2017年 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017.html Wed, 01 May 2024 20:02:58 +0900 ja-jp webmaster@terashima-bunko.com (寺島文庫) 岩波書店「世界」2017年12月号 脳力のレッスン188 日本政治の活路を探る―――二〇一七年総選挙解析 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1477-nouriki-2017-12.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1477-nouriki-2017-12.html  第四八回衆議院選挙が終わった。「自公三分の二で圧勝」という結果だが、「野党の体制が整う前に意表を突く解散」に打って出た政権の思惑からすれば、微妙な結果だった。前回の二〇一四年選挙での自民党獲得議席は二九一(解散前議席は二八四)であり、定数が一〇減って四六五になったことを考慮しても、今回の二八四は前回比減少なのである。与党議席占有率でも六八・四%から微減の六七・三%となり、大山鳴動、結果は与党微減という数字に落ち着いたのである。
一方、小池百合子代表率いる「希望の党」なる試みも無残に空転、与野党ともに政治家の思惑とは異なる方向に流動化、つまり敵の寝込みを襲うウルトラCも、「野合」といわれようがサバイバルを賭けた「民進と希望の合流」という「回転海老固め」も、狙い通りとはいかなかった。ここに民意があると受け止め、今回の総選挙を再考しておきたい。安倍政治への期待逓減の中での苦肉の着地点という結果を受け、日本政治の活路を熟慮すべき時である。国民の苛立ちのマグマは封印されたようにみえるが、臨界点を迎えつつある。

 

 

 

注視すべき二つの数字―――投票率と自民党得票率

 

野党が分裂、分散している限り、小選挙区制は与党優位に働く。今回の「与党圧勝」の要因は、何よりも野党分裂であった。野党分裂型小選挙区二二六の内、与党勝利は一八三で、勝率は八一%であった。与野党一騎打ち型の小選挙区五七の場合、与党勝利は三八で、勝率は六七%と、一対一の選択の構図に持ち込むことが野党の勝機を高めることは歴然としている。ただし、野党の合従連衡などという戦術論を超えて、日本の政治の本質を直視する必要がある。二つの数字を注視したい。
まず、投票率である。一八歳に投票年齢を引き下げて初めての国政選挙でもあり、投票率が注目された。前回二〇一四年衆院選の投票率は五二・六六%、今回は、台風二一号接近という悪天候の中、五三・六八%と若干上向いたが、戦後二番目の低投票率であった。二〇〇九年の民主党への政権交代選挙の六九・二八%という時もあったが、このところ有権者の半分程度しか投票しないというのは、やはり政治への国民の関心が希薄化していることは否定できない。
もう一つ、注目すべきは比例区の自民党得票率である。小選挙区への投票は、候補者個人への評価や地域の事情が絡むが、比例区での自民党への投票は「自民党を積極的に選好する」ということで、自民党政権への国民の評価を投影する数値になるからである。この数字、前回は三三・一%であり、今回は三三・三%でほぼ横ばいであった。ちなみに、小選挙区(全国総計)の自民党の得票率は四八・二%で、この差に選挙制度の怖さがある。
比例区での自民党得票率をさらに踏み込んで、「投票率×自民党得票率」と考えるならば一七・九%(前回は一七・四%)となる。つまり有権者人口のわずか二割にも満たない積極的支持によって、自民党の議席占有率六一・一%(前回は六一・三%)が実現してしまうのである。
このことが選挙で国民が預託したこととは違う方向に政治が進む要因である。この点は本誌10月号の「二〇一七年夏への思索―――内外の退嬰の中で」において、「官邸主導政治なるものの限界」として論じた。内閣法を改正して、官邸が省庁の幹部人事を掌握したことによって、官邸への「忖度」が跋扈する行政となった構造(その表出としての森友・加計問題)、内閣による解釈改憲が主導した「集団的自衛権の容認」と「安保法制」への流れ、さらに国家権力の強化を志向する「共謀罪」の強行成立など、国民の期待とは異なる「官邸主導政治」に日本が引き込まれてきた。
与党三分の二となった議会は、皮肉にも官邸政治を追認する手続き装置となり、議会での議論を通じて国の意思決定の質が高まることはなくなっていった。皮肉にも、与党三分の二の議会が「議会軽視」の基盤となったのである。
つまり、選挙制度のパラドックスが現在の政治状況を生み出しているのであり、冷静に認識すべきは、選挙結果としての与党三分の二の議席は、決して安倍政権支持の三分の二ではないということである。貧困な選択肢の中からやむなく選択した帰結であり、本当の「国民の意思」の所在地を深く考察し、配慮する思慮深さが政治の側に不可欠なのである。

 

 

 

条理なき解散―――「政治で飯を食う人達」の自堕落

 

   政治に大義などなく、党利党略で動くことなど驚くべきことではないという人もいる。だが、今回の解散については、日本の政治を取り巻く全体状況への国民目線からの素朴な疑問を感じざるをえない。改めて、国会議員という仕事を考えてみよう。国会閉会後、二カ月の夏休みを過ごし、九月末になっていよいよ会期が始まるかと見ていたら、何の審議もなく冒頭解散、そして七〇〇億円をかけた総選挙ゲームでの狂奔―――その国会議員に年間一人二億円の税金を使っている現実―――世の中にこんな職業が他にあるだろうか。
「解散は首相の専権事項」だという。だが、憲法第七条「天皇の国事行為」第三項たる「内閣の助言と承認による解散」を根拠にそういうのであれば、「専権事項」というのは間違いである。内閣での透明性の高い議論、議会、メディア、何よりも国民世論が解散を求める経過を踏まえて総選挙をすべきで、もっともらしい理由をつけての任期前解散を連発し、五年で三回もの総選挙を行うことが異常なのである。
政治屋と「世論調査」を仕切る代理店と選挙業者の卑しさというべきか。対抗勢力の分散と準備不足、そして北朝鮮問題を背景にした「国難」意識が与党への追い風と判断した解散であることは明らかで、政治を商売にする人達の自堕落さには吐き気を覚える。
この解散・総選挙について、私自身も何回かの発言の機会があった。例えば、週刊エコノミスト誌(2017年10月3日号)に「解散・総選挙は日本政治の劣化―――日本版『オリーブの木』が必要だ」を寄稿したが、私の本音は「国民参画」の政治の実現であり、政党間の綱引き、合従連衡を超えて、例えば重点選挙区五〇ですべての野党が候補者を降ろし、学者、文化人、NPO・NGO団体のリーダーなど納得感ある候補者を立て、与党絶対多数を崩す「オリーブの木」方式の可能性を示唆するものだった。
結局は、野党間の「合流」、「共闘」というだけの選挙に終わり、選挙戦の構図が明らかになった時点で、同じく週刊エコノミスト誌(10月24日号)に、与党大勝を想定しながらも「液状化した政治に活路も、与党三〇七議席が転換点に」を寄せ、一強政治への対立軸を模索する視点を語った。今回の結果を受けて、何も変わらない日本へのため息も聞こえるが、静かな地殻変動は起こっており、変革への糸口を探っておきたい。
 それにつけても、「何故、解散をするのか」を含め、日本の政治の在り方を問うべき政治ジャーナリズムの虚弱さに疑問を感じざるをえない。官邸への距離の近さをアピールする得意顔の解説者、バラエティー番組のノリで劇場型政治に加担するTVメディア、そこには筋道通った民主政治のあるべき姿を求める意思は皆無である。永田町の論理に同化した卑しさが溢れ、国民の側から考えようとする視界はない。

 

 

何故、『希望の党』は希望を失ったのか

 

   わずか三か月前の二〇一七年七月の東京都議会議員選挙で大勝した小池都知事率いる「都民ファースト」は、国政政党「希望の党」となり衆議院選挙に臨み、民進党の大半の議員が「合流」して、「安倍一強政治の受け皿」になることを狙い二〇〇人以上もの候補者を立てて与党に挑戦したものの、あえなく敗北、わずかに五〇人の当選に終わった。
 当初の政権交代さえ狙う勢いが急速に失速したのは、小池代表の尊大で偏狭な「排除の論理」であった。「安保法制」と「憲法改正」に賛成しなければ、民進党からの合流を排除するという発言は、止まり木政党としての役割を喪失させた。「国民ファースト」に徹し、重要課題についての国民の意思を見極める配慮が必要だった。「安保法制」と「憲法改正」に賛成することを政策の軸にするということならば、第二保守党作りのカラクリだと国民は見抜いたのだ。
政策を問うのであれば、準備不足を超えて、国民の心を捉える政策が希薄であった。例えば、国民政党に求められる経済政策、アベノミクスの影に生じている格差と貧困に対する問題意識、つまり分配の公正に関する政策論が欠落していた。また、唐突に「脱原発」を掲げていたが、安保法制に賛成という政党が、「核の傘と日米原子力協定はコインの裏表」という常識に還って、対米関係の再設計のないまま、いかなる形で「脱原発」を実現するのか、矛盾が顕著であった。
政策による「排除の論理」に拘泥する割には、空疎な政策論しか持ち合わせず、いかに安倍政権の驕りと歪みを批判して「改革」を訴えても、一向に何を改革するのかを示さないまま、「希望の党」は希望を失っていった。
一方、排除されたはずの「立憲民主党」の方に「リベラル・バネ」とでもいうべき力学が働き始めた。国民の投票行動を継続的に分析すると、どんなときにも「保守」という人が約三割、どんなときにも「リベラル」という人が約三割存在する。選挙結果を左右する上で重要なのはその中間にある約四割の国民、つまり「保守リベラルから中道リベラル」まで、左翼でも右翼でもなく、安定した市民生活を望む「非政治的人間」である。
「改革」を語りながらも「国家主義、国権主義」的本音を明らかにし始めた小池代表の「排除の論理」に違和感を覚え始めた中間層の「迷い」が、その受け皿として「立憲民主党」に向かい始めたのである。単なる「排除された者」への「判官びいき」ではなく、国権主義に傾斜する政治への危機感が緊急避難的に立憲民主党に向かったのである。比例区の得票率は「立憲民主党」が一九・九%、希望は一七・四%であったが、この合計三七・三%のゾーンが保守から中道にかけてのリベラルの潜在母体になる層といえよう。
ただし、立憲民主党といっても、付け焼刃の政党であり、勢いで当選した面々をみても、旧態依然とした「左翼」や口先だけの市民運動家流れの政治家も多く、新時代を切り開く展望など期待できる状態ではない。改めて、リベラルの意味を問い返しておきたい。自民党のリベラルの中心にいた宮沢喜一は、「リベラリズムの主軸は一億一心の対極にある」という言葉を残しているが、戦中戦後を生き「国家主義、国権主義」吹き荒れる時代の危険を深く認識していた宮沢ならではの本質を衝いた言葉だと思う。
この局面で、あえて引いて再考するならば、小池新党「希望」の歴史的役割は、民進党なる鵺のような存在を生体解剖し、構成員それぞれの出処進退を問い詰め、野党再編の契機となったことである。だが、さらに視点を変えてみるならば、民主党―民進党と変容しながら生き延びてきた政治家の生命力は異様であり、政権を失った二〇一二年総選挙には五九人にまで縮小していた民主党が、二〇一四年総選挙で六四人、その後「民進党」という体制となり、今回の選挙を経て、「立憲民主」「希望の党」「無所属」という形で分散しているが、旧民進党系といえる当選議員は一二二人もいる。むしろ、名前を変えて「焼け太り」しているともいえ、不気味でさえある。この間、二〇一二年に四九議席に躍進していた「維新の会」は一四年選挙では三九議席、その後分裂の挙句、今回は一一議席と、大阪の地域政党へと埋没した。これらの動きに関わった職業政治家という人達に真剣に問いたいのは、政界液状化の中、「自分がいかに議席を守り、生き延びるか」ではなく「何のために政治に関わっているのか」という一点である。
この政治状況の最大の問題は、政治が政治家だけで弄ばれ、国民が参画していないということである。つまり、現代日本を生き、経済産業、文化、アカデミズムの一隅を照らして生きている人達の英知が日本の意思決定には反映されず、職業政治家のサバイバル・ゲームとそれに纏わり付く人達の貧困な世界観を反映した政治に終始していることである。国民参画のプラットフォームを如何に拡充するか、それがこの国の政治に求められるテーマである。

 

 

 

日本政治の活路を求めて―――国民の政治のために

 

  この夏、北海道、岩手、宮城、長野、愛知、京都、大阪、鳥取、熊本、長崎など全国を動き、とくに企業経営者と対話してきた。多くの経済人は基本的には「保守」で、政治の安定を望む立場において、衆院小選挙区となると自民党に投票するしかないという空気を漂わせているが、地方経済の現実、北朝鮮、森友・加計問題などを背景に「日本の政治がうまくいっているとは思えない」という苛立ちを率直に語っていた。
 また、私は大学の教壇に立ち、日常的に大学生に向き合っているが、この夏は高崎、千葉、八王子などの高校を訪れ、高校生にも向き合ってきた。今回の衆議院選挙における投票行動において、NHKの出口調査によれば、「一八~二〇歳代の若者の四九%が自民党に投票した」という。若者の「保守化」は実感でもある。深層にある心理は「現状への満足」というよりも「将来への不安」であり、政治の「安定」を求めているのである。液状化し混乱する野党が放つ言葉に「希望の持てる未来」を感じないのである。
 日本は今、戦後民主主義を熟考・定着させる正念場に差し掛かっている。我々は深呼吸し、国権主義吹き荒れる中で表層的には旗色の悪い「リベラルの価値」を踏み固めねばならない。私は、この連載を通じ「リベラル再生の基軸」を模索してきた。とくに、三・一一の衝撃と「一億総保守化」ともいえる潮流の中で、持ち堪えるべき「リベラル」とは何かを探り、二〇一四年初には「脳力のレッスンⅣ・リベラル再生の基軸」(岩波書店)として単行本化した。その論稿で、直視すべき政策課題として提起したのが以下の五つであった。ここでは再論しないが、この課題を突き詰めることが「リベラルの基軸」だと考える。


課題1、対米関係の再設計―――日米同盟の進化(米国への過剰依存への解消)
課題2、公正な分配の実現(格差と貧困の抑制、金融資本主義の制御)
課題3、平和国家精神の再起動(憲法九条理念の実体化)
課題4、原子力再考――「非核」のための原子力政策(原子力技術基盤をどう維持するか)
課題5、代議制民主主義の鍛え直し―――国会議員定数の三分の一削減


 安倍政権も五年が経過、この政権の政策論的行き詰まりは顕著である。「官邸主導政治」の限界というべきか、内政・外交ともに構想力の貧困という壁に閉ざされているか。内政では「アベノミクス」の名の下に、異次元金融緩和と財政出動の繰りかえしで政治主導の株高を演じているが、取り残された国民生活(所得と消費の低迷)と分配の不公正が顕在化し、経済と財政の秩序を歪めてしまった。また、「現実主義外交」として、強権的性格を強めるトランプ、プーチンと波長を合わせる貧弱な外交に堕し、「沖縄問題」や「国連核兵器禁止条約」への姿勢が象徴するごとく、外交での理念的指導力を失いつつある。アジアの有識者は日本が「成熟した民主国家」ではなく「偏狭な国家主義」を強めていくことに懸念を抱き始めている。歴史の記憶があるからである。
 政治への行き場のない苛立ちは膨張している。今後、政党再編などが繰り広げられるであろう中で、二大政党制を根付かせるためにも、選択肢の鮮明化、つまり政策基軸を明確化する必要がある。一九九七年に英国の労働党が一八年ぶりに政権を奪還した時、アンソニー・ギデンスの「第三の道」が政策基軸のテキストとなったように、政策の基盤インフラが要るのである。政治家だけの議論ではなく、国民参画型で政策軸を打ち立てたところが流れを創り出すであろう。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 08:35:57 +0900
岩波書店「世界」2017年11月号 脳力のレッスン187 ウィーンから考える北朝鮮問題と中東・エネルギー地政学 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1476-nouriki-2017-11.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1476-nouriki-2017-11.html   前号では「二〇一七年夏・内外の退嬰」への思いを論じた。この夏、米国の東西海岸、アジア(シンガポール、香港)、欧州(ウィーン、ロンドン)、そして九月のモンゴルと動き、識者との議論を通じて刺激を受け、「時代の意味」を考えてきた。この間、恫喝を続ける北朝鮮問題について、全く違った角度からの再考の機会を得た。また、エネルギー問題の専門家と向き合い、世界の構造変化を実感した。

 

 

 

ウィーンで考えた北朝鮮問題―――問われる日本の基軸

 

 ウィーンは異次元の国際機関都市である。ウィーンにはIAEA(国際原子力機関)、国連宇宙局、麻薬・国際犯罪を扱うUNODC、工業化支援を行うUNIDOなど国連関係機関の本部が国連エリアを形成しており、ニューヨーク、ジュネーブと並ぶ国連都市なのだが、加えて、OPEC(石油輸出国機構)の本部があり、中東産油国の活動基点でもある。また、映画「第三の男」を思い出すが、東西冷戦期に東西外交の接点だったこともあり、今日でもロシアや北朝鮮が大使館を構えて活動している。
そのウィーンで、気付かされたことがある。それは、この七月七日に国連が採択した「核兵器禁止条約」のことである。一二二か国が賛成したこの条約は、「核兵器やその他の核爆発装置の開発、実験、生産、製造、取得、保有または貯蔵」を禁止するほか、「これらの兵器の使用、使用の脅しをかけること」も禁止するもので、あらゆる核兵器関連の活動を禁じる条約である。実は、この核兵器禁止条約はオーストリアが主導する形でまとめられた。二〇一四年末、核兵器の非人道的側面を話し合う国際会議をオーストリアが主催、クルツ外相が「オーストリアは核を持たないことを誓う」と演説した。翌二〇一五年の核不拡散条約(NPT)の運用見直し会議において、オーストリアは前年の外相演説をベースにした「オーストリアの誓い」を文書化、各国に支持を求める運動を始めた。NPT会議では非核に向けての合意文書はまとまらなかったが、核兵器禁止を求める非核保有国の問題意識が、国連総会での核兵器禁止条約の審議という流れを呼び込み、今回の採決に至ったのである。
驚くべきことに、「原爆許すまじ」と叫び、「二度と過ちを繰り返しません」という誓いを国民合意として歩んできた日本は、この核兵器禁止条約に参加しなかった。理由は「日本は米国の核の傘に守られている」という認識に立って、核保有国、とりわけ米国に配慮して参加しなかったということである。「北朝鮮の脅威といった現実の安全保障問題の解決に結びつかない」という見解を表明、現状の枠組みを追認することから踏み出そうとしない姿勢を示したのである。
オーストリアは「核の傘」を理由に尻込みする日本に対し、「この条約は核の傘に留まることと矛盾しない」として、「核の傘」は核の使用に向けての「具体的行為」ではないという考え方で、条約への参加を説得した。つまり、核の傘の下にある非核保有国は、核による恫喝行為をしているのではなく、あくまで抑止行為なのだから、条約への参加は可能ということだった。それでも、日本は参加しなかったわけだが、それは北朝鮮問題を巡る日本の主張の正当性において、極めて後ろ向きの印象を国際社会に与えている。
北朝鮮の核・ミサイルによる脅迫に対して、「対話」によって問題が解決するとも思えない。KEDO、六か国協議といったこれまでの「対話」の経緯を振り返っても、北朝鮮という国は信頼できる対話相手ではない。「三代世襲の社会主義政権」という存在自体が「ブラック・ジョーク」であり、国民を犠牲にして「金王朝の存続」だけを目指す歪んだ先軍国家だからだ。国連合意による制裁を強化し、国際社会が結束して核放棄への圧力を高めていくことは間違いではない。ただ、その圧力に参加する日本は「なぜ北朝鮮の非核化にこだわるのか」、主張の正当性に筋道を通さねばならない。自国にミサイルが向けられているから大騒ぎしているのではなく、無差別殺戮兵器たる「核」の不条理を知る国の「非核」に向けての情熱を語るべきなのである。そのための前提として非核を目指す国々との連帯が不可欠で、「核兵器禁止条約に入らない」などという選択はありえないのである。
この条約は、九月二〇日から署名手続きが始まり、批准国が五〇か国に達した後、九〇日を経て発効する。もちろん、批准しない国に効力は及ばないが、批准国の「非核」への意思が条約によって確認されることになる。その文脈で、注目したいのは東南アジアの国々である。東南アジア諸国連合(ASEAN)の加盟一〇か国中九か国がこの条約に賛成した(シンガポールだけが棄権)。つまり、タイ、インドネシア、ベトナム、フィリピンなどが、「東南アジアの非核化」に強い決意を示したことの意味は重い。これらの国々は、日本の核政策、「北東アジアの非核化」への主導性を注視しているといえる。
 「北東アジアの非核化」に関しては、九月中旬に訪れたモンゴル・ウランバートルでも深く考えさせられた。モンゴルもこの「核兵器禁止条約」に賛成したのである。モンゴルは冷戦期にはソ連の衛星国であり、一九四八年以来、北朝鮮と国交を維持してきた。一九九〇年の「民主化」以後、韓国とも国交を持ち、北東アジアに独特の立ち位置を確保している。ロシアと中国の間に挟まれ、この2つの大国がプーチン、習近平という二人の強権的指導者によって変質しつつある今、「核兵器禁止条約」にコミットし、「非核化」の旗を立てていることは北東アジアにとって重要である。
 本来、日本こそ北東アジアの非核化の先頭に立って、「日本―韓国―モンゴル」の連携において、ロシア、中国という核保有国を牽制し、朝鮮半島の非核化に向けての基軸となる方向感を明確にすべきである。韓国も核兵器禁止条約には不参加であったが、文政権は核兵器の保有を否定する政策を示しており、「核をもった統一朝鮮半島」という悪夢のシナリオを回避するためにも、現時点から一貫して日本はこの地域の「非核化」にこだわるべきなのである。
北朝鮮問題にとってモンゴルは重要である。ロシア革命を受けて一九二四年に「モンゴル人民共和国」として社会主義陣営に入り、北朝鮮との国交の中で、金日成も二回、モンゴルを訪問した。前述のごとく、民主化後、韓国との国交を樹立したため、北朝鮮との関係が一時冷却し、大使館閉鎖などの動きもあったが、今日でも朝鮮半島の二つの国と良好な関係を維持しており、現在、約二〇〇〇人の北朝鮮からの労働者を受け入れる一方、韓国に三万人のモンゴル人労働者が働いているという。「北東アジア」の安定を強く意識する理由も分かる。
 日本が米トランプ政権の「あらゆる軍事的選択肢がある」という姿勢に運命を預託することは間違いである。日本は核戦争にコミットしてはならない。核兵器を恫喝に使う狂気の存在に対して向き合うとき、我々は核兵器が如何に不条理な兵器かについての想像力を取り戻さなければならない。私には、ワシントンに行くたびに気になる場所がある。ホワイトハウスの正面にラファイエット公園があるが、その公園を越えたところに小さな黄色い壁の教会が立っている。セント・ジョンズ教会である。トルーマン大統領が広島への原爆投下を決断する直前、この教会で一人祈りを奉げたと伝えられる場所である。大量無差別殺戮兵器の使用を、トルーマンはいかなる心の葛藤で決断したのであろうか。
 北朝鮮問題が軍事衝突という局面を迎え、戦争がエスカレートして、米国や日本の都市が核攻撃をうけることはもちろん、平壌が核の犠牲者となることさえも拒否しなければならない。そのためにも日本は、現段階、自らの核兵器の保有を拒否し、北東アジアの非核化を推進する意思を鮮明にしなければならない。核不拡散条約(NPT)の前提は、「非核保有国を核兵器で攻撃しない」というものであり、日本が国際社会に訴えるべきメッセージの基軸になる論理がここにある。

 

 

 

エネルギー地政学の変化を投影する油価

 

  さて、今回のウィーン訪問の主眼は「エネルギー地政学変化の確認」であった。八月末、ウィーンで第四二回の中東協力現地会議(主催:中東協力センター、後援:経済産業省)が行われ、私にとっても十一回目の参加で、基調講演を行った。この会議は、一九七三年の石油危機の後、当時の経済界のリーダーであった中山素平(日本興業銀行)、水上達三(三井物産)といった先達が、中東を単なる「石油モノカルチャー」の相手と見るのではなく、民族・宗教など多角的視点から向き合うべしという問題意識でスタートさせた会議で、日本の戦後を支えた経済人たちの志の高さを思わせるものである。
今年は、ロンドン・エコノミスト誌のシンクタンクたるインテリジェンス・ユニットの中東・アフリカ担当部長Dr. P. Thakerや開催地ウィーンに本部のあるOPEC(石油輸出国機構)の石油研究部長Dr. H. G. Fardなどの専門家も参加し、議論を深めることができた。
 石油価格の動きは時代の変化を映し出す鏡であり、二一世紀に入っての石油価格の動きを示すのが[資料1]である。原油価格の乱高下はすさまじいものがある。二〇〇一年の九月一〇日、つまりニューヨーク、ワシントンを襲った九・一一の同時多発テロの前日のNYの原油先物市場、WTIはバーレル二七ドルであった。それが、二〇〇八年夏、洞爺湖サミットの年、なんと一四五ドルにまで高騰した。背景にはイラク戦争を挟む中東情勢の不安定と二一世紀初頭の中国など新興国を牽引役とする世界経済の活況があった。ところが、二〇〇八年秋のリーマン・ショックを機に一気に三〇ドル割れにまで下落、その後再び上昇、二〇一〇年代に入り、二〇一四年秋まではほぼ一〇〇ドル前後の水準を動いていた。それが昨年、一時は二六ドル台水準まで急落、産出国経済に大きな打撃を与えた。現在は、ほぼ五〇ドル水準を回復している。

 

 


 二〇一四年以降の乱高下の背景にある要因は何か。まず、供給側の要因として、米国の原油生産増が挙げられる。二〇一四年以降、北米におけるシェールガス・ブームが一巡し、過剰供給からLNGの価格が下落、ビジネスモデルとしての魅力が後退し、投資が比較的価格が高かった原油に向かい始めた。二〇一四年には、米国がサウジアラビア、ロシアを抜いて、世界一の原油生産国になった。[資料2]を注視すれば分るが、供給過剰の主因は、米国の供給力拡大にある。加えて、昨年からは「核合意」後のイランが制裁を解除され、国際市場に戻ってきたことも大きい。昨年のイランの原油生産は四六〇万BDにまで回復した。OPECが生産調整に動いても、供給過剰を解消できない状況が続いている。 需要側の要因としては、世界的なエネルギーの利用効率の向上、省エネルギーの浸透がある。かつては一単位のGDP拡大を実現するには、一単位以上のエネルギー消費の増加が必要であった。「エネルギー弾性値」という視点だが、この一〇年間、この数値は〇・三に下がっており、例えば今年、世界全体の実質GDPは三・五%成長すると予測(IMF予測)されているが、それを支えるエネルギー消費の拡大は一%前後に抑えられる時代なのである。加えて、この夏、欧州諸国が相次いで「自動車の電気自動車化」という方針を明らかにしたが、「脱石油」に向けて世界は動き始めている。
 需給関係だけで石油の価格を展望した場合、二〇一〇年代に原油価格が七〇ドル水準を超すことは考えにくいというのが、会議に参加した専門家の意見の集約点だったといえる。
七〇ドルというのは、産油国の経済を安定させるための望ましい水準という意味である。
但し、一つだけ重要な変数として視界に入れるべきは「金融」という要素である。つまり、肥大化した金融が「コモディティー市場」に流入するというマネーゲーム的要素が働いた場合、一〇〇ドル超えもありうるという見方である。強欲なマネーゲームが経済の基本指標であるエネルギー価格を揺さぶるという構図は繰り返され、増幅されているといえる。マネーゲーマーはメディアを使い「供給不安材料」を誇張する情報を流す。直近では、ベネズエラの内政不安、ハリケーンによる米南部石油関連施設の被害など「需給構造」に与える影響を冷静に判断することなく、ことさらに強調する。
 マネーゲームがいかに石油市場を乱高下させる要因となるかを端的に示すのが「ハイイールド債」と呼ばれる債券の動きである。「ハイイールド債」とはハイリスク、ハイリターンの債券で、かつて「ジャンクボンド」といわれていたが、リーマン後、装いを変えて世界の過剰流動性を引き込んでいる。必ずしもエネルギー関連の債券だけではないが、「シェールガス・シェールオイル・ブーム」に乗って一儲けしたい投資家の資金を吸収してきた。[資料3]を見てもらいたい。「ハイイールド債スプレッド」とは、最も安定した債券といわれる米一〇年物国債の利率とハイイールド債の利率の差であり、昨年原油価格が二六ドルまで下落した時、シェール開発案件のデフォルトが増加、ハイイールド債のリスクが跳ね上がり、スプレッドが上振れしていたことが分る。現在、原油価格が五〇ドル前後に落ち着いているため、スプレッドも安定しているが、いかに危ういマネーゲーム要素が原油市場に内在しているかを痛感させられる実はこの問題、先月号でも触れた「デモクラシーは金融資本主義を制御できるのか」という課題に通底するものである。北朝鮮問題やトランプ政権の迷走など政治リスクが顕在化しているにもかかわらず、株価だけが史上空前の水準に高騰しているのも、「強欲なウォールストリート」の自己増殖以外の何ものでもないが、マネーゲームによって実体経済が揺さぶられるという病理が常態化している。悩ましいのは、情報ネットワーク技術革新が、AI(人工知能)、Fintechなどといわれる局面を迎え、「金融工学」が新たな局面に進化する中で、金融セクターの時代に対する責任という問題が重く存在する。何故なら、マネーゲームの肥大化が「格差と貧困」を増幅し、社会不安の根底に横たわるからである。

 さらに、中東の地政学的リスクだが、先述の「米国の原油供給力の高まり」や「脱石油」
という動きが金満アラブといわれた湾岸産油国にも微妙な圧力を加えつつある。六月、サウジアラビアをはじめとする中東六か国がカタールと国交断絶し、湾岸産油国の結束に亀裂が生じ始めているが、背景にはシーア派イランの台頭がある。今、中東で進行している構造変化の中で、最も重要なのは「シーア派イランの台頭とトルコの野心の高まり」であろう。一〇一年前、一九一六年の英国とフランスの間の秘密協定たる「サイクス・ピコ協定」によってオスマン帝国解体後の中東の分割統治が始まった。「大国の横暴」の始まりである。
一九六八年に英国がスエズ以東から撤退、代わって米国が湾岸に覇権を確立してきたが、イラク戦争後の統治に失敗、米国の中東でのプレゼンスは後退を続けている。大国の後退により、中東に埋め込まれた地域パワーの下絵が炙り出されてきた。それがイランとトルコの台頭であり、トルコ、イラク、イランにまたがるクルド族二五〇〇万人の独立への動きである。また、シリア介入を橋頭保として、中東での影響力を高めるロシア、トランプの中東政策の後押しを受けて増長するイスラエル―――中東は新たな地殻変動にある。
 こうした中東に日本はどう向き合うのか。産油国側のニーズも、単なる「化石燃料取引」を超えて多様化、多次元化している。日本は中東に領土的野心を持ったこともなく、軍事介入したこともない技術を持った例外的先進国として、信頼・期待されている。この立ち位置を自覚し、日本らしい貢献、意味のあるプロジェクトを確実に組成していくしかない。日本も世界史のダイナミズムの中にある。そのことを思い知らされた夏であった。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 08:15:07 +0900
岩波書店「世界」2017年10月号 脳力のレッスン186 二〇一七年夏への思索―内外の退嬰の中で https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1475-nouriki-2017-10.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1475-nouriki-2017-10.html  二〇一七年、不思議な夏が過ぎようとしている。この夏も、五月の米東海岸から八月の欧州まで、世界を動いて様々な目線で世界と向き合っている人達と語り合ってきた。また、故郷たる北海道から長崎、山陰など、国内各地を動き、日本の現実を直視する機会を得た。とくに、須坂での「信州岩波講座」に参加し、真摯に時代を考える人達の質問事項に、混迷する時代への深い苛立ちを感じた。知性と理性を語ることの空しさ覚える時代ではあるが、二〇一七年の夏を再考しておきたい。

 

 

 

内なる退嬰―――官邸主導政治なるものの限界

 

世界が「プラネット・トランプ」(英エコノミスト誌)といわれるほど、一人の米国人に揺さぶられる中で、日本では「森友・加計問題」という日本政治のレベルを投影する事案が露呈し、後ろ向きの話題に引き回された夏であった。どう考えても、矮小な話題なのだが、日本の政治の現状を炙り出す素材ではある。
「安倍晋三記念小学校」への国有地の格安な払い下げを巡る森友問題、「国家戦略特区」として今治での獣医学部新設の認可を巡る加計問題についての国会審議に登場した官僚達の表情を、私は複雑な思いでみつめた。文科省の事務次官だった前川喜平氏、経産省柳瀬唯夫審議官(元安倍首相秘書官)、和泉洋人内閣総理大臣補佐官(元国交省)―――実は若干の縁があって意見を交わす機会があった三人が、国会の閉会中審議の場に参考人として一堂に会して発言するのを目撃することになった。前川氏は覚悟を決めて自分の言葉で語っていたが、柳瀬、和泉の両氏は、不本意な状況に置かれたことへの当惑を込め、「記憶にない」「言っていない」と無機的な答弁を繰り返していた。私は、柳瀬氏が経産省の「原子力課長」として深い知識に立った踏み込んだ仕事をしていた時代を知っており、また和泉氏が「医療のパラダイム転換」などの研究会に主体的に参画する有能な行政官であることも認識している。学識、能力において際立つ行政官が「組織を守る」だけの答弁に終始する姿に、組織人の悲哀を感じた。
 私自身も組織人として生きていた時代もあり、組織の論理に合わせなければならない立場も分る。だが、彼らのような見識ある行政官に「言った、言わない」という次元の議論ではなく、政治家への「忖度」を超えて、官邸主導の意思決定の持つ問題点を聞いてみたかった。権力への個人的な距離の近さが、国からの支援という形で特定事業への恩恵をもたらすような「国家戦略特区」の現状で良いと考えているのかを語ってもらいたかった。
 安倍政権に近い人達と議論すると、現在の政治状況が、二〇〇九年の民主党への政権交代で、それまで長期政権を担ってきた自民党が権力を失った「悲哀」への反動として生じたことが分る。自民党は政権を失って「冷や飯」を食いながら、「政治は権力である」という思いを強め、「権力さえ持てば何でもできる」との思いで、二〇一二年に政権に復帰した。確かに、政治は「価値の権威的配分」であり、選挙を通じて権力を得た勢力が優位に配分を決めるのも現実である。しかし、民主政治とは「政治は権利である」という仕組みでもあり、国民の権利が後世に保障されねばならない。回復した権力を確実に行使する思いの政治家とその恩恵を期待して群がる人たちのゲームが動いたのである。
この問題の本質は、「政治主導、官邸主導政治の帰結」ということであり、「官邸レベルの政治」しかできないことの限界が突きつけられたのである。二〇一三年、安倍政権下で内閣法が改正され、官邸主導体制が深化された。「官僚主導から政治主導へ」「縦割り行政の壁を首相のリーダーシップで突き崩す」という政策は、「決められない政治」を克服するという文脈で理解されたといえる。これによって、首相官邸が各省庁の幹部人事を掌握、政治家たる官房副長官が内閣の人事局長として、省庁の人事権を掌握することで統合力を高めようとするものであった。
 人事権は組織社会では有効に機能する。各省庁は「官邸の意向」に一段と配慮せざるをえない構造が作り出された。実は、皮肉にもこのことが、官邸レベルの政治しかできない状況を作り出したのである。官邸と文科省の間だけではない、各省庁が官邸の政治判断に引き回され始めた。消費税増税を巡る官邸と財務省との齟齬、ロシアに傾斜する官邸主導外交を巡る官邸と外務省との齟齬、原子力などエネルギー政策を巡る官邸と経産省の齟齬など、幹部人事をちらつかせる官邸の意向を無視できない政治状況が生み出された。一般論からいえば、選挙で国民の信託を得た政治家が、高級官僚を主導して意思決定がなされることは妥当なことだが、日本の政治家が優れたリーダーとして練磨されているかといえば、「二世・三世議員の溜り場」という言葉があるごとく、家業として政治家をしている議員が多く、残念ながら政治家の知的レベルが低い。一方、学歴が知的レベルを示すものではないが、高級官僚は社会的に「一流大学」と呼ばれる大学の卒業者であり、政治家の側に知的コンプレックスを逆立ちさせた対応が存在することは否定できない。
 広く世界が抱える課題に目をむけ、「政策科学」に真摯に向き合い、科学的、客観的に政策判断をすることが必要だが、政治家はどうしても選挙を意識し、国民に受ける政策に惹かれる。「国家戦略特区」「一億総活躍」など、事大主義的キャッチコピーに飛びつき、実績を装いがちとなる。
 「知のレベル」は人生において形成する人的ネットワークに投影される。知を求める努力はそれにふさわしい友人を構築する。人脈を利用して、自分の事業を拡大することにしか関心のない輩にとっては、脇の甘い政治家が格好の存在となる。結局は、レベルの低いお友達と都合の良い御用学者だけが取り巻く政治に堕するのである。日本の意思決定に英知が凝縮されていない理由はここにある。
 ユダヤのジョークに「朝寝、昼酒、幼稚な会話、愚か者の集いに名を連ねること、これが身を滅ぼす」というのがあるが、世界の多くの政治家と向き合ってきたが、日本の政治家ほど不勉強で自堕落な存在は珍しい。そのことは、中川俊直、豊田真由子、今井絵理子議員など、このところ報じられる政治家の質をみれば語るまでもない。「政治で飯を食う」ことのハードルを高くすることが肝要であり、民主政治の目的は「政治の極小化」であることを自覚すべきである。二〇五〇年までに人口が二五%減少することを視界に入れれば、議員定数を三割削減することは「代議制の錬磨」のためにも不可欠な前提であろう。
 政治への過剰期待が政治主導の幻想を産み、官邸主導と称する歪んだ利益誘導を産む。トランプのアメリカが陥っている混迷も、「何かを変えてくれる」という閉塞感がもたらした幻想に由来するものであり、ポピュリズムを刺激して形成される政治への期待は必ず屈折するのである。

 

 

 

外なる退嬰―――トランプの迷走と空前の株高という怪

 

  トランプ政権がスタートして半年、この連載では、政権スタート時の二〇一七年二月号に「見えてきたトランプ政権の性格」として、人事の布陣から判断して「金融・軍事複合体」的性格をもつのではという見方を示した。そして、政権が三か月を超えた同五月号では「トランプ政権の本質」として、この政権がいかにウォールストリートの思惑に傾斜しているのか、つまり産業通商政策では「保護主義」を鮮明にする一方、金融政策についてはリーマン・ショックの教訓を忘れた「規制緩和」路線をとろうとしていることを論じた。
半年が過ぎ、迷走を深めるトランプ政権だが、政権の本質がより明確に示す「不思議な状況」を迎えている。トランプ政権の経済政策が成果を挙げているとは思えないのに、株価だけが異様に高騰しているという謎めいた状況にある。TPPからも離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)も見直しとしてアメリカの繁栄基盤を突き崩し、公約の「一兆ドルのインフラ投資」も「一五%への法人税減税」も何一つ進捗が見られない状況でありながら、何故か株価だけが跳ね上がり、DOWは実に史上空前の二・二万ドル水準を突破し、昨秋の大統領選挙の時点よりも二割も高騰している。リーマン・ショック後の底値(一・〇六万ドル)からすれば、倍以上に上がっているわけで、異様である。
「ウォールストリートの懲りない人々」と言われるが、金融資本主義の総本山は、実体経済や政治のリスクとは別次元のしたたかなロジックで株価を動かし、「根拠なき熱狂」の相場を形成しているということである。トランプ政権の布陣をみると、経済閣僚の中核をウォールストリートの出身者が占めていることが際立つ。しかも、フィナンシャル・タイムズさえもが指摘するごとく(4月28日)「ハゲタカ投資家主導の政権」になっている。財務長官のスティーブン・ムニューチン、商務長官ウィルバー・ロスもマネーゲームを生業としてきた人物であり、トランプの娘婿として政権に深く入り込んでいるクシュナーもゴールドマン・サックスで働いていた。
オバマ政権が二〇〇八年のリーマン・ショックに懲りて二〇一〇年に成立させたドッド・フランク法といわれる「金融規制改革法」でさえ、トランプ政権は早々と廃止を決めるなど、金融規制緩和に動こうとしており、ウォールストリートはそれを「追い風」としてマネーゲームを高揚させているのである。この事態は、トランプ政権において極端な形で顕在化していることだが、本質的には現代資本主義が抱える病理であり、「民主主義は金融資本主義の肥大化を制御できるのか」というテーマでもある。このことは、本連載の昨年十一月号において、二〇一六年大統領選挙の深層テーマが強欲なウォールストリートを規制できるかにあるとして論じた。しかし、トランプ政権はしたたかな金融資本主義に取り込まれ、「民主政治は金融資本主義を制御できない」方向に進んでいるのである。
 八月上旬、米西海岸を訪れた。強く感じたのは、西海岸と東海岸の差、とくにシリコンバレーとホワイトハウスの緊張である。現在の堅調な米国経済を牽引しているのは「IoT」という表現があるごとく情報ネットワーク技術革命の成果を経済産業のあらゆる局面に導入し、米国経済の生産性と効率を高める上で貢献しているICT産業である。その拠点ともいうべきシリコンバレーを主導する経営者たちのトランプ政権への眼差しは冷たく、厳しい。失望を通り越して軽蔑にも近い目線を感じる。創造的経営者は政府の助成も支援も期待しない。「自助」の精神を貫いているのである。
もう一つ、半年が過ぎたトランプ政権に新たな展開が起こっている。それは「軍事シフト」というべき動きで、制服組の軍人がホワイトハウスでの重みを増しているということである。象徴的なのが、七月三一日に海兵隊出身の将軍ジョン・ケリーを首席補佐官に起用したことである。国防長官のJ・マティスも海兵隊の将軍であり、陸軍出身の国家安全保障担当の補佐官H・R・マクマスターとともに、政権の要石が制服組の軍人によって固められつつある。トランプの側近中の側近で、当初は「影の大統領」とまでいわれた首席戦略官S・バノンは八月一八日に辞任した。右派ネットメディア(ブライト・バート)を率い、移民排斥、保護貿易、白人至上主義などの主張に置いてトランプの本音と最も近く、トランプ現象を支えた男が去ったのである。
 トランプ政権は息子、娘婿などの「身内派」、バノン等の「アメリカ・ファースト」を信条とする「イデオロギー派」、そして前述のウォールストリート出身の「金融派」と「軍人派」によって成り立っていた。それが、ここにきて北朝鮮問題の緊張の高まりもあり、制服組の軍人が政権を主導し始めている。トランプの本質は「家族経営型中小企業の経営者」であり、人事においては「忠誠心」だけを気にする。コミーFBI長官の解任時に見せた、「自分への忠誠」へのこだわりがそれを示している。職業軍人は決してトランプを尊敬しているわけではなくとも、国家や組織に対して忠実であり、言葉に虚言が無い。政権運営が混迷する中で、信頼が制服組に向かう力学も理解できる。
 かつて、アイゼンハワー大統領が、「産軍複合体」という言葉を使い、アメリカの国家としての基本性格が、産業と軍事の連動関係で戦争に向かう構造に傾斜することの危険を語った。トランプ政権のスタート時、先述のごとく、私はこの政権の本質が「金融・軍事複合体」になるのではと論じたが、半年が経過、このことはより鮮明になった。ウォールストリートの利害と職業軍人の論理が一致したところで、この政権の進路が決まるということであり、それはトランプ現象の震源地であった「白人貧困層」を中核とする草の根の米国人の期待とは真逆の方向であることは間違いない。
 八月一七日付のウォールストリート・ジャーナルがUSコメンテーターのエドワード・ルースの「米国にとって、現実的に最も深刻な脅威は北朝鮮かトランプか」という論稿を載せ、「米国の民主主義はトランプの射程距離に脅かされている」と指摘しているが、民主主義のリーダーだった米国は、都合の悪いメディアを「フェイク」といって拒絶する指導者による「民主主義の脅威」に晒されているといえる。そして、熟考すれば、日本も民主主義の価値を信じることのできない指導者が、国家による統合や規制こそ重要とする流れを作っているという意味では共通している。日米双方の指導者が、政治を「国民の権利」よりも「国家の権力」に比重を置いて牽引する志向を強めているのである。

 

 

我々が取り戻すべき「正気」

 

   五月のゴールデン・ウィーク期間だけでも、五〇人を超す日本の国会議員がワシントンを訪れた。それらの人たちと面談したワシントンにおける東アジアの専門家達の日本の政治家への印象が興味深かった。約言すれば、「日本人は小さいね」というのである。もちろん体の大小ではなく、世界観が矮小だというのである。
トランプ政権になって、アーミテージ・グループを始め大方の「ジャパノロジスト」「ジャパンハンドラー」、つまり日本問題で飯を食ってきた人たちは、舞台を降りた。ほとんどがヒラリー・クリントンを支持していたからである。日本人は知日派を親日派と誤解し、「日米安保は大切」と言って日本マネーを取り込む日本問題の専門家を頼りに日米関係を構築してきた。そうした連中が消え、「ジャパン・パッシングからジャパン・ナッシング」になったという自虐的認識も語られるが、ここは東アジア戦略全体の中での日本の存在が問われる局面と考えるべきである。東アジア広域の地域専門家は、当然のことながら中国と日本との対比の中で米国の戦略を構想する。そうした視界から見て、日本人の思考の枠が「小さい」というのである。
多くの日本の政治家は、北朝鮮の脅威と中国の危険性を語り、その脅威に「日米で連携して戦う」というレベルの話に終始するという。そこにはいかなる東アジア秩序を創造するのか、もしくはいかなるグローバル・ガバナンスを構想するのかという視界がないというのである。これに対し、中国はどこまで成功するかは別にして、AIIB(アジア・インフラ投資銀行)構想にせよ、「一帯一路」構想にせよ、次に目指す構想を打ち出し、グローバル・ガバナンスにおいて米国に代わるリーダーとしての構想を模索しているという。
中国はそうした構想を実体化させる「攻め筋」として強く欧州を意識している。トランプの米国と向き合うため、中国と欧州の関係がパラダイムを変え始めている。六月のEU・中国首脳会議(ブリュッセル)では、例えば北朝鮮問題への対応として「対話による解決」を合意してみせ、これが中国を通じた北朝鮮への圧力強化を要求する米国への牽制材料になっている。もちろん、中国がすべてうまくやっているとも思わない。拡大主義的傾向、民主化から遠ざかる習近平体制など、中国への警戒心も高まっており、とても「世界のリーダー」になれるとは思えない。だが、少なくとも中国は「グローバル・ガバナンス」を意図しているのである。
 静かに、日本の姿を鏡に映してみよう。大きな構想を模索しようにも近隣に友人がいない。アジアにおいて日本の指導者は敬愛、尊敬されていない。本来なら、成熟した民主国家として、「国民を大切にする政治」の見本を示さねばならない。米国の変容に対しても、無原則に寄りかかるのではなく、「アメリカ周辺国」から脱し、アジアにおいて米国が果たすべき役割を提起すべきであろう。残念ながら、この数年、日本が見せてきた姿は「政治は権力である」という「力の論理」に固執し、戦前のレジームへの回帰を目指す危うさを見せている。気が付けば、現在の日本は「近隣外交の失敗」というジレンマに陥っている。中国、韓国との関係が冷却したままであり、力を入れた「ロシアへの接近」も、北方領土での日ロ共同開発が同床異夢の幻想と化しつつある。六月、プーチンはサンクトペテルブルクで「日米安保がある限り、領土返還は難しい」と発言、近隣外交がことごとく空転しているのである。
 この論稿では、内外の政治の退嬰を論じてきたごとく、政治に過大な期待を寄せられる状況ではない。だが、最も大切なのは自らの国を正気の国」、筋道の通った国にすることである。原点に立ち返って、日本という国の国益を、地政学的立地、経済・産業構造を熟慮して考えてみよう。この国の最大の国益は「平和と安定」である。様々な対立の要素を極小化する知恵、宗教間の対話を促し、民族間の交流を深め、武力による問題解決を避ける叡智、それこそが日本が近代史の苦闘を経て確認した教訓である。
 福沢諭吉の「脱亜論」と樽井藤吉の「大東合邦論」という近代日本のアジア観を代表する対照的な二つの論稿が発表されたのは一八八五年(明治一八年)であった。その後の日本は列強模倣の「富国強兵」路線を歩み、日清・日露戦争で自信を深め、日本自身が植民地帝国と化し、「脱亜」を「侵亜」に転換して欧米列強と衝突する。欧米との関係が緊張すると「アジア還り」するのが日本のアジア政策であるが、「大東亜共栄圏」構想の挫折を踏まえ、戦後の日本は再び「脱亜」へと傾斜、高坂正尭の「海洋国家日本の構想」は一九六四年に発表されたが、これこそ戦後版の「脱亜論」といえる。
 今、アジアとの貿易が日本の貿易総額の五二%を占める時代(2016年)を迎え、アジアでの日本の存在感には「正当性」が求められる。近隣の国が括目するような、歴史の教訓と戦後七二年の蓄積を踏まえた、二一世紀の世界を牽引する構想力が問われている。それは「政治的現実主義」を理由に、米国の「核の傘」にしがみつき、国連の核禁止条約採択にさえ反対(七月)する国を脱することである。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 08:07:41 +0900
岩波書店「世界」2017年9月号 脳力のレッスン185 ひとはなぜ戦争をするのか―そして、日本の今 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1474-nouriki-2017-9.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1474-nouriki-2017-9.html  一九三二年、八五年前の夏、アインシュタインとフロイトという二〇世紀の知性を代表する二人の間で、「ひとはなぜ戦争をするのか」というテーマを巡る刺激的な往復書簡が交わされた。この往復書簡には興味深い背景があり、第一次大戦の悲劇を教訓として一九二〇年にジュネーブに設立された国際連盟が、物理学者アインシュタインに対して「最も大事だと思う問題について、最も意見交換をしたい相手と書簡を交わす」という要請をし、アインシュタインが提起したテーマが「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」であり、書簡を交わす相手として選んだのが、「夢の精神分析」の著者で心理学の大家フロイトであった。

 

 

 

アインシュタインとフロイト―一九三二年夏の往復書簡

 

彼はまず、人間も本質的に動物であり、「人と人のあいだの利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるもの」と言い切る。そして、「暴力」が肉体の力たる腕力から「武器」を用いることへと変化し、社会が発展するにつれて「暴力の支配」から「法(権利)の支配」へと進化したことを確認する。
 国際連盟という人類史上初の実験を評価しつつも、「すべての国々を統一できる権威を持つ理念は見当たらず」と冷静に事態を見つめ、一九一七年のロシア革命後、欧州の知識人の中に「共産主義」による世界平和の実現に期待する動きがある中で、ナショナリズムが根強く存在する状況下では「共産主義による世界の統一も無理」という二〇世紀の先行きを予見するような見解を示している。
 そこからが、心理学者フロイトの真骨頂というべきで、人間には「二つの欲望」が潜在し、対立していると語る。一つは「愛」(エロス)であり、保持し統一しようとする欲望、もう一つは「攻撃本能」で、破壊し侵害しようとする欲望だという。そして、この対立は善悪などではなく、相関・促進し合うものであり、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない」と言い切る。その上で、フロイトは戦争を抑制するものとして、文化の大切さに言及するのである。「文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩み出すことができる」というのがフロイトの結論といえる。
 このフロイトの議論に違和感を覚える人も多いはずだ。虚ろな理想論であり、政策論を欠く観念論のように思える。それでも、フロイトは文化が生み出すものとして、 一つは知性を強め、それが欲望をコントロールすること、二つは知性が攻撃本能を内に向けることを指摘する。「反知性主義」が跋扈する今日、無力に見えるフロイトの議論だが、再考に値する本質論だと思う。
この書簡が交わされた一九三二年という年は、実に微妙な年であった。一〇〇〇万人を超す戦死者を出した第一次世界大戦(1914~1919年)から一三年、第二次大戦に向かう「戦間期」であり、時代のうねりが新たに動き始めた時期であった。敗戦国ドイツにおいて、ナチの前身「ドイツ労働者党」が設立されたのが一九一九年であり、第一次世界大戦の終結に向けたベルサイユ講和会議が開かれた年であった。翌一九二〇年には「民族社会主義労働者党」(ナチ)と改称、ヒトラーがミュンヘンで二五か条の党綱領を発表し、ベルサイユ・ワイマール体制へのドイツ国民の反発をテコに、次第にその危険な体質を露わにし始めていた。そして、一九三二年七月の総選挙で、ついにナチが第一党となり、一九三三年の一月にヒトラーが政権を掌握する。したがって、この往復書簡は、まさにナチの台頭を背景として行われたということである。
一九三二年の日本はというと、三月に満州国建国、植民地帝国としての性格を際立たせた。また、五・一五事件の年であり、犬養毅首相が海軍の軍人により暗殺された。軍部急進派による初のクーデター事件であった。これに先立つ二月には前蔵相井上準之助、三月には三井合名の理事長團琢磨が血盟団によって暗殺されるという事件が続き、暴力によって局面転換を図る不穏な空気が満ち始めていた。五・一五事件によって八年間の政党内閣は終わり、海軍出身の斉藤実内閣となり、翌一九三三年には満州国問題を巡り国際連盟から脱退、日本は孤立を深め、ナチス・ドイツとの同盟と真珠湾への道に追い込まれていく。
 アインシュタインは米国に亡命後、一九五五年に死去するまで、プリンストン大学の高等学術研究所にとどまり、フロイトも英国への亡命した翌年、一九三九年に死去した。一九三二年のこの往復書簡は一瞬の邂逅であり、知の火花が飛び交った瞬間であった。

 

 

 

安倍政権の戦争認識―――戦後七〇年談話再考

 

   戦後を生きた日本人は筋道立てて日本の戦争を考えたことはあるのだろうか。今更、「戦争に至った理由」や「戦争責任」など考えても「仕方がない」として、「一億総ざんげ」という曖昧な空気のまま、思考停止となり、本当は心にもない近隣への「謝罪」を繰り返してきたといえる。
 歴史教育においても、近代史に真剣に向き合う気迫もなく、戦後日本の中学、高校での歴史教育も、多くの場合、縄文弥生から始まり、幕末維新で時間切れとなり、近代史への合理的認識に踏み込まないままに終わった。大河ドラマか司馬遼太郎から得た近代史の認識が、大方の日本人の認識として共有され、出来事の年表を記憶する程度の浅薄な歴史認識が定着してしまった。
フロイトのいう文化力を形成する知性の中核は歴史認識である。E・H・カーがいうごとく「歴史とは過去と現在の対話」であり、あえて言えば「過去・現在・未来の対話を通じた時間の繋がりを認識する力」であろう。つまり、民族の歴史を時間軸の中で客観視する歴史認識を踏み固めることが、その民族の文化力を示す「民度」といえる。
二〇一七年の夏、日本人の心に「戦争への誘惑」が静かに高まっているといえよう。ミサイル、核で恫喝・挑発する北朝鮮の脅威、海洋進出を露わにして尖閣を窺う中国の圧力、そして「力こそ正義」を隠さない米トランプ政権、露プーチンという存在―――時代環境は「力の論理への回帰」を誘い掛け、我々も「目には目を」の報復の論理に傾斜しかねない。そうした時代に向き合う今、日本人の知の基盤、とりわけ「戦争をどう総括しているのか」という歴史認識が問われているのである。
そこで、現在の日本を統括する安倍政権の歴史認識を確認しておきたい。それは二年前の二〇一五年夏の戦後七〇年談話に凝縮されている。そして、この政権の政策と行動はすべてその歴史認識から派生していることが分かるのである。戦後七〇年談話のための「有識者会議」なるものを立ち上げ、都合の良い「御用学者」と不勉強な経済人を並べ、その報告をも参考にした談話だったのだから、ある意味では「現代日本のエスタブリッシュメント」による歴史認識ともいえる。
その戦後七〇年談話が、「戦争責任」や「近隣への謝罪」をどういう表現で乗り切ったのかというメディア的関心よりも、「なぜ戦争となったのか」という本質的認識に焦点を当ててみたい。第一次大戦後から第二次世界大戦に至る展開について、七〇年談話は次のように述べる。「第一次大戦を経て、民族自決の動きが広がり、植民地主義にブレーキがかかりました。・・・・人々は『平和』を強く願い、国際連盟を創設、不戦条約を生み出しました。」・・・「当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして日本は、世界の大勢を見失っていきました。」―――― もっともに聞こえるこの認識の重大な欠陥に気付かねばならない。
 この戦間期こそ、一九三二年、先述の往復書簡が交わされた時期である。戦後七〇年談話では、日本も国際協調路線に進みだしていたが、世界恐慌が起こり、「ブロック化」の中で孤立感を深めた日本が「行き詰まり」を「力の行使」で解決しようとして戦争に至ったかのごとき、受け身の日本という認識が示され、「やむをえなかった」というニュアンスが込められている。しかし、この捉え方は的確ではない。日本は自らが欧米列強の植民地にされるかもしれないという緊張の中で「開国・維新」を迎え、「富国強兵」で自信を深め、日清・日露戦争を「戦勝」で乗り切った辺りから、「親亜」(アジアへの共感)を「侵亜」(日本によるアジア支配)に反転させ、自らが植民地帝国と化していった。この過程こそ戦争への誘導路として認識されねばならないのである。
 この「脳力のレッスン」という連載の一六五回「『運命の五年間』から百年―――戦後70年の日本への問いかけ」(「世界」2016年1月号)において、私は第一次大戦に「日英同盟」という集団的自衛権を根拠に「山東利権」を求めて参戦した日本が、一九一九年のベルサイユ講和会議に列強の一翼を占める形で参加するまでの五年間を注視した。そして、この五年間における、一九一五年の「対華二一カ条の要求」、一九一七年のロシア革命に対する「シベリア出兵」と植民地帝国に豹変していく過程こそ、やがて戦争の災禍に引き込まれていく転機であったことに論及した。受け身の外部環境要因だけで、戦争を語ってはならないのである。もし、百年前の「運命の五年間」の日本に世界史の潮流を見抜き、欧米追随の路線ではなくアジアの自立自尊に資する日本の選択を構想できる指導者がいれば、日本の運命も変わっていたというのが私の見解である。「仕方がなかった」「日本だけが悪かったわけではない」というプラグマティズム(政治的現実主義)に帰結する歴史観が、戦後七〇年談話には重く横たわっている。
 驚いたことに、この戦後七〇年談話を「右派論壇の知性」ともいうべき渡部昇一氏が「百点満点だ」として絶賛した(WILL、二〇一五年10月号)のである。如何なる点で「百点満点」なのか、改めて読み直してみた。確認できることは、「東京裁判史観を否定し、隠れたアメリカ批判を内在させていること」への評価であり、「中国、韓国への懸念」を明示していることへの支持である。七〇年談話に象徴される歴史認識が、その行く先に「戦後民主主義」を否定して国権主義、国家主義、そして全体主義への回帰をもたらしかねないことを賢明な渡部氏は気付いていたはずだが、その渡部氏ももういない。
四月に八六歳で亡くなられた渡部昇一氏だが、五年前、日本を代表する一〇人ほどの個人蔵書家を連れて九段下の寺島文庫を訪ねていただいたことがあった。渡部氏自身が一五万冊の蔵書を持つ方であり、じっくりと寺島文庫の蔵書と所蔵品を観察された後、懇談をされていった。アナログの書籍が配架された中で思考することの重要性を語り合う、充実した時間だった。「ここに集積されている本の密度が濃い」とする励ましの礼状が届き、嬉しかった。亡くなられてから、「渡部昇一 青春の読書」という本(ワック社刊、2015年)を手にし、渡部昇一という人物の知的基盤形成の過程に触れた。山形県鶴岡市に生まれ、旧制鶴岡中学生として敗戦を迎え、一九四八年に学制改革により県立鶴岡第一高等学校三年生になるという「戦中派」として、戦争と戦後を体験したことが理解できた。
 私なりに渡部氏の「知の軌跡」を辿るならば、「共産主義、社会主義とは肌が合わない」と感じ、若くして「全体主義」を拒否する感性を身につけている。そして、中学生として敗戦の衝撃を受け止めるという体験をする。戦場や戦争の災禍を直接体験しなかった銃後の「軍国少年」の世代の戦争への目線は微妙で、「ジャワの乙女の歌」や「マニラの街角で」を歌った少年時代を過ごしている。我々のような戦後生まれの「戦争を知らない子供達」の戦争観とは異なる目線であり、じっと戦後の大人社会の混乱を見つめる中で、「日本だけが断罪される東京裁判の不条理」と「アメリカの抑圧的寛容」に湧き上がる疑念を内在させながら生きたといえる。そして、世界の歴史文献に通暁するにつれて、「日本だけが悪とされるべきではない」という論理に突き進み、「日本民族の誇り」を強く語りかけるに至った。
 人間は誰も自分が生きた時代を「世代」としてひきずる。自分が体験したことに誠実に向き合い、世代の責任を果たさねばならない。私は「知的生活の方法」(講談社現代新書、1976年)を読み、知を求める先達として渡部氏を敬愛するが、戦後七〇年談話を礼賛する主張には賛同できない。何故ならば、七〇年談話に込められた歴史認識の歪みが日本の未来を暗く重苦しいものに向かわせているからである。集団的自衛権を解釈改憲してまで推進した「安保法制」から「共謀罪法」に至る政策思想、さらに「憲法改正」を目指す流れを注視するならば、明らかに「軍事力、警察力」という国家権力を強化し、国家の統治力を高める国家主義、国権主義へと日本を傾斜させていることは否定できない。それは、やがて「国民主権」を否定して国家権力による過ちを国民に押し付ける歴史を繰り返すことになるであろう。

 

 

日本人として今考えるべきこと

 

   もう一度、戦争に至った日本近代史を見つめてみよう。大恐慌後の一九三〇年代に入り国際的に孤立して真珠湾に追い込まれていく過程で、日本が道を間違えたのではない。第一次大戦期の「運命の五年間」、一九一四年から一九一九年、欧米列強模倣の力比べに参入、新手の帝国主義国家としての路線を露わにし始めた、「対華二一カ条の要求」がその嚆矢といえる。そして、一九二三年の関東大震災を受けた人心の不安に乗じ、一九二五年に治安維持法を公布、言論・思想の自由を規制する方向に踏み込んでいく。統制は統制を呼び、やがて「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく」として統合国家への誘惑を覚え、軍事優先の軍国主義国家へと変貌していく。「この道はいつか来た道」という言葉があるが、「日本を取り戻す」という叫ぶ日本は、戦争に至った日本への回帰を図り始めているのではないか。
 一九二四年十一月、死去する四か月前の孫文は、神戸で有名な「大アジア主義」についての講演を行った。その締めくくりで孫文はこう述べている。「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれから後、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。」孫文は日中連携論者であり、辛亥革命に向けて彼を支援し、心を通わせた日本人も多かった。アジアの中で先駆けて列強との不平等条約を改正した日本への期待も大きかった。それ故に、一九一五年の「対華二一カ条の要求」以降、西洋覇道への模倣に傾斜する日本への失望も深かった。日本が孫文の警鐘に聞く耳をもたなかったことは、その後の歴史が示している。
 世界潮流は、先述のごとくトランプやプーチンが発するメッセージや北朝鮮、中国の圧力を受けて、「力こそ正義」の空気が溢れつつある。反知性主義が大手を振る状況の中で、苦慮しつつも、やはり私は「文化力」と「知の力」にこだわりたいと思う。憎しみの連鎖を抑えるのは知性(文化)であり、日本を再び誤らせてはならない。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 08:00:17 +0900
岩波書店「世界」2017年8月号 脳力のレッスン184 シルバー・デモクラシー再考―国民を信じるという視座 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1473-nouriki-2017-8.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1473-nouriki-2017-8.html  日本は間違いなく異次元の高齢化社会に入った。本年五月の時点の推計で、日本の八〇歳以上の人口は一千万人を超し、一〇六四万人になったという。百歳以上の人も七万人を超え、正に異次元というべき高齢化局面を迎えた。六五歳以上では三四〇〇万人を超え、総人口の二七・六%となった。
 二〇五〇年状況を視界に入れるならば、六五歳以上の人口は三八〇〇万人、総人口比三八%、八〇歳以上では一六〇〇万人、一〇〇歳以上も五三万人と予想される(中位予想)のである。人口の四割近くが高齢者ということは、有権者人口を分母にとれば五割、「若者の投票率は高齢者の半分程度」という傾向が延長されれば、有効投票の六割が高齢者によって占められ、「老人の、老人による、老人のための政治」が加速されるであろう。「シルバー・デモクラシーのパラドックス」である。
 二〇〇八年に一・二八一億人でピークアウトした日本の人口は、本年五月の推計値で一・二六七億人と既に一四〇万人も減少した。さいたま市(129万人)、仙台市(109万人)級の百万都市、もしくは北陸の金沢、福井、富山の三市の合計人口一一五万人よりも多くの人口が既に減ったことになる。日本の人口が一億人を超したのは一九六六年であったが、四二年間で二八〇〇万人増えた人口が、二〇〇八年を境に減少を始め、二〇五〇年前後に一億人を割ると予想される。急速な人口減と人口構造の異次元の高齢化、社会科学は人口論に始まり人口論に終るといわれるが、人口構造についての基本認識が、日本の将来を論ずる基盤である。

 

 

 

岩波新書「シルバー・デモクラシー」への反響

 

 本年一月に岩波新書から「シルバー・デモクラシー」を上梓して五ヶ月が過ぎた。幸いに四刷にまできて、少しずつ戦後民主主義を再考する上での叩き台として読まれているようで、様々な意見をもらった。深く再考させられたことを整理しておきたい。
 第一は、異次元高齢化は決して老人の問題ではなく、若者こそ真剣に受け止めるべき課題だということである。この数カ月、高校生と向き合う機会が多かった。群馬県高崎高校、千葉県市川学園、東京都八王子東高校で、「今、我々が生きる時代」を語った。驚いたのは高校生の真剣さであった。高崎高校の学校新聞の記者からの質問は、なんと「AI(人工知能)の時代に人間はどう生きるのか」であり、「国の借金が増え続けて、財政が破綻したら国家はどうなるか」であった。確かに彼らが生きていく時代が抱える課題は重く、大人社会の危うさに彼らは気付いている。未来が「希望」であるよりも「苦闘」である時代の空気を若者は感じ取っているのだ。
 異次元の高齢化社会は、若者に対し待ち受ける「長い人生」に耐えうる準備、つまり腰の入った人生設計を求める。これまでは、学校に入り、就職してその会社を勤めあげて定年退職を迎えれば、後は「第二の人生」であった。だが、これからは定年後も四〇年生きることを想定して人生を構想しなければならないということで、「九〇年生きることを前提とした知的武装」が必要だということで、だからこそ高齢化は若者の課題でもあるのだ。学校に入るための学びではなく、自分の長い将来を豊かにする「知の武装」、そして「人生を通じた再武装」が求められるのだ。
 第二は、微妙な高齢者世代間の差、つまり七〇歳前後の団塊の世代と八〇歳前後の高齢者の認識の差である。私自身は「団塊の世代」として戦後生まれ日本人の先頭世代であるが、戦争の体験を記憶の中に残す八〇歳前後の世代の人達との時代認識の差が大きいことを改めて知った。八〇歳前後の世代は「軍国少年のたまご」としての幼少期を体験し、戦後の混乱期を生きた人たちであり、我々団塊の世代は「戦争を知らない子供たち」である。思い知らされたのがなかにし礼氏との対談であった。なかにし礼氏の原体験は「国家に裏切られた体験」であり、敗戦後の満州で日本国に見捨てられ、帰国せず現地で生きて欲しいと本国にいわれ、国策なるものの虚構を噛み締めた人達である。国家主義への懐疑、それこそがこの世代の人達の静かな重奏低音である。それに対して、戦後だけを生きた七〇歳前後の我々の世代は、国家とか国権による統合に対する緊張感が希薄である。国家による強制も抑圧も体験したこともない幸福な時代を生きたからである。
第三は「生産年齢人口」という概念の虚構性である。「一五歳から六四歳を生産年齢人口とする」という考え方は明らかに時代の現実とずれている。まず、現実に一五歳から二二歳の人の過半は「学生」という時代で、労働に従事していない。この傾向は「学習期間の長期化」によってさらに伸びている。また、「六五歳以上は生産活動に参加しない」という括りも、九〇歳を生きる時代状況からみて非現実的である。
静岡県は七五歳以上を高齢者とする考え方に政策軸を変えようとしているし、埼玉県は七五歳にまで生産年齢人口を引き上げる形で、「生産年齢人口の減少」という思いこみを変えようとしている。「統計の魔術」に陥って一律に決めつけるのでなく、柔らかく現実を見つめ、国民のポテンシャルを生かすことが大切で、そこから高齢者、女性、学生などの社会参画の構想が生まれてくるのだと思う。「高齢化=衰亡化」と考えるのは早計である。
 そこで第四のポイントであるが、私が提起した「都市郊外型高齢化問題の深刻さ」について、正にそこに住む人達から多くの反応を得た。戦後日本が成長期に作った状況、つまり産業と人口を大都市に集中させ、外貨を稼ぐ産業(鉄鋼、エレクトロニクス、自動車)を育て、食料は効率的に海外から買うという国を創りあげたことによって、東京を取り巻く国道一六号線沿いに団地、マンション、ニュータウンを林立させた。正に、サラリーマンのベッドタウンといわれた国道一六号線付近の住民が急速に高齢化しているのである。しかも、世帯構造が単身化しており、団地・マンションというコンクリート・ブロック空間に大量の独居老人を押し込めて異次元の高齢化社会に突入しようとしているのである。
 八〇歳でも七割は健常者だといわれる。だが、社会との接点を失わせたら、精神的に健康とはいえない人が大量発生するであろう。人間とは社会的動物だからである。行政へのクレーマーと化した人の傾向をみると、多くは「七〇歳以上の男の高学歴者」である。社会工学的知恵で、高齢者の参画のプラットフォームを創ることが問われるのである。
 横浜の団地の高齢者たちが力を合わせて長野でリンゴ作りをする活動(浜っ子農園)について「シルバー・デモクラシー」で触れたが、「移動と交流」で国道一六号線沿いを活性化しようとする試みが少しずつ動き始めている。私が関わる多摩大学では、地域社会の人と学生を対象にした「現代世界解析講座」というリレー講座を年間二四回、九年半で二二八回積み上げてきたが、参加者は延べ一二万人となった。今年度から参加者に呼びかけ、農業体験を始め、五月末に三二人の参加者が山梨で田植え体験を試みた。地域の大学、行政(多摩市)、企業(多摩信金)などが力を合わせて、高齢者が参画できるプラットフォームを創造する努力が大切だと思う。もちろん、農業体験だけではない。地域の子育てであれ、教育であれ、社会的に意味のある活動に参画し、貢献する様々な活動が実行されていいし、事実「なるほど」と思われる多様な活動の報告を受けるようになった。

 

 

 

英国の総選挙にみる世代間GAP

 

   シルバー・デモクラシーを考えさせられる素材が世界でも動いた。英国の総選挙である。二〇一六年の世界における想定外の出来事として、英国のBREXITと米国のトランプ当選が語られるが、この二つの選択において、英国の若者は「EUに残るべき」という選択をし、サンダース現象でヒラリーを追い詰めた若者も、究極の二択「トランプ対ヒラリー」となった時は総じてヒラリーを選んだ。にもかかわらず、高齢者層の選択に引っ張られる結果となり、そのことは新書本でも「シルバー・デモクラシーのパラドックス」として触れた。政策判断における世代間GAPは世界的事象といえる。
 EU離脱を決めた国民投票から一年、英国を率いるメイ首相は総選挙に打って出た。結果は「メイの誤算」といわれるごとく、与党保守党の敗北であり、三三〇議席あった保守党は三一八に後退、三二六という過半数を割りこんだ。決定づけたのは若者であった。一八歳から二五歳の若者の投票率が、昨年の国民投票時の四三%から六六%に上昇し、その六二%は労働党を支持したという。労働党は「大学授業料も無料化」「医療保険サービスの充実」などを公約に掲げ、若者を引き付けた。「財源はあるのか」と問われると、「タックスヘイブンまで使って税金逃れをする大企業と大金持ちから取ればいい」と主張、昨年のパナマ文書の開示によってキャメロン前首相の一族の名前が浮上、一気にキャメロン政権の正当性が失われた事態を思い起こさせ、現実の政策論としては無責任な主張であるにもかかわらず、拍手を受けることになった。
 メイ首相は、世代間の分配の公正化にも強い問題意識があり、高齢者に介護の自己負担を重くする政策を提示した。これが老人の離反を招いた。二重の痛手となり、大敗を招いたのである。
 世代間の分配の公正化については考えさせられる資料がある。二〇一四年のOECD資料によれば、「年金所得代替率」(年金受給水準の現役世代所得に対する比率)は、オランダの九〇・五%、スペインの八二・一%などを先頭に欧州諸国が極端に高いことが分る。日本は三五・一%とOECD加盟国の中では低いが、高福祉は高齢者にとっては望ましくとも、後代世代にとっては荷重となることを考えるならば妥当とも思える。ちなみに高福祉国家のように見られがちの英国だが、実は年金所得代替率は日本よりも低く、二一・六%である。
 日本の場合、年金受給水準は低いようにみえるが、金融資産、有価証券の七割は高齢者が保有しており、年金に加え金融資産運用からの利益は、ほとんど高齢者によって享受されている。それが高齢者ほどアベノミクスを支持する傾向と結びついている、新書本で分析したごとく、マイナス金利にまで陥った金融政策の中で、定期預金の利息などあてにできず、株が上がることへの期待だけが肥大化する。本年六月現在、日銀のETF買い(約一七兆円)だろうが、年金基金(GPIF)の日本株購入(約三六兆円)だろうが、官製相場であっても株が上がる政策に老人の拍手が起こるのである。これこそがアベノミクスを支えるシルバー・デモクラシーのパラドックスである。

 

 

二〇一七年日本政治の退嬰―――安倍政権の本質的な問題

 

  二〇一七年夏の日本の政治は、内政・外交ともに驚くべき退嬰と閉塞感に埋没している。約言すれば、森友・加計問題で政治が歪んだメカニズムで意思決定されていることが明らかになっても、日本の民主主義が「共謀罪法」によって窒息させられる可能性があっても、「株価さえ上がれば結構だ」という判断で、高齢者のアベノミクス支持は動かないのである。その株価は、先述のごとく、日銀が株式市場から直接株を買い、国民が積み上げてきた年金基金を運用するGPIFが、「株価変動のリスクをとった運用」へとルールを変更してまで基金の四分の一を国内株式で運用するという「健全な資本主義」とはいえぬ異様な構造で成り立っているのだ。
 つまり、公的資金を投入して株式市場を支えているわけで、この約五三兆円の公的資金が市場から去れば、現在二万円前後を動いている日経平均は間違いなく一・二万円を割り込むまであろう。官製相場に支えられた歪んだ資本主義にしてしまったのである。この自堕落な構造に強い疑問を抱くべきは戦後日本を生き、日本の産業社会を支えてきたはずの高齢者でなければならない。マネーゲームに幻惑された経済社会ではなく、公正で健全な経済社会にこだわらねばならないはずだ。
 もう一つ、戦後民主主義なる時代を生きた世代が、自らの思想の基盤として踏み固めるべきは「民主主義」への覚悟である。簡単に国権主義、国家主義に共鳴するのではなく、民主主義の光と影を咀嚼したうえで、「国民の意思」を大切にすることの意味を強く認識することである。現在の日本は、近隣との緊張を背景に、軍隊(自衛隊)と警察権力を強化する方向に回帰し始めている。「安保法制」から「共謀罪法」に至る流れは、国家権力による統合を志向しており、根底には「国民の自由な意思表示、行動を信じない」という思考が横たわっている。政治は権力であり、権力による統合が社会を安定させると考えているのである。
 この「脳力のレッスン」において、連載内連載という形で「一七世紀オランダからの視界」を既に四五回にわたり積み上げているのも、「近代」を問い詰めているからであり、近代の要素たる「資本主義」と「民主主義」と「科学技術革命」は相関していることを確認する作業でもあるが、この基本的なことが理解できていないのが日本だと思う。とくに、民主主義をマッカーサーによって与えられた民主主義だと思い、国家主義的日本に戻すことを祈念している人達が多く存在するのが現実なのである。
 「民主主義」というものを改めて再考させられる機会があったので触れておきたい。六月上旬、「香港返還二〇周年」の年を迎えた香港のホテルで、香港島の満艦飾のような夜景をみながら、一九七五年に最初にロンドンを訪れて以来、四〇年以上も観察を続けてきた英国についての論稿(「ユニオンジャックの矢―――大英帝国のネットワーク戦略」(NHK出版、本年七月末発行)の最終章を書いていた。そして、第二次大戦期の英国を率いたチャーチルの「回顧録」や関連の書物に、目を通していた。そして、英国における民主主義と日本における民主主義への認識の違いを考えていた。
 W・チャーチルが首相に就任したのは一九四〇年五月一〇日であった。ヒトラーが西部戦線の攻撃開始を指示したのが五月一日、チェンバレンの後を受け、保守党、労働党、自由党の挙国一致内閣であった。英国が直面している状況は悲惨であった。五月一五日にオランダが降伏、五月二八日にはベルギーも降伏、五月二八日からの八日間がダンケルクの大撤退であった。大陸に展開していた二二・八万人の英国軍と一一・二万人の仏・ベルギー軍がナチス・ドイツに追い詰められ、兵器弾薬さえ捨てて、八五〇隻の漁船、内航船、石炭船、ヨットをかき集め、命からがら英国に逃れたのである。六月一四日にはパリが陥落し、フランスは降伏する。七月一〇日には英国への爆撃が始まり、「あしか作戦」といわれるナチの英国上陸作戦も切迫していた。こうした苦渋の中でチャーチルは「我々は決して降伏しない」と英国民を鼓舞し続けた。
 この頃のチャーチルの心を支えたものは何だったのか。ジョン・キーガンの「チャーチル――不屈の指導者の肖像」(岩波書店、2015年、原書2002年)によれば、彼は「父の教え」としての「国民を信じること」だったと語っている。「国民を信じること」、実はこれこそがデモクラシーの原点である。ナチの専制を跳ね返す力の源泉を「国民を信じる」という民主主義に求めたのである。歴史家でもあるチャーチルが「民主主義」を思う時、英国が一七世紀の「ピューリタン革命」と「名誉革命」という血塗られた葛藤の中から、立憲君主制という形で民主主義を根付かせた記憶が蘇ったことは想像に難くない。そうした思いがルーズベルトを引き寄せ、アメリカの支援・参戦をテコに反転攻勢に向かう基点となったのである。
 アメリカには一九三五年に制定された「中立法」があり、「欧州の紛争に巻き込まれたくない」という国民世論も強く、当初、第二次大戦には参戦しなかった。しかし、チャーチルの要請もあり、ルーズベルトは次第に方向を転換し、「米国が民主主義国の兵器廠になる」との意思で、一九四一年三月に「武器貸与法」を成立させた。それでも、直接的な参戦には慎重であり、武器援助、後方支援に徹していた。
 その米国が欧州戦線に参戦する転機となったのは、皮肉にも日本の真珠湾攻撃であった。米国の政治家で共和党の重鎮だったハミルトン・フィッシュが「ルーズベルトの開戦責任」(2014年、草思社、原書1976年)で「FDRは議会を欺いて、日本を利用して対ドイツ戦争を始めた」と述べるごとく、「欧州参戦の流れをつくるために、日本の先制攻撃を誘発したルーズベルトの陰謀説」が根強く存在する理由でもある。一九四一年一二月七日(現地)の真珠湾攻撃を受けて一二月八日に米英は対日宣戦布告、一二月一〇日にはマレー沖海戦で、英戦艦プリンス・オブ・ウェールズが撃沈され、グアム島は占領される。そして、一二月十一日、ついに米国はドイツ・イタリアに宣戦布告、欧州戦線に直接参戦した。チャーチルの英国を救ったのは、米国を挑発した日本であった。
この辺り、日本人の認識と微妙なズレが生じる。日本人は「アジアの植民地解放のための戦争」と思いたがるが、欧米の識者の目線からは「ナチと手を組んだ専制軍事国家の挑戦」なのである。一九四〇年九月、日本は日独伊三国軍事同盟という形でナチス・ドイツと同盟関係を結ぶ。日本人の意識には存在しないことだが、「ユダヤ人六〇〇万人を虐殺したナチスと結託した反民主主義陣営に与した国」という汚名を引きずる同盟であった。
 日本人の意識には「ドイツとの枢軸国同盟に参加した」という認識は埋め込まれているが、「ファシスト・ナチ陣営」「反民主的全体主義陣営」に加担したという認識は希薄である。日独伊軍事同盟も、政治的現実主義(プラグマティズム)に立てば、快進撃するドイツを横目に、「勝に乗ること」に目を奪われたわけで、「仕方がなかった」ことになる。
 結局、民主主義とは国民を信じることだと思う。現在の日本政治を見ていると、政治で飯を食う人達の民主主義への本音が透けてみえる。つまり、国民を信じていないのである。移ろいやすく、放っておくと何をするかわからない。ポピュリズムへの傾斜も「大衆迎合」と理解されがちだが、実は権力側からは都合の良い「大衆操作、扇動」への誘惑である。
今、戦後民主主義が本物か否か、どこまで根付いたのかの試金石となるのが、戦後なる時代を生きた高齢者である。この層が、経験と蓄積を基盤に、若者に何を諭し、選択すべき座標を示しうるのか、ここが正念場なのである。
 日本の政治は、激変する世界情勢の中で、再び「プラグマティズム」(政治的現実主義)の名の下に、現実的計算での行動選択に向かっている。米外交専門誌「フォーリン・アフェアズ・レポート」(2017、NO5)はトム・リ論文「日本のプラグマティズム外交の代償」を掲載し、「安倍外交が、政治リスクの高いプーチンやトランプのような反リベラルを掲げる権威主義的指導者に接近することを、他に選択肢のないプラグマティズムと信じているようだが、いずれ歴史の間違った側に立つことになる」と警鐘を鳴らす。確かに内外政ともに、アジアの成熟した民主国家としての立ち位置を見失っているといえよう。
「力の論理」に誘惑される前に、「国民を信じること」、これが民主主義の原点である。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 07:52:15 +0900
岩波書店「世界」2017年7月号 脳力のレッスン183 東南アジアの基層と西欧の進出―ーーバタヴィア経由のオランダを見つめた江戸期日本 ―一七世紀オランダからの視界(その45) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1472-nouriki-2017-7.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1472-nouriki-2017-7.html   「アジア」という言葉の語源については諸説あるが、トルコの地名「アッソス」に由来するという説が有力だという。小アジア半島のエーゲ海に面した町をギリシャ側からみたとき、あの背後に横たわる謎めいた世界、中国、インドやペルシャをも包含する地域の総称を「アジア」とイメージしたのだという。つまり、「アジア」という概念自体が「西欧」の対置概念であり、西欧社会が設定した視界なのである。中国、インド、メソポタミア、それぞれ優れた古代文明を持ちながら、その後の大航海時代、そして植民地化という時代を経て、「アジア」概念の受動化が定着した。

 

 

 

東南アジアという地域の基層

 

「東南アジア史」という講座が最初に設けられたのはロンドン大学で、一九四九年だったという。この講座の初代教授はD.G.E.HALLで、一九五五年には、この分野の先駆けともいえる「東南アジア史」(A History of South―East Asia)を出版した。東南アジアといっても、ユーラシア大陸側の「大陸のアジア」とフィリピン、インドネシアなど島々から成る「海のアジア」とでは地勢を異にする。大陸のアジアは「インドシナ半島」と呼ばれる地域で、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)を意味し、「インドシナ」、つまりインドとシナ(チャイナ)の周縁地域というイメージが付きまとう。
確かに、今日ではマレー半島と繋がっているシンガポールを訪れ、セントーサ島にある「ユーラシア大陸最南端の碑」に立ってマラッカ海峡を眺めると、シンガポールが大陸と海のアジアの接点であり、東南アジア全体がそれぞれの地域文化の基層の上に「インドと中国の文化的浸透力」を受けたことが分る気がする。
東南アジアの「インド化」という視点の由来は、フランスのアジア学の先駆者ジョルジュ・セデス(1886~1969年)の「インド化」論にあるといわれる。東洋学者として、仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の首都ハノイにあったフランス極東学院で研究を続けたセデスは、「インドシナおよびインドネシアのインド化した諸国」(1948年刊)において、紀元前からあったインドとの交易を通じて、インド文明を起源とする五つの要素(①ヒンドゥー教、大乗仏教、②インド的王権概念、③インドの神話・伝説「プラーナ」、④宗教法典「ダルマ・シャーストラ」、⑤サンスクリット語)の組織的受容が西暦紀元頃から始まり、東南アジア地域での古代国家形成を促したことを検証しようとした。その後、東南アジア研究も進化し、「インド化」が交易を通じて浸透したのは紀元後四~五世紀とされているようである。
中国と東南アジアの歴史的関係は「インド化」以上に重層的である。秦の始皇帝の時代に現在のベトナム北部に版図を広げ、統治体制に組み入れていた時代もあるが、交易と交流という関係において、中国はインドシナ半島との長い歴史的関係を有し、紀元一~二世紀には、中国とインドを結ぶ交易ルートができ上がり、扶南(現在のカンボジアにおけるメコン河口)やベトナム中部の林邑(チャンパー)に港湾都市が形成され、七世紀ごろまで活況を呈していたという。
中国の歴代王朝の隆替が東南アジアに与えた影響は大きい。とくに、異民族支配という時代を体験したのが中国史の特色で、モンゴル族による「元」、満州族による「清」という時代を経て、南に逃れた漢民族が、今も東南アジアにおける三五〇〇万人といわれる「華人・華僑」の淵源になっているのである。東南アジアの中国系と言われる人たちに漢民族が多いのはそうした事情がある。加えて、近代に入っての辛亥革命や一九四九年の共産革命によって、中国を離れ東南アジアに移住した人たちもいる。
 さらに、東南アジアにおける「イスラムの浸透」という要素も無視できない。七世紀にアラビア半島に生まれたイスラムは、六四二年にはササン朝ペルシャを破りペルシャを制圧、八世紀にはインド亜大陸へと浸透した。そして、イスラム化したアラブ商人やインド商人がインド洋を交易圏として動き回り、東南アジアへと浸透したのである。
 インドネシアのスマトラ島中北部にイスラム国家サムドラ・パサイが誕生したのは一三世紀後半であった。インドシナ半島には「インド化」が定着し、大乗仏教やヒンドゥー教が受容されていたためイスラムの浸透に時間を要したといえるが、征服王朝として侵攻したのではなく、交易を通じてイスラムが「商人の宗教」として徐々に浸透したためで、このスマトラのサムドラ・パサイは東南アジアにおけるイスラム信仰の中心となった。現在、東南アジア諸国連合の十か国には、二・六億人ものイスラム人口が存在する。世界最大のイスラム国家といわれるインドネシアに二・三億人、人口の六一%がイスラムといわれるマレーシアに一九〇〇万人、フィリピンに五一五万人、タイ二九三万人などである。

 

 

 

一六世紀の東南アジア―植民地化の始まり

 

  こうした基層を抱える東南アジアに、一六世紀、欧州が登場した。そして、欧州は東と西からアジアに現れたのである。スペインは太平洋を越えて東からフィリピンに現れた。ポルトガルに遅れをとったスペインは、まず大西洋を越えてメキシコを制圧した。一五二一年、コルテスによるアステカ征服の後、太平洋を渡り、一五四三年にはミンダナオに到着、皇太子フィリッペの名に由来する「フィリピナス」と名付け、一五七〇年にはマニラを占領、一九世紀末の米西戦争に敗れて米国に割譲するまで三〇〇年以上もフィリピンを支配した。今日でも、フィリピンの人口の八割がカトリックだという理由はここにある。
 大航海時代の先陣を切ったポルトガルは、一四八八年にはアフリカ南端の岬の周回に成功し「喜望峰」と名付けた。一四九八年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド南部のカリカ
ットに到達し、一五一〇年にはゴアを征服、一五一一年にはマラッカを制圧して、香料諸島モルッカへと突き進んだ。華々しいアジアへの登場であり、一五一三年には中国にも到達,国交を求める大使まで派遣したが明国は拒絶、なんとかマカオに東アジアの拠点を確保したのは一五四四年であった。いかに先行してポルトガルがアジアに登場したのかが分る。ただし、既に論じてきたごとく、明の永楽帝が派遣した鄭和の大航海が一四〇五年から一四三一年まで七回にわたって行われたことを思うと、東南アジアからインド洋にかけて繰りひろげられた大航海時代が、決して西欧人の専売ではないことも視界に入れておくべきであろう。
ところで、先行してアジアに動いたポルトガルであったが、本国、イベリア半島での「スペインの隆盛」によって、一五八〇年にポルトガルという国自体がスペインに併合されてしまった。ウィーンのハプスブルク家のカール五世をスペイン王カルロス一世として迎え、その息子でフィリピンの由来にもなったフィリッペ二世の治世(1556~98年)にポルトガルを併合、以後六〇年間にわたりポルトガルは消滅していたのである。つまり、日本史において、本能寺の変(1582年)から関ヶ原の戦い(1600年)を経て「鎖国の完成」とされる家光の時代の「ポルトガル船の来航禁止」という頃まで、厳密に言えばポルトガルという国は存在しなかった。
 なぜ西欧はアジアを目指したのか。そこに「胡椒」が存在したからである。M・シェファーの「胡椒――暴虐の世界史」(白水社、2014年、原書2013年)やE&F・B・ユイグの「スパイスが変えた世界史――コショウ・アジア・海をめぐる物語」(新評論、1998年、原書1995年)に描かれているように、アジアの胡椒はヨーロッパが大航海時代という名の「世界探検、征服、植民地支配」に乗り出す起爆力となり、資本主義の発展と経済のグローバル展開、ネットワーク化の触媒となったことは間違いない。
 古代ローマ帝国の時代において、胡椒は料理における調味料というよりも健康に良い万能薬として評価されており、インドと胡椒の取引がなされていたという。中世においては「アドリア海の真珠」といわれたヴェネチアが胡椒取引の中継拠点で、ヴェネチア商人がアラブ商人と結んで胡椒取引を支配していた。
ポルトガルが先行して大航海時代に動いた事情については、既に述べたごとく(連載その6)「ジェノバの果たした役割」が重要で、一三七八年の海戦でヴェネチアに東地中海の通商権を奪われたジェノバ商人がポルトガルを支えたという要素があるのだが、ヴェネチアもオスマン帝国の東地中海制圧の中で交易の主導力を失っていったことが大きい。一四五三年、オスマンによってコンスタンチノープルが陥落、ビザンツ帝国は滅亡に追い込まれた。オスマン帝国の壁がアジアへの道を塞いだのである。それがアフリカ回りでのインドへの道の開拓に挑む大航海時代を促したのである。

 

 

オランダの登場とバタヴィア経由の世界認識の限界―江戸期日本

 

   そこで、オランダの登場である。オランダがジャワ島のバンテンに到達したのは一五九六年であり、一六〇三年には商館が置かれた。一五九九年にはマルク諸島に香辛料を求めて展開、一六〇五年にはポルトガル(スペイン併合下の)のアンボン攻略、一六一一年西部ジャワのジャカルタに商館、一六一八年にジャカルタの英国商館焼き払うなど攻勢を強め、翌一六一九年にバタヴィアと改名、アジア展開の中核拠点とし、一六七〇年頃までにはジャワ島をほぼ支配する体制を敷いた。
 一六〇〇年にオランダ船リーフデ号が太平洋を越えて大分に漂着した時代背景が見えてくる。先行したポルトガルやスペインに邪魔されないアジア・ルートを探っていたのである。一六〇二年にオランダ東インド会社(VOC)が設立され、議会がVOCに東インドにおける条約締結権、自衛戦争、要塞構築、貨幣発行を認めた。正に東インド会社は国家機関に準ずる国策商社だった。
 こうしたオランダの攻勢は他の欧州諸国にとっては不快な脅威となり、「紅毛の蛮人」として忌み嫌われた。一六二二年にはカトリックの中国拠点マカオを蘭東インド会社の艦隊が攻撃するが失敗、一六二四~六二年までは台湾を占拠し、台南にゼーランジャ城を建設する。中国が明から清への混乱期であり、明朝の遺臣鄭成功による台南攻略でオランダは台湾を去り、その鄭成功政権も清朝政府の「遷界令」(海上交易禁止)などで追い詰められ崩壊する。この間の争乱を背景に、オランダがバタヴィアに連れ帰った中国人が増え、一七四〇年には、バタヴィアの人口一・五万人のうち三割は中国人になっていたという。
そのバタヴィア経由で長崎出島にやってくる蘭東インド会社と向き合っていたのが江戸期の日本であり、欧州情勢はバタヴィア経由のものだった。オランダ商館長の江戸参府やオランダ風説書を通じて世界認識を形成していた事情については既に触れた。意外なほど情報は伝わっていたという面もあるが、不都合な情報は遮断されていた。例えば、一八世紀末からの「オランダ史の空白と混乱の二〇年」の伝わり方である。
 フランスの革命議会は一七九三年に英蘭に宣戦布告、アムステルダムは陥落、九五年には蘭総督ウィレム五世は英国亡命を余儀なくされる。オランダはフランス傀儡の「バターフ共和国」となるが、一八〇六年にはナポレオンの弟がオランダの王となる「ホラント王国」に移行、さらに一八一〇年にはフランスに併合され、オランダという国はナポレオン失脚までの間、地上から消滅してしまう。
 この間の英蘭関係の微妙な変化を象徴する人物がかのラッフルズである。トーマス・ラッフルズは一八〇五年に英東インド会社の職員としてマレー半島のペナンに赴任する。一八一〇年にオランダがフランスに併合されたことの余波で、ジャワ島・バタヴィアもフランス属領となる。これを受けて、英国インド総督の指示で、ラッフルズはジャワ遠征を試み、一八一一年から一八一六年までジャワ島を占領、その英国総督となる。長崎出島もその「付属地」だったことから、ラッフルズは一八一三年~一四年にかけて三回にわたって長崎に使節を送り、英国との交易を迫る。オランダ商館長に対しても、英国支配下のバタヴィアへの服従を迫ったのである。欧州政治の変動を背景にした英国の対日圧力は一八〇八年のフェートン号事件(オランダ国旗を掲げた英国軍艦の入港と商館の引き渡し要求)からナポレオン戦争終結後の一八一六年のオランダへのジャワ返還まで繰り返されたが、欧州情勢を理解できない日本側はオランダという国は存在し続けていると思い込み、出島と向き合っていたのである。ラッフルズは一度帰国した後、一八一九年にシンガポールに上陸し、歴史に名を残すのである。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 07:47:53 +0900
岩波書店「世界」2017年6月号 脳力のレッスン182 インド史の深層―一七世紀オランダからの視界(その44) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1471-nouriki-2017-6.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1471-nouriki-2017-6.html   ロンドンのコベント・ガーデンの近くに「パンジャブ」という人気のインド料理店がある。店内に古びた写真が沢山貼ってあり、多くはターバンに髭のシーク教徒のインド人が英国軍兵士として従軍していた時代の記念写真である。パンジャブというのはインド北西部の地名で、ヒマラヤの南西麓になる。一八四九年からインド独立の一九四七年まで、ほぼ一世紀近く英国の統治下に置かれた。人口の六割がシーク教徒で、インド独立時に西はパキスタン、東はインドに分離編入された。インドの複雑さの象徴的な地域である。
日本人のインド人観は、戦前の欧州航路で見かけたインド人のイメージを引きずって形成されたという。つまり、船で欧州に向かう途上、シンガポール、ペナン、コロンボなどの英国支配の寄港地に駐在していたシーク兵のターバンと髭、「印度人所演の熱帯産蛇使い」のイメージが原型となり、そこに戦後の「インド人もびっくり」という即席カレーのテレビCMが重なり、定番の珍奇なイメージが出来上がった。
一方で、日本人にとってインドは御釈迦様の故郷たる「天竺」であり、特別の共感を抱いているともいえる。ブッダとは「悟れる者」という意味で、我々が御釈迦様とするゴータマ・ブッダ(BC463~383年頃)は、現在のネパール南部のインド国境寄りに存在したカピラ王国のシャカ族国王を父として生まれた。当時のインドの宗教的主流にあったバラモン教を基盤として登場した自由思想活動家・修行者(沙門)の一人であったゴータマ・ブッダの思想が没後千年を経て、中国・韓国を経由して伝来、それから約一五世紀にわたり、その影響を受けてきた日本人としてインドを訪れると、現在のインドにおける仏教の存在感の薄さに当惑する。私自身、ニューデリーの歴史博物館で、原始仏教の展示を見つめながら、二五〇〇年前のインド亜大陸に生まれた「我執を断ち、苦を滅却して生きる意味を問い詰めたブッダなる存在」に思いを馳せたものである。
インド亜大陸の地図を注視すれば、インドとは何かを考えさせられる。人口一三・三億人のインド共和国、一・九億人のパキスタン・イスラム共和国、一・六億人のバングラデシュ、さらに二九〇〇万人のネパール王国を加えれば、総計一七・一億人がこの亜大陸に住む。香港・台湾を加えた中国の人口一三・七億人を凌駕する圧倒的な人口である。
インドの空港に降りた瞬間から感じるこの人間の数と灼熱に幻惑され、インド史に向き合うと「インドは混沌」という思いが深まる。アーリア人侵入以来、異民族の侵攻の繰りかえしで持続的な統一政権がない。多様な民族・宗教・言語が交錯し、捉えどころないモザイク地域で、常に世界の歴史家を悩ませてきた。言語についてだけでも、インド共和国の公用語はヒンディー語、補助公用語が英語ということだが、憲法の指定する地方言語が二一、実体は八〇〇を超す地方言語が存在するといわれ、この国の統治が容易ではないことを暗示している。ウィル・デュラントは「誰が文明を創ったか」(原題“HEROES OF HISTORY”,PHP,2004年)において、インドを「灼熱と宗教的・軍事的・政治的分裂――侵略と忍耐強いヒンドゥー教徒」として「灼熱の文明」と呼ぶ。

 

 

 

ムガル朝に至るインド亜大陸―――ムガルとはモンゴルのこと

 

一七世紀のインド亜大陸はムガル帝国の時代であった。「ムガル」とは「モンゴル」のことであり、この中央アジアとインドのつながりを理解することでユーラシアを巡る歴史観は深まる。ムガル帝国に至るインド史の脈絡を確認したい。
古代インダス文明という先住民が築いた土壌の上に、約三五〇〇年前、つまりBC一五〇〇年ごろアフガニスタンからアーリア人が侵攻、パンジャブ地方に定住し、次第に東に動きガンジス川沿いにもアーリア人社会を形成した。約二五〇〇年前に登場したブッダはアーリア人と先住民の混血であったといわれる。
 その仏教を庇護したマウリヤ朝の第三代アショーカ王(在位BC268~232年)の時代は、最南の一部を除きインド亜大陸をほぼ統合するまで版図を拡大し、統一王朝を形成したが、王朝は次第に求心力を失う。各地の先住文化とバラモン教との融合の中からヒンドゥー教が成立する。開祖も教典も存在しない土着の宗教としてヒンドゥー教はインド社会に浸透し、仏教はスリランカと中国へと渡った。
初唐の高僧・玄奘(三蔵法師)(602年~664年)のインド訪問(629年~645年)は、「西遊記」として唐末には伝説化される。宋・元・明の時代と語り継がれ、日本でも流布する。その三蔵法師がインドを去った直後、七世紀末から八世紀にかけてインド亜大陸へのイスラムの浸透が始まる。ムハンマドによるメッカ征服(630年)からわずか一世紀を経ずに、イスラム勢力はインド亜大陸へも侵攻した。六三九年イラク占領、六四二年にはニハーヴァンドの戦いによってササン朝ペルシャを破りイランを征服、六六一年にはウマイヤ朝成立、六八〇年代にはいよいよインドに迫り、マクラン地方からシンド地方に侵攻、七一一年にはシンドを征服した。二方向からのイスラム侵攻であり、ペルシャ湾岸からインダス河口経由でシンド地方に入るルートとイランからアフガニスタン経由で北インドへというルートであった。デリー・スルタン朝という時代が続き、イスラム文化とヒンドゥー文化のモザイク構造というインド独特の状況が形成された。
 サティーシュ・チャンドラの「中世インドの歴史」(邦訳、1999年、山川出版社、原著1990年)は、古代ローマ帝国とインドとの交易に触れ、インド史がヨーロッパ史に与えたインパクトという視界を拓く。例えば、現代数学の基礎たる十進法は、五世紀のインドで発展、八世紀のイスラムのインド侵攻により、アラブ世界に伝わり、それが一二世紀に欧州に伝わったのだという。
 一六世紀、ムガル帝国の登場である。この王朝も北から現れた。初代皇帝バーブル(在位1526~1530年)は一四八三年、今日のウズベキスタンのフェルガナに産まれた。父方はティムールの血をひき、ティムールから5代目の直系子孫である。ティムール朝は、モンゴル帝国のうち、中央アジアをおさえたチャガタイ・ウルスの西方部分をティムールが再編する形で形成され、一時はインドに遠征するほど勢力を拡大し、鄭和の大航海を指示した明の永楽帝もティムールの動きを警戒していたといわれる。そのティムールの死とともに一代で王朝は衰亡したが、ティムールの血をひき、しかも母方がチンギス=ハンの末裔というのがムガル帝国の創設者バーブルということであり、「モンゴルの継承者としてのムガル帝国」とか「ムガル帝国とは第二次ティムール朝」といわれる所以がここにある。モンゴルの長い影はインドにまで及んでいたのである。
 バーブルはサマルカンド奪取の野望を抱いていたが挫折、ご先祖ティムールのインド遠征に魅かれてインドに進軍、一気にデリーとアグラを占領、一五二六年にはインド皇帝を名乗りムガル帝国の基盤を構築した。二代目のフマーユーンは、スール朝を興したアフガン族のシェール=シャーに敗れ、一時はサファヴィー朝ペルシャに亡命し、一五年にわたる亡命生活の後、スール朝の内紛に乗じてデリーを奪還、ムガル朝を復活させた。我々がよく知る世界遺産のタージ=マハール廟を妻の為に完成させたのが、デリー遷都(1648年)を行った五代目のシャー=ジャハーンであり、六代目のアウラングゼーブ(在位1658~1707)の頃が、帝国の最盛期であり、デカン高原南端を除くインド亜大陸全土を掌握したが、厳格なスンニ派イスラム政治への反発による農民・異教徒の反乱で統治力の弱体化が始まった。例えば、パンジャブでは改宗を拒んだシーク教団が抵抗を続け、地方王朝が実質的に分離国化していった。そして、ムガル帝国の衰退に止めを刺す形で海からやってきたのが西欧であった。

 

 

 

欧州の登場・インドへの道―――迫る英国と邪悪な支配構造

 

 

 インドに最初に現れた西欧はポルトガルであった。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマが南インドのカリカットに到着し、一五一〇年にはポルトガルはゴア占領した。北インドに侵攻したバーブルがムガル帝国の建国宣言をしたのが一五二六年であり、ほぼ同じ時期に、北からは中央アジアからの侵攻、南インドには海を超えた西欧からの侵攻という圧力がインド亜大陸に迫ったということである。
クリストファー・ベックウィズは「ユーラシア帝国の興亡」(筑摩書房、2017年、原題“EMPIRES OF THE SILK ROAD”2009)において中央ユーラシアにおけるモンゴル帝国に次ぐ二回目のユーラシア征服としてオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシャ、そしてムガル帝国を取り上げ、一六~一七世紀の世界史を大陸ユーラシア人の帝国に対する海洋ヨーロッパ人の帝国の抗争という構図で捉えている。
 英国がインドに橋頭堡を築いたのは、一六一二年に英東インド会社がインド西海岸スラートに商館を設けた時であり、インドの植民地化はベンガルに始まった。一八世紀央に、インドにおけるフランスとの抗争に勝利した英国は、一七五七年のプラッシーの戦いに勝利してベンガル太守をねじ伏せ、一七六五年にはベンガル、オリッサ、ビハール地域の地租徴収・民事裁判権を獲得する。私企業にすぎない東インド会社が統治権を得たのである。
一八五七年、東インド会社のインド人傭兵(セポイ)が起こした植民地支配への武装叛乱がインド全土に波及した。世に「セポイの乱」といわれる動乱であり、本国からの援軍で暴動を鎮圧した英国は、ムガル帝国を消滅させ、インドを大英帝国の直接統治下に置いた。何故インドが植民地になったのかを考えると、インドが対立と分裂的要素を内包し、そこをつけ込まれたといえる。ヒンドゥー対イスラム、カースト制、人種・多言語―――その複雑な「対立」(コミュナリズム)への介入を英国は植民地統治に巧みに利用した。いわゆる「分断統治」である。
 英国がインドでの独占的地位を確立するにつれ、インド支配の本音として、ヨーロッパ文明の優位性とインドの後進性認識に立つ「文明化の使命」認識が台頭した。大英帝国の台頭期たる一八世紀後半の福音主義、すなわち「未開社会をキリスト教によって文明化する」という自負が溢れ、黄金期ともいえるビクトリア時代の一九世紀後半には「帝国の論理」、インドへの道はインペリアル・ルートであり、インド統治は英国の国威に直結するものとされた。ユニオンジャックの栄光はインド支配を基軸に成立するものであった。
 英国が東インド会社という仕組みを通じて構築した「悪魔の知恵」ともいうべき究極の戦略が、アヘンを軸にインド・中国の支配を試みる「三角貿易」であった。英東インド会社は一七七三年にインドでのアヘン専売権、一七九七年アヘン製造独占権を獲得し、これを利用し始める。加藤祐三が「イギリスとアジア――近代史の原画」(岩波新書、1980年)において検証したごとく、一八世紀後半に産業革命期に入った英国においては中国茶、陶磁器の輸入需要が増大、支払う銀が不足し始めた。その決済のため、インド産アヘンを中国に輸出、英国からインドへは綿製品を輸出するという三角貿易構造を稼働させた。一八三三年に東インド会社への貿易独占権は全廃され、アヘン戦争時は活動を停止していたが、アヘン貿易を引き継いだのがジャーディン・マセソン商会であった。
 アヘンの災禍に怒った清国政府が、アヘンの没収・焼却に動き、始まったのが一八四〇~四二年のアヘン戦争であった。後に首相となるグラッドストンが野党自由党の若き政治家として議会で行った演説こそがこの戦争の本質を衝いている。「その起源において、これほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置くことになる戦争を私は知らない。」
英国議会はわずか九票差で遠征軍派遣を決めた。そして、大英帝国は多くのインド兵を率いてアヘン戦争を戦ったのである。近代とは単純な「進歩と繁栄の時代」ではなく、抑圧と犠牲の上に成り立ったのだという思いが交錯する。
 幕末の日本にとって、アヘン戦争で清国が敗れたことは衝撃であった。幕末長崎に足跡を残したグラバーもジャーディン・マセソン商会の代理人であり、「長州ファイブ」といわれた伊藤博文、井上馨らの英国密航(1863年)を手引きしたのも同社であった。
 大英帝国からのインドの独立の歴史については、拙著「二〇世紀と格闘した先人たち」(新潮文庫、2015)において、「『偉大な魂』ガンディーの重い問い掛け」「インドが見つめている――チャンドラ・ボースとパル判事」として書いた。英国とインドの関係は愛憎半ばし、複雑で微妙である。おそらく次のネルー首相の言葉に集約されるのであろう。「インドの知識階級は英国への隷属には反発するが、国内政治のやり方について、英国のそれは最良である」―――英国は影響力を残しながら後退する知恵を蓄積してきたといえる。

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 05:38:22 +0900
岩波書店「世界」2017年5月号 脳力のレッスン181特別篇 トランプ政権の本質――正対する日本の構想 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1470-nouriki-2017-5.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1470-nouriki-2017-5.html   トランプ政権がスタートして二カ月が過ぎた。華々しく大統領令を打ち出し、世界を騒擾に巻き込んでいるが、支持率四割台という弱い基盤に立つ政権の危さか、ポピュリズムの誘惑に駆り立てられているともいえ、この政権の限界は既に明らかである。就任演説、議会での予算教書演説、各国要人との面談を通じて見えるトランプのメッセージには、「アメリカ・ファースト」が語られるだけで、「世界をこうしたい」という構想もビジョンも見えない。だが、米国の政治思想史において、トランプに象徴される思潮の根は深い。
 「アメリカ・ファースト」、つまり自国利害中心主義を米国の政治思想史において辿ると、第五代大統領のモンローの「アメリカとヨーロッパの相互不干渉」を基軸とするモンロー主義を想起しがちだが、孤立主義への回帰というよりも、「アメリカはアメリカ人のための国であるべし」という主張において第七代大統領アンドリュー・ジャクソン(1767~1845年)の系譜にあるという見方もあり、「道義的、倫理的にみて人類全般の福祉の向上」に貢献するアメリカの役割を意識しがちな「エリート層」への幻滅と反発と位置づけるべきかもしれない。つまり、この国の深層底流の噴出という面があり、根が深いのだ。
 米国を動くと「それでも、トランプを支持する」という人に出会う。理由を聞くと、「カウボーイ・メンタリティ」とでも言おうか、西部劇のごとく、「悪を懲らしめることはいいことだ」「この町に悪人を入れてはならない」という文脈で、本音を行動に移す保安官を支持する心理である。では「悪とは何か」「悪を無くす構造的対策は」などという視界には至らない思考回路なのだが、「アメリカの基層を形造る本音」でもある。
 自国利害を抑制しても、世界の最大多数の幸福を目指して調整役を果たすのがリーダーの責任であり米国の偉大さの証明と思えるのだが、超大国といわれた米国の統合力が弱まり、国民の苛立ちを背景にした痙攣が起こり、「トランプ政治」を招来しているといえる。

 

 

 

「逆さまの世界」への視界―――記憶の中のトランプ

 

トランプが第四五代米国大統領に就任する三日前、ダボス会議(世界経済フォーラム)に登場した中国の習近平国家主席は「グローバル化は欠陥もあるが、断固として擁護する」と語り、「グローバル化は世界の成長の原動力であり、モノや資本の移動、科学技術、文明や人々の交流を促してきた」として自由貿易にエールを送った。
 一方、就任演説に登壇したトランプ大統領は、「保護主義こそがアメリカ経済を強くする」と語り、新自由主義の総本山としてグローバル化の旗頭だったアメリカが自らその座を降りるシーンを目撃した世界の人々は、狐につままれたように世界が逆さまになるのを感じとった。世界は間違いなく価値が倒錯した時代に入った。
価値倒錯の時代においては、本質的に問われていることを見抜き、自前の羅針盤の再構築が求められる。価値座標混乱の底流にあるものとは何か。トランプを選んだ米国だけではなく、EU離脱を決めた英国をはじめ、選挙の年に入った欧州諸国、オランダ、フランス、ドイツにおいて鋭く問い詰められているのは、「極右勢力」の台頭と単純化することのできない既存の良識や社会理念への懐疑である。つまり、我々が知の構築の過程で、進歩であり理想として探求してきたコスモポリタン的価値を否定する思潮が高まっているのである。国境を超えた交流や連携を重視し、人権・市民的自由・平等・公正な福祉社会の構築を人類の進歩として評価する「ユーロリベラリズム」というべき価値が挑戦を受けているのであり、そうした疑念が「移民の流入」を拒否し、「国境」を重視する論理となって、時代を突き動かし始めたといえよう。
時間の逆回転、歴史の進歩への不遜な反知性主義的挑戦にみえる動きなのだが、「根無し草のグローバリズム」「まやかしの環境保護主義」「偽りのヒューマニズム」など、エリートたちのキレイごとの御託宣に怒る声が共鳴波動となっている感がある。だが、価値座標混乱の時代に惑わされるべきではない。人類史を静かに考察するならば、例えば近現代史における民主主義の歴史を正使すれば、歴史は抑圧や差別などの一時の熱狂を克服し、長い目では必ず条理の側に動くのである。
さて、改めて私の記憶の中にあるドナルド・トランプの話から始めたい。一九八七年から一〇年間、ニューヨーク、ワシントンと米国東海岸で生活した頃、同世代のビジネスマンとして、この人物とも何度か接点があり、記憶の中にこの人物像が鮮明に存在する。このことは昨年十一月号の本連載で「二〇一六年米大統領選挙の深層課題」として書いたが、トランプはビル・クリントンと同じ一九四六年生まれで、日本でいえば「団塊の世代」、アメリカでもベビー・ブーマーズといわれる世代で、第二次大戦後のアメリカと並走した存在と言える。私はクリントン政権のスタートを受けて一九九三年八月号の文藝春秋誌に書いた「アメリカの新しい歌―――クリントンとは何者なのか」で、政治セクターにおけるクリントン、経済セクターにおけるトランプというこの世代のフロントランナーに漂ういかがわしさに触れ、激しい自己主張と他人を否定するエネルギーはあるが、新しい価値を創造する力に欠けるとして疑問を投げかけた。あれから二五年、その結末を見る思いで、トランプ就任を見つめている。
 トランプという人物の人生を貫く信条は簡明である。彼がビジネスを通じて身につけた価値は「ディール」、すべては取引だと考えることである。彼の哲学ともいえるのは、例え不合理であれ、自分の利害・要求をぶつけ、相手がたじろいだところで、落としどころを探るという手法であり、人生のすべてが「ディール」なのである。げんなりさせるほどの自己主張、それがすべての入り口なのである。
七〇歳まで、私益と自分の欲望のためだけに生きてきた好色漢、これまで公益と国益を真摯に考えたこともない男の自己主張を「本音を語る人物」と誤認し、省察もない厚顔な自己顕示を信念を持ったリーダーと錯覚して国家の指導者としてしまった米国は、それがもたらす災禍に苦しむことになるであろう。

 

 

 

歴史の中のトランプ政権

 

 

 わずか八年前、オバマ大統領が就任した時、どこまで期待するかは別にして、黒人初の大統領を就任させたアメリカには感慨を覚えた。黒人、しかもケニアの留学生がハワイの女子学生との間に残した子供が大統領になるという事実に、「可能性とチャンスの国」として「偉大なアメリカ」を感じた人も少なくないはずだ。
オバマの八年とは何だったのか。オバマ政権を生んだのは、「イラクの失敗」と「リーマンショック」であった。イラク戦争に当初から反対していたオバマの「イラクからの撤退」は、イラク戦争後のイラク統治に失敗し、米兵士の犠牲を積み上げ、消耗する米国民にとって説得力があった。また、二〇〇八年大統領選挙の直前に起こったリーマンショックを受けて、「強欲なウォールストリートを縛る」という主張に国民の支持が向かった。
 オバマという大統領は、公約したことには一定の努力をしたといえる。「イラクからの撤退」も実現した。だが、米国の中東におけるプレゼンスの後退を印象付けるイラク、シリアの混乱とスンニ派の過激派勢力を淵源とするISISなるテロ組織の台頭に苛立つ米国民は、イランとの核合意によって「イスラムの核」を抑え込もうとするオバマ政権を「弱腰」とみるに至った。「核なき世界」を語るオバマを「キレイごとの虚弱な指導者」と見る空気が高まっていった。また、リーマンショックの教訓を踏まえ、二〇一〇年には「金融規制改革法」(ドット・フランク法)を成立させ、ウォールストリートを制御しようとする姿勢はみせたが、「FRBの機能強化、ヘッジファンドの透明性向上」程度の内容で、マネーゲームを縛るには程遠く、「ザル法」にすぎないといえるもので、それ故に格差と貧困に怒れる若者たちがサンダース現象を引き起こしたのである。
 オバマへの期待の反動としての失望が高まったとはいえ、オバマ政権の支持率は政権末期でも六割台を維持し、トランプ政権とは比較にならないほど、一定の評価を得ていたといえる。サンダース現象に突き上げられたヒラリー・クリントンの失速と州毎の選挙人積み上げという選挙制度の魔術(総得票はヒラリーの方が実に二八六万票も多かった)で当選したトランプだが、米国政治史を振り返るならば国民心理のバイオリズムが見てとれる。一九七五年のサイゴン陥落の後、ベトナム戦争の挫折に傷ついた米国が選んだのが、ジョージアのピーナツ畑から登場したカーター大統領であった。「癒しのカーター」ともいわれたが、一九七九年のイラン革命を受けて、プレゼンスの低下を意識した米国が登場させたのが強面のレーガン大統領であった。このバイオリズムは、「イラクの失敗」を受けて、理念性の高いオバマを登場させ、その限界と米国の衰退への苛立ちの中でトランプを登場させた今回の大統領選にも通底する。オバマは第二のカーター、「核なき世界」を語り、被爆地広島を訪問した「いい人」に終るかもしれない。
 トランプ政権を楽観視する議論に「レーガンでもやれたじゃないか」という言い方があるが、レーガン期のアメリカにとって英国の首相サッチャーの存在が重かったといえる。冷戦の終焉に向かう局面で、米国の意思を欧州に繋ぐ基点として、さらにはサッチャー革命といわれた「新自由主義」なる政策基調の発信地として、同盟国英国の鉄の女サッチャーは心強い支えであった。BREXITにより欧州への影響力を低下させる英国ではあるが、トランプ政権にとって英国を率いるメイ首相の役割が注目される。

 

 

トランプ政権の本質と方向性

 

  トランプ政権の性格については、本誌二月号で予想の議論として触れたが、その後の就任演説、大統領令、人事布陣において政権の方向性が鮮明になってきた。経済政策に関しては、産業通商政策での保護主義への傾斜と金融政策における規制緩和であり、政策理論的には相矛盾する政策を共存させている。まず、産業政策だが、取り残された白人貧困層の格差と貧困への苛立ちを震源地として成立した政権だけに、TPPからの離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)の見直し、国境税の導入など、公約を果たすかのごとく保護主義を際立たせている。
 一方で、金融政策については、オバマ政権がリーマンショックの反省に立って二〇一〇年に成立させた前記の「金融規制改革法」さえ廃止する大統領令を出すなど、ウォールストリートの期待に応えるごとく、規制緩和の動きを見せている。「ウォールストリートの懲りない人々」という言葉があるが、そのしたたかさは際限がない。大統領選挙の最中、「トランプが当選すればアメリカ経済は終りだ」とまで言っていたウォールストリートは、掌を返すように「トランプ相場」を盛り上げ、「トランプも悪くない。インフラ投資一兆ドル、法人税減税(35%から15%へ)大いに結構」と期待先行の株高を誘導し、政権がスタートしていないうちに株価(DOW)を一〇%以上も引き上げる環境造りに動いた。
 極め付きが「金融規制緩和」の動きである。格差と貧困を助長したマネーゲームの肥大化、リーマンショックをもたらしたサブプライムローンに象徴される歪んだ金融ビジネスモデルへの省察から、金融規制改革法(ドッド・フランク法)を成立させたものの、その有効性への疑問から、大統領選中には一九九九年まで存在した「銀行と証券の垣根をつくる」としたグラス・スティーガル法の復活さえ議論されていた。ところが、主要経済閣僚たる財務長官にゴールドマン・サックスのパートナーだったS・ムニューチン、商務長官にウォールストリーの投資家W・ロスを起用、国家経済会議(NEC)委員長にはゴールドマン・サックスのCOOだったゲーリー・コーンと、鮮明なウォールストリート・シフトを見せている。案の定、オバマの金融規制改革法さえ廃止する方針を示し、ウオールストリートの拍手喝采を受けているが、マネーゲームの肥大化が再加速するであろう。その先に懸念されるのはリーマンショック再びである。
深く再考すべき言葉がある。一九二五年、マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結び付く傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来この鉄の檻の中に住む者は誰なのか、そして、この巨大な発展の終る時、全く新しい予言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか。それとも、――そのどちらでもなくて――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分らない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる『末人たち(LETZE MENSCHEN)』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。―――精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」 今、我々が目撃しているのは、この「末人」が繰り広げる「無なるもの」なのかもしれない。
ただし、米国の金融政策の救いは中央銀行FRBの存在である。リーマン後、異次元金融緩和で金融危機克服に動いたFRBだが、量的緩和(QE3)は二〇一四年秋に終らせ、その後、好調な実体経済を受けて三次にわたり政策金利を引き上げ、本年三月には〇・七五にまでもってきた。政治から自立した主体性をもって金融を睨んでおり、この点が日本と異なる。経済の番人としての自覚をもって行動しているということである。
基本的に、経済政策においてトランプ政権に欠落しているのは、第四次産業革命、IoTと言われる時代における情報技術革命に対する戦略構想である。米国の優位性はシリコン・バレーに象徴される情報技術であり、「工場海外移転の否定」など後ろ向きの産業政策に躍起になり、現実に米国の好調な実体経済を支えている情報技術への理解と戦略に欠ける。移民規制についても、シリコン・バレーは移民が支えてきたゾーンであり、かのスティーブ・ジョブスもシリアからの留学生でイスラム教徒を父として生まれた事実を思い出すべきである。
 もう一つ、エネルギー・環境政策に関し、トランプ政権は明らかに「化石燃料重視、環境問題軽視」の方向を示しつつある。オバマ政権が「グリーン・ニューディール」ということで再生可能エネルギー重視で動いたのと対照的に、エネルギー政策については石油、天然ガス、石炭という化石燃料を重視する方向に舵を切ろうとしている。大統領令で、米国内のパイプライン敷設事業を次々と認可したり、中東・ロシアの化石燃料事業を推進してきたエクソン・モービルのCEOティラーソンを国務長官に指名し、「化石燃料シフト」の意思を明確にしている。また、環境省関連予算の二割削減方針を示し、「パリ協定」のような環境規制の国際的枠組みからの離脱方針さえ示している。
外交戦略について、注目すべきはロシア政策とイスラエル政策である。前記のごとく、ティラーソンが国務長官に就任した。H・キッシンジャーの推薦だったという。この人物はエクソン・モービルでサハリンLNG事業の責任者だったこともあり、プーチン露大統領との親交も深く、二〇一四年のウクライナ危機以降のG7によるロシア制裁を解除する方向に動く可能性が浮上している。また、大統領の娘婿J・クシュナーがイスラエルのネタニエフ首相と親交が深いこともあり、在イスラエルの米大使館のエルサレム移転など、火薬庫中東に火種を投げ込みかねないユダヤシフトの政策変更が検討されている。イスラエルとサウジアラビアに傾斜した中東政策は、イラン政策の見直しを意味し、「イスラムの核」を封じ込めるためにオバマが実現したイラン制裁解除を後戻りさせる可能性があり、イランの硬化が中東秩序の液状化に拍車をかける展開が予想される。トランプの中東戦略が思慮に欠けることは、中東六か国(当初七か国)からの入国制限という大統領令が示している。それは九・一一の悲劇を引き起こした実行犯一九人の内一五人は、六か国ではなくサウジアラビアのパスポートで入国していたという事実を直視すればすぐ分る。

 

 

首相訪米に見る日米関係―――本当に「他に選択肢はない」のか

 

   トランプ政権発足直後の二月上旬、私は米西海岸を訪れ、同じタイミングでワシントンを訪問していた安倍首相とトランプ政権の対応について、米国のアジア政策の専門家達やメディアの本音と向き合っていた。明らかに日本の政策基調とは異なるトランプ政権の登場に戸惑いながらもいち早く駆けつける日本の首相とそれを「蜜月の演出」で受け入れる米政権という苦笑いの構図に溜息交じりの議論が続いた。
 思えば、レーガン政権期の「ロン・ヤス関係」、日の出山荘での会食―――G・W・ブッシュ政権期の小泉訪米とキャッチボール―――今回のトランプ・安倍とフロリダでのゴルフ、すべて緊密な日米関係を演出する定番なのだろうが、時代とともに日米関係が本音を隠した矮小なものになりつつある印象は否めない。
 日本人が喜ぶ「核心的関心」が「尖閣は日米安保の対象になる」という米側の確約にあると読み切って、日米間の討議事項とすべき「経済・通商(TPP後の二国間協定)」も「米軍基地経費負担」も後に回し、これさえ言えば日本人は満足という筋書きに沿って記者会見がなされ、首相はあたかも本領安堵された御家人のごとく、同盟強化を誓って「他に選択肢はない」として帰ってきたのである。
 だが、今回も米側は、尖閣の「施政権」が日本にあることを踏まえて「日米安保条約第五条の対象になる」という従来の姿勢を踏襲したもので、「領有権」が日本に帰属することを認めたわけではない。一九七二年の沖縄返還協定は、東シナ海上の六つの点を結ぶ地域を戦後米国が施政権下に置いていた地域として日本への返還を明記しており、その地域に尖閣が入っていることは明確である。米国が保持していた「施政権」の範囲にある尖閣が日本の施政権下にあることを否定できるはずがない。ただし、沖縄返還がほぼ米中国交回復のタイミングと同じで、中国側が尖閣の「領土権」を主張し始めたことに配慮して、米国は尖閣の「領土権」に関してはコミットしないあいまいな姿勢をとり続けてきた。
今回も、一方で中国にも配慮し、安倍訪米と同じタイミングで、トランプ・習近平の電話会談がなされ、中国側の核心的関心である台湾独立を抑制する「一つの中国」論への理解を示した。日中双方への配慮を並立させること、つまり日中の対立を前提に自分の影響力を最大化する戦略が、トランプ政権のみならず米国のアジア戦略の基本であり続けており、この分断統治の論理を超えていくことが東アジアの課題なのである。ガンジーが大英帝国の植民地政策に関して、「分断統治を超えていけるかがアジアの課題」と再三発言していたことを思い出す。
 日本人は冷静な思考を取り戻すべきであろう。もし、「日本の施政権下にある」ことが理由で「日米安保の対象」というのであれば、「竹島」や「北方四島」はどうなるのか。いかに日本の領有権の主張が正当であろうが、米国は「施政権重視」となれば―――竹島、北方領土については、現実に韓国やロシアの施政権下にあり、米国の本音が透けて見える。尖閣についても、米国は「同盟責任を果たす」と言っているのであり、「米中戦争は避けたい」という本音の中での同盟責任だということを冷徹に認識する必要がある。
 注目すべきは今後の米中関係の動きであり、ティラーソン国務長官の訪中(三月)以後、習近平主席の訪米、米中戦略経済対話などを通じ、トランプ政権下の米中関係、北朝鮮や台湾問題を含む東アジア秩序枠が見えてくるであろう。「米中対立の時代」と単純に判断すべきではない。米国は「アメリカ・ファースト」と叫び、自国利害に回帰しているようにみえるが、グロ-バル・ガバナンスを失うことも拒否している。その中で、米国に代わるグローバル・ガバナンスを志向している中国のしたたかさと構想力を気にしており、「米中で仕切る」という大国主義的アプローチへの共鳴を潜在させている。
 中国はアメリカに代わる世界のリーダーを意識し、それを示す構想力を見せ始めている。例えば、AIIB(アジア・インフラ投資銀行)構想も、当初の五七国参加から中南米などから新たに二八国が参加表明、アジア開銀の六七国を超える仕組みになりつつある。また、RCEP(東アジア包括的経済連携)構想も、TPP挫折を受けて中国主導の自由化の枠組みとして動き始めている。ただ、中国のリーダーシップにも限界があり、アジア諸国における中国の影響力拡大への警戒心も根深い。また、共産党一党支配の政治体制、軍事力重視の危さ、内包する人権問題など、国際社会は冷徹に中国をみつめている。アジア秩序における日本への期待と果たすべき役割の基盤はここにある。

 

 

トランプと正対する日本―――アジアの民主的賢人を目指して

 

  トランプのアメリカについていくしか「選択肢はない」という思考回路はあまりに単純である。日本の国際関係はそんな貧困なものであってはならない。日本が「米国周辺国」にすぎないのか否か、アジアの国々は静かに見つめている。
 まず、基本的構えとして、新しい米国大統領に対して、日本がアジアに平和と安定をもたらす役割を果すから安心してくれという姿勢で臨むべきである。被爆国日本が国連の核兵器禁止条約に「反対」するという牽強付会な姿勢を脱し、「北東アジアの非核化構想」など主体的に平和を構築する意思を鮮明にすべきである。「日米で連携して中国の脅威と向き合う」という次元の外交を超えて、中国・韓国・ロシアなど近隣との信頼を構築していく創造的なプログラムを語り、「分断統治」を脱したアジアの建設的まとめ役を果たす立ち位置を示すべきである。
 「浩然の気」という言葉にこだわりたい。技術を持った先進国として、さらには民主主義を尊重する平和国家を志向する国として、日本に期待する声はアジアにおいて小さくない。中国の大国主義的外交とは異なる次元での成熟した民主国家日本へのアジアの目線を忘れてはならない。インドから東南アジア、そして東アジアをリードする日本の構想力が問われているのである。
 その上で、日米の二国間戦略対話の必要性を提起し、経済・通商と外交・安全保障に関して、二一世紀型の新しい同盟関係の再構築を図ることを主導すべきである。トランプ政権は、「TPPからの離脱、駐留米軍経費の負担増」というこれまでの日米関係に重大な変更を求める政策を提起しており、「これまでのままでいい」という現状固定化型の日米同盟論は機能しない。であるならば、日本としては根底から日米関係を再点検する好機と腹を括るべきである。通商については、TPP交渉では実現できなかった日本の主張を再整理して、日米二国間自由貿易協定に向き合い、その先にRCEP的な多国間のアジア太平洋地域での自由化の仕組みへの参画を推進すべきである。また、防衛・安全保障については、単に駐留米軍経費の負担問題だけでなく、この機に北は三沢から沖縄までのすべての米軍基地・施設を俎上に乗せ、アジアの安全保障を睨んだその機能・役割を精査し、段階的な米軍基地の縮小と地位協定の改定による日本の主権回復を図るべきである。
 二〇一六年の日本の貿易総額に占める対米貿易の比重は、一五・八%と前年の一五・一%を上回った。堅調な米国経済を背景に、二〇一一年に一一・九%まで低下していた比重が盛り返したといえる。しかし、日米貿易摩擦が過熱していた一九九〇年には二七・四%を占めていた対米貿易比重は半減したともいえる。一方、アジアとの貿易比重は五一・七%と、着増を続けている。中国との貿易比重は二一・六%を占める。日本を除くアジアが今後一〇年、実質六%台の成長を続ければ、日本の対アジア貿易比重は六割を超すであろう。また、日本が成長戦略の柱とする「観光立国」も、昨年日本を訪れた訪日外国人二四〇四万人の八割はアジアからの来訪であり、四〇〇〇万人の来訪者を期待する戦略を描くのであれば、内三〇〇〇万人はアジアから迎えることを想定することになる。物流、人流、すべてアジアダイナミズムと向き合うことが日本の優先課題なのである。
 そのアジアから同盟国米国を孤立させることなく、責任ある形で関与させるのが日本の役割となるであろう。ペリー来航から一六四年の日米関係を振り返るならば、米国の対日戦略の基調が「抑圧的寛容」とでもいうべき性格に貫かれていることに気付く。圧倒的優位にあるという状況で示す懐の深い寛容、一方で優位性が失われた時に駆り立てられる恫喝と要求、つまりアメとムチのバイオリズムに翻弄され続けるのは愚かである。「ディール」(取引)を信条とするトランプ時代の米国に正対する時、日本に求められるのは揺るがぬ「自立・自尊への意思」である。
 最後に、米国と正対する日本としての基本要件は、信念体系として戦後民主主義を守る覚悟である。集団的自衛権に踏み込んだ安保法制、戦前の治安維持法を思わせる「共謀罪」、国権主義への志向を見せる憲法改正など、現在の日本が見せる一連の動きは、戦前の国家主義体制への郷愁を潜在させている。偏狭なナショナリズムへの回帰は、やがて「親米を装った反米」に繋がることを、ワシントン見抜いている。成熟した民主国家として日本こそがアジアの安定軸であり、米国の信頼と敬意を受ける国家像である。

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 05:15:10 +0900
岩波書店「世界」2017年4月号 脳力のレッスン180 鄭和の大航海と東アジアの近世 一七世紀オランダからの視界(その43) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1469-nouriki-2017-4.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1469-nouriki-2017-4.html   シンガポール・セントーサ島の世界最大級の水族館に併設されている海洋博物館に映像と実物大模型で紹介されているのが、一五世紀の初頭から七回も行われた明の武将鄭和の南海遠征である。ポルトガル・スペインによる大航海時代に先んじて中国が東から西へと海洋大遠征を行ったという史実は「華人・華僑」には心躍る話であり、人口の四分の三が中国系というシンガポールの国民のみならず訪れる東南アジアの中国系の人々に「中華民族の栄光」を意識させる体験である。
習近平国家主席は「中華民族の歴史的成果」など、「中華民族」という言葉を繰り返し使う。中国を統合する概念として「社会主義」が色褪せた今、この言葉を統合のキーワードにする意図が窺える。二〇〇八年の北京五輪の開会式におけるショーが象徴的で、人類の四大発明とされる「紙、火薬、活版印刷、羅針盤」はすべて中国が創ったという内容であった。「中華思想の極致」という印象だが誇張とも言えない。T・F・カーターは『中国の印刷術――その発明と西伝』(邦訳東洋文庫、一九七七、原著一九二五)において、「ルネサンス初期に欧州中に広まった四大発明における中国の役割」に注目し、アラブ人やモンゴル帝国を仲介者として中国の科学技術が伝わった事実を論究している。またR・K・G・テンプルの『中国の科学と文明』(邦訳河出書房新社、一九九二年)によれば「紙」、つまり植物繊維を水につけて沈殿物から紙を作る技術はBC二世紀の中国で生まれ、欧州では一二世紀にリンネルの布切れから紙が作られたとされる。「羅針盤」は、BC四世紀の中国で天然磁石と鉄片で方位を探る技術が確立され、一二世紀に欧州へ伝わった。また「印刷」は、AD八世紀の中国で石刷、木版を超えた技術が生まれ、仏教の文献の印刷がなされたという。さらに「火薬」も、AD九世紀の中国で硝石と硫黄と炭素の混合による火薬が作られ、一二世紀に欧州に伝わった。「西力東漸」ではなく「東力西伝」なのである。

 

 

 

史実としての鄭和の大航海

 

 

織田信長の旗印は「永楽通宝」であった。朝廷の権威さえ畏れない男が何故中国の通貨を旗印に掲げたのか。明朝第三代永楽帝は信長にとって約二〇〇年も前の人物だが、その治世が隆盛を極めていたことに加え、日明貿易を通じて大量に輸入された永楽通宝が良貨として流通していたことによる。
 一二七九年に始まったモンゴルによる元王朝も一四世紀半ばには、民間宗教の白蓮教の反乱などで疲弊、紅巾の乱(一三五一)が燎原の火のように燃え広がり止めを刺された。主役に躍り出たのが極貧の放浪者からのし上がり後に洪武帝となる朱元璋(一三二八~九八)である。地方豪族を次々と破り一三六八年には明王朝を建国、北宋の滅亡後二四〇年ぶりの漢民族の統一王朝を再興した。洪武帝は異常な権力欲に憑りつかれ、明王朝創業の功臣を含め数万人を処刑する恐怖政治を繰り広げた。その四男で三代皇帝となったのが永楽帝である。北京に依拠する燕王であったが、南京を首都とする明王朝の二代皇帝の建文帝(洪武帝の孫)の抑圧に耐えかねて挙兵、建文帝を放逐して政権を奪取し永楽帝としての統治を開始した。
その永楽帝が派遣したのが鄭和の南海遠征である。鄭和は雲南省出身、先祖は西域からきたイスラム教徒で、旧姓の「馬」はムハンマドの音にあてたものである。明が雲南を制圧した際一二歳で捕虜となり、後の永楽帝、燕王の少年召使として強制的に去勢され宦官とされた。当時の権力維持のための慣習とはいえ男性機能を奪われるという屈辱を強いられた男の壮烈な生き方が胸を打つ。鄭和はメッカを訪れているが、先祖の信仰の地に立つことは感慨深かったであろう。
南海遠征は七回行われた。第一回は一四〇五年、鄭和三四歳の時で、六二隻の船団を率い、二・七万人の乗組員と共に東南アジアからインドのカリカットまで到達。最後は一四三一年で、アデン、メッカにまで到達したという。東南アジアから南西アジアを超え、中東のホルムズ、メッカ、アフリカのマリンディ(一四一五)まで航海した壮大な試みであった。ポルトガルがモロッコの交易都市セウタを占領して大航海時代に先鞭を切ったのが一四一五年、アフリカ大陸最南端の喜望峰の周回に成功したのが一四八八年である。ヴァスコ・ダ・ガマが世界一周の途上、イスラム都市マリンディ(現在のケニア)に到達したのが一四九八年だが、それより八三年も前に鄭和はこの地に立ったのである。大遠征の主目的は交易と朝貢で、輸入品として香料や象牙、輸出品として絹織物、生糸、磁器が動いているが、逃亡した先帝建文帝の探索やティムール朝の脅威の調査も目的だったという説もある。ティムール朝は一四世紀後半から一五世紀初めにかけて忽然と台頭しサマルカンドを首都として西トルキスタンを統一、中央アジアからインド西北部を制圧した。明朝には気になる存在であった。
遠洋航海を可能にしたのは明の造船技術であった。鄭和艦隊の船の大きさは驚くべきもので、旗艦は「宝船」といわれる大型船で全長一三八m、幅五六m、排水量一・五万トン、九本マストと、一〇〇年後のスペイン、ポルトガルの大航海時代の外洋船の五倍以上の規模である。これら大型船は南京郊外の長江に面した広大な宝船廠といわれた造船所で建造された。
鄭和の航海については謎も多く誇張も多い。例えば世界的ベストセラーのG・メンジーズ『1421―――中国が新大陸を発見した年』(二〇〇二、邦訳二〇〇三年、ソニーマガジンズ)は「鄭和の艦隊がコロンブスよりも七〇年前に米大陸を発見し世界一周をしていた」という。著者は一九三七年生まれの英国海軍の軍人で、退役後に中国海軍史の研究を始め、欧州で出版された初期の世界地図に欧州人が到達していなかった地域の海図や測量が反映されており、この時代に壮大な探査を行える資金・技術・人材・指導力を備えていたのは中国(明)だけだという仮説に立つが、あまりに実証性に乏しい。彼はエスカレートし二冊目の作品『1434――中国の艦隊がイタリアに到達しルネサンスに火をつけた年』(二〇〇八)ではコロンブスの私文書が中国の外交官とローマ教皇の交渉を窺わせるというが、真摯な歴史研究の成果ではない。世界史の相関を重視するグローバル・ヒストリーの視界からすれば、魅力的な素材である鄭和の航海も冷静に検証されねばならない。
 世界には六〇〇〇万人を超す華人・華僑といわれる在外中国系人口がある。とくに、東南アジアには、インドネシア(九五〇万)、タイ(八〇〇万)、マレーシア(七〇〇万)、シンガポール(三五〇万)、ミヤンマー(二〇〇万)フィリピン(一五〇万)、ベトナム(一二〇万)、カンボジア(八〇万)、ラオス(二〇万)など約三五〇〇万人もの中国系人口が存在する。その淵源は、中国がモンゴルに支配された元の時代に圧迫された漢民族が南に押しやられたことにあり、鄭和の南方遠征の明代の交流・朝貢関係を経て、再び満州族という異民族支配の清の時代を迎え、客家などの漢民族が抑圧を避けて南に向かったという事情が存在する。さらに、清朝末期の混乱や戦後の中華人民共和国成立に至る内戦期に海を渡った多くの中国人が東南アジアに広範な華人・華僑圏を形成したのである。

 

 

 

異民族支配王朝の谷間としての明朝 一七世紀東アジア再考

 

 

 永楽帝の治世が明朝の栄光のピークであり、朝貢貿易の最盛期であった。朝鮮、ベトナム(安南)、シャム、琉球、日本、ジャワ、スマトラ、マラッカ、ボルネオ、ベンガル、セイロン、マリンディなど実に六三の国・地域から朝貢がなされていた(「正徳大明会典」)。貢物を受け(納貢)、貢物への何倍もの恩賞(回賜)が下賜される仕組みであった。「天朝上国」(中国の皇帝が世界の主人という幻想)が明朝の思いであった。日本も明朝への冊封体制に組み込まれていた。一四〇一年、足利義満は建文帝のもとへ僧祖阿を正使、博多商人の肥富を副使として派遣、朝貢交易を求めた。翌年、明の使節が来航し義満を「日本国王源道義」に封じる返書を届けた。一四〇四年には永楽帝が日本に勘合を与え、朝貢による「日明勘合貿易」が始まった。正に鄭和の南海遠征の前年に日本は永楽帝との勘合貿易を始め、遣明船は中断しながらも一六世紀半ばまで一五〇年間続き、大量の銅銭「永楽通宝」が導入された。
明朝とは、モンゴル支配の元と満州族支配の清という異民族支配体制に挟まれた期間であり、北方民族の脅威という宿命に晒された中国の歴史を象徴する王朝であった。この明朝という時代を理解する上で、興味を惹かれるのが、『モンゴルに拉致された中国皇帝』(川越泰博、研文出版、二〇〇三)に紹介されている史実である。第六代皇帝英宗、正統帝(在位一四三五~四九)は、一四四九年に侵攻してきたエセン率いるモンゴル軍との「土木堡の戦い」に敗れ、捕虜となって一年間も虜囚の辱めを受ける。衝撃を受けた明朝は正統帝を退位させ第七代景泰帝を立てる。一年後に解放されて北京に戻った英宗であったが今度は幽閉生活を余儀なくされる。ところが一四五七年に起こった政変によって英宗は再び皇帝に返り咲き、第八代天順帝(在位一四五七~六四)となる。わずか三七歳で死んだこの人物は生涯で「捕囚―退位―幽閉―復位」という数奇な運命を辿った。オスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし(一四五三)、日本では室町幕府将軍足利義政が遣明船を送っていた頃中国大陸では奇怪な事態が展開されていたのである。
岡田英弘は『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店、二〇一〇)において、清朝の正統性の根拠は元朝の流れを汲む北元のダヤン・ハーン直系のリンダン・ハーンからヌルハチの息子のホンタイジが元朝の玉璽を引き継いだことにあるとしているが、清朝がモンゴルの継承政権であったことは視界に入れておかねばならない。二七六年間続いた明朝も、一六四四年にはヌルハチ率いる満州族によって滅ぼされ、「清」という時代を迎える。この年、越前から日本海を漂流した日本人一五人が北京に殺到する満州族の軍と一緒になって北京に向かい、体制転換期の中国を目撃し初代清朝皇帝によって日本に送還されることになったことは本連載(「世界を見た漂流民の衝撃――韃靼漂流記から環海異聞」二〇一五年七月号)でも論じた。
明朝期の日本は中国に対して朝貢関係にあり冊封体制に組み込まれていたともいえるが、一方で倭寇の跋扈が明朝を苦しめ、一六世紀末の秀吉の二度にわたる朝鮮出兵など、東アジアにおける日本は御し難い危険な存在でもあった。江戸期を迎え、その前期において中国大陸が明から清への混乱期にあり、また朝鮮出兵からのダメージ・コントロールが必要だったこともあり、徳川幕府は中国への対応に苦慮した。それが、長崎、対馬、松前、琉球の四つの口を窓口に、中国産品(絹織物、生糸など)の交易はするが正式な国交関係を持たない「国交なき交易」という特殊な政経分離の関係を持った理由である。この距離感が重要であって、江戸期は日本の歴史過程の中で、長く文化・文明的にその影響を受け続けてきた中国からの自立の過程にもなったのである。
 一六七〇年の古銭禁止令で中国の銭の通用を禁じて「寛永通宝」など日本の銭の定着を図り、一六八五年の渋川春海の「大和暦」採用が八〇〇年以上続いた中国の暦(宣明暦)からの自立を意味し、さらに本居宣長らの国学の確立が儒学を正学としていた日本において「からごころ」から「やまとごころ」へという文化的自立への試みであったことは既に論じた。その江戸期・幕末維新を経て日本は「脱亜入欧」へと動き、そして一八九五年、日清戦争に勝ったあたりから中国への蓄積してきた劣等感を反転させ、戦争に向けて迷走に入る。

 

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 05:05:43 +0900
岩波書店「世界」2017年3月号 脳力のレッスン179 オスマン帝国の後門の狼サファヴィー朝ペルシャ 一七世紀オランダからの視界(その42) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1468-nouriki-2017-3.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2017/1468-nouriki-2017-3.html   テロ集団「イスラム国」(IS)の処刑人として、ジャーナリストの後藤健二さんら七人の斬首を行ったとされる通称「ジハーディ・ジョン」の人生を描いたR・バーカイクの著作(邦訳「ジハーディ・ジョンの生涯」、文藝春秋社、二〇一六年)を読むと、中東における国境概念を再考させられる。クウェート系難民の子として英国で育ち、シリアでISに加担し、二七歳で空爆に散る彼は、自分をクウェート人とは考えなかった。
 本名モハメッド・エンワジ、クウェート地域の誇り高い部族長の祖父は一九六一年に英国から独立したクウェートの国籍の受け入れを拒否、一族は「無国籍者」の運命に翻弄される。フセインのクウェート侵攻と湾岸戦争を機に、六歳の時一家は英国で移住するも、亡命申請の認可に三年を要す。物静かな工科大学生だった彼も、抑圧と差別の中で過激なイスラム思想に惹かれ、MI5(保安局)の監視に追い詰められ、結婚や就業の機会を奪われてISに引き寄せられ、黒装束の処刑人と化す。
 この男に他の人生はなかったのか。第一次大戦期の一九一六年、英国はオスマン帝国解体後の中東の分断統治を狙う「サイクス・ピコ協定」を画策する。中東は「大国の横暴」によって翻弄され続ける。希望を断たれた男の狂気には言葉を失うが、中東を生きる人間にとって、現在の地図に引かれた国境線など意味のないものなのである。我々は歴史の地図に立ち返って、固定化された認識から解放される必要がある。

 

 

サファヴィー朝ペルシャ―――シーア派の中核イランの淵源

 

 

オスマン帝国という「壁」が、「壁を迂回してアジアに向かう大航海時代」を触発した事情は既に触れた。一六~一七世紀、ウィーンを二度も包囲したオスマン帝国は欧州を震撼させたが、帝国を背後から脅かす存在があった。東方の大敵、サファヴィー朝ペルシャ(一五〇一~一七三六年)であり、正に後門の狼であった。一五世紀末にアゼルバイジャンに興ったイスラム系神秘主義のサフィー家を指導者とする教団が、トルコ系遊牧民族を取り込み南下、一五〇一年にタブリーズに入城した。
オスマン帝国は、一三世紀末にトルコ族のオスマン一世が建国した。一四五三年にはビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させ、バルカン半島から欧州に勢力を拡大したが、東からサファヴィー朝ペルシャの脅威が迫っていた。一五一四年、オスマン帝国のセリム一世は脅威を断つべく、サファヴィー朝を率いるイスマイール一世との決戦に臨む。このアナトリア東部のチャルディラーンの戦いに勝利したオスマン軍はタブリーズまで進軍するが、息の根を止められなかった。
傾きかけたサファヴィー朝を再興し、最盛期を実現したのがアッバース大王(在位一五八七~一六二九年)である。政争の混乱の中、一七歳で第五代の王となった彼はトルコ系遊牧民とペルシャ系住民を束ね、古代ペルシャの版図の再統一を実現した。対立勢力の大量処刑と長男さえ殺戮する残酷さの一方、オスマン帝国との衝突を通じて欧州との外交・交易の必要を学ぶ冷静さを持っていた。一五九七年には首都をイスファハーンへ移転、人口六〇万人の国際都市に成長させた。
 この街には、英国人や中国人使節も来訪し、今日も残るキリスト教大聖堂を建設、英蘭両国の東インド会社の商館やコーヒーハウス、巨大バザール、公衆浴場などが立ち並び、栄華を極めた。一六〇二年作のシェイクスピアの喜劇『十二夜』には「気前のいいペルシャ王」というセリフが登場する。一六二二年、王は英国東インド会社と同盟し、軍艦の供与を受けてポルトガルが占拠するホルムズ島を占領、一六二四年には百年以上オスマン帝国に支配されていたバグダッドを奪還した。
今日、「シーア派イスラムの総本山」の役割を果たすイランだが、シーア派化したのがサファヴィー朝である。シーア派(一二イマーム派)を国教とする旨宣言したのはイスマイール一世で、王朝創建時からになる。シーア派とは宗祖ムハンマドの血脈(血の正統性)を重視し、ムハンマドの従兄弟で娘婿だった第四代正統カリフ・アリーを支持する宗教的党派だ。「シーア派はイラン化したイスラム」という言葉の基底を創ったのがサファヴィー朝であり、アフガン人の侵入で衰亡、一七三六年にアフシャール族の部族長ナーディル・ハーンにより滅亡する。日本では享保二一年、八代将軍吉宗の時代だった。
 一六~一七世紀、中東の双璧だったオスマン・トルコとサファヴィー朝ペルシャの攻防の焦点がバグダッドである。今日のイラクのバグダッドとはその歴史を背負った所なのだ。古代オリエント最古のシュメール文明の栄光を担い、バビロン王朝の地でもあった。フセインのクウェート侵攻時に、トルコの首相が「もしクウェートがイラクのものなら、イラクはトルコのものだ」と発言したが、中東とはそうした地政学を内包した地域なのである。そして、二一世紀の今、中東で進行する事態の深層底流には、大国の横暴に揺さぶられてきた二〇世紀の中東史とは異なり、埋め込まれていた地域パワーとしてのイランとトルコの台頭という要素が顕在化しており、「先祖帰り」、つまり歴史の下絵が炙り出されている状況ともいえる。

 

 

イランとは何か―――民族ではなく地理的概念

 

 

 改めてイランとは何か。古代史において二つのペルシャ王朝が存在した。紀元前に存在したアケメネス朝(BC五五〇~三三〇)は、ペルセポリスを中心にオリエント全域を支配した帝国で、マケドニアのアレキサンダー大王により崩壊させられたが、トム・ホランドの“Persian Fire“(Little,Brown’二〇〇五年)が、「西に挑んだ最初の世界帝国」と描いているごとく、遊牧騎馬民だったペルシャ人のキュロス大王(在位BC五五〇~五二九年)を始祖として、イラン高原の支配権を確立、BC五三九年には新バビロニア王国までも征服した。ダレイオス一世の時代には、BC四九二年~四九〇年にかけて、二度もギリシャ本土への侵攻を試みるが失敗、息子のクセルクセス一世はBC四八〇年に二百万の陸海軍を率いて再びギリシャへ侵攻、アテネを陥落させたが、海戦で打撃を受けて撤退した。ペルシャの脅威が「西」(欧州)に向けられた瞬間であり、アレキサンダー大王の大遠征の伏線となった。
アケメネス朝滅亡から五五〇年後に登場したのがササン朝ペルシャ(AD二二六~六五一年)で、アケメネス朝の再興を目指す、ゾロアスター教を国教とする神政帝国であった。AD二三〇年には、創始者アルダシール一世(在位二二六年~二四一年)はメソポタミア全域を支配し、息子のシャープール一世の時代にローマ帝国と闘い、二六〇年のエデッサの戦いではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするほど戦果を挙げた。
栄華を誇ったササン朝ペルシャも、七世紀には衰亡の兆しを強め、六四二年には台頭するアラブ・イスラム軍に敗れ(ニハーヴァンドの戦い)、最後の王ヤズデギルド三世は暗殺されて、六五一年に終焉を迎えた。教祖ムハンマドの死が六三二年であり、いかにイスラム勢力が急拡大したかが分る。
二つの古代ペルシャ王朝が滅びて、先述のサファヴィー朝登場までの八五〇年間、ペルシャといわれた地域は、七世紀に興ったイスラム勢力に席巻されて以後、西アジアの地政学に翻弄され続ける。一一世紀央から一五〇年間セルジューク朝トルコ(一〇三八~一一九四年)の支配を受ける。このトルコ系王朝の最盛期は三代目スルタンのマリクシャー(在位一〇七二~九二年)の時代で、アナトリア、シリアから紅海沿岸、中央アジアに至る大帝国を形成した。一一世紀末から西欧社会が送り込んだ「十字軍」と対峙したのがこのセルジューク朝だ。一〇九九年の第一回十字軍によるエルサレム陥落など、キリスト教軍が一定の「戦果」も、内部の対立や内紛でイスラム側が結束していなかったという事情によると気付く。
一三世紀には、北からモンゴルの圧力が高まる。ジンギス・カンは一二二〇年から二四年にかけて、中央アジアからペルシャ、西北インドへと遠征、略奪・殺戮を繰り返す。一二五三年からは、ジンギス・ハンの孫フレグ・ハンがモンゴル帝国の大軍を率いて南下、
西アジアに侵攻してイルハン国(一二六〇~一三五三年)を設け、モンゴル支配の時代となる。フレグは一二六〇年にはシリアにも侵攻、アレッポ、ダマスカスを攻略した。フレグは帰還せず、イランの地に留まった。三代目の王となったテグデルがイスラムに改宗し、五代目のガザンの一二九五年からは、イルハン国が国家としてイスラム国家になった。「モンゴル人のイスラム化」である。
 ペルシャ、そしてイランの存在を再考すれば、民族や王朝の連続性によってではなく、地理と宗教から成り立つ概念だと分かる。ホメイニ革命で放逐されたパーレビ国王が、一九七一年に古代ペルシャ王朝の栄光を引き継ぐ演出でペルシャ帝政二五〇〇年祭をペルセポリスで挙行したが、系統だったペルシャ民族など存在しない。この地に住む人は、アーリア系のペルシャ人を基底としながらも、トルコ系、モンゴル系、中央アジア系の諸民族などの複雑な混血によって成り立ち、人種の十字路というべき多民族国家だ。そして多民族を束ねるアイデンティティが宗教としてのシーア派イスラムなのである。
「イラン」という呼称は、第一次大戦後に英国の支援を受けて一九二五年に国民会議の推挙によって即位したパーレビ王朝のレザー・シャー以降のものである。イランを基点として「シーア派の三日月」といわれるゾーンがイラクからシリアにまで形成されつつある。イラク戦争がイラクをシーア派主導の国に変え、湾岸の北にシーア派の影響を浸透させつつある。孤立したスンニ派の過激派勢力がISを生み、混迷を深めたが、シーア派のイランが台頭する潮流は、レバノン・シリア・イエメンからアフリカにまで拡大している。

 

 

 

日本の古代史に見え隠れするペルシャ人の存在

 

 二〇一六年一〇月に奈良文化財研究所の発表では、平城京跡から出土した木簡の解読によって、天平神護元年(七六五年)の大学寮の人事記録に「破斯清道」との名が残されており、「破」「波」の違いはあるが、当時のペルシャ=「波斯」に由来する姓を名乗るペルシャ人が大和朝廷に仕えていたと推定されるという。この木簡自体は一九六六年に出土していたが、赤外線撮影による読み取り技術の進歩で判読できたという。
『続日本紀』にも天平八年(七三六年)遣唐使から帰任した入唐副使中臣名代が唐人三人と波斯人一人を、聖武天皇に拝謁させた記録がある。厳密に「波斯人」がペルシャ人かは別にして、中央アジアから西の地域の出身者たる「西域人」が、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したことは事実だろう。既に「キリスト教伝来と禁制」(本連載その一七)で触れたが、六三五年にペルシャ人アロペン(阿羅本)が長安に景教の名でキリスト教(ネストリウス派)を伝え、景教寺院(教会)まで建てており、西域との交流が窺える。
遡って六世紀末、仏教伝来の寺である日本最古の飛鳥寺(元興寺)建立に当たり、百済王が献じてくれた造仏工、造寺工は「百済の工人」といわれるが、「元興寺縁起」に残る名前には、西域人風の名があり、そのことは井本英一「古代の日本とイラン」(学生社、一九八〇年)が説得力ある解明に挑んでいる。蘇我馬子による建立開始は五八八年、創建は五九六年であり、日本古代史にユーラシアの風が吹き込んでいたことに心が熱くなる。
六~七世紀は、ササン朝ペルシャがアラブ・イスラムの台頭で滅亡(六五一年)した時代で、圧迫を受けたペルシャ人が、中央アジアから中国へ流動し、日本にやってきていたと思われる。空海が遣唐使の一翼を占める形で中国に渡航した八〇四年頃、長安には四〇〇〇人超のペルシャ人がいた記録もある。

 

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2017年 Tue, 12 Mar 2019 00:34:52 +0900