2018年 「寺島文庫オフィシャルウェブサイト」は、様々な志を持った人が集い、何かを共有するためのウェブサイトです。 その志を実現していくために、寺島実郎が世界の現場をフィールドワークして得た「世界を知る力」とネットワーク、そして産官学の仕事を通じて得たプロジェクト構想力のヒントを少しづつ伝えていきます。 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018.feed 2024-05-04T08:18:41+09:00 寺島文庫 webmaster@terashima-bunko.com 岩波書店「世界」2018年12月号 脳力のレッスン200 人類史における宗教の淵源―一七世紀オランダからの視界(その52) 2019-03-13T03:32:19+09:00 2019-03-13T03:32:19+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1490-nouriki-2018-12.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人間が神仏を創ったのであって、神仏が人間を創ったわけではない。人間が人間たる特質ともいえる「自らの存在の意味を問い掛ける動物」として進化した帰結として、自らを制御する存在としての神仏を創造せざるをえなかったのである。最新の脳科学の進歩を踏まえたスタンフォード大学の精神医学者E・フラー・トリーの「神は脳がつくった」(邦訳、ダイヤモンド社、2018年、原書“EVOLVING BRAINS EMERGING GODS”、2017年)は、こうした認識を確認する上で有効な論稿であり、脳の進化の過程において、人間が神を必要としたことを説得的に検証している、ホモ・サピエンスが、約一〇万年前以降に「自分自身を考える内省能力」を発達させ、約四万年前以降に「自伝的記憶」(自分の死を超えて将来に投影する能力)を獲得し、そうした認知能力の進化が農耕革命、定住革命につながり、「一万年から七〇〇〇年前」の時点で「概念的な神々」を意識するに至ったというのである。<br /> 人間、ホモ・サピエンスの脳は一・五キログラム程度といわれる。この体重の三〇分の一にも満たない脳が人間のエネルギーの四分の一以上を消費するという。「認知革命」を経た人類が約六万年前、アフリカからユーラシアへと移動し、環境に適応しながら生存への旅を続け、約一万年に定住革命を迎えたこと、そして約五〇〇〇年前の人類が実現したシュメル都市文明が生んだシュメル文字の粘土板、その人類最古の文字で描かれた神話には多くの神々が描かれていることについては既に論じた。<br /> 人間はいつ宗教心を持つに至ったのか。人間が人智を超えた「聖なるもの」に魅かれたり、内なる価値に動かされて「回心」する起点は何なのか。そして、二五〇〇年ほど前に、つまりBC五〇〇年頃に今日の世界宗教の中核を占める中東一神教(起源としてのユダヤ教)、仏教(ブッダの誕生)、儒教(孔子の誕生)が、ほぼ機を同じくして誕生したのか。人類史における宗教の意味を再考しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">宗教の淵源としてのアニミズム(自然崇拝)とフェティシズム(偶像崇拝)</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> R・ドーキンスの「神は妄想である――宗教との決別」(早川書房、2007年、原書“T<br />HE GOD DELUSION”、2006)が語る「宗教はストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬である」という見解が真理だとしても、宗教が人間の切なる願望の表象であり、宗教を持つことが人間という動物の特質でもあることを直視しなければならない。   <br />ここで、重要なのは「宗教とは何か」ということだが、人類は二足歩行と脳の進化を経た「認知革命」の先に「聖なるもの」を設定し、それに頭を垂れることで、自らの精神を制御してきたといえ、宗教の起源は「聖なる事象」への気付きにあるといえる。<br /> 約二〇万年前にアフリカ大陸に登場したホモ・サピエンスが、一〇万年前頃から認知革命の中で「自らを見つめる内省能力」を身に着け始め、約六万年前にユーラシア大陸への「グレート・ジャーニー」と呼ばれる移動を開始したことは既に触れたが、人類は移動を通じて「人間という存在への無力感」を味わい、自然の驚異と偉大さに霊性を感じたのであろう。「太陽の美しさと恵み」「そそり立つ山岳の壁」「一木一草にも命」を感じ<br />「聖なるものを設定」する心情が高まったであろう。無生物にも「アニマ(ANIMA)」、すなわち霊魂が存在するという信念が、自らを律する心性に芽生えたことは重い一歩であった。人類が自然との対峙・格闘・共生を通じてアニミズム的志向を身に着けていったという視点は、宗教の淵源を考える上で納得のいくものである。<br /> 一九世紀の文化人類学者エドワード・タイラー(1832~1917)は宗教学の先駆的研究ともいえる「原始文化――神話・哲学・宗教・言語・芸術」、(1871年)において―――彼は一七世紀に日本を訪れたケンペルの「日本誌」さえ参照して日本宗教の研究にまで踏み込んでいるのだが――――独自の「宗教進化論」を展開し、宗教は「アニミズム――多神教―― 一神教」と進化してきたという考え方を展開した。一九世紀という時代を背景にした西欧・キリスト教優位の宗教観であり、未開・非文明においてはアニミズムとフェティシズム(偶像崇拝、呪物崇拝)が支配的で、それが多神教へと進化、さらに文明化とともに一神教へと成熟していくという捉え方であった。<br /> こうした認識の限界は、現代社会にも現存するアニミズムを観察すれば明らかである。アニミズムは未開社会の特質ではなく、時代を超えた人間の特質ともいえるのである。W・ディズニーはネズミに人間の心を持たせて「ミッキーマウス」なる存在を生み出した。世界中の子供はディズニー・アニメに登場する動物に心を寄せ、擬人化して考えている。また、地球環境の保持に関心を抱く人の中には、近代社会を貫く「人間中心主義」の世界観に疑問を抱き、「多様な生物が共生する地球」を希求することを主張するが、これも形を変えたアニミズムといえる。また、現代におけるフェティシズムを直視したい。例えば、商業主義によって増幅されたブランド商品への信奉は凄まじく、これこそ呪物崇拝の延長ともいえる。ブランド製品への選好というレベルを超えて、高額のブランドに執着する「ブランドフェチ」は地上に蔓延している。さらに、芸能の世界における「アイドル」(偶像)なる存在に熱狂する空気こそ、文字通り「偶像崇拝」以外の何ものでもない。アイドル・グループに「神セブン」という言葉が使われたり、「神ってる」という表現が飛び交い、究極の「多神教」状態にあるのが現代社会である。我々自身がアニミズムとフェティシズムを生きているのである。<br /> 改めて、宗教なるものの本質を熟慮するならば、宗教は人間の心における二つの要素の淵源をもつといえる。一つは、ここで論じてきた「聖なるもの」への意識である。そして、もう一つが、心の内なる価値への意識であり、自らを律する規範への目覚めである。そこで、人類史における内面的価値、「道徳の誕生」に関心が向かわざるをえない。南加大学の人類学者クリストファー・ボームは「モラルの起源」(邦訳、白揚社、2014年、原書“MORAL ORIGINS”、2012)において、道徳、良心、利他行動の進化について論じている。彼は「血縁を超えた他者に対する寛大さ(モラル)は、集団内の『黄金律』として、集団を効果的にまとめる上で有効だからという社会的環境によって生まれた」と考え、「およそ一五万年前」のアフリカにおけるホモ・サピエンスにモラルの起源を求めている。但し、人間にだけ道徳性があると考えることは正しくないようだ。霊長類の社会的知能研究の第一人者フランス・ドゥ・ヴァールの「道徳性の起源――ボノボが教えてくれること」(紀伊国屋書店、2014年、原書2013年)は、類人猿ボノボの研究を通じて、「道徳性とは神から押し付けられたものでも、人間の理性から導かれた原理に由来するものではなく、進化の過程で動物が営む社会生活の必然から生じた。相手を思いやり、助け合い、ルールを守り、公平にやるのは動物も人間も同じだ」と論ずる。また、英国の科学ジャーナリスト、ニコラス・ウェイドは、「宗教を生み出す本能―――進化論からみたヒトと信仰」(2009年)において、「言語と宗教こそ、人間の学習能力の上に築かれた複雑な文化行為」と述べ、「人は一人で話す、祈るのではなく、共にコミニュケーションすることで納得し、落ち着く」と語る。つまり、「宗教とは、感情に働きかけ、人々を結束させる信念と実践のシステム」であり、社会的関係性の中で、自らの位置を問い掛け、共有できる価値に向き合う視界が生まれると考えるべきなのである。<br /> つまり、約一万年前とされる定住革命の過程で、人間社会には移動を続ける部族とは異なる次元での共同体が生まれ、近隣の共同体との関係性が生じた。それは、「嫌いな奴とは別れて移動する」ことから、「嫌いな奴とも何とか共存しなければならない」という状況が生まれ、社会の良好な関係を保つための自制心、他者への配慮が必要になった。それは、次回に論及する「世界宗教」の誕生の伏線になったといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">人間が宗教に心を寄せる瞬間―――「回心」とは何か</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  唐突だが、人間が宗教に心を寄せる瞬間、懐疑的知性が神の存在を意識する瞬間を考察しておきたい。つまり、「回心」である。私自身は宗教者ではないが、世界を動いてきて、世界は宗教から成り立っていることを実感してきた。そして、世界の理解には宗教への理解が不可欠なのである。その意味で、私の体験から話を進めたい。<br /> 私はイスラエルのエルサレムを五回以上訪れ、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会、イスラム教の岩のドームといった三つの聖地が半径五〇〇メートルの中に存在する旧市街を歩き回った思い出がある。とくに、十字架を背負ったキリストが歩いたゴルゴダの丘への道(ヴィア・ドロローサ)を追体験するごとく二度歩いたことがある。商店が立ち並ぶ細い坂道を登りながら、突然思い出したのが芥川龍之介の「さまよえる猶太人」(1917年6月号「新潮」)であった。ゴルゴダの丘の刑場に二人の盗人とともに曳かれていくキリストを芥川は彼自身のキリスト像を炙り出すように描いている。―――ゴルゴダに向かう細い坂道沿いにその男ヨセフの家があった。十字架を背負わされたキリストは、ヨセフの家の戸口に立ち、しばらく息を入れようと立ち止まった。ヨセフは「多くの人々の手前、司祭たちへの忠義ぶりをみせるため」、キリストに対して「無情にも罵詈を浴びせかけた上で、散々打擲を加えた」―――つまり、群集心理に悪乗りして、キリストを小突き回したのである。その時、キリストが発した一言がヨセフの運命を変えたどころか、人類史を変えたとさえいえる。キリストは何と言ったのか。―――「行けというなら、行かぬでもないが、その代わり、その方はわしの帰るまで、待って居れよ」</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> キリストという実在の人物が十字架に架けられたのはAC三三年の春だったという。このユダヤ教のラビの一人だった青年が何故、逮捕・処刑されねばならなかったのか。それは、既に当時のパレスチナにおいて確立された秩序の中心にいたユダヤ教指導層には、イエスの運動がユダヤ教指導層への批判を内在させ、イエスをメシア(聖別された救世主)とする運動が盛り上がることを警戒する心理が存在し、支配者であったローマ総督の名の下にイエスの排除を誘導する意図があったことは確かであろう。寄ってたかってイエスを殺してしまったユダヤ人社会に、最後まで「愛」を語り続けていたイエスの人格的印象が鮮烈に蘇り、それが復活の日を信じる心に火をつけたといえる。そして、そのことが一九〇〇年も経った極東の国・日本で、芥川の心にも火をつけたのであり、キリスト者への「回心」といえよう。そして、芥川の作品を想いながら、あのゴルゴダへの坂道で私自身のキリスト理解が一歩深まった瞬間にもつながったのである。<br /> ところで、「西方の人」「続・西方の人」は芥川が三五歳で自殺する直前、一九二七年に雑誌「改造」に書いた最後の作品であった。「クリスト教は、クリスト自身も実行することのできなかった詩的宗教である」という芥川のキリスト教理解の集約であり、近代日本における批判的知性の代表ともいえ、「クリスト教は畢竟クリストの作った教訓主義的な文藝にすぎない」とまで言い切っている芥川が、それでもキリストを「詩的正義」として愛し、キリスト教へと「回心」していった理由を理解する上で、その転換点を示唆するのが「さまよえる猶太人」である。それは、芥川における個人的体験だが、人間にとって、宗教が心に入る瞬間を示唆している。「西方の人」の書き出しは「わたしはかれこれ十年ばかり前に芸術的にクリスト教―――ことにカトリック教を愛していた」であるが、この十年前に二五歳で書いたのが「さまよえる猶太人」であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 人間が神仏を創ったのであって、神仏が人間を創ったわけではない。人間が人間たる特質ともいえる「自らの存在の意味を問い掛ける動物」として進化した帰結として、自らを制御する存在としての神仏を創造せざるをえなかったのである。最新の脳科学の進歩を踏まえたスタンフォード大学の精神医学者E・フラー・トリーの「神は脳がつくった」(邦訳、ダイヤモンド社、2018年、原書“EVOLVING BRAINS EMERGING GODS”、2017年)は、こうした認識を確認する上で有効な論稿であり、脳の進化の過程において、人間が神を必要としたことを説得的に検証している、ホモ・サピエンスが、約一〇万年前以降に「自分自身を考える内省能力」を発達させ、約四万年前以降に「自伝的記憶」(自分の死を超えて将来に投影する能力)を獲得し、そうした認知能力の進化が農耕革命、定住革命につながり、「一万年から七〇〇〇年前」の時点で「概念的な神々」を意識するに至ったというのである。<br /> 人間、ホモ・サピエンスの脳は一・五キログラム程度といわれる。この体重の三〇分の一にも満たない脳が人間のエネルギーの四分の一以上を消費するという。「認知革命」を経た人類が約六万年前、アフリカからユーラシアへと移動し、環境に適応しながら生存への旅を続け、約一万年に定住革命を迎えたこと、そして約五〇〇〇年前の人類が実現したシュメル都市文明が生んだシュメル文字の粘土板、その人類最古の文字で描かれた神話には多くの神々が描かれていることについては既に論じた。<br /> 人間はいつ宗教心を持つに至ったのか。人間が人智を超えた「聖なるもの」に魅かれたり、内なる価値に動かされて「回心」する起点は何なのか。そして、二五〇〇年ほど前に、つまりBC五〇〇年頃に今日の世界宗教の中核を占める中東一神教(起源としてのユダヤ教)、仏教(ブッダの誕生)、儒教(孔子の誕生)が、ほぼ機を同じくして誕生したのか。人類史における宗教の意味を再考しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">宗教の淵源としてのアニミズム(自然崇拝)とフェティシズム(偶像崇拝)</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> R・ドーキンスの「神は妄想である――宗教との決別」(早川書房、2007年、原書“T<br />HE GOD DELUSION”、2006)が語る「宗教はストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬である」という見解が真理だとしても、宗教が人間の切なる願望の表象であり、宗教を持つことが人間という動物の特質でもあることを直視しなければならない。   <br />ここで、重要なのは「宗教とは何か」ということだが、人類は二足歩行と脳の進化を経た「認知革命」の先に「聖なるもの」を設定し、それに頭を垂れることで、自らの精神を制御してきたといえ、宗教の起源は「聖なる事象」への気付きにあるといえる。<br /> 約二〇万年前にアフリカ大陸に登場したホモ・サピエンスが、一〇万年前頃から認知革命の中で「自らを見つめる内省能力」を身に着け始め、約六万年前にユーラシア大陸への「グレート・ジャーニー」と呼ばれる移動を開始したことは既に触れたが、人類は移動を通じて「人間という存在への無力感」を味わい、自然の驚異と偉大さに霊性を感じたのであろう。「太陽の美しさと恵み」「そそり立つ山岳の壁」「一木一草にも命」を感じ<br />「聖なるものを設定」する心情が高まったであろう。無生物にも「アニマ(ANIMA)」、すなわち霊魂が存在するという信念が、自らを律する心性に芽生えたことは重い一歩であった。人類が自然との対峙・格闘・共生を通じてアニミズム的志向を身に着けていったという視点は、宗教の淵源を考える上で納得のいくものである。<br /> 一九世紀の文化人類学者エドワード・タイラー(1832~1917)は宗教学の先駆的研究ともいえる「原始文化――神話・哲学・宗教・言語・芸術」、(1871年)において―――彼は一七世紀に日本を訪れたケンペルの「日本誌」さえ参照して日本宗教の研究にまで踏み込んでいるのだが――――独自の「宗教進化論」を展開し、宗教は「アニミズム――多神教―― 一神教」と進化してきたという考え方を展開した。一九世紀という時代を背景にした西欧・キリスト教優位の宗教観であり、未開・非文明においてはアニミズムとフェティシズム(偶像崇拝、呪物崇拝)が支配的で、それが多神教へと進化、さらに文明化とともに一神教へと成熟していくという捉え方であった。<br /> こうした認識の限界は、現代社会にも現存するアニミズムを観察すれば明らかである。アニミズムは未開社会の特質ではなく、時代を超えた人間の特質ともいえるのである。W・ディズニーはネズミに人間の心を持たせて「ミッキーマウス」なる存在を生み出した。世界中の子供はディズニー・アニメに登場する動物に心を寄せ、擬人化して考えている。また、地球環境の保持に関心を抱く人の中には、近代社会を貫く「人間中心主義」の世界観に疑問を抱き、「多様な生物が共生する地球」を希求することを主張するが、これも形を変えたアニミズムといえる。また、現代におけるフェティシズムを直視したい。例えば、商業主義によって増幅されたブランド商品への信奉は凄まじく、これこそ呪物崇拝の延長ともいえる。ブランド製品への選好というレベルを超えて、高額のブランドに執着する「ブランドフェチ」は地上に蔓延している。さらに、芸能の世界における「アイドル」(偶像)なる存在に熱狂する空気こそ、文字通り「偶像崇拝」以外の何ものでもない。アイドル・グループに「神セブン」という言葉が使われたり、「神ってる」という表現が飛び交い、究極の「多神教」状態にあるのが現代社会である。我々自身がアニミズムとフェティシズムを生きているのである。<br /> 改めて、宗教なるものの本質を熟慮するならば、宗教は人間の心における二つの要素の淵源をもつといえる。一つは、ここで論じてきた「聖なるもの」への意識である。そして、もう一つが、心の内なる価値への意識であり、自らを律する規範への目覚めである。そこで、人類史における内面的価値、「道徳の誕生」に関心が向かわざるをえない。南加大学の人類学者クリストファー・ボームは「モラルの起源」(邦訳、白揚社、2014年、原書“MORAL ORIGINS”、2012)において、道徳、良心、利他行動の進化について論じている。彼は「血縁を超えた他者に対する寛大さ(モラル)は、集団内の『黄金律』として、集団を効果的にまとめる上で有効だからという社会的環境によって生まれた」と考え、「およそ一五万年前」のアフリカにおけるホモ・サピエンスにモラルの起源を求めている。但し、人間にだけ道徳性があると考えることは正しくないようだ。霊長類の社会的知能研究の第一人者フランス・ドゥ・ヴァールの「道徳性の起源――ボノボが教えてくれること」(紀伊国屋書店、2014年、原書2013年)は、類人猿ボノボの研究を通じて、「道徳性とは神から押し付けられたものでも、人間の理性から導かれた原理に由来するものではなく、進化の過程で動物が営む社会生活の必然から生じた。相手を思いやり、助け合い、ルールを守り、公平にやるのは動物も人間も同じだ」と論ずる。また、英国の科学ジャーナリスト、ニコラス・ウェイドは、「宗教を生み出す本能―――進化論からみたヒトと信仰」(2009年)において、「言語と宗教こそ、人間の学習能力の上に築かれた複雑な文化行為」と述べ、「人は一人で話す、祈るのではなく、共にコミニュケーションすることで納得し、落ち着く」と語る。つまり、「宗教とは、感情に働きかけ、人々を結束させる信念と実践のシステム」であり、社会的関係性の中で、自らの位置を問い掛け、共有できる価値に向き合う視界が生まれると考えるべきなのである。<br /> つまり、約一万年前とされる定住革命の過程で、人間社会には移動を続ける部族とは異なる次元での共同体が生まれ、近隣の共同体との関係性が生じた。それは、「嫌いな奴とは別れて移動する」ことから、「嫌いな奴とも何とか共存しなければならない」という状況が生まれ、社会の良好な関係を保つための自制心、他者への配慮が必要になった。それは、次回に論及する「世界宗教」の誕生の伏線になったといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">人間が宗教に心を寄せる瞬間―――「回心」とは何か</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  唐突だが、人間が宗教に心を寄せる瞬間、懐疑的知性が神の存在を意識する瞬間を考察しておきたい。つまり、「回心」である。私自身は宗教者ではないが、世界を動いてきて、世界は宗教から成り立っていることを実感してきた。そして、世界の理解には宗教への理解が不可欠なのである。その意味で、私の体験から話を進めたい。<br /> 私はイスラエルのエルサレムを五回以上訪れ、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会、イスラム教の岩のドームといった三つの聖地が半径五〇〇メートルの中に存在する旧市街を歩き回った思い出がある。とくに、十字架を背負ったキリストが歩いたゴルゴダの丘への道(ヴィア・ドロローサ)を追体験するごとく二度歩いたことがある。商店が立ち並ぶ細い坂道を登りながら、突然思い出したのが芥川龍之介の「さまよえる猶太人」(1917年6月号「新潮」)であった。ゴルゴダの丘の刑場に二人の盗人とともに曳かれていくキリストを芥川は彼自身のキリスト像を炙り出すように描いている。―――ゴルゴダに向かう細い坂道沿いにその男ヨセフの家があった。十字架を背負わされたキリストは、ヨセフの家の戸口に立ち、しばらく息を入れようと立ち止まった。ヨセフは「多くの人々の手前、司祭たちへの忠義ぶりをみせるため」、キリストに対して「無情にも罵詈を浴びせかけた上で、散々打擲を加えた」―――つまり、群集心理に悪乗りして、キリストを小突き回したのである。その時、キリストが発した一言がヨセフの運命を変えたどころか、人類史を変えたとさえいえる。キリストは何と言ったのか。―――「行けというなら、行かぬでもないが、その代わり、その方はわしの帰るまで、待って居れよ」</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> キリストという実在の人物が十字架に架けられたのはAC三三年の春だったという。このユダヤ教のラビの一人だった青年が何故、逮捕・処刑されねばならなかったのか。それは、既に当時のパレスチナにおいて確立された秩序の中心にいたユダヤ教指導層には、イエスの運動がユダヤ教指導層への批判を内在させ、イエスをメシア(聖別された救世主)とする運動が盛り上がることを警戒する心理が存在し、支配者であったローマ総督の名の下にイエスの排除を誘導する意図があったことは確かであろう。寄ってたかってイエスを殺してしまったユダヤ人社会に、最後まで「愛」を語り続けていたイエスの人格的印象が鮮烈に蘇り、それが復活の日を信じる心に火をつけたといえる。そして、そのことが一九〇〇年も経った極東の国・日本で、芥川の心にも火をつけたのであり、キリスト者への「回心」といえよう。そして、芥川の作品を想いながら、あのゴルゴダへの坂道で私自身のキリスト理解が一歩深まった瞬間にもつながったのである。<br /> ところで、「西方の人」「続・西方の人」は芥川が三五歳で自殺する直前、一九二七年に雑誌「改造」に書いた最後の作品であった。「クリスト教は、クリスト自身も実行することのできなかった詩的宗教である」という芥川のキリスト教理解の集約であり、近代日本における批判的知性の代表ともいえ、「クリスト教は畢竟クリストの作った教訓主義的な文藝にすぎない」とまで言い切っている芥川が、それでもキリストを「詩的正義」として愛し、キリスト教へと「回心」していった理由を理解する上で、その転換点を示唆するのが「さまよえる猶太人」である。それは、芥川における個人的体験だが、人間にとって、宗教が心に入る瞬間を示唆している。「西方の人」の書き出しは「わたしはかれこれ十年ばかり前に芸術的にクリスト教―――ことにカトリック教を愛していた」であるが、この十年前に二五歳で書いたのが「さまよえる猶太人」であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年11月号 脳力のレッスン199特別篇 二〇一八年秋の不吉な予感―-臨界点に迫る世界的リスク 2019-03-13T03:12:30+09:00 2019-03-13T03:12:30+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1489-nouriki-2018-11.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 時代の空気について、八月末、ロンドンから羽田へと向かう機内、頭をよぎった思いがある。あの時も欧州からの帰国便であった。二一世紀が始まった二〇〇一年九月、欧州で面談した識者との話を総括しながら、私は「不吉な予感」に襲われた。ソ連崩壊から一〇年、「冷戦後の米国の一極支配」といわれ、ブッシュ政権は「米国は例外だ。世界のルールで縛るな」という「例外主義」を色濃くし、「国際刑事裁判所への不参加」「国連による小型兵器制限の拒否」など、冷戦の勝利者として尊大な空気を放っていた。ソ連崩壊後のロシアは混迷、前年の沖縄サミットに登場したプーチンだったが、その存在感は小さかった。欧州の外交関係者は米国の横暴に首をすくめていた。ニューヨーク・ワシントンを襲った同時テロが起こったのは、私が成田から自宅に帰り着いた直後だった。<br />そして二〇〇八年、洞爺湖サミットの年の八月末、ニューヨークの原油先物市場(WTI)は、バーレル一四五ドルにまで高騰していた。九・一一以降のイラク戦争を経た中東情勢の不安定化と二一世紀初頭の世界景気の拡大基調を背景に、原油価格は九・一一直前の二八ドルから五倍以上も跳ね上がっていた。それが、翌九月一五日に始まったリーマンショックを受け、一二月には三〇ドルにまで下落した。あの夏も「根拠なき熱狂」に酔い痴れるマネーゲーマーの表情に「不吉な予感」を感じたが、あれから一〇年、世界は「正気」を取り戻すどころか、「狂気」を増幅させているようである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二〇一八年夏の世界の構造変化―――臨界点に迫るリスク</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二〇一七年からの世界経済は、不思議な同時好況の中にある。IMFが七月に発表した世界経済見通しでは、二〇一八年の世界全体の実質成長率は三・九%と前年の三・五%を上回る堅調を予測しており、しかもマイナス成長ゾーンが無いという同時好況加速という展望を示している。ただし、IMFは直後の追加報告において、「もし、米中貿易戦争がエスカレートするなどのリスクが顕在化すれば、二〇一八年の世界経済は〇・五%程度下振れする可能性もある」という見方を示し、「リスク要素」を巡り微妙な状況にあるといえる。(参照、資料1)</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/199_01.jpg" alt="" width="465" height="322" /><br /> IIF(国際金融協会)の報告によれば、二〇一八年三月末の世界の債務残高(政府、企業、家計、金融機関)は二四七兆ドル(二・八京円)とされ、世界GDPの約三倍に当たる。一〇年前は二・九倍であり、借金漬けの好況ともいえる。また、世界の金融資産規模(株・債券総額と金融機関貸出残)は三三〇兆ドルを上回り、リーマンショック以降の金融緩和を受けて、ジャブジャブになった資金が、株価と借金(債務)を増幅させている構造が見てとれる。金融資本主義が誘いかけるメッセージは「借金してでも消費と投資を増やし、景気を拡大する」というものである。ウォールストリートの懲りない人々が主導する金融資産と負債の肥大化は危機への臨界点に迫りつつある。<br /> 実体経済の動きを超えた過熱気味の指標を注視すべきである。NYの株価(DOW)は、二〇一七年初から一年八カ月で三六%(日経平均は二一%)も上昇している。NYの原油価格(WTI)は、一年前に比べ、バーレル二〇ドル以上も上昇している。実体経済の拡大と比べ異様な数字である。<br />世界経済、とりわけ米国経済が堅調な理由は、トランプ政権の減税や産業政策が功を奏<br />しているためではなく、シリコンバレー(IT)が牽引していると言うべきであろう。IoT(インターネット・オブ・シングス)といわれるごとく、ネットワーク情報技術革命の成果が経済産業のあらゆる局面に浸透し、効率と生産性を高めていることが米国経済の活性化に機能していることは間違いない。さらに、したたかなウォールストリートがトランプ政権に憑りつき、オバマ政権がリーマンショックを受けて、「強欲なウォールストリートを縛る」として成立させた「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)を廃止させるなど、金融規制緩和の流れを形成して「株高」を誘導して、実体以上に景況感を高めているためともいえる。トランプ政権が、競争力を失った中西部の錆びついた産業を支持基盤として存立するパラドックスに苦笑いを禁じ得ないのである。<br /> そうした中で、二〇一八年夏を振り返るならば、地政学的リスクが顕在化した夏であった。まず、火薬庫といわれる中東に投げ込んだトランプの火種を注視したい。トランプ政権は米国の在イスラエル大使館のエルサレムへの移転を強行、増長したイスラエル・ネタニエフ政権は「ユダヤ国家法」を制定し、人種差別主義によるパレスチナの切り捨てに踏み込んだ。また、オバマ政権が実現した「イラン核合意」からも離脱、イラン制裁の強化へと向かい、さらにトルコのエルドアン政権との緊張を高め、通貨リラの価値を年初比四割も下落させるような制裁に踏み込んだ。<br /> 今、中東で進行している最も重要な基調は、イランとトルコという二つの地域パワーの台頭である。あえていえば「先祖帰り」であり、一〇〇年前に進行していた第一次世界大戦を経て、オスマン帝国が解体されて以降、欧州列強、そして米国と、大国の横暴に運命を左右されてきた中東が、地域パワーの再興という歴史潮流を迎えているといえる。シーア派イランの台頭に怯えるイスラエルとサウジアラビアが奇妙な接近を見せているのも、そうした動きへの反作用である。<br /> そのイランとトルコに対決姿勢を強めているのがトランプ政権である。冷戦期、トルコはNATOの一翼を占め、ソ連封じ込めの前線に立ってきた。また、イスラム諸国会議のメンバーとして米国の中東戦略を微妙に支えてきた。極端にイスラエルとサウジアラビアに傾斜したトランプだが、中東政策に深慮遠謀の戦略があるわけではなく、すべては中間選挙に向けて、米国の約三割を占めるエバンジェリカル(福音派プロテスタント教会)とユダヤ勢力を岩盤支持層として取り込むための戦術であり、中東に「不信」の火種を投げ込んだ愚かさの結末をやがて見ることになるであろう。昨年、サウジアラビアと断交したカタールはトルコと急接近、トルコの軍事基地がカタールにできるなど、湾岸産油国も一枚岩ではなくなった。中東情勢は液状化し、不安を加速させている。<br /> もう一つ、地政学を衝き動かしているのが中国・習近平の強権化である。六月一二日にシンガポールで行われた米朝首脳会談の本質を見抜かねばならない。もっともらしい解説を超えて、一つの事実に着目すれば、筋道は見えてくる。それは「金正恩は中国の航空機でシンガポールに行った」という事実である。国際間の移動で、最高首脳が他国の航空機で移動することは、通常考えられない。「生殺与奪権」を与えることだからである。<br /> 今年に入ってからの北朝鮮の「南北融和」への豹変には、中国の脅威からの自立という意図があった。だが、結果は再び中国の鎖に繋がれ「中国周辺国」に回帰したといえる。中国は「朝鮮半島の段階的非核化」というシナリオを北朝鮮に共有させた。それは北が非核化に一歩具体的行動をとれば、南の韓国における約三万人の在韓米軍が段階的に削減されるということで、中国にとって望ましい展開となり、仮に融和シナリオが破綻したとしても、北朝鮮を中国に頼らざるをえない状況に追い込んだといえる。九月一九日の南北首脳会談での「米国次第での核施設廃棄」という北の姿勢がそのことを示している。<br />本誌四月号の論稿「中国の強大化と強権化」において、習近平第二期政権の東アジアへの強勢外交を論じたが、その後の推移はそれを確認するものとなっている。まず、香港だが、二〇一七年七月の香港返還二〇周年の前後から、香港の憲法たる基本法における「一国二制度」は有名無実と化した。二〇一四年秋の選挙制度改革を巡る「雨傘運動」は民主派勢力の最後の燃焼となり、立法会(議会)からの民主派議員の資格取り消しにより、民主派は「抑圧」どころか、既に「抹殺」されたといえる。<br />また、台湾については二〇一五年十一月、シンガポールでの習近平・馬英九会談(六六<br />年ぶりの国共首脳会談)により「中台蜜月」を演じてみせたが、このところ習近平が見せる「台湾統一」への意思表示は一段とエスカレートしている。馬英九政権下の台湾は「一九九二年コンセンサス」として「一つの中国の意味を双方が独自解釈できる」「一中各表))と解釈して「融和の利得」を優先させて大陸との接近を図ったが、その希望は打ち砕かれたといえる。二〇一六年五月にスタートした蔡英文政権だが、中国の締め上げに追い詰められつつある。本年八月には台湾はエルサルバドルと断交、中国の札束攻勢により、もしバチカンとの関係を失えば、欧州において台湾と外交関係を持つ国はゼロとなる。<br /> 習近平政権は「中華民族の歴史的復興」を統合理念に掲げ、「社会主義」にこだわり(本年五月、K・マルクス生誕二〇〇年大会開催)、ユーラシアに「一帯一路」のネットワークを布陣しようとしている。六月に青島で行われた上海協力機構の第一八回大会には、インド・パキスタンも正式加盟し、イラン・ロウハニ師までがオブザーバー参加して「反保護主義」を採択するなど、米国を睨むユーラシアの連携軸になりつつある。<br />そして、プーチンのロシアであるが、二〇〇〇年に登場以来、一八年にわたりロシアを支配、二〇一四年のウクライナ危機後、G7の制裁を受けながらも、ユーラシアにおける存在感を高めた。この夏、四選を果たしたプーチンは、九月に入って極東・シベリア東部での三〇万人規模の軍事演習「ボストーク」を強行、中国・モンゴルからも三〇〇〇人規模の兵士が参加した。同時にNATOを対象にした一〇万人動員の軍事演習をベラルーシで実施、力を見せつけている。<br />「大ロシア主義」に回帰し、社会主義と決別して、統合理念に「ロシア正教大国」を掲げるプーチン―――そのプーチンに二三回もの面談を重ね、「北方四島返還」を期待して接近を試みたのが安倍政権であったが、その結末を見せられたのが、九月一二日のウラジオストック「東方経済フォーラム」での突然の「年内、平和条約締結」というプーチン発言であった。その真意は何か。一九五六年の日ソ共同宣言に戻るということは、「平和条約締結時に歯舞・色丹二島返還」を意味し、実体的に国後、択捉のロシア領としての固定化を図り、領土問題を封印して日本の経済支援の取り込みを狙っているとしか思えない。したたかなプーチンがそこにいる。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">デジタル専制への視界―――日本低迷の構造</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 資料2を直視してもらいたい。ここに世界同時好況と日本産業の低迷の段差を解明する鍵がある。GAFA+Mとは、デジタル・エコノミーを牽引する米国の「ITビッグファイブ」といわれる五社で、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフトのことであり、その五社の株価の時価総額(本年7月末)は四・〇兆ドル(442兆円)になる。対照的に、日本企業の株式時価総額のトップ五をみると、一位のトヨタ自動車でもわずかに二三・九兆円、アップルやアマゾン一社の5分の一に過ぎない。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/199_02.jpg" alt="" width="552" height="382" /><br /> ちなみに、経団連をリードする日立製作所の時価総額は三・八兆円、東レは一・四兆円、「鉄は国家なり」といわれた鉄鋼産業の中核たる新日鉄住金は二・一兆円にすぎない。もちろん、株式時価総額が企業の実力を示す一指標にすぎないが、「市場が企業の価値を決める時代」といわれる現在、企業経営は時価総額を超すリスクはとれないし、プロジェクトは組成できないちなみに、東京オリエンタルランド(ディズニーランド)の時価総額四・二兆円、ファーストリテイリング(ユニクロ)のそれは五・二兆円であり、「ものつくり国家ニッポン」の地殻変動がここにある。<br /> 驚くのは、中国のIT二社、テンセントとアリババの時価総額は一兆ドルに迫り、わずか二社で、日本のトップ一〇社を飲み込む額なのである。この米中のIT七社のことを、「ニューセブンシスターズ」と呼ぶようだが、二〇世紀のセブンシスターズは石油メジャーのことであったが、二一世紀の世界を支配するセブンシスターズは「プラットフォーマーズ」と呼ばれ、ネットワーク情報技術の基盤インフラを抑える企業群への呼称となっているのである。石油メジャー(現在はシェル、エクソンモービル、シェブロン、BPの四社に収斂)の時価総額は一・七兆ドルで、ニューセブンシスターズの四・九兆ドルに圧倒されていることが分る。<br />この事実認識の中から幾つかの論点が浮かび上がる。一つは、「プラットフォーマーズ」といわれる七つのIT企業の株価時価総額の肥大化が、技術優位性で生まれたものではなく、「ITとFTの結婚」、つまり、金融による増幅という形で実現されたということである。ITは平準化技術であり、「いつでも、どこでも、誰でも使える技術基盤」である。それを「データリズム」に立って囲い込むビジネスモデルをファンドが巨額の資金を投入することで成功させてきたといえる。「夢に金が付く時代」といわれるごとく、シリコンバレーのビジネスを見ていると、事業が成果を出す前にベンチャー・ファンド、ベンチャー・キャピタル、M&amp;Aと金融事業が蠢き、成功案件は異様なカネを引き付けるのである。<br />二つは、こうした世界の動きに直面した日本産業界の屈折という論点である。かつて、戦後日本の経済界のリーダーには重みがあり、永野重雄、土光敏夫、石坂泰三などの名前を思い起こしても、経済界を率いる矜持と政治をしっかりと睨む眼光があった。だが、現在の日本経済界の指導者達に政府の経済産業政策に鋭く発言する気迫は見当たらない。前述のIT巨大企業の株価に対する日本企業の劣勢にしても、実は公的資金を株式市場に投入して株価を水ぶくれさせた結果でもあるのだ。もし、この六年間、累計六五兆円の公的資金(日銀ETF買い、GPIF資金)を投入しなければ、日経平均は現在より三割は低い水準にあると思われる。アベノミクスが健全な資本主義を歪める政策であることが分っていても、筋道立った発言などできないのである。日本の劣化は政治と経済の相互作用から生じているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本の劣化―――安倍政権で見失ったもの</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  夏も終わろうとする九月二〇日、安倍三選が決まった。日本の政治に違和感を覚えながら見つめていた国民も多いはずだ。自民党員一〇四万人の五五%の支持で三選というのだから、有権者の一%に満たない得票で、国家の運命が支配されるということで、「民主主義」の本質を再考させられる事態である。<br /> 「代議制民主主義のパラドックス」というべきか、この一〇年の日本の政治状況において、「決められない政治」への苛立ちの中から、「政治主導」への願望が高まり、それが「官邸主導」への流れを生み、「公文書偽造」や「国会での偽証」をしてまで官邸を守ろうとする忖度官僚を発生させ、国民が直接選出した大統領ではない「首相」に国民が預託したものとは異なる過大な権力が集中し、気が付けば、日本の政治は「官邸レベルの政治」に押し込められることになった。<br /> 安倍政権の六年間を世界的視点で正視すれば、日本にとって「成功した六年間」とはいえない。何よりも、経済・産業を歪めてしまった。金融政策に、過剰に政治が介入し、異次元金融緩和と公的資金(日銀のETF買いと年金基金の株式市場への投入)で株価を引き上げることに固執、明らかに健全な市場経済を歪めてしまった。「景気が良くなった」というのは株価が高いことによる幻影であり、労働分配率は低下し、勤労者家計可処分所得は一九九七年のピーク比で、年収ベース七六万円も低い(2017年)。国民は潤っていないということである。<br /> 外交・安全保障についても、解釈改憲にまで踏み込んで「集団的自衛権を認める安保法制」によって米国との軍事的一体化を進めたが、トランプ政権の登場に揺さぶられ、とても相互信頼に基づく同盟関係とはいえない状況にある。米国の愚かな戦争に巻き込まれるリスクが増大しているともいえる。また、米中貿易摩擦がエスカレートしているが、トランプ政権は日本に対しても容赦なく赤字解消を迫るであろう。この夏も、私自身、様々な米国からの知人の訪問を受けたが、「知日派」といわれる米国人の多くが、防衛利権とカジノ事業に群がり、その受け皿として「知米派」の日本人が動いているのかを印象付けられた。日米関係は腐臭を放ち始めている。<br /> 世界における日本の位置についての思いが込み上げる。このところ日本は「資金提供」を期待されるだけの存在になっている。「シュガー・ダディー」(甘やかし親父)として懐をあてにされる日本という状況が際立っている。先述のカジノと防衛利権に群がる米国の関係者、北朝鮮との国交正常化の先に、北朝鮮の経済開発資金源として、日本からの「戦後賠償」に近い形での数兆円の資金提供を期待する韓国、米国の本音、そして「日露平和条約」を急ぐプーチンが期待する日本からの極東経済開発資金など―――自らの主体的構想力を持たない国が押し付けられる役回りは、カネを出すことだけという事態になってい<br />ることに気付くべきである。<br /> このところ、国際金融の世界において、「ジャパン・リスク」が言われ始めている。日本が異次元金融緩和を続け、日本からの資金還流が米国のドル高・株高を支えているのだが、いつまでも「出口」に出られないまま立ち遅れている日本が、突然資金を引き上げざるをえなくなった時、世界金融が受ける打撃を気にし始めているのだ。奇妙な「リフレ経済学」に誘惑され、異次元金融緩和を「正常化」できずに迷走するマネーゲーム国家が自家中毒を起こしていると考えられる。<br /> 今年は「一九六八」から五〇年という節目でもある。一九六八年、パリの五月革命、米国のベトナム反戦・黒人運動、そして日本では日大・東大闘争・全共闘運動と世界中に若者の政治運動が吹き荒れた年であった。その意味については、本誌八月号に「一九六八再考―――トランプも一九六八野郎だった」において論じた。第二次大戦が終わって二十数年、東西冷戦をリードする米国とソ連、それぞれが抱える矛盾が露呈して色褪せ、世界の若者は、「第三世界」として、毛沢東、カストロ、ゲバラなどに幻想を抱いていた。<br />今日、世界を動くと、世界中の若者は、スマホを見つめ、うつむきがちに歩いている。社会主義も第三世界も希望ではなくなった。米国も欧州も自国利害中心のナショナリズムに回帰し、中国、ロシアなどの強権型の国家が上手く行っているようにみえる。複雑に屈折した状況を前にして、論理的思考を放棄し、検索エンジンと空虚な意思疎通に埋没してデジタル・エコノミー時代を生きている。世界とつながる情報ネットワーク基盤が整った時代を生きながら、世界の課題とは隔絶した孤独な個が砂のように生きている。<br />経済といえば「株価」を語るだけのマネーゲーム国家に傾斜しつつある日本に叡智を取り戻さねばならない。「技術志向の健全な資本主義」と「国権主義を排した民主主義」へのこだわり。誇り高く戦後なる日本を踏み固め直す時である。。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 時代の空気について、八月末、ロンドンから羽田へと向かう機内、頭をよぎった思いがある。あの時も欧州からの帰国便であった。二一世紀が始まった二〇〇一年九月、欧州で面談した識者との話を総括しながら、私は「不吉な予感」に襲われた。ソ連崩壊から一〇年、「冷戦後の米国の一極支配」といわれ、ブッシュ政権は「米国は例外だ。世界のルールで縛るな」という「例外主義」を色濃くし、「国際刑事裁判所への不参加」「国連による小型兵器制限の拒否」など、冷戦の勝利者として尊大な空気を放っていた。ソ連崩壊後のロシアは混迷、前年の沖縄サミットに登場したプーチンだったが、その存在感は小さかった。欧州の外交関係者は米国の横暴に首をすくめていた。ニューヨーク・ワシントンを襲った同時テロが起こったのは、私が成田から自宅に帰り着いた直後だった。<br />そして二〇〇八年、洞爺湖サミットの年の八月末、ニューヨークの原油先物市場(WTI)は、バーレル一四五ドルにまで高騰していた。九・一一以降のイラク戦争を経た中東情勢の不安定化と二一世紀初頭の世界景気の拡大基調を背景に、原油価格は九・一一直前の二八ドルから五倍以上も跳ね上がっていた。それが、翌九月一五日に始まったリーマンショックを受け、一二月には三〇ドルにまで下落した。あの夏も「根拠なき熱狂」に酔い痴れるマネーゲーマーの表情に「不吉な予感」を感じたが、あれから一〇年、世界は「正気」を取り戻すどころか、「狂気」を増幅させているようである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二〇一八年夏の世界の構造変化―――臨界点に迫るリスク</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二〇一七年からの世界経済は、不思議な同時好況の中にある。IMFが七月に発表した世界経済見通しでは、二〇一八年の世界全体の実質成長率は三・九%と前年の三・五%を上回る堅調を予測しており、しかもマイナス成長ゾーンが無いという同時好況加速という展望を示している。ただし、IMFは直後の追加報告において、「もし、米中貿易戦争がエスカレートするなどのリスクが顕在化すれば、二〇一八年の世界経済は〇・五%程度下振れする可能性もある」という見方を示し、「リスク要素」を巡り微妙な状況にあるといえる。(参照、資料1)</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/199_01.jpg" alt="" width="465" height="322" /><br /> IIF(国際金融協会)の報告によれば、二〇一八年三月末の世界の債務残高(政府、企業、家計、金融機関)は二四七兆ドル(二・八京円)とされ、世界GDPの約三倍に当たる。一〇年前は二・九倍であり、借金漬けの好況ともいえる。また、世界の金融資産規模(株・債券総額と金融機関貸出残)は三三〇兆ドルを上回り、リーマンショック以降の金融緩和を受けて、ジャブジャブになった資金が、株価と借金(債務)を増幅させている構造が見てとれる。金融資本主義が誘いかけるメッセージは「借金してでも消費と投資を増やし、景気を拡大する」というものである。ウォールストリートの懲りない人々が主導する金融資産と負債の肥大化は危機への臨界点に迫りつつある。<br /> 実体経済の動きを超えた過熱気味の指標を注視すべきである。NYの株価(DOW)は、二〇一七年初から一年八カ月で三六%(日経平均は二一%)も上昇している。NYの原油価格(WTI)は、一年前に比べ、バーレル二〇ドル以上も上昇している。実体経済の拡大と比べ異様な数字である。<br />世界経済、とりわけ米国経済が堅調な理由は、トランプ政権の減税や産業政策が功を奏<br />しているためではなく、シリコンバレー(IT)が牽引していると言うべきであろう。IoT(インターネット・オブ・シングス)といわれるごとく、ネットワーク情報技術革命の成果が経済産業のあらゆる局面に浸透し、効率と生産性を高めていることが米国経済の活性化に機能していることは間違いない。さらに、したたかなウォールストリートがトランプ政権に憑りつき、オバマ政権がリーマンショックを受けて、「強欲なウォールストリートを縛る」として成立させた「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)を廃止させるなど、金融規制緩和の流れを形成して「株高」を誘導して、実体以上に景況感を高めているためともいえる。トランプ政権が、競争力を失った中西部の錆びついた産業を支持基盤として存立するパラドックスに苦笑いを禁じ得ないのである。<br /> そうした中で、二〇一八年夏を振り返るならば、地政学的リスクが顕在化した夏であった。まず、火薬庫といわれる中東に投げ込んだトランプの火種を注視したい。トランプ政権は米国の在イスラエル大使館のエルサレムへの移転を強行、増長したイスラエル・ネタニエフ政権は「ユダヤ国家法」を制定し、人種差別主義によるパレスチナの切り捨てに踏み込んだ。また、オバマ政権が実現した「イラン核合意」からも離脱、イラン制裁の強化へと向かい、さらにトルコのエルドアン政権との緊張を高め、通貨リラの価値を年初比四割も下落させるような制裁に踏み込んだ。<br /> 今、中東で進行している最も重要な基調は、イランとトルコという二つの地域パワーの台頭である。あえていえば「先祖帰り」であり、一〇〇年前に進行していた第一次世界大戦を経て、オスマン帝国が解体されて以降、欧州列強、そして米国と、大国の横暴に運命を左右されてきた中東が、地域パワーの再興という歴史潮流を迎えているといえる。シーア派イランの台頭に怯えるイスラエルとサウジアラビアが奇妙な接近を見せているのも、そうした動きへの反作用である。<br /> そのイランとトルコに対決姿勢を強めているのがトランプ政権である。冷戦期、トルコはNATOの一翼を占め、ソ連封じ込めの前線に立ってきた。また、イスラム諸国会議のメンバーとして米国の中東戦略を微妙に支えてきた。極端にイスラエルとサウジアラビアに傾斜したトランプだが、中東政策に深慮遠謀の戦略があるわけではなく、すべては中間選挙に向けて、米国の約三割を占めるエバンジェリカル(福音派プロテスタント教会)とユダヤ勢力を岩盤支持層として取り込むための戦術であり、中東に「不信」の火種を投げ込んだ愚かさの結末をやがて見ることになるであろう。昨年、サウジアラビアと断交したカタールはトルコと急接近、トルコの軍事基地がカタールにできるなど、湾岸産油国も一枚岩ではなくなった。中東情勢は液状化し、不安を加速させている。<br /> もう一つ、地政学を衝き動かしているのが中国・習近平の強権化である。六月一二日にシンガポールで行われた米朝首脳会談の本質を見抜かねばならない。もっともらしい解説を超えて、一つの事実に着目すれば、筋道は見えてくる。それは「金正恩は中国の航空機でシンガポールに行った」という事実である。国際間の移動で、最高首脳が他国の航空機で移動することは、通常考えられない。「生殺与奪権」を与えることだからである。<br /> 今年に入ってからの北朝鮮の「南北融和」への豹変には、中国の脅威からの自立という意図があった。だが、結果は再び中国の鎖に繋がれ「中国周辺国」に回帰したといえる。中国は「朝鮮半島の段階的非核化」というシナリオを北朝鮮に共有させた。それは北が非核化に一歩具体的行動をとれば、南の韓国における約三万人の在韓米軍が段階的に削減されるということで、中国にとって望ましい展開となり、仮に融和シナリオが破綻したとしても、北朝鮮を中国に頼らざるをえない状況に追い込んだといえる。九月一九日の南北首脳会談での「米国次第での核施設廃棄」という北の姿勢がそのことを示している。<br />本誌四月号の論稿「中国の強大化と強権化」において、習近平第二期政権の東アジアへの強勢外交を論じたが、その後の推移はそれを確認するものとなっている。まず、香港だが、二〇一七年七月の香港返還二〇周年の前後から、香港の憲法たる基本法における「一国二制度」は有名無実と化した。二〇一四年秋の選挙制度改革を巡る「雨傘運動」は民主派勢力の最後の燃焼となり、立法会(議会)からの民主派議員の資格取り消しにより、民主派は「抑圧」どころか、既に「抹殺」されたといえる。<br />また、台湾については二〇一五年十一月、シンガポールでの習近平・馬英九会談(六六<br />年ぶりの国共首脳会談)により「中台蜜月」を演じてみせたが、このところ習近平が見せる「台湾統一」への意思表示は一段とエスカレートしている。馬英九政権下の台湾は「一九九二年コンセンサス」として「一つの中国の意味を双方が独自解釈できる」「一中各表))と解釈して「融和の利得」を優先させて大陸との接近を図ったが、その希望は打ち砕かれたといえる。二〇一六年五月にスタートした蔡英文政権だが、中国の締め上げに追い詰められつつある。本年八月には台湾はエルサルバドルと断交、中国の札束攻勢により、もしバチカンとの関係を失えば、欧州において台湾と外交関係を持つ国はゼロとなる。<br /> 習近平政権は「中華民族の歴史的復興」を統合理念に掲げ、「社会主義」にこだわり(本年五月、K・マルクス生誕二〇〇年大会開催)、ユーラシアに「一帯一路」のネットワークを布陣しようとしている。六月に青島で行われた上海協力機構の第一八回大会には、インド・パキスタンも正式加盟し、イラン・ロウハニ師までがオブザーバー参加して「反保護主義」を採択するなど、米国を睨むユーラシアの連携軸になりつつある。<br />そして、プーチンのロシアであるが、二〇〇〇年に登場以来、一八年にわたりロシアを支配、二〇一四年のウクライナ危機後、G7の制裁を受けながらも、ユーラシアにおける存在感を高めた。この夏、四選を果たしたプーチンは、九月に入って極東・シベリア東部での三〇万人規模の軍事演習「ボストーク」を強行、中国・モンゴルからも三〇〇〇人規模の兵士が参加した。同時にNATOを対象にした一〇万人動員の軍事演習をベラルーシで実施、力を見せつけている。<br />「大ロシア主義」に回帰し、社会主義と決別して、統合理念に「ロシア正教大国」を掲げるプーチン―――そのプーチンに二三回もの面談を重ね、「北方四島返還」を期待して接近を試みたのが安倍政権であったが、その結末を見せられたのが、九月一二日のウラジオストック「東方経済フォーラム」での突然の「年内、平和条約締結」というプーチン発言であった。その真意は何か。一九五六年の日ソ共同宣言に戻るということは、「平和条約締結時に歯舞・色丹二島返還」を意味し、実体的に国後、択捉のロシア領としての固定化を図り、領土問題を封印して日本の経済支援の取り込みを狙っているとしか思えない。したたかなプーチンがそこにいる。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">デジタル専制への視界―――日本低迷の構造</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 資料2を直視してもらいたい。ここに世界同時好況と日本産業の低迷の段差を解明する鍵がある。GAFA+Mとは、デジタル・エコノミーを牽引する米国の「ITビッグファイブ」といわれる五社で、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフトのことであり、その五社の株価の時価総額(本年7月末)は四・〇兆ドル(442兆円)になる。対照的に、日本企業の株式時価総額のトップ五をみると、一位のトヨタ自動車でもわずかに二三・九兆円、アップルやアマゾン一社の5分の一に過ぎない。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/199_02.jpg" alt="" width="552" height="382" /><br /> ちなみに、経団連をリードする日立製作所の時価総額は三・八兆円、東レは一・四兆円、「鉄は国家なり」といわれた鉄鋼産業の中核たる新日鉄住金は二・一兆円にすぎない。もちろん、株式時価総額が企業の実力を示す一指標にすぎないが、「市場が企業の価値を決める時代」といわれる現在、企業経営は時価総額を超すリスクはとれないし、プロジェクトは組成できないちなみに、東京オリエンタルランド(ディズニーランド)の時価総額四・二兆円、ファーストリテイリング(ユニクロ)のそれは五・二兆円であり、「ものつくり国家ニッポン」の地殻変動がここにある。<br /> 驚くのは、中国のIT二社、テンセントとアリババの時価総額は一兆ドルに迫り、わずか二社で、日本のトップ一〇社を飲み込む額なのである。この米中のIT七社のことを、「ニューセブンシスターズ」と呼ぶようだが、二〇世紀のセブンシスターズは石油メジャーのことであったが、二一世紀の世界を支配するセブンシスターズは「プラットフォーマーズ」と呼ばれ、ネットワーク情報技術の基盤インフラを抑える企業群への呼称となっているのである。石油メジャー(現在はシェル、エクソンモービル、シェブロン、BPの四社に収斂)の時価総額は一・七兆ドルで、ニューセブンシスターズの四・九兆ドルに圧倒されていることが分る。<br />この事実認識の中から幾つかの論点が浮かび上がる。一つは、「プラットフォーマーズ」といわれる七つのIT企業の株価時価総額の肥大化が、技術優位性で生まれたものではなく、「ITとFTの結婚」、つまり、金融による増幅という形で実現されたということである。ITは平準化技術であり、「いつでも、どこでも、誰でも使える技術基盤」である。それを「データリズム」に立って囲い込むビジネスモデルをファンドが巨額の資金を投入することで成功させてきたといえる。「夢に金が付く時代」といわれるごとく、シリコンバレーのビジネスを見ていると、事業が成果を出す前にベンチャー・ファンド、ベンチャー・キャピタル、M&amp;Aと金融事業が蠢き、成功案件は異様なカネを引き付けるのである。<br />二つは、こうした世界の動きに直面した日本産業界の屈折という論点である。かつて、戦後日本の経済界のリーダーには重みがあり、永野重雄、土光敏夫、石坂泰三などの名前を思い起こしても、経済界を率いる矜持と政治をしっかりと睨む眼光があった。だが、現在の日本経済界の指導者達に政府の経済産業政策に鋭く発言する気迫は見当たらない。前述のIT巨大企業の株価に対する日本企業の劣勢にしても、実は公的資金を株式市場に投入して株価を水ぶくれさせた結果でもあるのだ。もし、この六年間、累計六五兆円の公的資金(日銀ETF買い、GPIF資金)を投入しなければ、日経平均は現在より三割は低い水準にあると思われる。アベノミクスが健全な資本主義を歪める政策であることが分っていても、筋道立った発言などできないのである。日本の劣化は政治と経済の相互作用から生じているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本の劣化―――安倍政権で見失ったもの</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  夏も終わろうとする九月二〇日、安倍三選が決まった。日本の政治に違和感を覚えながら見つめていた国民も多いはずだ。自民党員一〇四万人の五五%の支持で三選というのだから、有権者の一%に満たない得票で、国家の運命が支配されるということで、「民主主義」の本質を再考させられる事態である。<br /> 「代議制民主主義のパラドックス」というべきか、この一〇年の日本の政治状況において、「決められない政治」への苛立ちの中から、「政治主導」への願望が高まり、それが「官邸主導」への流れを生み、「公文書偽造」や「国会での偽証」をしてまで官邸を守ろうとする忖度官僚を発生させ、国民が直接選出した大統領ではない「首相」に国民が預託したものとは異なる過大な権力が集中し、気が付けば、日本の政治は「官邸レベルの政治」に押し込められることになった。<br /> 安倍政権の六年間を世界的視点で正視すれば、日本にとって「成功した六年間」とはいえない。何よりも、経済・産業を歪めてしまった。金融政策に、過剰に政治が介入し、異次元金融緩和と公的資金(日銀のETF買いと年金基金の株式市場への投入)で株価を引き上げることに固執、明らかに健全な市場経済を歪めてしまった。「景気が良くなった」というのは株価が高いことによる幻影であり、労働分配率は低下し、勤労者家計可処分所得は一九九七年のピーク比で、年収ベース七六万円も低い(2017年)。国民は潤っていないということである。<br /> 外交・安全保障についても、解釈改憲にまで踏み込んで「集団的自衛権を認める安保法制」によって米国との軍事的一体化を進めたが、トランプ政権の登場に揺さぶられ、とても相互信頼に基づく同盟関係とはいえない状況にある。米国の愚かな戦争に巻き込まれるリスクが増大しているともいえる。また、米中貿易摩擦がエスカレートしているが、トランプ政権は日本に対しても容赦なく赤字解消を迫るであろう。この夏も、私自身、様々な米国からの知人の訪問を受けたが、「知日派」といわれる米国人の多くが、防衛利権とカジノ事業に群がり、その受け皿として「知米派」の日本人が動いているのかを印象付けられた。日米関係は腐臭を放ち始めている。<br /> 世界における日本の位置についての思いが込み上げる。このところ日本は「資金提供」を期待されるだけの存在になっている。「シュガー・ダディー」(甘やかし親父)として懐をあてにされる日本という状況が際立っている。先述のカジノと防衛利権に群がる米国の関係者、北朝鮮との国交正常化の先に、北朝鮮の経済開発資金源として、日本からの「戦後賠償」に近い形での数兆円の資金提供を期待する韓国、米国の本音、そして「日露平和条約」を急ぐプーチンが期待する日本からの極東経済開発資金など―――自らの主体的構想力を持たない国が押し付けられる役回りは、カネを出すことだけという事態になってい<br />ることに気付くべきである。<br /> このところ、国際金融の世界において、「ジャパン・リスク」が言われ始めている。日本が異次元金融緩和を続け、日本からの資金還流が米国のドル高・株高を支えているのだが、いつまでも「出口」に出られないまま立ち遅れている日本が、突然資金を引き上げざるをえなくなった時、世界金融が受ける打撃を気にし始めているのだ。奇妙な「リフレ経済学」に誘惑され、異次元金融緩和を「正常化」できずに迷走するマネーゲーム国家が自家中毒を起こしていると考えられる。<br /> 今年は「一九六八」から五〇年という節目でもある。一九六八年、パリの五月革命、米国のベトナム反戦・黒人運動、そして日本では日大・東大闘争・全共闘運動と世界中に若者の政治運動が吹き荒れた年であった。その意味については、本誌八月号に「一九六八再考―――トランプも一九六八野郎だった」において論じた。第二次大戦が終わって二十数年、東西冷戦をリードする米国とソ連、それぞれが抱える矛盾が露呈して色褪せ、世界の若者は、「第三世界」として、毛沢東、カストロ、ゲバラなどに幻想を抱いていた。<br />今日、世界を動くと、世界中の若者は、スマホを見つめ、うつむきがちに歩いている。社会主義も第三世界も希望ではなくなった。米国も欧州も自国利害中心のナショナリズムに回帰し、中国、ロシアなどの強権型の国家が上手く行っているようにみえる。複雑に屈折した状況を前にして、論理的思考を放棄し、検索エンジンと空虚な意思疎通に埋没してデジタル・エコノミー時代を生きている。世界とつながる情報ネットワーク基盤が整った時代を生きながら、世界の課題とは隔絶した孤独な個が砂のように生きている。<br />経済といえば「株価」を語るだけのマネーゲーム国家に傾斜しつつある日本に叡智を取り戻さねばならない。「技術志向の健全な資本主義」と「国権主義を排した民主主義」へのこだわり。誇り高く戦後なる日本を踏み固め直す時である。。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年10月号 脳力のレッスン198 アイスマンの衝撃ー一七世紀オランダからの視界(その51) 2019-03-13T02:10:11+09:00 2019-03-13T02:10:11+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1488-nouriki-2018-10.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 西欧世界における古代史はギリシャ・ローマに始まる。それ以前の歴史は「考古学」の対象であり、約二・七万年前とされる後期旧石器時代のラスコーに代表されるクロマニオン人による優れた洞窟壁画や約五〇〇〇年から三五〇〇年前と推定されるストーンヘンジなどの巨石文化に至る多くの遺跡が欧州各地に存在するが、検証可能な「歴史」はギリシャ・ローマに始まるのである。ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC490年頃生まれ、BC425年頃死去と推定)が「歴史の父」といわれる理由は、その作品「歴史」全九巻(邦訳、松平千秋、岩波文庫、1971年)によって、過去の出来事を詩歌ではなく実証的学問としたことによる。つまり、ペルシャ戦争を歴史として見つめ直して文献化したのである。この書物の「序」は「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人の果した偉大な驚嘆すべき事績の数々――とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである」という記述から始まる。西欧における叙事詩ではない歴史はここから始まった。約二四五〇年前のことであった。<br /> しかも、ギリシャ史が科学的に実証されたのは比較的近年のことである。ドイツの考古学者H・シュリーマン(1822~1890)が、ホメロスの物語が架空のものではないと信じて、ビジネスの成功で得た財を投入し、トルコのトロイアのヒッサリクの丘を発掘してトロイ文明が実在したことを証明したのは一八七三年であり、まだ一五〇年も経っていない。シュリーマンの自伝「古代への情熱」(新潮文庫、1977年、原書1892年)を読むと、ギリシャの栄光を実証した人物が、ドイツの田舎に育ち、ホメロスの世界を夢見たドイツ人だったことに感慨を覚える。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ルネサンスという呪縛―――西欧史の宿命</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">西洋においては、古代ギリシャとローマに関する学問が「古典学(CLASSICS)」と呼ばれ、近代ヨーロッパにおいては、「古典学」の知識を有する人々が「教養ある社会的エリート」とされてきた。一八世紀の英国の歴史家エドワード・ギボン(1737~94年)の「ローマ帝国衰亡史」(邦訳、中野好夫、筑摩書房、1993年)は、今日に至るまで欧州の基本的教養書であり、その冒頭は「西暦第二世紀、ローマ帝国の版図は世界のほぼ大半を領し、もっとも開化した人類世界をその治下に収めていた」という言葉で始まるが、このローマについての憧憬にも近い認識が、西欧世界観の基盤だった。ルネサンスといわれる一四~一六世紀の欧州に吹き荒れた文化運動は、「文芸復興」とされるごとく、ギリシャ・ローマの古代文化を理想とする人文主義運動で、近代に連なる欧州の潜在意識には、ギリシャ・ローマへの回帰という衝動が埋め込まれていた。我々、近現代を生きてきた人間は、「ルネサンスから近代的知性の幕が開かれた」という歴史観を受け止めてきたために、ギリシャ・ローマには暗黙の敬意を抱いてきたといえる。<br />例えば、アレキサンダー大王(BC356~323年)なる存在は、ヘレニズム世界の栄光のシンボルとされる。アレキサンダー大王(三世)は、正確にはギリシャの英雄というよりも、マケドニアの王(在位BC336~323年)なのだが、ギリシャ、エジプトからペルシャ、インドの一部に至る広大なオリエント世界を制圧、ヘレニズム世界を形成したことで東西世界の接触・交流の起点となった存在とされてきた。<br />マケドニアは不思議な存在である。バルカン半島の中央に位置し、現在は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という奇妙な名前で国連に加盟する独立した共和国なのだが、一九四五~一九九一年まではユーゴスラビア社会主義連邦共和国に帰属、かつてはアレキサンダー大王のマケドニア王国の本拠地としてヘレニズム世界に君臨したが、ローマに敗れ、のちビザンツ帝国領、一四世紀末からはオスマン帝国領とされ、正に歴史に翻弄されてきた。現在は、ギリシャとの微妙な国名を巡る対立があり、前記の奇妙な国名になっている。ギリシャが、「後世六~七世紀にかけて侵入したスラブ人主導の国となった現在のマケドニアが栄光の地名マケドニアを国名にするのはおかしい」と主張しているためである。<br /> 欧州における異様なまでの「ローマの重み」を考えさせられるのが「神聖ローマ帝国」なる存在である。かのヴォルテールが「神聖でもなければ、ローマ的でもなければ、そもそも帝国でもない」と喝破したごとく、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という「擬制としての神聖ローマ帝国」が、西欧社会に一〇世紀から一七世紀まで存続し続けた謎については、本連載35「ドイツ史の深層とオランダとの交錯」において論じたが、ギリシャ、そしてローマ帝国への憧憬は欧州の地下水脈として流れ続けた。<br />そのギリシャとイタリアの今日的状況が「欧州のお荷物」といわれるほど悲惨な現実に直面していることについては、悲しみを禁じ得ない。かつての帝国の栄光の輝きが強いだけに、その影はあまりに黒く深いのである。<br /> ところで、ルネサンスに関して、この連載を通じて私自身が学んだことであるが、改めて確認しておきたいのは、「ルネサンスへのイスラムの貢献」という事実である。本連載41「オスマン帝国という視角からの世界史」において論じたごとく、皮肉にも「イスラムこそがヘレニズム文明文化の継承者」だった。バグダッドを首都としてアラブ科学の黄金期を築いたアッバース朝(AC750~1258年)が、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献をアラビア語に翻訳して保持したことで、「欧州では消失していたギリシャ科学の文献のアラビア語からの再翻訳がルネサンスを触発したのである。誇張ではなく、イスラムがルネサンスを生み出す触媒になったのである。<br /> ギリシャ史が歴史に登場するのが二八〇〇年前、BC八世紀にポリス形成、BC七世紀末にアテネの民主制、そしてスパルタとの抗争を経て、BC三三四年にマケドニアに征服され、前記のアレキサンダー大王の登場となる。また、ローマ史といえば、BC七五三年ローマ建国、BC五〇九年に共和国成立となるのだが、この西洋古代史の射程距離をはるかに超えた五〇〇〇年以上も前の時代―――「世界史年表」においては考古学上の推定年表の空白のゾーンから忽然と現れたのがアイスマンなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">五〇〇〇年前の人間―――アイスマン「エッツィ」の衝撃</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一九九一年、オーストリアとイタリアの国境近くの、標高3200メートルのアルプス山岳地帯で凍結した遺体発見された。最初は比較的近年の山岳遭難者ではないかと見られたが、検証が進むにつれ、なんと五千年以上も前の人間の遺体と分かり、騒然となった。メディアの話題にもなり、アイスマン「エッツィ」と名付けられ、考古学者コンラート・シュピンドラーの「五〇〇〇年前の男―――解明された凍結ミイラの謎」(文藝春秋社、1994年)が日本でも出版された。遺体と遺物に関し、欧州の四つの研究機関が年代測定を行い、ほぼ五〇〇〇年前、紀元前三〇〇〇年頃に生きていた男であることが特定されたのである。つまり、ギリシャ、ローマより二〇〇〇年以上も前の冷凍人間が現れたのである。古代遺跡からみつかる骨や乾燥ミイラとは異なり、瞬間凍結された生身の人間がみつかったということであり、胃の内容物をはじめ、確認できる圧倒的情報量を有する検体ということである。現在、このアイスマンはイタリア北部にある「南チロル考古学博物館」で保管されているが、アルベルト・ツインク博士(ミイラ・アイスマン研究所長)指揮の下、二四人の専門家チームで現代科学を駆使した遺体の検査が行われ、アイスマンは、身長一五七・五センチ、体重五〇Kℊ、年齢四五歳前後、血液型O型の男性であることが分った。胃の内容物の検査からは、意外なほど豊かな食生活が証明され、三枚重ねの衣服、熊皮の底の靴、所持品と思われる石剣と銅製の斧、火打石などからは当時の生活文化を支えた技術が検証されてきた、アイスマンの職業は羊飼いとの見解もあるが、少なくとも農耕牧畜社会の一員だったと推定されている。<br /> アイスマンが何を食べていたのかについては、二〇一八年になって、イタリアのミイラ研究所が微生物研究者フランク・マイクスナー博士などによる新たな報告書がだされ、脂質性の食材が四〇%を占め、野生の動物の肉を乾燥させて食べていたと思われることや穀物をバランスよく摂取していたことが窺えるとし、「人間の適応力の証左」と表現している。<br /> 着ていた衣服については、二〇一六年にネーチャー誌が詳しいレポートを掲載しており、九片の衣革断片のミトコンドリア・ゲノムの塩基配列を解析した結果、被っていた帽子はヒグマ、矢筒はノロジカの毛皮からできており、着ていた上着はヤギとヒツジなど四種類の野生動物の毛皮を素材にして縫い合わせたものということが判明した。また、一番上に着ていたのは縄で編んだマントで、一メートル以上の草で編んでおり、日本における蓑のような形状で、高山地帯を歩く旅人には適したマントだという。<br />また、興味深いことに全身に六一個の入れ墨(タトゥー)があり、その場所が東洋医学でいう「ツボ」に重なることから、痛みを和らげるツボに対する一定の医療行為があった可能性などが指摘されている。また、人類史の極めて早い段階から、入れ墨がある種の「お守り」、あるいは「粋(かっこよさ)」といった価値の表象だったことが窺えるという。日本の縄文時代の土偶にも入れ墨の意匠あることが思い起こされる。<br />さらに、病理学的解明により、アイスマンには胆石があり、結腸内に寄生虫が存在していること、さらにピロリ菌にも感染していたことが分ってきた。腹痛や消化不良にも悩まされていたのだという。野生の原始人というよりも、現代人に近い生活者のイメージが浮かんでくる。死因の特定もなされ、体内から矢尻が見つかったことから、弓矢で撃たれたことが分り、頭蓋骨にも攻撃で受けた陥没があり、他殺されたことが検証されたのである。何らかの攻撃によって死んだのであろう。アイスマンも人間社会のトラブルに巻き込まれたのである。ゲノム解析も進み、インスブルック医科大学が二〇一三年に公表した報告によれば、オーストリアのチロル地方の三七〇〇人のDNAを分析した結果、一九人の男性の親族がいることが判明したという。「文理融合」といわれるが、生命科学の進化が社会科学の世界に留まってきた歴史学を突き動かしつつあり、その前兆がアイスマンの解明ともいえる。歴史の彼方にあったものが、科学的事実として光を放ち、我々の歴史認識は屋台骨から修正を迫られるのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">五〇〇〇年前の世界への想像力―――その頃の世界、中国、日本</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> アイスマンが生きた五〇〇〇年前という時代に想像力を働かせてみたい。この連載の前回に取り上げた世界最古の文字を生んだシュメル都市文明がメソポタミアに動き始めたのが約五〇〇〇年前であった。また、欧州にとって地中海の対岸のエジプトに統一国家が形成されたのがやはり約五〇〇〇年前、BC三〇〇〇年頃であり、BC二六〇〇年頃がクフ王のピラミッド時代であった。<br /> 欧州においては、ウルム氷期(7万年~1万年前)を超えて、約六万年前から始まったホモ・サピエンスのアフリカからユーラシアへの移動が一巡し、約一万年前の定住革命(農耕・牧畜の定着)から約五〇〇〇年を経た時点であり、地中海地域に、BC三〇〇〇年頃とされるエーゲ文明(クレタの青銅器文明)が始まった頃であった。<br />遠くアジアの中国の五〇〇〇年前となると、中国最古の王朝とされる「殷」(BC1600年頃~BC1127年)よりも一四〇〇年も前であり、幻の王朝とされる「夏」が興ったとされるのが約四〇〇〇年前で、「黄河文明」が興隆する以前の中期新石器時代ということになる。「殷」王朝よりも前に存在したとされる「夏」王朝については、河南省西部にある二里頭遺跡の発掘などによって実在が証明されたという最近の論説もある(「中国文明史図説――先史・文明への胎動」、創元社、2006年)が、春秋から戦国の時代に幾つかの地方王朝の伝説が一個の「夏」という王朝史としてまとめられたという見方もある。いずれにせよ、仮に夏という王朝が存在していたとしても、その王朝成立の一〇〇〇年以上前の存在がアイスマンなのである。<br /> さらに、日本の五〇〇〇年前に視界を取るならば、仮に古事記・日本書紀の記述が、すべて歴史的事実だとしても、神武天皇の即位はBC六六〇年ということで、約二七〇〇年前となる。つまり、アイスマンは「神武」より二三〇〇年前の縄文中期の人間ということなのである。縄文時代は約一・二万年前に始まったとされるが、BC三〇〇〇年頃に、関東・東北に住居の集落が形成され、この縄文時代中期の「縄文人」が生み出した土器が、あの縄文芸術の華ともいえる「火焔型土器」(新潟県十日町市笹山遺跡)であり、土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市棚畑遺跡)である。その造形美と創造力には驚嘆せざるをえないが、この中期縄文人が欧州のアイスマンとほぼ同時代人であった。地球上の各所で、人類は知を凝縮させながら、それぞれの環境条件の中で必死に生きていたのである。そして、アイスマンの解明が突きつける科学的事実が、否定するすべもない歴史認識の素材となり始めているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 西欧世界における古代史はギリシャ・ローマに始まる。それ以前の歴史は「考古学」の対象であり、約二・七万年前とされる後期旧石器時代のラスコーに代表されるクロマニオン人による優れた洞窟壁画や約五〇〇〇年から三五〇〇年前と推定されるストーンヘンジなどの巨石文化に至る多くの遺跡が欧州各地に存在するが、検証可能な「歴史」はギリシャ・ローマに始まるのである。ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC490年頃生まれ、BC425年頃死去と推定)が「歴史の父」といわれる理由は、その作品「歴史」全九巻(邦訳、松平千秋、岩波文庫、1971年)によって、過去の出来事を詩歌ではなく実証的学問としたことによる。つまり、ペルシャ戦争を歴史として見つめ直して文献化したのである。この書物の「序」は「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人の果した偉大な驚嘆すべき事績の数々――とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである」という記述から始まる。西欧における叙事詩ではない歴史はここから始まった。約二四五〇年前のことであった。<br /> しかも、ギリシャ史が科学的に実証されたのは比較的近年のことである。ドイツの考古学者H・シュリーマン(1822~1890)が、ホメロスの物語が架空のものではないと信じて、ビジネスの成功で得た財を投入し、トルコのトロイアのヒッサリクの丘を発掘してトロイ文明が実在したことを証明したのは一八七三年であり、まだ一五〇年も経っていない。シュリーマンの自伝「古代への情熱」(新潮文庫、1977年、原書1892年)を読むと、ギリシャの栄光を実証した人物が、ドイツの田舎に育ち、ホメロスの世界を夢見たドイツ人だったことに感慨を覚える。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ルネサンスという呪縛―――西欧史の宿命</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">西洋においては、古代ギリシャとローマに関する学問が「古典学(CLASSICS)」と呼ばれ、近代ヨーロッパにおいては、「古典学」の知識を有する人々が「教養ある社会的エリート」とされてきた。一八世紀の英国の歴史家エドワード・ギボン(1737~94年)の「ローマ帝国衰亡史」(邦訳、中野好夫、筑摩書房、1993年)は、今日に至るまで欧州の基本的教養書であり、その冒頭は「西暦第二世紀、ローマ帝国の版図は世界のほぼ大半を領し、もっとも開化した人類世界をその治下に収めていた」という言葉で始まるが、このローマについての憧憬にも近い認識が、西欧世界観の基盤だった。ルネサンスといわれる一四~一六世紀の欧州に吹き荒れた文化運動は、「文芸復興」とされるごとく、ギリシャ・ローマの古代文化を理想とする人文主義運動で、近代に連なる欧州の潜在意識には、ギリシャ・ローマへの回帰という衝動が埋め込まれていた。我々、近現代を生きてきた人間は、「ルネサンスから近代的知性の幕が開かれた」という歴史観を受け止めてきたために、ギリシャ・ローマには暗黙の敬意を抱いてきたといえる。<br />例えば、アレキサンダー大王(BC356~323年)なる存在は、ヘレニズム世界の栄光のシンボルとされる。アレキサンダー大王(三世)は、正確にはギリシャの英雄というよりも、マケドニアの王(在位BC336~323年)なのだが、ギリシャ、エジプトからペルシャ、インドの一部に至る広大なオリエント世界を制圧、ヘレニズム世界を形成したことで東西世界の接触・交流の起点となった存在とされてきた。<br />マケドニアは不思議な存在である。バルカン半島の中央に位置し、現在は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という奇妙な名前で国連に加盟する独立した共和国なのだが、一九四五~一九九一年まではユーゴスラビア社会主義連邦共和国に帰属、かつてはアレキサンダー大王のマケドニア王国の本拠地としてヘレニズム世界に君臨したが、ローマに敗れ、のちビザンツ帝国領、一四世紀末からはオスマン帝国領とされ、正に歴史に翻弄されてきた。現在は、ギリシャとの微妙な国名を巡る対立があり、前記の奇妙な国名になっている。ギリシャが、「後世六~七世紀にかけて侵入したスラブ人主導の国となった現在のマケドニアが栄光の地名マケドニアを国名にするのはおかしい」と主張しているためである。<br /> 欧州における異様なまでの「ローマの重み」を考えさせられるのが「神聖ローマ帝国」なる存在である。かのヴォルテールが「神聖でもなければ、ローマ的でもなければ、そもそも帝国でもない」と喝破したごとく、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という「擬制としての神聖ローマ帝国」が、西欧社会に一〇世紀から一七世紀まで存続し続けた謎については、本連載35「ドイツ史の深層とオランダとの交錯」において論じたが、ギリシャ、そしてローマ帝国への憧憬は欧州の地下水脈として流れ続けた。<br />そのギリシャとイタリアの今日的状況が「欧州のお荷物」といわれるほど悲惨な現実に直面していることについては、悲しみを禁じ得ない。かつての帝国の栄光の輝きが強いだけに、その影はあまりに黒く深いのである。<br /> ところで、ルネサンスに関して、この連載を通じて私自身が学んだことであるが、改めて確認しておきたいのは、「ルネサンスへのイスラムの貢献」という事実である。本連載41「オスマン帝国という視角からの世界史」において論じたごとく、皮肉にも「イスラムこそがヘレニズム文明文化の継承者」だった。バグダッドを首都としてアラブ科学の黄金期を築いたアッバース朝(AC750~1258年)が、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献をアラビア語に翻訳して保持したことで、「欧州では消失していたギリシャ科学の文献のアラビア語からの再翻訳がルネサンスを触発したのである。誇張ではなく、イスラムがルネサンスを生み出す触媒になったのである。<br /> ギリシャ史が歴史に登場するのが二八〇〇年前、BC八世紀にポリス形成、BC七世紀末にアテネの民主制、そしてスパルタとの抗争を経て、BC三三四年にマケドニアに征服され、前記のアレキサンダー大王の登場となる。また、ローマ史といえば、BC七五三年ローマ建国、BC五〇九年に共和国成立となるのだが、この西洋古代史の射程距離をはるかに超えた五〇〇〇年以上も前の時代―――「世界史年表」においては考古学上の推定年表の空白のゾーンから忽然と現れたのがアイスマンなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">五〇〇〇年前の人間―――アイスマン「エッツィ」の衝撃</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一九九一年、オーストリアとイタリアの国境近くの、標高3200メートルのアルプス山岳地帯で凍結した遺体発見された。最初は比較的近年の山岳遭難者ではないかと見られたが、検証が進むにつれ、なんと五千年以上も前の人間の遺体と分かり、騒然となった。メディアの話題にもなり、アイスマン「エッツィ」と名付けられ、考古学者コンラート・シュピンドラーの「五〇〇〇年前の男―――解明された凍結ミイラの謎」(文藝春秋社、1994年)が日本でも出版された。遺体と遺物に関し、欧州の四つの研究機関が年代測定を行い、ほぼ五〇〇〇年前、紀元前三〇〇〇年頃に生きていた男であることが特定されたのである。つまり、ギリシャ、ローマより二〇〇〇年以上も前の冷凍人間が現れたのである。古代遺跡からみつかる骨や乾燥ミイラとは異なり、瞬間凍結された生身の人間がみつかったということであり、胃の内容物をはじめ、確認できる圧倒的情報量を有する検体ということである。現在、このアイスマンはイタリア北部にある「南チロル考古学博物館」で保管されているが、アルベルト・ツインク博士(ミイラ・アイスマン研究所長)指揮の下、二四人の専門家チームで現代科学を駆使した遺体の検査が行われ、アイスマンは、身長一五七・五センチ、体重五〇Kℊ、年齢四五歳前後、血液型O型の男性であることが分った。胃の内容物の検査からは、意外なほど豊かな食生活が証明され、三枚重ねの衣服、熊皮の底の靴、所持品と思われる石剣と銅製の斧、火打石などからは当時の生活文化を支えた技術が検証されてきた、アイスマンの職業は羊飼いとの見解もあるが、少なくとも農耕牧畜社会の一員だったと推定されている。<br /> アイスマンが何を食べていたのかについては、二〇一八年になって、イタリアのミイラ研究所が微生物研究者フランク・マイクスナー博士などによる新たな報告書がだされ、脂質性の食材が四〇%を占め、野生の動物の肉を乾燥させて食べていたと思われることや穀物をバランスよく摂取していたことが窺えるとし、「人間の適応力の証左」と表現している。<br /> 着ていた衣服については、二〇一六年にネーチャー誌が詳しいレポートを掲載しており、九片の衣革断片のミトコンドリア・ゲノムの塩基配列を解析した結果、被っていた帽子はヒグマ、矢筒はノロジカの毛皮からできており、着ていた上着はヤギとヒツジなど四種類の野生動物の毛皮を素材にして縫い合わせたものということが判明した。また、一番上に着ていたのは縄で編んだマントで、一メートル以上の草で編んでおり、日本における蓑のような形状で、高山地帯を歩く旅人には適したマントだという。<br />また、興味深いことに全身に六一個の入れ墨(タトゥー)があり、その場所が東洋医学でいう「ツボ」に重なることから、痛みを和らげるツボに対する一定の医療行為があった可能性などが指摘されている。また、人類史の極めて早い段階から、入れ墨がある種の「お守り」、あるいは「粋(かっこよさ)」といった価値の表象だったことが窺えるという。日本の縄文時代の土偶にも入れ墨の意匠あることが思い起こされる。<br />さらに、病理学的解明により、アイスマンには胆石があり、結腸内に寄生虫が存在していること、さらにピロリ菌にも感染していたことが分ってきた。腹痛や消化不良にも悩まされていたのだという。野生の原始人というよりも、現代人に近い生活者のイメージが浮かんでくる。死因の特定もなされ、体内から矢尻が見つかったことから、弓矢で撃たれたことが分り、頭蓋骨にも攻撃で受けた陥没があり、他殺されたことが検証されたのである。何らかの攻撃によって死んだのであろう。アイスマンも人間社会のトラブルに巻き込まれたのである。ゲノム解析も進み、インスブルック医科大学が二〇一三年に公表した報告によれば、オーストリアのチロル地方の三七〇〇人のDNAを分析した結果、一九人の男性の親族がいることが判明したという。「文理融合」といわれるが、生命科学の進化が社会科学の世界に留まってきた歴史学を突き動かしつつあり、その前兆がアイスマンの解明ともいえる。歴史の彼方にあったものが、科学的事実として光を放ち、我々の歴史認識は屋台骨から修正を迫られるのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">五〇〇〇年前の世界への想像力―――その頃の世界、中国、日本</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> アイスマンが生きた五〇〇〇年前という時代に想像力を働かせてみたい。この連載の前回に取り上げた世界最古の文字を生んだシュメル都市文明がメソポタミアに動き始めたのが約五〇〇〇年前であった。また、欧州にとって地中海の対岸のエジプトに統一国家が形成されたのがやはり約五〇〇〇年前、BC三〇〇〇年頃であり、BC二六〇〇年頃がクフ王のピラミッド時代であった。<br /> 欧州においては、ウルム氷期(7万年~1万年前)を超えて、約六万年前から始まったホモ・サピエンスのアフリカからユーラシアへの移動が一巡し、約一万年前の定住革命(農耕・牧畜の定着)から約五〇〇〇年を経た時点であり、地中海地域に、BC三〇〇〇年頃とされるエーゲ文明(クレタの青銅器文明)が始まった頃であった。<br />遠くアジアの中国の五〇〇〇年前となると、中国最古の王朝とされる「殷」(BC1600年頃~BC1127年)よりも一四〇〇年も前であり、幻の王朝とされる「夏」が興ったとされるのが約四〇〇〇年前で、「黄河文明」が興隆する以前の中期新石器時代ということになる。「殷」王朝よりも前に存在したとされる「夏」王朝については、河南省西部にある二里頭遺跡の発掘などによって実在が証明されたという最近の論説もある(「中国文明史図説――先史・文明への胎動」、創元社、2006年)が、春秋から戦国の時代に幾つかの地方王朝の伝説が一個の「夏」という王朝史としてまとめられたという見方もある。いずれにせよ、仮に夏という王朝が存在していたとしても、その王朝成立の一〇〇〇年以上前の存在がアイスマンなのである。<br /> さらに、日本の五〇〇〇年前に視界を取るならば、仮に古事記・日本書紀の記述が、すべて歴史的事実だとしても、神武天皇の即位はBC六六〇年ということで、約二七〇〇年前となる。つまり、アイスマンは「神武」より二三〇〇年前の縄文中期の人間ということなのである。縄文時代は約一・二万年前に始まったとされるが、BC三〇〇〇年頃に、関東・東北に住居の集落が形成され、この縄文時代中期の「縄文人」が生み出した土器が、あの縄文芸術の華ともいえる「火焔型土器」(新潟県十日町市笹山遺跡)であり、土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市棚畑遺跡)である。その造形美と創造力には驚嘆せざるをえないが、この中期縄文人が欧州のアイスマンとほぼ同時代人であった。地球上の各所で、人類は知を凝縮させながら、それぞれの環境条件の中で必死に生きていたのである。そして、アイスマンの解明が突きつける科学的事実が、否定するすべもない歴史認識の素材となり始めているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年9月号 脳力のレッスン197 グローバル・ヒストリーへの入口を探って―一七世紀オランダからの視界(その50) 2019-03-13T02:05:24+09:00 2019-03-13T02:05:24+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1487-nouriki-2018-9.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 大英博物館の付近には何軒ものアンティーク店がある。私のロンドン訪問も一九七五年以来、四〇回を超すが、楽しみの一つが、これらの店を覗くことで、これまでも興味深い古地図や中国の青銅板などを手に入れてきた。中でも特に気に入っているのが「シュメルの粘土板」で、小さな粘土板なのだが、そこに書かれた「シュメル文字」は人類最古の文字で、アルファベットの原型ともいわれる。正確にいえば、私が手に入れたのは、ウル第三王朝期(BC2112年~BC2004年)の粘土板で、「王と元号」が書かれているという。約四一〇〇年前の文字を見つめると、人類史への想像力を掻き立てられる。<br /> 人類の足跡が「文字」という形で残される段階以前の「先史時代」に関し、生命科学などの進化が、DNA解析という形での科学的な光を当て始めており、アフリカを起源とする人類のユーラシア大陸への「グレート・ジャーニー」については、前回触れたごとく検証が進んでいる。六万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが、その後どう生き抜いたのか、私たちとは何者なのかを確認する思考を深めておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">定住革命というパラダイム転換―――移動が常態だった人類史</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">現代人の固定観念というべきか、「狩猟採取社会から農耕社会へ」と人類は「進化」したと考え、定住が当たり前で、そうでない人間は「ジプシー」「放浪者」「難民」「フーテン」、つまり落ち着かない怪しい存在と否定的に捉えがちである。定住を常態とする感覚からすれば、ユーラシア大陸を移動し続けたホモ・サピエンスの動きは不思議に思えるが、「移動」や「「遊動」は人間の本質に関わる要素で、それを通じて人間は進化したといえる。<br />イスラエルのヘブライ大学の歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、世界的なベストセラーとなった「サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福」(河出書房新社、2016年、原書“SAPIENS:A BRIEF HISTORY OF HUMANKIND”、2011年)において、「サピエンスは、種のほぼ全歴史を通じて狩猟採取民だった。過去二〇〇年は、次第に多くのサピエンスが都市労働者やオフィスワーカーとして日々の糧を手に入れるようになったし、それ以前の一万年間は、ほとんどのサピエンスが農耕を行ったり動物を飼育したりして暮らしていた。だが、こうした年月は、私たちの祖先が狩猟と採集をして過ごした膨大な時間と比べれば、ほんの一瞬にしかすぎない」と述べるが、長い時間軸の中で「人類とは何か」を捉える構造的見方だと思う。<br /> 既に述べたごとく、ヒトとチンパンジーのDNAの差は、個体差を考慮すればわずか一・〇六%にすぎないことが検証された。その一・〇六%の差が、言語や意思疎通に関わるものらしいことが最新の研究で分かりかけているが、正にアフリカに生まれたホモ・サピエンスが、ハラリの表現を借りれば「知恵の木の突然変異」で「認知革命」を起こした。つまり、遺伝子の突然変異で「思考と言語」を覚え、意思疎通を拡充し始めた。<br /> その認知革命を経た「賢いサル」が突き動かされるように、ユーラシアへと動き、約五万年間にわたり、狩猟・採取をしながら移動と遊動を続けた。そして、新しい環境に適応する行動を通じて、さらに賢くなっていったといえる。<br />心理学者のT・ズデンドルフは、「現実を生きるサル 空想を語るヒト」(原題“THE GAP”、白揚社、2013年)において、動物と人間の違いを鋭く対比分析し、「ヒトは生きる意味と歴史(過去、未来)を問いかける存在」へと進化してきたという。人類は、そうした問い掛けと思考を通じて、その産物としての「巨大な虚構」たる社会制度と規範を思いつく知を身に着けたのである。<br />定住までの移動の時代は地球寒冷期であった。農耕と定住の時代を迎えるには、「温暖化」という要素も大きかったと思われる。生態人類学者・西田正規の「人類史の中の定住革命」(講談社学術文庫、2007年、原本「定住革命――遊動と定住の人類史」新潮社、1986年)は、それまでの「農耕栽培の結果として定住を捉える」定説を覆す作品であった。ホモ・サピエンス史に関して、アフリカ単一起源説やユーラシアへの「出アフリカ」が検証される以前の段階で、西田は人類の移動や遊動の積極的な意味を体系的に考察しており、とくに遊動の動機についての社会的側面の解明は説得的であった。つまり、「キャンプ成員間の不和の解消」や「他の集団との緊張から逃れるため」という動機が人類を遊動させた要素の一つというものだが、「不快なものには近づかない」とか「危険であれば逃げていく」という本能が人類を突き動かしたという見方は腑に落ちるものがある。厄介な物には敢えて向き合わないというのが災いを避ける知恵だったというのである。<br />約一万年前の定住革命によって、人類が失ったものと得たものを冷静に認識する必要がある、約言すれば、移動が人類を賢くし、定住が人類に帰属社会に生きる忍耐と調和を教えたのである。定住によって、民族という意識が芽生え、言語、宗教が生まれた、国家とか社会的制度が起動し始めた。「虚構」といってしまえば確かに虚構なのだが、秩序のための社会制度・規範が生まれた。その虚構を守るために、人間という動物だけが、同一種の中で、仲間を生存欲求(食と性)以外の理由で殺戮する唯一の存在になってしまった。この連載を通じて確認してきたことの一つが、移動と交流による刺激が人間の進歩を促し、文化の創造を触発してきたという事実である。例えば、日本文化の象徴とも思われる江戸期の浮世絵も、実は当時の国際交流を投影し、オランダの銅版画と中国の木版画の技術が触発したものであった。(参照、本連載24「東洲斎写楽はオランダ人か?浮世絵再考」)<br /> 移動と交流がもたらす刺激を考える時、直近の日本人の気掛かりな「内向」に触れておきたい。二〇一七年の外国人入国者は二八六九万人で、二〇〇〇年の五二七万人に比べ、二一世紀に入って五倍以上も増加した。だがその一方で、日本人出国者は二〇一七年に一七八九万人と、二〇〇〇年の一七八二万人からは横這いである。海外留学も含め、世界を体験し、見つめる日本人は全く増えていない。グローバル化などと言われるが、実は日本人の視界はむしろ内向しているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">シュメル神話の衝撃―――最古の都市文明</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  人類が「定住革命」に踏み込んで約五〇〇〇年が経過したころ、歴史は「沈黙の帳」の中から、その輪郭を目に見える形で示し始める。文字の登場であり、その先駆けがシュメルであった。 現在のイラク南部、チグリス・ユーフラテス川の河口近くの低地が、かつてシュメルといわれた地域である。大河に運ばれた泥土で覆われた地域で、「泥土」が母なる大地であった。この地に約五五〇〇年~四〇〇〇年前(BC3500~2004年)に存在したのが人類最初の都市文明たるシュメル文明であった。<br />シュメルについての研究が進んだのは、比較的近年に入ってからのことで、特に、第一次大戦が終わって、オスマン帝国が滅亡して中東に欧州が踏み込んで以降のことであった。それまでは古代史はギリシャ・ローマ中心であったが、一九二〇年代になってシュメル遺跡発掘が始まった。大英博物館が一九二二年から考古学者C・L・ウーリーの指揮でウル市の発掘を開始、一九二九年にBC三五〇〇年頃の洪水層を発見した。まだ一〇〇年足らずの研究なのである。<br /> 三笠宮崇仁親王の「文明のあけぼの――古代オリエントの世界」(集英社、2002年)は、一九六七年に「大世界史、ここに歴史はじまる」として文藝春秋社から刊行されたものの改訂版で、日本で「シュメル」が一般に語られた先駆けであろう。一九八〇年代、私が中東での情報活動に動いていた頃、日本では稀少な古代オリエントに関する書物であり、味読したものである。この中で、三笠宮は「旧約聖書」における「創造神話」や「ノアの方舟の洪水神話」の原型がシュメル神話にあることを指摘し、しかもそれが伝承ではなく、粘土板に文字で書かれた物語として残されていることに言及していた。シュメル文字の粘土板――本稿の冒頭、ロンドンでその一片を手に入れたことに触れたが、興味を抱いたきっかけは三笠宮の書であった。<br /> 今世紀に入ってシュメルへの関心も高まり、小林登志子「シュメル――人類最古の文明」(中公新書、2005年)、岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界――粘土板に刻まれた最古のロマン」((中公新書、2008年)などコンパクトな好著が登場し、また「シュメール神話集成」(杉勇訳、ちくま学芸文庫、2015年)や「世界最古の物語――バビロニア、ハッティ、カナアン」(Th・H・ガスター著、矢島文夫訳、2017、原著1952年、平凡社・東洋文庫)など原典の翻訳本も入手容易となった。<br /> ところで、二〇一六年に話題になった古人類学者G・v・ペッツインガーの「最古の文字なのか?――氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く」(邦訳、文藝春秋社)は、四万年前の氷河期の欧州の洞窟に牛や馬の絵と共に残された記号を分析した報告であり、「文字の起源」についての想像を刺激されるが、あくまで記号であって、文書ではない。<br /> 人類が生み出した「文字」としては、中国の甲骨文字を思い出すが、中国の古代王朝殷(BC1600年頃~BC1046年)の時代に、亀の甲羅や牛の肩甲骨を火に炙り、ひび割れの形状で吉凶を占なっており、そこに刻まれた文字が甲骨文字だが、シュメルの楔形文字はその一〇〇〇年以上も前に登場しているのだ。突然発明されたものではなく、絵文字から次第に変化したもので、楔形文字にも地域差・時間差があるようだが、文字を使った物語(神話)が残されていることが重要なのである。<br /> キリストの誕生の三千年前の最古の文字で書かれたシュメル神話で、興味深いのが「人間は何故つくられたか」という創世神話である。なんと、シュメル神話では、シュメルの神々が増えたので、「神々は食物を得るために働かねばならなかった」という。そこで、知恵の神エンキ神の母たるナンム女神が息子に「神々がつらい仕事から解放されるように身代わりをつくりなさい」命じたことから、粘土から人間が造られたのだという。中東一神教における絶対神による天地創造とは趣を異にする創生神話である。<br />よく知られているシュメル神話が「ギルガメッシュ神話」で、典型的な英雄譚である。ギルガメッシュは、三分の二は神で、三分の一は人間という存在で、ウルク市を支配する暴君であった。暴虐なギルガメッシュを抑えるために遣わされた野人エンキドゥと死闘を経て和解、彼を友として、「杉の森」へと遠征し、魔力を持つ森の番人フンババを倒す。さらに、物語はイシュタル女神の求愛を拒絶したギルガメッシュに、女神が逆上して送り込んだ「天牛」の征伐、友人エンキドゥの死、さらに不死を求める旅へと展開する。<br />シュメル神話には、実に様々な神が登場し、今日の中東が「一神教」たるユダヤ、キリスト、イスラムの地となっているのとは異なり、「多神教」の地であったことが分る。都市国家ごとに、日本の氏神のごとく地域神が存在し、しかも政治的統治者でもあったようだ。<br />神話は何かを表象しているわけで、日本の神話における「スサノオによるヤマタノオロチ退治」にも共通するメッセージを感じる。ギルガメッシュによる「杉の森」の番人フンババ征伐も、人知による自然への挑戦を象徴するように思われる。<br /> ギルガメッシュ神話に登場するのが「大洪水伝説」だが、メソポタミアの宿命というべきか、大河の河口にある低地帯を繰り返し襲った大洪水が、この地に住み着いた人達の世界観に「人知を超えた神の怒り」としての大洪水という認識を生み出し、それが「旧約聖書」において、一神教によって修正されて「絶対神による堕落した人間への懲罰」としての大洪水と「ノアの方舟」伝説になっていくのである。<br /> 旧約聖書に登場する「バベルの塔」といわれるものは、古代メソポタミアの都市国家に築かれた「ジッグラド」と呼ばれた山型の神殿を物語の素材とするもので、同類の遺跡が約三〇カ所発見されている。高さは六五メートルから九〇メートル程度だったといわれるが、極端に平坦な土地においては、天にも届くような建造物に見えたであろう。一九八〇年代、バグダッド訪問時に、バベルの塔の遺跡といわれる場所に案内されたが、ユーフラテス河口からバグダッドまで約五六〇KMといわれるのに、標高差はわずかに十メートル足らずという極端に平坦な平原なのである。神話と風土の相関性に興味を惹かれる。シュメル神話に何を見るか。原初の文字で書かれた世界に、定住後の人類の苦闘とその課題が既に描き出されているといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 大英博物館の付近には何軒ものアンティーク店がある。私のロンドン訪問も一九七五年以来、四〇回を超すが、楽しみの一つが、これらの店を覗くことで、これまでも興味深い古地図や中国の青銅板などを手に入れてきた。中でも特に気に入っているのが「シュメルの粘土板」で、小さな粘土板なのだが、そこに書かれた「シュメル文字」は人類最古の文字で、アルファベットの原型ともいわれる。正確にいえば、私が手に入れたのは、ウル第三王朝期(BC2112年~BC2004年)の粘土板で、「王と元号」が書かれているという。約四一〇〇年前の文字を見つめると、人類史への想像力を掻き立てられる。<br /> 人類の足跡が「文字」という形で残される段階以前の「先史時代」に関し、生命科学などの進化が、DNA解析という形での科学的な光を当て始めており、アフリカを起源とする人類のユーラシア大陸への「グレート・ジャーニー」については、前回触れたごとく検証が進んでいる。六万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが、その後どう生き抜いたのか、私たちとは何者なのかを確認する思考を深めておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">定住革命というパラダイム転換―――移動が常態だった人類史</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">現代人の固定観念というべきか、「狩猟採取社会から農耕社会へ」と人類は「進化」したと考え、定住が当たり前で、そうでない人間は「ジプシー」「放浪者」「難民」「フーテン」、つまり落ち着かない怪しい存在と否定的に捉えがちである。定住を常態とする感覚からすれば、ユーラシア大陸を移動し続けたホモ・サピエンスの動きは不思議に思えるが、「移動」や「「遊動」は人間の本質に関わる要素で、それを通じて人間は進化したといえる。<br />イスラエルのヘブライ大学の歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、世界的なベストセラーとなった「サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福」(河出書房新社、2016年、原書“SAPIENS:A BRIEF HISTORY OF HUMANKIND”、2011年)において、「サピエンスは、種のほぼ全歴史を通じて狩猟採取民だった。過去二〇〇年は、次第に多くのサピエンスが都市労働者やオフィスワーカーとして日々の糧を手に入れるようになったし、それ以前の一万年間は、ほとんどのサピエンスが農耕を行ったり動物を飼育したりして暮らしていた。だが、こうした年月は、私たちの祖先が狩猟と採集をして過ごした膨大な時間と比べれば、ほんの一瞬にしかすぎない」と述べるが、長い時間軸の中で「人類とは何か」を捉える構造的見方だと思う。<br /> 既に述べたごとく、ヒトとチンパンジーのDNAの差は、個体差を考慮すればわずか一・〇六%にすぎないことが検証された。その一・〇六%の差が、言語や意思疎通に関わるものらしいことが最新の研究で分かりかけているが、正にアフリカに生まれたホモ・サピエンスが、ハラリの表現を借りれば「知恵の木の突然変異」で「認知革命」を起こした。つまり、遺伝子の突然変異で「思考と言語」を覚え、意思疎通を拡充し始めた。<br /> その認知革命を経た「賢いサル」が突き動かされるように、ユーラシアへと動き、約五万年間にわたり、狩猟・採取をしながら移動と遊動を続けた。そして、新しい環境に適応する行動を通じて、さらに賢くなっていったといえる。<br />心理学者のT・ズデンドルフは、「現実を生きるサル 空想を語るヒト」(原題“THE GAP”、白揚社、2013年)において、動物と人間の違いを鋭く対比分析し、「ヒトは生きる意味と歴史(過去、未来)を問いかける存在」へと進化してきたという。人類は、そうした問い掛けと思考を通じて、その産物としての「巨大な虚構」たる社会制度と規範を思いつく知を身に着けたのである。<br />定住までの移動の時代は地球寒冷期であった。農耕と定住の時代を迎えるには、「温暖化」という要素も大きかったと思われる。生態人類学者・西田正規の「人類史の中の定住革命」(講談社学術文庫、2007年、原本「定住革命――遊動と定住の人類史」新潮社、1986年)は、それまでの「農耕栽培の結果として定住を捉える」定説を覆す作品であった。ホモ・サピエンス史に関して、アフリカ単一起源説やユーラシアへの「出アフリカ」が検証される以前の段階で、西田は人類の移動や遊動の積極的な意味を体系的に考察しており、とくに遊動の動機についての社会的側面の解明は説得的であった。つまり、「キャンプ成員間の不和の解消」や「他の集団との緊張から逃れるため」という動機が人類を遊動させた要素の一つというものだが、「不快なものには近づかない」とか「危険であれば逃げていく」という本能が人類を突き動かしたという見方は腑に落ちるものがある。厄介な物には敢えて向き合わないというのが災いを避ける知恵だったというのである。<br />約一万年前の定住革命によって、人類が失ったものと得たものを冷静に認識する必要がある、約言すれば、移動が人類を賢くし、定住が人類に帰属社会に生きる忍耐と調和を教えたのである。定住によって、民族という意識が芽生え、言語、宗教が生まれた、国家とか社会的制度が起動し始めた。「虚構」といってしまえば確かに虚構なのだが、秩序のための社会制度・規範が生まれた。その虚構を守るために、人間という動物だけが、同一種の中で、仲間を生存欲求(食と性)以外の理由で殺戮する唯一の存在になってしまった。この連載を通じて確認してきたことの一つが、移動と交流による刺激が人間の進歩を促し、文化の創造を触発してきたという事実である。例えば、日本文化の象徴とも思われる江戸期の浮世絵も、実は当時の国際交流を投影し、オランダの銅版画と中国の木版画の技術が触発したものであった。(参照、本連載24「東洲斎写楽はオランダ人か?浮世絵再考」)<br /> 移動と交流がもたらす刺激を考える時、直近の日本人の気掛かりな「内向」に触れておきたい。二〇一七年の外国人入国者は二八六九万人で、二〇〇〇年の五二七万人に比べ、二一世紀に入って五倍以上も増加した。だがその一方で、日本人出国者は二〇一七年に一七八九万人と、二〇〇〇年の一七八二万人からは横這いである。海外留学も含め、世界を体験し、見つめる日本人は全く増えていない。グローバル化などと言われるが、実は日本人の視界はむしろ内向しているのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">  </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">シュメル神話の衝撃―――最古の都市文明</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  人類が「定住革命」に踏み込んで約五〇〇〇年が経過したころ、歴史は「沈黙の帳」の中から、その輪郭を目に見える形で示し始める。文字の登場であり、その先駆けがシュメルであった。 現在のイラク南部、チグリス・ユーフラテス川の河口近くの低地が、かつてシュメルといわれた地域である。大河に運ばれた泥土で覆われた地域で、「泥土」が母なる大地であった。この地に約五五〇〇年~四〇〇〇年前(BC3500~2004年)に存在したのが人類最初の都市文明たるシュメル文明であった。<br />シュメルについての研究が進んだのは、比較的近年に入ってからのことで、特に、第一次大戦が終わって、オスマン帝国が滅亡して中東に欧州が踏み込んで以降のことであった。それまでは古代史はギリシャ・ローマ中心であったが、一九二〇年代になってシュメル遺跡発掘が始まった。大英博物館が一九二二年から考古学者C・L・ウーリーの指揮でウル市の発掘を開始、一九二九年にBC三五〇〇年頃の洪水層を発見した。まだ一〇〇年足らずの研究なのである。<br /> 三笠宮崇仁親王の「文明のあけぼの――古代オリエントの世界」(集英社、2002年)は、一九六七年に「大世界史、ここに歴史はじまる」として文藝春秋社から刊行されたものの改訂版で、日本で「シュメル」が一般に語られた先駆けであろう。一九八〇年代、私が中東での情報活動に動いていた頃、日本では稀少な古代オリエントに関する書物であり、味読したものである。この中で、三笠宮は「旧約聖書」における「創造神話」や「ノアの方舟の洪水神話」の原型がシュメル神話にあることを指摘し、しかもそれが伝承ではなく、粘土板に文字で書かれた物語として残されていることに言及していた。シュメル文字の粘土板――本稿の冒頭、ロンドンでその一片を手に入れたことに触れたが、興味を抱いたきっかけは三笠宮の書であった。<br /> 今世紀に入ってシュメルへの関心も高まり、小林登志子「シュメル――人類最古の文明」(中公新書、2005年)、岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界――粘土板に刻まれた最古のロマン」((中公新書、2008年)などコンパクトな好著が登場し、また「シュメール神話集成」(杉勇訳、ちくま学芸文庫、2015年)や「世界最古の物語――バビロニア、ハッティ、カナアン」(Th・H・ガスター著、矢島文夫訳、2017、原著1952年、平凡社・東洋文庫)など原典の翻訳本も入手容易となった。<br /> ところで、二〇一六年に話題になった古人類学者G・v・ペッツインガーの「最古の文字なのか?――氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く」(邦訳、文藝春秋社)は、四万年前の氷河期の欧州の洞窟に牛や馬の絵と共に残された記号を分析した報告であり、「文字の起源」についての想像を刺激されるが、あくまで記号であって、文書ではない。<br /> 人類が生み出した「文字」としては、中国の甲骨文字を思い出すが、中国の古代王朝殷(BC1600年頃~BC1046年)の時代に、亀の甲羅や牛の肩甲骨を火に炙り、ひび割れの形状で吉凶を占なっており、そこに刻まれた文字が甲骨文字だが、シュメルの楔形文字はその一〇〇〇年以上も前に登場しているのだ。突然発明されたものではなく、絵文字から次第に変化したもので、楔形文字にも地域差・時間差があるようだが、文字を使った物語(神話)が残されていることが重要なのである。<br /> キリストの誕生の三千年前の最古の文字で書かれたシュメル神話で、興味深いのが「人間は何故つくられたか」という創世神話である。なんと、シュメル神話では、シュメルの神々が増えたので、「神々は食物を得るために働かねばならなかった」という。そこで、知恵の神エンキ神の母たるナンム女神が息子に「神々がつらい仕事から解放されるように身代わりをつくりなさい」命じたことから、粘土から人間が造られたのだという。中東一神教における絶対神による天地創造とは趣を異にする創生神話である。<br />よく知られているシュメル神話が「ギルガメッシュ神話」で、典型的な英雄譚である。ギルガメッシュは、三分の二は神で、三分の一は人間という存在で、ウルク市を支配する暴君であった。暴虐なギルガメッシュを抑えるために遣わされた野人エンキドゥと死闘を経て和解、彼を友として、「杉の森」へと遠征し、魔力を持つ森の番人フンババを倒す。さらに、物語はイシュタル女神の求愛を拒絶したギルガメッシュに、女神が逆上して送り込んだ「天牛」の征伐、友人エンキドゥの死、さらに不死を求める旅へと展開する。<br />シュメル神話には、実に様々な神が登場し、今日の中東が「一神教」たるユダヤ、キリスト、イスラムの地となっているのとは異なり、「多神教」の地であったことが分る。都市国家ごとに、日本の氏神のごとく地域神が存在し、しかも政治的統治者でもあったようだ。<br />神話は何かを表象しているわけで、日本の神話における「スサノオによるヤマタノオロチ退治」にも共通するメッセージを感じる。ギルガメッシュによる「杉の森」の番人フンババ征伐も、人知による自然への挑戦を象徴するように思われる。<br /> ギルガメッシュ神話に登場するのが「大洪水伝説」だが、メソポタミアの宿命というべきか、大河の河口にある低地帯を繰り返し襲った大洪水が、この地に住み着いた人達の世界観に「人知を超えた神の怒り」としての大洪水という認識を生み出し、それが「旧約聖書」において、一神教によって修正されて「絶対神による堕落した人間への懲罰」としての大洪水と「ノアの方舟」伝説になっていくのである。<br /> 旧約聖書に登場する「バベルの塔」といわれるものは、古代メソポタミアの都市国家に築かれた「ジッグラド」と呼ばれた山型の神殿を物語の素材とするもので、同類の遺跡が約三〇カ所発見されている。高さは六五メートルから九〇メートル程度だったといわれるが、極端に平坦な土地においては、天にも届くような建造物に見えたであろう。一九八〇年代、バグダッド訪問時に、バベルの塔の遺跡といわれる場所に案内されたが、ユーフラテス河口からバグダッドまで約五六〇KMといわれるのに、標高差はわずかに十メートル足らずという極端に平坦な平原なのである。神話と風土の相関性に興味を惹かれる。シュメル神話に何を見るか。原初の文字で書かれた世界に、定住後の人類の苦闘とその課題が既に描き出されているといえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年8月号 脳力のレッスン196特別篇 一九六八年再考―トランプも「一九六八野郎」だった 2019-03-13T01:58:06+09:00 2019-03-13T01:58:06+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1486-nouriki-2018-8.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 五月二四日の夕刻、恵比寿の日仏会館ホールで、「パリ一九六八年五月革命五〇周年記念」として、加藤登紀子のトーク&ライブが行われ、小生も彼女のトークの相手として登壇した。彼女が東大生だった時代、シャンソン・コンクールで優勝し、その副賞として一九六五年に最初にパリを訪れたという加藤登紀子は、「中国女」などの作品で有名な映画監督のジャン=リュック・ゴダールが一九六八年のカンヌ映画祭に乗り込み、既存の商業作品を「全否定」する勢いで映画祭を中止に追い込み、五月革命に共鳴する情熱的活動を繰り広げた話を語った。そして、間もなく日本でも公開される映画「グッバイ・ゴダール」が、ゴダールの恋人だった女優の目から見たゴダール像を「戯画化」して描いた作品であり、今年のカンヌ映画祭で特別賞を獲得したことなど、興味深い話を紹介していた。<br /> 静かに距離を置き、余裕の微笑みで振り返りながらも、フランスの文化人は一九六八年を忘れてはいないのだと思う。加藤登紀子も「一九六八年の精神」にこだわっている。「さくらんぼの実る頃」「美しき五月のパリ」を歌い続ける姿にそれを強く感じる。スチューデント・パワーが世界で荒れ狂った一九六八年とは何だったのか、五〇年目の今、改めて考察しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">一九六八年とは何だったのか</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">第二次世界大戦が終わり二〇年以上が経過した一九六〇年代後半、世界は東西冷戦の真只中であったが、その軋みが見え始めた。その臨界点に至ったのが一九六八年であったといえよう。資本主義対社会主義、世界を二極に分断して覇権を競い合っていた東西二極の指導国が色褪せ始めていた。<br />西側のチャンピオンたる米国は、一九六三年のケネディ暗殺によって陰りをみせ、泥沼化するベトナム戦争と北爆の開始、そしてキング牧師の暗殺(四月)と黒人差別に抗議する「貧者の行進」が六月にはワシントンで十万人集会、同じ六月にロバート・ケネディもLAで暗殺され、世界の若者は米国の闇の深さに暗澹たる思いを深めた。民主主義を理念として掲げ、自由主義陣営を率いる米国は「ベトナム」と「人種差別」によって光を失っていった。異議を唱える運動の先頭に立ったのは学生であった。<br />一方、東側といわれた社会主義陣営の総本山たるソ連も、「プラハの春」といわれたチェコの自由化路線に戦車によって介入(八月)、東側の「鉄のカーテン」の現実に社会主義に一抹の希望を抱いていた若者を落胆させ、失望が「新左翼」の活動を誘発していった。<br /> こうした冷戦の新局面を背景に、フランスでは「パリ五月革命」が勃発した。そもそもの発火点は同年三月、パリ大学ナンテール分校で、学制改革や男女寄宿舎相互訪問の自由などを巡り、学生が占拠闘争を開始したものであったが、五月にはカルチェラタンを要塞化して警官隊と衝突、労働総同盟も呼応してゼネストに入り、四〇万人が反ドゴール・デモに参加、「もはやデモや騒動ではなく反乱」と報じられる事態を迎えた。決起した若者の心象風景には、ほぼ一〇〇年前の一八七一年の「パリ・コミューン」があったことは間違いない。先述のゴダールも、それまでの自分の映画作品を否定してまでパリ五月革命に共鳴し、連帯した。東西二極のリーダーたる米国、ソ連に失望した若者の眼差しの先に「第三世界」への幻想が浮上していた。まだ未知数だった中国への関心、毛沢東語録の「造反有理」への共感が若者の共同幻想となった。一九六五から十数年続いた「文化大革命」は不気味ではあったが、「絶対に階級闘争をわすれてはならない」という一九六二年の毛沢東の指示は木霊のように響いていた。帝国主義と戦う中南米の星、カストロやゲバラへの憧憬が若者達を衝き動かしていた。今日のようなNETの時代とは違い、確かめようもない不思議な情報が拡がっていた。日本で一九六九年に流行った新谷のり子が歌った「フランシーヌの場合は」という歌があった。「三月三〇日の日曜日、パリの朝に燃えたいのちひとつ、フランシーヌ」という歌詞が耳に残る。「ベトナム戦争とビアフラの飢餓問題に抗議して焼身自殺した」とされるフランシーヌ・ルコントなる女性(当時三〇歳)をモデルとする歌なのだが、何故かあの時代の若者の心情に響く歌だった。遠く離れた「海を超えた他国の不条理」にフランスの若者が怒っていることが重く響いた。<br />日本の一九六八年も熱い特別な季節だった。一九六四年の東京オリンピックを成功させ、「復興から成長への自信」が定着し始めていた。多くの国民にとって実感はなかったが、GDPは世界二位へと躍進、一九六六年からは「3Cブーム」(カラーTV、カー、クーラーなどへの消費の爆発)といわれ、大衆消費社会が現実のものになっていた。成長の恩恵がサラリーマン層にも浸透、「労働者階級意識」は希薄化、六〇年安保闘争の挫折感も深く、労働者の意識は「闘争よりも生活へ」と向かい始めていた。こうした状況への苛立ちと旧左翼への失望が学生たちを衝き動かした。それが学園紛争の背景であった。一つの焦点が日大紛争であった。一九六八年五月、国税庁から指摘された日大の使途不明金二〇億円を巡る問題への責任追及と学園民主化を求める経済学部の学生の行動が、全学の無期限封鎖に発展、翌一九六九年の二月に機動隊導入で解除されるまで、「神田カルチェラタン」といわれるほど都心の市街地での騒乱が続いた。実は、この日大闘争が五〇年後の「アメフト部の違法タックル問題」の伏線にもなっている。日大闘争時、大学当局と手を組んで全共闘運動に攻撃を仕掛けた体育会系学生を日大は職員として雇用し、優遇した。それが今日の日大の理事会の中枢を占めるに至ったのが、今も日大の経営を呪縛しているという。もう一つの舞台が東大紛争であった。一九六八年一月に医学部の「登録医制度」反対運動から火が付き、六月には反日共系学生組織による安田講堂占拠、七月には東大全共闘の組織化(山本義隆議長)、翌六九年一月には八五00人の機動隊員との安田講堂攻防戦に至り、この年の入試は中止となった。結局、日大紛争も東大紛争も学生だけの運動に留まり、市民や労働者の運動と連携することもなかった。権力によって抑圧される中で、運動は孤立、追い詰められる中で「ゲバルト化」「セクト化」し、血生臭い内ゲバ、無差別爆破、ハイジャック事件などを起こして孤立していった。一九六五年に小田実のべ平連「ベトナムに平和を、市民連合」が設立され、市民レベルの運動に真摯に向き合う人たちもいたが、広がりをみせなかった。<br />それでも、一九六八年は世界中の若者が、時代に関する感受性を刺激され、悩み、それぞれの思いで行動した。「若者の不条理への怒り」が重層的なうねりとなって共鳴し合った瞬間だった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">トランプも「一九六八野郎」だった</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> あの時、何をしていたか、どう生きたかはあの時代を生きた青年にとって極めて重いポイントである。ドナルド・トランプ、現在の米国大統領も、実はあの時代を同世代人として生きた「一九六八野郎」であった。彼は一九四六年六月一四日生まれ、現在七二歳、一九六八年の頃は二二歳の青年であった。M・クラニッシュ他ワシントン・ポスト取材班の「トランプ」(原題“TRUMP REVEALED”、2016)やトランプ自身の「トランプ自伝」(早川書房、1988年、原書“TRUMP:ART OF THE DEAL”、1987年)を基に、あの「一九六八年」に、この世界をかき回している男は何をしていたのか確認しておきたい。<br /> D・トランプは、一九五九年に NYミリタリー・アカデミーに入学した。その頃から「おれは有名になる」と豪語していたというが、一九六六年秋に入学したペンシルバニア大学のウォートン・ビジネススクールでは、「美人を連れて歩くのが好きな奴」という印象を多くのクラスメートに残している。一九六八年は、ペンシルバニア大学でも「ベトナム反戦運動」が吹き荒れたが、ウォートンの二年目であったトランプは、そうした社会的・政治的動きには一切の関心を示さず、只管「金もうけと女性」に専心していた青年トランプの姿が浮かび上がるのである。<br /> ウォートン・ビジネススクール時代について、トランプは「私は連邦住宅局の抵当流物件のリストを読みふけっていた」と語り、父親と組んでオハイオ州シンシナティ―の古びた住宅団地を最小限の付け値で落札、家賃滞納の入居者を追い出し、その管理運営で一儲けしたことを自慢げに語っている。自分を「シンシナティー・キッド」と呼んで、卒業時には二〇万ドルの財産を持っていたと胸を張るが、一九六八年という時代に世界の若者が「社会変革」に血をたぎらせていたことなど関心の対象外で、一切言及はない。<br /> この時代を生きた米国の世代に関して気になるのは、ベトナム戦争との関りである。トランプの「徴兵検査」に関しては疑問が残る。トランプの場合、当初は「兵役適性」の「1・A評価」だったが、一九六八年のウォートン卒業時の検査では「国家の緊急時を除き医学的に不適格」を意味する「1・Y評価」となり、一九七二年の再検査では「兵役不適格」を意味する「4・F評価」に引き下げられている。七〇歳を過ぎても盤石の健康を誇示する人物としては不可解なことだが、両足の踵に「骨棘」(骨膜の内側からできるトゲ)ができたためと説明されているが、巧みに兵役を避けようとした意図が隠されているように思われる。「医学的に不適格」として兵役を回避する自分本位の男、時代に正対するもことなく、青年期を自分自身のためだけに生きた男というのが若きトランプの実像といえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> トランプは、自分は取引(DEAL)の達人であるとして、その極意を次のように語ってみせる。「取引で禁物なのは、何が何でもこれを成功させたいという素振りをみせないことだ。・・・・一番望ましいのは、優位に立って取引をすることだ。この優位性を私はレバレッジ(てこの力)と呼ぶ」―――この自己陶酔型の人物の視界には、目指すべき理念、自分の生き方に疑問を抱く力、問題を深く考察する知的葛藤が皆無である。それが、世界の不幸をもたらしていることに気づく。<br /> トランプの一九六八には、ベトナムや黒人運動への問題意識は存在しない。社会的問題意識がすっぽり抜け落ち、専ら個人的欲望に邁進する姿が印象に残る。その対照として思い出されるのが映画「七月四日に生まれて」である。一九八九年のオリバー・ストーン監督の作品で、トム・クルーズが傷ついたニューヨーク出身のベトナム帰還兵を熱演していた。実話に基づく作品で、「自由と民主主義を守る」という理念に駆り出されてベトナムの戦場に立ち、障碍者となって故国に還った兵士への冷たい眼差しに苦悩する若者が描かれていた。正にこの主役の青年と同世代がトランプなのである。国の掲げる価値を真摯に信じてベトナムに行った青年は死傷し、背を向けて「女とカネ」に執着していた男が大統領になる。こんな理不尽があっていいのであろうか。だが、それが現実なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本の六八年世代として―自分自身への問いかけ</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 私自身、一九六八年は早稲田大学政経学部の二年生であった。全国の政治好き人間の集積地でもある「早稲田の政経」は、革マル、民青、社青同を始め左翼セクトが入り乱れ、そこにノン・セクトの全共闘運動が吹き荒れ、翌一九六九年にかけて、「学園封鎖」という事態が続いていた。私自身は、左翼運動黄金時代のキャンパスにおいては「右翼・秩序派」と括られながらも、「一般学生」を束ねて大学改革を迫る活動に主導的に関わっていた。学生集会を繰り返し、全共闘運動と正面から対峙していた。機動隊導入で「学園正常化」という事態になった時、二〇〇〇人を超す支持者で盛り上がっていた我々の運動は急速に萎え、四年生は就職を決めてさっさとキャンパスを去り、最後に行ったティーチイン集会に集まった仲間は、わずかに六人であった。<br /> 少しは本気で勉強しようと、大学院に進み、焼野原に立つ思いで同人誌に書いたのが、一九七一年の論稿「政治的想像力から政治的構想力へ」であった。この論稿は、後にPHP新書「われら戦後世代の『坂の上の雲』―――ある団塊人の思考の軌跡」に所収(PHP研究所、2006年)されるが、私自身の一九六八年の総括でもあった。<br /> 生硬く気恥ずかしい原稿ではあるが、二三歳の私自身の「一九六八」への思いが凝縮されている。私は「全共闘運動」を政治的な運動というよりも、非政治的人間の未熟な疑似政治運動であることを直感していた。「大衆社会化の進行がもたらした量化のメカニズムの中で無意識のうちに失われていく人間的価値を防衛しようとする敏感さこそ全共闘運動の本質であった」と、私はその論稿に書いている。全共闘運動は、当時の共産党が指導していた「民青」、社会党が指導していた「社青同」などの大人が指導する既成左翼とは一線を画し、政治的計算や打算もなく、ある意味純粋な時代状況への拒絶反応だったといえる。それ故に政治運動としては「未熟」であり、自己陶酔的であった。<br /> 若干、早熟だった私は、セクト抗争に終始する学生運動に失望し、「政治的想像力から政治的構想力へ」というタイトルに凝縮されるごとく、問題を提起するだけの想像力だけでなく、解決方向の模索とそのための条件の探求において、責任ある構想力が必要なことを語り、「自らの足場を固め、時代を克服する構想に挑戦する限り、決して『挫折』することはない」と論稿を結んでいる。おそらく、あの時点での精一杯の「虚勢」だったのかもしれない。<br />一九七〇年代から就職を決めて社会参加し始めたこの世代の多くは、高度成長を支える企業戦士として生きた。工業生産力モデルの優等生としての道を走った戦後日本産業の現場に立ち、鉄鋼、自動車、エレクトロニクス、化学品など外貨を稼ぐ産業を支えた。一九六六年、東京オリンピックの二年後、一〇〇〇ドルを超した一人当たりGDPは一九八一年に一万ドルを超した。一九七三年、七九年の二度の石油危機を経て、日本は一九八〇年代末の「バブル期」へと突き進んでいく。<br />全共闘運動に身を投じていた連中の多くは、「表面は赤(左翼)がかっていても一皮むけば真っ白だ」という意味での「真っ赤なリンゴ」とからかわれながらも、企業社会の現場で必死に役割を果たした。日本企業の海外進出がピークだった一九九〇年前後、多くのサラリーマンが海外に赴任、同行した子供達に「帰国子女」という言葉が使われたのもこの頃であった。<br />二一世紀に入って、「六八年野郎」の世代も順次、高齢者となり、日本の人口の三割に迫る高齢者人口の中核となった。二〇五〇年には高齢者が人口の四割、有権者人口の五割、有効投票の六割を占める時代に向かう。「高齢者の、高齢者による、高齢者のための政治」になりかねない状況を見つめて、戦後民主主義を踏み固め、次にいかなる日本を目指すのかを模索したのが、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)であった。また、「一〇〇歳人生」といわれる長寿社会が、決してめでたいことばかりではなく、「定年退職後四〇年生きなければならない時代」であり、これらの高齢者を健全な形で社会参画させるシステムを模索する「ジェロントロジー」(高齢者社会工学)の必要性を提起したのが、「ジェロントロジーの新しい地平」(本連載194、本誌六月号)であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二〇一八年という節目と、問われる一九六八の精神</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  五〇年前の一九六八を見つめ、五〇年後を視界に入れながら、自らの立ち位置を議論してきた。人はそれぞれ、自分が生きた時代と向き合い、時代によって錬磨される。そして、どれだけ真摯に時代と向き合ったかが、人生の意味を変える。今、世界各国のリーダーといえる人の年齢は、トランプ七二歳、プーチン六五歳、習近平六五歳、英国メイ六一歳、独メルケル六四歳、仏マクロン四〇歳、日本の安倍首相は六三歳である。<br /> 本稿で、トランプの出自とこの人物の本質を論じたが、トランプ現象に揺さぶられる世界を再考する時、「奇怪な指導者が唐突に登場した」のではなく、「アメリカ・ファースト」に呼応する疲弊した米国があることに気付く。J・F・ケネディが高らかに語っていた「アメリカの世紀」「アメリカの国際責任」という言葉の起源は、タイム・ワーナーの創始者H・ルースが、第一次大戦を境に英国に代わって西側世界のリーダーになった米国の使命感を語るものだった。その誇りも余裕もかなぐり捨てざるを得ない状況に米国が追い込まれているというのが今日的状況なのだ。<br /> 世界の指導者の原体験のようなものを探るならば、中国の習近平は一六歳だった一九六九年から七年間、文化大革命期を背景に陝西省に農村下放という辛酸を舐めている。ロシアのプーチンは三九歳の時に、ソ連崩壊の衝撃を受けとめている。愁嘆場に立つような原体験を持っているのである。これに対して、現代日本の政治指導者の多くは、親の地盤・看板がなければ政治家にさえならなかったと思われる「弱さ」を感じる。世代的にも、「一九六八世代」からは遅れてきた青年達で、政治の季節が終わった「ゲバ棒もヘルメットも立て看板のないキャンパス」で「同好会世代」として過ごした「甘さ」を感じる。これは日本の弛緩した状況と無縁ではない。社会の構造的問題と格闘したことの無い人間は、「私生活主義」に埋没し、簡単に国家主義、国権主義を引き寄せてしまう。<br /> かかる状況下だからこそ、日本の「一九六八世代」が失ってはならないものがある。一九六八を「若気の至り」の思い出話にしてはならない。少なくとも、五〇年を総括し、歴史の歯車を前に進める役割に気付かねばならない。戦後民主主義と平和と安定の恩恵を受けてきた世代として、国権主義と戦争を拒否するエネルギーを持続させねばならない。<br /> 一九六八から五〇年経った今、歴史は進歩しているとは思えない。トランプやプーチンのごとく自国利害中心主義に立つ指導者が登場し、中国の習近平にグローバル秩序の重要性を語られるパラドックスの中にあり、未来に希望を持てる時代ではないように見える。<br />確かに、歴史は一直線には進まないが、長い視座で考えれば「条理」の側に動く。<br />この五〇年、冷戦が終わり、イデオロギーの対立は終焉を迎えた。イデオロギーが後退したら、宗教と民族への回帰が生じている。さらに、底流では米国流の「金融資本主義」と「デジタル専制」(巨大化したIT企業によるデータリズム)が世界に浸透し、新しい「格差と貧困」を増幅させている。世界はこれらを制御する「新しいルール」を見いだせないまま、それぞれの自己主張に立ち尽くしている。だが、世界を動いて感じるのは新たな地平も見え始めている。「ネオ・リベラリズム」とでもいおうか、国家主義でも階級主義でも人種主義でもなく、国境を超えた新たなルールを模索する議論が芽生え始めている。こうした問題意識を開花させるエンジンは「歴史の鏡を磨く」ことからしか生まれないのである。私も「持続する志」を持って、この課題に挑戦したい。 </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 五月二四日の夕刻、恵比寿の日仏会館ホールで、「パリ一九六八年五月革命五〇周年記念」として、加藤登紀子のトーク&ライブが行われ、小生も彼女のトークの相手として登壇した。彼女が東大生だった時代、シャンソン・コンクールで優勝し、その副賞として一九六五年に最初にパリを訪れたという加藤登紀子は、「中国女」などの作品で有名な映画監督のジャン=リュック・ゴダールが一九六八年のカンヌ映画祭に乗り込み、既存の商業作品を「全否定」する勢いで映画祭を中止に追い込み、五月革命に共鳴する情熱的活動を繰り広げた話を語った。そして、間もなく日本でも公開される映画「グッバイ・ゴダール」が、ゴダールの恋人だった女優の目から見たゴダール像を「戯画化」して描いた作品であり、今年のカンヌ映画祭で特別賞を獲得したことなど、興味深い話を紹介していた。<br /> 静かに距離を置き、余裕の微笑みで振り返りながらも、フランスの文化人は一九六八年を忘れてはいないのだと思う。加藤登紀子も「一九六八年の精神」にこだわっている。「さくらんぼの実る頃」「美しき五月のパリ」を歌い続ける姿にそれを強く感じる。スチューデント・パワーが世界で荒れ狂った一九六八年とは何だったのか、五〇年目の今、改めて考察しておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">一九六八年とは何だったのか</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">第二次世界大戦が終わり二〇年以上が経過した一九六〇年代後半、世界は東西冷戦の真只中であったが、その軋みが見え始めた。その臨界点に至ったのが一九六八年であったといえよう。資本主義対社会主義、世界を二極に分断して覇権を競い合っていた東西二極の指導国が色褪せ始めていた。<br />西側のチャンピオンたる米国は、一九六三年のケネディ暗殺によって陰りをみせ、泥沼化するベトナム戦争と北爆の開始、そしてキング牧師の暗殺(四月)と黒人差別に抗議する「貧者の行進」が六月にはワシントンで十万人集会、同じ六月にロバート・ケネディもLAで暗殺され、世界の若者は米国の闇の深さに暗澹たる思いを深めた。民主主義を理念として掲げ、自由主義陣営を率いる米国は「ベトナム」と「人種差別」によって光を失っていった。異議を唱える運動の先頭に立ったのは学生であった。<br />一方、東側といわれた社会主義陣営の総本山たるソ連も、「プラハの春」といわれたチェコの自由化路線に戦車によって介入(八月)、東側の「鉄のカーテン」の現実に社会主義に一抹の希望を抱いていた若者を落胆させ、失望が「新左翼」の活動を誘発していった。<br /> こうした冷戦の新局面を背景に、フランスでは「パリ五月革命」が勃発した。そもそもの発火点は同年三月、パリ大学ナンテール分校で、学制改革や男女寄宿舎相互訪問の自由などを巡り、学生が占拠闘争を開始したものであったが、五月にはカルチェラタンを要塞化して警官隊と衝突、労働総同盟も呼応してゼネストに入り、四〇万人が反ドゴール・デモに参加、「もはやデモや騒動ではなく反乱」と報じられる事態を迎えた。決起した若者の心象風景には、ほぼ一〇〇年前の一八七一年の「パリ・コミューン」があったことは間違いない。先述のゴダールも、それまでの自分の映画作品を否定してまでパリ五月革命に共鳴し、連帯した。東西二極のリーダーたる米国、ソ連に失望した若者の眼差しの先に「第三世界」への幻想が浮上していた。まだ未知数だった中国への関心、毛沢東語録の「造反有理」への共感が若者の共同幻想となった。一九六五から十数年続いた「文化大革命」は不気味ではあったが、「絶対に階級闘争をわすれてはならない」という一九六二年の毛沢東の指示は木霊のように響いていた。帝国主義と戦う中南米の星、カストロやゲバラへの憧憬が若者達を衝き動かしていた。今日のようなNETの時代とは違い、確かめようもない不思議な情報が拡がっていた。日本で一九六九年に流行った新谷のり子が歌った「フランシーヌの場合は」という歌があった。「三月三〇日の日曜日、パリの朝に燃えたいのちひとつ、フランシーヌ」という歌詞が耳に残る。「ベトナム戦争とビアフラの飢餓問題に抗議して焼身自殺した」とされるフランシーヌ・ルコントなる女性(当時三〇歳)をモデルとする歌なのだが、何故かあの時代の若者の心情に響く歌だった。遠く離れた「海を超えた他国の不条理」にフランスの若者が怒っていることが重く響いた。<br />日本の一九六八年も熱い特別な季節だった。一九六四年の東京オリンピックを成功させ、「復興から成長への自信」が定着し始めていた。多くの国民にとって実感はなかったが、GDPは世界二位へと躍進、一九六六年からは「3Cブーム」(カラーTV、カー、クーラーなどへの消費の爆発)といわれ、大衆消費社会が現実のものになっていた。成長の恩恵がサラリーマン層にも浸透、「労働者階級意識」は希薄化、六〇年安保闘争の挫折感も深く、労働者の意識は「闘争よりも生活へ」と向かい始めていた。こうした状況への苛立ちと旧左翼への失望が学生たちを衝き動かした。それが学園紛争の背景であった。一つの焦点が日大紛争であった。一九六八年五月、国税庁から指摘された日大の使途不明金二〇億円を巡る問題への責任追及と学園民主化を求める経済学部の学生の行動が、全学の無期限封鎖に発展、翌一九六九年の二月に機動隊導入で解除されるまで、「神田カルチェラタン」といわれるほど都心の市街地での騒乱が続いた。実は、この日大闘争が五〇年後の「アメフト部の違法タックル問題」の伏線にもなっている。日大闘争時、大学当局と手を組んで全共闘運動に攻撃を仕掛けた体育会系学生を日大は職員として雇用し、優遇した。それが今日の日大の理事会の中枢を占めるに至ったのが、今も日大の経営を呪縛しているという。もう一つの舞台が東大紛争であった。一九六八年一月に医学部の「登録医制度」反対運動から火が付き、六月には反日共系学生組織による安田講堂占拠、七月には東大全共闘の組織化(山本義隆議長)、翌六九年一月には八五00人の機動隊員との安田講堂攻防戦に至り、この年の入試は中止となった。結局、日大紛争も東大紛争も学生だけの運動に留まり、市民や労働者の運動と連携することもなかった。権力によって抑圧される中で、運動は孤立、追い詰められる中で「ゲバルト化」「セクト化」し、血生臭い内ゲバ、無差別爆破、ハイジャック事件などを起こして孤立していった。一九六五年に小田実のべ平連「ベトナムに平和を、市民連合」が設立され、市民レベルの運動に真摯に向き合う人たちもいたが、広がりをみせなかった。<br />それでも、一九六八年は世界中の若者が、時代に関する感受性を刺激され、悩み、それぞれの思いで行動した。「若者の不条理への怒り」が重層的なうねりとなって共鳴し合った瞬間だった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> <span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">トランプも「一九六八野郎」だった</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> あの時、何をしていたか、どう生きたかはあの時代を生きた青年にとって極めて重いポイントである。ドナルド・トランプ、現在の米国大統領も、実はあの時代を同世代人として生きた「一九六八野郎」であった。彼は一九四六年六月一四日生まれ、現在七二歳、一九六八年の頃は二二歳の青年であった。M・クラニッシュ他ワシントン・ポスト取材班の「トランプ」(原題“TRUMP REVEALED”、2016)やトランプ自身の「トランプ自伝」(早川書房、1988年、原書“TRUMP:ART OF THE DEAL”、1987年)を基に、あの「一九六八年」に、この世界をかき回している男は何をしていたのか確認しておきたい。<br /> D・トランプは、一九五九年に NYミリタリー・アカデミーに入学した。その頃から「おれは有名になる」と豪語していたというが、一九六六年秋に入学したペンシルバニア大学のウォートン・ビジネススクールでは、「美人を連れて歩くのが好きな奴」という印象を多くのクラスメートに残している。一九六八年は、ペンシルバニア大学でも「ベトナム反戦運動」が吹き荒れたが、ウォートンの二年目であったトランプは、そうした社会的・政治的動きには一切の関心を示さず、只管「金もうけと女性」に専心していた青年トランプの姿が浮かび上がるのである。<br /> ウォートン・ビジネススクール時代について、トランプは「私は連邦住宅局の抵当流物件のリストを読みふけっていた」と語り、父親と組んでオハイオ州シンシナティ―の古びた住宅団地を最小限の付け値で落札、家賃滞納の入居者を追い出し、その管理運営で一儲けしたことを自慢げに語っている。自分を「シンシナティー・キッド」と呼んで、卒業時には二〇万ドルの財産を持っていたと胸を張るが、一九六八年という時代に世界の若者が「社会変革」に血をたぎらせていたことなど関心の対象外で、一切言及はない。<br /> この時代を生きた米国の世代に関して気になるのは、ベトナム戦争との関りである。トランプの「徴兵検査」に関しては疑問が残る。トランプの場合、当初は「兵役適性」の「1・A評価」だったが、一九六八年のウォートン卒業時の検査では「国家の緊急時を除き医学的に不適格」を意味する「1・Y評価」となり、一九七二年の再検査では「兵役不適格」を意味する「4・F評価」に引き下げられている。七〇歳を過ぎても盤石の健康を誇示する人物としては不可解なことだが、両足の踵に「骨棘」(骨膜の内側からできるトゲ)ができたためと説明されているが、巧みに兵役を避けようとした意図が隠されているように思われる。「医学的に不適格」として兵役を回避する自分本位の男、時代に正対するもことなく、青年期を自分自身のためだけに生きた男というのが若きトランプの実像といえる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> トランプは、自分は取引(DEAL)の達人であるとして、その極意を次のように語ってみせる。「取引で禁物なのは、何が何でもこれを成功させたいという素振りをみせないことだ。・・・・一番望ましいのは、優位に立って取引をすることだ。この優位性を私はレバレッジ(てこの力)と呼ぶ」―――この自己陶酔型の人物の視界には、目指すべき理念、自分の生き方に疑問を抱く力、問題を深く考察する知的葛藤が皆無である。それが、世界の不幸をもたらしていることに気づく。<br /> トランプの一九六八には、ベトナムや黒人運動への問題意識は存在しない。社会的問題意識がすっぽり抜け落ち、専ら個人的欲望に邁進する姿が印象に残る。その対照として思い出されるのが映画「七月四日に生まれて」である。一九八九年のオリバー・ストーン監督の作品で、トム・クルーズが傷ついたニューヨーク出身のベトナム帰還兵を熱演していた。実話に基づく作品で、「自由と民主主義を守る」という理念に駆り出されてベトナムの戦場に立ち、障碍者となって故国に還った兵士への冷たい眼差しに苦悩する若者が描かれていた。正にこの主役の青年と同世代がトランプなのである。国の掲げる価値を真摯に信じてベトナムに行った青年は死傷し、背を向けて「女とカネ」に執着していた男が大統領になる。こんな理不尽があっていいのであろうか。だが、それが現実なのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本の六八年世代として―自分自身への問いかけ</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 私自身、一九六八年は早稲田大学政経学部の二年生であった。全国の政治好き人間の集積地でもある「早稲田の政経」は、革マル、民青、社青同を始め左翼セクトが入り乱れ、そこにノン・セクトの全共闘運動が吹き荒れ、翌一九六九年にかけて、「学園封鎖」という事態が続いていた。私自身は、左翼運動黄金時代のキャンパスにおいては「右翼・秩序派」と括られながらも、「一般学生」を束ねて大学改革を迫る活動に主導的に関わっていた。学生集会を繰り返し、全共闘運動と正面から対峙していた。機動隊導入で「学園正常化」という事態になった時、二〇〇〇人を超す支持者で盛り上がっていた我々の運動は急速に萎え、四年生は就職を決めてさっさとキャンパスを去り、最後に行ったティーチイン集会に集まった仲間は、わずかに六人であった。<br /> 少しは本気で勉強しようと、大学院に進み、焼野原に立つ思いで同人誌に書いたのが、一九七一年の論稿「政治的想像力から政治的構想力へ」であった。この論稿は、後にPHP新書「われら戦後世代の『坂の上の雲』―――ある団塊人の思考の軌跡」に所収(PHP研究所、2006年)されるが、私自身の一九六八年の総括でもあった。<br /> 生硬く気恥ずかしい原稿ではあるが、二三歳の私自身の「一九六八」への思いが凝縮されている。私は「全共闘運動」を政治的な運動というよりも、非政治的人間の未熟な疑似政治運動であることを直感していた。「大衆社会化の進行がもたらした量化のメカニズムの中で無意識のうちに失われていく人間的価値を防衛しようとする敏感さこそ全共闘運動の本質であった」と、私はその論稿に書いている。全共闘運動は、当時の共産党が指導していた「民青」、社会党が指導していた「社青同」などの大人が指導する既成左翼とは一線を画し、政治的計算や打算もなく、ある意味純粋な時代状況への拒絶反応だったといえる。それ故に政治運動としては「未熟」であり、自己陶酔的であった。<br /> 若干、早熟だった私は、セクト抗争に終始する学生運動に失望し、「政治的想像力から政治的構想力へ」というタイトルに凝縮されるごとく、問題を提起するだけの想像力だけでなく、解決方向の模索とそのための条件の探求において、責任ある構想力が必要なことを語り、「自らの足場を固め、時代を克服する構想に挑戦する限り、決して『挫折』することはない」と論稿を結んでいる。おそらく、あの時点での精一杯の「虚勢」だったのかもしれない。<br />一九七〇年代から就職を決めて社会参加し始めたこの世代の多くは、高度成長を支える企業戦士として生きた。工業生産力モデルの優等生としての道を走った戦後日本産業の現場に立ち、鉄鋼、自動車、エレクトロニクス、化学品など外貨を稼ぐ産業を支えた。一九六六年、東京オリンピックの二年後、一〇〇〇ドルを超した一人当たりGDPは一九八一年に一万ドルを超した。一九七三年、七九年の二度の石油危機を経て、日本は一九八〇年代末の「バブル期」へと突き進んでいく。<br />全共闘運動に身を投じていた連中の多くは、「表面は赤(左翼)がかっていても一皮むけば真っ白だ」という意味での「真っ赤なリンゴ」とからかわれながらも、企業社会の現場で必死に役割を果たした。日本企業の海外進出がピークだった一九九〇年前後、多くのサラリーマンが海外に赴任、同行した子供達に「帰国子女」という言葉が使われたのもこの頃であった。<br />二一世紀に入って、「六八年野郎」の世代も順次、高齢者となり、日本の人口の三割に迫る高齢者人口の中核となった。二〇五〇年には高齢者が人口の四割、有権者人口の五割、有効投票の六割を占める時代に向かう。「高齢者の、高齢者による、高齢者のための政治」になりかねない状況を見つめて、戦後民主主義を踏み固め、次にいかなる日本を目指すのかを模索したのが、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)であった。また、「一〇〇歳人生」といわれる長寿社会が、決してめでたいことばかりではなく、「定年退職後四〇年生きなければならない時代」であり、これらの高齢者を健全な形で社会参画させるシステムを模索する「ジェロントロジー」(高齢者社会工学)の必要性を提起したのが、「ジェロントロジーの新しい地平」(本連載194、本誌六月号)であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二〇一八年という節目と、問われる一九六八の精神</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  五〇年前の一九六八を見つめ、五〇年後を視界に入れながら、自らの立ち位置を議論してきた。人はそれぞれ、自分が生きた時代と向き合い、時代によって錬磨される。そして、どれだけ真摯に時代と向き合ったかが、人生の意味を変える。今、世界各国のリーダーといえる人の年齢は、トランプ七二歳、プーチン六五歳、習近平六五歳、英国メイ六一歳、独メルケル六四歳、仏マクロン四〇歳、日本の安倍首相は六三歳である。<br /> 本稿で、トランプの出自とこの人物の本質を論じたが、トランプ現象に揺さぶられる世界を再考する時、「奇怪な指導者が唐突に登場した」のではなく、「アメリカ・ファースト」に呼応する疲弊した米国があることに気付く。J・F・ケネディが高らかに語っていた「アメリカの世紀」「アメリカの国際責任」という言葉の起源は、タイム・ワーナーの創始者H・ルースが、第一次大戦を境に英国に代わって西側世界のリーダーになった米国の使命感を語るものだった。その誇りも余裕もかなぐり捨てざるを得ない状況に米国が追い込まれているというのが今日的状況なのだ。<br /> 世界の指導者の原体験のようなものを探るならば、中国の習近平は一六歳だった一九六九年から七年間、文化大革命期を背景に陝西省に農村下放という辛酸を舐めている。ロシアのプーチンは三九歳の時に、ソ連崩壊の衝撃を受けとめている。愁嘆場に立つような原体験を持っているのである。これに対して、現代日本の政治指導者の多くは、親の地盤・看板がなければ政治家にさえならなかったと思われる「弱さ」を感じる。世代的にも、「一九六八世代」からは遅れてきた青年達で、政治の季節が終わった「ゲバ棒もヘルメットも立て看板のないキャンパス」で「同好会世代」として過ごした「甘さ」を感じる。これは日本の弛緩した状況と無縁ではない。社会の構造的問題と格闘したことの無い人間は、「私生活主義」に埋没し、簡単に国家主義、国権主義を引き寄せてしまう。<br /> かかる状況下だからこそ、日本の「一九六八世代」が失ってはならないものがある。一九六八を「若気の至り」の思い出話にしてはならない。少なくとも、五〇年を総括し、歴史の歯車を前に進める役割に気付かねばならない。戦後民主主義と平和と安定の恩恵を受けてきた世代として、国権主義と戦争を拒否するエネルギーを持続させねばならない。<br /> 一九六八から五〇年経った今、歴史は進歩しているとは思えない。トランプやプーチンのごとく自国利害中心主義に立つ指導者が登場し、中国の習近平にグローバル秩序の重要性を語られるパラドックスの中にあり、未来に希望を持てる時代ではないように見える。<br />確かに、歴史は一直線には進まないが、長い視座で考えれば「条理」の側に動く。<br />この五〇年、冷戦が終わり、イデオロギーの対立は終焉を迎えた。イデオロギーが後退したら、宗教と民族への回帰が生じている。さらに、底流では米国流の「金融資本主義」と「デジタル専制」(巨大化したIT企業によるデータリズム)が世界に浸透し、新しい「格差と貧困」を増幅させている。世界はこれらを制御する「新しいルール」を見いだせないまま、それぞれの自己主張に立ち尽くしている。だが、世界を動いて感じるのは新たな地平も見え始めている。「ネオ・リベラリズム」とでもいおうか、国家主義でも階級主義でも人種主義でもなく、国境を超えた新たなルールを模索する議論が芽生え始めている。こうした問題意識を開花させるエンジンは「歴史の鏡を磨く」ことからしか生まれないのである。私も「持続する志」を持って、この課題に挑戦したい。 </span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年7月号 脳力のレッスン195 ビッグ・ヒストリーにおける人類史―一七世紀オランダからの視界(その49) 2019-03-13T01:47:44+09:00 2019-03-13T01:47:44+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1485-nouriki-2018-7.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 社会科学が社会科学として自己完結できる時代ではない。とくに、歴史に関する認識は二一世紀に入っての宇宙科学、生命科学、人類学などの進化によって、従来の議論の前提が突き崩されているともいえ、新しい研究成果の吸収が不可欠である。<br /> この「一七世紀オランダからの視界」という連載を通じて、近代なるものを問い続けてきた。「資本主義」「デモクラシー」「科学技術」が近代を凝縮した要素であるとすれば、その揺籃期としての一七世紀オランダを注視し、大航海を経て「長崎の出島」に訪れていたオランダ東インド会社と向き合った江戸期日本を探求し、さらにオランダを取り巻く近世から近代へと動く欧州の地政学、そしてユーラシア大陸全域の時代状況を掘り下げ、視界を広げてきた。この世界認識の再構築とでもいうべき試みの収斂に向けて、大きく深呼吸し、より広く深い視界からの考察を加えておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ビッグ・ヒストリーという刺激</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 「ビッグ・ヒストリー」という視界がある。その集約とも思える作品がウォルター・アルバレスの「ありえない一三八億年史」(光文社、2018年、原題“A BIG HISTORY OF OUR PLANET AND OURSELVES”、2017)である。一三八億年前の宇宙誕生から、三八億年前の生命誕生、そして八00万年前の人類誕生という「宇宙―生命―人類」とつながる途方もない時間の中で、歴史を再認識しようという視座であり、「全体知の中で考える」という意味で重要である。<br />この本の著者、アルバレスは恐竜絶滅の謎を六六〇〇万年前の「隕石衝突」によって解明した地球科学者であるが、地球と生命の歴史を探究してきた専門家の視界に「人間という種の特徴」に対する問題意識が芽生え、結局、人間が産み出したものを「言語、火、道具」に凝縮して考察しているのが印象深い。また、歴史における「連続と偶然」へと思考が向かい、とくに「偶然」が歴史の転換をもたらしたことを重視している。<br /> また、ビッグ・ヒストリーの教科書ともいえる大冊がデヴィッド・クリスチャン他の著作「ビッグ・ヒストリー」(明石書店、2016年、原題“BIG HISTORY:BETWEEN NOTHING AND EVERYTHING”、2014)である。「国際ビッグ・ヒストリー学会」が設立され、ビル・ゲイツなどの支援を受けた研究プロジェクトの成果ともいえる作品であり、この本を貫くキーワードが「スレッシェルド」(THRESHOLD)である。「大転換」とでも訳されるべき言葉で、超長期の歴史の節目に起こる「パラダイム転換」をこの言葉に凝縮しており、「①ビッグバンと宇宙誕生」「②銀河と恒星の起源」「③化学元素の生成」「④太陽系、地球の誕生」「⑤生命の誕生」「⑥人類誕生と旧石器時代」「⑦農耕時代」「⑧モダニティー(現代性)への転換」という八回の「大転換」が起こったとの認識を示している。我々が生きる「モダニティー」(近現代)なる約四〇〇年が「瞬き」にも近い短い時間であることに幻惑を覚える。<br /> 本年五月、ロンドンの書店で、イアン・クロフトン他著の“THE LITTLE BOOK OF BIG HISTORY―――THE STORY OF LIFE、THE UNIVERSE AND EVERYTHING”(2016年)という分厚い新書本サイズの本を見つけた。ビッグ・ヒストリーのコンパクト版で、科学史研究家のクロフトンが高校生向けに「宇宙、生命、人類、文明、近現代」を貫く視界を語るものである。つまり、ビッグ・ヒストリー的思考が既に教養教育の基盤になってきていることを示す素材である。「文理融合」といわれるが、そのカリキュラムの支柱はビッグ・ヒストリーであろう。また、白尾元理・写真、清川昌一・解説の「地球全史――写真が語る四六億年の奇跡」(岩波書店、2012年)は地球科学の立場で、太陽系と地球が微粒子の濃集によって誕生してからの人類の誕生と進化の痕跡を追った写真・解説集であり、ビッグ・ヒストリーへの想像力を掻き立てられる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ヒトゲノム解読の衝撃</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> ビッグ・ヒストリーというアプローチが説得力をもつ背景には、二一世紀に入っての生命科学の驚くほどの進歩がある。社会科学の世界における歴史学であったが、科学技術が歴史の闇に強烈な光を投げかけてきており、我々は世界認識の根本を組み立て直さねばならないほどの突き上げを受けている。二〇〇三年には、米国立ヒトゲノム研究所における「人類の起源解明プロジェクト」によってヒトゲノムの解読が終わり、驚くべきことが分った。ヒトとチンパンジーのDNAの差は、約二・三万の遺伝子の内、わずかに一・二%、しかも「個体差」を調整すると一・〇六%にすぎないというのである。<br /> ビッグ・ヒストリー的視界に学ぶべきことは、モダニティー(近現代性)の相対化にあると思う。つまり、思い切り長い時間軸の中で、我々が当然だと思い込んできた価値とか認識を再考せざるをえないことにあると言えよう。我々は「人間中心主義」の近現代を生きてきた。人間の個の価値を解放する志向を強める中で、いつしか人間があらゆる生物に優越するという認識を深めた。誰もが「人間はサルよりは優れている」と考えがちだが、本質的に動物としての差は少なく、京都大学の松沢哲郎研究室のチンパンジー研究報告が検証しているごとく、チンパンジーが野生の中で身に着けた「食欲・生存欲求に結び付く写実的記憶力」(ジャングルで木の実を瞬時に画像認識し、突進する能力)は人間より高いのではないかとさえいわれている。一・〇六%の差とは、言語に影響を与える遺伝子(FOXP2)の発見により、「言語・意思疎通に関わる能力」らしいことが検証されつつある。人間が人間である理由は、言葉で知識を伝え、学んだことを記録・記憶し世代を超えて伝承しうることである。<br />T・ズーデンドルフの「現実を生きるサル、空想を語るヒト」(白揚社、2015年、原題“THE GAP”、2013年)は「ヒトは生きる意味と歴史(過去・未来)を問い掛ける存在」と指摘する。確かに、人間は「社会性」の中で自らの存在の意味を問い続ける「情報食動物」といえる。大型類人猿はオランウータン、ゴリラ、チンパンジーの三種だが、脳の容量は三〇〇~四〇〇グラム、ヒトの脳は一・二五~一・五キログラムという。ヒトは直立歩行によって「道具を使う手」を獲得し、脳を発達させたとされる。一九七三年にエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた化石人骨は約三二〇万年前のもので、直立歩行をしていた痕跡を残すが、脳の容量はチンパンジー並みであった。約五00~四00万年前にヒトがチンパンジーから分離して猿人が登場したとされるが、ヒトの染色体は四六本、チンパンジーの染色体は四八本で、「非コード領域における突然変異」がもたらしたのだとされる。フランク・ウィルソンの「手の五〇〇万年史」(新評論、2005年、原著1998年)が「手と脳と言語の結びつき」を指摘するごとく、「二足歩行と器用な指先」によって、森から草原へと出て「雑食」で生きる「環境適応力」を手に入れたことが人類の進化の原点と思われる。「人間は天から降りた天使と思いたがるが、実は木から落ちたサルにすぎない」というジョークもあるが、木から降りて直立することが重要だったのである。<br /> そして、約二〇万年前、我々の先祖であるホモ・サピエンス、新人がアフリカに登場する。今日では、アフリカ単一起源説が検証されたが、アフリカ南東部の大地溝帯によって大量の雨が降り、巨大な森が形成され、それが生命の温床になったためと言われる。我々人類の起源はアフリカなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">高齢化社会への前向きの認識―――高齢化は社会的コスト増ではない</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会に関する従来の議論、ジェロントロジーを「老年学」と訳してきた視界では、高齢化を社会的コストの増大と捉え、その負担の在り方についての議論に傾斜しがちとなる。ジェロントロジーに関する書物をみても、その三分の二以上の内容は、医療、年金、介護に割かれている。確かに、「二〇一五年度の日本の医療費約四二・四兆円の五九%が六五歳以上の高齢者によるもので、七〇歳以上で四八%」「六五歳以上の一人当たり医療費は六五歳未満の四倍」という資料をみれば、高齢者による医療負担の増大、さらに介護費用の増大が今後の大問題であることは否定できない。だが、高齢化を社会的コスト増とするだけでは、異次元高齢化社会を明るい未来と構想することは不可能である。社会を支える側に高齢者を参画させるパラダイム転換が必要なのである。<br />ところで、「高齢化」を論ずる時、思い出すのがサムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩である。「 青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう・・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる・・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春・・・」という詩は、多くの老人の心を駆り立ててきた。前向きに生きる高齢者の永遠の応援歌といえるであろう。<br />また、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)は「人は成熟するにつれて若くなる」(V・ミヒェルス、岡田朝雄訳、草思社、1995)において、「老いてゆく中で」という次のような詩を書いている。「 若さを保つことや善をなすことはやさしい  すべての卑劣なことから遠ざかっていることも  だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと  それは学ばれなくてはならない  それができる人は老いてはいない  彼はなお明るく燃える炎の中に立ち  その拳の力で世界の両極を曲げて  折り重ねることができる・・・・」<br />年齢を超えて、積極的に生きる力を求める者にとって、ウルマンやヘッセの詩は心に響く。だが、個人の「心構え」だけで高齢化社会を論ずることもできない。我々は、最新の脳科学、生命科学をはじめ、医学・医療の進化を注目しなければならない。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞の脳神経学者R・L・モンタルチーニの「老後も進化する脳」(朝日新聞出版、2009年)は、脳科学の最新の成果として、人間の精神活動は「老年期」に新しい能力を発揮しうることに言及している。確かに、記憶力や創造力に関わる機能は「老化」によって劣化するかもしれないが、積み上げた体験から事態の本質を捉え、体系的に対応を考える「思慮深さ」は、高齢者の能力が評価されるべき分野といえる。<br />同様に、米国の科学ジャーナリストB・ストローチの「年をとるほど賢くなる脳の習慣」(原題“THE SECRET LIFE OF THE GROWN― UP BRAIN”、2010、邦訳池谷裕二監修・解説、日本実業出版社、2017年)も、「脳は経年劣化しない」「運動、訓練によって脳は強くなる」ことを指摘している。私の個人的実感においても、現場体験(フィールドワーク)の蓄積と文献の読み込みが相関し、六〇歳を過ぎて以降、物事のつながりを見抜く「全体知」(INTEGRITY)が高まっているように思う。<br /> 「老化現象」があらゆる生命活動の共通の宿命である中で、とりわけヒトの老化がドラマティックな様相を呈する理由について、モンタルチーニは、「第一にヒトの寿命が長いこと、第二に、損耗による器官の衰えが肉体の各所で表面化しやすいことに加え、第三の理由として、社会が高齢者を疎外すること」を挙げている。この第三の理由の「疎外」を考えるならば、これまでの社会がこれほどの高齢化を想定していなかったために、社会システムに高齢者を参画させる基盤がなかったことによって不適合が生じているといえる。一〇〇歳人生を想定した社会モデルなど存在しなかったのである。<br /> 「疎外された存在」は必ず社会変革の起爆剤となる。今、日本の高齢化社会の中核になりつつある世代は戦後日本の社会構造変化を投影した存在であることを認識しなければならない。そうした高齢者を健全な社会的参画者として機能させるのが、日本のジェロントロジーの課題といえる。<br />ところで、ジェロントジーへの新たな視角として、美容界に足跡を残した山野愛子氏の長男で山野学苑を率いる山野正義氏が「美齢学」(美しく歳をとる)という主張を掲げていることに注目したい。美とはいうまでもなく、表面的な美だけではなく、精神の美でもある。美容と福祉の融合を目指す山野氏が「九〇歳を過ぎて介護状態にあった女性が、ネールアートと髪を整えることでオシメが取れた」と語る言葉は、高齢化の本質の一面を炙り出している。「美しさ」を意識することが高齢化社会の質を決めると思われるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">人類のグレート・ジャーニーへの新たな発見</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> そのホモ・サピエンスのアフリカ大陸からユーラシア大陸への移動が始まったのが約六万年前とされる。地球の最終氷期の最盛期が一・二万年前とされるから、寒冷期にユーラシアへの旅に出たことになる。ここから、ユーラシア全域、そしてアメリカ大陸へと地球全域に「移動」と「分散」を続けたのである。正に「グレート・ジャーニー」であった。その意味で、人類は本来的に「グローバル」な存在であった。<br /> 現生人類がアフリカを単一起源とすることが検証される中で、人類史の専門家から「我々はすべてアフリカ人だ」という表現が聞かれるようになったが、本質に迫る認識である。<br />「グレート・ジャーニー」という言葉は英国の考古学者ブライアン・M・フェイガンが使い始めたものであるが、日本の国立科学博物館も二〇一三年春に「グレート・ジャーニー ―――人類の旅」という特別展を行い、人類の足跡を追っていた。足跡を探る方法が遺伝子情報の解析であり、世代を超えて組み替えることのできない二つのDNA、母方からのミトコンドリアDNAと男性だけが持つY染色体情報のつながりから種相互の関係性を検証するのである。<br />最近の研究では、人類の出アフリカは少なくとも二度起こったとされる。第一期は一八〇万年前に登場したホモ・エルガステルによる移動で、約一七〇万年前に始まった。ヨーロッパに入った系統がネアンデルタール人へと進化したという。第二期の出アフリカとして六万年前に始まったホモ・サピエンスのユーラシアへの移動だが、そのルートについて興味深い事実が検証されている。これまでの常識的な見方はサハラ砂漠を超えて、陸続きのシナイ半島からパレスチナへという経路であったが、もう一つのルート、現在のエチオピアからアラビア半島の南東端経由、アデン湾沿いに北行、ホルムズ海峡を超えて今日のイラン方面に動くルートもあったという。地球寒冷期で海水面が現在より九〇メートル後退していたと想定され、移動可能だったという。<br /> 二〇一〇年にネアンデルタール人のゲノム配列が解析されたことにより、ホモ・サピエンスの子孫たる我々のDNAにも約二%、ネアンデルタール人のDNAが混在していることが証明された。つまり、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と交配したのである。これまでのホモ・サピエンスによるネアンデルタール人の駆逐説を覆す衝撃であった。<br />二〇一八年五月一二日に放映したNHKスペシャル「人類誕生」は、この数年間の人類の足跡化石の発掘調査を取材した興味深い映像であり、「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が近接して共存していたパレスチナでの遺跡」の紹介をはじめ、何故、ホモ・サピエンスが生き延び、ネアンデルタール人が絶滅したのかを考察する上で示唆的であった。脳の容量ではネアンデルタール人の方がむしろ大きかったにもかかわらず、結局、ホモ・サピエンスが生き延びた理由として、「集団性」が指摘され、ネアンデルタール人が家族などの小集団で生活していたのに対して、ホモ・サピエンスは大集団で動いており、生き延びる知恵が集積されたという見方が紹介されていた。<br />欧州各地の洞窟に、芸術性さえ感じさせる「動物絵」を残しているネアンデルタール人であるが、「コミュニティー」の先行モデルとでもいうべき「集団性」において、ホモ・サピエンスの環境適応力には敵わなかったと言えるのであろう。このグレート・ジャーニー、「移動」が人類を進化させたことは間違いない。環境適応生物として進化したのである。寒い北方に移動した人類はトナカイ、セイウチ、鮭を食べて生き延びる知恵を身に着けていった。進化のカギは環境変化に向き合い「驚きを覚え、克服する力」だった。<br />ユーラシアを移動したホモ・サピエンスが「定住」を始めたのが約一万年前頃だったという。「定住」は農耕文明の始まりを意味し、そこから、地域史が始まった。こうした過程を視界に入れる時、「命のつながり」について想像力を掻き立てられる。どんな人にも父母がいて、その父母にもそれぞれ父母がいることを考えていけば、わずか一〇世代前(約二五〇年前にすぎない)の二〇四六人の血が自分に繋がっていることに気付く。二〇世代前からだと実に二〇九・七万人の血が繋がっていることになり、アダム・ラザフォードが語る「我々は、エジプト国王の子孫であり、孔子の子孫である」(「ゲノムが語る人類全史」、文藝春秋社、2017年)という言葉が誇張ではないことを知る。<br />ホモ・サピエンスがユーラシア大陸から日本列島に到達したのは三・六万年前とされる。日本列島は、一九〇〇~一六〇〇万年前に太平洋プレートの沈み込みによる地殻変動によって大陸から分離されたといわれるが、約二万年前まで、地球寒冷期の日本列島(ヤポネシア)の海岸線はユーラシア大陸と陸続きといえるほど近接しており、三・六万年前にホモ・サピエンスが到達した頃には大陸と繋がっていたという。<br /> 近年、国立遺伝学研究所などによる日本人のDNA解析により、日本人のルーツも科学的に検証され始めている。グレート・ジャーニーに思いを馳せる時、「純粋日本人などはいない」という認識が深まってくる。これは我々の世界観の根底に置くべき認識である。</span></span></p> <p> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 社会科学が社会科学として自己完結できる時代ではない。とくに、歴史に関する認識は二一世紀に入っての宇宙科学、生命科学、人類学などの進化によって、従来の議論の前提が突き崩されているともいえ、新しい研究成果の吸収が不可欠である。<br /> この「一七世紀オランダからの視界」という連載を通じて、近代なるものを問い続けてきた。「資本主義」「デモクラシー」「科学技術」が近代を凝縮した要素であるとすれば、その揺籃期としての一七世紀オランダを注視し、大航海を経て「長崎の出島」に訪れていたオランダ東インド会社と向き合った江戸期日本を探求し、さらにオランダを取り巻く近世から近代へと動く欧州の地政学、そしてユーラシア大陸全域の時代状況を掘り下げ、視界を広げてきた。この世界認識の再構築とでもいうべき試みの収斂に向けて、大きく深呼吸し、より広く深い視界からの考察を加えておきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ビッグ・ヒストリーという刺激</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 「ビッグ・ヒストリー」という視界がある。その集約とも思える作品がウォルター・アルバレスの「ありえない一三八億年史」(光文社、2018年、原題“A BIG HISTORY OF OUR PLANET AND OURSELVES”、2017)である。一三八億年前の宇宙誕生から、三八億年前の生命誕生、そして八00万年前の人類誕生という「宇宙―生命―人類」とつながる途方もない時間の中で、歴史を再認識しようという視座であり、「全体知の中で考える」という意味で重要である。<br />この本の著者、アルバレスは恐竜絶滅の謎を六六〇〇万年前の「隕石衝突」によって解明した地球科学者であるが、地球と生命の歴史を探究してきた専門家の視界に「人間という種の特徴」に対する問題意識が芽生え、結局、人間が産み出したものを「言語、火、道具」に凝縮して考察しているのが印象深い。また、歴史における「連続と偶然」へと思考が向かい、とくに「偶然」が歴史の転換をもたらしたことを重視している。<br /> また、ビッグ・ヒストリーの教科書ともいえる大冊がデヴィッド・クリスチャン他の著作「ビッグ・ヒストリー」(明石書店、2016年、原題“BIG HISTORY:BETWEEN NOTHING AND EVERYTHING”、2014)である。「国際ビッグ・ヒストリー学会」が設立され、ビル・ゲイツなどの支援を受けた研究プロジェクトの成果ともいえる作品であり、この本を貫くキーワードが「スレッシェルド」(THRESHOLD)である。「大転換」とでも訳されるべき言葉で、超長期の歴史の節目に起こる「パラダイム転換」をこの言葉に凝縮しており、「①ビッグバンと宇宙誕生」「②銀河と恒星の起源」「③化学元素の生成」「④太陽系、地球の誕生」「⑤生命の誕生」「⑥人類誕生と旧石器時代」「⑦農耕時代」「⑧モダニティー(現代性)への転換」という八回の「大転換」が起こったとの認識を示している。我々が生きる「モダニティー」(近現代)なる約四〇〇年が「瞬き」にも近い短い時間であることに幻惑を覚える。<br /> 本年五月、ロンドンの書店で、イアン・クロフトン他著の“THE LITTLE BOOK OF BIG HISTORY―――THE STORY OF LIFE、THE UNIVERSE AND EVERYTHING”(2016年)という分厚い新書本サイズの本を見つけた。ビッグ・ヒストリーのコンパクト版で、科学史研究家のクロフトンが高校生向けに「宇宙、生命、人類、文明、近現代」を貫く視界を語るものである。つまり、ビッグ・ヒストリー的思考が既に教養教育の基盤になってきていることを示す素材である。「文理融合」といわれるが、そのカリキュラムの支柱はビッグ・ヒストリーであろう。また、白尾元理・写真、清川昌一・解説の「地球全史――写真が語る四六億年の奇跡」(岩波書店、2012年)は地球科学の立場で、太陽系と地球が微粒子の濃集によって誕生してからの人類の誕生と進化の痕跡を追った写真・解説集であり、ビッグ・ヒストリーへの想像力を掻き立てられる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"> </span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ヒトゲノム解読の衝撃</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> ビッグ・ヒストリーというアプローチが説得力をもつ背景には、二一世紀に入っての生命科学の驚くほどの進歩がある。社会科学の世界における歴史学であったが、科学技術が歴史の闇に強烈な光を投げかけてきており、我々は世界認識の根本を組み立て直さねばならないほどの突き上げを受けている。二〇〇三年には、米国立ヒトゲノム研究所における「人類の起源解明プロジェクト」によってヒトゲノムの解読が終わり、驚くべきことが分った。ヒトとチンパンジーのDNAの差は、約二・三万の遺伝子の内、わずかに一・二%、しかも「個体差」を調整すると一・〇六%にすぎないというのである。<br /> ビッグ・ヒストリー的視界に学ぶべきことは、モダニティー(近現代性)の相対化にあると思う。つまり、思い切り長い時間軸の中で、我々が当然だと思い込んできた価値とか認識を再考せざるをえないことにあると言えよう。我々は「人間中心主義」の近現代を生きてきた。人間の個の価値を解放する志向を強める中で、いつしか人間があらゆる生物に優越するという認識を深めた。誰もが「人間はサルよりは優れている」と考えがちだが、本質的に動物としての差は少なく、京都大学の松沢哲郎研究室のチンパンジー研究報告が検証しているごとく、チンパンジーが野生の中で身に着けた「食欲・生存欲求に結び付く写実的記憶力」(ジャングルで木の実を瞬時に画像認識し、突進する能力)は人間より高いのではないかとさえいわれている。一・〇六%の差とは、言語に影響を与える遺伝子(FOXP2)の発見により、「言語・意思疎通に関わる能力」らしいことが検証されつつある。人間が人間である理由は、言葉で知識を伝え、学んだことを記録・記憶し世代を超えて伝承しうることである。<br />T・ズーデンドルフの「現実を生きるサル、空想を語るヒト」(白揚社、2015年、原題“THE GAP”、2013年)は「ヒトは生きる意味と歴史(過去・未来)を問い掛ける存在」と指摘する。確かに、人間は「社会性」の中で自らの存在の意味を問い続ける「情報食動物」といえる。大型類人猿はオランウータン、ゴリラ、チンパンジーの三種だが、脳の容量は三〇〇~四〇〇グラム、ヒトの脳は一・二五~一・五キログラムという。ヒトは直立歩行によって「道具を使う手」を獲得し、脳を発達させたとされる。一九七三年にエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた化石人骨は約三二〇万年前のもので、直立歩行をしていた痕跡を残すが、脳の容量はチンパンジー並みであった。約五00~四00万年前にヒトがチンパンジーから分離して猿人が登場したとされるが、ヒトの染色体は四六本、チンパンジーの染色体は四八本で、「非コード領域における突然変異」がもたらしたのだとされる。フランク・ウィルソンの「手の五〇〇万年史」(新評論、2005年、原著1998年)が「手と脳と言語の結びつき」を指摘するごとく、「二足歩行と器用な指先」によって、森から草原へと出て「雑食」で生きる「環境適応力」を手に入れたことが人類の進化の原点と思われる。「人間は天から降りた天使と思いたがるが、実は木から落ちたサルにすぎない」というジョークもあるが、木から降りて直立することが重要だったのである。<br /> そして、約二〇万年前、我々の先祖であるホモ・サピエンス、新人がアフリカに登場する。今日では、アフリカ単一起源説が検証されたが、アフリカ南東部の大地溝帯によって大量の雨が降り、巨大な森が形成され、それが生命の温床になったためと言われる。我々人類の起源はアフリカなのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">高齢化社会への前向きの認識―――高齢化は社会的コスト増ではない</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会に関する従来の議論、ジェロントロジーを「老年学」と訳してきた視界では、高齢化を社会的コストの増大と捉え、その負担の在り方についての議論に傾斜しがちとなる。ジェロントロジーに関する書物をみても、その三分の二以上の内容は、医療、年金、介護に割かれている。確かに、「二〇一五年度の日本の医療費約四二・四兆円の五九%が六五歳以上の高齢者によるもので、七〇歳以上で四八%」「六五歳以上の一人当たり医療費は六五歳未満の四倍」という資料をみれば、高齢者による医療負担の増大、さらに介護費用の増大が今後の大問題であることは否定できない。だが、高齢化を社会的コスト増とするだけでは、異次元高齢化社会を明るい未来と構想することは不可能である。社会を支える側に高齢者を参画させるパラダイム転換が必要なのである。<br />ところで、「高齢化」を論ずる時、思い出すのがサムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩である。「 青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう・・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる・・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春・・・」という詩は、多くの老人の心を駆り立ててきた。前向きに生きる高齢者の永遠の応援歌といえるであろう。<br />また、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)は「人は成熟するにつれて若くなる」(V・ミヒェルス、岡田朝雄訳、草思社、1995)において、「老いてゆく中で」という次のような詩を書いている。「 若さを保つことや善をなすことはやさしい  すべての卑劣なことから遠ざかっていることも  だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと  それは学ばれなくてはならない  それができる人は老いてはいない  彼はなお明るく燃える炎の中に立ち  その拳の力で世界の両極を曲げて  折り重ねることができる・・・・」<br />年齢を超えて、積極的に生きる力を求める者にとって、ウルマンやヘッセの詩は心に響く。だが、個人の「心構え」だけで高齢化社会を論ずることもできない。我々は、最新の脳科学、生命科学をはじめ、医学・医療の進化を注目しなければならない。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞の脳神経学者R・L・モンタルチーニの「老後も進化する脳」(朝日新聞出版、2009年)は、脳科学の最新の成果として、人間の精神活動は「老年期」に新しい能力を発揮しうることに言及している。確かに、記憶力や創造力に関わる機能は「老化」によって劣化するかもしれないが、積み上げた体験から事態の本質を捉え、体系的に対応を考える「思慮深さ」は、高齢者の能力が評価されるべき分野といえる。<br />同様に、米国の科学ジャーナリストB・ストローチの「年をとるほど賢くなる脳の習慣」(原題“THE SECRET LIFE OF THE GROWN― UP BRAIN”、2010、邦訳池谷裕二監修・解説、日本実業出版社、2017年)も、「脳は経年劣化しない」「運動、訓練によって脳は強くなる」ことを指摘している。私の個人的実感においても、現場体験(フィールドワーク)の蓄積と文献の読み込みが相関し、六〇歳を過ぎて以降、物事のつながりを見抜く「全体知」(INTEGRITY)が高まっているように思う。<br /> 「老化現象」があらゆる生命活動の共通の宿命である中で、とりわけヒトの老化がドラマティックな様相を呈する理由について、モンタルチーニは、「第一にヒトの寿命が長いこと、第二に、損耗による器官の衰えが肉体の各所で表面化しやすいことに加え、第三の理由として、社会が高齢者を疎外すること」を挙げている。この第三の理由の「疎外」を考えるならば、これまでの社会がこれほどの高齢化を想定していなかったために、社会システムに高齢者を参画させる基盤がなかったことによって不適合が生じているといえる。一〇〇歳人生を想定した社会モデルなど存在しなかったのである。<br /> 「疎外された存在」は必ず社会変革の起爆剤となる。今、日本の高齢化社会の中核になりつつある世代は戦後日本の社会構造変化を投影した存在であることを認識しなければならない。そうした高齢者を健全な社会的参画者として機能させるのが、日本のジェロントロジーの課題といえる。<br />ところで、ジェロントジーへの新たな視角として、美容界に足跡を残した山野愛子氏の長男で山野学苑を率いる山野正義氏が「美齢学」(美しく歳をとる)という主張を掲げていることに注目したい。美とはいうまでもなく、表面的な美だけではなく、精神の美でもある。美容と福祉の融合を目指す山野氏が「九〇歳を過ぎて介護状態にあった女性が、ネールアートと髪を整えることでオシメが取れた」と語る言葉は、高齢化の本質の一面を炙り出している。「美しさ」を意識することが高齢化社会の質を決めると思われるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">人類のグレート・ジャーニーへの新たな発見</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> そのホモ・サピエンスのアフリカ大陸からユーラシア大陸への移動が始まったのが約六万年前とされる。地球の最終氷期の最盛期が一・二万年前とされるから、寒冷期にユーラシアへの旅に出たことになる。ここから、ユーラシア全域、そしてアメリカ大陸へと地球全域に「移動」と「分散」を続けたのである。正に「グレート・ジャーニー」であった。その意味で、人類は本来的に「グローバル」な存在であった。<br /> 現生人類がアフリカを単一起源とすることが検証される中で、人類史の専門家から「我々はすべてアフリカ人だ」という表現が聞かれるようになったが、本質に迫る認識である。<br />「グレート・ジャーニー」という言葉は英国の考古学者ブライアン・M・フェイガンが使い始めたものであるが、日本の国立科学博物館も二〇一三年春に「グレート・ジャーニー ―――人類の旅」という特別展を行い、人類の足跡を追っていた。足跡を探る方法が遺伝子情報の解析であり、世代を超えて組み替えることのできない二つのDNA、母方からのミトコンドリアDNAと男性だけが持つY染色体情報のつながりから種相互の関係性を検証するのである。<br />最近の研究では、人類の出アフリカは少なくとも二度起こったとされる。第一期は一八〇万年前に登場したホモ・エルガステルによる移動で、約一七〇万年前に始まった。ヨーロッパに入った系統がネアンデルタール人へと進化したという。第二期の出アフリカとして六万年前に始まったホモ・サピエンスのユーラシアへの移動だが、そのルートについて興味深い事実が検証されている。これまでの常識的な見方はサハラ砂漠を超えて、陸続きのシナイ半島からパレスチナへという経路であったが、もう一つのルート、現在のエチオピアからアラビア半島の南東端経由、アデン湾沿いに北行、ホルムズ海峡を超えて今日のイラン方面に動くルートもあったという。地球寒冷期で海水面が現在より九〇メートル後退していたと想定され、移動可能だったという。<br /> 二〇一〇年にネアンデルタール人のゲノム配列が解析されたことにより、ホモ・サピエンスの子孫たる我々のDNAにも約二%、ネアンデルタール人のDNAが混在していることが証明された。つまり、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と交配したのである。これまでのホモ・サピエンスによるネアンデルタール人の駆逐説を覆す衝撃であった。<br />二〇一八年五月一二日に放映したNHKスペシャル「人類誕生」は、この数年間の人類の足跡化石の発掘調査を取材した興味深い映像であり、「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が近接して共存していたパレスチナでの遺跡」の紹介をはじめ、何故、ホモ・サピエンスが生き延び、ネアンデルタール人が絶滅したのかを考察する上で示唆的であった。脳の容量ではネアンデルタール人の方がむしろ大きかったにもかかわらず、結局、ホモ・サピエンスが生き延びた理由として、「集団性」が指摘され、ネアンデルタール人が家族などの小集団で生活していたのに対して、ホモ・サピエンスは大集団で動いており、生き延びる知恵が集積されたという見方が紹介されていた。<br />欧州各地の洞窟に、芸術性さえ感じさせる「動物絵」を残しているネアンデルタール人であるが、「コミュニティー」の先行モデルとでもいうべき「集団性」において、ホモ・サピエンスの環境適応力には敵わなかったと言えるのであろう。このグレート・ジャーニー、「移動」が人類を進化させたことは間違いない。環境適応生物として進化したのである。寒い北方に移動した人類はトナカイ、セイウチ、鮭を食べて生き延びる知恵を身に着けていった。進化のカギは環境変化に向き合い「驚きを覚え、克服する力」だった。<br />ユーラシアを移動したホモ・サピエンスが「定住」を始めたのが約一万年前頃だったという。「定住」は農耕文明の始まりを意味し、そこから、地域史が始まった。こうした過程を視界に入れる時、「命のつながり」について想像力を掻き立てられる。どんな人にも父母がいて、その父母にもそれぞれ父母がいることを考えていけば、わずか一〇世代前(約二五〇年前にすぎない)の二〇四六人の血が自分に繋がっていることに気付く。二〇世代前からだと実に二〇九・七万人の血が繋がっていることになり、アダム・ラザフォードが語る「我々は、エジプト国王の子孫であり、孔子の子孫である」(「ゲノムが語る人類全史」、文藝春秋社、2017年)という言葉が誇張ではないことを知る。<br />ホモ・サピエンスがユーラシア大陸から日本列島に到達したのは三・六万年前とされる。日本列島は、一九〇〇~一六〇〇万年前に太平洋プレートの沈み込みによる地殻変動によって大陸から分離されたといわれるが、約二万年前まで、地球寒冷期の日本列島(ヤポネシア)の海岸線はユーラシア大陸と陸続きといえるほど近接しており、三・六万年前にホモ・サピエンスが到達した頃には大陸と繋がっていたという。<br /> 近年、国立遺伝学研究所などによる日本人のDNA解析により、日本人のルーツも科学的に検証され始めている。グレート・ジャーニーに思いを馳せる時、「純粋日本人などはいない」という認識が深まってくる。これは我々の世界観の根底に置くべき認識である。</span></span></p> <p> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年6月号 脳力のレッスン194特別篇 ジェロントロジーの新たな地平―異次元の高齢化社会に向き合う柔らかい構想力 2019-03-12T09:28:35+09:00 2019-03-12T09:28:35+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1484-nouriki-2018-6.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">   「幸せな高齢化社会」など実現可能なのであろうか。「老いも若きも共に支える温かい高齢社会」というフレーズが、一九九五年に制定された「高齢社会対策基本法」に登場するが、高齢化社会とは、行政の「キレイゴト」に集約できるほど単純な話ではない。その後、「高齢社会対策大綱」は二度改訂され、二〇一五年には「一億総活躍社会プラン」が掲げられる中で、日本の高齢化社会の輪郭は混濁し、むしろ見えなくなったといえる。<br /> ジェロントロジー(GERONTOLOGY)という概念がある。英和辞書で引くと、「老年学」と訳され、何やら息苦しい老人社会の議論といったイメージが浮かぶが、高齢化社会を体系的に解析し、前向きに制御していく意思が伝わらない。私は、新しい社会を創造するための体系的な「社会工学」という視界が重要と考え、「高齢化社会工学」と訳すべきと考えている。人間社会総体の構造変化を視界に入れた「高齢者の社会参画」を促す構想力が問われているのだ。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">異次元の高齢化という現実を直視する</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> もう一度、日本の人口構造の変化を直視し、異次元の高齢化とは何かを確認しておく。<br />二〇一八年四月現在、日本の総人口は一・二六億とされ、二〇〇八年のピーク、一・二八<span style="font-family: MS P明朝;">億</span>人に比べ、既に約一六〇万人減少した。つまり、福岡、神戸、川崎、さいたま級の都市が一つ消えたといえるほど人口減は加速している。その中で、八〇歳以上の人口は一〇〇〇万人を超し、一〇〇歳以上人口も七万人、六五歳以上も三五〇〇万人(28.0)を超した。高齢化社会は既に現実である。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_01.jpg" alt="" width="376" height="260" /><br />「少子高齢化」は今後加速し、二〇五〇年前後には、日本の人口は一億人に迫り、百歳人口五三万人、八〇歳以上人口一六〇七万人、六五歳以上人口三八四一万人(総人口の三七・七%)という状況を迎えると予測されている。人口が一億人を超した一九六六年の六五歳以上比率はわずかに六・六%、つまり六六〇万人しか高齢者はいなかった。一億人を割ると予想される二〇五三年、四〇〇〇万人に迫る六五歳以上人口を抱えた一億人であり、意味がまるで違うのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">世界の中でも日本の高齢化は際立つ。国連の人口推計(2017年改訂版)によれば、二〇一五年の時点で、六五歳以上の人口比率で日本の二六・〇%は飛びぬけており、先進国といわれる国で日本に次いで高いのがドイツの二一・一%で、フランス一八・九%、英国一八・一%、米国は一四・六%である。ちなみに、中国は九・七%、韓国は一三・〇%にすぎない。この高齢化率、二〇五〇年の予測では、日本は三六・四%となっているが、世界的に高齢化が進行するとみられ、韓国は三五・三%、中国は二六・三%と一気に高齢化が進むとされ、ドイツ三〇・七%、フランス二六・七%、英国二五・四%、米国二二・一%になると見られている。つまり、日本の異次元の高齢化社会への対応が世界にとっても重要な先行モデルになるわけで、日本におけるジェロントロジー研究は重大なのである。とくに、急速な「産業化」による人口構造の変化をもたらしている東アジアの中国、韓国などにとって重要な示唆となるであろう。<br /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_02.png" alt="" width="207" height="269" /></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">最大の課題は都市新中間層の高齢化―――戦後日本の帰結</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 単に高齢者が増え、人口に占める高齢者比重が高まるというだけの話ではない。どういう人達が高齢者になっているのかという社会学的視座が重要なのである。とくに、日本の高齢化は戦後日本の産業構造、社会構造の変化を投影しており、そのことを視界に入れなければ、「異次元の高齢化」の意味が理解できないであろう。<br />そこで、特に戦後日本がどういう国を造ってきたのかを再確認しておきたい。敗戦後五年を経た一九五〇年(昭和25年)、六五歳以上の人口は四・九%で、戦前(一九三〇年は四・八%)と変わらなかった。そして、就業人口の四八・六%が一次産業に従事、まだ戦後の「産業化」は始まっておらず、二一・八%が二次産業、二九・七%が三次産業であった。ここから「戦後日本」は動き始めたのである。<br />一九七〇年(昭和45年)、日本の高度成長が軌道に乗った大阪万博の年においても、六五歳以上の人口比重はまだ七・一%、それほど大きな変化はなかった。しかし、就業人口構造は大きく変化し始めており、一次産業比率は一九・三%に下がり、二次産業が三四・一%に急増、三次産業は四六・六%という状況でえあった。鉄鋼、エレクトロニクス、自動車といった外貨を稼ぐ産業が動き始め、日本は「工業生産力モデル」の優等生として高度経済成長期を走っていた。<br />一九九〇年、高度成長を経て日本経済がバブルのピークだった年、六五歳以上人口は一二・一%であったが、就業人口は一次産業七・二%、二次産業三三・五%、三次産業五九・四%と、工業生産力志向が一巡して「サービス産業化」の局面に入っていた。そして二一世紀に入って「高齢化」が加速、二〇一七年には六五歳以上人口は二七・七%となり、就業人口構造も一次産業従事者はわずかに三・四%となってしまった。とくに、二一世紀に入って、三次産業就業者が拡大、一七年には七一・二%となった。とりわけ、看護・介護に従事する「医療・福祉」への就業者が急増しているほか、宅配業務を担う「運送」、ガードマンなどの「保安」関連の従事者が増加しており、就業構造は新たな局面を迎えている。<br />戦後日本は大都市圏に外貨を稼ぐ産業とそれを支える人口を集中させる形で高度成長期を走った。とくに、首都圏には東京をベルトのように取り巻く国道一六号線に沿って団地、ニュータウン、マンション群を建て、サラリーマンを住ませた。その都市新中間層が急速に高齢化しているのである。つまり、工業生産力を支えた世代が定年退職期を迎え、大量の高齢化した都市新中間層を郊外に抱える時代にはいったのである。農耕社会における高齢者とは異なる社会的特性を身に着けた高齢者が大都市圏に集積している事実は重い。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_03.png" alt="" width="326" height="226" /></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">高齢化社会への前向きの認識―――高齢化は社会的コスト増ではない</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会に関する従来の議論、ジェロントロジーを「老年学」と訳してきた視界では、高齢化を社会的コストの増大と捉え、その負担の在り方についての議論に傾斜しがちとなる。ジェロントロジーに関する書物をみても、その三分の二以上の内容は、医療、年金、介護に割かれている。確かに、「二〇一五年度の日本の医療費約四二・四兆円の五九%が六五歳以上の高齢者によるもので、七〇歳以上で四八%」「六五歳以上の一人当たり医療費は六五歳未満の四倍」という資料をみれば、高齢者による医療負担の増大、さらに介護費用の増大が今後の大問題であることは否定できない。だが、高齢化を社会的コスト増とするだけでは、異次元高齢化社会を明るい未来と構想することは不可能である。社会を支える側に高齢者を参画させるパラダイム転換が必要なのである。<br />ところで、「高齢化」を論ずる時、思い出すのがサムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩である。「 青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう・・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる・・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春・・・」という詩は、多くの老人の心を駆り立ててきた。前向きに生きる高齢者の永遠の応援歌といえるであろう。<br />また、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)は「人は成熟するにつれて若くなる」(V・ミヒェルス、岡田朝雄訳、草思社、1995)において、「老いてゆく中で」という次のような詩を書いている。「 若さを保つことや善をなすことはやさしい  すべての卑劣なことから遠ざかっていることも  だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと  それは学ばれなくてはならない  それができる人は老いてはいない  彼はなお明るく燃える炎の中に立ち  その拳の力で世界の両極を曲げて  折り重ねることができる・・・・」<br />年齢を超えて、積極的に生きる力を求める者にとって、ウルマンやヘッセの詩は心に響く。だが、個人の「心構え」だけで高齢化社会を論ずることもできない。我々は、最新の脳科学、生命科学をはじめ、医学・医療の進化を注目しなければならない。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞の脳神経学者R・L・モンタルチーニの「老後も進化する脳」(朝日新聞出版、2009年)は、脳科学の最新の成果として、人間の精神活動は「老年期」に新しい能力を発揮しうることに言及している。確かに、記憶力や創造力に関わる機能は「老化」によって劣化するかもしれないが、積み上げた体験から事態の本質を捉え、体系的に対応を考える「思慮深さ」は、高齢者の能力が評価されるべき分野といえる。<br />同様に、米国の科学ジャーナリストB・ストローチの「年をとるほど賢くなる脳の習慣」(原題“THE SECRET LIFE OF THE GROWN― UP BRAIN”、2010、邦訳池谷裕二監修・解説、日本実業出版社、2017年)も、「脳は経年劣化しない」「運動、訓練によって脳は強くなる」ことを指摘している。私の個人的実感においても、現場体験(フィールドワーク)の蓄積と文献の読み込みが相関し、六〇歳を過ぎて以降、物事のつながりを見抜く「全体知」(INTEGRITY)が高まっているように思う。<br /> 「老化現象」があらゆる生命活動の共通の宿命である中で、とりわけヒトの老化がドラマティックな様相を呈する理由について、モンタルチーニは、「第一にヒトの寿命が長いこと、第二に、損耗による器官の衰えが肉体の各所で表面化しやすいことに加え、第三の理由として、社会が高齢者を疎外すること」を挙げている。この第三の理由の「疎外」を考えるならば、これまでの社会がこれほどの高齢化を想定していなかったために、社会システムに高齢者を参画させる基盤がなかったことによって不適合が生じているといえる。一〇〇歳人生を想定した社会モデルなど存在しなかったのである。<br /> 「疎外された存在」は必ず社会変革の起爆剤となる。今、日本の高齢化社会の中核になりつつある世代は戦後日本の社会構造変化を投影した存在であることを認識しなければならない。そうした高齢者を健全な社会的参画者として機能させるのが、日本のジェロントロジーの課題といえる。<br />ところで、ジェロントジーへの新たな視角として、美容界に足跡を残した山野愛子氏の長男で山野学苑を率いる山野正義氏が「美齢学」(美しく歳をとる)という主張を掲げていることに注目したい。美とはいうまでもなく、表面的な美だけではなく、精神の美でもある。美容と福祉の融合を目指す山野氏が「九〇歳を過ぎて介護状態にあった女性が、ネールアートと髪を整えることでオシメが取れた」と語る言葉は、高齢化の本質の一面を炙り出している。「美しさ」を意識することが高齢化社会の質を決めると思われるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二一世紀・高齢化社会への構想力―――参画のプラットフォームへの知恵</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会が政治にもたらすインパクトについては、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)において問題意識を整理した。人口の四割を六五歳以上が占めるということは、若者は投票に行かない傾向が延長されれば、有効投票の六割を高齢者が占めることになり、「老人の老人による老人のための政治」という「シルバー・デモクラシーのパラドックス」が生じかねない。既に「アベノミクス」が高齢者によって支持される心理を解析した。既に、金融資産の大半は高齢者が保有していることにより、「株が上がる政策」であれば、異次元金融緩和にせよ、財政規律を無視した財政出動にせよ、高齢者が拍手を送る構図が顕在化している。本来、高齢者は思慮深くなっているはずで、社会の安定勢力として機能すべきで存在である。金融政策の歪みがもたらした「マイナス金利」が、「勤勉、貯蓄が利息を生む」という経済倫理を毀損し、金融政策主導で株価を上げることが自己目的化するという危うい構図をもたらしているのである。<br /> 敢えて言えば、いつの時代でも「老人は悪魔」であり、「老人が戦争を始め、若者が戦場に立つ」といわれてきた。だが、現代日本における世代間ギャップは質を異にする。そのことは、農業社会における社会関係が、大家族主義の中で、老人は子供に食わしてもらう関係が常態で、「老いては子に従え」という価値が機能していたことを想起すれば分る。都市郊外に集積した現在の高齢者は子供に食わせてもらうことを期待できる者などほとんどいない。現代日本の社会システムは、工業化社会を前提に作られ、その結末としての大都市郊外型の高齢化に適合できなくなっているのである。<br /> この歪みはさらにエスカレートすると思われる。二〇一八年三月に国立社会保障・人口問題研究所が発表した「地域別将来推計人口」には改めて驚かされる。二〇一五年比で二〇四五年の全国の人口が一六・三%減少すると予測される中で、東京だけがわずか〇・七%増加とされるが、秋田県の四一%減を最大に、青森、山形、高知、福島、岩手などの県で三割以上も人口が減ると予測されている。つまり、大都市圏への人口集中が進み、地方は一段と過疎化するということであり、しかも「七五歳以上の人口比重が二割を超す道府県が四三になる」という。こうした展望がなされる理由は、地方を支える産業がないからである。大震災後の東北ブロックを見ても、食べていける産業がないため「帰りたくても帰れない」のである。「大都市の大都市による大都市のための政治」になる傾向が暗示され、突き詰めれば、「大都市の老人による意思決定」が重くなるといえる。高齢化した都市新中間層がどう動くかが日本の運命を決めるのである。<br /> 日本におけるジェロントロジーの焦点は明らかである。健全な社会の参画者として大都市郊外型の高齢者を招き入れるプラットフォームを社会工学的に構想、実現することである。高齢者を生かし切る構想力が問われているのである。<br /> 前提となる考え方を確認しておきたい。まず、一五~六四歳を「生産年齢人口」とする概念の修正が必要となる。現実に一六~二二歳の六割以上は学生であり、生産に従事していない。ここでいう「生産」の意味は工業化社会を想定した生産であり、既に就業者の七割は三次産業、サービス産業に従事している。そうした就業構造を前提として、「生産」活動を柔らかく想定し、少なくとも七四歳までは生産労働人口とし社会的活動に参画させるという視界を拓くべきである。<br /> この一〇年近く、東大医科研の臨床・研究医と「保健・医療のパラダイムシフト協議会」として「病気にさせない医療」を求めて議論を重ねてきたが、我々に必要な認識は「八〇歳でも七割はほぼ健常者」という事実である。「寝たきり老人」ではないということである。ただし、六〇歳前後で定年退職した人を、二〇年以上大都市郊外のコンクリート住居空間で、社会的関係から遮断された独居老人として閉じ込めるならば、その七割は精神的に異常をきたすであろうという現実を注視しなければならない。人間は社会的関係を見失うと制御不能になるのである。<br />そこで、「定年延長」とか「生涯現役」として高齢者の就労機会を拡大することも重要であろうが、高齢者の仕事の中身を社会の安定に資するものにする努力が求められる。例えば、「食と農への高齢者の参画」という構想を提示しておきたい。戦後日本は、国際分業の中で「食べ物は海外から買ったほうが効率的だ」という国を創り、食料自給率を三八%にまで下げ、海外から七兆円(2017年)の食料を買う国になった。特に、大都市郊外の「ベッドタウン」の食料自給率はZEROで,都市新中間層のライフスタイルは「カネで食料を買い、自分は食う役割」という感覚を身に着けてきた。気が付けば、現代日本人の「食」のライフラインは、全国に五・六万店になったコンビニエンス・ストアと三五〇〇か所を超したショッピング・センターによって維持され、「食」の基盤を自ら作るという意思を見失った高齢者群を生み出したのである。<br />都市郊外型の高齢者を参画させ、都会と田舎の「交流」によって、日本の「食と農」を再生させる構想は推進に値すると思う。そのことによって、食料自給率を六〇%にすることができれば、つまり食糧輸入を七兆円から二兆円減らし、食の輸出を一兆円増やせれば、食の外部依存を軽減し、産業構造の重心を下げることに着眼したい。そんな構想にリアリティーがあるのか、疑問を抱く人も多いであろう。<br /> 現在、日本の農地は四五〇万ha、農耕放棄地四二万haとされるが、この農耕放棄地を活用し、飼料穀物や野菜、果物を栽培して輸入代替を図り自給率を上げる構想は現実性のある課題であろう。農業生産法人(株式会社農業)などによるシステムとしての農業を受け皿とし、分業としての農業、都市居住者が応分に参画しやすい農業にもっていくことは可能であろう。既に一・七万の農業生産法人が動いているが、都会と田舎の「移動と交流」による呼応関係によって新しい食と農の仕組みが柔らかく構築され、食のパラダイムが変わるのであれば、意味のあることだと思う。歴史のネジを巻き戻して、「脱・工業化時代」の社会形成が求められている。<br />地球的規模での人口増は加速している。二〇一七年に七五億を超した世界人口は、二〇五〇年には九〇億を超すと予想される。食と農は重要であり、日本として食を安定させる試みは不可欠である。都市郊外型の高齢者を食と農のプロジェクトに参画させる知恵が求められる。もちろん、高齢者が参画すべきテーマは食と農だけではない。エネルギー、教育、子育てなど社会を安定させる分野での参画と貢献が期待され、そのプラットフォームの形成が課題となる。壮年期の仕事が「カセギ」(経済生活のための活動)のためだとすれば、高齢者の仕事は「ツトメ」(社会的貢献)のためのものへと昇華すべきである。ジェロントロジーはその仕組みを構想、実現する社会工学でなければならない。<br />時代は「高度情報化社会」というべきデジタル・エコノミーへと向かっている。AI(人工知能)、ビッグデータ、I0Tが社会生活を突き動かす時代を生きる人間として、高齢化社会の社会システムを柔らかく描き出すことに立ち向かわねばならない。少子高齢化を「縮小均衡」にしないため、日本の実験が、世界の先行モデルとなる構想に挑戦したい。</span></span></p> <p> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">   「幸せな高齢化社会」など実現可能なのであろうか。「老いも若きも共に支える温かい高齢社会」というフレーズが、一九九五年に制定された「高齢社会対策基本法」に登場するが、高齢化社会とは、行政の「キレイゴト」に集約できるほど単純な話ではない。その後、「高齢社会対策大綱」は二度改訂され、二〇一五年には「一億総活躍社会プラン」が掲げられる中で、日本の高齢化社会の輪郭は混濁し、むしろ見えなくなったといえる。<br /> ジェロントロジー(GERONTOLOGY)という概念がある。英和辞書で引くと、「老年学」と訳され、何やら息苦しい老人社会の議論といったイメージが浮かぶが、高齢化社会を体系的に解析し、前向きに制御していく意思が伝わらない。私は、新しい社会を創造するための体系的な「社会工学」という視界が重要と考え、「高齢化社会工学」と訳すべきと考えている。人間社会総体の構造変化を視界に入れた「高齢者の社会参画」を促す構想力が問われているのだ。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">異次元の高齢化という現実を直視する</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> もう一度、日本の人口構造の変化を直視し、異次元の高齢化とは何かを確認しておく。<br />二〇一八年四月現在、日本の総人口は一・二六億とされ、二〇〇八年のピーク、一・二八<span style="font-family: MS P明朝;">億</span>人に比べ、既に約一六〇万人減少した。つまり、福岡、神戸、川崎、さいたま級の都市が一つ消えたといえるほど人口減は加速している。その中で、八〇歳以上の人口は一〇〇〇万人を超し、一〇〇歳以上人口も七万人、六五歳以上も三五〇〇万人(28.0)を超した。高齢化社会は既に現実である。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_01.jpg" alt="" width="376" height="260" /><br />「少子高齢化」は今後加速し、二〇五〇年前後には、日本の人口は一億人に迫り、百歳人口五三万人、八〇歳以上人口一六〇七万人、六五歳以上人口三八四一万人(総人口の三七・七%)という状況を迎えると予測されている。人口が一億人を超した一九六六年の六五歳以上比率はわずかに六・六%、つまり六六〇万人しか高齢者はいなかった。一億人を割ると予想される二〇五三年、四〇〇〇万人に迫る六五歳以上人口を抱えた一億人であり、意味がまるで違うのである。</span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">世界の中でも日本の高齢化は際立つ。国連の人口推計(2017年改訂版)によれば、二〇一五年の時点で、六五歳以上の人口比率で日本の二六・〇%は飛びぬけており、先進国といわれる国で日本に次いで高いのがドイツの二一・一%で、フランス一八・九%、英国一八・一%、米国は一四・六%である。ちなみに、中国は九・七%、韓国は一三・〇%にすぎない。この高齢化率、二〇五〇年の予測では、日本は三六・四%となっているが、世界的に高齢化が進行するとみられ、韓国は三五・三%、中国は二六・三%と一気に高齢化が進むとされ、ドイツ三〇・七%、フランス二六・七%、英国二五・四%、米国二二・一%になると見られている。つまり、日本の異次元の高齢化社会への対応が世界にとっても重要な先行モデルになるわけで、日本におけるジェロントロジー研究は重大なのである。とくに、急速な「産業化」による人口構造の変化をもたらしている東アジアの中国、韓国などにとって重要な示唆となるであろう。<br /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;"><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_02.png" alt="" width="207" height="269" /></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">最大の課題は都市新中間層の高齢化―――戦後日本の帰結</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 単に高齢者が増え、人口に占める高齢者比重が高まるというだけの話ではない。どういう人達が高齢者になっているのかという社会学的視座が重要なのである。とくに、日本の高齢化は戦後日本の産業構造、社会構造の変化を投影しており、そのことを視界に入れなければ、「異次元の高齢化」の意味が理解できないであろう。<br />そこで、特に戦後日本がどういう国を造ってきたのかを再確認しておきたい。敗戦後五年を経た一九五〇年(昭和25年)、六五歳以上の人口は四・九%で、戦前(一九三〇年は四・八%)と変わらなかった。そして、就業人口の四八・六%が一次産業に従事、まだ戦後の「産業化」は始まっておらず、二一・八%が二次産業、二九・七%が三次産業であった。ここから「戦後日本」は動き始めたのである。<br />一九七〇年(昭和45年)、日本の高度成長が軌道に乗った大阪万博の年においても、六五歳以上の人口比重はまだ七・一%、それほど大きな変化はなかった。しかし、就業人口構造は大きく変化し始めており、一次産業比率は一九・三%に下がり、二次産業が三四・一%に急増、三次産業は四六・六%という状況でえあった。鉄鋼、エレクトロニクス、自動車といった外貨を稼ぐ産業が動き始め、日本は「工業生産力モデル」の優等生として高度経済成長期を走っていた。<br />一九九〇年、高度成長を経て日本経済がバブルのピークだった年、六五歳以上人口は一二・一%であったが、就業人口は一次産業七・二%、二次産業三三・五%、三次産業五九・四%と、工業生産力志向が一巡して「サービス産業化」の局面に入っていた。そして二一世紀に入って「高齢化」が加速、二〇一七年には六五歳以上人口は二七・七%となり、就業人口構造も一次産業従事者はわずかに三・四%となってしまった。とくに、二一世紀に入って、三次産業就業者が拡大、一七年には七一・二%となった。とりわけ、看護・介護に従事する「医療・福祉」への就業者が急増しているほか、宅配業務を担う「運送」、ガードマンなどの「保安」関連の従事者が増加しており、就業構造は新たな局面を迎えている。<br />戦後日本は大都市圏に外貨を稼ぐ産業とそれを支える人口を集中させる形で高度成長期を走った。とくに、首都圏には東京をベルトのように取り巻く国道一六号線に沿って団地、ニュータウン、マンション群を建て、サラリーマンを住ませた。その都市新中間層が急速に高齢化しているのである。つまり、工業生産力を支えた世代が定年退職期を迎え、大量の高齢化した都市新中間層を郊外に抱える時代にはいったのである。農耕社会における高齢者とは異なる社会的特性を身に着けた高齢者が大都市圏に集積している事実は重い。<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/194_03.png" alt="" width="326" height="226" /></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">高齢化社会への前向きの認識―――高齢化は社会的コスト増ではない</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会に関する従来の議論、ジェロントロジーを「老年学」と訳してきた視界では、高齢化を社会的コストの増大と捉え、その負担の在り方についての議論に傾斜しがちとなる。ジェロントロジーに関する書物をみても、その三分の二以上の内容は、医療、年金、介護に割かれている。確かに、「二〇一五年度の日本の医療費約四二・四兆円の五九%が六五歳以上の高齢者によるもので、七〇歳以上で四八%」「六五歳以上の一人当たり医療費は六五歳未満の四倍」という資料をみれば、高齢者による医療負担の増大、さらに介護費用の増大が今後の大問題であることは否定できない。だが、高齢化を社会的コスト増とするだけでは、異次元高齢化社会を明るい未来と構想することは不可能である。社会を支える側に高齢者を参画させるパラダイム転換が必要なのである。<br />ところで、「高齢化」を論ずる時、思い出すのがサムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩である。「 青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう・・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる・・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春・・・」という詩は、多くの老人の心を駆り立ててきた。前向きに生きる高齢者の永遠の応援歌といえるであろう。<br />また、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)は「人は成熟するにつれて若くなる」(V・ミヒェルス、岡田朝雄訳、草思社、1995)において、「老いてゆく中で」という次のような詩を書いている。「 若さを保つことや善をなすことはやさしい  すべての卑劣なことから遠ざかっていることも  だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと  それは学ばれなくてはならない  それができる人は老いてはいない  彼はなお明るく燃える炎の中に立ち  その拳の力で世界の両極を曲げて  折り重ねることができる・・・・」<br />年齢を超えて、積極的に生きる力を求める者にとって、ウルマンやヘッセの詩は心に響く。だが、個人の「心構え」だけで高齢化社会を論ずることもできない。我々は、最新の脳科学、生命科学をはじめ、医学・医療の進化を注目しなければならない。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞の脳神経学者R・L・モンタルチーニの「老後も進化する脳」(朝日新聞出版、2009年)は、脳科学の最新の成果として、人間の精神活動は「老年期」に新しい能力を発揮しうることに言及している。確かに、記憶力や創造力に関わる機能は「老化」によって劣化するかもしれないが、積み上げた体験から事態の本質を捉え、体系的に対応を考える「思慮深さ」は、高齢者の能力が評価されるべき分野といえる。<br />同様に、米国の科学ジャーナリストB・ストローチの「年をとるほど賢くなる脳の習慣」(原題“THE SECRET LIFE OF THE GROWN― UP BRAIN”、2010、邦訳池谷裕二監修・解説、日本実業出版社、2017年)も、「脳は経年劣化しない」「運動、訓練によって脳は強くなる」ことを指摘している。私の個人的実感においても、現場体験(フィールドワーク)の蓄積と文献の読み込みが相関し、六〇歳を過ぎて以降、物事のつながりを見抜く「全体知」(INTEGRITY)が高まっているように思う。<br /> 「老化現象」があらゆる生命活動の共通の宿命である中で、とりわけヒトの老化がドラマティックな様相を呈する理由について、モンタルチーニは、「第一にヒトの寿命が長いこと、第二に、損耗による器官の衰えが肉体の各所で表面化しやすいことに加え、第三の理由として、社会が高齢者を疎外すること」を挙げている。この第三の理由の「疎外」を考えるならば、これまでの社会がこれほどの高齢化を想定していなかったために、社会システムに高齢者を参画させる基盤がなかったことによって不適合が生じているといえる。一〇〇歳人生を想定した社会モデルなど存在しなかったのである。<br /> 「疎外された存在」は必ず社会変革の起爆剤となる。今、日本の高齢化社会の中核になりつつある世代は戦後日本の社会構造変化を投影した存在であることを認識しなければならない。そうした高齢者を健全な社会的参画者として機能させるのが、日本のジェロントロジーの課題といえる。<br />ところで、ジェロントジーへの新たな視角として、美容界に足跡を残した山野愛子氏の長男で山野学苑を率いる山野正義氏が「美齢学」(美しく歳をとる)という主張を掲げていることに注目したい。美とはいうまでもなく、表面的な美だけではなく、精神の美でもある。美容と福祉の融合を目指す山野氏が「九〇歳を過ぎて介護状態にあった女性が、ネールアートと髪を整えることでオシメが取れた」と語る言葉は、高齢化の本質の一面を炙り出している。「美しさ」を意識することが高齢化社会の質を決めると思われるからである。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">二一世紀・高齢化社会への構想力―――参画のプラットフォームへの知恵</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 高齢化社会が政治にもたらすインパクトについては、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)において問題意識を整理した。人口の四割を六五歳以上が占めるということは、若者は投票に行かない傾向が延長されれば、有効投票の六割を高齢者が占めることになり、「老人の老人による老人のための政治」という「シルバー・デモクラシーのパラドックス」が生じかねない。既に「アベノミクス」が高齢者によって支持される心理を解析した。既に、金融資産の大半は高齢者が保有していることにより、「株が上がる政策」であれば、異次元金融緩和にせよ、財政規律を無視した財政出動にせよ、高齢者が拍手を送る構図が顕在化している。本来、高齢者は思慮深くなっているはずで、社会の安定勢力として機能すべきで存在である。金融政策の歪みがもたらした「マイナス金利」が、「勤勉、貯蓄が利息を生む」という経済倫理を毀損し、金融政策主導で株価を上げることが自己目的化するという危うい構図をもたらしているのである。<br /> 敢えて言えば、いつの時代でも「老人は悪魔」であり、「老人が戦争を始め、若者が戦場に立つ」といわれてきた。だが、現代日本における世代間ギャップは質を異にする。そのことは、農業社会における社会関係が、大家族主義の中で、老人は子供に食わしてもらう関係が常態で、「老いては子に従え」という価値が機能していたことを想起すれば分る。都市郊外に集積した現在の高齢者は子供に食わせてもらうことを期待できる者などほとんどいない。現代日本の社会システムは、工業化社会を前提に作られ、その結末としての大都市郊外型の高齢化に適合できなくなっているのである。<br /> この歪みはさらにエスカレートすると思われる。二〇一八年三月に国立社会保障・人口問題研究所が発表した「地域別将来推計人口」には改めて驚かされる。二〇一五年比で二〇四五年の全国の人口が一六・三%減少すると予測される中で、東京だけがわずか〇・七%増加とされるが、秋田県の四一%減を最大に、青森、山形、高知、福島、岩手などの県で三割以上も人口が減ると予測されている。つまり、大都市圏への人口集中が進み、地方は一段と過疎化するということであり、しかも「七五歳以上の人口比重が二割を超す道府県が四三になる」という。こうした展望がなされる理由は、地方を支える産業がないからである。大震災後の東北ブロックを見ても、食べていける産業がないため「帰りたくても帰れない」のである。「大都市の大都市による大都市のための政治」になる傾向が暗示され、突き詰めれば、「大都市の老人による意思決定」が重くなるといえる。高齢化した都市新中間層がどう動くかが日本の運命を決めるのである。<br /> 日本におけるジェロントロジーの焦点は明らかである。健全な社会の参画者として大都市郊外型の高齢者を招き入れるプラットフォームを社会工学的に構想、実現することである。高齢者を生かし切る構想力が問われているのである。<br /> 前提となる考え方を確認しておきたい。まず、一五~六四歳を「生産年齢人口」とする概念の修正が必要となる。現実に一六~二二歳の六割以上は学生であり、生産に従事していない。ここでいう「生産」の意味は工業化社会を想定した生産であり、既に就業者の七割は三次産業、サービス産業に従事している。そうした就業構造を前提として、「生産」活動を柔らかく想定し、少なくとも七四歳までは生産労働人口とし社会的活動に参画させるという視界を拓くべきである。<br /> この一〇年近く、東大医科研の臨床・研究医と「保健・医療のパラダイムシフト協議会」として「病気にさせない医療」を求めて議論を重ねてきたが、我々に必要な認識は「八〇歳でも七割はほぼ健常者」という事実である。「寝たきり老人」ではないということである。ただし、六〇歳前後で定年退職した人を、二〇年以上大都市郊外のコンクリート住居空間で、社会的関係から遮断された独居老人として閉じ込めるならば、その七割は精神的に異常をきたすであろうという現実を注視しなければならない。人間は社会的関係を見失うと制御不能になるのである。<br />そこで、「定年延長」とか「生涯現役」として高齢者の就労機会を拡大することも重要であろうが、高齢者の仕事の中身を社会の安定に資するものにする努力が求められる。例えば、「食と農への高齢者の参画」という構想を提示しておきたい。戦後日本は、国際分業の中で「食べ物は海外から買ったほうが効率的だ」という国を創り、食料自給率を三八%にまで下げ、海外から七兆円(2017年)の食料を買う国になった。特に、大都市郊外の「ベッドタウン」の食料自給率はZEROで,都市新中間層のライフスタイルは「カネで食料を買い、自分は食う役割」という感覚を身に着けてきた。気が付けば、現代日本人の「食」のライフラインは、全国に五・六万店になったコンビニエンス・ストアと三五〇〇か所を超したショッピング・センターによって維持され、「食」の基盤を自ら作るという意思を見失った高齢者群を生み出したのである。<br />都市郊外型の高齢者を参画させ、都会と田舎の「交流」によって、日本の「食と農」を再生させる構想は推進に値すると思う。そのことによって、食料自給率を六〇%にすることができれば、つまり食糧輸入を七兆円から二兆円減らし、食の輸出を一兆円増やせれば、食の外部依存を軽減し、産業構造の重心を下げることに着眼したい。そんな構想にリアリティーがあるのか、疑問を抱く人も多いであろう。<br /> 現在、日本の農地は四五〇万ha、農耕放棄地四二万haとされるが、この農耕放棄地を活用し、飼料穀物や野菜、果物を栽培して輸入代替を図り自給率を上げる構想は現実性のある課題であろう。農業生産法人(株式会社農業)などによるシステムとしての農業を受け皿とし、分業としての農業、都市居住者が応分に参画しやすい農業にもっていくことは可能であろう。既に一・七万の農業生産法人が動いているが、都会と田舎の「移動と交流」による呼応関係によって新しい食と農の仕組みが柔らかく構築され、食のパラダイムが変わるのであれば、意味のあることだと思う。歴史のネジを巻き戻して、「脱・工業化時代」の社会形成が求められている。<br />地球的規模での人口増は加速している。二〇一七年に七五億を超した世界人口は、二〇五〇年には九〇億を超すと予想される。食と農は重要であり、日本として食を安定させる試みは不可欠である。都市郊外型の高齢者を食と農のプロジェクトに参画させる知恵が求められる。もちろん、高齢者が参画すべきテーマは食と農だけではない。エネルギー、教育、子育てなど社会を安定させる分野での参画と貢献が期待され、そのプラットフォームの形成が課題となる。壮年期の仕事が「カセギ」(経済生活のための活動)のためだとすれば、高齢者の仕事は「ツトメ」(社会的貢献)のためのものへと昇華すべきである。ジェロントロジーはその仕組みを構想、実現する社会工学でなければならない。<br />時代は「高度情報化社会」というべきデジタル・エコノミーへと向かっている。AI(人工知能)、ビッグデータ、I0Tが社会生活を突き動かす時代を生きる人間として、高齢化社会の社会システムを柔らかく描き出すことに立ち向かわねばならない。少子高齢化を「縮小均衡」にしないため、日本の実験が、世界の先行モデルとなる構想に挑戦したい。</span></span></p> <p> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年5月号 脳力のレッスン193 大中華圏とモンゴル、その世界史へのインパクト―一七世紀オランダからの視界(その48) 2019-03-12T09:20:40+09:00 2019-03-12T09:20:40+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1483-nouriki-2018-5.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  もう一度、モンゴル帝国の最大版図を注視してみよう[参照図1]。チンギス・ハンによって創建されたモンゴル帝国が、その孫バトゥの「ロシア・東欧遠征」によってポーランド、ハンガリーにまで攻め込み、キプチャク・ハン国を残し、ロシア史に「タタールの頸木」というトラウマを残した構図については既に述べた。(参照連載47)<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/193_01.jpg" alt="" width="510" height="353" /><br /> また、中央ユーラシアにチャガタイ・ハン国とイル・ハン国を展開、その版図の広大さは驚くべきものである。チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)は、一二二四年にチンギス・ハンの息子チャガタイ・ハン(察合台汗)が天山北嶺から南を所領する形で形成された。一四世紀半ばに東トルキスタンと西トルキスタンに分裂、その西トルキスタンを再編する形で謎の一代王朝たるティムール朝(1370~1507年)が台頭したが、このティムール朝もモンゴル帝国の断片であったともいえる。一六世紀のインドに登場したムガール帝国の「ムガール」もモンゴルという意味であり、その正統性の根拠はモンゴルにあった。初代皇帝バーブルの父方はティムールから五代目の直系子孫であり、母方はジンギス・ハンの末裔ということで「モンゴルの継承者」という権威付けが必要だった。モンゴルの影はインドにまで及んでいるのである。<br /> イル・ハン国(フレグ・ウルス)は「イランのモンゴル王朝」(1256~1353年)といわれるが、一二五三年にチンギス・ハンの孫モンケ・ハンの弟フラグがユーラシアの南へと遠征、バグダッドのアッバース朝を滅ぼし、イランを制圧、第七代のガザーン・ハン(在位1295~1304年)がイスラム教を採用したことで「モンゴル人のイスラム化」とされる。イラン史にもモンゴルが埋め込まれているのである。(参照連載42「オスマン帝国の後門の狼サファヴィー朝ペルシャ」)<br />つまり、一三世紀のモンゴル帝国は、大元ウルスを中核とし、西方に並立する三つのハン国との連合体であったが、オゴタイ(太宗)の孫ハイドゥが一二六九年に諸王を誘ってフビライに反攻する事態が生じて以降、元は次第に中国支配へと集中し始めていく。<br /> モンゴル研究の大家・岡田英弘は「チンギス・ハーンとその子孫―――もうひとつのモンゴル史」(2010年補訂版、ビジネス社)において「世界はモンゴル帝国の末裔である」という認識を展開しているが誇張ではない。岡田史観といわれる「世界史の誕生」(1992年、ちくまライブラリー)という視座、すなわちモンゴル帝国のユーラシアへの展開が東西世界を繋ぐ基点となったという歴史観は、西欧中心の歴史観の影響を受けてきた視点にとって刺激的であり、説得力がある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">大中華圏の原型としての大元ウルス</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 中国にモンゴルが与えたインパクトは大きかった。現存するだけで六二五九KMといわれる「万里の長城」建設という途方もない試みが、北方民族への中国の恐怖心を象徴するものであることは既に述べたが、中国はその北方民族・モンゴルに屈し、ついに中原を制圧さてしまった。「元王朝」の登場である。<br /> チンギス・ハンの孫フビライ・ハンは南宋攻略を目指して南進、一二六四年に弟アリク・ブケとの帝国分裂危機を制し、一二七一年には国号を大元とし、その初代皇帝・世祖となった。一二七六年には、南宋の首都を攻略、中国全土を支配、首都をカラコルムから大都(現北京)に遷都、中国的官制を採用、二%弱の支配階層としてのモンゴル人の下に多民族国家形成した。大中華圏へのパラダイム転換であった。モンゴル史から中国史を捉える視座として、杉山正明「疾駆する草原の征服者」(中国の歴史08、講談社、2005年)は示唆的で、「大元ウルスの出現以前、『中国』は『小さな中国』であった」という指摘は正しく、モンゴル時代に中国の枠は一気に巨大化したのである。つまり、それまでの中国王朝は漢民族を中心とする農耕民を支配する王朝であり、元朝以降、農耕民・遊牧民を支配する多民族統治王朝へと変わったのである。<br /> 日本人にとって、「遣唐使」まで派遣して、その文明・文化を崇敬した漢民族の「唐王朝」(618~907年)の領土と「元朝」の版図を比べれば、そのことは分かる。そして、今日の中華人民共和国が、「大中華圏」という視界にまで繋がる、異様に膨張した国家であることが理解できる。[参照図2]<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/193_02.jpg" alt="" width="637" height="441" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">モンゴル帝国はその巨大な版図を繋ぐ交易と交流のネットワークを形成していた。後の明の時代の「鄭和の大航海」を殊更に偉業とする見方は余りに中国中心の視界であり、「モンゴル時代以来のインド洋上ルートによる往来を踏襲した」と杉山正明は冷静である。元が陸と海の巨大な交易圏を作っていたことは確かである。<br /> フビライの栄光期を経て一四世紀に入ると、元朝は、モンゴルの復興を期待された三代カイシャンの後、歴代皇帝の無能力(モンゴル精神の衰弱)に加え、異常気象や黄河の氾濫などもあって急速に疲弊する。そこに、阿弥陀信仰から生まれた仏教系の秘密結社白蓮教の反乱が拡大、紅い頭巾を被った「紅巾の乱」によって混乱、皇帝トゴン・テルムは明軍の攻撃で一三六八年に大都を放棄した。中国史では、この時点で元朝滅亡となる。トゴン・テルムは一三七〇年に死去するのだが、北方に逃れたモンゴル族はカラコルムを拠点に「北元」を形成し、その後20年間、中国は南北朝の対立を続けた。 元の最後の皇帝トゴン・テルム(1333~1368年)は「天命に順じた」と評価され、明朝から「順帝」と加号された。いかにも中国的認識の投影といえる。漢民族にとって「元」は征服王朝であったが、征服者を漢文明・文化に取り込み「大中華圏」へとパラダイム転換する転機であった。<br /> その後の中国は漢民族支配の「明」という時代を経て、満州族支配の「清」という時代を迎えるが、その「清」も正統性(権威づけ)の根拠はモンゴルにあった。 一六三六年に満州族のヌルハチによって建国され、辛亥革命まで続いた「清朝」の正統性は、初代ヌルハチの息子のホンタイジが、「北元」を継承する形で、ダヤン・ハンの直系のリンダン・ハンから元朝の玉璽を引き継いだことにあった。<br /> ところで、現在の中国を指導する習近平国家主席は、本年三月二〇日に閉幕した第一三期の全人代で、憲法を改正してまで「国家主席の任期制限を撤廃」、長期政権への布陣を行い、就任以来掲げてきた「中華民族の歴史的復興」に近づきつつあることへの自信を見せた。現在の中国では、漢民族が人口の九二%を占めるが、残り八%は五五の少数民族から成り立つ多民族国家である。五五の少数民族の内二二が人口一〇万人以下の民族であり、「中華民族」には内モンゴルに約四〇〇万人のモンゴル人を抱えるほか、満州族、朝鮮族などもその一翼を占める存在となっている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">世界史におけるモンゴル帝国再考</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  モンゴル帝国は「異民族を束ねる」という意味で、近現代史における帝国主義国家の原型でもあった。モンゴルという時代を経て、世界は様々な帝国を生む。オスマン帝国、ロシア帝国、ムガール帝国、そして欧州にはポルトガル、スペイン、オランダ、英国という形で連鎖する海洋帝国が出現し、「大航海時代」を迎える。<br /> 我々はこの連載を通じて、「一七世紀オランダからの視界」として、資本主義、民主主義、科学技術からなる「近代」の揺籃期としてのオランダに焦点を当て、「西力東漸」の世界史の力学を確認してきた。そして、大航海時代の誘因としての「イスラム(オスマン帝国)の壁」、さらに西欧文明にとっての「イスラムの貢献」という要素を確認し、グローバル化の始まりが、「一五七一年のスペインによるマニラ建設による世界的交易システムの確立」にあるというD・フリンの見方も紹介した。(参照連載16)<br />また、「西欧によるアジア発見」という見方が必ずしも正しいものではなく、むしろ「東力西進」という視界、例えば、一五世紀の明の永楽帝が主導した七回におよぶ鄭和の大航海が大航海時代に先行したことや、人類の四大発明の起源が中国にあるという史実にも言及してきた。(参照連載43)<br />こうした「中国中心」の世界観に対して、モンゴル帝国史からの視界を照射することは「中国を相対化させる」という意味において有効である。中華文化人にとって大元ウルスは、漢文化、「科挙」などの制度の採り入れ、中華文明に同化された王朝と見做されるのだが、モンゴルの衝撃が「大きな中国」への転換をもたらした意味は重い。<br />世界史は重層的に相関している。一つの視界からだけ歴史を捉えることはできない。我々は可能な限り多角的・多次元的な視界からの歴史認識、そして我々自身が生きる時代認識をとる努力をしなければならない。そこから、「グローバル・ヒストリー」という地球を俯瞰する歴史認識が形成されるのである。<br /> そこで、モンゴルを注視してきた議論の総括として、何故ユーラシアを席巻するもどの勢いで台頭した栄光のモンゴル帝国は衰亡し、世界にその影響の残滓さえ残していないのかという点を考えてみたい。私はこれまで「大中華圏―――ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る」(NHK出版、2012年)、「ユニオンジャックの矢――大英帝国のネットワーク戦略」(NHK出版、2017年)という作品をまとめることによって、中国、そして英国という存在が、グローバルにその影響力を展開し続けている構造を分析した。世界を動いてきた私自身の体験的世界認識のレポートでもあるが、その中で浮上してくる疑問が、モンゴル帝国のグローバルな存在感の希薄さである。<br /> もちろん、大元ウルスと三つのハン国、それぞれの事情、政治統治の失敗、権力継承を巡る内紛と叛乱、さらに統治を支えた経済システムの破綻といった理由については多くの研究が進んでいる。また、近現代史においてモンゴルが、ロシア、中国という巨大な力に挟撃されてきたことも分かる。だが、私の疑問は、いかなる帝国も衰亡するという必然を理解するにせよ、何故モンゴルはかくも影響力を残していないのかという点にある。<br /> おそらく、その解答は「何故、少数民族のモンゴルがユーラシアを支配できたのか」という理由の裏返しでもあるといえる。モンゴルは支配した地域の統治に関して、実務能力重視による他民族の登用、宗教に寛容という柔らかい姿勢を示し、多様な文化への吸収力を示した。「多様性の温存」というべきか、モンゴルは宗教にも寛容であった。モンゴル統治地域においては、チベット仏教、イスラム、キリスト教(ネストリウス系、カトリック)などが共存していた。<br />対照としての大英帝国であるが、誰も「インドは大英帝国の末裔」とは言わない。だが、英語、英国法、文化など、英国のソフトパワーをかつての支配地に残しており、それは英連邦五二か国における共通性である。大英帝国は衰亡しても隠然たる影響力をネットワーク化して残しているのである。<br />さて、我々は「一七世紀オランダからの視界」として近代なるものを問い詰め、その潮流を受け止めた「江戸期の日本の知」を考察し、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国という存在まで視界に入れる試みを積み上げてきた。いよいよ、総体としての世界観を再構築する段階である。ここからはグローバル・ヒストリーの再構成を試みたい。フランクが「リ・オリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー」(藤原書店、2000年)で述べるごとく、欧州中心の世界観を脱却するのみでなく、地球史と東西の相関の中で二一世紀を生きる世界認識を模索していきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  もう一度、モンゴル帝国の最大版図を注視してみよう[参照図1]。チンギス・ハンによって創建されたモンゴル帝国が、その孫バトゥの「ロシア・東欧遠征」によってポーランド、ハンガリーにまで攻め込み、キプチャク・ハン国を残し、ロシア史に「タタールの頸木」というトラウマを残した構図については既に述べた。(参照連載47)<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/193_01.jpg" alt="" width="510" height="353" /><br /> また、中央ユーラシアにチャガタイ・ハン国とイル・ハン国を展開、その版図の広大さは驚くべきものである。チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)は、一二二四年にチンギス・ハンの息子チャガタイ・ハン(察合台汗)が天山北嶺から南を所領する形で形成された。一四世紀半ばに東トルキスタンと西トルキスタンに分裂、その西トルキスタンを再編する形で謎の一代王朝たるティムール朝(1370~1507年)が台頭したが、このティムール朝もモンゴル帝国の断片であったともいえる。一六世紀のインドに登場したムガール帝国の「ムガール」もモンゴルという意味であり、その正統性の根拠はモンゴルにあった。初代皇帝バーブルの父方はティムールから五代目の直系子孫であり、母方はジンギス・ハンの末裔ということで「モンゴルの継承者」という権威付けが必要だった。モンゴルの影はインドにまで及んでいるのである。<br /> イル・ハン国(フレグ・ウルス)は「イランのモンゴル王朝」(1256~1353年)といわれるが、一二五三年にチンギス・ハンの孫モンケ・ハンの弟フラグがユーラシアの南へと遠征、バグダッドのアッバース朝を滅ぼし、イランを制圧、第七代のガザーン・ハン(在位1295~1304年)がイスラム教を採用したことで「モンゴル人のイスラム化」とされる。イラン史にもモンゴルが埋め込まれているのである。(参照連載42「オスマン帝国の後門の狼サファヴィー朝ペルシャ」)<br />つまり、一三世紀のモンゴル帝国は、大元ウルスを中核とし、西方に並立する三つのハン国との連合体であったが、オゴタイ(太宗)の孫ハイドゥが一二六九年に諸王を誘ってフビライに反攻する事態が生じて以降、元は次第に中国支配へと集中し始めていく。<br /> モンゴル研究の大家・岡田英弘は「チンギス・ハーンとその子孫―――もうひとつのモンゴル史」(2010年補訂版、ビジネス社)において「世界はモンゴル帝国の末裔である」という認識を展開しているが誇張ではない。岡田史観といわれる「世界史の誕生」(1992年、ちくまライブラリー)という視座、すなわちモンゴル帝国のユーラシアへの展開が東西世界を繋ぐ基点となったという歴史観は、西欧中心の歴史観の影響を受けてきた視点にとって刺激的であり、説得力がある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">大中華圏の原型としての大元ウルス</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 中国にモンゴルが与えたインパクトは大きかった。現存するだけで六二五九KMといわれる「万里の長城」建設という途方もない試みが、北方民族への中国の恐怖心を象徴するものであることは既に述べたが、中国はその北方民族・モンゴルに屈し、ついに中原を制圧さてしまった。「元王朝」の登場である。<br /> チンギス・ハンの孫フビライ・ハンは南宋攻略を目指して南進、一二六四年に弟アリク・ブケとの帝国分裂危機を制し、一二七一年には国号を大元とし、その初代皇帝・世祖となった。一二七六年には、南宋の首都を攻略、中国全土を支配、首都をカラコルムから大都(現北京)に遷都、中国的官制を採用、二%弱の支配階層としてのモンゴル人の下に多民族国家形成した。大中華圏へのパラダイム転換であった。モンゴル史から中国史を捉える視座として、杉山正明「疾駆する草原の征服者」(中国の歴史08、講談社、2005年)は示唆的で、「大元ウルスの出現以前、『中国』は『小さな中国』であった」という指摘は正しく、モンゴル時代に中国の枠は一気に巨大化したのである。つまり、それまでの中国王朝は漢民族を中心とする農耕民を支配する王朝であり、元朝以降、農耕民・遊牧民を支配する多民族統治王朝へと変わったのである。<br /> 日本人にとって、「遣唐使」まで派遣して、その文明・文化を崇敬した漢民族の「唐王朝」(618~907年)の領土と「元朝」の版図を比べれば、そのことは分かる。そして、今日の中華人民共和国が、「大中華圏」という視界にまで繋がる、異様に膨張した国家であることが理解できる。[参照図2]<img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/about-terashima/193_02.jpg" alt="" width="637" height="441" /></span></span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">モンゴル帝国はその巨大な版図を繋ぐ交易と交流のネットワークを形成していた。後の明の時代の「鄭和の大航海」を殊更に偉業とする見方は余りに中国中心の視界であり、「モンゴル時代以来のインド洋上ルートによる往来を踏襲した」と杉山正明は冷静である。元が陸と海の巨大な交易圏を作っていたことは確かである。<br /> フビライの栄光期を経て一四世紀に入ると、元朝は、モンゴルの復興を期待された三代カイシャンの後、歴代皇帝の無能力(モンゴル精神の衰弱)に加え、異常気象や黄河の氾濫などもあって急速に疲弊する。そこに、阿弥陀信仰から生まれた仏教系の秘密結社白蓮教の反乱が拡大、紅い頭巾を被った「紅巾の乱」によって混乱、皇帝トゴン・テルムは明軍の攻撃で一三六八年に大都を放棄した。中国史では、この時点で元朝滅亡となる。トゴン・テルムは一三七〇年に死去するのだが、北方に逃れたモンゴル族はカラコルムを拠点に「北元」を形成し、その後20年間、中国は南北朝の対立を続けた。 元の最後の皇帝トゴン・テルム(1333~1368年)は「天命に順じた」と評価され、明朝から「順帝」と加号された。いかにも中国的認識の投影といえる。漢民族にとって「元」は征服王朝であったが、征服者を漢文明・文化に取り込み「大中華圏」へとパラダイム転換する転機であった。<br /> その後の中国は漢民族支配の「明」という時代を経て、満州族支配の「清」という時代を迎えるが、その「清」も正統性(権威づけ)の根拠はモンゴルにあった。 一六三六年に満州族のヌルハチによって建国され、辛亥革命まで続いた「清朝」の正統性は、初代ヌルハチの息子のホンタイジが、「北元」を継承する形で、ダヤン・ハンの直系のリンダン・ハンから元朝の玉璽を引き継いだことにあった。<br /> ところで、現在の中国を指導する習近平国家主席は、本年三月二〇日に閉幕した第一三期の全人代で、憲法を改正してまで「国家主席の任期制限を撤廃」、長期政権への布陣を行い、就任以来掲げてきた「中華民族の歴史的復興」に近づきつつあることへの自信を見せた。現在の中国では、漢民族が人口の九二%を占めるが、残り八%は五五の少数民族から成り立つ多民族国家である。五五の少数民族の内二二が人口一〇万人以下の民族であり、「中華民族」には内モンゴルに約四〇〇万人のモンゴル人を抱えるほか、満州族、朝鮮族などもその一翼を占める存在となっている。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">世界史におけるモンゴル帝国再考</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  モンゴル帝国は「異民族を束ねる」という意味で、近現代史における帝国主義国家の原型でもあった。モンゴルという時代を経て、世界は様々な帝国を生む。オスマン帝国、ロシア帝国、ムガール帝国、そして欧州にはポルトガル、スペイン、オランダ、英国という形で連鎖する海洋帝国が出現し、「大航海時代」を迎える。<br /> 我々はこの連載を通じて、「一七世紀オランダからの視界」として、資本主義、民主主義、科学技術からなる「近代」の揺籃期としてのオランダに焦点を当て、「西力東漸」の世界史の力学を確認してきた。そして、大航海時代の誘因としての「イスラム(オスマン帝国)の壁」、さらに西欧文明にとっての「イスラムの貢献」という要素を確認し、グローバル化の始まりが、「一五七一年のスペインによるマニラ建設による世界的交易システムの確立」にあるというD・フリンの見方も紹介した。(参照連載16)<br />また、「西欧によるアジア発見」という見方が必ずしも正しいものではなく、むしろ「東力西進」という視界、例えば、一五世紀の明の永楽帝が主導した七回におよぶ鄭和の大航海が大航海時代に先行したことや、人類の四大発明の起源が中国にあるという史実にも言及してきた。(参照連載43)<br />こうした「中国中心」の世界観に対して、モンゴル帝国史からの視界を照射することは「中国を相対化させる」という意味において有効である。中華文化人にとって大元ウルスは、漢文化、「科挙」などの制度の採り入れ、中華文明に同化された王朝と見做されるのだが、モンゴルの衝撃が「大きな中国」への転換をもたらした意味は重い。<br />世界史は重層的に相関している。一つの視界からだけ歴史を捉えることはできない。我々は可能な限り多角的・多次元的な視界からの歴史認識、そして我々自身が生きる時代認識をとる努力をしなければならない。そこから、「グローバル・ヒストリー」という地球を俯瞰する歴史認識が形成されるのである。<br /> そこで、モンゴルを注視してきた議論の総括として、何故ユーラシアを席巻するもどの勢いで台頭した栄光のモンゴル帝国は衰亡し、世界にその影響の残滓さえ残していないのかという点を考えてみたい。私はこれまで「大中華圏―――ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る」(NHK出版、2012年)、「ユニオンジャックの矢――大英帝国のネットワーク戦略」(NHK出版、2017年)という作品をまとめることによって、中国、そして英国という存在が、グローバルにその影響力を展開し続けている構造を分析した。世界を動いてきた私自身の体験的世界認識のレポートでもあるが、その中で浮上してくる疑問が、モンゴル帝国のグローバルな存在感の希薄さである。<br /> もちろん、大元ウルスと三つのハン国、それぞれの事情、政治統治の失敗、権力継承を巡る内紛と叛乱、さらに統治を支えた経済システムの破綻といった理由については多くの研究が進んでいる。また、近現代史においてモンゴルが、ロシア、中国という巨大な力に挟撃されてきたことも分かる。だが、私の疑問は、いかなる帝国も衰亡するという必然を理解するにせよ、何故モンゴルはかくも影響力を残していないのかという点にある。<br /> おそらく、その解答は「何故、少数民族のモンゴルがユーラシアを支配できたのか」という理由の裏返しでもあるといえる。モンゴルは支配した地域の統治に関して、実務能力重視による他民族の登用、宗教に寛容という柔らかい姿勢を示し、多様な文化への吸収力を示した。「多様性の温存」というべきか、モンゴルは宗教にも寛容であった。モンゴル統治地域においては、チベット仏教、イスラム、キリスト教(ネストリウス系、カトリック)などが共存していた。<br />対照としての大英帝国であるが、誰も「インドは大英帝国の末裔」とは言わない。だが、英語、英国法、文化など、英国のソフトパワーをかつての支配地に残しており、それは英連邦五二か国における共通性である。大英帝国は衰亡しても隠然たる影響力をネットワーク化して残しているのである。<br />さて、我々は「一七世紀オランダからの視界」として近代なるものを問い詰め、その潮流を受け止めた「江戸期の日本の知」を考察し、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国という存在まで視界に入れる試みを積み上げてきた。いよいよ、総体としての世界観を再構築する段階である。ここからはグローバル・ヒストリーの再構成を試みたい。フランクが「リ・オリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー」(藤原書店、2000年)で述べるごとく、欧州中心の世界観を脱却するのみでなく、地球史と東西の相関の中で二一世紀を生きる世界認識を模索していきたい。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;">  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年4月号 脳力のレッスン192特別篇 中国の強大化・強権化を正視する日本の覚悟 2019-03-12T09:11:17+09:00 2019-03-12T09:11:17+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1482-nouriki-2018-4.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 今、多くの日本人の世界認識を混濁させている最も大きな要素は、中国の強大化と強権化である。二一世紀を迎える前年、二〇〇〇年の中国のGDPは日本の四分の一にすぎなかった。そのわずか一〇年後の二〇一〇年、中国のGDPは日本を上回った。そして、今年、二〇一八年、中国のGDPは日本の三倍になると予想される。この成長のスピードに幻惑され、日本人は中国を的確に認識できないでいる。中国のGDPは、このトレンドが延長されれば、約二〇年後には日本の六倍になっていると思われる。<br /> 成長のスピードだけではない。その中身が衝撃的である。ICT革命が日本より進んでいることである。デジタル・エコノミーと言われる時代の技術特性として、誰もがどこでもネットワーク情報技術を共有しうることを利して、先端技術に「カエル跳び」でキャッチ・アップしてくる。中国から留学してきた学生が、「日本に来て、二一世紀から二〇世紀に逆戻りした感じがある」と言った。「中国では紙幣というものを使ったことがなかったが、日本ではまだお札(現金)を使っている」という意味であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">国際技能五輪という現実―――日本の現場力の劣化</span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一つの現実を直視したい。二〇一七年一〇月、UAEのアブダビで第四四回国際技能五輪大会が行われた。かつて、この技能五輪は日本の「お家芸」たる技術力を示す舞台として注目され、我々はここでの日本人の活躍を誇りに思っていた。二〇〇七年まで日本は金メダルの獲得数において一位、もしくは最上位を競う位置にいた。ところが昨年、ついに日本は九位にまで転落した。日本のメディアは何故かこの事実をほとんど報道しなかった。<br /> 日本の企業経営者にこのことを話題にすると、「もはや技能五輪の時代ではない」という反応が返ってきた。コンピュータ科学の発達で、製造工程がコンピュータで制御される時代となり、「熟練工」など必要なくなったのだという。だが、それは違う。技能五輪の五一種目を直視すれば分る。そこには「ものつくり」の技術だけではなく、フラワー装飾、美容・理容、ビューティー・セラピー、洋裁、洋菓子製造、西洋料理、レストラン・サービス、造園、看護・介護などの種目も並び、いわば「現場力」を象徴する技能である。<br />この技能五輪での日本人の活躍を見て、中国や韓国が「模倣や追随で成長しても、決して日本にはかなわない」と胸を張っていたものである。ところが、昨年の金メダル獲得数では、一位中国、二位スイス、三位韓国となり、日本は三個で、九位となったのである。<br />とくに、中国が獲得したメダルの内容を注目すべきである。中国が金銀銅メダルを取った種目をみると、情報ネットワーク施工、メカトロニクス、CNCフライス盤、ポリメカニクス、機械製図CAD、CNC旋盤、ITソフトウェア・ソリューションズ、移動式ロボット、3DデジタルゲームアートなどIT関連の技術の分野が目立つ。デジタル・エコノミーの時代といわれ、米国を基点とするITビッグ5といわれるFacebook,Apple 、Google、Amazon、Microsoftの圧倒的支配力が際立つ時代であるが、それに対抗しうる存在として中国はアリババやテンセントなどの巨大IT企業を生み出している。<br />ちなみに、米系のITビッグVの総計の株式時価総額(18年2月現在)は、実に三・七兆ドル(約四〇〇兆円)となり、M&Aで次々とベンチャー企業を吸収合併し、「デジタル専制」とわれるまでに膨張している。中国のアリババとテンセントの時価総額は二社で一・一兆ドル(約一二〇兆円)で、日本の誇る製造業企業たるトヨタの時価総額は二三兆円、日立は四兆円にすぎない。<br />ネットワーク情報技術(IT技術)の特性は、装置産業の製造業技術とは違い、基盤技術の開放による技術の共有化が進むと、瞬く間に「誰でも、どこでも」利用可能なプラットフォームが形成され、正に「蛙飛び」で後発者が先行者を凌駕できる可能性が高まるのである。最近では、中国のアリババは、「達摩院」といわれる研究開発センターに巨額の投資をして技術優位を目指していることに驚かされる。ITの分野では「米中二極対決の構図」になってきたのである。しかも、「データリズム」といわれ、データを支配する者がすべてを支配する潮流が形成される中で、中国は国家が優位にデータを支配しようとしており、デジタル・エコノミーが民主主義と逆行する危険もある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">習近平第二期政権の強権化――長期政権への布陣</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 五年前、二〇一二年十一月の第十八回共産党大会において、胡錦濤政権の十年を経て、一九五三年生まれの習近平が中央書記長に選ばれた時、中国革命(一九四九年)を知らない「革命第五世代」の指導者の登場に世界は衝撃を受けた。未知数の習近平に関しては様々な見方が交錯していた。その直後の一二月、私は「大中華圏」(NHK出版、2012年)を出版、その中で、習近平について「父親の習仲勲が副首相を務めた共産党の高級幹部であったことから、太子党のエース」とする見方に対して、「決して順風に生きた人物ではない」として、彼の「下方体験」に注目していた。「文化大革命」といわれた一九六六年からの約十年間、父の失脚を受けて、一六歳の習近平は一九六九年からの約七年間、陝西省に「下放」されるという体験をしている。都市部のエリートや知識人を「農村に学べ」として、強制的に田舎に送り込んだのである。最も多感な時期での「下方体験」はこの人物を変え、その後の経歴や言動を見ても、「この男は泥臭い」という印象で、「草の根主義的な路線を見せてくる」と予想していた。また、習近平が「中華民族の歴史的復興」という発言を繰り返していることに関し、この人物の中国を束ねる「統合理念」が、それまでの「社会主義から改革開放へ」の単純継承ではなく、あえて「中華民族の栄光」を掲げた国家統合志向にあることを直感していた。習近平政権の五年間は、そうした予想を裏切らなかった。内政的には「腐敗撲滅」にこだわりを見せ、粛清を権力基盤に繋げていった。外政的には「一帯一路」や「AIIB構想」を掲げ、グローバル・ガバナンスへの野心を見せ、大中華圏の実体化へと踏み込んだ。昨年、二〇一七年十月に第一九回共産党大会が行われ、第一期政権の五年間を踏まえ、習近平政権は第二期に入り、その基本方針、政治局常務委員人事が明らかになってきた。<br /> 習近平は、毛沢東―鄧小平―江沢民―胡錦濤と連なる中国共産党指導部の第五世代となるが、これまでは第二期政権に入る段階で後継者候補を政治局常務委員に登用してきた。今回も「第六世代」の後継候補として、習近平側近といわれる重慶市党委員会書記の陳敏爾、広東省党委員会書記の胡春華の名前が挙がっていたが、結局、五〇歳代の「第六世代」は常務委員に選ばれなかった。これは習近平が長期政権を目指し、あえて後継候補をつくらなかったということである。共産党指導部は、これまで六八歳定年制を内規としてきた。習近平はこの内規を超えて、第三期政権を視野に動き始めたといえよう。<br /> 注目されたのが政治局常務委員で、一五〇万人を粛清した反腐敗運動の中心人物であった王岐山の人事であった。内規の六八歳定年制を超えて留任させるのではとの見方もあったが、退任となった。ところが、三月に予定されている全人代での「国家副主席」への登用というシナリオが浮上している。また、全人代では憲法を改正し、国家主席の任期の二期十年という制限を廃止するといわれ、習近平の長期政権への布石を感じる。習近平は自らの名前を冠した思想を「行動指針」として党規約に明記するなど、個人崇拝色を濃くしている。「習近平の毛沢東化」といわれる所以である。<br /> こうした習近平にとって、第二期政権での実績は不可欠である。実績をベースに余人をもって代えがたい指導者としての地位を確立しなければならないからである。一つは、経済であり、習近平第一期には「新常態を目指す」として、民需主導型経済の実現を掲げていたが、政府固定資本形成(公共投資)主導に戻しても、何とか実質六%台後半の成長(2017年は6・9%成長)を実現させている意図もここにある。昨年一〇<span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">月の共産党大会での「基本方針」で、「新時代の中国の特色ある社会主義を目指す」として、「社会主義」にこだわる意図は、国家の統合力を前提とする市場経済という意思表示であろう。<br /> もう一つの、実績が強勢外交であり、大中華圏の実体化である。そのことは「中華民族の歴史的復興」を言い続ける心理に投影されている。もちろん、大きく掲げた「一帯一路」「AIIB」構想をどこまで具体化し、グローバル・ガバナンスへの中国の主導力を前進させうるかも注目点だが、重要なのは東アジアを束ねる実績であり、その意味で、香港、台湾、北朝鮮に中国がどう動くか注目されるのである。<br /> 習近平政権の意図が映し出される鏡が、まず香港であり、それが台湾、北朝鮮政策に微妙につながっている。一九九七年の香港返還から二〇年が経った。返還時の「一国二制度」という原則は後退し、中国による政治介入、「民主化」消滅が顕著となっている。<br /> 二〇一六年七月、立法会選挙において、香港独立や民主化を主張する「香港民族党」、「本土民主戦線」からの立候補を認めず、それでも当選した民主派議員三〇人(議席総数七〇の三分の一超)のうち二名の「反中派議員」の公職資格剥奪と、あからさまな民主派弾圧に踏み込んでいる。二〇一四年に吹き荒れた民主化を求める「雨傘運動」を指導した学生団体の代表周永康ら三人への有罪判決など、香港への締め付けは加速している。<br /> 二〇一八年九月に中国本土と結ぶ高速鉄道が開通する予定だが、一か所で通関・検疫・出入境管理する「一地両検制度」導入、つまり実体的な本土側法律の適用へと向かう中国の香港抑圧は台湾の人々の中国への警戒心を刺激している。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">台湾という鏡――統一への予兆</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二〇一六年五月、国民党・馬英九政権(2008~2016年)から民進党・蔡英文政権への政権交代が起こった背景にも、馬英九政権が進めた「対中融和路線」の転換を求める国民意識の変化があったといえる。二〇〇八年三月にスタートした国民党の馬英九政権は、本土中国との関係改善に大きく踏み込んだ。同年十二月には、中台間の三通(通信、通商、通航)の直接開通を合意、二〇一〇年六月には実体的中台自由貿易協定ともいえる「経済協力枠組協定」(ECFA)に調印、中国との経済交流は飛躍的に深まった。<br /> 二〇一五年十一月には、シンガポールで中台分裂後初の首脳会談として、習近平・馬英九会談が行われ、「一つの中国」という原則を確認しあう中台蜜月の象徴的イベントであった。馬英九政権下では、中国の高成長を支える形で台湾企業の資本と技術が中国に向かった。中国への直接投資の約七割は香港からの投資で、世界からの投資が香港経由で中国に向かっているが、二〇一五年までは台湾からの直接投資が第三位を占めていた。だが、二〇一六年には、台湾からの本土への投資は急減、香港、シンガポール、韓国、米国に次いで第五位に後退した。<br /> 二〇一八年の新年を私は台北で迎え、台湾経済界のリーダー達と議論する機会を得た。中国への緊張と苦渋に満ちた表情が印象に残った。馬英九政権下の中国との蜜月を背景に、累計九万件の事業案件が、台湾から中国に進出しているが、そのうち二万件が台湾への引き上げを希望しているという。しかし、中国での事業の売却は上手く行かず、買い叩かれるか、売れたとしても「資金送金」は容易ではないという。二〇一七年九月、中国はビットコインを禁止したが、狙いの一つが「資金逃避の手段になるビットコイン」という回路の遮断にあるといわれる。<br /> また、中国は台湾が外交関係を持つ国に圧力をかけ、オセロゲームのように台湾と国交を持つ国をひっくり返している。台湾が公式の外交を持つ国は既に二〇か国にまで圧縮され、台湾の孤立が際立つ。外交関係を持つ国も、南太平洋の小島のような国のみである。<br />蔡英文が大統領に就任した二〇一六年五月から二〇一七年四月までの一年間の台湾への中国人来訪者は二八七万人で、中台関係の冷却を反映し、前年同期比で五割以上も減少した。その後、二〇一七年八月以降は中国人来訪者が戻りつつあるといわれるが、二〇一七年通期でも前年比約一〇〇万人減少したとされ、観光収入も約五〇〇億台湾元(約一九〇〇億円)減少したという。蔡政権の沈黙と台湾経済人の緊張の背景には、米トランプ政権の豹変という要素もある。二〇一六年の大統領選挙の頃、トランプはあたかも「台湾独立」を支持するかのごとき発言をしていた。ところが就任後、中国の台湾政策を支持する方向へと路線変更、台湾の動揺と失望は深い。トランプなる人物の人生の基軸は「すべてはDEAL(取引)」であり、損得だけで判断してきた人物の危うさを見せつけられているのである。<br /> 今後の第二期習近平政権の締め付けによっては、台湾からの「資本逃避」(キャピタル・フライト)という事態さえ加速されかねない。一七年秋の共産党大会での三時間半に及ぶ演説の中で、習近平は異様なまでの力を込めて「台湾統一」に言及していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">北朝鮮問題への影――中国が軍事介入する可能性</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 次に北朝鮮問題だが、二〇一八年に入り、北朝鮮は突然「平昌オリンピックへの参加」を表明、「南北融和」のショーがことさらに演じられた。あたかも、「朝鮮半島のことは、外国勢力によって決められるのではなく、朝鮮民族が決める」というメッセージを南北朝鮮が共有しているかのごとき展開を見せた。ここで見抜かねばならないのは、「外国勢力」とは米国のことだけではなく、中国をも意味することである。注視すべきは中朝関係の緊張である。すなわち二〇一一年一二月の金正日の死去以降、後継問題を巡り、金正男を擁立しようとした張成沢(金正恩の叔父で後見人といわれた)と中国との謀略、そして、二〇一三年一二月の張成沢の「国家転覆陰謀の罪」での処刑、さらに金正男の暗殺という経緯の中で、中朝関係は冷え込み、核・ミサイル開発をエスカレートさせる金正恩に対し、中国は本気で国連制裁に協力する方向に踏み込んでいった。とくに、中国の金融制裁が北朝鮮を締め上げ、苦し紛れに融和的な韓国の文在寅政権にくさびを打つように接近したのである。<br /> 中国の北朝鮮への圧力は凄まじく、このところ「米朝の軍事衝突の前に、中国が北朝鮮に軍事介入する可能性」や「米国から北朝鮮を守る同盟責任を果たすという建前で、金正恩をねじふせて軍事駐留して核・ミサイルを封印する可能性」といったシナリオが国際情報として流れている。中国が主体的に朝鮮半島の制御に動くというシナリオであり、こうした情報が流れること自体が北朝鮮を凍り付かせているといえる。習近平政権の危機感の背景には米トランプ政権の変質がある。昨年七月、J・ケリー(元海兵隊大将)が首席補佐官に就任して以降、トランプ政権は制服組主導の軍事政権化し、米国の対北朝鮮戦争計画は重心を下げ、現実味を帯びてきた。もし、米朝の軍事衝突となれば、限定的攻撃だけでは済まず、「体制転換」、すなわち米主導の朝鮮半島の統一にもっていかれる可能性が高い。中国としては、これを避けるべく主導的に朝鮮半島を制御する意思が浮上するのである。<br /> 中国は、平昌オリンピックを巡る「南北融和」について、表面的には歓迎している。中国が北朝鮮問題に責任を負わされる圧力から解放され、当面は韓国文政権に圧力が向かうという判断であるが、水面下では「米中協議」が動いており、米朝軍事衝突のリスクが臨界点に迫れば、習近平がどう動くかが重要になるのである。</span></span></p> <p>  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本人の覚悟と決意―――戦後なる日本への自信と責任</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 中国の強大化と強権化という中で、日本の姿勢が問われている。習近平、プーチン、トランプなどに突き上げられ、日本も「反知性主義」的衝動に駆り立てられかねない。ともすると、「力への誘惑」を覚え、国家主義、国権主義へと引き込まれる可能性が高い。我々は、思考の回路を立て直す必要がある。「道に迷わば年輪を見よ」という言葉を思い出したい。日本人として、戦後民主主義を踏み固め、中国を冷静に認識しておきたい。<br /> 中国はうまくいっているのだろうか。成長と強権化で覆い隠しているが、社会的課題は根深い。一九七〇年前後、私が世田谷日中学院に通って中国語をかじっていた頃、日本が「高度成長期」を走っていた頃でもあったが、中国の「文化大革命」に違和感を覚えながらも、中国の実験ともいえる「農業と工業のバランスある開発」「人民に奉仕する裸足の医者」などの試みは、米国流産業開発に邁進する日本との対照において興味深かった。ところが、改革開放の果てに到達した今日の中国は、強欲なウォールストリートも顔負けの「マネーゲーマー」の集積地であり、「人民に奉仕する」など程遠い「腐敗」国家と化した。<br /> 一向に進まぬ民主化、年金制度など無きに等しい社会保障・福祉の未熟さ―――中国にも迫りくる高齢化社会に向け事態は深刻で、とても国民を幸福にしているとは思えない。米国に三〇万人、日本に一〇万人といわれる中国からの留学生が帰国したがらない理由も理解できる。習近平が「社会主義」理念にこだわり、「腐敗撲滅」に躍起にならざるをえないのもこの文脈にある。<br /> 日本は成熟した民主国家たる自覚をもって、アジアの見本となる「国民を幸福にする社会」を探求すべきである。中国の強権化に触発される東アジアの激変は日本の試金石である。「アメリカ・ファースト」のトランプ政権に国民の運命を預託し、只管、中国封じ込めと北朝鮮への圧力を主張する偏狭さだけでは、アジアの共感と敬愛を受けて進むことはできない。<br />中国を凌駕する東アジアへの構想力が問われているのであり、日本の正当性の基軸は、「非核」に徹した平和主義と「国民主権」の民主主義を自ら体現していくことである。東南アジアの有識者と議論しても、「北朝鮮はブラックスワン(マイナーな変数)だが、中国はブラックエレファント(踏み潰す傲慢さ)」、「日本こそアジアにおける平和と民主主義のリーダー」であって欲しいという期待が重く感じられる。<br /> 韓国大使、ベトナム大使を務め、外交官として日本のアジア外交に深い知見を有する小倉和夫は「日本のアジア外交―――二千年の系譜」(藤原書店、2013年)において、歴史における五回の「日中戦争」(唐との白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮出兵を巡る明との戦い、日清戦争、一九三〇年代の日中戦争)の背景を分析し、五つの日中戦争を貫く教訓として、「いずれの戦争も、始まりは、朝鮮半島における勢力争い」であると指摘し、「よって、日中間で朝鮮半島の未来のあるべき姿についての対話を深めることの重要性」に言及している。もっともな論点である。だが、現在の日本外交には朝鮮半島の未来についての構想力は見えない。ただ、北朝鮮の危険性を訴え、「圧力強化」を主張するのみである。日本が掲げる松明は一次元高いものでなければならない。</span></span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 今、多くの日本人の世界認識を混濁させている最も大きな要素は、中国の強大化と強権化である。二一世紀を迎える前年、二〇〇〇年の中国のGDPは日本の四分の一にすぎなかった。そのわずか一〇年後の二〇一〇年、中国のGDPは日本を上回った。そして、今年、二〇一八年、中国のGDPは日本の三倍になると予想される。この成長のスピードに幻惑され、日本人は中国を的確に認識できないでいる。中国のGDPは、このトレンドが延長されれば、約二〇年後には日本の六倍になっていると思われる。<br /> 成長のスピードだけではない。その中身が衝撃的である。ICT革命が日本より進んでいることである。デジタル・エコノミーと言われる時代の技術特性として、誰もがどこでもネットワーク情報技術を共有しうることを利して、先端技術に「カエル跳び」でキャッチ・アップしてくる。中国から留学してきた学生が、「日本に来て、二一世紀から二〇世紀に逆戻りした感じがある」と言った。「中国では紙幣というものを使ったことがなかったが、日本ではまだお札(現金)を使っている」という意味であった。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">国際技能五輪という現実―――日本の現場力の劣化</span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 一つの現実を直視したい。二〇一七年一〇月、UAEのアブダビで第四四回国際技能五輪大会が行われた。かつて、この技能五輪は日本の「お家芸」たる技術力を示す舞台として注目され、我々はここでの日本人の活躍を誇りに思っていた。二〇〇七年まで日本は金メダルの獲得数において一位、もしくは最上位を競う位置にいた。ところが昨年、ついに日本は九位にまで転落した。日本のメディアは何故かこの事実をほとんど報道しなかった。<br /> 日本の企業経営者にこのことを話題にすると、「もはや技能五輪の時代ではない」という反応が返ってきた。コンピュータ科学の発達で、製造工程がコンピュータで制御される時代となり、「熟練工」など必要なくなったのだという。だが、それは違う。技能五輪の五一種目を直視すれば分る。そこには「ものつくり」の技術だけではなく、フラワー装飾、美容・理容、ビューティー・セラピー、洋裁、洋菓子製造、西洋料理、レストラン・サービス、造園、看護・介護などの種目も並び、いわば「現場力」を象徴する技能である。<br />この技能五輪での日本人の活躍を見て、中国や韓国が「模倣や追随で成長しても、決して日本にはかなわない」と胸を張っていたものである。ところが、昨年の金メダル獲得数では、一位中国、二位スイス、三位韓国となり、日本は三個で、九位となったのである。<br />とくに、中国が獲得したメダルの内容を注目すべきである。中国が金銀銅メダルを取った種目をみると、情報ネットワーク施工、メカトロニクス、CNCフライス盤、ポリメカニクス、機械製図CAD、CNC旋盤、ITソフトウェア・ソリューションズ、移動式ロボット、3DデジタルゲームアートなどIT関連の技術の分野が目立つ。デジタル・エコノミーの時代といわれ、米国を基点とするITビッグ5といわれるFacebook,Apple 、Google、Amazon、Microsoftの圧倒的支配力が際立つ時代であるが、それに対抗しうる存在として中国はアリババやテンセントなどの巨大IT企業を生み出している。<br />ちなみに、米系のITビッグVの総計の株式時価総額(18年2月現在)は、実に三・七兆ドル(約四〇〇兆円)となり、M&Aで次々とベンチャー企業を吸収合併し、「デジタル専制」とわれるまでに膨張している。中国のアリババとテンセントの時価総額は二社で一・一兆ドル(約一二〇兆円)で、日本の誇る製造業企業たるトヨタの時価総額は二三兆円、日立は四兆円にすぎない。<br />ネットワーク情報技術(IT技術)の特性は、装置産業の製造業技術とは違い、基盤技術の開放による技術の共有化が進むと、瞬く間に「誰でも、どこでも」利用可能なプラットフォームが形成され、正に「蛙飛び」で後発者が先行者を凌駕できる可能性が高まるのである。最近では、中国のアリババは、「達摩院」といわれる研究開発センターに巨額の投資をして技術優位を目指していることに驚かされる。ITの分野では「米中二極対決の構図」になってきたのである。しかも、「データリズム」といわれ、データを支配する者がすべてを支配する潮流が形成される中で、中国は国家が優位にデータを支配しようとしており、デジタル・エコノミーが民主主義と逆行する危険もある。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">習近平第二期政権の強権化――長期政権への布陣</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 五年前、二〇一二年十一月の第十八回共産党大会において、胡錦濤政権の十年を経て、一九五三年生まれの習近平が中央書記長に選ばれた時、中国革命(一九四九年)を知らない「革命第五世代」の指導者の登場に世界は衝撃を受けた。未知数の習近平に関しては様々な見方が交錯していた。その直後の一二月、私は「大中華圏」(NHK出版、2012年)を出版、その中で、習近平について「父親の習仲勲が副首相を務めた共産党の高級幹部であったことから、太子党のエース」とする見方に対して、「決して順風に生きた人物ではない」として、彼の「下方体験」に注目していた。「文化大革命」といわれた一九六六年からの約十年間、父の失脚を受けて、一六歳の習近平は一九六九年からの約七年間、陝西省に「下放」されるという体験をしている。都市部のエリートや知識人を「農村に学べ」として、強制的に田舎に送り込んだのである。最も多感な時期での「下方体験」はこの人物を変え、その後の経歴や言動を見ても、「この男は泥臭い」という印象で、「草の根主義的な路線を見せてくる」と予想していた。また、習近平が「中華民族の歴史的復興」という発言を繰り返していることに関し、この人物の中国を束ねる「統合理念」が、それまでの「社会主義から改革開放へ」の単純継承ではなく、あえて「中華民族の栄光」を掲げた国家統合志向にあることを直感していた。習近平政権の五年間は、そうした予想を裏切らなかった。内政的には「腐敗撲滅」にこだわりを見せ、粛清を権力基盤に繋げていった。外政的には「一帯一路」や「AIIB構想」を掲げ、グローバル・ガバナンスへの野心を見せ、大中華圏の実体化へと踏み込んだ。昨年、二〇一七年十月に第一九回共産党大会が行われ、第一期政権の五年間を踏まえ、習近平政権は第二期に入り、その基本方針、政治局常務委員人事が明らかになってきた。<br /> 習近平は、毛沢東―鄧小平―江沢民―胡錦濤と連なる中国共産党指導部の第五世代となるが、これまでは第二期政権に入る段階で後継者候補を政治局常務委員に登用してきた。今回も「第六世代」の後継候補として、習近平側近といわれる重慶市党委員会書記の陳敏爾、広東省党委員会書記の胡春華の名前が挙がっていたが、結局、五〇歳代の「第六世代」は常務委員に選ばれなかった。これは習近平が長期政権を目指し、あえて後継候補をつくらなかったということである。共産党指導部は、これまで六八歳定年制を内規としてきた。習近平はこの内規を超えて、第三期政権を視野に動き始めたといえよう。<br /> 注目されたのが政治局常務委員で、一五〇万人を粛清した反腐敗運動の中心人物であった王岐山の人事であった。内規の六八歳定年制を超えて留任させるのではとの見方もあったが、退任となった。ところが、三月に予定されている全人代での「国家副主席」への登用というシナリオが浮上している。また、全人代では憲法を改正し、国家主席の任期の二期十年という制限を廃止するといわれ、習近平の長期政権への布石を感じる。習近平は自らの名前を冠した思想を「行動指針」として党規約に明記するなど、個人崇拝色を濃くしている。「習近平の毛沢東化」といわれる所以である。<br /> こうした習近平にとって、第二期政権での実績は不可欠である。実績をベースに余人をもって代えがたい指導者としての地位を確立しなければならないからである。一つは、経済であり、習近平第一期には「新常態を目指す」として、民需主導型経済の実現を掲げていたが、政府固定資本形成(公共投資)主導に戻しても、何とか実質六%台後半の成長(2017年は6・9%成長)を実現させている意図もここにある。昨年一〇<span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">月の共産党大会での「基本方針」で、「新時代の中国の特色ある社会主義を目指す」として、「社会主義」にこだわる意図は、国家の統合力を前提とする市場経済という意思表示であろう。<br /> もう一つの、実績が強勢外交であり、大中華圏の実体化である。そのことは「中華民族の歴史的復興」を言い続ける心理に投影されている。もちろん、大きく掲げた「一帯一路」「AIIB」構想をどこまで具体化し、グローバル・ガバナンスへの中国の主導力を前進させうるかも注目点だが、重要なのは東アジアを束ねる実績であり、その意味で、香港、台湾、北朝鮮に中国がどう動くか注目されるのである。<br /> 習近平政権の意図が映し出される鏡が、まず香港であり、それが台湾、北朝鮮政策に微妙につながっている。一九九七年の香港返還から二〇年が経った。返還時の「一国二制度」という原則は後退し、中国による政治介入、「民主化」消滅が顕著となっている。<br /> 二〇一六年七月、立法会選挙において、香港独立や民主化を主張する「香港民族党」、「本土民主戦線」からの立候補を認めず、それでも当選した民主派議員三〇人(議席総数七〇の三分の一超)のうち二名の「反中派議員」の公職資格剥奪と、あからさまな民主派弾圧に踏み込んでいる。二〇一四年に吹き荒れた民主化を求める「雨傘運動」を指導した学生団体の代表周永康ら三人への有罪判決など、香港への締め付けは加速している。<br /> 二〇一八年九月に中国本土と結ぶ高速鉄道が開通する予定だが、一か所で通関・検疫・出入境管理する「一地両検制度」導入、つまり実体的な本土側法律の適用へと向かう中国の香港抑圧は台湾の人々の中国への警戒心を刺激している。</span></span></span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">台湾という鏡――統一への予兆</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 二〇一六年五月、国民党・馬英九政権(2008~2016年)から民進党・蔡英文政権への政権交代が起こった背景にも、馬英九政権が進めた「対中融和路線」の転換を求める国民意識の変化があったといえる。二〇〇八年三月にスタートした国民党の馬英九政権は、本土中国との関係改善に大きく踏み込んだ。同年十二月には、中台間の三通(通信、通商、通航)の直接開通を合意、二〇一〇年六月には実体的中台自由貿易協定ともいえる「経済協力枠組協定」(ECFA)に調印、中国との経済交流は飛躍的に深まった。<br /> 二〇一五年十一月には、シンガポールで中台分裂後初の首脳会談として、習近平・馬英九会談が行われ、「一つの中国」という原則を確認しあう中台蜜月の象徴的イベントであった。馬英九政権下では、中国の高成長を支える形で台湾企業の資本と技術が中国に向かった。中国への直接投資の約七割は香港からの投資で、世界からの投資が香港経由で中国に向かっているが、二〇一五年までは台湾からの直接投資が第三位を占めていた。だが、二〇一六年には、台湾からの本土への投資は急減、香港、シンガポール、韓国、米国に次いで第五位に後退した。<br /> 二〇一八年の新年を私は台北で迎え、台湾経済界のリーダー達と議論する機会を得た。中国への緊張と苦渋に満ちた表情が印象に残った。馬英九政権下の中国との蜜月を背景に、累計九万件の事業案件が、台湾から中国に進出しているが、そのうち二万件が台湾への引き上げを希望しているという。しかし、中国での事業の売却は上手く行かず、買い叩かれるか、売れたとしても「資金送金」は容易ではないという。二〇一七年九月、中国はビットコインを禁止したが、狙いの一つが「資金逃避の手段になるビットコイン」という回路の遮断にあるといわれる。<br /> また、中国は台湾が外交関係を持つ国に圧力をかけ、オセロゲームのように台湾と国交を持つ国をひっくり返している。台湾が公式の外交を持つ国は既に二〇か国にまで圧縮され、台湾の孤立が際立つ。外交関係を持つ国も、南太平洋の小島のような国のみである。<br />蔡英文が大統領に就任した二〇一六年五月から二〇一七年四月までの一年間の台湾への中国人来訪者は二八七万人で、中台関係の冷却を反映し、前年同期比で五割以上も減少した。その後、二〇一七年八月以降は中国人来訪者が戻りつつあるといわれるが、二〇一七年通期でも前年比約一〇〇万人減少したとされ、観光収入も約五〇〇億台湾元(約一九〇〇億円)減少したという。蔡政権の沈黙と台湾経済人の緊張の背景には、米トランプ政権の豹変という要素もある。二〇一六年の大統領選挙の頃、トランプはあたかも「台湾独立」を支持するかのごとき発言をしていた。ところが就任後、中国の台湾政策を支持する方向へと路線変更、台湾の動揺と失望は深い。トランプなる人物の人生の基軸は「すべてはDEAL(取引)」であり、損得だけで判断してきた人物の危うさを見せつけられているのである。<br /> 今後の第二期習近平政権の締め付けによっては、台湾からの「資本逃避」(キャピタル・フライト)という事態さえ加速されかねない。一七年秋の共産党大会での三時間半に及ぶ演説の中で、習近平は異様なまでの力を込めて「台湾統一」に言及していた。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">北朝鮮問題への影――中国が軍事介入する可能性</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 次に北朝鮮問題だが、二〇一八年に入り、北朝鮮は突然「平昌オリンピックへの参加」を表明、「南北融和」のショーがことさらに演じられた。あたかも、「朝鮮半島のことは、外国勢力によって決められるのではなく、朝鮮民族が決める」というメッセージを南北朝鮮が共有しているかのごとき展開を見せた。ここで見抜かねばならないのは、「外国勢力」とは米国のことだけではなく、中国をも意味することである。注視すべきは中朝関係の緊張である。すなわち二〇一一年一二月の金正日の死去以降、後継問題を巡り、金正男を擁立しようとした張成沢(金正恩の叔父で後見人といわれた)と中国との謀略、そして、二〇一三年一二月の張成沢の「国家転覆陰謀の罪」での処刑、さらに金正男の暗殺という経緯の中で、中朝関係は冷え込み、核・ミサイル開発をエスカレートさせる金正恩に対し、中国は本気で国連制裁に協力する方向に踏み込んでいった。とくに、中国の金融制裁が北朝鮮を締め上げ、苦し紛れに融和的な韓国の文在寅政権にくさびを打つように接近したのである。<br /> 中国の北朝鮮への圧力は凄まじく、このところ「米朝の軍事衝突の前に、中国が北朝鮮に軍事介入する可能性」や「米国から北朝鮮を守る同盟責任を果たすという建前で、金正恩をねじふせて軍事駐留して核・ミサイルを封印する可能性」といったシナリオが国際情報として流れている。中国が主体的に朝鮮半島の制御に動くというシナリオであり、こうした情報が流れること自体が北朝鮮を凍り付かせているといえる。習近平政権の危機感の背景には米トランプ政権の変質がある。昨年七月、J・ケリー(元海兵隊大将)が首席補佐官に就任して以降、トランプ政権は制服組主導の軍事政権化し、米国の対北朝鮮戦争計画は重心を下げ、現実味を帯びてきた。もし、米朝の軍事衝突となれば、限定的攻撃だけでは済まず、「体制転換」、すなわち米主導の朝鮮半島の統一にもっていかれる可能性が高い。中国としては、これを避けるべく主導的に朝鮮半島を制御する意思が浮上するのである。<br /> 中国は、平昌オリンピックを巡る「南北融和」について、表面的には歓迎している。中国が北朝鮮問題に責任を負わされる圧力から解放され、当面は韓国文政権に圧力が向かうという判断であるが、水面下では「米中協議」が動いており、米朝軍事衝突のリスクが臨界点に迫れば、習近平がどう動くかが重要になるのである。</span></span></p> <p>  </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">日本人の覚悟と決意―――戦後なる日本への自信と責任</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 中国の強大化と強権化という中で、日本の姿勢が問われている。習近平、プーチン、トランプなどに突き上げられ、日本も「反知性主義」的衝動に駆り立てられかねない。ともすると、「力への誘惑」を覚え、国家主義、国権主義へと引き込まれる可能性が高い。我々は、思考の回路を立て直す必要がある。「道に迷わば年輪を見よ」という言葉を思い出したい。日本人として、戦後民主主義を踏み固め、中国を冷静に認識しておきたい。<br /> 中国はうまくいっているのだろうか。成長と強権化で覆い隠しているが、社会的課題は根深い。一九七〇年前後、私が世田谷日中学院に通って中国語をかじっていた頃、日本が「高度成長期」を走っていた頃でもあったが、中国の「文化大革命」に違和感を覚えながらも、中国の実験ともいえる「農業と工業のバランスある開発」「人民に奉仕する裸足の医者」などの試みは、米国流産業開発に邁進する日本との対照において興味深かった。ところが、改革開放の果てに到達した今日の中国は、強欲なウォールストリートも顔負けの「マネーゲーマー」の集積地であり、「人民に奉仕する」など程遠い「腐敗」国家と化した。<br /> 一向に進まぬ民主化、年金制度など無きに等しい社会保障・福祉の未熟さ―――中国にも迫りくる高齢化社会に向け事態は深刻で、とても国民を幸福にしているとは思えない。米国に三〇万人、日本に一〇万人といわれる中国からの留学生が帰国したがらない理由も理解できる。習近平が「社会主義」理念にこだわり、「腐敗撲滅」に躍起にならざるをえないのもこの文脈にある。<br /> 日本は成熟した民主国家たる自覚をもって、アジアの見本となる「国民を幸福にする社会」を探求すべきである。中国の強権化に触発される東アジアの激変は日本の試金石である。「アメリカ・ファースト」のトランプ政権に国民の運命を預託し、只管、中国封じ込めと北朝鮮への圧力を主張する偏狭さだけでは、アジアの共感と敬愛を受けて進むことはできない。<br />中国を凌駕する東アジアへの構想力が問われているのであり、日本の正当性の基軸は、「非核」に徹した平和主義と「国民主権」の民主主義を自ら体現していくことである。東南アジアの有識者と議論しても、「北朝鮮はブラックスワン(マイナーな変数)だが、中国はブラックエレファント(踏み潰す傲慢さ)」、「日本こそアジアにおける平和と民主主義のリーダー」であって欲しいという期待が重く感じられる。<br /> 韓国大使、ベトナム大使を務め、外交官として日本のアジア外交に深い知見を有する小倉和夫は「日本のアジア外交―――二千年の系譜」(藤原書店、2013年)において、歴史における五回の「日中戦争」(唐との白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮出兵を巡る明との戦い、日清戦争、一九三〇年代の日中戦争)の背景を分析し、五つの日中戦争を貫く教訓として、「いずれの戦争も、始まりは、朝鮮半島における勢力争い」であると指摘し、「よって、日中間で朝鮮半島の未来のあるべき姿についての対話を深めることの重要性」に言及している。もっともな論点である。だが、現在の日本外交には朝鮮半島の未来についての構想力は見えない。ただ、北朝鮮の危険性を訴え、「圧力強化」を主張するのみである。日本が掲げる松明は一次元高いものでなければならない。</span></span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> 岩波書店「世界」2018年3月号 脳力のレッスン191 ロシア史における「タタールの軛」とプーチンに至る影―一七世紀オランダからの視界(その47) 2019-03-12T09:07:30+09:00 2019-03-12T09:07:30+09:00 https://terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2018/1481-nouriki-2018-3.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 現代のモンゴルにおいて、ジンギス=ハンはどう評価されているのか。昨年九月、ウランバートルを訪れた私の関心はここにあった。もちろん、ソ連崩壊を受けた一九九〇年代以降の「民主化」の中で、ウランバートル空港が「ジンギス=ハン空港」になるなど、再評価が進んでいるともいえるが、日本におけるモンゴル研究の熱気とは温度差を感じた。この温度差こそ、モンゴルという視界から世界を再認識する時の基点かもしれない。<br />ウランバートルのモンゴル民族博物館を訪れ、じっくり見せてもらったが、展示内容はモンゴル全史をバランス良く紹介しており、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国の栄光を誇示する内容ではなく、二〇世紀における約七〇年の社会主義時代も含めて、隣国のロシア、中国に配慮した展示になっているという印象だった。「失われたモンゴル史」という言い方があるが、皮肉にも、戦後日本のモンゴル帝国研究のほうが、岡田英弘、杉山正明などを代表格とする優れた研究が蓄積され、モンゴルからの世界史観が拓かれたといえ、むしろモンゴルの若い研究者がその成果を吸収するため日本に留学してきている状況なのである。<br />二〇一七年に日本でも公開された映画「グレート・ウォール(万里の長城)」(2016年ユニバーサル映画、米中合作、チャン・イーモウ監督)は、マット・ディモン主役の活劇で、シンガポールや香港など華人・華僑圏では大変な話題作であった。この映画で描かれる万里の長城の北から侵攻してくる夷狄は不気味な姿をした爬虫類の怪獣であり、獣、ケモノ、妖怪と北方民族を意識すること、これこそが中華文明的視界を象徴するものである。映画の設定は宋の時代とされ、宋の時代、北から長城を超えて侵攻したのはモンゴルであり、怪獣とはモンゴルの象徴なのである。一二七六年に南宋を滅ぼしたモンゴルが大元ウルスとして中国の中原を支配した時代を迎えるわけだが、モンゴルの位置づけが中国史のトラウマであることが分る。<br />この映画には、宋の時代の中国軍の武器として「火薬」とか「熱気球」が登場し、西欧の科学技術よりも、中国が前に出ていたという歴史観が埋め込まれており、「火薬、活版印刷、羅針盤、紙―――人類の四大発明はすべて中国が先行した」という「中華文明の歴史的栄光」を強調する現在の習近平政権の意図も投影されていたといえる(参照、本連載43「鄭和の大航海と東アジアの近世」)。中国中心の歴史観の象徴ともいえる映画であり、秦の始皇帝が紀元前二一四年に本格的に「万里の長城」の増改築に着手して以来、現存するだけでも日本列島縦断の三往復にあたる六二五九KMもの障壁を造り続けた情念は、中国にとって北方民族がいかに脅威であったかを想わせるのである。<br />そして、モンゴル史からの視界を深めることは、中国中心の歴史観(中華史観)や西欧優位の歴史観との対比、相関において、我々の世界観、ユーラシア大陸を見渡すグローバル・ヒストリーへの視界を拓くことに気付かされる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">司馬遼太郎の「モンゴル紀行」とモンゴル史観</span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズで、モンゴルを訪れたのは一九七三年で、五〇歳を迎えた夏であった。「モンゴル人民共和国」としてソビエト連邦の衛星国的位置づけをされていた時代で、週刊朝日連載の後、「モンゴル紀行」(朝日新聞社、1974年)として刊行されている。ハバロフスク、イルクーツク経由でウランバートルを訪れており、直行便などなかった。一九七三年といえば、石油危機の年であり、私が三井物産に入社し、社会人としての生活をスタートさせた年でもあった.<br />まだ社会主義が一定の輝きを残していた。世界の多くの若者が社会主義への幻想を抱いており、「万国の労働者よ、団結せよ」と訴える「社会主義インターナショナル」が歌われていた。ベトナム戦争で米国が敗退したのが一九七五年であった。つまり、司馬遼太郎がモンゴルを訪れた頃は、ジンギス=ハンの栄光が最も抑制されていた時代であった。<br />ウランバートルには「政治粛清祈念博物館」があり、社会主義国家時代にスターリンによるソ連の支配に抵抗した元首相のゲンデンが一九三七年に処刑されたのをはじめ、政治家、僧侶など四万人以上が粛清されたといわれ、その犠牲者を記憶する施設が「民主化後」に作られたのである。モンゴル民族にとって一九二一年からの社会主義体制下の七〇年間は「失われた七〇年」どころか、民族の栄光を消し去られた時代であった。<br />司馬遼太郎は大阪外国語学校の蒙古語科を卒業し、モンゴルについて深い知見を持っていた。一九二三年生まれの彼は、一九四三年に学徒出陣で軍役に付き、満州の牡丹江で戦車連隊の小隊長として北東アジアを体験した。日本が「満蒙問題」という形で、この地域に特別の利害と関心を有していた時代であった。後に司馬は「街道をゆく」というシリーズで国内外の様々な地域を訪れて足跡を残したが、晩年「ハンガリーを訪ねたい」と語っていたという。生まれた赤ん坊の尻に「蒙古斑」がでる最西端といわれるのがハンガリーであり、モンゴル軍が攻め込んだ世界を極めたかったのであろう。<br /> 「モンゴル紀行」において、司馬は社会主義政権下のモンゴル憲法では「極端な愛国主義と盲目的な民族主義を排する」ことを規定していると指摘、1962年にジンギス・カン生誕800年記念行事を行おうとしたが、当時のソ連政府の顰蹙を買ったという記述もある。確かに、一九二一年の社会主義革命で成立したモンゴル人民共和国の憲法(1924年制定)では「人種的または民族的所属を理由とする、市民の権利の直接的または間接的なすべての制限、排外主義および国家主義思想の宣伝は、法律によって禁止される」(第83条)とあり、条文だけでは意味が伝わらない部分もあるが、ロシア革命を受けてソ連の周辺国だった時代において、ソ連がいかにモンゴル人の民族主義の再燃を抑制することに神経質になっていたかを示すもので、「勤労人民」の民族を超えた連帯のほうが重要という価値観を強く押し付けていたことが分る。<br />ウランバートルの中心部に「スフバートル広場」があり、スフバートルは一九二一年の社会主義革命の指導者で、一九二三年に二九歳で夭折した英雄であった。広場の中央にスフバートルの騎馬像(一九四六年建造)が立ち、広場の北側には巨大なジンギス=ハン像が建てられている。この広場、二〇一三年にジンギス・ハーン広場と名を変えたが、二〇一六年に再びスフバートル広場に戻された。この微妙なバランス感覚がモンゴルの歴史感覚を象徴するものといえよう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ロシア史におけるタタールの軛とその後</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  「ロシアは謎のなかの謎につつまれた謎である」と英首相チャーチルは語っていた。ロシアとは何かを考える時、埋め込まれた「タタールの頸木」といわれるモンゴルの影がロシア史の謎を深めていることは間違いない。本連載の第一回「ピョートル大帝のオランダでの船大工体験」において、一七世紀末のオランダにおいて、ロシアのピョートル大帝がロシア皇帝という身分を隠してまで、アムステルダムで東インド会社の子会社で船大工として働いたことがあるという史実に触れ、こうした体験を通じて、ピョートル大帝がユーラシア大陸の東への関心を深めたことを述べた。その中で、「ロシア史には『タタールの頸木』という表現があり、一三世紀初頭から一五世紀末まで二世紀半にわたるモンゴルの支配を受け続け、潜在意識におけるトラウマになっている」と論じたが、ロシア理解にはこのトラウマを視界に入れることが不可欠である。<br />既に述べたごとく、ジンギス=ハンが一二〇六年にモンゴル帝国を建国し、一二二七年に没した後、その孫バトゥ(抜都)軍が、タタール族をはじめ多様な高原民族を率いて、一二三六年に西方遠征を開始した。破竹の進撃で、一二三八年にはモスクワ、一二四〇年にはキエフを陥落させ、ポーランド、ハンガリーにまで侵攻した。バトゥはヴォルガ川下流域に留まり、キプチャク・ハン国を成立させた。キプチャク・ハン国はモンゴル帝国からも自立し、一四世紀半ばにはロシアの諸公国を支配下に置いて全盛期を迎えるが、モスクワ大公国やチィムール帝国の台頭によって、一五世紀末には衰退する。ただし、タタールの頸木は長く尾を引き、杉山正明が「モンゴル帝国と長いその後」(講談社、2008年)において語るごとく、一五五二年のカザン攻略で「タタールの頸木」を断ち切り、雷帝といわれたモスクワ大公イヴァン四世(在位1533~84年)でさえ、流れている血の半分はモンゴル人であった。つまり、イヴァン四世の母はジョチ・ウルスの有力者ママイの直系であり、妻マリヤ・テムリュコヴナはジョチ家王族の血脈で、杉山正明が言う「モンゴルの婿たるモスクワ」だったのである。そのころのロシアは、モンゴルの後ろ盾を権威付けとしていたということである。<br /> イヴァン一世(在位1328~40年)がモスクワ大公国を継承した時、その領地はわずかに二万平方KMにすぎなかったが、一世紀後の第六代大公イヴァン三世(在位1462~1505年)はその版図を二〇〇万平方KMにまで拡大していた。イヴァン一世の孫、ドミトリー・ドンスコイがタタールの頸木に初めて反旗を翻したとき、モスクワ軍に二〇か国もの公国が合流した。そして一五四七年。雷帝イワン四世が初代ツァーリに就任、前記の「タタールの軛」からの解放の戦いに挑むのである。<br /> ロマノフ家はモスクワ公国の貴族であったが、王家との婚姻を通じて権威を高め、一六一三年にミハエル・ロマノフがロマノフ家初代のツァーリとなり「ロマノフ朝」がスタートした。それが一七世紀末における「中興の祖」ピョートル大帝(在位1682~1725年)によって、「東進するロマノフ朝」となり、ロシアはさらなる膨張期に入った。ロシアはアジアに迫り、モンゴルの後継を自認する満州族主導の清国と一八五八年に愛琿(アイグン)条約を結び、アムール河北岸を獲得、さらに一八六〇年には清国と北京条約を結び、ロシア語で「東征」を意味するウラジオストクの建設を開始した。この間、一七九二年にはラックスマンが根室に来航、一八〇四年にはレザノフの長崎来航という形で、江戸期日本の扉をたたき始めた。以来、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン、八月九日(ソ連参戦)と、日本近代史はロシアの脅威と向き合ったのである。<br /> ロシアは一八六七年、明治維新の前年にアラスカを米国に七二〇万ドルで売却、一八七五年には「千島・カラフト交換条約」で、とりあえず日本との国境を確定したものの、東への野心を失うことはなかった。改めて、ロシア史を再考する時、思い起こす言葉がある。<br /> 一九世紀末、つまりロシア革命前のロシアにおける言葉だが、「ロシア人とは、美と精霊と愛を意識する正教徒であり、ツァーリを君主とし、同じ民族に属するという意識をもつ者」というのである。注目したいのがロシア正教の存在である。ロシア研究の下斗米伸夫は「宗教・地政学から読むロシア―――『第三のローマ』をめざすプーチン」(日本経済新聞社、2016年)において、「モンゴルの脅威から自由になり、ビザンツ帝国への従属的地位から解放され、モスクワ独自の存在感を高める中で、雷帝イヴァン四世は『モスクワは第三のローマ』と語るようになった」と指摘し、「二つのローマ(ローマとコンスタンチノーブル)」は斃れ、モスクワが「第三のローマ」としてキリスト教文明の中心に立つという自負を語るものという見解を示している。<br />ロシアの本質を見抜く上で重要な視点であり、現在のプーチン政権にも通じると思われる。二〇〇〇年に大統領に就任以来一八年、二〇一八年三月の大統領選挙で再選されれば、大統領という名の「新しいツァーリ」ともいえるプーチンが語る「正教大国を目指す」という意味は、この政権がロシア統合の基盤を「ロシア正教」に置くということである。ウラジミール・プーチン―――思えば、ウラジミールはロシア正教の原点に関わる名前である。九世紀後半に、バルト海と黒海の間に「ルーシ」と呼ばれるノルマン人の族長による部族を超える統治機構が台頭し、八八二年には首都をキエフとし、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル襲撃を目論んでいた。九八八年、東ローマ帝国はこの異邦人たちのキリスト教化を試み、ルーシのウラジミール公を東ローマ皇帝の妹と結婚させ、「大公」の称号を与えた。ロシア初の統一封建国家たる「キエフ・ルーシ」を率いるウラジミール一世(聖公)はギリシャ正教を国教とした。その後、一三二六年に混乱したキエフから逃れたルーシ総主教がモスクワ公に迎えられて以来、モスクワがロシア正教の中心となったのである。「ロシア主義」への回帰を主導するプーチンが何を心にロシアを駆り立てているのか、考えさせられる。</span></span></p> <p>  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p> <p style="margin: 0px;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;"> 現代のモンゴルにおいて、ジンギス=ハンはどう評価されているのか。昨年九月、ウランバートルを訪れた私の関心はここにあった。もちろん、ソ連崩壊を受けた一九九〇年代以降の「民主化」の中で、ウランバートル空港が「ジンギス=ハン空港」になるなど、再評価が進んでいるともいえるが、日本におけるモンゴル研究の熱気とは温度差を感じた。この温度差こそ、モンゴルという視界から世界を再認識する時の基点かもしれない。<br />ウランバートルのモンゴル民族博物館を訪れ、じっくり見せてもらったが、展示内容はモンゴル全史をバランス良く紹介しており、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国の栄光を誇示する内容ではなく、二〇世紀における約七〇年の社会主義時代も含めて、隣国のロシア、中国に配慮した展示になっているという印象だった。「失われたモンゴル史」という言い方があるが、皮肉にも、戦後日本のモンゴル帝国研究のほうが、岡田英弘、杉山正明などを代表格とする優れた研究が蓄積され、モンゴルからの世界史観が拓かれたといえ、むしろモンゴルの若い研究者がその成果を吸収するため日本に留学してきている状況なのである。<br />二〇一七年に日本でも公開された映画「グレート・ウォール(万里の長城)」(2016年ユニバーサル映画、米中合作、チャン・イーモウ監督)は、マット・ディモン主役の活劇で、シンガポールや香港など華人・華僑圏では大変な話題作であった。この映画で描かれる万里の長城の北から侵攻してくる夷狄は不気味な姿をした爬虫類の怪獣であり、獣、ケモノ、妖怪と北方民族を意識すること、これこそが中華文明的視界を象徴するものである。映画の設定は宋の時代とされ、宋の時代、北から長城を超えて侵攻したのはモンゴルであり、怪獣とはモンゴルの象徴なのである。一二七六年に南宋を滅ぼしたモンゴルが大元ウルスとして中国の中原を支配した時代を迎えるわけだが、モンゴルの位置づけが中国史のトラウマであることが分る。<br />この映画には、宋の時代の中国軍の武器として「火薬」とか「熱気球」が登場し、西欧の科学技術よりも、中国が前に出ていたという歴史観が埋め込まれており、「火薬、活版印刷、羅針盤、紙―――人類の四大発明はすべて中国が先行した」という「中華文明の歴史的栄光」を強調する現在の習近平政権の意図も投影されていたといえる(参照、本連載43「鄭和の大航海と東アジアの近世」)。中国中心の歴史観の象徴ともいえる映画であり、秦の始皇帝が紀元前二一四年に本格的に「万里の長城」の増改築に着手して以来、現存するだけでも日本列島縦断の三往復にあたる六二五九KMもの障壁を造り続けた情念は、中国にとって北方民族がいかに脅威であったかを想わせるのである。<br />そして、モンゴル史からの視界を深めることは、中国中心の歴史観(中華史観)や西欧優位の歴史観との対比、相関において、我々の世界観、ユーラシア大陸を見渡すグローバル・ヒストリーへの視界を拓くことに気付かされる。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">司馬遼太郎の「モンゴル紀行」とモンゴル史観</span></p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"> </p> <p style="margin: 0px; text-indent: 10.5pt;"><span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズで、モンゴルを訪れたのは一九七三年で、五〇歳を迎えた夏であった。「モンゴル人民共和国」としてソビエト連邦の衛星国的位置づけをされていた時代で、週刊朝日連載の後、「モンゴル紀行」(朝日新聞社、1974年)として刊行されている。ハバロフスク、イルクーツク経由でウランバートルを訪れており、直行便などなかった。一九七三年といえば、石油危機の年であり、私が三井物産に入社し、社会人としての生活をスタートさせた年でもあった.<br />まだ社会主義が一定の輝きを残していた。世界の多くの若者が社会主義への幻想を抱いており、「万国の労働者よ、団結せよ」と訴える「社会主義インターナショナル」が歌われていた。ベトナム戦争で米国が敗退したのが一九七五年であった。つまり、司馬遼太郎がモンゴルを訪れた頃は、ジンギス=ハンの栄光が最も抑制されていた時代であった。<br />ウランバートルには「政治粛清祈念博物館」があり、社会主義国家時代にスターリンによるソ連の支配に抵抗した元首相のゲンデンが一九三七年に処刑されたのをはじめ、政治家、僧侶など四万人以上が粛清されたといわれ、その犠牲者を記憶する施設が「民主化後」に作られたのである。モンゴル民族にとって一九二一年からの社会主義体制下の七〇年間は「失われた七〇年」どころか、民族の栄光を消し去られた時代であった。<br />司馬遼太郎は大阪外国語学校の蒙古語科を卒業し、モンゴルについて深い知見を持っていた。一九二三年生まれの彼は、一九四三年に学徒出陣で軍役に付き、満州の牡丹江で戦車連隊の小隊長として北東アジアを体験した。日本が「満蒙問題」という形で、この地域に特別の利害と関心を有していた時代であった。後に司馬は「街道をゆく」というシリーズで国内外の様々な地域を訪れて足跡を残したが、晩年「ハンガリーを訪ねたい」と語っていたという。生まれた赤ん坊の尻に「蒙古斑」がでる最西端といわれるのがハンガリーであり、モンゴル軍が攻め込んだ世界を極めたかったのであろう。<br /> 「モンゴル紀行」において、司馬は社会主義政権下のモンゴル憲法では「極端な愛国主義と盲目的な民族主義を排する」ことを規定していると指摘、1962年にジンギス・カン生誕800年記念行事を行おうとしたが、当時のソ連政府の顰蹙を買ったという記述もある。確かに、一九二一年の社会主義革命で成立したモンゴル人民共和国の憲法(1924年制定)では「人種的または民族的所属を理由とする、市民の権利の直接的または間接的なすべての制限、排外主義および国家主義思想の宣伝は、法律によって禁止される」(第83条)とあり、条文だけでは意味が伝わらない部分もあるが、ロシア革命を受けてソ連の周辺国だった時代において、ソ連がいかにモンゴル人の民族主義の再燃を抑制することに神経質になっていたかを示すもので、「勤労人民」の民族を超えた連帯のほうが重要という価値観を強く押し付けていたことが分る。<br />ウランバートルの中心部に「スフバートル広場」があり、スフバートルは一九二一年の社会主義革命の指導者で、一九二三年に二九歳で夭折した英雄であった。広場の中央にスフバートルの騎馬像(一九四六年建造)が立ち、広場の北側には巨大なジンギス=ハン像が建てられている。この広場、二〇一三年にジンギス・ハーン広場と名を変えたが、二〇一六年に再びスフバートル広場に戻された。この微妙なバランス感覚がモンゴルの歴史感覚を象徴するものといえよう。</span></span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"><span style="color: #339966; font-family: arial,helvetica,sans-serif; font-size: 12pt;">ロシア史におけるタタールの軛とその後</span></p> <p style="margin: 0px;"> </p> <p style="margin: 0px;"> <span style="margin: 0px; font-family: 'MS P明朝',serif;"><span style="color: #000000; font-size: medium;">  「ロシアは謎のなかの謎につつまれた謎である」と英首相チャーチルは語っていた。ロシアとは何かを考える時、埋め込まれた「タタールの頸木」といわれるモンゴルの影がロシア史の謎を深めていることは間違いない。本連載の第一回「ピョートル大帝のオランダでの船大工体験」において、一七世紀末のオランダにおいて、ロシアのピョートル大帝がロシア皇帝という身分を隠してまで、アムステルダムで東インド会社の子会社で船大工として働いたことがあるという史実に触れ、こうした体験を通じて、ピョートル大帝がユーラシア大陸の東への関心を深めたことを述べた。その中で、「ロシア史には『タタールの頸木』という表現があり、一三世紀初頭から一五世紀末まで二世紀半にわたるモンゴルの支配を受け続け、潜在意識におけるトラウマになっている」と論じたが、ロシア理解にはこのトラウマを視界に入れることが不可欠である。<br />既に述べたごとく、ジンギス=ハンが一二〇六年にモンゴル帝国を建国し、一二二七年に没した後、その孫バトゥ(抜都)軍が、タタール族をはじめ多様な高原民族を率いて、一二三六年に西方遠征を開始した。破竹の進撃で、一二三八年にはモスクワ、一二四〇年にはキエフを陥落させ、ポーランド、ハンガリーにまで侵攻した。バトゥはヴォルガ川下流域に留まり、キプチャク・ハン国を成立させた。キプチャク・ハン国はモンゴル帝国からも自立し、一四世紀半ばにはロシアの諸公国を支配下に置いて全盛期を迎えるが、モスクワ大公国やチィムール帝国の台頭によって、一五世紀末には衰退する。ただし、タタールの頸木は長く尾を引き、杉山正明が「モンゴル帝国と長いその後」(講談社、2008年)において語るごとく、一五五二年のカザン攻略で「タタールの頸木」を断ち切り、雷帝といわれたモスクワ大公イヴァン四世(在位1533~84年)でさえ、流れている血の半分はモンゴル人であった。つまり、イヴァン四世の母はジョチ・ウルスの有力者ママイの直系であり、妻マリヤ・テムリュコヴナはジョチ家王族の血脈で、杉山正明が言う「モンゴルの婿たるモスクワ」だったのである。そのころのロシアは、モンゴルの後ろ盾を権威付けとしていたということである。<br /> イヴァン一世(在位1328~40年)がモスクワ大公国を継承した時、その領地はわずかに二万平方KMにすぎなかったが、一世紀後の第六代大公イヴァン三世(在位1462~1505年)はその版図を二〇〇万平方KMにまで拡大していた。イヴァン一世の孫、ドミトリー・ドンスコイがタタールの頸木に初めて反旗を翻したとき、モスクワ軍に二〇か国もの公国が合流した。そして一五四七年。雷帝イワン四世が初代ツァーリに就任、前記の「タタールの軛」からの解放の戦いに挑むのである。<br /> ロマノフ家はモスクワ公国の貴族であったが、王家との婚姻を通じて権威を高め、一六一三年にミハエル・ロマノフがロマノフ家初代のツァーリとなり「ロマノフ朝」がスタートした。それが一七世紀末における「中興の祖」ピョートル大帝(在位1682~1725年)によって、「東進するロマノフ朝」となり、ロシアはさらなる膨張期に入った。ロシアはアジアに迫り、モンゴルの後継を自認する満州族主導の清国と一八五八年に愛琿(アイグン)条約を結び、アムール河北岸を獲得、さらに一八六〇年には清国と北京条約を結び、ロシア語で「東征」を意味するウラジオストクの建設を開始した。この間、一七九二年にはラックスマンが根室に来航、一八〇四年にはレザノフの長崎来航という形で、江戸期日本の扉をたたき始めた。以来、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン、八月九日(ソ連参戦)と、日本近代史はロシアの脅威と向き合ったのである。<br /> ロシアは一八六七年、明治維新の前年にアラスカを米国に七二〇万ドルで売却、一八七五年には「千島・カラフト交換条約」で、とりあえず日本との国境を確定したものの、東への野心を失うことはなかった。改めて、ロシア史を再考する時、思い起こす言葉がある。<br /> 一九世紀末、つまりロシア革命前のロシアにおける言葉だが、「ロシア人とは、美と精霊と愛を意識する正教徒であり、ツァーリを君主とし、同じ民族に属するという意識をもつ者」というのである。注目したいのがロシア正教の存在である。ロシア研究の下斗米伸夫は「宗教・地政学から読むロシア―――『第三のローマ』をめざすプーチン」(日本経済新聞社、2016年)において、「モンゴルの脅威から自由になり、ビザンツ帝国への従属的地位から解放され、モスクワ独自の存在感を高める中で、雷帝イヴァン四世は『モスクワは第三のローマ』と語るようになった」と指摘し、「二つのローマ(ローマとコンスタンチノーブル)」は斃れ、モスクワが「第三のローマ」としてキリスト教文明の中心に立つという自負を語るものという見解を示している。<br />ロシアの本質を見抜く上で重要な視点であり、現在のプーチン政権にも通じると思われる。二〇〇〇年に大統領に就任以来一八年、二〇一八年三月の大統領選挙で再選されれば、大統領という名の「新しいツァーリ」ともいえるプーチンが語る「正教大国を目指す」という意味は、この政権がロシア統合の基盤を「ロシア正教」に置くということである。ウラジミール・プーチン―――思えば、ウラジミールはロシア正教の原点に関わる名前である。九世紀後半に、バルト海と黒海の間に「ルーシ」と呼ばれるノルマン人の族長による部族を超える統治機構が台頭し、八八二年には首都をキエフとし、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル襲撃を目論んでいた。九八八年、東ローマ帝国はこの異邦人たちのキリスト教化を試み、ルーシのウラジミール公を東ローマ皇帝の妹と結婚させ、「大公」の称号を与えた。ロシア初の統一封建国家たる「キエフ・ルーシ」を率いるウラジミール一世(聖公)はギリシャ正教を国教とした。その後、一三二六年に混乱したキエフから逃れたルーシ総主教がモスクワ公に迎えられて以来、モスクワがロシア正教の中心となったのである。「ロシア主義」への回帰を主導するプーチンが何を心にロシアを駆り立てているのか、考えさせられる。</span></span></p> <p>  </p> <p><span style="font-size: small;"> 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。</span></p>