景として悲惨な魔女狩りが荒れ狂ったのである。<br />一般的に魔女のイメージはトンガリ帽子で箒にまたがり、魔女集会(サバト)へと空を飛ぶ黒衣の老女で、この世の悪を凝縮したかのごとき存在で、恐怖、疫病、狂乱、淫蕩の世界へと引き込む「悪魔の情婦」であった。だが、一方で魔女は民衆の潜在意識の表出でもあり、埋め込まれた願望を逆立ちさせたシンボルといえる。「悪魔の存在を信じない者は神の存在を信じない者」という表現があるが、神と悪魔は表裏一体であり、魔女を巡る熱狂はキリスト教の光と影との相克がもたらした二重構造を内包していることに気づく。何故原罪と愛の認識を基盤とするキリスト教が悲惨な魔女狩りを生んだのか、欧州の近代を考察する上で避けて通れないテーマである。<br />不思議なことに、二一世紀を生きる我々でさえ、虚構にすぎない「魔女」という世界観から自由ではない。『魔法使いサリー』は愛くるしい子供向けアニメとしても、未だに『ハリー・ポッター』が描く魔術的物語に引き寄せられているのである。空を飛ぶ魔法使いに人知を超えた夢を描いているようであるが、かつて魔女とされて血塗られた歴史の犠牲者となった人達が存在したことを忘れてはならない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">魔女の起源ーーー魔女とは何なのか</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人類史、とりわけ男の目線からの歴史において常に謎は女性である。魅力的であり、慈愛に満ち、生きる願望と情熱の対象である。何よりも存在の根源に関わる子供を宿し産むというポテンシャルを秘める存在である。そして生身の女性は本音の見えぬ不可解な存在であり、逆上と狂気を潜在させる恐怖の対象でもある。その二重性を抱え込んだ幻想が「魔女伝説」に繋がるともいえる。witchという語は一般的に「魔女」と訳されるが、文化人類学的には必ずしも女とは限らないのだという。だが魔女狩りが吹き荒れた一六~一七世紀に殺戮されたwitchは圧倒的に女性、それも老女であった。<br />人類の原始宗教はオックスフォード大学のE・タイラー(一八三二~一九一七)が論じたごとく、人類にとっての宗教の萌芽はアニミズムにあり、動植物から火、水、土、岩、風などあらゆるものに霊魂(アニマ、anima)が宿るという意識を抱き、そこから精霊崇拝が生まれ、その影としてのデーモン(悪鬼、霊鬼)という概念が引き出されたという。デーモンは必ずしも否定的存在ではなく、霊力をもった鬼神という意味も有した。その二重性が女性への崇敬と恐怖という二重性とも絡みつき、生み出されたのが魔女伝説の淵源といえる。魔女の起源については諸説あるが、古代エジプトの神体系における至高の女神イシス伝説に淵源があるとされ、それが欧州のギリシャ神話の女神デメテルに繋がりさらに欧州の宗教的古層における太母神信仰にも連なるという見方には説得力を感じる。この太母神信仰がキリスト教と邂逅し交錯する中で魔女伝説になっていく。<br />キリスト教と魔女の関係を理解する上で示唆的なのが、上山安敏の『魔女とキリスト教』<br />(人文書院、一九九三年)である。本来ユダヤ教、キリスト教という中東一神教は父性宗教であり本質的には女性蔑視ともいえるものであった。中東一神教の基軸である旧約聖書(創世記三章一六)には「神は女に向かって言った。汝が妊娠するなら、わしは汝に苦痛を与えよう。汝が子を産むときには苦しまねばならぬ。汝の意志は夫に従属し、夫が汝の支配者であらねばならぬ」とある。父性宗教であったキリスト教が欧州における支配的宗教になる過程で古代地中海地域を淵源とし欧州に埋め込まれていた太母神信仰と融合、合体する形で形成されたのが聖母マリア信仰であり、聖母への崇敬が裏返しになったのが「魔女」だと考えられる。N・コーン『魔女狩りの社会史 ヨーロッパの内なる悪霊』(岩波書店、山本通訳、一九八三年、原書一九七六年)も、キリスト教が欧州の少数派からローマ帝国の支配宗教となる過程で、キリスト教にとっての異端者を抑圧する悪意に満ちた妄想として「性愛の放蕩、幼児殺し、人食い」をもたらす魔王とその使者としての魔女が登場することを論じている。この中世キリスト教社会に埋め込まれた魔女伝説が一六~一七世紀において狂気の魔女狩りへと変質・エスカレートしていく。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">魔女狩りへのエスカレート</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 魔女排斥という動きが見られ始めたのは一二世紀リヨンの商人ピエール・ワルドーを中心とするワルドー派の人々が悪魔を崇拝する異端者として排斥されアルプスの谷間に隠れ住むようになり、そこに権威・権力となったキリスト教による「異端審問」の制度化が、生贄を求めて動き始めたことによる。異端審問の始まりは一一八四年の教皇ルキウス三世勅令とされる。一二五七年の教皇アレクサンデル四世の頃は、異端審問はあくまで宗教的異端者を標的にするもので、魔女や魔法使いは教区の裁判所や世俗権力に委ねる方針が確認されたが、一三二〇年に教皇ヨハネス二二世が「魔術も異端であり悪魔崇拝も教会への冒瀆」とする声明を出したことが魔女狩りへの下地を作った。さらに一四八四年に教皇インノケンティウス八世の「人類の敵たる悪魔にそそのかされた人たちを排除する」勅令が、民衆の無知と恐怖心に宗教的権威づけを与え、偏執狂的魔女狩りの時代を招来する契機になった。<br />その二年後の一四八六年、ストラスブールの印刷所からドミニコ会士でケルン大学神学部教授でもあったシュプレンガー(一四三六~九五)等による『魔女への鉄槌』が魔女弾圧の手引書として出版され、広く欧州中に流布し魔女狩りの教本となった。グーテンベルグを嚆矢とする印刷技術の発明と発展が宗教改革の基盤となり、「コペルニクス的転回」といわれる宇宙観の転換と近代科学成立の起爆剤になったことは本連載でも既に述べたが、皮肉にも印刷技術は「悪魔学」の学識を欧州中に広め、疑心暗鬼を増幅させ魔女狩りへと駆り立てる役割も果たした。ちょうど現代社会においてインターネットの発展など情報技術革命がネットでのいじめを増幅し、ネガティブな要素をも内包するのにも通じ、考えさせられる。魔女はキリスト教支配のもたらした逆説であり、異端審問官の妄想が増幅され、民衆の不安に点火されて集団的パラノイアが燃え広がったといえるが、キリスト教の宿命として、「人格神として神の子キリスト」を設定したために必然的対置概念として人間の形をした悪の仮想敵を設定せざるをえない構造があることに気づく。愚か者は自分にわかり易い敵を作り出すのである。バチカンが十字軍と異端審問について謝罪したのは二〇〇〇年、ヨハネ・パウロ二世によってであった。<br /> 魔女狩りはキリスト教の権威づけ、とりわけローマ教皇の名による異端審問との相関で突き動かされたが、プロテスタントが浸透した地域では魔女狩りの事例は比較的少なかったとはいえ、皆無だったわけではない。上山安敏は前掲書において興味深い指摘をしている。ルターもカトリックの悪魔の概念を共有し、一五四〇年にヴィッテンベルクで四人を魔女として糾弾し火炙りにしたというのだ。ルターは『魔女への鉄鎚』やトマス・アクイナスの『悪魔との契約』も受容していた。ただしプロテスタントは呪文、占い、祈祷などの「白魔術」を背教として攻撃、悪魔祓いの廃止を主張しており、脱呪術は「ルターのユダヤ一神教への原理的回帰」という見方もある。ただし新旧教の対立が激化する中で新旧教共に相手を悪魔の手先として糾弾し血生臭い戦いを繰り広げ、それは三〇年戦争終結後の一六五〇年以降も引きずることになる。<br />最も凄惨な魔女狩りが吹き荒れたドイツについて、小林繁子の『近世ドイツの魔女裁判』   (ミネルヴァ書房、二〇一五年)など、日本でも優れた研究がなされている。小林は魔女裁判を可能にした枠組みとして「世俗の刑事裁判という装置」に注目、当時のドイツの分断された領邦国家体制における民衆と国家の関係、すなわち、民衆の請願と「ポリツァイ条令」(一六・一七世紀の君主から制定される法・命令)が魔女裁判をエスカレートさせたことを検証している。「神聖ローマ帝国」という枠組みにおいて、一五世紀におけるカール五世による「刑事裁判令」が、領邦国家において世俗裁判と魔術的世界観を結び付け、民衆の司法利用の舞台になっていった経緯が見てとれる。魔女狩りの個別ケースについての資料に目を通すと人間の弱さが見えてくる。噂による無責任な告発、残虐な拷問、苦し紛れの告白、仲間として名指された人への波及、証拠もない断罪―こんな不条理が神の名の元に繰り広げられた。<br />魔女狩りを生んだ欧州の社会基盤の変化に関し、高橋義人『魔女とヨーロッパ』(岩波書店、一九九五年)は欧州の都市化に注目し、「近代のはらんだ狂気、その淵源と考えられるものはいくつもあるが、そのすべてを通底しているのは、自然の客体化という自然の新しい見方である」と述べ、近代化と並行して進行した都市化が衰退された森(自然)との緊張感が森に込められたものを脅威・恐怖とする心情を都市住民に生み、その象徴が魔女となっていく構図を語っている。これは魔女研究の古典、J・ミシュレ『魔女』(一八六二年、邦訳岩波文庫)にもつながる視点だ。確かに欧州を動いて実感するのは欧州は森だということで、深い森の中に都市が形成された印象が残る。『赤頭巾』『ヘンゼルとグレーテル』の童話のごとく森に邪悪な魔法使いがいると思い込む背景も理解できる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>現代における魔女狩り</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 改めて魔女狩りを生んだ要素を整理すると一に制度的条件としての権力となったキリスト教による異端裁判の正当化、二に社会的要件として都市化の進行と郊外の森の緊張関係、さらに三として、環境条件としてこの時代の地球が寒冷期に入り疫病(黒死病とペスト)の蔓延、民衆の不安等が指摘できる。<br />魔女狩りが特殊一六~一七世紀的現象であろうか。時代が見えなくなると、我々は思考回路を短絡化させ理解のできない敵対者を決めつけ排除する心性を宿す。日本とて例外ではない。本連載では江戸期の漂流民を取り上げたが(30、31)、閉ざされた島国日本にとって海の彼方は野蛮な鬼が島であり、桃太郎伝説が生まれる土壌があった。風土、社会的背景や宗教も絡んで敵対者・異端者の像は形成され、時代が不安を増すと痙攣が起こり集団的攻撃性に転化する。ナチスのユダヤ人狩り、スターリンの粛清、関東大震災時の朝鮮人殺戮、戦時の非国民狩り、全て支配者の妄想の所産であり内なる悪魔の指令を受けた民衆の呼応でもある。今日のヘイト・スピーチにも通底している。問われるのは自分を客観視して単純な敵対思考を抑制する理性、憎悪という呪縛を断つ勇気である。</span></span></p> <p>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 近代は一直線に到来した訳ではない。謎めいた話だが欧州社会が近代への啓蒙の時代の扉を開かんと動き始めていた正にその頃、一六世紀から一七世紀においてなぜか残虐極まりない「魔女狩り」が最盛期を迎える。これにより火刑に処された人の数は全欧州で三万人から一〇万人といわれ、人間社会の歴史は複雑かつ不可解である。科学革命、資本主義、近代デモクラシーの潮流につながる近代的理性や知性が花開きかけていた中で狂信的殺戮が繰り広げられた理由とは何か。<br />魔女狩りの熱狂は一五八〇~一六七〇年が最高潮であったという。フランス、スイス、イタリアが先行、最も悲惨で過激だったのがドイツで、やがてイギリスにも波及した。魔女狩り最盛期の時代の欧州は、本連載でも再三触れてきた最後の宗教戦争「三〇年戦争」とオランダのスペインに対する八〇年間にわたる独立戦争の終結点で結ばれた「ウェストファリア条約」(一六四八年)の締結を挟む時代であり、こうした時代環境を背景として悲惨な魔女狩りが荒れ狂ったのである。<br />一般的に魔女のイメージはトンガリ帽子で箒にまたがり、魔女集会(サバト)へと空を飛ぶ黒衣の老女で、この世の悪を凝縮したかのごとき存在で、恐怖、疫病、狂乱、淫蕩の世界へと引き込む「悪魔の情婦」であった。だが、一方で魔女は民衆の潜在意識の表出でもあり、埋め込まれた願望を逆立ちさせたシンボルといえる。「悪魔の存在を信じない者は神の存在を信じない者」という表現があるが、神と悪魔は表裏一体であり、魔女を巡る熱狂はキリスト教の光と影との相克がもたらした二重構造を内包していることに気づく。何故原罪と愛の認識を基盤とするキリスト教が悲惨な魔女狩りを生んだのか、欧州の近代を考察する上で避けて通れないテーマである。<br />不思議なことに、二一世紀を生きる我々でさえ、虚構にすぎない「魔女」という世界観から自由ではない。『魔法使いサリー』は愛くるしい子供向けアニメとしても、未だに『ハリー・ポッター』が描く魔術的物語に引き寄せられているのである。空を飛ぶ魔法使いに人知を超えた夢を描いているようであるが、かつて魔女とされて血塗られた歴史の犠牲者となった人達が存在したことを忘れてはならない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">魔女の起源ーーー魔女とは何なのか</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人類史、とりわけ男の目線からの歴史において常に謎は女性である。魅力的であり、慈愛に満ち、生きる願望と情熱の対象である。何よりも存在の根源に関わる子供を宿し産むというポテンシャルを秘める存在である。そして生身の女性は本音の見えぬ不可解な存在であり、逆上と狂気を潜在させる恐怖の対象でもある。その二重性を抱え込んだ幻想が「魔女伝説」に繋がるともいえる。witchという語は一般的に「魔女」と訳されるが、文化人類学的には必ずしも女とは限らないのだという。だが魔女狩りが吹き荒れた一六~一七世紀に殺戮されたwitchは圧倒的に女性、それも老女であった。<br />人類の原始宗教はオックスフォード大学のE・タイラー(一八三二~一九一七)が論じたごとく、人類にとっての宗教の萌芽はアニミズムにあり、動植物から火、水、土、岩、風などあらゆるものに霊魂(アニマ、anima)が宿るという意識を抱き、そこから精霊崇拝が生まれ、その影としてのデーモン(悪鬼、霊鬼)という概念が引き出されたという。デーモンは必ずしも否定的存在ではなく、霊力をもった鬼神という意味も有した。その二重性が女性への崇敬と恐怖という二重性とも絡みつき、生み出されたのが魔女伝説の淵源といえる。魔女の起源については諸説あるが、古代エジプトの神体系における至高の女神イシス伝説に淵源があるとされ、それが欧州のギリシャ神話の女神デメテルに繋がりさらに欧州の宗教的古層における太母神信仰にも連なるという見方には説得力を感じる。この太母神信仰がキリスト教と邂逅し交錯する中で魔女伝説になっていく。<br />キリスト教と魔女の関係を理解する上で示唆的なのが、上山安敏の『魔女とキリスト教』<br />(人文書院、一九九三年)である。本来ユダヤ教、キリスト教という中東一神教は父性宗教であり本質的には女性蔑視ともいえるものであった。中東一神教の基軸である旧約聖書(創世記三章一六)には「神は女に向かって言った。汝が妊娠するなら、わしは汝に苦痛を与えよう。汝が子を産むときには苦しまねばならぬ。汝の意志は夫に従属し、夫が汝の支配者であらねばならぬ」とある。父性宗教であったキリスト教が欧州における支配的宗教になる過程で古代地中海地域を淵源とし欧州に埋め込まれていた太母神信仰と融合、合体する形で形成されたのが聖母マリア信仰であり、聖母への崇敬が裏返しになったのが「魔女」だと考えられる。N・コーン『魔女狩りの社会史 ヨーロッパの内なる悪霊』(岩波書店、山本通訳、一九八三年、原書一九七六年)も、キリスト教が欧州の少数派からローマ帝国の支配宗教となる過程で、キリスト教にとっての異端者を抑圧する悪意に満ちた妄想として「性愛の放蕩、幼児殺し、人食い」をもたらす魔王とその使者としての魔女が登場することを論じている。この中世キリスト教社会に埋め込まれた魔女伝説が一六~一七世紀において狂気の魔女狩りへと変質・エスカレートしていく。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">魔女狩りへのエスカレート</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 魔女排斥という動きが見られ始めたのは一二世紀リヨンの商人ピエール・ワルドーを中心とするワルドー派の人々が悪魔を崇拝する異端者として排斥されアルプスの谷間に隠れ住むようになり、そこに権威・権力となったキリスト教による「異端審問」の制度化が、生贄を求めて動き始めたことによる。異端審問の始まりは一一八四年の教皇ルキウス三世勅令とされる。一二五七年の教皇アレクサンデル四世の頃は、異端審問はあくまで宗教的異端者を標的にするもので、魔女や魔法使いは教区の裁判所や世俗権力に委ねる方針が確認されたが、一三二〇年に教皇ヨハネス二二世が「魔術も異端であり悪魔崇拝も教会への冒瀆」とする声明を出したことが魔女狩りへの下地を作った。さらに一四八四年に教皇インノケンティウス八世の「人類の敵たる悪魔にそそのかされた人たちを排除する」勅令が、民衆の無知と恐怖心に宗教的権威づけを与え、偏執狂的魔女狩りの時代を招来する契機になった。<br />その二年後の一四八六年、ストラスブールの印刷所からドミニコ会士でケルン大学神学部教授でもあったシュプレンガー(一四三六~九五)等による『魔女への鉄槌』が魔女弾圧の手引書として出版され、広く欧州中に流布し魔女狩りの教本となった。グーテンベルグを嚆矢とする印刷技術の発明と発展が宗教改革の基盤となり、「コペルニクス的転回」といわれる宇宙観の転換と近代科学成立の起爆剤になったことは本連載でも既に述べたが、皮肉にも印刷技術は「悪魔学」の学識を欧州中に広め、疑心暗鬼を増幅させ魔女狩りへと駆り立てる役割も果たした。ちょうど現代社会においてインターネットの発展など情報技術革命がネットでのいじめを増幅し、ネガティブな要素をも内包するのにも通じ、考えさせられる。魔女はキリスト教支配のもたらした逆説であり、異端審問官の妄想が増幅され、民衆の不安に点火されて集団的パラノイアが燃え広がったといえるが、キリスト教の宿命として、「人格神として神の子キリスト」を設定したために必然的対置概念として人間の形をした悪の仮想敵を設定せざるをえない構造があることに気づく。愚か者は自分にわかり易い敵を作り出すのである。バチカンが十字軍と異端審問について謝罪したのは二〇〇〇年、ヨハネ・パウロ二世によってであった。<br /> 魔女狩りはキリスト教の権威づけ、とりわけローマ教皇の名による異端審問との相関で突き動かされたが、プロテスタントが浸透した地域では魔女狩りの事例は比較的少なかったとはいえ、皆無だったわけではない。上山安敏は前掲書において興味深い指摘をしている。ルターもカトリックの悪魔の概念を共有し、一五四〇年にヴィッテンベルクで四人を魔女として糾弾し火炙りにしたというのだ。ルターは『魔女への鉄鎚』やトマス・アクイナスの『悪魔との契約』も受容していた。ただしプロテスタントは呪文、占い、祈祷などの「白魔術」を背教として攻撃、悪魔祓いの廃止を主張しており、脱呪術は「ルターのユダヤ一神教への原理的回帰」という見方もある。ただし新旧教の対立が激化する中で新旧教共に相手を悪魔の手先として糾弾し血生臭い戦いを繰り広げ、それは三〇年戦争終結後の一六五〇年以降も引きずることになる。<br />最も凄惨な魔女狩りが吹き荒れたドイツについて、小林繁子の『近世ドイツの魔女裁判』   (ミネルヴァ書房、二〇一五年)など、日本でも優れた研究がなされている。小林は魔女裁判を可能にした枠組みとして「世俗の刑事裁判という装置」に注目、当時のドイツの分断された領邦国家体制における民衆と国家の関係、すなわち、民衆の請願と「ポリツァイ条令」(一六・一七世紀の君主から制定される法・命令)が魔女裁判をエスカレートさせたことを検証している。「神聖ローマ帝国」という枠組みにおいて、一五世紀におけるカール五世による「刑事裁判令」が、領邦国家において世俗裁判と魔術的世界観を結び付け、民衆の司法利用の舞台になっていった経緯が見てとれる。魔女狩りの個別ケースについての資料に目を通すと人間の弱さが見えてくる。噂による無責任な告発、残虐な拷問、苦し紛れの告白、仲間として名指された人への波及、証拠もない断罪―こんな不条理が神の名の元に繰り広げられた。<br />魔女狩りを生んだ欧州の社会基盤の変化に関し、高橋義人『魔女とヨーロッパ』(岩波書店、一九九五年)は欧州の都市化に注目し、「近代のはらんだ狂気、その淵源と考えられるものはいくつもあるが、そのすべてを通底しているのは、自然の客体化という自然の新しい見方である」と述べ、近代化と並行して進行した都市化が衰退された森(自然)との緊張感が森に込められたものを脅威・恐怖とする心情を都市住民に生み、その象徴が魔女となっていく構図を語っている。これは魔女研究の古典、J・ミシュレ『魔女』(一八六二年、邦訳岩波文庫)にもつながる視点だ。確かに欧州を動いて実感するのは欧州は森だということで、深い森の中に都市が形成された印象が残る。『赤頭巾』『ヘンゼルとグレーテル』の童話のごとく森に邪悪な魔法使いがいると思い込む背景も理解できる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>現代における魔女狩り</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 改めて魔女狩りを生んだ要素を整理すると一に制度的条件としての権力となったキリスト教による異端裁判の正当化、二に社会的要件として都市化の進行と郊外の森の緊張関係、さらに三として、環境条件としてこの時代の地球が寒冷期に入り疫病(黒死病とペスト)の蔓延、民衆の不安等が指摘できる。<br />魔女狩りが特殊一六~一七世紀的現象であろうか。時代が見えなくなると、我々は思考回路を短絡化させ理解のできない敵対者を決めつけ排除する心性を宿す。日本とて例外ではない。本連載では江戸期の漂流民を取り上げたが(30、31)、閉ざされた島国日本にとって海の彼方は野蛮な鬼が島であり、桃太郎伝説が生まれる土壌があった。風土、社会的背景や宗教も絡んで敵対者・異端者の像は形成され、時代が不安を増すと痙攣が起こり集団的攻撃性に転化する。ナチスのユダヤ人狩り、スターリンの粛清、関東大震災時の朝鮮人殺戮、戦時の非国民狩り、全て支配者の妄想の所産であり内なる悪魔の指令を受けた民衆の呼応でもある。今日のヘイト・スピーチにも通底している。問われるのは自分を客観視して単純な敵対思考を抑制する理性、憎悪という呪縛を断つ勇気である。</span></span></p> <p>  </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年9月号 脳力のレッスン173 二〇一六年参議院選挙に見るシルバー・デモクラシーの現実―それでもアベノミクスを選ぶ悲哀 2017-03-30T01:46:10+09:00 2017-03-30T01:46:10+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1323-nouriki-2016-9.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">七月一〇日の参議院選挙の朝、</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">TBS</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">の報道番組「サンデーモーニング」への出演に際し、報道関係者から、各紙、各局の最終予想について、「与党圧勝は間違いなく、自民党単独過半数、改憲勢力三分の二は確実」という情勢説明を受けた。私が「国民はそれほど愚かではないはず」と私見を述べると、「いや、愚かなんですよ」という答えが返ってきた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 午後八時、投票が締め切られると同時に、各</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">TV</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">局は予想を出した。</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">NHK</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">は与党大勝を前提にしたかのように自民単独過半数となる議席「五七」や改憲発議に必要な三分の二に至る「一六二」などを要注目の数字として示し、出口調査などを踏まえそれらの数字を上回る大勝と予想していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">しかし、結果として自民党は「五六」議席に留まり、単独過半数には届かなかった。また「改憲勢力が三分の二」という議論にしても、当初は自民、公明、おおさか維新、日本のこころという「改憲四党」で三分の二という話だったが、この四党では一六一議席と一議席届かなかったため、改憲に前向きな無所属議員も含めることで一六五議席となった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">直前のメディア予測は外れた。にもかかわらず、自民党六、公明党五と与党で一一議席増だし、無所属も含む改憲勢力で三分の二を超えたことで、「与党大勝ということにしておこう」という報道に収斂させ、何故直前の予測が当たらなかったのかについては沈黙を決め込んでいる。</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">NHK</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">の開票速報開始時点での民進党の議席予想は二二~二九、結果は三二だった。意外に健闘したなどと寝ぼけたことを言っているのではない。民進党が主体的に流れを創ったなどという話は一切ない。国民に納得のいく選択肢を提示することもなく健闘といえるレベルではない。ただ何故与党・自民党は予想外に伸びなかったのか。さらに言われていたほど共産党も伸びなかったかを解明することは日本の政治の今後を考察する上で重要である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">本当に与党大勝なのかーーー国民の迷いとためらい</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 結論をいえば、「投票には行っても入れるべき候補者がいない」という貧困なる選択肢の中から、国民はぎりぎりのバランス感覚を見せたというのが今回の結果であった。国民はそれほど愚かではなかったのであり、ただ安倍政治に代わる政策軸を見出せないまま立ち尽くしているということでもある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 基本的な数字を確認しておきたい。参議院全国比例区での自民党の得票率である。ここに政権への国民の評価・認識が現れるからである。全国比例区での自民党得票率は三五・九%で、前回は三四・七%だったから一・二%増えたことになる。しかし、投票率が五四・七%だったことを思うと、有権者総数の一九・六%の得票、つまり有権者の二割に満たない得票で改選議席の四六・三%を占めることができるという、選挙制度の魔術で「圧勝」を実現したのである。今回、公明党の全国比例得票率は一三・五%で、前回より〇・七%減らしているので与党の得票率は前回より〇・五%増えたにすぎない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 民進党の全国比例区の得票率が二一・〇%と前回の民主党の得票率一三・四%から七・六%も増えたかのようだが、前回の日本維新の会(一一・九%)とみんなの党(八・九%)の得票率を考えると、その大部分を吸収・統合した野党再編の割には伸びなかったと見るべきである。政党支持率という世論調査の動向を見れば、民進党の支持率は今回の全国比例での得票率の半分程度であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> さて、直前の予想が当たらなかった大きなポイントが前回の参院選挙で与党の二九勝二敗だった一人区(前回は三一選挙区)で二一勝一一敗となったことである。野党共闘の効果と見ることもできるが、現場の事情を聴くと、共闘効果というよりTPPインパクトの大きさに気付く。TPPの交渉経過がみえてくるにつれ、農業関係者が「裏切られた」ことに反発を強めた。その結果、東北六県中秋田を除く五県で野党統一候補が勝利し、長野・新潟といった農業県でも</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">JA</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">グループの政治団体が自主投票にしたことが自民敗北をもたらした。北海道は定数三だが民進党が二議席を確保し自民党候補が次点に泣いた理由もTPPへの反発にあるといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> さらに、最後のところで与党の得票が伸びず票が野党に向かった理由は、アベノミクスに象徴される経済政策、安保法制に象徴される外交安保政策について現政権が推進する政策への懸念と逡巡が「ここは野党に入れておこう」というぎりぎりの投票行動をもたらしたとみるべきであろう。日本は間違った方向に進んでいるような気はするが、どう進むべきかの代案も見えない。そうした投票行動をもたらした社会構造は後述することにして、今回選挙で気になる何点かを明らかにしておきたい。一つは、慶応大学名誉教授小林節が率いた「国民怒りの声」の惨敗である。全国比例の得票四六・七万票、小林節個人はわずかに七・八万票に終わり、比例区で一人を当選させるのに必要な約一〇〇万票の半分にも満たなかった。安保法制の違憲性についての問題を提起し、議論を主導した存在に国民は関心を示さなかった。連携する政党など組織論的戦略に欠けるマイナー運動に終わり、悲しい結末を迎えた。「国の在り方」を問う根本問題よりも、「生活と経済が大切」という国民の本音の壁に弾き返され、風車に向かったドン・キホーテのような敗退であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二つ目は、直前予想でいわれていた「共産党の躍進」が外れ、前回の参院選の当選者八人を下回る六人にとどまったことである。比例区での共産党の得票率は前回より一%伸びたとはいえ、直前予想では「一〇人以上の当選も」とみられていたにもかかわらず躍進は幻に終わった。共産党が主導した野党共闘は与党に対抗可能な選択肢を提示したともいえるが、共産党候補に対する民進党内の拒否反応で共産党自身の議席につながらなかった。むしろ共闘によって「確かな野党」といってきた共産党の輪郭がぼやけ党勢拡大にはならなかったと指摘できる。共産党としてはジレンマを抱えながらも国民政党への脱皮に向け今回の結果を前向きに総括すべきであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 三つ目は、一八歳からの政治参加がもたらした意味である。今回の参院選から投票年齢が一八歳に引き下げられ、約二四〇万人の若者が投票権を得たが、注目された一八歳・一九歳の投票率は四五・五%であり、予想外に高かった。全体の投票率は五四・七%である。これまでの投票行動の傾向では、総じて高齢者層の投票率が七割近い水準を推移してきたのに比し、二〇代の投票率はその半分程度であった。この傾向が続けば、日本の政治的意思決定は、「老人の老人による老人のための政治」となるであろう。話は逸れるが、六月の英国のEU離脱を巡る国民投票において、英国の二〇代の若者の六六%はEUに留まることを支持した。四三歳が分岐点で、それ以下の若者の過半はEU残留を支持、それ以上の年齢の層においては離脱派が過半を占めたという。つまり、未来により大きな責任を担う若者が欧州共同体の中で生きることを期待しているのに、老人たちがその道を塞ぐ選択をしたということで、深く考えさせられる。そして、注視すべきは、現代日本の社会的意思決定における高齢者が持つ意味であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">政権の政策の行き詰まりと代替案なき野党の悲劇</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 選挙戦の最終局面で国民の迷いが交錯したとはいえ、大勢として国民はアベノミクスの継続を選んだ。正気の議論をするならば、アベノミクスの論理などとっくに破綻しており、「道半ば」「この道しかない」などといえるものではない。二〇二〇年に名目</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">G D P</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">で六〇〇兆円を実現してその果実を国民が享受することなど虚構にすぎないと気付きながらも、国民の多くが「株高誘導の景気刺激」という共同幻想に乗っている。何故か。それが都合がよいと思う人たちがいるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 表「アベノミクス三年半の総括」を凝視したい。経世済民、経済の根幹である国民生活、実体経済は全く動かない。米国がリーマンショック後の緊急避難対策とした異次元金融緩和を見習って「第一の矢」とし、日銀のマネタリーベースをほぼ四〇〇兆円の水準にまで肥大化させ、金利もマイナス金利などという異常事態に踏み込んだ。ご本尊の米国が実体経済の堅調を背景に量的緩和を終え、政策金利の引き上げ局面を迎えているのに、日本は「出口なき金融緩和」に埋没している。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nouriki173.jpg" alt="" width="477" height="355" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">また、財政出動を「第二の矢」とし、消費税引き上げも出来ぬままさらなる財政出動を模索し続けている。「金利の低い時だから赤字国債を出しても利払いが少ない」という誘惑に駆られ、「市場はさらなる景気刺激策を求めている」などという無責任な経済メディアの甘言に乗って「ヘリコプターマネー」と称する無利子の日銀からの借金で財政出動を加速させるべきだとの議論さえ生まれている。既に一〇〇〇兆円を超す負債を抱える国だという事実を忘れてはならない。自分が生きている時代だけは景気刺激を、という考えは後代負担、後の世代に負担を先送りする自堕落な思考である。問題に気付きながら、日本は慢性金融緩和依存症に陥り、リフレ経済学なる金融政策に依存して脱デフレを図る呪術経済学に引き込まれている。野党民進党の経済政策もリフレ経済学を許容する中での格差批判程度で、アベノミクスを否定できるものではない。新自由主義とリフレ経済学の複雑骨折の中を迷走し、産業の現場に軸足を置いた経済政策に踏み込めていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> また、与党が「戦後レジーム」からの脱却を腹に、戦後民主主義を否定して国権主義、国家主義への回帰する意思を明らかにしつつある中、野党は本気でその流れと対峙する政策軸をみせていない。それは民進党の外交安全保障政策の空疎な中身を見れば明らかである。普天間基地移設問題に関して「辺野古しか移転先はない」とする点において民進党は疑似与党でしかなく、翁長知事の下オール沖縄で辺野古を拒否する沖縄において一切の存在感がないことが象徴している。憲法と沖縄は相関して戦後日本を次のステージでどこに持っていくのかという、ごまかしのきかない課題なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>進む貧困化と世代間格差ーーー高齢者がアベノミクスに幻惑される理由</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> それでもアベノミクスの継続を望む社会構造を再考してみたい。二〇一五年五月号の本連載157「内向と右傾化の深層構造」において、勤労者世帯可処分所得が、二〇〇〇年~一四年の間に年額五八・八万円減少し、「中間層の貧困化」が進行していること、さらに全国全世帯の家計消費支出がこの間、年額三二・四万円も減少したことを指摘した。そして、この間の家計消費で極端に減少した支出項目としての「こづかい、交際費、交通費、外食、酒類」などに象徴されるごとく日本人は行動的でなくなり、「仕送り金、授業料、教養娯楽、書籍」などへの支出減に象徴されるごとく学ばなくなり、学べなくなったという事実を解析・指摘した。こうした時代の空気が、日本人の視界を狭め、内向と右傾化の土壌となっていることに注目した。一五年の勤労者世帯可処分所得は、月額四二・七万円(前年比三〇〇〇円増)で若干増えたように思えるが、一九九七年のピーク時の年額五九六万円から、一五年には五一二万円と、実に八四万円も減少している。ちなみに、全国全世帯の消費支出もピーク時一九九三年の四〇二万円から一五年の三四六万円と年額五六万円も減少しており、いかに消費が冷却し生活が劣化しているかが分る。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> この段階で確認しておきたいのは、働く現役世代の可処分所得がピーク比で、年額八四万円も減ったという状況では、この世代が高齢化した親の世代の面倒をみて経済的支援をする基盤が失われているということである。もっとも、戦後七〇年というプロセスにおいて、「親に孝行」といった儒教的価値を失わせる社会構造を作ってしまったともいえる。都市に産業と人口を集中させて高度成長期を走ったことにより、「核家族化」が進行し、一九八〇年に三八%にまで増やしていた核家族(単身者、夫婦のみ世帯、母子・父子家庭)の比重は、二〇一〇年には六一%となり、現在は六五%になっていると推計される。つまり、「家族」の性格がすっかり変わってしまい、世代間の支えあいが困難な社会となっているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 働いている現役世代でさえ生活が劣化している状況の中で、働いていない人が多い高齢者の経済状況は、さらに厳しい。六〇歳以上の無職の世帯の可処分所得(年金</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">+</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">所得</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">-</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">社会保険)は、平均年額一七八万円で、平均生活費は二四八万円(「家計調査年報」)、年間七〇万円足りないとされ、その分は資産を取り崩していると思われる。それ故に高齢者の就業志向は高まっており、総務省就業構造基本調査(二〇一二年)によれば、男性における就業者の比重は六〇~六四歳で七三%、六五~六九歳で四〇%、七〇~七四歳で三二%、七五歳以上一六%となっているが、ここでの「就業者」には雇用者、役員、自営業主も含まれ、六五歳以上の雇用者は一三%程度であり、雇用条件も非正規雇用が大半となるため大きな所得は望めない。だが、高齢者層は現在の勤労者世帯を形成する世代(現役世代)よりも相対的には恵まれているといえる。日本が右肩上がりの一九六〇年代から八〇年代にかけて壮年期を送り、勤労者世帯の可処分所得が増え続けた環境の中で一定の貯蓄と資産を確保できた世代だからである。東京に吸収されたサラリーマン層をイメージしても、郊外にマンションの一部屋程度は手に入れローンを払い終えて定年を迎え、一定の貯蓄と金融資産を手にしているというのが一般的高齢者であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 7.05pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">総務省家計調査・貯蓄篇を基に、国民の金融資産保有状況(二〇一四年)をみると、貯蓄の五八%、有価証券七二%は六〇歳以上の世代が保有している。つまり、株価の動きに最も敏感で、金融政策主導で、日銀のETF買いだろうがGPIFによる株式投資の拡大だろうが、株高誘導政策に最も共感する土壌を形成しているのが高齢者である。ただし、高齢者の経済状態は一般論で単純に判断できないほど、二極分化が進んでいる。人口の二七%、三四〇〇万人が二〇一五年時点での高齢者人口だが、あえて高齢者を経済状態で分類するならば、約二〇%(七〇〇万人)が「金融資産一〇〇〇万円以下で、年金と所得の合計が二〇〇万円以下の「下流老人」であり、約一五%(五〇〇万人)が「金融資産五〇〇〇万円以上で、年金と所得の合計が一四〇〇万円以上の「金持ち老人」で、残りの約二二〇〇万人が「中間層老人」といえるが、この中間層老人が「病気・介護・事故」などを機に、下流老人に没落する事例が急増しているという。生活保護受給世帯一五九万世帯のうち七九万世帯が高齢者世帯であり、「貧</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">困化する高齢者」問題も深刻である。高齢者のうち所得のすべてが年金の人が約五割を占め、厚生年金に加えて企業年金を得る最も恵まれた年金受給者でも年金収入の上限は五五〇万円前後である。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">確かに、高齢者の平均貯蓄額(二〇一四年)は二四六七万円と意外なほど高いが、一〇〇〇万円以下が三六%、二〇〇〇万円以下が六〇%で富は偏在しているのである。つまり安定した経済状態にある高齢者層が確実に圧縮しているといえよう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 17.55pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 17.55pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">「老後破産」について、NHKスペシャル(二〇一四・九・二八放送)を単行本化した『老後破産—――長寿という悪夢』(新潮社、二〇一五年)は注目すべき現実を報告しており、年金生活は些細なきっかけで破産へと追い込まれる危うさを思い知らされる。また、週刊東洋経済は、下流老人特集(二〇一五・八・二九日号)やキレる老人特集(二〇一六・三・一九日号)と支えるコミュニィティーを失った高齢化社会の断面に迫る企画を積み上げており、高齢化の現実を深く考えさせられる。 こうした潜在不安を抱える高齢者、とりわけ中間層から金持ち老人にかけての約二七〇〇万人が金融資産、株式投資に最も敏感な層であり、「とにかく株が上がればめでたい」という心理を潜在させ、アベノミクス的資産インフレ誘発政策を支持する傾向を示す。結局、アベノミクスの恩恵を受けるのは、資産を保有する高齢者と円安メリットを受ける輸出志向型企業だという構図がはっきりとしてきた。ここから生ずる世代間格差と分配の適正化という問題意識を持たねば、金融政策に過剰に依存して調整インフレを実現しようとする政策は社会構造の歪みを招き、間違った国へと向かわせるであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人生は欲と道連れであり、高齢者が潜在する経済不安の中から、アベノミクスを支持する心理に至るのも分からなくはない。しかし、歴史の中での高齢者の役割を再考するならば、社会活動の現場で体験を重ねてきた世代として、後から来る世代に道筋をつける知恵を働かせるべきである。とくに、戦後日本の産業化と国際化の現場を支えた世代として、マネーゲームと金融政策では経済社会が空洞化することに厳しい視点を向けるべきではないのか。少なくとも、後から来る勤労者世代の貧困化に目を配らねばならない。自分の生活だけが安定していればよいというのではなく、高齢者らしい社会への配慮と成熟した知性が問われている。三浦展が『下流老人と幸福老人』(光文社新書、二〇一六年)で描き出すごとく、「資産がなくても幸福な人」と「資産があっても不幸な人」が存在するのが高齢者社会の実態である。我々は可能な限り幸福な高齢者社会の実現を図るべきで、「多世代共生」、「参画」「多元的価値」が幸福老人を増やす鍵であることは確かであろう。高齢者自身が与えられるのではなく、自分でやるべきこと、やりたいことに向き合うことがまず大切であり、そうした視界からは、日本が「この道しかない」として向かおうとしている方向には静かなる疑問が浮かび上がるはずである。</span></span></p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">七月一〇日の参議院選挙の朝、</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">TBS</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">の報道番組「サンデーモーニング」への出演に際し、報道関係者から、各紙、各局の最終予想について、「与党圧勝は間違いなく、自民党単独過半数、改憲勢力三分の二は確実」という情勢説明を受けた。私が「国民はそれほど愚かではないはず」と私見を述べると、「いや、愚かなんですよ」という答えが返ってきた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 午後八時、投票が締め切られると同時に、各</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">TV</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">局は予想を出した。</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">NHK</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">は与党大勝を前提にしたかのように自民単独過半数となる議席「五七」や改憲発議に必要な三分の二に至る「一六二」などを要注目の数字として示し、出口調査などを踏まえそれらの数字を上回る大勝と予想していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">しかし、結果として自民党は「五六」議席に留まり、単独過半数には届かなかった。また「改憲勢力が三分の二」という議論にしても、当初は自民、公明、おおさか維新、日本のこころという「改憲四党」で三分の二という話だったが、この四党では一六一議席と一議席届かなかったため、改憲に前向きな無所属議員も含めることで一六五議席となった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">直前のメディア予測は外れた。にもかかわらず、自民党六、公明党五と与党で一一議席増だし、無所属も含む改憲勢力で三分の二を超えたことで、「与党大勝ということにしておこう」という報道に収斂させ、何故直前の予測が当たらなかったのかについては沈黙を決め込んでいる。</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">NHK</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">の開票速報開始時点での民進党の議席予想は二二~二九、結果は三二だった。意外に健闘したなどと寝ぼけたことを言っているのではない。民進党が主体的に流れを創ったなどという話は一切ない。国民に納得のいく選択肢を提示することもなく健闘といえるレベルではない。ただ何故与党・自民党は予想外に伸びなかったのか。さらに言われていたほど共産党も伸びなかったかを解明することは日本の政治の今後を考察する上で重要である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">本当に与党大勝なのかーーー国民の迷いとためらい</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 結論をいえば、「投票には行っても入れるべき候補者がいない」という貧困なる選択肢の中から、国民はぎりぎりのバランス感覚を見せたというのが今回の結果であった。国民はそれほど愚かではなかったのであり、ただ安倍政治に代わる政策軸を見出せないまま立ち尽くしているということでもある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 基本的な数字を確認しておきたい。参議院全国比例区での自民党の得票率である。ここに政権への国民の評価・認識が現れるからである。全国比例区での自民党得票率は三五・九%で、前回は三四・七%だったから一・二%増えたことになる。しかし、投票率が五四・七%だったことを思うと、有権者総数の一九・六%の得票、つまり有権者の二割に満たない得票で改選議席の四六・三%を占めることができるという、選挙制度の魔術で「圧勝」を実現したのである。今回、公明党の全国比例得票率は一三・五%で、前回より〇・七%減らしているので与党の得票率は前回より〇・五%増えたにすぎない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 民進党の全国比例区の得票率が二一・〇%と前回の民主党の得票率一三・四%から七・六%も増えたかのようだが、前回の日本維新の会(一一・九%)とみんなの党(八・九%)の得票率を考えると、その大部分を吸収・統合した野党再編の割には伸びなかったと見るべきである。政党支持率という世論調査の動向を見れば、民進党の支持率は今回の全国比例での得票率の半分程度であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> さて、直前の予想が当たらなかった大きなポイントが前回の参院選挙で与党の二九勝二敗だった一人区(前回は三一選挙区)で二一勝一一敗となったことである。野党共闘の効果と見ることもできるが、現場の事情を聴くと、共闘効果というよりTPPインパクトの大きさに気付く。TPPの交渉経過がみえてくるにつれ、農業関係者が「裏切られた」ことに反発を強めた。その結果、東北六県中秋田を除く五県で野党統一候補が勝利し、長野・新潟といった農業県でも</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">JA</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">グループの政治団体が自主投票にしたことが自民敗北をもたらした。北海道は定数三だが民進党が二議席を確保し自民党候補が次点に泣いた理由もTPPへの反発にあるといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> さらに、最後のところで与党の得票が伸びず票が野党に向かった理由は、アベノミクスに象徴される経済政策、安保法制に象徴される外交安保政策について現政権が推進する政策への懸念と逡巡が「ここは野党に入れておこう」というぎりぎりの投票行動をもたらしたとみるべきであろう。日本は間違った方向に進んでいるような気はするが、どう進むべきかの代案も見えない。そうした投票行動をもたらした社会構造は後述することにして、今回選挙で気になる何点かを明らかにしておきたい。一つは、慶応大学名誉教授小林節が率いた「国民怒りの声」の惨敗である。全国比例の得票四六・七万票、小林節個人はわずかに七・八万票に終わり、比例区で一人を当選させるのに必要な約一〇〇万票の半分にも満たなかった。安保法制の違憲性についての問題を提起し、議論を主導した存在に国民は関心を示さなかった。連携する政党など組織論的戦略に欠けるマイナー運動に終わり、悲しい結末を迎えた。「国の在り方」を問う根本問題よりも、「生活と経済が大切」という国民の本音の壁に弾き返され、風車に向かったドン・キホーテのような敗退であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二つ目は、直前予想でいわれていた「共産党の躍進」が外れ、前回の参院選の当選者八人を下回る六人にとどまったことである。比例区での共産党の得票率は前回より一%伸びたとはいえ、直前予想では「一〇人以上の当選も」とみられていたにもかかわらず躍進は幻に終わった。共産党が主導した野党共闘は与党に対抗可能な選択肢を提示したともいえるが、共産党候補に対する民進党内の拒否反応で共産党自身の議席につながらなかった。むしろ共闘によって「確かな野党」といってきた共産党の輪郭がぼやけ党勢拡大にはならなかったと指摘できる。共産党としてはジレンマを抱えながらも国民政党への脱皮に向け今回の結果を前向きに総括すべきであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 三つ目は、一八歳からの政治参加がもたらした意味である。今回の参院選から投票年齢が一八歳に引き下げられ、約二四〇万人の若者が投票権を得たが、注目された一八歳・一九歳の投票率は四五・五%であり、予想外に高かった。全体の投票率は五四・七%である。これまでの投票行動の傾向では、総じて高齢者層の投票率が七割近い水準を推移してきたのに比し、二〇代の投票率はその半分程度であった。この傾向が続けば、日本の政治的意思決定は、「老人の老人による老人のための政治」となるであろう。話は逸れるが、六月の英国のEU離脱を巡る国民投票において、英国の二〇代の若者の六六%はEUに留まることを支持した。四三歳が分岐点で、それ以下の若者の過半はEU残留を支持、それ以上の年齢の層においては離脱派が過半を占めたという。つまり、未来により大きな責任を担う若者が欧州共同体の中で生きることを期待しているのに、老人たちがその道を塞ぐ選択をしたということで、深く考えさせられる。そして、注視すべきは、現代日本の社会的意思決定における高齢者が持つ意味であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">政権の政策の行き詰まりと代替案なき野党の悲劇</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 選挙戦の最終局面で国民の迷いが交錯したとはいえ、大勢として国民はアベノミクスの継続を選んだ。正気の議論をするならば、アベノミクスの論理などとっくに破綻しており、「道半ば」「この道しかない」などといえるものではない。二〇二〇年に名目</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">G D P</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">で六〇〇兆円を実現してその果実を国民が享受することなど虚構にすぎないと気付きながらも、国民の多くが「株高誘導の景気刺激」という共同幻想に乗っている。何故か。それが都合がよいと思う人たちがいるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 表「アベノミクス三年半の総括」を凝視したい。経世済民、経済の根幹である国民生活、実体経済は全く動かない。米国がリーマンショック後の緊急避難対策とした異次元金融緩和を見習って「第一の矢」とし、日銀のマネタリーベースをほぼ四〇〇兆円の水準にまで肥大化させ、金利もマイナス金利などという異常事態に踏み込んだ。ご本尊の米国が実体経済の堅調を背景に量的緩和を終え、政策金利の引き上げ局面を迎えているのに、日本は「出口なき金融緩和」に埋没している。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nouriki173.jpg" alt="" width="477" height="355" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">また、財政出動を「第二の矢」とし、消費税引き上げも出来ぬままさらなる財政出動を模索し続けている。「金利の低い時だから赤字国債を出しても利払いが少ない」という誘惑に駆られ、「市場はさらなる景気刺激策を求めている」などという無責任な経済メディアの甘言に乗って「ヘリコプターマネー」と称する無利子の日銀からの借金で財政出動を加速させるべきだとの議論さえ生まれている。既に一〇〇〇兆円を超す負債を抱える国だという事実を忘れてはならない。自分が生きている時代だけは景気刺激を、という考えは後代負担、後の世代に負担を先送りする自堕落な思考である。問題に気付きながら、日本は慢性金融緩和依存症に陥り、リフレ経済学なる金融政策に依存して脱デフレを図る呪術経済学に引き込まれている。野党民進党の経済政策もリフレ経済学を許容する中での格差批判程度で、アベノミクスを否定できるものではない。新自由主義とリフレ経済学の複雑骨折の中を迷走し、産業の現場に軸足を置いた経済政策に踏み込めていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> また、与党が「戦後レジーム」からの脱却を腹に、戦後民主主義を否定して国権主義、国家主義への回帰する意思を明らかにしつつある中、野党は本気でその流れと対峙する政策軸をみせていない。それは民進党の外交安全保障政策の空疎な中身を見れば明らかである。普天間基地移設問題に関して「辺野古しか移転先はない」とする点において民進党は疑似与党でしかなく、翁長知事の下オール沖縄で辺野古を拒否する沖縄において一切の存在感がないことが象徴している。憲法と沖縄は相関して戦後日本を次のステージでどこに持っていくのかという、ごまかしのきかない課題なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>進む貧困化と世代間格差ーーー高齢者がアベノミクスに幻惑される理由</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> それでもアベノミクスの継続を望む社会構造を再考してみたい。二〇一五年五月号の本連載157「内向と右傾化の深層構造」において、勤労者世帯可処分所得が、二〇〇〇年~一四年の間に年額五八・八万円減少し、「中間層の貧困化」が進行していること、さらに全国全世帯の家計消費支出がこの間、年額三二・四万円も減少したことを指摘した。そして、この間の家計消費で極端に減少した支出項目としての「こづかい、交際費、交通費、外食、酒類」などに象徴されるごとく日本人は行動的でなくなり、「仕送り金、授業料、教養娯楽、書籍」などへの支出減に象徴されるごとく学ばなくなり、学べなくなったという事実を解析・指摘した。こうした時代の空気が、日本人の視界を狭め、内向と右傾化の土壌となっていることに注目した。一五年の勤労者世帯可処分所得は、月額四二・七万円(前年比三〇〇〇円増)で若干増えたように思えるが、一九九七年のピーク時の年額五九六万円から、一五年には五一二万円と、実に八四万円も減少している。ちなみに、全国全世帯の消費支出もピーク時一九九三年の四〇二万円から一五年の三四六万円と年額五六万円も減少しており、いかに消費が冷却し生活が劣化しているかが分る。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> この段階で確認しておきたいのは、働く現役世代の可処分所得がピーク比で、年額八四万円も減ったという状況では、この世代が高齢化した親の世代の面倒をみて経済的支援をする基盤が失われているということである。もっとも、戦後七〇年というプロセスにおいて、「親に孝行」といった儒教的価値を失わせる社会構造を作ってしまったともいえる。都市に産業と人口を集中させて高度成長期を走ったことにより、「核家族化」が進行し、一九八〇年に三八%にまで増やしていた核家族(単身者、夫婦のみ世帯、母子・父子家庭)の比重は、二〇一〇年には六一%となり、現在は六五%になっていると推計される。つまり、「家族」の性格がすっかり変わってしまい、世代間の支えあいが困難な社会となっているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 働いている現役世代でさえ生活が劣化している状況の中で、働いていない人が多い高齢者の経済状況は、さらに厳しい。六〇歳以上の無職の世帯の可処分所得(年金</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">+</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">所得</span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">-</span></span><span style="color: #000000; font-size: medium;">社会保険)は、平均年額一七八万円で、平均生活費は二四八万円(「家計調査年報」)、年間七〇万円足りないとされ、その分は資産を取り崩していると思われる。それ故に高齢者の就業志向は高まっており、総務省就業構造基本調査(二〇一二年)によれば、男性における就業者の比重は六〇~六四歳で七三%、六五~六九歳で四〇%、七〇~七四歳で三二%、七五歳以上一六%となっているが、ここでの「就業者」には雇用者、役員、自営業主も含まれ、六五歳以上の雇用者は一三%程度であり、雇用条件も非正規雇用が大半となるため大きな所得は望めない。だが、高齢者層は現在の勤労者世帯を形成する世代(現役世代)よりも相対的には恵まれているといえる。日本が右肩上がりの一九六〇年代から八〇年代にかけて壮年期を送り、勤労者世帯の可処分所得が増え続けた環境の中で一定の貯蓄と資産を確保できた世代だからである。東京に吸収されたサラリーマン層をイメージしても、郊外にマンションの一部屋程度は手に入れローンを払い終えて定年を迎え、一定の貯蓄と金融資産を手にしているというのが一般的高齢者であろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 7.05pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">総務省家計調査・貯蓄篇を基に、国民の金融資産保有状況(二〇一四年)をみると、貯蓄の五八%、有価証券七二%は六〇歳以上の世代が保有している。つまり、株価の動きに最も敏感で、金融政策主導で、日銀のETF買いだろうがGPIFによる株式投資の拡大だろうが、株高誘導政策に最も共感する土壌を形成しているのが高齢者である。ただし、高齢者の経済状態は一般論で単純に判断できないほど、二極分化が進んでいる。人口の二七%、三四〇〇万人が二〇一五年時点での高齢者人口だが、あえて高齢者を経済状態で分類するならば、約二〇%(七〇〇万人)が「金融資産一〇〇〇万円以下で、年金と所得の合計が二〇〇万円以下の「下流老人」であり、約一五%(五〇〇万人)が「金融資産五〇〇〇万円以上で、年金と所得の合計が一四〇〇万円以上の「金持ち老人」で、残りの約二二〇〇万人が「中間層老人」といえるが、この中間層老人が「病気・介護・事故」などを機に、下流老人に没落する事例が急増しているという。生活保護受給世帯一五九万世帯のうち七九万世帯が高齢者世帯であり、「貧</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">困化する高齢者」問題も深刻である。高齢者のうち所得のすべてが年金の人が約五割を占め、厚生年金に加えて企業年金を得る最も恵まれた年金受給者でも年金収入の上限は五五〇万円前後である。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">確かに、高齢者の平均貯蓄額(二〇一四年)は二四六七万円と意外なほど高いが、一〇〇〇万円以下が三六%、二〇〇〇万円以下が六〇%で富は偏在しているのである。つまり安定した経済状態にある高齢者層が確実に圧縮しているといえよう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 17.55pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 17.55pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">「老後破産」について、NHKスペシャル(二〇一四・九・二八放送)を単行本化した『老後破産—――長寿という悪夢』(新潮社、二〇一五年)は注目すべき現実を報告しており、年金生活は些細なきっかけで破産へと追い込まれる危うさを思い知らされる。また、週刊東洋経済は、下流老人特集(二〇一五・八・二九日号)やキレる老人特集(二〇一六・三・一九日号)と支えるコミュニィティーを失った高齢化社会の断面に迫る企画を積み上げており、高齢化の現実を深く考えさせられる。 こうした潜在不安を抱える高齢者、とりわけ中間層から金持ち老人にかけての約二七〇〇万人が金融資産、株式投資に最も敏感な層であり、「とにかく株が上がればめでたい」という心理を潜在させ、アベノミクス的資産インフレ誘発政策を支持する傾向を示す。結局、アベノミクスの恩恵を受けるのは、資産を保有する高齢者と円安メリットを受ける輸出志向型企業だという構図がはっきりとしてきた。ここから生ずる世代間格差と分配の適正化という問題意識を持たねば、金融政策に過剰に依存して調整インフレを実現しようとする政策は社会構造の歪みを招き、間違った国へと向かわせるであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人生は欲と道連れであり、高齢者が潜在する経済不安の中から、アベノミクスを支持する心理に至るのも分からなくはない。しかし、歴史の中での高齢者の役割を再考するならば、社会活動の現場で体験を重ねてきた世代として、後から来る世代に道筋をつける知恵を働かせるべきである。とくに、戦後日本の産業化と国際化の現場を支えた世代として、マネーゲームと金融政策では経済社会が空洞化することに厳しい視点を向けるべきではないのか。少なくとも、後から来る勤労者世代の貧困化に目を配らねばならない。自分の生活だけが安定していればよいというのではなく、高齢者らしい社会への配慮と成熟した知性が問われている。三浦展が『下流老人と幸福老人』(光文社新書、二〇一六年)で描き出すごとく、「資産がなくても幸福な人」と「資産があっても不幸な人」が存在するのが高齢者社会の実態である。我々は可能な限り幸福な高齢者社会の実現を図るべきで、「多世代共生」、「参画」「多元的価値」が幸福老人を増やす鍵であることは確かであろう。高齢者自身が与えられるのではなく、自分でやるべきこと、やりたいことに向き合うことがまず大切であり、そうした視界からは、日本が「この道しかない」として向かおうとしている方向には静かなる疑問が浮かび上がるはずである。</span></span></p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年8月号 脳力のレッスン172 科学革命における「コスモスの崩壊」とは何か ― 一七世紀オランダからの視界(その38) 2017-02-24T06:12:55+09:00 2017-02-24T06:12:55+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1317-nouriki-2016-8.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 西欧史がルネサンスなる時代から宗教改革を経て、近代の様相を深め始める頃、一六世紀から一七世紀にかけ「科学革命」が大きく進展する。J・ヘンリーは『一七世紀科学革命』(二〇〇三、東慎一郎訳、岩波書店、二〇〇五)で「一五〇〇年と一七〇〇年の間の自然的世界についての知識の差」に注目するが、この間に人類史にパラダイム転換が起こったことは間違いない。「近代」なるものの本質的要素を「デモクラシー(民衆の政治参加)」と「資本主義(株式会社制度)」と「科学革命(コペルニクス的転回)」の三つに凝縮するならば、正にこれらが相関し合い三位一体となって時代を突き動かしたといえよう。H・バターフィールドは『近代科学の誕生』(一九四九、渡部正雄訳、講談社学術文庫、一九七八)で「近代科学の成立をもって近代の成立とする」とまで述べているがあながち誇張ともいえず、ここでは科学技術の視界から一七世紀を捉え直しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">宗教改革五〇〇年を前にして</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 来る二〇一七年は宗教改革五〇〇年の節目である。一五一七年にマルティン・ルターがカトリック教会への「九五箇条の論題」をザクセン州ヴィッテンベルク城教会の扉に貼りだしてからちょうど五〇〇年が経過したということである(連載その10参照)。一六一七年、宗教改革から一〇〇年の時点で、「宗教改革一〇〇周年記念パンフレット」なるものがライプツィヒ製の木版画として発行されている。欧州最後の宗教戦争といわれる三〇年戦争の始まる一年前のことで、ローマ教皇はプロテスタントという異端の根絶とキリスト教世界の再統一を呼びかけていた。つまり、これはプロテスタント側がカトリックと対峙する緊張の中で、民衆やザクセン選帝侯など領主層へ結束を訴えるポスターのようなものであった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">「印刷技術がなければ宗教改革は達成されなかった」という指摘は正しく、一四四三年の印刷機の登場が「書物の運動」としての新教の台頭に勢いをつけたことは間違いない。しかし、一七世紀の欧州ではほとんどの人は読み書きができず、都市においてさえ識字率は三分の一程度だったと思われる。そのため、図版に若干の文字を加えたポスターが人々への訴求力として有効であり、羽ペンを持ったルターが「免罪符について」と書こうとしている図柄を配した「ブロードシート」と言われる現代の漫画・イラストのようなものが作られたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">確かに、印刷機の登場によって、写本の時代とは比較にならないほど伝達される知識量は拡大した。ただし、グーテンベルグが葡萄酒の搾り機を改良して活版印刷機を作りだしてからしばらくの間は、一回に印刷できる部数は二〇〇部程度だったといわれ、多くの人々への浸透には限界があった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">また、科学技術史において印刷機登場のインパクトは大きかったが、宗教改革を通じて登場した「目覚めた人々」が、そのまま近代科学の扉を開いたのかというと話は単純ではない。それは宗教改革の主役ルターのコペルニクスに対する姿勢が物語っている。宗教改革がカトリックを突き上げはじめた頃、ほぼ時を同じくして一五四三年にコペルニクスが『天体の回転について』を出版した。だが、キリスト教的世界観からは自由ではなかった。「地球が回転するなどという馬鹿者」という表現で、コペルニクス的宇宙観を一笑に付したのがルターであり、「地球中心」「永遠不滅」というアリストテレス以来の宇宙観の固定観念から一歩も出るものではなかった。一六〇〇年、日本では関ヶ原の戦いの年に、ドミニカ会の修道士ジョルダノ・ブルーノ(一五四八~一六〇〇年)は地動説を擁護したことにより火刑にされている。西欧における科学革命とはキリスト教的宇宙観との戦いでありその克服であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">欧州で宗教改革の火蓋が切られた一五一七年、日本は室町時代であり、将軍は足利義稙、戦国という時代に向けて群雄割拠の様相へと動き始めていた。武田信玄(一五二一~七三)、上杉謙信(一五三〇~七八)、織田信長(一五三四~八二)、豊臣秀吉(一五三七~九八)、徳川家康(一五四二~一六一六)といった戦国の領袖たちが生まれる少し前であった。宗教改革の衝撃がいかに大きかったかは、ルターが狼煙を上げてわずか三二年後の一五四九年に、ザビエルが鹿児島に来訪したことに象徴されるであろう。プロテスタント台頭への対抗宗教改革から生まれたイエズス会が、極東の島国にまで使命感に燃えた宣教師を送り込むほどに情熱を掻き立てられたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">宇宙観のパラダイム転換ーーー「コスモスの崩壊」とは何か</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">コペルニクスは一四七三年、現在のポーランドに生まれ、一四九七年に二三歳でイタリアに留学、一五〇</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">三</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">年に至る七年間当時のあらゆる学問を学んだ。教会法で博士の学位を取得したが、ルネサンス期の新プラトン主義の息吹に触れギリシャ・ローマの古典を吸収した。最新の科学史研究の成果ともいえるS・ワインバーグの『科学の発見』(二〇一五年、赤根洋子訳・文藝春秋、二〇一六年)などによれば、紀元前三世紀の天文学者アリスタルコスが既に「地動説」を唱えており、留学中のコペルニクスはそれらの文献を読み込んでいたという。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一六~一七世紀の欧州に展開された科学革命を考える時、前提となる歴史認識として、アラブの科学が果たした役割を視界に入れておく必要がある。プラトン、アリストテレスに代表されるギリシャ文明の精華は、西欧自身の中では一旦はすっかり失われ、アラビア語からの再翻訳という形で蘇った。七世紀のアラビア半島に忽然と現れたムハンマドなる預言者が開いたイスラム勢力が、ダマスカスに本拠を置くウマイヤ朝(六六一~七五〇年)として、七一五年には欧州のイベリア半島までも制圧する巨大帝国となった。次いでイスラム世界の覇権を握ったアッバース朝(七五〇~一二五八年)はビザンツ帝国との「文明の衝突」を通じて、そこに蓄積されていたギリシャ文明を吸収した。とくにアッバース朝の第二代カリフとなったアル・マンスール(在位七五四~七七五年)はバグダッドを首都として、アラブ科学の黄金期を築いた。「知恵の館」(バイト・アル・ヒクマ)という学術機関が設けられ、多くのギリシャ文明の文献が翻訳された。皮肉な話だが、欧州における「ルネサンス」といわれる文明の再興運動は失われたギリシャ文明の文献のアラビア語からの再翻訳によって支えられたという性格を持ち、イスラムが東西文明の交流・接着剤的役割を果たしたことを忘れてはならない。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">『天球の回転について』の発刊はコペルニクスの死の直前であった。途方もない軋轢が予想され、逡巡したためである。それほどまでにキリスト教体制に深く埋め込まれていた「天動説」的宇宙観の岩盤を壊すことは至難であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img style="border-width: 0px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nourikizu.jpg" width="272" height="383" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">中世キリスト教的宇宙観とは何か。その意味で『神曲』は中世の欧州における宇宙観を象徴する作品である。フィレンツェ生まれの詩人、哲学者ダンテ・アリギエーリ(一二六五~一三二一)の『神曲』は一三〇七年から死の直前まで書き続けた彼の代表作で、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部から成り、ダンテ自身が生身のまま彼岸の三界を巡る構成である。その天国篇(岩波文庫版では「天堂」)に描かれた宇宙観こそ一四世紀初頭のローマ教皇を中心とする欧州の人々が共有するものであった。最上位の第十天に神を、人間世界を第一天で「月下界」とする、これこそがアリストテレス(前三八四~前三二二)に発し中世キリスト教と接木された宇宙観ル・コイレ、一九五七)といわれる所以である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 『神曲』が書かれた時代には、エルサレムを目指した「十字軍」は一二二一年の第五回で終っていたが、イスラムへの憎しみと偏見は欧州キリスト教社会を覆っていた。地獄篇の第二八曲に描かれた地獄で苦しみぬくマホメット(ムハンマド)の描写は、あまりの残虐さに気分が悪くなるほどであるが、異教徒、異端者への憎悪はかくもと思わせるものがある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> そこにコペルニクスが「地球中心」という当時の常識を覆す視界を語り始めたのである。彼は単に地球が太陽の周りを動いていることを主張しただけでなく、全宇宙の体系をこれまでのキリスト教的宇宙観と異なるパラダイムで描き出したが故に衝撃だったのである。コペルニクスの議論をさらに進化させたのがドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一~一六三〇)で、地動説に立ってより正確な惑星の楕円軌道の動きの法則性を発見した。所謂「ケプラーの第三法則」といわれるもので、「惑星の公転周期の二乗は軌道の長半径の三乗に比例する」という法則によって、「地動説パラダイム」を完成の域にもって行った。さらに象徴的立役者がガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)である。イタリアのピサに生まれたガリレオは、一六〇九年に天体望遠鏡を創り出し、木星の衛星を発見したことから地球も太陽の周りを回転していることを実感し、月面クレーター、太陽の黒点などの発見、一六三〇年には『天文対話』を出版するが、「キリスト教の教義に反する」として教皇庁の異端審問を受け宗教裁判により有罪となる。「それでも地球は回っている」と呟いたという有名なエピソードを残した。一六三〇年といえば『天体の回転について』の出版から八七年、北の欧州では地動説的世界観が浸透しつつあったが、教皇庁お膝元のイタリアではガリレオが矢面に立たされた。A・ファントリの『ガリレオ――コペルニクス説のために、教会のために』(一九九三、須藤和夫訳、みすず書房、二〇一〇)は体系的なガリレオ研究の成果として意味深い。教皇ヨハネ・パウロ二世により教皇庁がガリレオに正式に謝罪し名誉回復に踏み込んだのは実に一九九二年であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>日本におけるコペルニクス</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">科学史を再考する上で、T・クーンの『科学革命の構造』(一九六二、中山茂訳、みすず書房、一九七一)は欠かせない古典である。今日「パラダイム」という言葉が安直に使われがちだが、個別の事象で歴史を見るのではなく、事象の基盤にある原理の転換を見抜き、歴史の構造変化を捉える視界を拓いたのがクーンであった。彼はパライム・シフトこそ科学革命と言い切ったが、その典型がコペルニクス的転回だった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">日本では、一九七三年に生誕五〇〇年を記念して『コペルニクスと現代』(時事通信社刊)が出版され、『天体の回転について』の訳者・矢島祐利が「日本におけるコペルニクス」という興味深い論稿を寄せている。矢島によれば日本の文献に最初にコペルニクスが登場したのは、一七七四年(安永三)年、長崎の通詞・本木良永の「天地二球用法」(天球儀と地球儀の使い方という意)で、「コペルニクス体系」という表現が登場する。その理論を理解し、紹介しているのは志筑忠雄の『暦象新書』(一七九八~一八〇二)で、天動説、地動説という訳語も志筑が創り、日本の影響で韓国、中国でも使われているという。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">一八世紀も後期になっていたが、キリスト教による宗教的抑圧のない日本では天文学にうおける学説としてのみ冷静に受け止められ、禁断の世界に踏み込むという抵抗はなかった。科学と宗教の対立という緊張を経ることなく、「和魂洋才」として西洋の科学技術を受容した日本の特質が見えてくる。</span></span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 西欧史がルネサンスなる時代から宗教改革を経て、近代の様相を深め始める頃、一六世紀から一七世紀にかけ「科学革命」が大きく進展する。J・ヘンリーは『一七世紀科学革命』(二〇〇三、東慎一郎訳、岩波書店、二〇〇五)で「一五〇〇年と一七〇〇年の間の自然的世界についての知識の差」に注目するが、この間に人類史にパラダイム転換が起こったことは間違いない。「近代」なるものの本質的要素を「デモクラシー(民衆の政治参加)」と「資本主義(株式会社制度)」と「科学革命(コペルニクス的転回)」の三つに凝縮するならば、正にこれらが相関し合い三位一体となって時代を突き動かしたといえよう。H・バターフィールドは『近代科学の誕生』(一九四九、渡部正雄訳、講談社学術文庫、一九七八)で「近代科学の成立をもって近代の成立とする」とまで述べているがあながち誇張ともいえず、ここでは科学技術の視界から一七世紀を捉え直しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">宗教改革五〇〇年を前にして</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 来る二〇一七年は宗教改革五〇〇年の節目である。一五一七年にマルティン・ルターがカトリック教会への「九五箇条の論題」をザクセン州ヴィッテンベルク城教会の扉に貼りだしてからちょうど五〇〇年が経過したということである(連載その10参照)。一六一七年、宗教改革から一〇〇年の時点で、「宗教改革一〇〇周年記念パンフレット」なるものがライプツィヒ製の木版画として発行されている。欧州最後の宗教戦争といわれる三〇年戦争の始まる一年前のことで、ローマ教皇はプロテスタントという異端の根絶とキリスト教世界の再統一を呼びかけていた。つまり、これはプロテスタント側がカトリックと対峙する緊張の中で、民衆やザクセン選帝侯など領主層へ結束を訴えるポスターのようなものであった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">「印刷技術がなければ宗教改革は達成されなかった」という指摘は正しく、一四四三年の印刷機の登場が「書物の運動」としての新教の台頭に勢いをつけたことは間違いない。しかし、一七世紀の欧州ではほとんどの人は読み書きができず、都市においてさえ識字率は三分の一程度だったと思われる。そのため、図版に若干の文字を加えたポスターが人々への訴求力として有効であり、羽ペンを持ったルターが「免罪符について」と書こうとしている図柄を配した「ブロードシート」と言われる現代の漫画・イラストのようなものが作られたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">確かに、印刷機の登場によって、写本の時代とは比較にならないほど伝達される知識量は拡大した。ただし、グーテンベルグが葡萄酒の搾り機を改良して活版印刷機を作りだしてからしばらくの間は、一回に印刷できる部数は二〇〇部程度だったといわれ、多くの人々への浸透には限界があった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">また、科学技術史において印刷機登場のインパクトは大きかったが、宗教改革を通じて登場した「目覚めた人々」が、そのまま近代科学の扉を開いたのかというと話は単純ではない。それは宗教改革の主役ルターのコペルニクスに対する姿勢が物語っている。宗教改革がカトリックを突き上げはじめた頃、ほぼ時を同じくして一五四三年にコペルニクスが『天体の回転について』を出版した。だが、キリスト教的世界観からは自由ではなかった。「地球が回転するなどという馬鹿者」という表現で、コペルニクス的宇宙観を一笑に付したのがルターであり、「地球中心」「永遠不滅」というアリストテレス以来の宇宙観の固定観念から一歩も出るものではなかった。一六〇〇年、日本では関ヶ原の戦いの年に、ドミニカ会の修道士ジョルダノ・ブルーノ(一五四八~一六〇〇年)は地動説を擁護したことにより火刑にされている。西欧における科学革命とはキリスト教的宇宙観との戦いでありその克服であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">欧州で宗教改革の火蓋が切られた一五一七年、日本は室町時代であり、将軍は足利義稙、戦国という時代に向けて群雄割拠の様相へと動き始めていた。武田信玄(一五二一~七三)、上杉謙信(一五三〇~七八)、織田信長(一五三四~八二)、豊臣秀吉(一五三七~九八)、徳川家康(一五四二~一六一六)といった戦国の領袖たちが生まれる少し前であった。宗教改革の衝撃がいかに大きかったかは、ルターが狼煙を上げてわずか三二年後の一五四九年に、ザビエルが鹿児島に来訪したことに象徴されるであろう。プロテスタント台頭への対抗宗教改革から生まれたイエズス会が、極東の島国にまで使命感に燃えた宣教師を送り込むほどに情熱を掻き立てられたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">宇宙観のパラダイム転換ーーー「コスモスの崩壊」とは何か</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">コペルニクスは一四七三年、現在のポーランドに生まれ、一四九七年に二三歳でイタリアに留学、一五〇</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">三</span></span><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">年に至る七年間当時のあらゆる学問を学んだ。教会法で博士の学位を取得したが、ルネサンス期の新プラトン主義の息吹に触れギリシャ・ローマの古典を吸収した。最新の科学史研究の成果ともいえるS・ワインバーグの『科学の発見』(二〇一五年、赤根洋子訳・文藝春秋、二〇一六年)などによれば、紀元前三世紀の天文学者アリスタルコスが既に「地動説」を唱えており、留学中のコペルニクスはそれらの文献を読み込んでいたという。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一六~一七世紀の欧州に展開された科学革命を考える時、前提となる歴史認識として、アラブの科学が果たした役割を視界に入れておく必要がある。プラトン、アリストテレスに代表されるギリシャ文明の精華は、西欧自身の中では一旦はすっかり失われ、アラビア語からの再翻訳という形で蘇った。七世紀のアラビア半島に忽然と現れたムハンマドなる預言者が開いたイスラム勢力が、ダマスカスに本拠を置くウマイヤ朝(六六一~七五〇年)として、七一五年には欧州のイベリア半島までも制圧する巨大帝国となった。次いでイスラム世界の覇権を握ったアッバース朝(七五〇~一二五八年)はビザンツ帝国との「文明の衝突」を通じて、そこに蓄積されていたギリシャ文明を吸収した。とくにアッバース朝の第二代カリフとなったアル・マンスール(在位七五四~七七五年)はバグダッドを首都として、アラブ科学の黄金期を築いた。「知恵の館」(バイト・アル・ヒクマ)という学術機関が設けられ、多くのギリシャ文明の文献が翻訳された。皮肉な話だが、欧州における「ルネサンス」といわれる文明の再興運動は失われたギリシャ文明の文献のアラビア語からの再翻訳によって支えられたという性格を持ち、イスラムが東西文明の交流・接着剤的役割を果たしたことを忘れてはならない。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">『天球の回転について』の発刊はコペルニクスの死の直前であった。途方もない軋轢が予想され、逡巡したためである。それほどまでにキリスト教体制に深く埋め込まれていた「天動説」的宇宙観の岩盤を壊すことは至難であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img style="border-width: 0px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/nourikizu.jpg" width="272" height="383" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">中世キリスト教的宇宙観とは何か。その意味で『神曲』は中世の欧州における宇宙観を象徴する作品である。フィレンツェ生まれの詩人、哲学者ダンテ・アリギエーリ(一二六五~一三二一)の『神曲』は一三〇七年から死の直前まで書き続けた彼の代表作で、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部から成り、ダンテ自身が生身のまま彼岸の三界を巡る構成である。その天国篇(岩波文庫版では「天堂」)に描かれた宇宙観こそ一四世紀初頭のローマ教皇を中心とする欧州の人々が共有するものであった。最上位の第十天に神を、人間世界を第一天で「月下界」とする、これこそがアリストテレス(前三八四~前三二二)に発し中世キリスト教と接木された宇宙観ル・コイレ、一九五七)といわれる所以である。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 『神曲』が書かれた時代には、エルサレムを目指した「十字軍」は一二二一年の第五回で終っていたが、イスラムへの憎しみと偏見は欧州キリスト教社会を覆っていた。地獄篇の第二八曲に描かれた地獄で苦しみぬくマホメット(ムハンマド)の描写は、あまりの残虐さに気分が悪くなるほどであるが、異教徒、異端者への憎悪はかくもと思わせるものがある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> そこにコペルニクスが「地球中心」という当時の常識を覆す視界を語り始めたのである。彼は単に地球が太陽の周りを動いていることを主張しただけでなく、全宇宙の体系をこれまでのキリスト教的宇宙観と異なるパラダイムで描き出したが故に衝撃だったのである。コペルニクスの議論をさらに進化させたのがドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一~一六三〇)で、地動説に立ってより正確な惑星の楕円軌道の動きの法則性を発見した。所謂「ケプラーの第三法則」といわれるもので、「惑星の公転周期の二乗は軌道の長半径の三乗に比例する」という法則によって、「地動説パラダイム」を完成の域にもって行った。さらに象徴的立役者がガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)である。イタリアのピサに生まれたガリレオは、一六〇九年に天体望遠鏡を創り出し、木星の衛星を発見したことから地球も太陽の周りを回転していることを実感し、月面クレーター、太陽の黒点などの発見、一六三〇年には『天文対話』を出版するが、「キリスト教の教義に反する」として教皇庁の異端審問を受け宗教裁判により有罪となる。「それでも地球は回っている」と呟いたという有名なエピソードを残した。一六三〇年といえば『天体の回転について』の出版から八七年、北の欧州では地動説的世界観が浸透しつつあったが、教皇庁お膝元のイタリアではガリレオが矢面に立たされた。A・ファントリの『ガリレオ――コペルニクス説のために、教会のために』(一九九三、須藤和夫訳、みすず書房、二〇一〇)は体系的なガリレオ研究の成果として意味深い。教皇ヨハネ・パウロ二世により教皇庁がガリレオに正式に謝罪し名誉回復に踏み込んだのは実に一九九二年であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>日本におけるコペルニクス</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">科学史を再考する上で、T・クーンの『科学革命の構造』(一九六二、中山茂訳、みすず書房、一九七一)は欠かせない古典である。今日「パラダイム」という言葉が安直に使われがちだが、個別の事象で歴史を見るのではなく、事象の基盤にある原理の転換を見抜き、歴史の構造変化を捉える視界を拓いたのがクーンであった。彼はパライム・シフトこそ科学革命と言い切ったが、その典型がコペルニクス的転回だった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">日本では、一九七三年に生誕五〇〇年を記念して『コペルニクスと現代』(時事通信社刊)が出版され、『天体の回転について』の訳者・矢島祐利が「日本におけるコペルニクス」という興味深い論稿を寄せている。矢島によれば日本の文献に最初にコペルニクスが登場したのは、一七七四年(安永三)年、長崎の通詞・本木良永の「天地二球用法」(天球儀と地球儀の使い方という意)で、「コペルニクス体系」という表現が登場する。その理論を理解し、紹介しているのは志筑忠雄の『暦象新書』(一七九八~一八〇二)で、天動説、地動説という訳語も志筑が創り、日本の影響で韓国、中国でも使われているという。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">一八世紀も後期になっていたが、キリスト教による宗教的抑圧のない日本では天文学にうおける学説としてのみ冷静に受け止められ、禁断の世界に踏み込むという抵抗はなかった。科学と宗教の対立という緊張を経ることなく、「和魂洋才」として西洋の科学技術を受容した日本の特質が見えてくる。</span></span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年7月号 脳力のレッスン171特別篇 東日本大震災から五年―覚醒して本当に議論すべきこと 2017-01-26T09:12:11+09:00 2017-01-26T09:12:11+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1307-nouriki-2016-7.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 東日本大震災から五年が過ぎた。ようやく、冷静にあの震災の意味を総括できる局面が来たと思い始めていたら、熊本での震災に襲われ、震災列島に住む日本人として改めて深く考えさせられている。わずか五年前のことである。我々日本人は、あの3・11が突きつけた問題を早くも忘れ、「アベノミクスで株が上がれば結構」程度の自堕落な感覚で生きているのではないのか。簡単に忘れてはならないことがある。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">3.11の衝撃と思考の再起動</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 3・11の激震に襲われた時、私は新幹線の中にいた。関西に向かう新幹線で、品川を出た直後であり、五時間半も閉じ込められた。この時のことは、『世界を知る力――日本創生編』(PHP新書、二〇一一年)に書いたが、不思議な偶然で、この時、カバンの中に親鸞に関する本を三冊持っていた。東本願寺からの依頼で、この年の五月に予定されていた「親鸞聖人七五〇回御遠忌讃仰行事」の記念講演として「今を生きる親鸞」という話をする予定があり、親鸞関連の本を読みこんでいたのだ。車内での五時間半、私は腹を据えて親鸞の本を奇妙に落ち着いた気持ちで読んでいた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 外部から遮断された孤独な時間が流れ、しばらくすると水と乾パンが配られた。車掌に状況説明を求めて詰め寄る声も聞こえたが、私には親鸞のいう「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」が腑に落ちる気がした。大災害に直面した瞬間、人間社会における関係性はフラットになる。組織社会における上司・部下などの階層関係、社会における「貴賤」、社会通念における「善人・悪人」など、一瞬にして意味を失い、一人の人間として生きなければならなくなる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「避難所」に身を寄せた人も、「帰宅難民」となって座り込んだ人も、群衆の一人として生きなければならない。つまり、虚飾や依存を捨てて自らの生き抜く力だけに向き合うことになる。その時、根源的問いかけが浮かんでくる。自分たちが作ってきた社会の意味とは何か、そして本当に守るべきものとは何なのか。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 脳震盪を起こしかねない衝撃の中で、本誌『世界』は二〇一一年五月号で「生きよう!」と叫ぶ特集を組んで「深い悲しみと巨きな不安」を伝える特別編集号を発行した。その号で、今は亡き鶴見俊輔は事態を「日本文明の蹉跌だけでなく、世界文明の蹉跌」と語り、大江健三郎は「私たちは犠牲者に見つめられている」として「狂気を生き延びる道」という言葉で結ぶ論稿を寄せていた。同じ号に、私も「脳力のレッスン109」として「東日本大震災の衝撃を受け止めて――近代主義者の覚悟」という論稿を、3・11から二週間という時点で書いた。「原子力からの脱出」を軸とする『世界』誌の論調の中で、原子力の技術基盤の維持の重要性を主張する私の論稿は違和感をもって受け止められたと思うが、戦後日本の産業の現場で生きてきた人間として、簡単に宗旨替えをして「近代主義」を否定する立場に豹変する気持ちはなかった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">無論、原子力推進論者ではないが、コペルニクス的転回以降の近代科学技術の本質を熟慮し、世界エネルギー戦略における日本の貢献・参画を視界に入れた場合、原子力の専門的技術基盤の蓄積は重要だという立場での発言をした。五年たって、現状を踏まえて、今どう考えるかは、後述したい。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">結局、東日本大震災の死者は一五八九四人、行方不明者は二五六一人、関連死は三四一〇人、合計二一八六五人が犠牲(二〇一六年</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">三</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">月</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">一〇</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">日現在)となった。しかも、単なる地震・津波の被害というだけでなく、福島原子力発電所のメルトダウンという事故により、「避難民」という形で故郷を離れざるをえなくなっている人が今も一六・五万人(福島だけで九・三万人)という異次元の災禍をもたらした。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">3・11体験は、「日本は原発事故も収束させられない国なのか」という失望と屈辱を体験する事態でもあった。愁嘆場になればことの本質がみえるわけで、日本国自体が「破綻国家」といえるような混乱に直面した。菅直人政権の原子力事故への対応能力の欠落は、同盟国米国の不信を極限まで高め、「日本だけで福島を収束させられないのなら、世界に与える被害を考え、米国が日本を再占領しても、特別部隊を投入して事態を制御せねばならない」という判断をワシントンがする寸前にまで至っていた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">表面的には「トモダチ作戦」として、米国が友情をもって駆けつけてくれたことになっている。三月一三日から四月五日まで、宮城県北部の沖に空母ロナルド・レーガンを派遣して支援物資をヘリコプターで運んだ。また在沖縄の海兵隊二二〇〇人が艦船三隻に分乗して三陸沖に展開、支援物資空輸、電力復旧、がれき撤去などに当たった。トモダチ作戦によって、米軍は艦船二四隻、航空機一八九機、兵員延べ二・五万人が救援活動に参加したと発表されている。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">だが、注意深くその活動を見るならば、福島には一切入っていないことに気付く。理由はいうまでもなく、福島事故の深刻さを知っていたからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">屈辱的なことだが、日本という国家が自らを制御できない事態に至り、首相官邸に米国の原子力規制委員会の専門家を受け入れていた。この間のことはD・ロックバウム他憂慮する科学者同盟『実録FUKUSHIMA――アメリカも震撼させた核災害』</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">岩波書店、二〇一五年</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">、木村英昭『官邸の一〇〇時間――検証福島原発事故』(岩波書店、二〇一二年)などが参考になる。日本は「軽度の破綻国家」として当事者能力を喪失していたのである。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> 私も大きな衝撃の中で、本質から目を逸らさず、再生の筋道を模索せねばとの思いで、本誌での連載で論究を続けた。前記「衝撃を受け止めて」(二〇一一年五月号)の後、「震災考」(同六月号)、「復興への視座」(同七月号)、「原子力をどう位置づけるのか」(同八月号)、「戦後日本と原子力」(二〇一二年六月号)と、必死に思考の再起動を図っていた。この間、宮城県震災復興会議や経産省の総合資源エネルギー調査会への参加などを通じ、復興と日本の選択に関して解析・発言も続けてきた</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(注 これらの論稿は『リベラル再生の基軸――脳力のレッスンⅣ』〔岩波書店、二〇一四年〕に所収)。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">この五年で何が変わったのか</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> あれから五年、日本の何が変わったのであろうか。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">第一に、日本の人口構造が変化した。人口減と高齢化が加速し始めた。岩手、宮城、福島という被災三県の人口は、震災前の二〇一〇年に五七一万人だったが、二〇一五年には一九万人減って五五二万人となった。三・三%の減少であり、この間の全国の人口減九五万人(〇・七%減)に比べても、人口減は顕著である。日本の人口は二〇〇八年に既にピークアウトしていたが、東日本大震災は人口減少社会を一気に顕在化させ、とくに東北の人口減を決定づけた。この五年間での全国九五万人の人口減とは和歌山県、もしくは香川県の総人口が消えたことを意味し、被災三県の一九万人減は甲府や松江級の都市が消えたことを意味するのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> また、この五年間が人口構造の高齢化を加速させたことも視界に入れねばならない。戦後生まれの先頭世代たる「団塊の世代」が、五年ですべて高齢者ゾーンに入ったためである。二〇一〇年に二三%だった六五歳人口比重は、二〇一五年には二七%となり、「人口の三分の一が高齢者によって占められる日本」の現実味を突き付けてきた。五〇年前の一九六六年、日本の人口が一億人を超した年、人口に占める六五歳以上の人口の比重はわずか七%であった。それが三割を超す「超高齢化社会」に向けて、日本はその入口に入ったのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">第二に、復旧・復興の皮肉な現実としての被災三県の県内総生産の拡大とその歪んだ構造を指摘しておきたい。実は、不可解なことが進行している。全国の経済活動(生産、所得)が低迷する中で、被災三県の県内総生産や県民所得は、統計上驚くほど伸びているのである。県民所得は二〇一〇年度の被災三県の合計一四・〇兆円が一三年度には一五・六兆円にまで一一%も伸びている。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">復興需要である。産業別の県内総生産の動きをみると、第二次産業だけが、三県とも突</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">出した伸びとなっており、とりわけ建設業だけが二〇一〇年度比で二〇一三年度が岩手県</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一〇七%増、宮城県一二〇%増、福島県一一三%増となっており、復興予算の投入という</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">カンフル注射で、表面的には経済が活性化しているようにみえるが、長い目で見た産業創</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">成は全く進まない歪んだ形の地域経済になってきているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 国の復興予算をみると、二〇一一年度から一五年度の累計で実に三二・〇兆円が投入さ</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">れた。国民はその財源確保のため、復興特別税として二〇一五年までに累計一・九兆円を追加的に負担している。復興特別所得税として所得税額の二・一%が付加され、それは二〇三七年度まで今後も二〇年継続されるのである。復興特別法人税は一五年三月で終了した。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">それほどまでの復興予算を注入して、復旧復興は進んだのかというと、前述のごとく表</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">面統計を見ると、建設需要だけを拡大させて経済が伸びているようにみえる。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">しかし、踏み込んで凝視するならば、大きな問題に気付く。復興予算の投入で、県別・市町村別の復旧・復興計画は進んでいるかに見える。がれき処理、住宅の高台移転、堤防の嵩上げなどは順調に進捗しているという数字が確認できる。だが、視界を東北全域に広げると、いまだに広域東北をいかなる産業基盤で再建するかの構想・グランドデザインは描けていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 復興庁まで創設し、復興を束ねているかに見えるが、後藤新平を持ち出すまでもなく、関東大震災に立ち向かった世代と対比しても、我々の時代の構想力は劣弱である。国交省によって「国土形成計画」が二〇一四年には策定され、私自身も作業に参画し、人口減社会を睨んだ「コンパクト・アンド・ネットワーク」を志向する国土形成という方向感が示され、東北ブロックの広域地方計画も策定された。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">国土政策という視点からの「対流促進型のインフラ整備」を進めるという視界は的確だと思うが、人口減を加速させる広域東北を如何なる産業基盤をもった地域にするのか、もっといえばこの地域に生きる人たちはどうやってメシを食うのかについての、産業政策的戦略はまだ見えない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> 3・11から五年を受けたメディア報道は、相変わらずの「被災地と寄り添う報道」を繰り返し、涙目で人間ドラマを伝え続けた。悪くはない。だが、構造を問わねば復興は前に進まないのである。また、五年前はいわゆる「3・11本」という出版物が相次いで出版され、誰もが戦後日本の在り方を再考する論点に真摯に向き合っていた。朝日新聞のオピニオン面掲載の識者八〇人による「3・11後ニッポンの論点」(朝日新聞、二〇一一年)などがその典型であり、あの頃の日本人の心理を象徴する論調が確認できる。だが、出版業界にいる友人の言葉によれば「三・一一本はもう流行らない」のだという。流行っているのは「FINTECH」など投資指南・金融技術物だという。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>五年間で迷い込んだ隘路ーーー間違った路線への傾斜</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 震災に立ち尽くしてわずか一年半、政治とりわけ民主党政権への失望と息苦しさの中で、日本人は「やっぱり経済だ」という意識に回帰し、「デフレからの脱却」というメッセージを掲げる「リフレ経済学の誘惑」に引き込まれ始めた。</span></span><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">異次元金融緩和はアベノミクスが始まってからと思われがちだが、米国</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">FRB</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">の</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">QE3</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">をモデルとする「量的緩和」は民主党政権下でも動き始めていた。日銀のマネタリーベースは二〇一〇年平均の九八兆円から二〇一二年平均で一二一兆円にまで拡大しており、それを黒田日銀は二〇一六年四月現在三八一兆円にまで肥大化させたわけである。市中の資金量を四倍にしたわけで、尋常な話ではない。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">この間、東京株式市場の日経平均は、「円安」をテコにした外国人投資家の買いを柱として、二〇一〇年平均の一〇〇一〇円から二〇一五年平均の一九二〇四円にまで一・九倍に跳ね上がり、「株が上ってめでたい症候群」といわれる浮薄な空気に覆われることになった。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">だが、実体経済は動かない。マネタリーベースは四倍になったのに、銀行の貸出残高は二〇一〇年の三九六兆円から二〇一五年の四二六兆円と約八%弱増えたにすぎない。資金需要がないからである。より重要な視点は「国民は豊かになっているのか」という点であり、経済は「経世済民」で民に視点を置くことが肝要なのであるが、勤労者世帯可処分所得は、二〇一〇年の月額四三・〇万円から二〇一五年の四二・七万円と、むしろ減っているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">アベノミクスの結末は明らかである。金融政策だけで実体経済は浮上しないということであり、国民は豊かになっていないという現実である。3・11直後の「戦後日本の在り方を省察する」という視座は、重苦しい閉塞感に堪え切れず、「デフレからの脱却と円安誘導」という誘惑に引き寄せられ、中央銀行の金融緩和と財政出動で経済が好転するという幻惑に巻き込まれてきた。しかし、構造改革と産業と技術を重視する具体的プロジェクトの実行しか、経済を成長させる戦略はないのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">次に、この五年間に日本が迷い込んだのが「戦後民主主義」の挫折と国権主義への回帰</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">である。関東大震災は大正デモクラシーの息の根を止めたといわれる。一九二三年九月一日、相模湾を震源とする関東大震災が発生、政党政治の迷走とそれへの失望感が「挙国一致内閣」として山本権兵衛に組閣の大命が降った直後の震災であった。一九一七年のロシア革命、一九一九年の朝鮮半島での三・一朝鮮独立運動などを背景に、不安を深めた政府は一九二五年に「治安維持法」を制定、「国体の変革、または私有財産制度の否認を目的とする結社の禁止」に踏み込んだが、これは後に、反体制的文化運動・宗教運動をも圧殺する基盤となった。日清・日露戦争を経て、一九一〇年の日韓併合、さらに日英同盟に基づく集団的自衛権の行使を理由に第一次大戦に参戦して、新手の植民地帝国としての性格を露わにし始めていた日本は、国威発揚的誘惑の中で、揺籃期の民主主義を否定したのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 時流れて約九〇年、東日本大震災は戦後民主主義の息の根を止めかねない情勢にある。「絆と連帯」を叫ぶ心理は秩序への希求となり、混迷から生まれる無気力と不安は力への誘惑を招く。国際環境も不安を増幅している。「イラクの失敗」以降の米国の求心力低下を受けて、ユーラシアの秩序基盤は融解し、東アジアも新しい緊張局面に入っている。日中韓も相互の自己主張を強め、ナショナリズムを政権浮揚の素材とする誘惑に駆られている。安保法制を進める力学が生まれる土壌がここにある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 安倍政権が推進してきた「安保法制」は表層観察すれば、「集団的自衛権にまで踏み込んで、日米で連携して中国の脅威を制御する」意図にみえるが、本音は複雑である。米国が日本を守るために中国と戦争をする意思などないことはわかっている。嫌中と対米不信を本音とする屈折したナショナリズム、それが現政権の外交安保政策の基調である。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">リトマス紙として対ロシア外交をみればわかる。G7によるロシア制裁が続く中、二〇一五年における日本の化石燃料輸入の八・七%はロシアが占め、二〇一三年の七・四%に比べ、急増している。伊勢志摩サミットの直前(五月六日)にソチで行われた日露首脳会議をみても、「北方四島」「平和条約」さえ俎上にのせようとする蜜月で、安倍政権は単純な親米政権ではないという基軸不明の脆さを内在させている。今こそ従来の固定観念を超えた視界に立ち、日米の真の相互信頼を土台として近隣外交を踏み固める外交論が求められている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 戦後民主主義の試練は、内外政一体となった視界を持たねば克服できない。憲法を改正して国権主義に回帰させる力は、危機と不安をテコに忍び寄るのである。</span></span></p> <p>  </p> <p><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b> 五年間で迷い込んだ隘路ーーー間違った路線への傾斜</b></span></span></span><br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span style="color: #333333; font-family: Tahoma;"> </span>3・11を振り返る時、避けられないのが原子力の議論である。あれから五年、この間私はウィーンのIAEA(国際原子力機関)に三度足を運び、国際的な原子力の専門家の目線から見た日本の原子力政策についての議論を受け止めてきた。一言でいえば、日本の原子力政策は「あいまい」であり、多くの人たちが奇異な印象を持っている。何よりも、福島の総括報告がなされておらず、あの事故の原因、収束への道筋が明確には説明されていない。国会、民間の事故調査委員会が報告書を出したようになっているが、たとえば、「フル・ターン・キー」で福島の事故サイトを建設した米GE社の製造者責任、つまり津波で全電源が遮断されるリスクの想定や対応などについて、一切の調査も分析もされていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> それにもかかわらず、新しい規制基準に照らして再稼働可能なものから順次再稼働を進めている。しかも、国民に対しては「限りなく原子力に依存しないエネルギー社会」という選択も可能という姿勢をみせながら、日米協力で世界に原発を売り込みたいという動きをみせており、あまりに曖昧かつ無責任である。日本の原子力政策のあり方については、前記の『リベラル再生の基軸―――脳力のレッスンⅣ』で語っており繰り返さないが、少なくとも現時点で以下の三点だけは行動を起こすべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・福島事故の原因・現状・教訓に関する誠意ある国際社会への説明をなすべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・原子力に関する国家の責任体制を明確化すべきである。廃炉にも除染にも汚染水処理にも技術が必要であり、個別電力会社では限界がある。非常事態対応体制を含む原子力発電事業の国策統合はフクシマの教訓であるはずである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・二〇一八年の日米原子力協定の改定にむけて、平和利用だけに原子力を使う非核保有国として「非核のための原子力」(核軍縮と不拡散)への筋道を明示すべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 一方で、「反原発・脱原発」の立場に立つ人たちもその議論を深化させるべき段階である。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">日本は「米国の核の傘」に守られながら、一方で「脱原発も可能」と考える人も多いが、原子力だけは軍事利用と民生利用が表裏一体になっていることを直視すべきである。日米原子力共同体というべき現実(東芝・WH、日立・GEの連携)をどうするのかを明示することなく「脱原発」は語れないのである。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">原発の話も外交・安保の話も、結局は「対米関係の再設計」に行き着く。奇しくも、米</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">国の大統領選挙を巡り、D・トランプのような候補者が「駐留米軍経費の日本側負担」や「日本の核武装」に言及している。一九九〇年代初頭のジャパン・バッシャーが「防衛ただ乗り」として日本を批判していた文脈を髣髴とさせる時代遅れの発言であり、米軍基地経費の七割を日本側が負担している構造が現状を固定化させているという事実さえ理解できていないようだが、むしろこれを機に「核抑止力を含む東アジアにおける米軍の前方展開基地と日米同盟の在り方」について根底から議論をするべきであろう。</span></span></p> <p><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> そろそろ日米が本当のことを話し合うべき局面なのである。米国の軍事力が緩やかにアジアからも後退する流れの中で、さらにTPPの国内合意形成さえ危ういほど内向する米国と向き合わねばならない状況において、日米関係の再設計は必然である。冷戦を前提とした「日米安保体制」という枠組を見直し、アジアの安定を視界に入れた「基地の段階的縮小、地位協定改定、適正なコスト分担」を実現しなければならない。歴史的に「孤立主義」に回帰するDNAを内在させている米国をアジアから孤立させないための同盟国日本の構想力が問われている。</span></span></span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 東日本大震災から五年が過ぎた。ようやく、冷静にあの震災の意味を総括できる局面が来たと思い始めていたら、熊本での震災に襲われ、震災列島に住む日本人として改めて深く考えさせられている。わずか五年前のことである。我々日本人は、あの3・11が突きつけた問題を早くも忘れ、「アベノミクスで株が上がれば結構」程度の自堕落な感覚で生きているのではないのか。簡単に忘れてはならないことがある。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">3.11の衝撃と思考の再起動</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 3・11の激震に襲われた時、私は新幹線の中にいた。関西に向かう新幹線で、品川を出た直後であり、五時間半も閉じ込められた。この時のことは、『世界を知る力――日本創生編』(PHP新書、二〇一一年)に書いたが、不思議な偶然で、この時、カバンの中に親鸞に関する本を三冊持っていた。東本願寺からの依頼で、この年の五月に予定されていた「親鸞聖人七五〇回御遠忌讃仰行事」の記念講演として「今を生きる親鸞」という話をする予定があり、親鸞関連の本を読みこんでいたのだ。車内での五時間半、私は腹を据えて親鸞の本を奇妙に落ち着いた気持ちで読んでいた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 外部から遮断された孤独な時間が流れ、しばらくすると水と乾パンが配られた。車掌に状況説明を求めて詰め寄る声も聞こえたが、私には親鸞のいう「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」が腑に落ちる気がした。大災害に直面した瞬間、人間社会における関係性はフラットになる。組織社会における上司・部下などの階層関係、社会における「貴賤」、社会通念における「善人・悪人」など、一瞬にして意味を失い、一人の人間として生きなければならなくなる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「避難所」に身を寄せた人も、「帰宅難民」となって座り込んだ人も、群衆の一人として生きなければならない。つまり、虚飾や依存を捨てて自らの生き抜く力だけに向き合うことになる。その時、根源的問いかけが浮かんでくる。自分たちが作ってきた社会の意味とは何か、そして本当に守るべきものとは何なのか。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 脳震盪を起こしかねない衝撃の中で、本誌『世界』は二〇一一年五月号で「生きよう!」と叫ぶ特集を組んで「深い悲しみと巨きな不安」を伝える特別編集号を発行した。その号で、今は亡き鶴見俊輔は事態を「日本文明の蹉跌だけでなく、世界文明の蹉跌」と語り、大江健三郎は「私たちは犠牲者に見つめられている」として「狂気を生き延びる道」という言葉で結ぶ論稿を寄せていた。同じ号に、私も「脳力のレッスン109」として「東日本大震災の衝撃を受け止めて――近代主義者の覚悟」という論稿を、3・11から二週間という時点で書いた。「原子力からの脱出」を軸とする『世界』誌の論調の中で、原子力の技術基盤の維持の重要性を主張する私の論稿は違和感をもって受け止められたと思うが、戦後日本の産業の現場で生きてきた人間として、簡単に宗旨替えをして「近代主義」を否定する立場に豹変する気持ちはなかった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">無論、原子力推進論者ではないが、コペルニクス的転回以降の近代科学技術の本質を熟慮し、世界エネルギー戦略における日本の貢献・参画を視界に入れた場合、原子力の専門的技術基盤の蓄積は重要だという立場での発言をした。五年たって、現状を踏まえて、今どう考えるかは、後述したい。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">結局、東日本大震災の死者は一五八九四人、行方不明者は二五六一人、関連死は三四一〇人、合計二一八六五人が犠牲(二〇一六年</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">三</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">月</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">一〇</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">日現在)となった。しかも、単なる地震・津波の被害というだけでなく、福島原子力発電所のメルトダウンという事故により、「避難民」という形で故郷を離れざるをえなくなっている人が今も一六・五万人(福島だけで九・三万人)という異次元の災禍をもたらした。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">3・11体験は、「日本は原発事故も収束させられない国なのか」という失望と屈辱を体験する事態でもあった。愁嘆場になればことの本質がみえるわけで、日本国自体が「破綻国家」といえるような混乱に直面した。菅直人政権の原子力事故への対応能力の欠落は、同盟国米国の不信を極限まで高め、「日本だけで福島を収束させられないのなら、世界に与える被害を考え、米国が日本を再占領しても、特別部隊を投入して事態を制御せねばならない」という判断をワシントンがする寸前にまで至っていた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">表面的には「トモダチ作戦」として、米国が友情をもって駆けつけてくれたことになっている。三月一三日から四月五日まで、宮城県北部の沖に空母ロナルド・レーガンを派遣して支援物資をヘリコプターで運んだ。また在沖縄の海兵隊二二〇〇人が艦船三隻に分乗して三陸沖に展開、支援物資空輸、電力復旧、がれき撤去などに当たった。トモダチ作戦によって、米軍は艦船二四隻、航空機一八九機、兵員延べ二・五万人が救援活動に参加したと発表されている。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">だが、注意深くその活動を見るならば、福島には一切入っていないことに気付く。理由はいうまでもなく、福島事故の深刻さを知っていたからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">屈辱的なことだが、日本という国家が自らを制御できない事態に至り、首相官邸に米国の原子力規制委員会の専門家を受け入れていた。この間のことはD・ロックバウム他憂慮する科学者同盟『実録FUKUSHIMA――アメリカも震撼させた核災害』</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">岩波書店、二〇一五年</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">、木村英昭『官邸の一〇〇時間――検証福島原発事故』(岩波書店、二〇一二年)などが参考になる。日本は「軽度の破綻国家」として当事者能力を喪失していたのである。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> 私も大きな衝撃の中で、本質から目を逸らさず、再生の筋道を模索せねばとの思いで、本誌での連載で論究を続けた。前記「衝撃を受け止めて」(二〇一一年五月号)の後、「震災考」(同六月号)、「復興への視座」(同七月号)、「原子力をどう位置づけるのか」(同八月号)、「戦後日本と原子力」(二〇一二年六月号)と、必死に思考の再起動を図っていた。この間、宮城県震災復興会議や経産省の総合資源エネルギー調査会への参加などを通じ、復興と日本の選択に関して解析・発言も続けてきた</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(注 これらの論稿は『リベラル再生の基軸――脳力のレッスンⅣ』〔岩波書店、二〇一四年〕に所収)。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">この五年で何が変わったのか</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> <span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> あれから五年、日本の何が変わったのであろうか。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">第一に、日本の人口構造が変化した。人口減と高齢化が加速し始めた。岩手、宮城、福島という被災三県の人口は、震災前の二〇一〇年に五七一万人だったが、二〇一五年には一九万人減って五五二万人となった。三・三%の減少であり、この間の全国の人口減九五万人(〇・七%減)に比べても、人口減は顕著である。日本の人口は二〇〇八年に既にピークアウトしていたが、東日本大震災は人口減少社会を一気に顕在化させ、とくに東北の人口減を決定づけた。この五年間での全国九五万人の人口減とは和歌山県、もしくは香川県の総人口が消えたことを意味し、被災三県の一九万人減は甲府や松江級の都市が消えたことを意味するのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> また、この五年間が人口構造の高齢化を加速させたことも視界に入れねばならない。戦後生まれの先頭世代たる「団塊の世代」が、五年ですべて高齢者ゾーンに入ったためである。二〇一〇年に二三%だった六五歳人口比重は、二〇一五年には二七%となり、「人口の三分の一が高齢者によって占められる日本」の現実味を突き付けてきた。五〇年前の一九六六年、日本の人口が一億人を超した年、人口に占める六五歳以上の人口の比重はわずか七%であった。それが三割を超す「超高齢化社会」に向けて、日本はその入口に入ったのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">第二に、復旧・復興の皮肉な現実としての被災三県の県内総生産の拡大とその歪んだ構造を指摘しておきたい。実は、不可解なことが進行している。全国の経済活動(生産、所得)が低迷する中で、被災三県の県内総生産や県民所得は、統計上驚くほど伸びているのである。県民所得は二〇一〇年度の被災三県の合計一四・〇兆円が一三年度には一五・六兆円にまで一一%も伸びている。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">復興需要である。産業別の県内総生産の動きをみると、第二次産業だけが、三県とも突</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">出した伸びとなっており、とりわけ建設業だけが二〇一〇年度比で二〇一三年度が岩手県</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一〇七%増、宮城県一二〇%増、福島県一一三%増となっており、復興予算の投入という</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">カンフル注射で、表面的には経済が活性化しているようにみえるが、長い目で見た産業創</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">成は全く進まない歪んだ形の地域経済になってきているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 国の復興予算をみると、二〇一一年度から一五年度の累計で実に三二・〇兆円が投入さ</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">れた。国民はその財源確保のため、復興特別税として二〇一五年までに累計一・九兆円を追加的に負担している。復興特別所得税として所得税額の二・一%が付加され、それは二〇三七年度まで今後も二〇年継続されるのである。復興特別法人税は一五年三月で終了した。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">それほどまでの復興予算を注入して、復旧復興は進んだのかというと、前述のごとく表</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">面統計を見ると、建設需要だけを拡大させて経済が伸びているようにみえる。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">しかし、踏み込んで凝視するならば、大きな問題に気付く。復興予算の投入で、県別・市町村別の復旧・復興計画は進んでいるかに見える。がれき処理、住宅の高台移転、堤防の嵩上げなどは順調に進捗しているという数字が確認できる。だが、視界を東北全域に広げると、いまだに広域東北をいかなる産業基盤で再建するかの構想・グランドデザインは描けていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 復興庁まで創設し、復興を束ねているかに見えるが、後藤新平を持ち出すまでもなく、関東大震災に立ち向かった世代と対比しても、我々の時代の構想力は劣弱である。国交省によって「国土形成計画」が二〇一四年には策定され、私自身も作業に参画し、人口減社会を睨んだ「コンパクト・アンド・ネットワーク」を志向する国土形成という方向感が示され、東北ブロックの広域地方計画も策定された。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">国土政策という視点からの「対流促進型のインフラ整備」を進めるという視界は的確だと思うが、人口減を加速させる広域東北を如何なる産業基盤をもった地域にするのか、もっといえばこの地域に生きる人たちはどうやってメシを食うのかについての、産業政策的戦略はまだ見えない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> 3・11から五年を受けたメディア報道は、相変わらずの「被災地と寄り添う報道」を繰り返し、涙目で人間ドラマを伝え続けた。悪くはない。だが、構造を問わねば復興は前に進まないのである。また、五年前はいわゆる「3・11本」という出版物が相次いで出版され、誰もが戦後日本の在り方を再考する論点に真摯に向き合っていた。朝日新聞のオピニオン面掲載の識者八〇人による「3・11後ニッポンの論点」(朝日新聞、二〇一一年)などがその典型であり、あの頃の日本人の心理を象徴する論調が確認できる。だが、出版業界にいる友人の言葉によれば「三・一一本はもう流行らない」のだという。流行っているのは「FINTECH」など投資指南・金融技術物だという。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>五年間で迷い込んだ隘路ーーー間違った路線への傾斜</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;">  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 震災に立ち尽くしてわずか一年半、政治とりわけ民主党政権への失望と息苦しさの中で、日本人は「やっぱり経済だ」という意識に回帰し、「デフレからの脱却」というメッセージを掲げる「リフレ経済学の誘惑」に引き込まれ始めた。</span></span><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">異次元金融緩和はアベノミクスが始まってからと思われがちだが、米国</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">FRB</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">の</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">QE3</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">をモデルとする「量的緩和」は民主党政権下でも動き始めていた。日銀のマネタリーベースは二〇一〇年平均の九八兆円から二〇一二年平均で一二一兆円にまで拡大しており、それを黒田日銀は二〇一六年四月現在三八一兆円にまで肥大化させたわけである。市中の資金量を四倍にしたわけで、尋常な話ではない。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">この間、東京株式市場の日経平均は、「円安」をテコにした外国人投資家の買いを柱として、二〇一〇年平均の一〇〇一〇円から二〇一五年平均の一九二〇四円にまで一・九倍に跳ね上がり、「株が上ってめでたい症候群」といわれる浮薄な空気に覆われることになった。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">だが、実体経済は動かない。マネタリーベースは四倍になったのに、銀行の貸出残高は二〇一〇年の三九六兆円から二〇一五年の四二六兆円と約八%弱増えたにすぎない。資金需要がないからである。より重要な視点は「国民は豊かになっているのか」という点であり、経済は「経世済民」で民に視点を置くことが肝要なのであるが、勤労者世帯可処分所得は、二〇一〇年の月額四三・〇万円から二〇一五年の四二・七万円と、むしろ減っているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">アベノミクスの結末は明らかである。金融政策だけで実体経済は浮上しないということであり、国民は豊かになっていないという現実である。3・11直後の「戦後日本の在り方を省察する」という視座は、重苦しい閉塞感に堪え切れず、「デフレからの脱却と円安誘導」という誘惑に引き寄せられ、中央銀行の金融緩和と財政出動で経済が好転するという幻惑に巻き込まれてきた。しかし、構造改革と産業と技術を重視する具体的プロジェクトの実行しか、経済を成長させる戦略はないのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">次に、この五年間に日本が迷い込んだのが「戦後民主主義」の挫折と国権主義への回帰</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">である。関東大震災は大正デモクラシーの息の根を止めたといわれる。一九二三年九月一日、相模湾を震源とする関東大震災が発生、政党政治の迷走とそれへの失望感が「挙国一致内閣」として山本権兵衛に組閣の大命が降った直後の震災であった。一九一七年のロシア革命、一九一九年の朝鮮半島での三・一朝鮮独立運動などを背景に、不安を深めた政府は一九二五年に「治安維持法」を制定、「国体の変革、または私有財産制度の否認を目的とする結社の禁止」に踏み込んだが、これは後に、反体制的文化運動・宗教運動をも圧殺する基盤となった。日清・日露戦争を経て、一九一〇年の日韓併合、さらに日英同盟に基づく集団的自衛権の行使を理由に第一次大戦に参戦して、新手の植民地帝国としての性格を露わにし始めていた日本は、国威発揚的誘惑の中で、揺籃期の民主主義を否定したのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 時流れて約九〇年、東日本大震災は戦後民主主義の息の根を止めかねない情勢にある。「絆と連帯」を叫ぶ心理は秩序への希求となり、混迷から生まれる無気力と不安は力への誘惑を招く。国際環境も不安を増幅している。「イラクの失敗」以降の米国の求心力低下を受けて、ユーラシアの秩序基盤は融解し、東アジアも新しい緊張局面に入っている。日中韓も相互の自己主張を強め、ナショナリズムを政権浮揚の素材とする誘惑に駆られている。安保法制を進める力学が生まれる土壌がここにある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 安倍政権が推進してきた「安保法制」は表層観察すれば、「集団的自衛権にまで踏み込んで、日米で連携して中国の脅威を制御する」意図にみえるが、本音は複雑である。米国が日本を守るために中国と戦争をする意思などないことはわかっている。嫌中と対米不信を本音とする屈折したナショナリズム、それが現政権の外交安保政策の基調である。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">リトマス紙として対ロシア外交をみればわかる。G7によるロシア制裁が続く中、二〇一五年における日本の化石燃料輸入の八・七%はロシアが占め、二〇一三年の七・四%に比べ、急増している。伊勢志摩サミットの直前(五月六日)にソチで行われた日露首脳会議をみても、「北方四島」「平和条約」さえ俎上にのせようとする蜜月で、安倍政権は単純な親米政権ではないという基軸不明の脆さを内在させている。今こそ従来の固定観念を超えた視界に立ち、日米の真の相互信頼を土台として近隣外交を踏み固める外交論が求められている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 戦後民主主義の試練は、内外政一体となった視界を持たねば克服できない。憲法を改正して国権主義に回帰させる力は、危機と不安をテコに忍び寄るのである。</span></span></p> <p>  </p> <p><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b> 五年間で迷い込んだ隘路ーーー間違った路線への傾斜</b></span></span></span><br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span style="color: #333333; font-family: Tahoma;"> </span>3・11を振り返る時、避けられないのが原子力の議論である。あれから五年、この間私はウィーンのIAEA(国際原子力機関)に三度足を運び、国際的な原子力の専門家の目線から見た日本の原子力政策についての議論を受け止めてきた。一言でいえば、日本の原子力政策は「あいまい」であり、多くの人たちが奇異な印象を持っている。何よりも、福島の総括報告がなされておらず、あの事故の原因、収束への道筋が明確には説明されていない。国会、民間の事故調査委員会が報告書を出したようになっているが、たとえば、「フル・ターン・キー」で福島の事故サイトを建設した米GE社の製造者責任、つまり津波で全電源が遮断されるリスクの想定や対応などについて、一切の調査も分析もされていない。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> それにもかかわらず、新しい規制基準に照らして再稼働可能なものから順次再稼働を進めている。しかも、国民に対しては「限りなく原子力に依存しないエネルギー社会」という選択も可能という姿勢をみせながら、日米協力で世界に原発を売り込みたいという動きをみせており、あまりに曖昧かつ無責任である。日本の原子力政策のあり方については、前記の『リベラル再生の基軸―――脳力のレッスンⅣ』で語っており繰り返さないが、少なくとも現時点で以下の三点だけは行動を起こすべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・福島事故の原因・現状・教訓に関する誠意ある国際社会への説明をなすべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・原子力に関する国家の責任体制を明確化すべきである。廃炉にも除染にも汚染水処理にも技術が必要であり、個別電力会社では限界がある。非常事態対応体制を含む原子力発電事業の国策統合はフクシマの教訓であるはずである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">・二〇一八年の日米原子力協定の改定にむけて、平和利用だけに原子力を使う非核保有国として「非核のための原子力」(核軍縮と不拡散)への筋道を明示すべきである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 一方で、「反原発・脱原発」の立場に立つ人たちもその議論を深化させるべき段階である。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">日本は「米国の核の傘」に守られながら、一方で「脱原発も可能」と考える人も多いが、原子力だけは軍事利用と民生利用が表裏一体になっていることを直視すべきである。日米原子力共同体というべき現実(東芝・WH、日立・GEの連携)をどうするのかを明示することなく「脱原発」は語れないのである。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">原発の話も外交・安保の話も、結局は「対米関係の再設計」に行き着く。奇しくも、米</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">国の大統領選挙を巡り、D・トランプのような候補者が「駐留米軍経費の日本側負担」や「日本の核武装」に言及している。一九九〇年代初頭のジャパン・バッシャーが「防衛ただ乗り」として日本を批判していた文脈を髣髴とさせる時代遅れの発言であり、米軍基地経費の七割を日本側が負担している構造が現状を固定化させているという事実さえ理解できていないようだが、むしろこれを機に「核抑止力を含む東アジアにおける米軍の前方展開基地と日米同盟の在り方」について根底から議論をするべきであろう。</span></span></p> <p><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> そろそろ日米が本当のことを話し合うべき局面なのである。米国の軍事力が緩やかにアジアからも後退する流れの中で、さらにTPPの国内合意形成さえ危ういほど内向する米国と向き合わねばならない状況において、日米関係の再設計は必然である。冷戦を前提とした「日米安保体制」という枠組を見直し、アジアの安定を視界に入れた「基地の段階的縮小、地位協定改定、適正なコスト分担」を実現しなければならない。歴史的に「孤立主義」に回帰するDNAを内在させている米国をアジアから孤立させないための同盟国日本の構想力が問われている。</span></span></span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年6月号 脳力のレッスン170 一七世紀世界の相関を映し出す三浦按針という存在―一七世紀オランダからの視界(その37) 2016-12-23T01:32:09+09:00 2016-12-23T01:32:09+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1303-nouriki-2016-6.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> ウィリアム・アダムスという英国人がオランダ船リーフデ号で豊後国(現在の大分県臼杵市)に辿り着いた時、彼は三五歳であった。一六〇〇年四月、つまり関ヶ原の戦いが半年後に迫る時であった。この数奇な運命を辿った「青い目のサムライ三浦按針」については「日蘭関係の原点 リーフデ号の漂着とは何か」(本連載その2)で触れたが、この人物の人生に一七世紀の世界情勢が集約的に投影されていることに気付く。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">三浦按針の足跡―――背景と歴史的意味</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">アダムスは一五六四年九月二四日、英国ケント州ジリンガムに生まれた。三歳の時水夫であった父が死亡、一二歳から船大工ディギンズに弟子入り、二四歳まで修行した。一五八八年、英国の貨物補給船リチャード・ダフィールド号船長としてスペイン無敵艦隊との海戦を支える任務に従事した。また一五九三年~九五年にはオランダによる北極海からベーリング海峡を通ってアジアに至る北極海航路の探検にも参加、北緯八二度まで到達したが、一七世紀は地球寒冷期で探検は頓挫。この試みには大航海時代に遅れをとったオランダが、先行するスペイン・ポルトガルに邪魔されないアジアへの回路を求めていた事情がある。こうした体験を経て一五九八年六月、ロッテルダム組合がアジア交易を求めて派遣する五隻の船団に参加してロッテルダムを出港した。五隻には実弟を含め一二名の英国人も乗船した。エリザベス一世治世時の英蘭関係は良好で、テムズ川へのオランダ船入港も自由であった。一七世紀後半には台頭するロンドン商人の圧力を背景に三次に亘る英蘭戦争の時代を迎える(参照、連載32・33)が、アダムスの時代までは英蘭はスペインと戦う盟友であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">出港時アダムスは旗艦ホープ号に航海士として乗船、艦隊全体の航海長でもあったが、風向きが悪く四カ月もギネア湾に逗留中司令官マヒューが死去。アダムスはリーフデ号に移る。この航海はあまりにも悲劇的で、ヘローフ号はオランダに帰航。四隻がマゼラン海峡を越えて太平洋へ入ったが、二隻はスペイン艦隊により没収、撃沈。残された二隻もセント・マリア島で多くの乗員が原住民の襲撃で虐殺され、一六〇〇年四月一九日、リーフデ号のみが豊後臼杵に漂着した。二四人が生存していたが漂着後六人が死亡、一八人となった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「漂着」とされるが、対日本交易の目的をもった航海であり、日本に武器(大砲一九門と小銃五〇〇挺を搭載)や毛織物を売り日本の銀を入手する意図であった。石見銀山(一五二六年発見)産出の銀の存在を認識していたことは、リーフデ号が所持していた海図の石見沖「銀鉱山群」の記載からも明らかで、この頃日本産の銀が世界の交易サイクルに組み込まれていたことは「石見銀山と銀の地政学」(連載16)で論及した。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">家康との面談の通訳を務めたイエズス会宣教師は冷酷で、「乗員を海賊として処刑すべし」と何度も進言した。一五四九年のザビエル鹿児島上陸以来日本での布教にはイエズス会が先行しており、そこにプロテスタントのオランダ人、英国人が現れた衝撃は大きかった。つまり、リーフデ号は、ポルトガル・スペインの先行という大航海時代の第一波から蘭・英の登場という第二波を象徴していた。ちなみに一五八〇~一六四〇年の六〇年間はスペインがポルトガルを併合し、ポルトガルという国は存在しなかった。本能寺の変(一五八二年)の少し前から家康時代を経て、家光の寛永一六(一六三九)年の鎖国令までイベリア半島はスペインが支配していたのだ。そのスペインも一五八八年に無敵艦隊が英国艦隊に敗れて衰退に向かい、その戦いに参加した男が日本に現れたのである。リーフデ号の生存者の中からも処刑への恐怖心から二名が仲間を裏切りイエズス会にすり寄るという混乱の中アダムスは必死に家康に語りかけた。この時家康は一五九八年の秀吉の死を経て豊臣政権の大老の一人として大阪城西の丸に陣取っていた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> かかる情勢下での家康の行動を時系列的に確認すると、その思慮深さに驚嘆させられる。リーフデ号漂着が四月一九日、アダムスとの最初の大阪城での面談は五月一二日で、六月一六日に会津・上杉攻めに出発するまでに三回面談している。大阪を空ければ石田三成が上杉景勝と呼応して家康追討のため挙兵すると想定しての会津攻めであった。アダムスは四二日間大阪城の牢に入れられたが、解放後家康を追って江戸へ。リーフデ号も堺から浦賀への回航を命じられ廃船前の最後の航海に出る。家康は七月二四日三成の挙兵を受け下野小山より西上、九月一五日の関ヶ原の戦いに臨んだ。この間に家康はアダムスの話を聞き世界情勢に気づく眼力を持っていた。欧州での新旧キリスト教の戦い、新興国英蘭の台頭を見抜いた。秀吉の朝鮮出兵による半島との緊張緩和への配慮にも通じる国際関係の構想力をこの人物が持っていたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">按針と母国英国との微妙な関係</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> アダムスの日本での行動を辿ると、母国英国との微妙な関係に気付く。家康との面談でも、オランダ船で来訪したにもかかわらず英国の話に力を入れている。英国が、スペインとは戦っているが他の国とは平和な関係にあること、マゼラン海峡を越えてスペインによる妨害を避けて太平洋航路で日本に来たことを語り、家康を驚かせた。アダムスが三浦半島に所領を与えられ、サムライ三浦按針となって家康外交顧問としての影響力を高めるにつれて、英国と按針の関係は微妙になる。エリザベス一世を継いだスコットランド王ジェームズ一世期の英国は、按針のアドバイスもあり日本との交易を望む使節を送る。一六一三年六月英国船クローヴ号が平戸に到着、船長のセリースや平戸の英商館長コックスなどは日本での活動について按針に頼らざるを得ない一方、日本人化した按針には疑心暗鬼であった。按針もしたたかな面があり、英国東インド会社の職員(一六一三~一七年)として英商館に協力しつつも必ずしも英国だけに肩入れしようとはしなかった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一六〇九年九月、スペインのべラスコ大使が赴任地マニラからメキシコに帰任の途上、暴風で難破し上総岩和田で救助された。ベラスコは江戸で秀忠、駿府で家康に面談後、按針が伊東で建造した一二〇トンの船で帰国することになった。聖幸運(サンタ・ブエナベントゥーラ)号と名付けられたこの船は太平洋を往復してマニラに帰国、その後も太平洋航路を何度も往復したという。仇敵スペインの要人を助ける力にもなったのである。また御朱印船貿易の主役として東南アジアにも渡航、一六一五年にはタイに向かう途中船の修理のため琉球国那覇に約六ヵ月も滞在、「明国使節が来るから退去してくれ」と言われたという当時の日中両属国家琉球の性格を炙り出すようなエピソードを残している。按針の船には琉球国尚寧王(琉球国中山王)が同行したとの記録もあり、薩摩出兵(一六〇九年)後日本に二年間連行された尚寧王と何らかの接点があったのであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一六一五年に家康が死去すると、按針への家康からの信頼が秀忠の疑心に繋がり、按針の立場も制約され始める。一六一六年秀忠は貿易制限令を出し、貿易港を長崎・平戸に限定。按針は海に還りタイやベトナムへ渡航、商人として活動を続けるが、一六二〇年五月平戸で死去、五五歳であった。遺産の半分は英国の妻子へ、半分は日本人妻雪との間の子という遺言書が残された。この年英国から一二年間オランダに亡命していた清教徒がメイフラワー号で大西洋を渡った。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>エラスムスとは何かーーー近代的知性の先駆者</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 元々リーフデ号はエラスムス号と名付けられ船尾にはエラスムスの木像が飾られていた。この木像の数奇な運命は筆舌に尽し難いものがある。リーフデ号の損傷が激しく、浦賀で解体の後木像は行方不明になっていたが、三〇〇年の時を経て栃木県佐野の寺、龍江院で発見された。江戸期、ここは旗本牧野成里に始まる牧野氏の領地で、この人物が幕府の砲術の筒方役だったため按針との縁で入手したらしい。「朝鮮伝来の貨狄様」として大正期まで保存されてきたこの像は一九二四年のバチカン世界宗教博覧会に「聖人像」として出展、その後エラスムス像と分かって一九三六年にはロッテルダムで「エラスムス四〇〇年祭」にも出展され、里帰りしている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">何故船尾を飾る像がエラスムスだったのか。当時、新造船には聖人や賢人の像を掲げる慣習があったためで、オランダでいかに彼が尊敬されていたかを物語っている。エラスムス(一四六九~一五三六年)は、欧州の知的世界にインパクトを与えた人文主義の先駆者で、北方ルネサンスの巨星であった。沓掛良彦の『エラスムス 人文主義の王者』(岩波現代全書、二〇一四年)など関連文献を素材にこの人物を確認しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">彼は一四六九年、当時ブルゴーニュ公国の一部だったネーデルランドのロッテルダムで聖職者の私生児として生まれた。エラスムスは聖エラスムスに由来する洗礼名で、成人後自らはデシデリウスと名乗ったという。両親を疫病で亡くし、後見人の勧めで一八歳で修道院に入り、神学、ラテン語の勉学に打ち込み知の基盤を構築した。人間として覚醒し始めたのは一四九五年に二六歳でパリ大学のモンテーギュ学寮を体験してからであった。学寮長の過酷で非人間的教育環境下で神学研究を続けるうちに、彼の思想の基軸である「ヒューマニズム」に目覚めた。「空飛ぶオランダ人」といわれるほど英・仏・蘭を飛び回り、トマス・モアなど当時の欧州知識人と交流、近代的知性の台頭に刺激を与えた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「一六世紀はエラスムスの世紀」という言葉があるが、このことはルターとの関係を視界に入れると分かりやすい。宗教改革の主導者ルターは一四八三年生まれで、エラスムスは一八歳年長で、カトリックの中世的権威主義に対し覚醒した知性で固定観念をうち壊すという意味でエラスムスは先駆者であった。形式や虚構に埋没することなく原典である「聖書」に還るという姿勢は、エラスムスの『格言集』(一五〇〇年)や風刺文学の傑作『痴愚神礼賛』(一五〇九年)などを通じ、ルターも大きな刺激を受けた。「エラスムスが卵を産みルターが孵した」という言葉は的確だと思うが、両者の関係は複雑である。一五一九年にルターはエラスムスに支援を求める手紙を送り「キリストにおける小さな弟」とまで頭を下げたが、エラスムスは急進化・暴力化する宗教改革と距離をとり、寛容と融和を語り続けた。ルターは失望し、一五二五年にはエラスムス批判を鮮明にした。ルター派と反宗教改革のカトリックの挟撃に会い、その煮え切らぬ態度は「エラスミスム」(エラスムス的態度)として宗教改革の熱狂の中で孤立していく。こうした評価がリーフデ号に改名された事情に繋がると思われる。カトリックのスペインにとってエラスムスは宗教改革の憎むべき起爆剤であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">戦う宗教者ルターが人間の自由意思を否定し神の恩寵によってのみ原罪は救われるとするのに対しエラスムスはあくまでも狂信と熱狂を排し人間の可能性を肯定する合理的知性の人であった。平和論の古典『平和の訴え』(一五一七年)を読むと愛と平和を望む民衆の力を呼びかける近代に先駆したその知性に心打たれる。戦争に飽くことのない権力者への憤りを込め人間が殺戮し合う愚かさを説き続ける「醒めた人」であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">一六〇〇年に知の巨人の像が日本に来ていた事実、またエラスムスとは何者かを知ることなくその像が「朝鮮伝来の秘仏」として北関東の寺に三〇〇年以上眠っていたという事実は近世から近代にかけての日本と西欧の位相を象徴している。木像は現在国立博物館に重要文化財として保存されている。木像の人物が手にする巻物に一部不鮮明だが「</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">ER</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">AS</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">UMUS</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">R</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">O</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">TE</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">RDA</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">M</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">1598</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">」と刻まれ、不思議な感慨が込み上げる。</span></span></span></span></span></p> <p> </p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> ウィリアム・アダムスという英国人がオランダ船リーフデ号で豊後国(現在の大分県臼杵市)に辿り着いた時、彼は三五歳であった。一六〇〇年四月、つまり関ヶ原の戦いが半年後に迫る時であった。この数奇な運命を辿った「青い目のサムライ三浦按針」については「日蘭関係の原点 リーフデ号の漂着とは何か」(本連載その2)で触れたが、この人物の人生に一七世紀の世界情勢が集約的に投影されていることに気付く。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">三浦按針の足跡―――背景と歴史的意味</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">アダムスは一五六四年九月二四日、英国ケント州ジリンガムに生まれた。三歳の時水夫であった父が死亡、一二歳から船大工ディギンズに弟子入り、二四歳まで修行した。一五八八年、英国の貨物補給船リチャード・ダフィールド号船長としてスペイン無敵艦隊との海戦を支える任務に従事した。また一五九三年~九五年にはオランダによる北極海からベーリング海峡を通ってアジアに至る北極海航路の探検にも参加、北緯八二度まで到達したが、一七世紀は地球寒冷期で探検は頓挫。この試みには大航海時代に遅れをとったオランダが、先行するスペイン・ポルトガルに邪魔されないアジアへの回路を求めていた事情がある。こうした体験を経て一五九八年六月、ロッテルダム組合がアジア交易を求めて派遣する五隻の船団に参加してロッテルダムを出港した。五隻には実弟を含め一二名の英国人も乗船した。エリザベス一世治世時の英蘭関係は良好で、テムズ川へのオランダ船入港も自由であった。一七世紀後半には台頭するロンドン商人の圧力を背景に三次に亘る英蘭戦争の時代を迎える(参照、連載32・33)が、アダムスの時代までは英蘭はスペインと戦う盟友であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">出港時アダムスは旗艦ホープ号に航海士として乗船、艦隊全体の航海長でもあったが、風向きが悪く四カ月もギネア湾に逗留中司令官マヒューが死去。アダムスはリーフデ号に移る。この航海はあまりにも悲劇的で、ヘローフ号はオランダに帰航。四隻がマゼラン海峡を越えて太平洋へ入ったが、二隻はスペイン艦隊により没収、撃沈。残された二隻もセント・マリア島で多くの乗員が原住民の襲撃で虐殺され、一六〇〇年四月一九日、リーフデ号のみが豊後臼杵に漂着した。二四人が生存していたが漂着後六人が死亡、一八人となった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「漂着」とされるが、対日本交易の目的をもった航海であり、日本に武器(大砲一九門と小銃五〇〇挺を搭載)や毛織物を売り日本の銀を入手する意図であった。石見銀山(一五二六年発見)産出の銀の存在を認識していたことは、リーフデ号が所持していた海図の石見沖「銀鉱山群」の記載からも明らかで、この頃日本産の銀が世界の交易サイクルに組み込まれていたことは「石見銀山と銀の地政学」(連載16)で論及した。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">家康との面談の通訳を務めたイエズス会宣教師は冷酷で、「乗員を海賊として処刑すべし」と何度も進言した。一五四九年のザビエル鹿児島上陸以来日本での布教にはイエズス会が先行しており、そこにプロテスタントのオランダ人、英国人が現れた衝撃は大きかった。つまり、リーフデ号は、ポルトガル・スペインの先行という大航海時代の第一波から蘭・英の登場という第二波を象徴していた。ちなみに一五八〇~一六四〇年の六〇年間はスペインがポルトガルを併合し、ポルトガルという国は存在しなかった。本能寺の変(一五八二年)の少し前から家康時代を経て、家光の寛永一六(一六三九)年の鎖国令までイベリア半島はスペインが支配していたのだ。そのスペインも一五八八年に無敵艦隊が英国艦隊に敗れて衰退に向かい、その戦いに参加した男が日本に現れたのである。リーフデ号の生存者の中からも処刑への恐怖心から二名が仲間を裏切りイエズス会にすり寄るという混乱の中アダムスは必死に家康に語りかけた。この時家康は一五九八年の秀吉の死を経て豊臣政権の大老の一人として大阪城西の丸に陣取っていた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> かかる情勢下での家康の行動を時系列的に確認すると、その思慮深さに驚嘆させられる。リーフデ号漂着が四月一九日、アダムスとの最初の大阪城での面談は五月一二日で、六月一六日に会津・上杉攻めに出発するまでに三回面談している。大阪を空ければ石田三成が上杉景勝と呼応して家康追討のため挙兵すると想定しての会津攻めであった。アダムスは四二日間大阪城の牢に入れられたが、解放後家康を追って江戸へ。リーフデ号も堺から浦賀への回航を命じられ廃船前の最後の航海に出る。家康は七月二四日三成の挙兵を受け下野小山より西上、九月一五日の関ヶ原の戦いに臨んだ。この間に家康はアダムスの話を聞き世界情勢に気づく眼力を持っていた。欧州での新旧キリスト教の戦い、新興国英蘭の台頭を見抜いた。秀吉の朝鮮出兵による半島との緊張緩和への配慮にも通じる国際関係の構想力をこの人物が持っていたのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">按針と母国英国との微妙な関係</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> アダムスの日本での行動を辿ると、母国英国との微妙な関係に気付く。家康との面談でも、オランダ船で来訪したにもかかわらず英国の話に力を入れている。英国が、スペインとは戦っているが他の国とは平和な関係にあること、マゼラン海峡を越えてスペインによる妨害を避けて太平洋航路で日本に来たことを語り、家康を驚かせた。アダムスが三浦半島に所領を与えられ、サムライ三浦按針となって家康外交顧問としての影響力を高めるにつれて、英国と按針の関係は微妙になる。エリザベス一世を継いだスコットランド王ジェームズ一世期の英国は、按針のアドバイスもあり日本との交易を望む使節を送る。一六一三年六月英国船クローヴ号が平戸に到着、船長のセリースや平戸の英商館長コックスなどは日本での活動について按針に頼らざるを得ない一方、日本人化した按針には疑心暗鬼であった。按針もしたたかな面があり、英国東インド会社の職員(一六一三~一七年)として英商館に協力しつつも必ずしも英国だけに肩入れしようとはしなかった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一六〇九年九月、スペインのべラスコ大使が赴任地マニラからメキシコに帰任の途上、暴風で難破し上総岩和田で救助された。ベラスコは江戸で秀忠、駿府で家康に面談後、按針が伊東で建造した一二〇トンの船で帰国することになった。聖幸運(サンタ・ブエナベントゥーラ)号と名付けられたこの船は太平洋を往復してマニラに帰国、その後も太平洋航路を何度も往復したという。仇敵スペインの要人を助ける力にもなったのである。また御朱印船貿易の主役として東南アジアにも渡航、一六一五年にはタイに向かう途中船の修理のため琉球国那覇に約六ヵ月も滞在、「明国使節が来るから退去してくれ」と言われたという当時の日中両属国家琉球の性格を炙り出すようなエピソードを残している。按針の船には琉球国尚寧王(琉球国中山王)が同行したとの記録もあり、薩摩出兵(一六〇九年)後日本に二年間連行された尚寧王と何らかの接点があったのであろう。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一六一五年に家康が死去すると、按針への家康からの信頼が秀忠の疑心に繋がり、按針の立場も制約され始める。一六一六年秀忠は貿易制限令を出し、貿易港を長崎・平戸に限定。按針は海に還りタイやベトナムへ渡航、商人として活動を続けるが、一六二〇年五月平戸で死去、五五歳であった。遺産の半分は英国の妻子へ、半分は日本人妻雪との間の子という遺言書が残された。この年英国から一二年間オランダに亡命していた清教徒がメイフラワー号で大西洋を渡った。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;"><b>エラスムスとは何かーーー近代的知性の先駆者</b></span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 元々リーフデ号はエラスムス号と名付けられ船尾にはエラスムスの木像が飾られていた。この木像の数奇な運命は筆舌に尽し難いものがある。リーフデ号の損傷が激しく、浦賀で解体の後木像は行方不明になっていたが、三〇〇年の時を経て栃木県佐野の寺、龍江院で発見された。江戸期、ここは旗本牧野成里に始まる牧野氏の領地で、この人物が幕府の砲術の筒方役だったため按針との縁で入手したらしい。「朝鮮伝来の貨狄様」として大正期まで保存されてきたこの像は一九二四年のバチカン世界宗教博覧会に「聖人像」として出展、その後エラスムス像と分かって一九三六年にはロッテルダムで「エラスムス四〇〇年祭」にも出展され、里帰りしている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">何故船尾を飾る像がエラスムスだったのか。当時、新造船には聖人や賢人の像を掲げる慣習があったためで、オランダでいかに彼が尊敬されていたかを物語っている。エラスムス(一四六九~一五三六年)は、欧州の知的世界にインパクトを与えた人文主義の先駆者で、北方ルネサンスの巨星であった。沓掛良彦の『エラスムス 人文主義の王者』(岩波現代全書、二〇一四年)など関連文献を素材にこの人物を確認しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">彼は一四六九年、当時ブルゴーニュ公国の一部だったネーデルランドのロッテルダムで聖職者の私生児として生まれた。エラスムスは聖エラスムスに由来する洗礼名で、成人後自らはデシデリウスと名乗ったという。両親を疫病で亡くし、後見人の勧めで一八歳で修道院に入り、神学、ラテン語の勉学に打ち込み知の基盤を構築した。人間として覚醒し始めたのは一四九五年に二六歳でパリ大学のモンテーギュ学寮を体験してからであった。学寮長の過酷で非人間的教育環境下で神学研究を続けるうちに、彼の思想の基軸である「ヒューマニズム」に目覚めた。「空飛ぶオランダ人」といわれるほど英・仏・蘭を飛び回り、トマス・モアなど当時の欧州知識人と交流、近代的知性の台頭に刺激を与えた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「一六世紀はエラスムスの世紀」という言葉があるが、このことはルターとの関係を視界に入れると分かりやすい。宗教改革の主導者ルターは一四八三年生まれで、エラスムスは一八歳年長で、カトリックの中世的権威主義に対し覚醒した知性で固定観念をうち壊すという意味でエラスムスは先駆者であった。形式や虚構に埋没することなく原典である「聖書」に還るという姿勢は、エラスムスの『格言集』(一五〇〇年)や風刺文学の傑作『痴愚神礼賛』(一五〇九年)などを通じ、ルターも大きな刺激を受けた。「エラスムスが卵を産みルターが孵した」という言葉は的確だと思うが、両者の関係は複雑である。一五一九年にルターはエラスムスに支援を求める手紙を送り「キリストにおける小さな弟」とまで頭を下げたが、エラスムスは急進化・暴力化する宗教改革と距離をとり、寛容と融和を語り続けた。ルターは失望し、一五二五年にはエラスムス批判を鮮明にした。ルター派と反宗教改革のカトリックの挟撃に会い、その煮え切らぬ態度は「エラスミスム」(エラスムス的態度)として宗教改革の熱狂の中で孤立していく。こうした評価がリーフデ号に改名された事情に繋がると思われる。カトリックのスペインにとってエラスムスは宗教改革の憎むべき起爆剤であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">戦う宗教者ルターが人間の自由意思を否定し神の恩寵によってのみ原罪は救われるとするのに対しエラスムスはあくまでも狂信と熱狂を排し人間の可能性を肯定する合理的知性の人であった。平和論の古典『平和の訴え』(一五一七年)を読むと愛と平和を望む民衆の力を呼びかける近代に先駆したその知性に心打たれる。戦争に飽くことのない権力者への憤りを込め人間が殺戮し合う愚かさを説き続ける「醒めた人」であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">一六〇〇年に知の巨人の像が日本に来ていた事実、またエラスムスとは何者かを知ることなくその像が「朝鮮伝来の秘仏」として北関東の寺に三〇〇年以上眠っていたという事実は近世から近代にかけての日本と西欧の位相を象徴している。木像は現在国立博物館に重要文化財として保存されている。木像の人物が手にする巻物に一部不鮮明だが「</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">ER</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">AS</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">UMUS</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">R</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">O</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">TE</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">(</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">RDA</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">)</span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">M</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;"> </span></span><span lang="EN-US" style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">1598</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">」と刻まれ、不思議な感慨が込み上げる。</span></span></span></span></span></p> <p> </p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年5月号 脳力のレッスン169 プロイセン主導の統合ドイツに幻惑された明治日本 ―一七世紀オランダからの視界(その36) 2016-12-01T05:32:30+09:00 2016-12-01T05:32:30+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1302-nouriki-2016-5.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「ドイツといえばプロイセン」という固定観念が日本人にはこびり付いている。プロイセン主導の統一が実現したのが明治四(一八七一)年、明治日本の国家形成にとって新興国ドイツの中核となったプロイセンは魅力的なモデルとなり日本近代史に大きな影響を与えた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">プロイセン主導のドイツ統合とはなにか</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> <span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;">セバスチャン・ハフナーの『プロイセンの歴史――伝説からの解放』(一九七九年、邦訳魚住昌良監訳、東洋書林、二〇〇〇年)はプロイセンなる存在を考察する上で示唆的である。ハフナーは対照的な二つの伝説、すなわち「黄金のプロイセン伝説」(ドイツ統一の使命を担ったプロイセンという見方)と「黒いプロイセン伝説」(略奪的な軍事国家プロイセンという見方でフリードリヒ大王、ビスマルクをヒトラーの先駆者とする)の双方を否定し、神聖ローマ帝国の衰退がプロイセンの台頭をもたらし、ドイツ的使命を押し付けた経過を、説得力を持って検証している。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> プロイセンの歴史は一二世紀以来のドイツ諸侯による宗教的騎士団(ドイツ騎士修道会)の東方植民運動に遡ることができる。ドイツ騎士団はバルト海沿岸に迫りプロイセン人の地を征服、騎士団長ホーエンツォレルン家の下にプロイセン公国を設立、一二二六年にプロイセン人の領土の統治権が与えられた。背景には一一世紀末から二〇〇年に亘る「十字軍の時代」があり、ドイツ騎士団のプロイセン侵攻は正に「北に向かった十字軍」であり残虐な征服戦であった。このプロイセン公国が一七世紀にブランデンブルク選帝侯国と合体、プロイセンの母体となる。つまり非ドイツ的地域を侵攻・征服したドイツ騎士団のDNAがプロイセンの基本性格といえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> さて、このドイツ騎士団だが、一一九九年にローマ教皇によって公認された軍事修道会で、淵源は十字軍を機に一一一九年にフランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンが結成した修道会がエルサレム王ポードアン二世から「ソロモン神殿の警護と巡礼者の守護」という使命を与えられ、神殿騎士団(テンプル騎士団)と呼ばれる武装された修道会が生まれたことにある。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">三〇年戦争を経て、神聖ローマ帝国が後退するプロセスを通じてプロイセンは絶対主義国家体制を構築していく。先駆者フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(在位一六四〇~八八年)は宗主国ポーランドからの自立を図り、常備軍体制を整備していった。一七〇一年には公国から王国に昇格、初代国王としてブランデンブルク選帝国王のフリードリヒ一世が即位した。三〇年戦争後のドイツは戦争による荒廃と消耗によって人口が半減した地域もあったというが、そうした状況の中で、建前上は一八〇六年まで存続し続けた神聖ローマ帝国の下、最上位は選定候国、つまり金印詔勅の七国とバイエルン(一六二三年)、ハノーヴァー(一六九二年)を加えた九国を中核として約三〇〇もの領邦国家と帝国都市が分立していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">神聖ローマ帝国の研究者菊池良生は、三〇年戦争の終結点たるウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とするならば、その後も名称だけとはいえ存続しつづけた帝国の「埋葬許可書」と、一八〇六年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ二世による神聖ローマ帝国の解散勅令を表現している(『神聖ローマ帝国』、講談社現代新書、二〇〇三年)。ナポレオンとの戦争に敗れ、西・南部の領邦国家がフランスを後ろ盾とする「ライン同盟」として帝国から離脱するのを受け、自らをオーストリア帝国の初代皇帝フランツ一世とすることで延命した。以後、ドイツはプロイセンとオーストリアの綱引きの中で次第にプロイセン主導の統一へと向かっていく。一度はナポレオンに敗れたプロイセンだがロシアとの同盟で反撃(一八一三年)、ウィーン会議(一八一五年)を経て国家体制を整備し、普墺戦争(一八六六年)、普仏戦争(一八七〇年)に勝利して一気にオーストリアを排除する形でドイツ統合を実現する。日本がドイツに出会うのは正にその頃である。ただし単純な「プロイセンとオーストリア・ハプスブルクの二元対立」の結末ではなく神聖ローマ帝国を形成してきた中邦諸国のザクセン、バイエルン、ヴェルテンベルク、ナッサウなどの領邦国による第三軸形成の動き(一八五九年の「ヴュルツブルク連合」)など自邦の自主・独立にこだわる諸国が蠢き今日に至るまでこれがドイツのDNAになっているとさえいえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">ドイツ統合の日本近代史へのインパクト</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;">長崎の出島でオランダ東インド会社を通じて西欧世界と交易していた江戸期、実はオランダ人を装い多くのドイツ人が日本を訪れていた。領邦国家群として分立していたドイツにとって、世界へとつながる回廊はオランダであった。また、キリシタン禁制下の日本にとって神聖ローマ帝国はキリスト教共同体の幻影であり、ドイツ人たちは宗教的には無色透明を装いオランダ人として日本に現れたのである。阿部謹也はで一七世紀のドイツについ</span></span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">て「新しい経済的状況に対応して発展していく兆しは見られたが、全体としては領邦国家の枠組みに縛られて、オランダやイギリス、フランスのような発展は阻まれていた」と述べ(『物語ドイツの歴史』、中公新書、一九九八年)、オランダについては「市民と自由農民による協力の下で、国民の力が結集されていた」と指摘、領邦国家に分割されていたドイツにとってライン川の下流のオランダは世界への窓口、いわば「出島」だったのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">この連載でも論及してきたシーボルト(連載29「蘭学の発展とシーボルト事件の背景」)は、南独バイエルンの出身で、ドイツで医学・薬学・植物学などを身に着け、二六歳でオランダに赴き、「蘭領東インド陸軍一等外科医少佐」として一八二二年にアジアに発った。この少し前、オランダはナポレオン侵攻によって一時フランスに併合され、国家として消滅していたが、英国に亡命していたウィレム一世率いる王国として一八一三年に再建、アジアにおけるオランダの優位を確立すべく、日本研究の特命を受けての来日であった。「鎖国」という言葉の由来にもなった『日本誌』を残したケンペルもドイツ人であることも本連載で「モンタヌスとケンペルの『日本誌』」で触れた。また一六四九年に出島に来て「カスパル流紅毛外科医術」の開祖となった外科医カスパール・シャームベルゲンも、一六三五年来日の砲術家ブラウンもドイツ人であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 幕末に至り日本人もオランダの背後にあるドイツの存在に気付き始めた。一八六〇年九月、オイレンブルク伯(後のプロイセン内相)を正使とするプロイセン艦隊が江戸湾に来航。幕府は一八六一年一月、プロイセンとの修好通商条約を締結した。外国奉行堀織部正利煕をはじめ幕府側交渉団は統一前のドイツの領邦国家分立という複雑さが理解できず、プロイセンが要求した北ドイツの諸国それぞれとの条約締結に当惑し攘夷論吹き荒れる世情の中堀が割腹自殺する事態が生じた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 一八六二(文久二)年、幕府は竹内下野守を正使とする使節を欧州に派遣、一行は約一</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">年をかけて仏、英、蘭、プロイセン、露、ポルトガルを歴訪した。パリ、ロンドンをチョンマゲ帯刀で動いた三八人の侍の抱腹絶倒の異文化体験については拙著『若き日本の肖像――一九〇〇年、欧州への旅』(新潮文庫)で触れた。オランダとは出島で二〇〇年以上もの通商を重ねた日本だが、正式の日本使節が訪れたのはこれが初めてであった。この使節に翻訳方御雇として福沢諭吉がいた。欧州訪問から四年後の一八六六年、つまり幕府崩壊の前年に彼は『西洋事情』の初編を著し、「欧羅巴にて文学の盛なるは普魯士(プロイセン)を以て第一とす。国内の人民大抵、字を知らざる者なし。別林(ベルリン)には獄屋の内にも学校を設け、三、四日毎に罪人を出して教授す」と述べる。また福沢は『西洋事情』の二編・巻三(一八七〇年)でナポレオンが「千七百九十五年、和蘭を伐ち、一挙して全国を滅し」と記述しており、日本人として最も早く「オランダという国が消滅していた期間があったという事実」に気付いた一人といえる。   </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">蘭学を通じて「西洋文明の中心」と認識していたオランダへの軽い失望がドイツへの過大評価につながっていく。維新政府は明治維新後間もない一八七一(明治四)年一二月から七三年九月までの二一か月間、米欧一一国を歴訪する「岩倉使節団」の派遣を決める。太政官岩倉具視を正使、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文を副使とし、明治近代化の方向を決定づける使節であった。主眼は国家建設のための欧米事情の視察と幕末に結ばれた不平等条約の改正にあり、米・英・仏が主たる訪問先であったが、結果としてドイツでの見聞に深い感銘を受けることになった。維新後の国造りを主導した大久保は「ビスマルク、モルトケと出会えたことが今回の旅の唯一の成果」という言葉を帰国直前の手紙で述べているが、一行のベルリン滞在中になされた晩餐会での「鉄血宰相ビスマルク」の演説には心を揺さぶられたのである。ビスマルクはプロイセンが弱小国だった少年時代の思い出から語り始め、国際関係の現実は弱肉強食であると、「万国公法」よりも自立自尊を目指す「国力増強」こそが重要であると熱く語った。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一八八一(明治一四)年、大隈重信が提出した英国流の議院内閣制の採用を主張する憲法意見書を否定する形でドイツに範をとった憲法制定の方針が確認され、その準備のため伊藤博文が一八八二年から八三年にかけドイツを再訪する。伊藤らはウィーン大学の教授だったローレンツ・シュタインの「国家学」の影響を受け、国権と民権のバランスを図る志向よりも天皇を中心とする国家行政機構の整備を重視する明治憲法を起草する指針を固めた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">司馬遼太郎は『この国のかたち』に「ドイツへの傾斜」(文春文庫、</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">三</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">巻―50所収)と題する論稿を寄せ、「ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい――市民精神の未熟な――国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した」と述べる。的確な捉え方であり、フランス革命のような市民主導の民主主義やピューリタン革命を経た英国の立憲君主制はどうしても理解できなかったのである。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">石附実の『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、一九七二年、中公文庫版、一九九</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">二年)によれば、文部省派遣留学生(明治八~三〇年までの官費留学生)の合計一五九名の内一〇四名(六五%)が、また明治期の陸軍からの留学生の半分以上がドイツに向かった。森鷗外もその一人である。これだけお世話になったドイツに対し日本は、第一次大戦の開戦に際してその山東権益を奪い取るため襲い掛かった。理由は「大英帝国との同盟責任」、つまり集団的自衛権の発動であった。ビスマルクの演説を岩倉使節一行が感銘深く聞いてから四二年後であった。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">日本近代史の失敗は、ドイツ史の深層を理解しないまま、台頭するプロイセン主導の第</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">二帝政の影響を受け、「科学技術の先進性と民主政治の後進性」というドイツ的特質を抱え</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">込みすぎたことに淵源がある。私が主宰する寺島文庫は九段下にあるが、九段坂を靖国神</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">社方向に登ると坂の左側に三体の銅像が立つ。九段下交差点の交番の裏に平田東助像。米</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">沢藩士で岩倉使節の随員、その後ドイツに留学し政治学・法学を学び、法制局長、農商務大臣、内務大臣を務めた。次に品川弥二郎像。長州藩士で松下村塾に学び、普仏戦争を視察、松方内閣内相として一八九二年の総選挙での有名な選挙干渉の主役となる。そして大山巌像。薩摩藩士で西郷隆盛の従兄弟、やはり普仏戦争を視察しドイツに留学。初代陸相として一一年間務め、日清・日露戦争を主導した。つまり何故かドイツ帰りの明治の国造りを牽引した人物が坂を見下ろすのである。</span></span></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> </span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">「ドイツといえばプロイセン」という固定観念が日本人にはこびり付いている。プロイセン主導の統一が実現したのが明治四(一八七一)年、明治日本の国家形成にとって新興国ドイツの中核となったプロイセンは魅力的なモデルとなり日本近代史に大きな影響を与えた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="color: #008000; font-size: 12pt;"><strong><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif;">プロイセン主導のドイツ統合とはなにか</span></strong></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> <span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;">セバスチャン・ハフナーの『プロイセンの歴史――伝説からの解放』(一九七九年、邦訳魚住昌良監訳、東洋書林、二〇〇〇年)はプロイセンなる存在を考察する上で示唆的である。ハフナーは対照的な二つの伝説、すなわち「黄金のプロイセン伝説」(ドイツ統一の使命を担ったプロイセンという見方)と「黒いプロイセン伝説」(略奪的な軍事国家プロイセンという見方でフリードリヒ大王、ビスマルクをヒトラーの先駆者とする)の双方を否定し、神聖ローマ帝国の衰退がプロイセンの台頭をもたらし、ドイツ的使命を押し付けた経過を、説得力を持って検証している。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> プロイセンの歴史は一二世紀以来のドイツ諸侯による宗教的騎士団(ドイツ騎士修道会)の東方植民運動に遡ることができる。ドイツ騎士団はバルト海沿岸に迫りプロイセン人の地を征服、騎士団長ホーエンツォレルン家の下にプロイセン公国を設立、一二二六年にプロイセン人の領土の統治権が与えられた。背景には一一世紀末から二〇〇年に亘る「十字軍の時代」があり、ドイツ騎士団のプロイセン侵攻は正に「北に向かった十字軍」であり残虐な征服戦であった。このプロイセン公国が一七世紀にブランデンブルク選帝侯国と合体、プロイセンの母体となる。つまり非ドイツ的地域を侵攻・征服したドイツ騎士団のDNAがプロイセンの基本性格といえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> さて、このドイツ騎士団だが、一一九九年にローマ教皇によって公認された軍事修道会で、淵源は十字軍を機に一一一九年にフランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンが結成した修道会がエルサレム王ポードアン二世から「ソロモン神殿の警護と巡礼者の守護」という使命を与えられ、神殿騎士団(テンプル騎士団)と呼ばれる武装された修道会が生まれたことにある。</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">三〇年戦争を経て、神聖ローマ帝国が後退するプロセスを通じてプロイセンは絶対主義国家体制を構築していく。先駆者フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(在位一六四〇~八八年)は宗主国ポーランドからの自立を図り、常備軍体制を整備していった。一七〇一年には公国から王国に昇格、初代国王としてブランデンブルク選帝国王のフリードリヒ一世が即位した。三〇年戦争後のドイツは戦争による荒廃と消耗によって人口が半減した地域もあったというが、そうした状況の中で、建前上は一八〇六年まで存続し続けた神聖ローマ帝国の下、最上位は選定候国、つまり金印詔勅の七国とバイエルン(一六二三年)、ハノーヴァー(一六九二年)を加えた九国を中核として約三〇〇もの領邦国家と帝国都市が分立していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">神聖ローマ帝国の研究者菊池良生は、三〇年戦争の終結点たるウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とするならば、その後も名称だけとはいえ存続しつづけた帝国の「埋葬許可書」と、一八〇六年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ二世による神聖ローマ帝国の解散勅令を表現している(『神聖ローマ帝国』、講談社現代新書、二〇〇三年)。ナポレオンとの戦争に敗れ、西・南部の領邦国家がフランスを後ろ盾とする「ライン同盟」として帝国から離脱するのを受け、自らをオーストリア帝国の初代皇帝フランツ一世とすることで延命した。以後、ドイツはプロイセンとオーストリアの綱引きの中で次第にプロイセン主導の統一へと向かっていく。一度はナポレオンに敗れたプロイセンだがロシアとの同盟で反撃(一八一三年)、ウィーン会議(一八一五年)を経て国家体制を整備し、普墺戦争(一八六六年)、普仏戦争(一八七〇年)に勝利して一気にオーストリアを排除する形でドイツ統合を実現する。日本がドイツに出会うのは正にその頃である。ただし単純な「プロイセンとオーストリア・ハプスブルクの二元対立」の結末ではなく神聖ローマ帝国を形成してきた中邦諸国のザクセン、バイエルン、ヴェルテンベルク、ナッサウなどの領邦国による第三軸形成の動き(一八五九年の「ヴュルツブルク連合」)など自邦の自主・独立にこだわる諸国が蠢き今日に至るまでこれがドイツのDNAになっているとさえいえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><strong><span lang="EN-US" style="margin: 0px; color: #008000; font-size: 12pt;">ドイツ統合の日本近代史へのインパクト</span></strong></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS 明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;">長崎の出島でオランダ東インド会社を通じて西欧世界と交易していた江戸期、実はオランダ人を装い多くのドイツ人が日本を訪れていた。領邦国家群として分立していたドイツにとって、世界へとつながる回廊はオランダであった。また、キリシタン禁制下の日本にとって神聖ローマ帝国はキリスト教共同体の幻影であり、ドイツ人たちは宗教的には無色透明を装いオランダ人として日本に現れたのである。阿部謹也はで一七世紀のドイツについ</span></span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">て「新しい経済的状況に対応して発展していく兆しは見られたが、全体としては領邦国家の枠組みに縛られて、オランダやイギリス、フランスのような発展は阻まれていた」と述べ(『物語ドイツの歴史』、中公新書、一九九八年)、オランダについては「市民と自由農民による協力の下で、国民の力が結集されていた」と指摘、領邦国家に分割されていたドイツにとってライン川の下流のオランダは世界への窓口、いわば「出島」だったのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">この連載でも論及してきたシーボルト(連載29「蘭学の発展とシーボルト事件の背景」)は、南独バイエルンの出身で、ドイツで医学・薬学・植物学などを身に着け、二六歳でオランダに赴き、「蘭領東インド陸軍一等外科医少佐」として一八二二年にアジアに発った。この少し前、オランダはナポレオン侵攻によって一時フランスに併合され、国家として消滅していたが、英国に亡命していたウィレム一世率いる王国として一八一三年に再建、アジアにおけるオランダの優位を確立すべく、日本研究の特命を受けての来日であった。「鎖国」という言葉の由来にもなった『日本誌』を残したケンペルもドイツ人であることも本連載で「モンタヌスとケンペルの『日本誌』」で触れた。また一六四九年に出島に来て「カスパル流紅毛外科医術」の開祖となった外科医カスパール・シャームベルゲンも、一六三五年来日の砲術家ブラウンもドイツ人であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 幕末に至り日本人もオランダの背後にあるドイツの存在に気付き始めた。一八六〇年九月、オイレンブルク伯(後のプロイセン内相)を正使とするプロイセン艦隊が江戸湾に来航。幕府は一八六一年一月、プロイセンとの修好通商条約を締結した。外国奉行堀織部正利煕をはじめ幕府側交渉団は統一前のドイツの領邦国家分立という複雑さが理解できず、プロイセンが要求した北ドイツの諸国それぞれとの条約締結に当惑し攘夷論吹き荒れる世情の中堀が割腹自殺する事態が生じた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;"> 一八六二(文久二)年、幕府は竹内下野守を正使とする使節を欧州に派遣、一行は約一</span></span><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">年をかけて仏、英、蘭、プロイセン、露、ポルトガルを歴訪した。パリ、ロンドンをチョンマゲ帯刀で動いた三八人の侍の抱腹絶倒の異文化体験については拙著『若き日本の肖像――一九〇〇年、欧州への旅』(新潮文庫)で触れた。オランダとは出島で二〇〇年以上もの通商を重ねた日本だが、正式の日本使節が訪れたのはこれが初めてであった。この使節に翻訳方御雇として福沢諭吉がいた。欧州訪問から四年後の一八六六年、つまり幕府崩壊の前年に彼は『西洋事情』の初編を著し、「欧羅巴にて文学の盛なるは普魯士(プロイセン)を以て第一とす。国内の人民大抵、字を知らざる者なし。別林(ベルリン)には獄屋の内にも学校を設け、三、四日毎に罪人を出して教授す」と述べる。また福沢は『西洋事情』の二編・巻三(一八七〇年)でナポレオンが「千七百九十五年、和蘭を伐ち、一挙して全国を滅し」と記述しており、日本人として最も早く「オランダという国が消滅していた期間があったという事実」に気付いた一人といえる。   </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">蘭学を通じて「西洋文明の中心」と認識していたオランダへの軽い失望がドイツへの過大評価につながっていく。維新政府は明治維新後間もない一八七一(明治四)年一二月から七三年九月までの二一か月間、米欧一一国を歴訪する「岩倉使節団」の派遣を決める。太政官岩倉具視を正使、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文を副使とし、明治近代化の方向を決定づける使節であった。主眼は国家建設のための欧米事情の視察と幕末に結ばれた不平等条約の改正にあり、米・英・仏が主たる訪問先であったが、結果としてドイツでの見聞に深い感銘を受けることになった。維新後の国造りを主導した大久保は「ビスマルク、モルトケと出会えたことが今回の旅の唯一の成果」という言葉を帰国直前の手紙で述べているが、一行のベルリン滞在中になされた晩餐会での「鉄血宰相ビスマルク」の演説には心を揺さぶられたのである。ビスマルクはプロイセンが弱小国だった少年時代の思い出から語り始め、国際関係の現実は弱肉強食であると、「万国公法」よりも自立自尊を目指す「国力増強」こそが重要であると熱く語った。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="color: #000000;">一八八一(明治一四)年、大隈重信が提出した英国流の議院内閣制の採用を主張する憲法意見書を否定する形でドイツに範をとった憲法制定の方針が確認され、その準備のため伊藤博文が一八八二年から八三年にかけドイツを再訪する。伊藤らはウィーン大学の教授だったローレンツ・シュタインの「国家学」の影響を受け、国権と民権のバランスを図る志向よりも天皇を中心とする国家行政機構の整備を重視する明治憲法を起草する指針を固めた。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">司馬遼太郎は『この国のかたち』に「ドイツへの傾斜」(文春文庫、</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">三</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">巻―50所収)と題する論稿を寄せ、「ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい――市民精神の未熟な――国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した」と述べる。的確な捉え方であり、フランス革命のような市民主導の民主主義やピューリタン革命を経た英国の立憲君主制はどうしても理解できなかったのである。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">石附実の『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、一九七二年、中公文庫版、一九九</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">二年)によれば、文部省派遣留学生(明治八~三〇年までの官費留学生)の合計一五九名の内一〇四名(六五%)が、また明治期の陸軍からの留学生の半分以上がドイツに向かった。森鷗外もその一人である。これだけお世話になったドイツに対し日本は、第一次大戦の開戦に際してその山東権益を奪い取るため襲い掛かった。理由は「大英帝国との同盟責任」、つまり集団的自衛権の発動であった。ビスマルクの演説を岩倉使節一行が感銘深く聞いてから四二年後であった。</span></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 10pt;"><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">日本近代史の失敗は、ドイツ史の深層を理解しないまま、台頭するプロイセン主導の第</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">二帝政の影響を受け、「科学技術の先進性と民主政治の後進性」というドイツ的特質を抱え</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">込みすぎたことに淵源がある。私が主宰する寺島文庫は九段下にあるが、九段坂を靖国神</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">社方向に登ると坂の左側に三体の銅像が立つ。九段下交差点の交番の裏に平田東助像。米</span></span><span style="margin: 0px;"><span style="color: #000000;">沢藩士で岩倉使節の随員、その後ドイツに留学し政治学・法学を学び、法制局長、農商務大臣、内務大臣を務めた。次に品川弥二郎像。長州藩士で松下村塾に学び、普仏戦争を視察、松方内閣内相として一八九二年の総選挙での有名な選挙干渉の主役となる。そして大山巌像。薩摩藩士で西郷隆盛の従兄弟、やはり普仏戦争を視察しドイツに留学。初代陸相として一一年間務め、日清・日露戦争を主導した。つまり何故かドイツ帰りの明治の国造りを牽引した人物が坂を見下ろすのである。</span></span></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> </span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年4月号 脳力のレッスン168 ドイツ史の深層とオランダとの交錯― 一七世紀オランダからの視界(その35) 2016-10-25T05:11:17+09:00 2016-10-25T05:11:17+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1299-nouriki-2016-4.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="font-size: 10pt;"> オランダを「低地国」(Low Countries)と表現することがある。「国土の二六%が海抜ゼロ以下」といわれるが、確かにスイス・アルプスに源を発しボン、ケルン、デュッセルドルフとドイツ主要都市を流れる全長一二三三kmの大河ラインの河口に形成された低地帯に存在する国なのである。英語のDutchはもちろんオランダの意だが、俗語的にはドイツを意味することもある。つまりドイツ系というイメージがオランダ人に寄せられ、事実オランダはライン川を遡った地域との交流によって歴史を重ねてきた。後述のごとく、オランダが正式に神聖ローマ帝国から離脱したのは一六四八年のウェストファリア条約からであり、ブルゴーニュ公国がハプスブルク家の所領となった一四八二年以降一六六年間ドイツの原型ともいえる神聖ローマ帝国に組み入れられていたわけで、オランダの考察にはドイツを視界に入れることが不可欠である。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ドイツがドイツ帝国として統一されたのは一八七一年、日本では明治四年のことであった。この第二帝政、プロイセン主導の統一ドイツに日本近代史は大きな影響を受けた。「大日本帝国」のモデルである。だが、第二帝政の伏線となった第一帝政、すなわち神聖ローマ帝国の挫折という歴史を理解せぬままの模倣が日本近代史の失敗につながったともいえる。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong><span style="color: #339966;">ドイツとは何なのか―神聖ローマ帝国という擬制</span></strong></span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 10pt;">フランス人アンドレ・モロワの『ドイツ史』(一九六五年、邦訳桐村泰次、論創社、二〇一三年)は、「ドイツの歴史を書くことは困難な試みである。というのは、ドイツは一度も確たる国境線も、一つの安定した中心も持ったことがないからである」で始まる。確かに、一九世紀に至るまで統一されたことのないドイツという存在を論ずることは容易ではない。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ドイツの原点は「ヨーロッパの父」フランク王国のカール大帝(七四二~八一四年)が西ローマ帝国を復活させ、英国を除く今日のEUに匹敵する空間を支配したことに遡る。三九五年にローマ帝国が東西に分裂、四七六年に西ローマ帝国が滅亡して以来混迷を続けていた西ヨーロッパだったが、八〇〇年にカール大帝がローマ教皇レオ三世から皇帝位を授けられ、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という秩序枠が形成された。だが、そのフランク帝国もカール大帝の孫たる三人の兄弟によってあっけなく三分割(ヴェルダン条約、八四三年)され、その一つ「東フランク王国」がドイツの原型といえる。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">その後紆余曲折を経て、ドイツの歴史に埋め込まれた世界史の謎ともいうべき「神聖ローマ帝国」の登場を迎える。その淵源は、九六二年にドイツ王オットー一世がローマ教皇ヨハネス一二世より「皇帝」位を授かったことにある。皇帝とは諸王の中の王という意味で、ドイツ的伝統でもある諸侯による地域特権の割拠を束ねる上で宗教的権威を必要としたのである。かのヴォルテールは「神聖でもなければ ローマ的でもなく そもそも帝国でもない」と言い放ったが、確かに明確な境界も単一の言語も特定の国民も持たないまま、千年近く中央ヨーロッパを支配した「擬制としての神聖ローマ帝国」を理解することは容易ではない。一〇世紀に皇帝称号が登場したものの、「神聖ローマ帝国」の国号が公式文書に登場したのは一二五四年である。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">また、帝国としてのシステムが明確になったのは一三五六年で、カール四世により「金印勅書」が出され、皇帝選挙規定と帝国議会規定が定められ、皇帝を選ぶ選帝候としてマインツ、ケルン、トリーアの聖職諸侯とボヘミア、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの俗諸侯の七選帝候が定められた。正式呼称として「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」が登場したのは一五一二年で、ケルン帝国議会においてである。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> この間一一世紀末からの約二〇〇年間が所謂十字軍の時代であった。セルジューク朝の勢力拡大に対してビザンツ皇帝からローマ教皇に救援要請があり、クレルモン宗教会議(一〇九五年)で「聖地回復の義務」が宣言され、欧州は憑りつかれたように五回にわたりエルサレムを目指した。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">神聖ローマ帝国形成期のドイツも、一一九〇年に第三回十字軍を率いたフリードリヒ一世が遠征中の小アジアで溺死したり、一二二八年に第五回十字軍で遠征したフリードリヒ二世は病のため帰還し教皇グレゴリウス九世によって破門され、破門のまま再遠征してエルサレムを制圧、エルサレム王になるなど様々な悲喜劇を生んだ。十字軍への参戦は現代的視界からは壮大な徒労に映るが、キリスト教共同体を率いるという神聖ローマ帝国のアイデンティティーを高める過程だったともいえる。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"> <strong><span style="color: #339966;">宗教改革という大波とドイツ史―領邦国家の分立</span></strong></span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 10pt;">神聖ローマ帝国にとっての大きな衝撃は宗教改革であった。一五一七年、大学の神学教授マルティン・ルターが「九五箇条の論題」をヴィッテンベルク城の礼拝堂の扉に張り出した。ルターが放った火は燎原の火のごとく燃え広がり、瞬く間に神聖ローマ帝国を揺るがす存在となった。ザクセン選帝候フリ-ドリヒ三世は敬虔なカトリックであったが、ローマ教皇や皇帝カール五世の再三の引き渡し要求にもかかわらず、ルターをヴァルトブルク城に匿い通した。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">この時「聖書中心主義」に立つルターが、それまでラテン語の定本のみだったドイツ語訳聖書を完成させたこと(一五二二年出版)が宗教改革を勢いづけた。一五世紀半ばのグーテンベルクによる印刷技術革命で文書の大量配布が可能となり、ルター訳のドイツ語聖書は瞬く間に多くの人の目に触れることになった。「九五箇条の論題」からわずか一二年後、一五二九年の帝国議会においてルターを支持する五人の諸侯と一四の都市が、帝国を率</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">いていたカール五世の強圧的な異端根絶の姿勢に強く抗議する(プロテスト)という事態が起った。プロテスタントの語源はここにある。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">翌年にはこれらの新教諸侯は軍事同盟を結び、神聖ローマ帝国への圧力を高めていった。その後、神聖ローマ帝国はオスマン帝国の脅威に直面して新教諸侯への譲歩を余儀なくされ、一五五五年のアウクスブルクの宗教和議に至る。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">和議の原則は「領主の宗教は領民の宗教」で、静かに皇帝権の衰退が始まったといえる。和議は実現したものの、和議の対象だったルター派とは別にカルヴァン派も北ドイツにかけて勢力を拡大していく。カトリックと新教諸侯の対立は深まり、バイエルン候を担ぐ旧教徒連盟(リーグ)とプファルツ選定候を盟主とする新教徒連合(ユニオン)という軍事同盟が相対峙する。こうした緊張を背景に、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世が皇帝権再確立を狙って三〇年戦争(一六一八年~四八年)を主導したのである。三〇年戦争は四段階で、全欧州を巻き込む戦争へと拡大していく。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">第一段階はボヘミア戦争(一六一八~二三年)で、スペイン軍の支援を得た皇帝軍はユニオンの盟主プファルツ選帝侯を破った。自信を深めた皇帝は傭兵隊長ヴァレンシュタインを総司令官に擁してデンマーク王クリスチャン四世を駆逐。これが第二段階のデンマーク戦争(一六二五~二九年)である。皇帝は勝利に増長、「回復勅令」を出して新教諸侯に没収された教会領のカトリック側への返還を命じた。皇帝権の強大化に危機感を抱いた諸侯は皇帝を支えるはずの選帝侯団を含めて強く反発、ハプスブルクの勢力拡大を警戒するフランスの支援を受けてスウェーデンがプロテスタント救済を名目に参戦。フェルディナント二世がバルト海に艦隊を建造しバルト海のスウェーデンの覇権を脅かそうとしたことへの反発でもあった。これが第三段階のスウェーデン戦争(一六三〇~三五年)である。三〇年戦争は性格を変え宗教戦争から皇帝権の拡大を抑制しようとする周辺国を巻き込む政治権力抗争となっていった。国王グスタフ・アドルフに率いるスウェーデン軍は三〇年戦争最大の会戦プライテンフェルトの戦いに勝利し皇帝軍を追い詰めるが、翌一六三二年に王が不慮の戦死、戦況は膠着に向かった。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">そして仏の直接参戦で第四段階、フランス戦争の局面を迎える。カトリックの仏が新教諸侯を支援して介入る構図は分かりにくいが、フランスにとって神聖ローマ帝国が強大な教皇権を握る中央集権国家に改造されることは脅威であり、国王ルイ一三世の下宰相リシュリューはデンマーク、スウェーデンに軍資金を提供、三〇年戦争の影の介入者であった。それがついに直接参戦に動き、戦況はさらなる膠着状態を迎え、引き金を引いたフェルディナント二世は一六三七年に、リシュリューも一六四二年に死去。両陣営ともに厭戦気分が高まり和平に動きが始まった。その帰結がウェストファリア条約である。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"> <span style="color: #339966;"><strong>オランダの正式の独立としてのウェストファリア条約</strong></span></span></p> <p> </p> <p> <span style="font-size: 10pt;">条約に向けた和平会議はヨーロッパ最初の国際会議である。一六四四年に始まった交渉が終結したのは一六四八年、ヴェネチアやポルトガルを含む欧州諸国とドイツ諸邦の君主一九四人と全権委任者一七六名が参加する大会議であった。条約にはドイツ諸邦など六六か国が署名、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」という表現があるがハプスブルク家はオーストリアに封じ込められフェルディナンド三世は父フェルディナンド二世が夢見た「皇帝権の強化と絶対王政化」を諦め世襲領に限定された王となった。「領主の宗教が領民の宗教」の原則が再確認され、この条約こそが神聖ローマ帝国という大仰な「宗教的権威」の呪縛からの政治の解放であり、「勢力均衡」という近代国際秩序の原型の構築といえる。ただし、この「第一帝政(神聖ローマ帝国)の挫折」が領邦国家の分立というドイツの分断を存続させ、やがてビスマルクの第二帝国、さらにヒトラーによる第三帝国への挑戦につながる下絵ともなっていく。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> この条約の「勝ち組」と表現するならば、ハプスブルクの野望を封じ込めドイツの分断を成功させたフランスとスウェーデン、また正式の独立を確認したオランダもそうかもしれない。オランダが一五六八年にスペインに対する独立戦争に踏み込んだ事情は、本連載108「なぜオランダは近代の揺籃器となったか」で論じた。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">激しい戦いを経て一六〇九年に一二年間の休戦協定が成立、実質的な独立は実現した。ただし、「正式な独立」が承認されたのは一六四八年のウェストファリア条約である。厳密にいえばそれまでオランダは法的には神聖ローマ帝国の領土であり、神聖ローマ帝国と折り合いをつけねば「自立」とはならなかったのである。そして一七世紀のオランダが「自由な共和国」として生きることを可能にしたのは、隣国ドイツが領邦国家の分立として存在し、強力な統合国家となっていなかったという背景があることに気付く。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ウェストファリア条約で神聖ローマ帝国は死に体となったが、その後一五〇年間名前は残り、ナポレオン軍に敗れたフランツ二世が帝国の解散を宣言したのは一八〇六年であった。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">帝国の終焉を目撃したゲーテ(一七四九~一八三二年)は『ファウスト・第一部』(一八〇八年)で「神聖ローマ帝国が 余命保つぞ摩訶不思議」と語らせる。ファウストは一六世紀南西ドイツに実在した人文学者・錬金術師で真理探究の情熱のために悪魔に魂を売る運命が描かれている。ルターの同時代人ファウスト的人間の生き方こそ近代の苦悶の象徴である。意思する精神としての自我の探求、「我思う、故に我あり」という意思が抱え込む光と影をゲーテは見つめていた。</span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> オランダを「低地国」(Low Countries)と表現することがある。「国土の二六%が海抜ゼロ以下」といわれるが、確かにスイス・アルプスに源を発しボン、ケルン、デュッセルドルフとドイツ主要都市を流れる全長一二三三kmの大河ラインの河口に形成された低地帯に存在する国なのである。英語のDutchはもちろんオランダの意だが、俗語的にはドイツを意味することもある。つまりドイツ系というイメージがオランダ人に寄せられ、事実オランダはライン川を遡った地域との交流によって歴史を重ねてきた。後述のごとく、オランダが正式に神聖ローマ帝国から離脱したのは一六四八年のウェストファリア条約からであり、ブルゴーニュ公国がハプスブルク家の所領となった一四八二年以降一六六年間ドイツの原型ともいえる神聖ローマ帝国に組み入れられていたわけで、オランダの考察にはドイツを視界に入れることが不可欠である。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ドイツがドイツ帝国として統一されたのは一八七一年、日本では明治四年のことであった。この第二帝政、プロイセン主導の統一ドイツに日本近代史は大きな影響を受けた。「大日本帝国」のモデルである。だが、第二帝政の伏線となった第一帝政、すなわち神聖ローマ帝国の挫折という歴史を理解せぬままの模倣が日本近代史の失敗につながったともいえる。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong><span style="color: #339966;">ドイツとは何なのか―神聖ローマ帝国という擬制</span></strong></span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 10pt;">フランス人アンドレ・モロワの『ドイツ史』(一九六五年、邦訳桐村泰次、論創社、二〇一三年)は、「ドイツの歴史を書くことは困難な試みである。というのは、ドイツは一度も確たる国境線も、一つの安定した中心も持ったことがないからである」で始まる。確かに、一九世紀に至るまで統一されたことのないドイツという存在を論ずることは容易ではない。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ドイツの原点は「ヨーロッパの父」フランク王国のカール大帝(七四二~八一四年)が西ローマ帝国を復活させ、英国を除く今日のEUに匹敵する空間を支配したことに遡る。三九五年にローマ帝国が東西に分裂、四七六年に西ローマ帝国が滅亡して以来混迷を続けていた西ヨーロッパだったが、八〇〇年にカール大帝がローマ教皇レオ三世から皇帝位を授けられ、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という秩序枠が形成された。だが、そのフランク帝国もカール大帝の孫たる三人の兄弟によってあっけなく三分割(ヴェルダン条約、八四三年)され、その一つ「東フランク王国」がドイツの原型といえる。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">その後紆余曲折を経て、ドイツの歴史に埋め込まれた世界史の謎ともいうべき「神聖ローマ帝国」の登場を迎える。その淵源は、九六二年にドイツ王オットー一世がローマ教皇ヨハネス一二世より「皇帝」位を授かったことにある。皇帝とは諸王の中の王という意味で、ドイツ的伝統でもある諸侯による地域特権の割拠を束ねる上で宗教的権威を必要としたのである。かのヴォルテールは「神聖でもなければ ローマ的でもなく そもそも帝国でもない」と言い放ったが、確かに明確な境界も単一の言語も特定の国民も持たないまま、千年近く中央ヨーロッパを支配した「擬制としての神聖ローマ帝国」を理解することは容易ではない。一〇世紀に皇帝称号が登場したものの、「神聖ローマ帝国」の国号が公式文書に登場したのは一二五四年である。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">また、帝国としてのシステムが明確になったのは一三五六年で、カール四世により「金印勅書」が出され、皇帝選挙規定と帝国議会規定が定められ、皇帝を選ぶ選帝候としてマインツ、ケルン、トリーアの聖職諸侯とボヘミア、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの俗諸侯の七選帝候が定められた。正式呼称として「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」が登場したのは一五一二年で、ケルン帝国議会においてである。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> この間一一世紀末からの約二〇〇年間が所謂十字軍の時代であった。セルジューク朝の勢力拡大に対してビザンツ皇帝からローマ教皇に救援要請があり、クレルモン宗教会議(一〇九五年)で「聖地回復の義務」が宣言され、欧州は憑りつかれたように五回にわたりエルサレムを目指した。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">神聖ローマ帝国形成期のドイツも、一一九〇年に第三回十字軍を率いたフリードリヒ一世が遠征中の小アジアで溺死したり、一二二八年に第五回十字軍で遠征したフリードリヒ二世は病のため帰還し教皇グレゴリウス九世によって破門され、破門のまま再遠征してエルサレムを制圧、エルサレム王になるなど様々な悲喜劇を生んだ。十字軍への参戦は現代的視界からは壮大な徒労に映るが、キリスト教共同体を率いるという神聖ローマ帝国のアイデンティティーを高める過程だったともいえる。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"> <strong><span style="color: #339966;">宗教改革という大波とドイツ史―領邦国家の分立</span></strong></span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 10pt;">神聖ローマ帝国にとっての大きな衝撃は宗教改革であった。一五一七年、大学の神学教授マルティン・ルターが「九五箇条の論題」をヴィッテンベルク城の礼拝堂の扉に張り出した。ルターが放った火は燎原の火のごとく燃え広がり、瞬く間に神聖ローマ帝国を揺るがす存在となった。ザクセン選帝候フリ-ドリヒ三世は敬虔なカトリックであったが、ローマ教皇や皇帝カール五世の再三の引き渡し要求にもかかわらず、ルターをヴァルトブルク城に匿い通した。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">この時「聖書中心主義」に立つルターが、それまでラテン語の定本のみだったドイツ語訳聖書を完成させたこと(一五二二年出版)が宗教改革を勢いづけた。一五世紀半ばのグーテンベルクによる印刷技術革命で文書の大量配布が可能となり、ルター訳のドイツ語聖書は瞬く間に多くの人の目に触れることになった。「九五箇条の論題」からわずか一二年後、一五二九年の帝国議会においてルターを支持する五人の諸侯と一四の都市が、帝国を率</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">いていたカール五世の強圧的な異端根絶の姿勢に強く抗議する(プロテスト)という事態が起った。プロテスタントの語源はここにある。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">翌年にはこれらの新教諸侯は軍事同盟を結び、神聖ローマ帝国への圧力を高めていった。その後、神聖ローマ帝国はオスマン帝国の脅威に直面して新教諸侯への譲歩を余儀なくされ、一五五五年のアウクスブルクの宗教和議に至る。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">和議の原則は「領主の宗教は領民の宗教」で、静かに皇帝権の衰退が始まったといえる。和議は実現したものの、和議の対象だったルター派とは別にカルヴァン派も北ドイツにかけて勢力を拡大していく。カトリックと新教諸侯の対立は深まり、バイエルン候を担ぐ旧教徒連盟(リーグ)とプファルツ選定候を盟主とする新教徒連合(ユニオン)という軍事同盟が相対峙する。こうした緊張を背景に、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世が皇帝権再確立を狙って三〇年戦争(一六一八年~四八年)を主導したのである。三〇年戦争は四段階で、全欧州を巻き込む戦争へと拡大していく。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">第一段階はボヘミア戦争(一六一八~二三年)で、スペイン軍の支援を得た皇帝軍はユニオンの盟主プファルツ選帝侯を破った。自信を深めた皇帝は傭兵隊長ヴァレンシュタインを総司令官に擁してデンマーク王クリスチャン四世を駆逐。これが第二段階のデンマーク戦争(一六二五~二九年)である。皇帝は勝利に増長、「回復勅令」を出して新教諸侯に没収された教会領のカトリック側への返還を命じた。皇帝権の強大化に危機感を抱いた諸侯は皇帝を支えるはずの選帝侯団を含めて強く反発、ハプスブルクの勢力拡大を警戒するフランスの支援を受けてスウェーデンがプロテスタント救済を名目に参戦。フェルディナント二世がバルト海に艦隊を建造しバルト海のスウェーデンの覇権を脅かそうとしたことへの反発でもあった。これが第三段階のスウェーデン戦争(一六三〇~三五年)である。三〇年戦争は性格を変え宗教戦争から皇帝権の拡大を抑制しようとする周辺国を巻き込む政治権力抗争となっていった。国王グスタフ・アドルフに率いるスウェーデン軍は三〇年戦争最大の会戦プライテンフェルトの戦いに勝利し皇帝軍を追い詰めるが、翌一六三二年に王が不慮の戦死、戦況は膠着に向かった。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">そして仏の直接参戦で第四段階、フランス戦争の局面を迎える。カトリックの仏が新教諸侯を支援して介入る構図は分かりにくいが、フランスにとって神聖ローマ帝国が強大な教皇権を握る中央集権国家に改造されることは脅威であり、国王ルイ一三世の下宰相リシュリューはデンマーク、スウェーデンに軍資金を提供、三〇年戦争の影の介入者であった。それがついに直接参戦に動き、戦況はさらなる膠着状態を迎え、引き金を引いたフェルディナント二世は一六三七年に、リシュリューも一六四二年に死去。両陣営ともに厭戦気分が高まり和平に動きが始まった。その帰結がウェストファリア条約である。</span></p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"> <span style="color: #339966;"><strong>オランダの正式の独立としてのウェストファリア条約</strong></span></span></p> <p> </p> <p> <span style="font-size: 10pt;">条約に向けた和平会議はヨーロッパ最初の国際会議である。一六四四年に始まった交渉が終結したのは一六四八年、ヴェネチアやポルトガルを含む欧州諸国とドイツ諸邦の君主一九四人と全権委任者一七六名が参加する大会議であった。条約にはドイツ諸邦など六六か国が署名、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」という表現があるがハプスブルク家はオーストリアに封じ込められフェルディナンド三世は父フェルディナンド二世が夢見た「皇帝権の強化と絶対王政化」を諦め世襲領に限定された王となった。「領主の宗教が領民の宗教」の原則が再確認され、この条約こそが神聖ローマ帝国という大仰な「宗教的権威」の呪縛からの政治の解放であり、「勢力均衡」という近代国際秩序の原型の構築といえる。ただし、この「第一帝政(神聖ローマ帝国)の挫折」が領邦国家の分立というドイツの分断を存続させ、やがてビスマルクの第二帝国、さらにヒトラーによる第三帝国への挑戦につながる下絵ともなっていく。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> この条約の「勝ち組」と表現するならば、ハプスブルクの野望を封じ込めドイツの分断を成功させたフランスとスウェーデン、また正式の独立を確認したオランダもそうかもしれない。オランダが一五六八年にスペインに対する独立戦争に踏み込んだ事情は、本連載108「なぜオランダは近代の揺籃器となったか」で論じた。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">激しい戦いを経て一六〇九年に一二年間の休戦協定が成立、実質的な独立は実現した。ただし、「正式な独立」が承認されたのは一六四八年のウェストファリア条約である。厳密にいえばそれまでオランダは法的には神聖ローマ帝国の領土であり、神聖ローマ帝国と折り合いをつけねば「自立」とはならなかったのである。そして一七世紀のオランダが「自由な共和国」として生きることを可能にしたのは、隣国ドイツが領邦国家の分立として存在し、強力な統合国家となっていなかったという背景があることに気付く。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">ウェストファリア条約で神聖ローマ帝国は死に体となったが、その後一五〇年間名前は残り、ナポレオン軍に敗れたフランツ二世が帝国の解散を宣言したのは一八〇六年であった。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">帝国の終焉を目撃したゲーテ(一七四九~一八三二年)は『ファウスト・第一部』(一八〇八年)で「神聖ローマ帝国が 余命保つぞ摩訶不思議」と語らせる。ファウストは一六世紀南西ドイツに実在した人文学者・錬金術師で真理探究の情熱のために悪魔に魂を売る運命が描かれている。ルターの同時代人ファウスト的人間の生き方こそ近代の苦悶の象徴である。意思する精神としての自我の探求、「我思う、故に我あり」という意思が抱え込む光と影をゲーテは見つめていた。</span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2016年3月号 脳力のレッスン167 二〇一六年への視座―宗教とマネーゲーム 2016-08-16T06:36:44+09:00 2016-08-16T06:36:44+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2016/1291-nouriki-2016-3.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p>  ロンドン・エコノミスト誌は、今年も新年展望 “The World in 2016”を発表した。英国からみた世界展望であり、一つの見方にすぎないが、「米国を通じてしか世界を見ない」という傾向にある日本のメディア環境を考える、欧州の目線は示唆的である。私は一九八七年に創刊されたこのロンドン・エコノミスト誌の新年展望に三〇年近く目を通してきたが、この分析と展望は、同誌のシンクタンクEIU(エコノミスト・インテリジェンス・ユニット)によるデータ解析の集約点でもあり、内外の雑誌の断片的展望を並べた新年展望とは異なり、体系性において注目すべきである。日本語版が日経BPから『二〇一六年世界はこうなる』として発行されているが、二〇一五年の日本語版で「アベノミクスに厳しい評価をした日本に関する論稿」を全文削除するという不可解な面があり、できれば原文で読むことを薦めたい。<br /> 昨年の “The World in 2015” では、二〇一五年について、「指導力の欠如」「無秩序」「分断」という三つの言葉を提示していたが、確かにIS(イスラム国)なるテロリスト集団に翻弄され、恐怖の中でイスラムへの偏狭な拒絶反応を示し始めている欧米社会を見ていると、世界は混沌に向かっているように見える。<br /><br /> さて、同誌の二〇一六年の展望だが、編集長が提示したキーワードは、WOES(災禍)、WOMEN(女性)、WINS(勝利)の「三つのW」である。まず、WOESとはあまりに不気味な予見だが、無秩序を通り越していつ災いが襲ってくるかもしれない現実を象徴する言葉と言える。次のWOMENは、表紙の中心にドイツのメルケル首相、米国の大統領候補ヒラリー・クリントン、米中央銀行(FRB)のイエレン議長を並べて、「危機の時代こそ女性が活躍」という認識を提示している。WINSは、ブラジルでの五輪などスポーツの世界的イベントが予定されていることを象徴する言葉ともいえるが、重苦しい時代状況への救いを求める心理の投影でもあろう。新年早々、この新年展望、とりわけWOESはすでに現実のものとなりつつあるとさえいえる。「災い」はどこからくるのか。「宗教」と「マネーゲーム」の歪みから醸成されているようだ。<br /><br /><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: 12pt;">宗教の復権への向き合い方</span></strong></span><br /><br /> 昨年、一月、一二月と二度にわたりパリを襲ったISのテロの余燼くすぶる中、二〇一六年に入っても世界各地でテロは続き、特にドイツのケルンで発生した難民による集団暴行事件は、これに反発する極右勢力の台頭と相俟って、世界を暗澹とした気持に陥れている。苛立ちの中で、異教徒を一括りにして排除する空気が充満しているのである。米国の大統領選挙における共和党候補D・トランプが「米国にはイスラム教徒を入国させるべきではない」と発言し、一定の拍手が起こるところにまで米国も追いつめられている。それは、合衆国憲法第一条「宗教の自由」の否定であり、トランプ自身の祖父がスウェーデンからの移民であったという「移民の国アメリカ」を否定することだからである。世界は宗教という要素によって、歪んだ形で突き動かされ始めている。その意味で、戦後の国際政治に大きな影響を与えたH・キッシンジャーが近著 “World Order” (二〇一四)で示している視点は示唆的である。彼は、世界は四〇〇年ぶりの構造転換に直面しているとして、一六四八年のウェストファリア条約を持ち出している。この条約は、宗教戦争といわれた三〇年戦争と、カトリックのスペインに対するプロテスタントのオランダの八〇年におよぶ独立戦争の終結において結ばれたもので、欧州がローマ教皇という宗教的権威からの政治の解放と各国間の勢力均衡の中での共存を確認する転機となった条約である。つまり、近代国際秩序の起点となった条約であったが、それ以来の転機ということは、世界政治を動かす要素として再び「宗教」が蘇ってきたことを意味する。<br /><br /> 確かに、冷戦の終焉から二五年、イデオロギーの対立の時代は終わり、地球が一つの市場となる「グローバル化」なる時代に向かうと思っていたら、宗教とか民族といった要素が再び頭をもたげ、紛争や対立の火種となってきた。忘れがたい思い出は、昨年亡くなったドイツのシュミット元首相の言葉である。二〇〇九年五月、ベルリンのOBサミットの専門家会議に参加する機会を得、三日間、何度となく食事をしながら彼の話を聞いた。北朝鮮の脅威が話題になった時、彼は次のように言った。「北朝鮮のことなどもはや重要な話ではない。なぜなら、今の北朝鮮には世界の若者を引き付ける理念がない。かつて、カストロでもゲバラでも、強大な脅威ではなくとも若者の心を引き付ける力があり怖かった。いま最も恐れるべきはイスラムだ。コソボ紛争、イラク戦争とイスラムを血まみれにしているが、欧州にもイスラム人口が増え続け、恨みと憎しみに満ちた目で事態を見つめている。二一世紀欧州の最大の課題は、イスラムとの対話だ」 シュミットの視点は的確だったと思う。改めて、イスラム対キリスト教の歴史的関係を再考するならば、この話の根深さに慄然とする。遺恨の積み上げと敵対を通じたアイデンティティの確立の繰り返しだからである。<br /> <br /> そもそもイスラムはキリスト生誕から約六〇〇年後に、アラビア砂漠に忽然と現れたムハンマド(五七〇年頃~六三二年)なる商人出身の預言者によって開かれた宗教であり、教義においてキリストの神性を否定し、自らを唯一の絶対神の下の「預言者」として、モーゼ、キリストと同列に置いた。コーランにおいてキリストの三位一体性を否定し(第五章七六~七九節)、当時キリストなる存在(神なのか人なのか)を巡り混乱していたキリスト教側の事情を背景に登場してきたイスラムは、キリスト教にすれば「神の子キリスト」を否定して「キリストも一個の使徒(預言者)」とする「怪しげで不快な仇敵」となった。<br />登場からわずか一〇〇年で、ビザンツ帝国を中東から追い払ったイスラムは征服軍となって欧州に迫った。ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラムが七一五年にはイベリア半島を制圧し、七三二年にはピレネーを超えフランク王国と衝突する。これが第一の衝突である。この時、欧州はイスラムの脅威を目前にして「キリスト教共同体」としての自覚を高めた。<br />イスラム史を貫く特色として気付くのは、預言者ムハンマド自身が弾圧を跳ね返して、六三〇年に一万の軍勢を率いてメッカ征服を成し遂げたごとく、宗教的権威(神の使徒)と政治的権力(イスラム共同体・ウンマの統治)が一体となって動くことであり、征服(ジハード)へ向かう衝動を内在させていることである。わずか一世紀でペルシャからイラク、シリア、北アフリカ、イベリア半島を一気に制圧した理由はここにある。このことは、今日、ISなる存在が、国家を称して唐突に現れる伏線になっている。<br /><br /> 二回目の衝突が一一世紀末から約二〇〇年にわたる十字軍である。アナトリアのセルジューク朝の勢力拡大に対するビザンツ皇帝からローマ教皇への救援要請を受け、一〇九五年のクレルモン宗教会議で「聖地回復の義務」が宣言され、一二二一年の第五回まで、エルサレムを目指し熱病のごとくくりかえされた十字軍は、キリスト教・イスラムの相互にとって「敵対心とアイデンティティ」を増幅する埋め絵となった。<br /> 三回目の衝突が、オスマン帝国と欧州の血みどろの戦いである。イベリア半島における「国土回復運動」が、一四九二年にはグラナダの陥落をもたらし、欧州からイスラムを撤退させたものの、オスマン帝国の脅威は厳然と存在した。大航海時代とは、中東におけるイスラムの壁を迂回してインド・アジアにアプローチする欧州の苦闘でもあった。一五二九年と一六八三年、神聖ローマ皇帝の居城で当時の欧州の中ともいえたウィーンがオスマンの軍勢に二度包囲され、陥落寸前に追い込まれた。欧州のトラウマは深く、今日でも欧州では母親が子供をしつける時、「トルコ人が来るよ」という逸話があるという。<br /><br /> さて、イスラムと西欧社会との衝突の歴史の根の深さを概観してきたが、最も肝心なこの一〇〇年、四回目の衝突とその展開を我々は目撃していることになる。今年、二〇一六年はサイクス・ピコ協定から一〇〇年目となる、第一次世界大戦を背景に結ばれたこの協定は、オスマン帝国解体後の中東を欧州列強(英仏)が分割統治すべく「人工的に国境線を引いた秘密協定」であり、今日の中東の国境の原型である。シリアとイラクの国境線を超えてISなる疑似国家が跋扈し、昨年だけで一〇〇万人を超す難民が欧州に流入した」という情報に接する時、一〇〇年前の歴史の因果が逆流している思いがするのである。一九六八年、半世紀にわたり中東に覇権を維持してきた英国がスエズ運河の東側から撤退、代わって米国がペルシャ湾の覇権を確立、一九七〇年代はイランのパーレビ体制を支えてペルシャ湾の秩序を維持していた。ところが、一九七九年ホメイニ師率いるイスラム原理主義革命によってパーレビ体制は崩壊、衝撃を受けた米国は、隣国イラクのサダム・フセインを支援して、一九八〇年九月から八年間にわたるイラン・イラク戦争に側面協力、一九九〇年には増長したサダム・フセインがクウェートに侵攻して湾岸戦争に至り、ついには自らが育てたモンスターというべきサダムを処断することになった展開が9・11後のイラク戦争であった。つまり、「敵の敵は味方」という短絡的判断で中東を掻き回し、混迷を増幅してきた米国の地域政策の失敗の歴史が見えるのである。<br /><br /> 現在、中東で進行している最も重要なことは、過去一〇〇年、「大国の横暴」によって動かされてきた地域が、大国の力が相対的に後退して、自らの運命を自分で決める力が高まっていることで、その象徴ともいえるのが地域パワーとしてのイランの台頭である。気が付けば、米国はイラク統治の失敗によって、ペルシャ湾の北に巨大なシーア派のゾーンを残して湾岸から後退しつつある。<br /> 皮肉な話で、サダム政権を打倒し、「イラクの民主化」を掲げて選挙を行ったことにより、人口の六割以上がシーア派のイラクもシーア派主導の政権となった。イランの影響力を顕在化させるゾーンたる「シーア派の三日月」がイラン・イラク・シリアにかけて形成されたのである。追い詰められたスンニ派の過激派勢力がイラク・シリアの国境線を超えて跋扈し始めたのがISの原型である。<br /> 昨年、そのイランが核開発を凍結することで合意し、一月にはイランへの経済制裁が解除され、イランの原油の生産が日量五〇〇万バーレル(昨年は三六〇万バーレル)を超して、国際市場に出る局面を迎えている。これはサウジアラビアが最も懸念する事態であり、新年に入りサウジ・イランが国交断絶に踏み切った背景にある要因でもある。イランが強大化し、石油収入を拡大すれば、イランが背後から支援するレバノンのヒズボラ、パレスチナ過激派(ハマス)、イエメンの反政府勢力(フーシ派)を勢いづけ、中東をさらに緊張させることになるであろう。<br /><br /> 宗教対立の根は深い。しかも、根っこには石油権益や政治抗争などの要素が絡む。単純で表層認識での関与を拒否する。本質的問いとして、人間は何故、宗教のためとして人を殺すのであろうか。本来、宗教は救済であり、赦しであり、解脱(欲望の制御)であるはずだ。ただ信仰が深ければこそ、自分以外の信仰は誤りであり、排除されるべしという確信に変わる。特に、中東の一神教は異教徒への妥協なき戦いに向かう。だが、それでも歴史の教訓に学ぶならば、この問題の解答は相互の共存の容認しかない。それ故に、それぞれの宗教の中心に立つ指導者・権益者の「対話と協調」が重要となる。<br /> 宗教の名における殺人さえ正当化がなされる局面において、日本人がこの問題に向き合う姿勢には自らの文化の蓄積を熟慮した賢さが求められる。単純に「テロとの戦い」という言葉に共鳴して、一方の武力攻撃に肩入れして他方の逆恨みを引き受ける愚に踏み込んではならない。宗教的多様性を重んじる日本がなすべきことは、常に宗教対立の外に立ち、「世界宗教者会議」などの宗教間対話の枠組み作りに知恵を出し、主導することであろう。武力による解決ではない第三の道があることを示すべきであろう。中東に領土的野心を抱いたこともなく、軍事介入したことも武器輸出もしたこともない日本は、基本的に中東諸国、および人々から信頼され期待されているというのが、中東協力現地会議(中東協力センター主催)にこの一二年間参加してきた私の実感である。<br /><br /><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: 12pt;">堅調な米国経済とリスクの顕在化 — リーマンショック再び</span></strong></span><br /><br />IMFは一月一九日に定例の世界経済見通しを発表した。昨年、二〇一五年の世界全体のGDP成長率(PPPベース、実績見込)は実質三・一%と、前年の三・四%成長と回復基調を予測しているが、昨年一〇月時点での予測三・六%に比べれば、世界経済は明らかに下方修正局面にある。先進国のなかでは米国が堅調であり、実質成長率は、二〇一三年一・五%、二〇一四年二・四%、二〇一五年二・五%と右肩上がりであり、今年については二・六%成長が予測されている。欧州(ユーロ圏)は、ギリシャ危機などを内在させながらも、昨年は一・五%成長を実現し、二〇一六年も一・七%成長を予測している。<br /> 問題は日本で、二〇一四年のゼロ成長、昨年も〇・六%程度の実質成長で、実体経済は動いていない。二〇一六年は一・〇%成長を予測しているが、改定の度に下方修正を繰り返しており、アベノミクスに入って三年、異次元金融緩和と財政出動を続けている割には、依然として第三の矢(成長戦略)は飛ばない。BRICSといわれた新興国の失速が目立つ。ブラジル、ロシアは二年連続のマイナス成長(ブラジル:一五年▲三・八%、一六年▲三・五%、ロシア:一五年▲三・七%、一六年▲一・〇%)が予想され、中国も昨年は六・九%にまで原則、今年も六・三%成長と予測され、かつての一〇%成長軌道からは明らかに異なる局面に入り、実体は五%を割っているのではという見方もある。堅調なのはインドのみで、去年は成長率で中国を抜き、七・三%成長を実現、今年も七・五%成長が予測されている。<br /><br /> それにしても、年明けの世界の株式市場の乱高下は凄まじい。日経平均も昨年末比、一時三〇〇〇円以上も下落した。株価の動きに一喜一憂する必要はないが、背景にある構造は見抜く必要がある。基本的には、昨年末に米国が政策金利を〇・二五%引き上げ、ゼロ金利を脱したことにより、世界の資金が相対的に金利の高い米国、おそらく本年中に一%水準に引き上げを模索すると予想される米国に還流する流れが形成されていることである。<br /> その基調変化の中で、「原油安」という要素が思いもかけないリスクとなってきた。二〇一四年央までバーレル一〇〇ドル水準にあった原油価格が、三〇ドルを割るところまで下落してきた。原油価格下落の要因は、世界経済の減速という需要側の要因もあるが、供給過多、つまり原油が出すぎているのである。何よりも、米国の原油生産が一二〇〇万BDの水準に達し、世界一の原油生産国になったという点がある。一方、OPEC(石油生産国機構)全体で約三六〇〇万BDを生産しているが減産や生産調整の合意形成は難しい局面にある。前述のごとくイランへの経済制裁が核合意によって解除され、国際市場にイラン原油が入ってくる流れを、サウジアラビアなど湾岸産油国は強く警戒しており、「イランつぶし」で減産に踏み込もうとしない。<br /><br /> また、昨年末、米国は一九七五年以来四〇年ぶりに原油の輸出を解禁し、既に欧州や日本を含むアジア向けの輸出を始めた。本音に「ロシアの牽制」が見え隠れする。化石燃料しか外貨を稼ぐ手段のないロシアにとって原油価格の下落は致命的である。あらゆる意味で、当面は原油価格を下方に向かわせる要素しか見えないのが現状である。一月二四日現在、WTIはバーレル二六ドル台にまで下落している。<br /> 日本へのインパクトも波状的に襲いかかってきた。まず動いたのが日本株に入っていた産油国のオイルマネーであった原油安で急速に悪化した産油国財政を補うため、日本株への投資は累積二〇兆円を超す買い越しとなっていたが、このオイルマネーの剥落で、一七兆円前後にまで減少した。さらに、不透明感を加速させているのが「ハイイールド債」のリスクの顕在化である。<br /> ハイイールド債とは、かつては「ジャンクボンド」といわれたハイリスク・ハイリターンの低格付け債のことで、ウォールストリートの懲りない人たちによって生まれ、リーマンショック後に警戒心を高めた世界の金融市場に形を変えて売り込まれた債券である。折からの米国の「シェールガス、シェールオイル・ブーム」に乗って、リスクはあるが利回りの期待できる投資として、エネルギー分野のハイイールド債が世界中の超低金利にあえぐ資金を引き寄せた。<br /><br /> ところが、想定外の原油価格の下落で、デフォルト(債務不履行)に至る債券が増え始め、ハイイールド債のスプレッド(米一〇年国債との利回りの差)は危険水域の七%に達した。これがリーマンショックのような金融危機に波及することのないように、細心の対応が迫られる局面にある。<br /> ハイイールド債のリスクは日本にも影を投げかけている。国債の利回りが一〇年もので〇・二%などという現実を背景に、資金運用力に欠ける金融機関は「ハイリターン」に惹かれて、ハイイールド債に吸い寄せられており、年金の運用機構GPIFもハイイールド債への運用で毀損が生じる可能性を内包している。<br /> 表層判断するならば、原油価格の下落はガソリン価格や電気料金、航空運賃のサーチャージを下げ、日本経済の追い風要素となる面もある。だが、エネルギーの分野に「ハイイールド債」などマネーゲーム的要素が絡み付くと、話は複雑化し、金融不安を招来しかねないリスクが臨界点に近づくのである。本質的に考えるならば、金融政策に過剰に依存して金融を異次元緩和して調整インフレを引き起こし、それを成長戦略の起爆剤とする「リフレ経済学」の限界と弊害が顕在化してきたことに気付かねばならない。<br /><br /> 実体経済の成長率よりも金融活動による資本収益率が大きい状況を政治主導で誘導することは、必ず経済に歪みをもたらす。マネーゲームの恩恵を受ける人とそうでない人との格差と貧困、金融工学を駆使した手の込んだ金融商品がもたらす制御不能なまでに肥大化したリスク、経済社会は加速度的に腐敗していく。今世紀に入ってからだけでも、エンロンの崩壊(二〇〇一年)、リーマンショック(二〇〇八年)と、金融不安を繰り返し、格差と貧困は一段と深刻になっている。「資本主義の死に至る病」とまでいわれるマネーゲームの肥大化をどう制御するのか。技術と産業に軸足を置いた「健全な経済社会」を志向する新しいルール作りに(たとえばグローバルな金融取引税導入など)が求められていることは間違いない。<br /> リーマンショック後、緊急避難的に「リフレ経済学」を主導してきた総本山ともいえる米国は、量的緩和(QE3)を二〇一四年一〇月に終わらせ、ついにゼロ金利も解除して金融政策の出口に出た。日本は出口なき異次元緩和に埋没したままである。「黒田バズーカ」などどいって政治的に金融を弄ぶことの副作用は大きい。</p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p>  ロンドン・エコノミスト誌は、今年も新年展望 “The World in 2016”を発表した。英国からみた世界展望であり、一つの見方にすぎないが、「米国を通じてしか世界を見ない」という傾向にある日本のメディア環境を考える、欧州の目線は示唆的である。私は一九八七年に創刊されたこのロンドン・エコノミスト誌の新年展望に三〇年近く目を通してきたが、この分析と展望は、同誌のシンクタンクEIU(エコノミスト・インテリジェンス・ユニット)によるデータ解析の集約点でもあり、内外の雑誌の断片的展望を並べた新年展望とは異なり、体系性において注目すべきである。日本語版が日経BPから『二〇一六年世界はこうなる』として発行されているが、二〇一五年の日本語版で「アベノミクスに厳しい評価をした日本に関する論稿」を全文削除するという不可解な面があり、できれば原文で読むことを薦めたい。<br /> 昨年の “The World in 2015” では、二〇一五年について、「指導力の欠如」「無秩序」「分断」という三つの言葉を提示していたが、確かにIS(イスラム国)なるテロリスト集団に翻弄され、恐怖の中でイスラムへの偏狭な拒絶反応を示し始めている欧米社会を見ていると、世界は混沌に向かっているように見える。<br /><br /> さて、同誌の二〇一六年の展望だが、編集長が提示したキーワードは、WOES(災禍)、WOMEN(女性)、WINS(勝利)の「三つのW」である。まず、WOESとはあまりに不気味な予見だが、無秩序を通り越していつ災いが襲ってくるかもしれない現実を象徴する言葉と言える。次のWOMENは、表紙の中心にドイツのメルケル首相、米国の大統領候補ヒラリー・クリントン、米中央銀行(FRB)のイエレン議長を並べて、「危機の時代こそ女性が活躍」という認識を提示している。WINSは、ブラジルでの五輪などスポーツの世界的イベントが予定されていることを象徴する言葉ともいえるが、重苦しい時代状況への救いを求める心理の投影でもあろう。新年早々、この新年展望、とりわけWOESはすでに現実のものとなりつつあるとさえいえる。「災い」はどこからくるのか。「宗教」と「マネーゲーム」の歪みから醸成されているようだ。<br /><br /><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: 12pt;">宗教の復権への向き合い方</span></strong></span><br /><br /> 昨年、一月、一二月と二度にわたりパリを襲ったISのテロの余燼くすぶる中、二〇一六年に入っても世界各地でテロは続き、特にドイツのケルンで発生した難民による集団暴行事件は、これに反発する極右勢力の台頭と相俟って、世界を暗澹とした気持に陥れている。苛立ちの中で、異教徒を一括りにして排除する空気が充満しているのである。米国の大統領選挙における共和党候補D・トランプが「米国にはイスラム教徒を入国させるべきではない」と発言し、一定の拍手が起こるところにまで米国も追いつめられている。それは、合衆国憲法第一条「宗教の自由」の否定であり、トランプ自身の祖父がスウェーデンからの移民であったという「移民の国アメリカ」を否定することだからである。世界は宗教という要素によって、歪んだ形で突き動かされ始めている。その意味で、戦後の国際政治に大きな影響を与えたH・キッシンジャーが近著 “World Order” (二〇一四)で示している視点は示唆的である。彼は、世界は四〇〇年ぶりの構造転換に直面しているとして、一六四八年のウェストファリア条約を持ち出している。この条約は、宗教戦争といわれた三〇年戦争と、カトリックのスペインに対するプロテスタントのオランダの八〇年におよぶ独立戦争の終結において結ばれたもので、欧州がローマ教皇という宗教的権威からの政治の解放と各国間の勢力均衡の中での共存を確認する転機となった条約である。つまり、近代国際秩序の起点となった条約であったが、それ以来の転機ということは、世界政治を動かす要素として再び「宗教」が蘇ってきたことを意味する。<br /><br /> 確かに、冷戦の終焉から二五年、イデオロギーの対立の時代は終わり、地球が一つの市場となる「グローバル化」なる時代に向かうと思っていたら、宗教とか民族といった要素が再び頭をもたげ、紛争や対立の火種となってきた。忘れがたい思い出は、昨年亡くなったドイツのシュミット元首相の言葉である。二〇〇九年五月、ベルリンのOBサミットの専門家会議に参加する機会を得、三日間、何度となく食事をしながら彼の話を聞いた。北朝鮮の脅威が話題になった時、彼は次のように言った。「北朝鮮のことなどもはや重要な話ではない。なぜなら、今の北朝鮮には世界の若者を引き付ける理念がない。かつて、カストロでもゲバラでも、強大な脅威ではなくとも若者の心を引き付ける力があり怖かった。いま最も恐れるべきはイスラムだ。コソボ紛争、イラク戦争とイスラムを血まみれにしているが、欧州にもイスラム人口が増え続け、恨みと憎しみに満ちた目で事態を見つめている。二一世紀欧州の最大の課題は、イスラムとの対話だ」 シュミットの視点は的確だったと思う。改めて、イスラム対キリスト教の歴史的関係を再考するならば、この話の根深さに慄然とする。遺恨の積み上げと敵対を通じたアイデンティティの確立の繰り返しだからである。<br /> <br /> そもそもイスラムはキリスト生誕から約六〇〇年後に、アラビア砂漠に忽然と現れたムハンマド(五七〇年頃~六三二年)なる商人出身の預言者によって開かれた宗教であり、教義においてキリストの神性を否定し、自らを唯一の絶対神の下の「預言者」として、モーゼ、キリストと同列に置いた。コーランにおいてキリストの三位一体性を否定し(第五章七六~七九節)、当時キリストなる存在(神なのか人なのか)を巡り混乱していたキリスト教側の事情を背景に登場してきたイスラムは、キリスト教にすれば「神の子キリスト」を否定して「キリストも一個の使徒(預言者)」とする「怪しげで不快な仇敵」となった。<br />登場からわずか一〇〇年で、ビザンツ帝国を中東から追い払ったイスラムは征服軍となって欧州に迫った。ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラムが七一五年にはイベリア半島を制圧し、七三二年にはピレネーを超えフランク王国と衝突する。これが第一の衝突である。この時、欧州はイスラムの脅威を目前にして「キリスト教共同体」としての自覚を高めた。<br />イスラム史を貫く特色として気付くのは、預言者ムハンマド自身が弾圧を跳ね返して、六三〇年に一万の軍勢を率いてメッカ征服を成し遂げたごとく、宗教的権威(神の使徒)と政治的権力(イスラム共同体・ウンマの統治)が一体となって動くことであり、征服(ジハード)へ向かう衝動を内在させていることである。わずか一世紀でペルシャからイラク、シリア、北アフリカ、イベリア半島を一気に制圧した理由はここにある。このことは、今日、ISなる存在が、国家を称して唐突に現れる伏線になっている。<br /><br /> 二回目の衝突が一一世紀末から約二〇〇年にわたる十字軍である。アナトリアのセルジューク朝の勢力拡大に対するビザンツ皇帝からローマ教皇への救援要請を受け、一〇九五年のクレルモン宗教会議で「聖地回復の義務」が宣言され、一二二一年の第五回まで、エルサレムを目指し熱病のごとくくりかえされた十字軍は、キリスト教・イスラムの相互にとって「敵対心とアイデンティティ」を増幅する埋め絵となった。<br /> 三回目の衝突が、オスマン帝国と欧州の血みどろの戦いである。イベリア半島における「国土回復運動」が、一四九二年にはグラナダの陥落をもたらし、欧州からイスラムを撤退させたものの、オスマン帝国の脅威は厳然と存在した。大航海時代とは、中東におけるイスラムの壁を迂回してインド・アジアにアプローチする欧州の苦闘でもあった。一五二九年と一六八三年、神聖ローマ皇帝の居城で当時の欧州の中ともいえたウィーンがオスマンの軍勢に二度包囲され、陥落寸前に追い込まれた。欧州のトラウマは深く、今日でも欧州では母親が子供をしつける時、「トルコ人が来るよ」という逸話があるという。<br /><br /> さて、イスラムと西欧社会との衝突の歴史の根の深さを概観してきたが、最も肝心なこの一〇〇年、四回目の衝突とその展開を我々は目撃していることになる。今年、二〇一六年はサイクス・ピコ協定から一〇〇年目となる、第一次世界大戦を背景に結ばれたこの協定は、オスマン帝国解体後の中東を欧州列強(英仏)が分割統治すべく「人工的に国境線を引いた秘密協定」であり、今日の中東の国境の原型である。シリアとイラクの国境線を超えてISなる疑似国家が跋扈し、昨年だけで一〇〇万人を超す難民が欧州に流入した」という情報に接する時、一〇〇年前の歴史の因果が逆流している思いがするのである。一九六八年、半世紀にわたり中東に覇権を維持してきた英国がスエズ運河の東側から撤退、代わって米国がペルシャ湾の覇権を確立、一九七〇年代はイランのパーレビ体制を支えてペルシャ湾の秩序を維持していた。ところが、一九七九年ホメイニ師率いるイスラム原理主義革命によってパーレビ体制は崩壊、衝撃を受けた米国は、隣国イラクのサダム・フセインを支援して、一九八〇年九月から八年間にわたるイラン・イラク戦争に側面協力、一九九〇年には増長したサダム・フセインがクウェートに侵攻して湾岸戦争に至り、ついには自らが育てたモンスターというべきサダムを処断することになった展開が9・11後のイラク戦争であった。つまり、「敵の敵は味方」という短絡的判断で中東を掻き回し、混迷を増幅してきた米国の地域政策の失敗の歴史が見えるのである。<br /><br /> 現在、中東で進行している最も重要なことは、過去一〇〇年、「大国の横暴」によって動かされてきた地域が、大国の力が相対的に後退して、自らの運命を自分で決める力が高まっていることで、その象徴ともいえるのが地域パワーとしてのイランの台頭である。気が付けば、米国はイラク統治の失敗によって、ペルシャ湾の北に巨大なシーア派のゾーンを残して湾岸から後退しつつある。<br /> 皮肉な話で、サダム政権を打倒し、「イラクの民主化」を掲げて選挙を行ったことにより、人口の六割以上がシーア派のイラクもシーア派主導の政権となった。イランの影響力を顕在化させるゾーンたる「シーア派の三日月」がイラン・イラク・シリアにかけて形成されたのである。追い詰められたスンニ派の過激派勢力がイラク・シリアの国境線を超えて跋扈し始めたのがISの原型である。<br /> 昨年、そのイランが核開発を凍結することで合意し、一月にはイランへの経済制裁が解除され、イランの原油の生産が日量五〇〇万バーレル(昨年は三六〇万バーレル)を超して、国際市場に出る局面を迎えている。これはサウジアラビアが最も懸念する事態であり、新年に入りサウジ・イランが国交断絶に踏み切った背景にある要因でもある。イランが強大化し、石油収入を拡大すれば、イランが背後から支援するレバノンのヒズボラ、パレスチナ過激派(ハマス)、イエメンの反政府勢力(フーシ派)を勢いづけ、中東をさらに緊張させることになるであろう。<br /><br /> 宗教対立の根は深い。しかも、根っこには石油権益や政治抗争などの要素が絡む。単純で表層認識での関与を拒否する。本質的問いとして、人間は何故、宗教のためとして人を殺すのであろうか。本来、宗教は救済であり、赦しであり、解脱(欲望の制御)であるはずだ。ただ信仰が深ければこそ、自分以外の信仰は誤りであり、排除されるべしという確信に変わる。特に、中東の一神教は異教徒への妥協なき戦いに向かう。だが、それでも歴史の教訓に学ぶならば、この問題の解答は相互の共存の容認しかない。それ故に、それぞれの宗教の中心に立つ指導者・権益者の「対話と協調」が重要となる。<br /> 宗教の名における殺人さえ正当化がなされる局面において、日本人がこの問題に向き合う姿勢には自らの文化の蓄積を熟慮した賢さが求められる。単純に「テロとの戦い」という言葉に共鳴して、一方の武力攻撃に肩入れして他方の逆恨みを引き受ける愚に踏み込んではならない。宗教的多様性を重んじる日本がなすべきことは、常に宗教対立の外に立ち、「世界宗教者会議」などの宗教間対話の枠組み作りに知恵を出し、主導することであろう。武力による解決ではない第三の道があることを示すべきであろう。中東に領土的野心を抱いたこともなく、軍事介入したことも武器輸出もしたこともない日本は、基本的に中東諸国、および人々から信頼され期待されているというのが、中東協力現地会議(中東協力センター主催)にこの一二年間参加してきた私の実感である。<br /><br /><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: 12pt;">堅調な米国経済とリスクの顕在化 — リーマンショック再び</span></strong></span><br /><br />IMFは一月一九日に定例の世界経済見通しを発表した。昨年、二〇一五年の世界全体のGDP成長率(PPPベース、実績見込)は実質三・一%と、前年の三・四%成長と回復基調を予測しているが、昨年一〇月時点での予測三・六%に比べれば、世界経済は明らかに下方修正局面にある。先進国のなかでは米国が堅調であり、実質成長率は、二〇一三年一・五%、二〇一四年二・四%、二〇一五年二・五%と右肩上がりであり、今年については二・六%成長が予測されている。欧州(ユーロ圏)は、ギリシャ危機などを内在させながらも、昨年は一・五%成長を実現し、二〇一六年も一・七%成長を予測している。<br /> 問題は日本で、二〇一四年のゼロ成長、昨年も〇・六%程度の実質成長で、実体経済は動いていない。二〇一六年は一・〇%成長を予測しているが、改定の度に下方修正を繰り返しており、アベノミクスに入って三年、異次元金融緩和と財政出動を続けている割には、依然として第三の矢(成長戦略)は飛ばない。BRICSといわれた新興国の失速が目立つ。ブラジル、ロシアは二年連続のマイナス成長(ブラジル:一五年▲三・八%、一六年▲三・五%、ロシア:一五年▲三・七%、一六年▲一・〇%)が予想され、中国も昨年は六・九%にまで原則、今年も六・三%成長と予測され、かつての一〇%成長軌道からは明らかに異なる局面に入り、実体は五%を割っているのではという見方もある。堅調なのはインドのみで、去年は成長率で中国を抜き、七・三%成長を実現、今年も七・五%成長が予測されている。<br /><br /> それにしても、年明けの世界の株式市場の乱高下は凄まじい。日経平均も昨年末比、一時三〇〇〇円以上も下落した。株価の動きに一喜一憂する必要はないが、背景にある構造は見抜く必要がある。基本的には、昨年末に米国が政策金利を〇・二五%引き上げ、ゼロ金利を脱したことにより、世界の資金が相対的に金利の高い米国、おそらく本年中に一%水準に引き上げを模索すると予想される米国に還流する流れが形成されていることである。<br /> その基調変化の中で、「原油安」という要素が思いもかけないリスクとなってきた。二〇一四年央までバーレル一〇〇ドル水準にあった原油価格が、三〇ドルを割るところまで下落してきた。原油価格下落の要因は、世界経済の減速という需要側の要因もあるが、供給過多、つまり原油が出すぎているのである。何よりも、米国の原油生産が一二〇〇万BDの水準に達し、世界一の原油生産国になったという点がある。一方、OPEC(石油生産国機構)全体で約三六〇〇万BDを生産しているが減産や生産調整の合意形成は難しい局面にある。前述のごとくイランへの経済制裁が核合意によって解除され、国際市場にイラン原油が入ってくる流れを、サウジアラビアなど湾岸産油国は強く警戒しており、「イランつぶし」で減産に踏み込もうとしない。<br /><br /> また、昨年末、米国は一九七五年以来四〇年ぶりに原油の輸出を解禁し、既に欧州や日本を含むアジア向けの輸出を始めた。本音に「ロシアの牽制」が見え隠れする。化石燃料しか外貨を稼ぐ手段のないロシアにとって原油価格の下落は致命的である。あらゆる意味で、当面は原油価格を下方に向かわせる要素しか見えないのが現状である。一月二四日現在、WTIはバーレル二六ドル台にまで下落している。<br /> 日本へのインパクトも波状的に襲いかかってきた。まず動いたのが日本株に入っていた産油国のオイルマネーであった原油安で急速に悪化した産油国財政を補うため、日本株への投資は累積二〇兆円を超す買い越しとなっていたが、このオイルマネーの剥落で、一七兆円前後にまで減少した。さらに、不透明感を加速させているのが「ハイイールド債」のリスクの顕在化である。<br /> ハイイールド債とは、かつては「ジャンクボンド」といわれたハイリスク・ハイリターンの低格付け債のことで、ウォールストリートの懲りない人たちによって生まれ、リーマンショック後に警戒心を高めた世界の金融市場に形を変えて売り込まれた債券である。折からの米国の「シェールガス、シェールオイル・ブーム」に乗って、リスクはあるが利回りの期待できる投資として、エネルギー分野のハイイールド債が世界中の超低金利にあえぐ資金を引き寄せた。<br /><br /> ところが、想定外の原油価格の下落で、デフォルト(債務不履行)に至る債券が増え始め、ハイイールド債のスプレッド(米一〇年国債との利回りの差)は危険水域の七%に達した。これがリーマンショックのような金融危機に波及することのないように、細心の対応が迫られる局面にある。<br /> ハイイールド債のリスクは日本にも影を投げかけている。国債の利回りが一〇年もので〇・二%などという現実を背景に、資金運用力に欠ける金融機関は「ハイリターン」に惹かれて、ハイイールド債に吸い寄せられており、年金の運用機構GPIFもハイイールド債への運用で毀損が生じる可能性を内包している。<br /> 表層判断するならば、原油価格の下落はガソリン価格や電気料金、航空運賃のサーチャージを下げ、日本経済の追い風要素となる面もある。だが、エネルギーの分野に「ハイイールド債」などマネーゲーム的要素が絡み付くと、話は複雑化し、金融不安を招来しかねないリスクが臨界点に近づくのである。本質的に考えるならば、金融政策に過剰に依存して金融を異次元緩和して調整インフレを引き起こし、それを成長戦略の起爆剤とする「リフレ経済学」の限界と弊害が顕在化してきたことに気付かねばならない。<br /><br /> 実体経済の成長率よりも金融活動による資本収益率が大きい状況を政治主導で誘導することは、必ず経済に歪みをもたらす。マネーゲームの恩恵を受ける人とそうでない人との格差と貧困、金融工学を駆使した手の込んだ金融商品がもたらす制御不能なまでに肥大化したリスク、経済社会は加速度的に腐敗していく。今世紀に入ってからだけでも、エンロンの崩壊(二〇〇一年)、リーマンショック(二〇〇八年)と、金融不安を繰り返し、格差と貧困は一段と深刻になっている。「資本主義の死に至る病」とまでいわれるマネーゲームの肥大化をどう制御するのか。技術と産業に軸足を置いた「健全な経済社会」を志向する新しいルール作りに(たとえばグローバルな金融取引税導入など)が求められていることは間違いない。<br /> リーマンショック後、緊急避難的に「リフレ経済学」を主導してきた総本山ともいえる米国は、量的緩和(QE3)を二〇一四年一〇月に終わらせ、ついにゼロ金利も解除して金融政策の出口に出た。日本は出口なき異次元緩和に埋没したままである。「黒田バズーカ」などどいって政治的に金融を弄ぶことの副作用は大きい。</p> <p> <br /><span style="font-size: small;">    <span style="line-height: 1.3em;"> </span></span></p> <p><span style="font-size: small;">  公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p>