2019年 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019.html Mon, 29 Apr 2024 09:13:39 +0900 ja-jp webmaster@terashima-bunko.com (寺島文庫) 岩波書店「世界」2019年12月号 脳力のレッスン212 江戸期の仏教への再考察――日本人が身につけたもの―――一七世紀オランダからの視界(その62) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1547-nouriki-2019-12.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1547-nouriki-2019-12.html  江戸幕藩体制三〇〇年において、仏教は形骸化し、堕落したとみるのが、日本仏教史の定説(辻善之助「日本仏教史」など)であった。確かに、本山が末寺までを統括する「本末制度」、さらに寺院が村落の檀家を束ねる「寺檀制度」によって国家権力の統治機構に組み込まれた仏教となることによって、仏教教理の原点が見失われ、仏教の形式化が進んだことも否定できない。仏教は衆生救済の宗教というよりも民衆統治の機構の一部になったともいえる。幕府は1635年に寺社奉行を配し、一六六五年には「諸宗寺院法度」を出し、寺院統制に踏み込んだ。
幕府による仏教統制はキリシタン禁制との相関で強化されていった。既に秀吉の時代から「伴天連追放令」(1587年)が出されていたが、本格的に徹底されたのは、江戸幕府によって一六一二年(慶長17年)に「伴天連門徒 御禁制也」という禁止令がだされ、「宗門改め」が制度的に強制されたことによる。全国的に寺院単位で「寺請制度」による住民の統制がなされ、これが実体的に戸籍管理の制度化となった。島原の乱(1637~38年)を経てキリシタン禁制が強化され、それは仏教統制を通じて展開された。

 

 

徳川家と仏教---浄土宗と天台宗

 

本来、徳川家は浄土宗の檀家であった。三河岡崎の領主であった時代から岡崎の大樹寺が菩提寺だった。そのため浄土宗の増上寺が江戸における徳川の菩提寺となった。ところが、家康が天台宗の僧侶天海(1536~1643年)を重用し、しかもその天海が当時としては驚きの一〇七歳までの長寿を全うしたことが、三代家光までの徳川初期の宗教政策に大きく影響した。天海により一六二五年(寛永2年)に開山された天台宗の上野寛永寺(寺領・境内合わせて32万坪)が重きをなし、一六一六年、家康の死後は天海の「神仏習合神道」に基づき、家康を神格化して「東照権現」として日光に祀り、天台宗の輪王寺が取り仕切った。
三代家光は日光に、四代家綱、五代綱吉は寛永寺に葬られたが、以後歴代将軍は増上寺と寛永寺が半数ずつ将軍家の菩提寺としての役割を分担した。幕府は朝廷に皇子の「東下住持」を要請、皇族が寛永寺と輪王寺の門跡となって権威づけをする体制をとった。徳川御三家の宗派も実に微妙で、尾張は浄土宗、紀州は天台宗であり、水戸だけが二代光圀の影響で儒教にこだわり、葬祭に仏教の関与を許さなかった。水戸出身の一五代慶喜は朝廷に配慮し、遺言で神式での葬儀を寛永寺で行い、谷中墓地に埋葬された。
徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉が仏教の統制に手を焼くのを目撃してきた。そのため、「仏教を保護しつつ統制すること」に腐心した。一六〇一年から一五年にかけて寺院法度を宗派ごとに発布して統制を図った。とくに、本願寺系の一向一揆の抵抗を恐れ、浄土真宗の分断統治を図り、一六〇二年に第一二世相続に当たり、顕如の長男教如に対して、家康は京都烏丸に寺地を与えて東本願寺(真宗大谷派)を別立させた。仏教宗派の多くが、幕府の体制維持装置になっていく中で日蓮宗不受不施派の頑強な抵抗と幕府による弾圧には特筆すべきものがある。一五九五年に豊臣秀吉が大仏妙法院で行った千僧供養会に各宗派の僧侶一〇〇人を招いたが、一切応じなかったのが妙覚寺の日奥(1565~1630年)であり、「不信の者から施しは受けない」という姿勢を貫く日奥は、一五九九年の徳川家康の千僧会にも応ぜず、流罪となった。以後、幕末まで日蓮宗不受不施派へのおびただしい検挙、斬首、流罪が繰り広げられた。
江戸幕府の権力機構に組み込まれた仏教に自立的役割はあったのであろうか。末木文美士の「近世の仏教」(吉川弘文館、2010年)は江戸期における仏教を「堕落」と決めつけるのではなく、「民衆世界に華ひらいた」という視界を提起しており、示唆的である。中国からの黄檗宗の影響と出版文化の隆盛という要素が江戸期における仏教の民衆への浸透をもたらしたという指摘は重要である。
一七世紀中国における漢民族支配の明王朝から満州族支配の清朝への政権交代が、中国の儒学者や僧侶の日本への亡命をもたらしたことは既に触れた(参照、連載8「日本の大航海時代――鎖国とは中国からの自立でもあった」)。とりわけ、明の復興を目指して台湾を支配した鄭成功が仕立てた船で、一六五四年に来日した隠元(1592~1673年)による黄檗宗の登場が仏教界に与えた刺激は大きかった。宇治の万福寺を基点に活動した隠元によって導入された明朝禅林の生活規範たる「黄檗清規」が仏教界を動かす一方で、世俗に配慮した柔軟な「心の染浄」(自己の本来有する仏性の顕現)を重視する姿勢は江戸期仏教に静かに影響を与えた。黄檗系の僧侶が中国の木版技術によって「大蔵経」などの経典を普及させ、木版の「仮名法語」は民衆に仏教理解を促したことも大きかった。
また、江戸期における日本各地の村落における寺院の役割や寺子屋の活動に関する文献をみると、ソーシャル・キャピタルとしての仏教寺院の果した機能を印象付けられる。元禄期(一七世紀末)、幕藩体制下の日本において六万三二七六の村が存在したという。農耕社会を形成するそれぞれの村に「名主、庄屋、惣代」などの村役人が存在し、村のまとめ役として年貢の徴収などを担っていた。また、ほぼすべての村に寺が存在し、秩序の支柱となっていた。先述のごとく寺請制度、檀家制度などで統治機構の一翼を担っていたわけだが、日常的には寺子屋での手習い教育、貧窮者の救済、家事もめごとの仲裁など、福祉という概念もなかった時代にソーシャル・キャピタルとしての機能を果たしていた面も見逃してはならないだろう。明治期に近代的学校制度が始まる前に、日本人の識字率が極めて高かったのも、「読み書き算盤」を教える寺子屋が機能していたためであり、江戸期に蓄積された知の基盤が大きな意味を持った。
もちろん、越後の自然と子供たちの中に身を置き、寺さえ無き僧侶として清貧に生きた良寛(1758~1831年)のような僧侶ばかりとはいえぬが、仏僧が村落の日常において持った意味は大きかった。良寛の句に「 鉄鉢(てっぱつ)に 明日の米あり 夕涼 」があるが、こうして質実に生きる姿が、彼を取り巻く人々の心の灯であった。


 

江戸期の天皇と仏教――「泉涌寺」という存在

   江戸期、寺檀制や菩提寺の定着により、ほぼすべての日本人が仏教徒だったといえる。将軍から武士、町人、農民まで誰もがどこかの寺の檀家であり、天皇とて例外ではなかった。天皇家にも菩提寺が存在し、それが京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)だった。泉涌寺は平安時代初期に草創されたが、その後荒廃、鎌倉時代に再興され、健保六年(1218年)からは、律、天台、真言、禅、浄土という五宗兼学の道場として栄え、一二歳で亡くなった四条天皇(87代、在位1232~1242年)の陵墓が設けられて以降、朝廷にとって特別の存在となった。とくに、江戸期の朝廷と泉涌寺の関係はより密な関係となり、一〇八代の後水尾天皇から一二一代の孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は一貫して泉涌寺が執り行い、その陵墓(月輪陵、後月輪陵、後月輪東山陵)もすべて境内に造られた。
明治期に入り、「廃仏毀釈」の中で、泉涌寺の陵墓はすべて国に没収され、宮内省(現宮内庁)の管理下に置かれた。寺領を圧縮された泉涌寺は苦難の時代を迎える。国家神道を際立たせた明治憲法下の仏教寺院として、「御寺」とまで呼ばれた天皇家の菩提寺でありながら限られた御下賜金での運営を余儀なくされた泉涌寺であるが、一九四七年の日本国憲法で政教分離が定められて以降は、「国家神道」の圧力は回避できても、天皇家の内廷の私費の御下賜だけでは檀家の無い寺門の維持は苦しく、「伊勢神宮、橿原神宮、泉涌寺」を三大聖地とする宗教法人「解脱会」の支援などにより護持されてきたが、一九六六年以降は三笠宮崇仁親王(現在は秋篠宮文仁親王)を総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が設立され、民間篤志家が支援する形で維持されている。日本人の多くは、今日でも天皇と神道の関係だけを認識しているが、一五〇〇年に及ぶ日本仏教史の中で築き上げられてきた天皇と仏教の関係を忘れてはならない。
ところで、江戸期の日本は「儒教の時代」というイメージが強い。家康の「侍講」として儒書を講じた林羅山の孫・林信篤が「大学頭」に任じられてからは林家が大学頭を世襲していたが、正式に儒教が幕府の「正学」とされたのは、十一代将軍下の一七九〇年松平定信の「寛政異学の禁」(湯島聖堂での朱子学以外の教授を禁止)からであった。
江戸初期の儒学を支えた藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎という三人は仏門(臨済宗)から還俗して儒者となっており、儒学は宗教というよりも世俗社会を生きる規律に関する学問体系だったというべきかもしれない。
江戸期儒学の世界に屹立する二人、新井白石と荻生徂徠の果した役割については既に論究した(参照、連載25)儒学の側からの仏教批判は手厳しく、仏教の出家主義や現世否定的傾向、檀家制度に依存した僧侶の権勢と安逸、教理における「輪廻転生、地獄極楽」による民衆恫喝などが、現世への主体的関与を重視する儒学の主知主義とは相容れないものになっていった。新井白石の「鬼神論」はその意味で刺激的である。
 国学・神道の側からも仏教批判の動きが胎動し始めた。国学の祖とされる本居宣長については、「本居宣長とやまとごころ」(参照、連載26)において論じたが、「もののあわれ」から「古学」に踏み込んだ宣長の真髄は、「からごころ」、すなわち中国の文明文化に依存した世界観(華夷思想)の呪縛を解き、日本人の精神性を古層に求めることであり、「やまとごころ」の復権にあった。その目線からは、儒教は「唐土の道」であり、仏教は「天竺の道」が漢字文化を通過して伝わったもので、外来の道であった。
 こうした、儒教、国学・神道側からの仏教批判の鳴動こそ、明治期に吹き荒れる「廃仏毀釈の前史」であり、伏線であった。こうした仏教への論難に対して、仏教側からの対応の軸となったのは浄土宗の大我(1709~82年)などによって主張された「三教一致論」であった。すなわち、儒教、仏教、神道の帰するところは「天下を安んじるための勧善懲悪の倫理性」にあるとする姿勢であった。「三教一体」と単純に括れるものではないが、現代世界を生きる日本人として、自らの心の中に在る価値基準を問うとき、個人差はあっても、何らかの形で儒・仏・神の重層的価値の影響を受けていることに気付く。
 そして、それが江戸期という期間を通じて醸成されたものだということも間違いなかろう。幕府の正学として、武士層の思想の軸になっていった儒教、寺檀制度を通じ、日常性の中で民衆の精神の基層を形成した仏教、土着の自然崇敬と祖先祭祀を基盤として掘り起こされた古層としての国学・神道、これらが複合化して化学反応を起こし、日本人の「魂の基軸」を形成したといえる。それを新渡戸稲造のごとく「武士道」と呼ぶか、「和魂洋才」論における「和魂」と呼ぶかは別にして、日本人の深層意識における価値は、明治以降の日本近代史にも投影されていくのである。


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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Fri, 31 Jul 2020 08:53:51 +0900
岩波書店「世界」2019年11月号 脳力のレッスン211 織田信長時代の仏教―――キリスト教との邂逅 ―――一七世紀オランダからの視界(その61) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1546-nouriki-2019-11.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1546-nouriki-2019-11.html  六世紀の仏教伝来から約一〇〇〇年が経過した頃、戦国時代といわれた日本において仏教はどうなっていたのであろうか。この頃、一五四九年のフランシスコ・ザビエルの鹿児島への上陸以降、キリスト教が本格的に伝来し、「キリシタンの世紀」といわれるほど日本へも浸透し始めていた。この間の事情は本連載17「キリスト教の伝来と禁制」において論じたが、一六世紀後半の半世紀において、日本のキリシタン人口は三〇万人から四〇万人にもなっていた。戦国日本を統一する基点となった織田信長という人物は、宗教に関しても驚くほど柔らかい好奇心を持っていたようで、自分の目の前で宗教者たちに宗論を戦わさせ、宗教者が何を主張しているのかを見極める試みをしている。仏教にとっては試練の時期でもあった。

 

 

フロイスの「日本史」における仏教僧との対決

 

司祭フロイスが残した「日本史」(松田毅一他訳、中央公論社、全12巻、1977~80年)の第三六章(第一部八七章)に、「司祭が信長、および彼の政庁の諸侯の前で日乗上人と称する仏僧と行った宗論について」という興味深い報告がある。記録に残る仏教とキリスト教との邂逅としては、特筆すべきことである。織田信長の要請を受けて、信長ほか約三〇〇人の家臣の前で、仏教僧と教理を巡る論争を行い、あくまでフロイスの記録という形ではあるが、詳細な応答が残っているところに歴史資料としての価値があるといえる一五六九年五月六日(新暦)のことであり、信長が安土城に入る一〇年前、本能寺の変で命を失う一三年前のことである。この宗論の二年後に比叡山の焼き打ちがなされるが、その後の織田信長の宗教観にとって、この出来事は大きな意味をもったと思われる。
まず信長が、司祭(フロイス)とロレンソ修道士に対して、日乗上人という仏僧に、キリスト教の教えなるものを説明するように求める。これに対してロレンソは、日乗上人に対して「日本の宗教についてどのような見解を持ち、どの宗派に帰依しているのか」を尋ねるが、日乗は「自分は何宗にも属さず、知りもしない」と答える。そして、僧侶の姿をしているのは、「世の煩わしさと世情に嫌気がさしたからで、修行も巡礼もしていない」と答える。宗論以前に「逃げ」に入っており、この仏僧のレベルを感じさせる。
日乗上人なる仏僧は、正確に言えば仏僧と言える人物ではなく、出自は出雲出身の朝山善茂という下級武士で、戦国の世を美作の尼子、周防、京都の三好三人衆と渡り歩いた流浪の俗物であり、僧侶のなりをしながら、策謀、裏切り、犯罪行為を繰り返しながらしたたかに生きた人物像が確認されている。一時期、比叡山延暦寺の心海上人の下で学んだこともあったようだが、この対論の中で「何を学んだのか」を問われても、「忘れた」というだけで、仏教の教理を一切語ろうとしない。
実はフロイス達、キリスト教の宣教師たちは「日本に定着している仏教とは何か」について強い関心を抱いて一定の研究を積み上げていたようで、例えば叡山の心海上人とも面談しており、仏教の神髄を問い掛けている。心海上人はさすがに仏教教理に明るく、「仏性(キリスト教における霊魂)は実体も形態も色彩も備えず」と語っており、大乗仏教における「色即是空、空即是色」の「空」の思想をかなり的確に語っているのだが、フロイスは「仏教は無の原理に基づく」と理解しており、「日本人は可視的なものしか認識が及ばず」と判断したようである。仏教思想における人間の意識を深く探求する唯識論には気付かず、俗悪な日乗のような仏僧もどきの人物と向き合うことになった悲劇を想わざるをえない。
一五四九年にザビエルが来日してから、一七世紀の初めに禁止される半世紀の間に、先述のごとくキリスト教は当時の日本の人口の三%に当たる三〇~四〇万人になるほど浸透した。当初、ザビエルは日本人に定着している仏教概念を利用して、キリスト教への理解を促した。例えば、絶対神「ゼウス」を「大日如来」になぞらえて「ダイニチ(大日)」と訳したが、やがて適切ではないことに気付いた。隠語、俗語として、地域によっては「ダイニチ」が女性器を意味する言葉として用いられていたということもあるが、仏教においては創造神、絶対神という概念は無く、キリスト教理解において誤解を招くことに気付いたといえる。
キリスト教と仏教の宗論に立ち会った信長自身の肉声を感じさせる部分がある。只管「伴天連追放」を要求する日乗に対して、信長は「予は貴様が小胆なるに驚き入る」と述べ、腹を据えて教理の正しさにおいて異教と向き合えという極めて合理的な姿勢を貫くのである。また、ロレンソが絶対神ゼウスの慈愛の深さを語ったのに対して、信長が面白い質問をしている。「分別をわきまえぬ者、もしくは生まれつき馬鹿頓馬の連中はどうなのか。奴らはゼウスを讃えなくとも差支えなかろう。そうせよといっても無理な話だからな」と言い、ロレンソは「どんな人間でもゼウスの恩寵に応えて、ゼウスを賛美しなければならない」という主張を行い、信長もとりあえず「予は満足じゃ」と応じたという。
この宗論の結末はすさまじいものであった。追い詰められた日乗は逆上し、ロレンソ修道士が「死が訪れても、霊魂は破滅しないし、消滅もしない」と語ったのに対して、「人間にあるという霊魂を見せてみよ」と叫んで、刀を取り出して襲い掛かろうとする暴挙に出た。信長は日乗を取り押さえさせ、「日乗、貴様のなせるは悪行なり。仏僧のなすべきは武器をとることにあらず、根拠を挙げて教法を弁護することではないか」と叱責したという。フロイスの「日本史」は、安土山で法華宗と浄土宗間の宗論が行われたことにも触れている(第二部29章)。ただし、この記述の内容は正確を欠き、史料としての価値を欠くが、こうした宗論が一五七九年六月に安土で行われたことは、「信長公記」(太田牛一により1598年(慶長3年)までに著述)によっても確認され、信長が仏教教義の真贋に関心を抱き、その経緯を見つめた結果、やがて自らを神格化する心理に至り、激しい仏教弾圧に出たことが分る。

 この一六世紀後半の「キリシタンの世紀」に関する研究は近年深化しており、郭南燕編著「キリシタンが拓いた日本語文学」(明石書店、2017年)は、ザビエルの日本語学習努力と能力の検証や、一五七九年に巡察師として来日して以来、三回も来日したヴァリニャーノが大友宗麟の忠告を受けて採用した「順応方針」(現地文化重視)の内容など、正に日本における「多言語多文化交流の淵源」に迫っている。

 

 民衆の宗教への仏教のパラダイム転換―――親鸞・日蓮の仏教

   世界史、そして日本史に不思議な「隠し絵」のように登場するのが景教である。景教、すなわち東ローマ帝国の居城コンスタンティノポリスの総主教をしていたネストリウス(381~451年)に発するネストリウス派のキリスト教が、異端とされながらもシリアやササン朝ペルシャなどへの東方展開において粘り強く生き延び、イスラム教の創始者ムハンマドのキリスト理解に影響を与えたことには言及してきた。(参照、連載56)さらに、十字軍の時代、イスラム勢力の背後から「キリスト教を奉じる王、プレスター・ジョン」が十字軍の救援に駆けつけるという伝説が欧州に広まったが、これも東方に消えた景教への淡い願望の投影であった。(参照、連載46) 日本においても景教は間欠泉のごとく微妙な存在感を示す。六三五年には中国に景教としてキリスト教が伝わっており、日本にも七三六年に入唐副使として中国に渡った中臣名代が三人の景教僧を連れて帰国した記録があることは既に触れた。(参照、連載17)また、聖徳太子が「厩戸の皇子」と呼ばれることに関し、イエス・キリスト生誕の「馬小屋」と重ね合わせる景教の影響とする説があることも紹介した。(参照、連載60)つまり、ザビエルがやってくる八〇〇年以上も前に、日本に一度はキリスト教が伝わっていたといえる。
景教伝来以降なぜキリスト教は日本に定着しなかったのであろうか。受容される土壌がなかったといえる。ザビエルは「日本人は、水が染み入るようにキリスト教を理解する」という印象を語っているが、一六世紀までの間に起こった変化とは何か。日本人の宗教基盤が大きく変わったといえ、それは、親鸞、日蓮などの鎌倉新仏教の登場と浸透である。
 親鸞(1173~1262年)が生きた時代は「末法」の到来を思わせる荒廃した時代であった。九歳から二〇年間天台座主慈円の下で修業した親鸞であったが、二九歳の時、自力の念仏に疑念を抱き、法然の阿弥陀仏の本願を信じる「専修念仏」に参じ、三四歳の時、越後に流されて以降、「非俗非僧」を貫き、衆生救済の絶対他力の仏教を関東で布教、六二歳になって京都に戻り、九〇歳まで活動を続けた。親鸞という存在は、インドの世親の親と中国の曇鸞の鸞という二人の大乗仏教の高僧の名前を重ね合わせていることに象徴されるごとく、その存在自体が仏教教理の発展を吸収し、ユーラシアの風を体現しているといえる。親鸞の仏教は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉に凝縮されるごとく、知性の媒介無き一心不乱の阿弥陀仏への帰依を貫くこと、つまり絶対他力の平等主義をもたらすことによって、仏教を「国家鎮護」ではなく「民衆の仏教」に変えたのである。鈴木大拙は「日本仏教は弱者と普通の人の仏教」とし、親鸞の仏教を「日本人が外の世界に対してなしうる偉大な貢献」と語っている。
また、和辻哲郎は「日本精神史研究」において、「神は愛なりとする直観において両者は極めて近い」とキリスト教と念仏宗の近似性を語るが、確かに絶対他力による絶対平等主義に立つ救済を志向することにおいて、キリスト教の精神を理解しやすい土壌を親鸞の仏教が形成していたといえよう。鎌倉新仏教のもう一つの柱が日蓮(1222~1282年)である。親鸞が亡くなった時、日蓮は四〇歳であり、関東に親鸞が残した親鸞の足跡と浄土教の隆盛を見つめながら僧侶としての修業を続けた。その中から日蓮は「念仏さえ唱えれば救われるわけがない」として、浄土教を拒否し、法華経の伝道に生涯を掛けるのだが、鎌倉の政治権力、為政者さえも相対化する視界で「立正安国論」を展開した。政治的弾圧や法難に耐えながら、個々の衆生救済という視界を超えて、蒙古襲来のような国難が迫る日本への危機感に立ち、「国」「民族」の救済という視界を拓いた。キリスト者内村鑑三は、親鸞を「わが友親鸞」と語り、日蓮を「仏教を日本の宗教にした」と表現していたが、的確な眼力であろう。
 浄土真宗と日蓮宗は長く緊張感をもって対峙してきたが、より大きな視界から再考すれば、国家仏教を苦悶しながら生きる衆生の仏教へとパラダイム転換させたことにおいて重なる。こうした宗教土壌の変化が、キリスト教の上陸という刺激を受けて、日本精神史に新たな化学反応を起こしたのである。


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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Fri, 31 Jul 2020 08:50:52 +0900
岩波書店「世界」2019年10月号 脳力のレッスン210 仏教の日本伝来とは何か―――一七世紀オランダからの視界(その60) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1545-nouriki-2019-10.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1545-nouriki-2019-10.html  日本への仏教伝来が、六世紀の東アジアの政治力学を投影したもので、日本の仏教受容が当時の日本の大和王朝内の政治力学を反映するものだったことを確認しておきたい。
そして、仏教が政治権力と結びついて伝搬する一方、その教理の真髄に人間の内面を省察する「気付きの宗教」という性格を内在させているために、「招福神」として伝来した仏教が権力をも超越し、日本精神史の基底を形成したことに気付くのである。

 

 

朝鮮半島の仏教史―――三韓それぞれの受容

 

 朝鮮半島が統一される以前、四世紀末の「三韓」といわれた三国時代に仏教は朝鮮半島に伝来した。東アジア史の中で考えると、この頃の中国は「五胡一六国」といわれる時代で、漢民族支配の時代から、非漢人の北方・西方民族が力を付け、民族の複合化が進み、統一王朝による縛りの無い中で外来の仏教が周辺にも浸透していったといえる。
まず、高句麗には三七二年、前秦の王が僧順道を派遣する形で仏教が伝えられたという。三九二年には広開土王が平壌に九つの寺院を建てたと記録され、六世紀の平原王の時代には、北斉に僧義淵を派遣するなど、仏教が深く受け入れられていたことが窺える。三国時代の高句麗の版図は現在の北朝鮮より大きく、山東半島を含む中国東北部からアムール川南岸までに及ぶ。七世紀に、高句麗が新羅・唐の連合軍に敗れて滅亡した後、満州ツングース系の国家として渤海国(698~926年)が興ったが、その支柱は高句麗復興を目指す高句麗の遺臣たちだった。
日本に仏教を伝えた百済には、三八四年の枕流王の時代に東晋から仏教がもたらされ、仏教国家として歩み始めた。百済は高句麗、新羅との緊張を背景に、日本への接近を図り、仏教も日本を惹きつける先進的文化・文明の象徴であった。百済は六六〇年に新羅と唐の連合軍に敗れて滅亡するのだが、百済の遺臣は日本に亡命していた王子の余豊璋を擁立して日本との連合で復活を試みるが、「白村江の戦い」(663年)で新羅・唐の連合軍に再び敗れた。この頃、多数の百済からの渡来人が日本に身を寄せ、百済王氏という姓を与えられた氏族も生まれた。桓武天皇(在位781~806年)の母がこの百済王氏の出身で、天皇は百済王子一族を「外戚」と宣言している。
 白村江の戦いは、日本と百済の関係の深さを示しており、中大兄皇子(のちの天智天皇)の指揮の下、上毛野稚子等の率いる二万七千人の軍勢を派遣しており、この敗戦が日本の支配層に与えた衝撃は大きく、律令国家体制の整備に真剣に取り組む契機となった。朝鮮半島東岸の新羅には、五世紀前半になって高句麗を通じて仏教が伝来し、法興王の時代、五二八年に公認したという。朝鮮半島の仏教史を貫くのは、王権が仏教の受容を主導したことである。それは王権の強化と中央集権統治のために、「一次元上の聖徳による統治」という正当性が必要だったということであろう。
現在の韓国の宗教状況が、キリスト教二八%、仏教一六%、無宗教五六%(2015年推定)とされ、李氏朝鮮王朝時代(1392~1910年)の朱子学重視により「儒教の国」というイメージを抱きがちだが、改めて朝鮮仏教史に触れてみると、教理研究のレベルの高さを印象付けられる。七世紀に聖徳太子の師となった僧・慧聡、日本の初代僧正となった観勒はともに百済僧である。朝鮮半島の仏教史に関して、日本にはあまり知られていなかったが、近年研究が深まり、金龍泰「韓国仏教史」(春秋社、2017年)など翻訳された好著もあり、正確な知識が確認できるようになった。
朝鮮半島の仏教史を振り返ると、三国時代に伝来した仏教が、慶州仏国寺を建立して鎮
護国家仏教を重んじた統一新羅時代(676~935年)、仏教を国教化した高麗王朝時代(936~1392年)と約七〇〇年にわたる隆盛期を経て、仏教教学も深まり、民衆にも浸透したことが分る。この間、多くの僧侶が中国のみならずインドにまで留学している事実に驚かされる。モンゴルの影響を受けた高麗王朝をクーデターで倒した李氏朝鮮王朝の時代を迎えると、「儒教国家」が標榜され、「儒仏交替と廃仏」という試練の局面を迎えるが、仏教は民衆の中を生き延びた。

 

 

 日本への仏教伝来―――招福神として

 

  「元興寺縁起」によれば五三八年、「日本書紀」によれば五五二年、いずれにせよ欽明天皇期に百済の聖明王によって、高度の文明の象徴としての仏像と経典と仏具が日本にもたらされたという。渡来人たちによる個別的伝来は先行していたと思われるが、国家的伝来という意味での仏教の到達である。この仏教伝来こそ、この時点での東アジアの政治力学を投影するもので、百済の意図は、先述の如く日本との親交を深め、三韓の中での優位性を高めようというものであった。
「日本書紀」における百済の聖明王の上表文をみると、仏教は「無限の福徳果報」を生み、「祈ることがなんでもかなう」と語られ、「招福神」として紹介されたことが分る。この時、欽明天皇は礼拝すべきか否かを群臣に下問した。百済系の豪族たる蘇我稲目は「諸国が信奉している」として受け入れを進言、物部尾輿と中臣鎌子は「外国の神」を祭るならば「国神の怒りを招く」として否定、迷った天皇は、とりあえず稲目に預けて礼拝させることにした。稲目は向原の家を清めて寺にして仏像を祭った。ところがその後、疫病が流行り、五八五年、仏教のせいだとする意見を受けて敏達天皇の命で、仏像を難波の堀江に廃棄(当時の外国との交流の出入口)、向原の寺を焼き打ちしたが、天皇の大殿が火災に襲われ、敏達天皇は疫病で死んでしまった。
崇峻元年(588年)、蘇我馬子は物部守屋を討伐、崇仏派が巻き返しを図る。この年、馬子は日本最初の出家者善信尼を百済に留学させるのだが、日本初の仏教者が女性であったという事実は、「卑弥呼」伝説のごとく女性が祭祀の中心にあった日本において、初期仏教がどのように受け止められていたかを考える上で興味深い。善信尼は五九〇年に帰国、大和桜井に寺を構えたという。
 同じく崇峻元年、本格的な寺院建設の勅令がだされ、蘇我馬子にその役が託された。百済から僧六人、大工、瓦師が来日、塔の心礎に仏舎利が収められたのが推古天皇元年(593年)で、五九六年に完工したのが元興寺(現在の飛鳥寺)である。六〇五年には大仏建立の詔勅が出され、百済から招かれた止利仏師によって日本最古の仏像たる六〇九年に飛鳥大仏が創られたのである。
私自身、何度となく大和三山を見渡す明日香の甘樫丘の麓、飛鳥寺を訪れて、飛鳥大仏を見つめてきた。大和を愛した歌人、会津八一の歌集「南京新唱」に、 「 みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の やまとくにばら かすみて ある らし 」がある。「香薬師を拝して」とあり、新薬師寺で詠まれたというが、私には飛鳥大仏の表情が想い浮かぶ。ヘレニズムの影響を残す端正な表情―――シルクロードを超え、中国、朝鮮半島を経て大和の地に根付いた日本仏教の原点を見る想いで、「日本はユーラシアとのつながりで形成されてきた」ことを実感する。
 さて、仏教伝来を「日本宗教史」の中で改めて熟考するならば、百済系渡来人に連なる蘇我氏が普遍的宗教としての仏教の受容を主張し、宮中祭祀に関わる物部、中臣氏が仏教を拒否するという構図が浮かび、仏教対古来の神道の対立という見方に傾斜しがちとなるが、仏教伝来の時点で、宮中祭祀はあったが、体系的な教義を持つ「神道」はなかったという。つまり、仏教伝来という刺激が神道を形づくったといえる。
本格的に天皇主導の仏教になったのは、六三九年に天皇と最初の官寺「百済大寺」を建立した舒明天皇、六四五年の大化の改新後に即位し、「天皇が仏教を主導すること」を宣言した孝徳天皇、薬師寺を建立した天武天皇(在位673~686年)あたりからであろう。
 仏教の伝来とは、先進的文化の伝来でもあった。教義、経典もさることながら、文物、土木技術、寺院建築、薬剤、医療、絵画、音楽の伝来でもあり、その上に日本文化が形成されたのである。

 

 神仏習合の起点としての聖徳太子

    日本における仏教の受容に際立った役割を果したのが聖徳太子だといってよい。但し、「聖徳太子」という人物は伝説と謎に包まれており、その実在を否定する説や、その「厩戸の皇子」という呼び方が「キリストの出生」と類似していることから、景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を指摘する説(明治期の久米邦武説)なども存在する。
 確かに、「聖徳太子」の名は「書紀」には見えないが、用明天皇の息子で、推古天皇の皇太子として、名は「厩戸の皇子」、別名「上宮」「豊耳聡聖徳」「法主王」など様々な呼び名で呼ばれた常人を超えた聖人の存在が日本精神史には必要だったと考えるべきであろう。つまり、決して天皇にはならなかったが「摂政」として、仏教教理の最初の理解者たる聖徳太子(574~622年)が「一七か条の憲法」「官位一二階」を制定し、遣隋使を派遣するなどの事績を残した青年指導者という象徴的な存在が求められたのである。
聖徳太子には二人の仏教の師がいたという。高句麗からの慧慈(えじ)、百済からの慧聡であり、太子の仏法の教義理解は深く、単なる「招福神」としてではなく真剣に「三宝興隆」(仏法僧を崇敬する姿勢)を主導した。太子の仏教理解は、妃であった橘大郎女が描かせた天寿国繍帳にある「世間虚仮、唯仏是真」(世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり)という言葉に凝縮されている。最澄、空海、親鸞、日蓮など、後の多くの仏教者が、聖徳太子を「和国の救主」として尊崇するのも、天皇と仏教と衆生済度を結びつけた存在として、聖徳太子が「神仏習合」の結節点に立つからである。
 末木文美士の「日本宗教史」(岩波新書、2006年)などに刺激を受けて「神仏習合」について再考するならば、仏教優位の「神仏習合」が「中世における神道の自己主張」の登場まで続いていたことに気付く。輪廻の世界の「六道」(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天)の最上位の「天」の領域にあると位置づけられた日本古来の「神」を「仏」の力で救い、「神」が仏教を支えるという構図で「神仏習合」が成立していたのである。我々は、江戸期の「国学」成立以降、とくに明治期からの神道優位の展開に視界を引き寄せられがちなのである。
 日本は七世紀以来「神仏習合」の歴史を積み上げてきた。江戸期、幕府の正学は儒教であったが、徳川家は仏教を敬い、上野の寛永寺、日光の輪王寺など天台宗を基軸としながら、芝増上寺の如く浄土宗も大切にした。寛永寺には、一六四七年に後水尾天皇の第三皇子を「法親王」という形で招き入れて以来、幕末まで皇室が支える形をとった。
ところが、大政奉還後の一八六八年(慶應4年、9月に明治に改元)三月に、太政官布告で「祭政一致制度の回復」「神仏判然令」が出され、神道国家を志向する「廃仏毀釈」「敬神廃仏」の流れが打ち出された。明治国家体制は、一九四五年の敗戦によって否定されたが、実は天皇と仏教の関係にはほとんど変化がない。仏教伝来以来の一五〇〇年間の天皇と宗教の関係においては、むしろ異例といえるほど天皇が神道とだけ結びついている時代が戦後日本にも続いているのである。


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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Fri, 31 Jul 2020 08:46:51 +0900
岩波書店「世界」2019年9月号 脳力のレッスン209 漢字になった経典の意味―――仏教伝来:中央アジアから中国へ ―――一七世紀オランダからの視界(その59) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1544-nouriki-2019-9.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1544-nouriki-2019-9.html   百済の聖明王によって日本に仏教が伝えられたのは五三八年とされ、ブッダの入滅の年BC三八三年から約千年近くが経過していた。この時間の意味を注視することで、我々日本人が身に着けた仏教とは何かを考えておきたい。朝鮮半島の百済に中国・東晋から仏教がもたらされたのが三八四年という。さらに、その中国に仏教が伝来したのは、史書によれば後漢の明帝の時代の紀元六七年に大月氏国(中央アジアの古代民族、現在のウズベキスタン、タジキスタンの南部とアフガニスタン北部に当り、南東をガンダーラに接する)からブッダの教えを集約した「四二章経」が伝わったとされる。
紀元前二世紀には「シルクロード」が開かれており、インドと中国を結ぶ回廊によって、仏教も多様な形で中国に伝わっていたようである。つまり、ブッダが悟り、布教していた時代から約五〇〇年で仏教は中国に至り、さらに五〇〇年を要して日本に辿り着いたのである。ブッダの死から約千年の経過の中で、仏教はどう変質していったのか、それは我々自身の中を流れるユーラシアの風を確認することでもある。

 改めて、紀元一世紀頃の世界を見渡すと、この頃「救済の宗教」が動き始めたことが分る。ユダヤ教から普遍的愛を語るキリスト教が登場したごとく、自己の解脱を目指す「ブッダの仏教」(初期仏教)から他者の救済をも視界に入れた「大乗仏教」が登場した。人類史的に言えば、定住革命から約八千年を経て、人間社会の政治的関係が複雑化し、部族、民族を超えた「帝国の登場」(ローマ帝国、クシャーナ帝国、古代イランのパルティア帝国など)という局面を迎え、人々の心に部族・民族を超えた「救済」を求める志向が芽生え始めた。人間の内なる世界に厳しく向き合い、弟子たちを突き放すように「自燈明(自らを照らせ)」と言い残して入滅したブッダの思想は、大乗、つまり「衆生救済の大きな船」
に向かい始めたのだが、それを必要とする「救済を求める心」が存在していたといえる。

 

 

中央アジアを経由した仏教―――シルクロードを超えて

 

イラン系騎馬民族クシャーンは、大月氏国に服属していたのだが、紀元一世紀後半に大月氏を倒してクシャーナ帝国を形成、紀元一世紀末には「パックス・クシャーナ」の時代を迎えた。インド西北部のガンダーラから中央アジア、敦煌など中国北西部を版図とし、最盛期の王カニシカが仏教に帰依し、中国に仏教を本格的に伝える触媒となった。ローマ帝国との交流でもたらされた金貨に王とブッダの姿を刻印し、シルクロードに仏像など仏教美術を花開かせた。本来、仏教は偶像崇拝を否定し、内なる気付きに向かう「ブッダの仏教」においては仏像は存在しえなかった。ブッダ入滅の後、仏舎利(釈尊の遺骨)を八つに分けて、八つの仏塔を建てたことにより、「仏塔」(ストゥーパ)は大切にされたが、仏像は存在しなかった。仏教が「救済の宗教」という性格を帯びるにつれ、「ブッダの姿を見たい」という衆生の願望を受けて、救済者を象徴する像が求められ、紀元一世紀頃にガンダーラとマトウラーで仏像が創られ始め、中央アジアに、「仏像」という形で仏教美術が花開き始めた。
シルクロードはタクラマカン砂漠で西域北道と西域南道に分かれ、オアシス都市を繋ぐ形で、敦煌で合流、玉門漢を経て中国に入る。ローマ帝国、インド、中国を結節するルートであり、西域南道にはミーラン遺跡(3~4世紀)、桜蘭遺跡、ホータン遺跡群(3~7世紀)西域北道にはキジル石窟(3~8世紀)、そして中国の西域の出入口たる敦煌には莫高窟(4~9世紀)が残っている。インド側の起点、カシミールにはバーミアンの大仏があったが、二〇〇一年にイスラム過激派集団タリバンによって爆破されてしまった。西域仏像にはヘレニズムの影響を色濃く残すものが多く、顔立ち、頭髪、衣服など、ユーラ
シアの交流を投影している。
中央アジアを経由することで、仏教は世俗社会との関係を深め、「衆生救済」「国家鎮護」という性格を帯び始めた。「仏像」の発展もその象徴といえる。修行による解脱に専心するよりも、あるいは仏教教理を深く受け止めるよりも、直接的な救済の希求に傾斜し、仏菩薩像に「南無」(帰依すること)と念ずるという「行法の単純化」が図られた。また、多様な部族宗教との接触、融合によって、仏教は民族の特性を反映するものとなっていった。
紀元七世紀以降、イスラム教が浸透し、九世紀から一〇世紀にかけて、中央アジアから仏教が消えた。一三世紀にはモンゴルが中央アジアを席巻するが、モンゴルはチベット仏教の影響下にあったが、宗教には寛容であった。そして、中央アジアというフィルターを通じて中国に伝わった仏教は「経典の漢字への翻訳」を通じて、全く新たな局面を迎える。

 

 

中国の仏教受容の歴史――漢字文化圏の仏教の意味

 

  中国に仏教が伝わったのは、前記のごとく紀元六七年とされるが、前漢の時代(BC2年)には、大月氏の使者・伊存によってもたらされたとの説もあり、紀元前後には中央アジアから仏教が流入していたといえよう。中国において、仏教は大きく変化した。何よりも、民衆に定着していた在来思想としての儒教、道教との葛藤と結合を通じた「仏教の中国化」が進んだ。
中国への仏教伝来の初期、道教の黄老思想と結び付けられて、ブッダは「不死の存在」とされ、「不老長寿と福を祈る教え」として仏教が受け入れられたという。また、「老子化胡説」(老子がインドに行ってブッダとなったという説)や「三聖化現説」(孔子、老子などの中国の聖人はブッダの弟子だったという説)が生まれたという。
 儒教の孔子(BC552~479年)は紀元前五世紀の人であり、道教の老子は「孔子より100年後の人」とするのが有力だが、例えば、儒教の「孝経」の影響を受ける形で、先祖への供養を大切にすることを仏教も受容する形で定着したのが「盂蘭盆」だという。また、大乗仏教の中核たる「空」という概念も、中国伝来の初期には、道教における「無」と受け止められ、「無生」「無相」などの造語で説明されていたという。
 仏教の中国化において最も重要な要素が、漢字による仏教理解をもたらした中国語への翻訳である。本来、インドは「インド=ヨーロッパ語」という文明圏に属し、宗教観、価値観などが言語となって存続しており、中国の漢字に表象された儒教・道教などの体系とは全く異なる世界であった。そのインドに生まれた仏教という思想を漢字に翻訳することは極めて困難な壁であった。
そのことを深く掘り下げた書が、船山徹「仏典はどう漢訳されたか―――スートラが経典になるとき」(岩波書店、2013年)であり、訳と意訳を組み合わせ、漢字で仏教思想を伝えようとした先達の試みの意味が心に迫ってくる。我々「漢字圏」に生きてきた人間がいかに仏典由来の漢字に囲まれてきたか、例えば、この「世界」という雑誌の「世界」という言葉も、「縁起」などと同じく仏教語(仏典の漢訳のために作られた言葉)であり、文字通り我々の「世界観」の起点となっているのである。
 最初の仏典の漢訳者は安息国出身の安世高(2世紀)だとされる。その後三世紀末には、初期仏教の仏典翻訳者として、大月氏系で敦煌生まれの竺法護(239~316年)が活躍、四世紀後半になって、本格的な仏典漢訳者として亀茲(クチャ)国出身の鳩摩羅什(クマラジーヴァの音訳、350~409年)が登場、三五部、二九七巻の経典を漢訳したという。鳩摩羅什までの翻訳を「古訳」といい、鳩摩羅什は「旧訳」の雄とされる。
鳩摩羅什と並ぶ仏典漢訳の巨頭が唐の玄奘三蔵法師(602~664年)であり、ここからが「新訳」とされる。法相宗の開祖とされる玄奬は六二九年インドに向かい、一六年間滞在して六四六年(日本の大化の改新の翌年)に帰国、経典の漢語翻訳に優れた足跡を残した。六四九年に大乗仏教の象徴的概念を凝縮した「般若心経」を訳出、今日の日本でも最も知られる経典となっている。「空」という概念を浸透させた「色即是空・空即是色」と、「応無所住・而生其心」(とらわれないこころ)という訳語は天才的閃きの結晶であろう。

 

「零」と「空」の同根性について

 

  「空」という概念は、何故道教の「無」とは異なるものとして「空」と訳されたのか。このことを考えていて、重要なことに気づいた。「空」はサンスクリット語の「シューニャ:SŪNYA」の中国語訳だが、このシューニャは数字のゼロのことでもあるというのだ。インドにおける「ゼロの発見」と仏教の「空」は基を一にする。このことは思索を駆り立てずにはおかない。
 岩波新書の名著に吉田洋一の「零の発見」という本がある。一九三九年発行だから八〇年も前の作品で、三回も改版がだされており、インドの記数法における「ゼロ」の発見が、アラビア、そして欧州の数学、科学技術に革命的影響を与えたことを論じた作品で、目を開かれた記憶がある。つまり、六世紀のインドにおいて、位取りの記数法に「ゼロ=0」という概念が生まれ、七世紀のインドの数学者ブラーマグプタの書に「いかなる数にゼロを乗じてもゼロ」という考え方が記述されているという。吉田はインドの記数法におけるゼロの登場を、インドの哲学思考における「空」と結びつけることには踏み込んでいない
が、かの龍樹が「空」なる視界を体系化したのが三世紀の前半とされ、大乗仏教思想における「空」という思想が、記数法における「ゼロ」に投影されたと考えるのは不自然ではないと思われる。何故なら、「空」も「ゼロ」も、「無」ではなく、「空」「ゼロ」として存在・機能する概念だからである。現代科学の基点ともいえる「ゼロ」なる概念と仏教思想における「空」が同根であるという事実は重い。空は決して無ではない。「色即是空」が「空即是色」としてポジティブに反転する意味を潜在させ、空は「万物を生み出す母胎」という両義性をもつ。数理における零のごとく。
 ところで、漢字で経典を理解することの意味を考える時、「漢文字の魔術」を語っていた鈴木大拙を想い出す。大拙の「大乗仏教概論」は、一九〇七年、三七歳の時の英語で書かれた作品であり、九六歳まで生きた大拙だが、「未熟な作品」として翻訳を望まなかったという。欧米人に仏教を理解させるための「単純化」も目立つが、仏教の特性として「無神、無霊魂」を抽出し、絶対神を掲げるキリスト者達の度肝を抜いた若き大拙の意気を感じる。
大拙は後年、表意文字たる漢字で考えることの「アジア的思考」の重要性を指摘していた。「東洋的な見方」(上田閑照編、岩波文庫、1997年)において、西洋的見方は「分割的知性」であり、分割は知性の基点で、主客分別することで「一般化、概念化」という知が成り立つとする。一方、東洋的見方は「主客未分化」で、自然という全体の中で生かされていることを意識して「円融自在」の視界で思考するとし、漢字という表意文字で思考することの意味を語っていた。我々も、例えば「般若心経」における「観自在」とか「色即是空」いう文字を見つめると、象徴的概念の意味が湧き上がる体験をする。それが中国を経た仏教の意味かもしれない。

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Fri, 31 Jul 2020 08:38:33 +0900
岩波書店「世界」2019年8月号 脳力のレッスン208 仏教の原点と世界化への基点―――一七世紀オランダからの 視界(その58) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1543-nouriki-2019-8.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1543-nouriki-2019-8.html  宗教論において、仏教は「無神論」に括られることが多い。また、比較宗教論において、「仏教は宗教ではない。心を探究する主知主義という意味において思想である」と論ぜられることもある。確かに、何を「仏教」とするかによって仏教に対する考え方は変わる。
 日本人が、一四〇〇年以上も影響を受けてきた仏教であるが、ブッダなる人物が約二五〇〇年前に拓いた仏教と、多くの日本人が理解している大乗仏教は違う。インドで仏教関係史跡などを見る機会を得て、「原始仏教」といわれるもののイメージが、我々が触れ合ってきた仏教とは大きく異なるという印象を受けた。

 

 

人間ブッダを見つめて―――仏教の原点の再確認

 

仏教の原点を確認するために、生身の人間としての釈迦(BC463~383年頃)に思いを馳せてみたい。ブッダとは「目覚めた者」という意味であるが、釈迦は古代北インドのカピラ王国のシャカ族(SAKYA)の王の子として生まれた。本連載44の「インド史の深層」で触れた如く、BC一五〇〇年頃にアーリア人(中央アジア遊牧民)がインド亜大陸に侵攻、シャカはアーリア系と先住民の混血とされる。釈尊として世界四億人の仏教徒の崇敬を集めるブッダだが、もし、この人物が至近距離にいたならば、その身勝手な生き方に疑問を抱くであろう。生後七日で母を失い、一六歳で結婚、ラーフラと名付けた男子を設けるが、瞑想的性格が昂じて、二九歳で妻子を捨て、「善が何であるか」を求めて出家、「老いと病と死」という人間の苦しみを見つめて三五歳で悟りを開き、以後八〇歳までの四五年間、ガンジス川のほとりの中部インドを布教して歩いたという。
ブッダは出家の後、二人の師の下で禅定(瞑想)によって解脱を得ようとしたが果たされず、次に肉体を極度に苦しめることで精神の自由を得ようとする「苦行」に打ち込んだ。徹底した不殺生のための断食、牛の糞を食べる糞掃衣、直立不動といった修行を試み、釈迦修行像のごとく、骨と皮だけになってしまった。にもかかわらず、解脱は得られず、ブッダは川で沐浴をし、村の少女スジャ-タが差し出した乳粥で体力を回復し、ブッダガヤーの菩提樹の下で七日間、思索・瞑想の後、悟りに至ったという。当時のインドにおいて「出家」という生き方は特異なものではなかった。悩み深い若者
にとって、流行りの生き方というか、社会的風潮ともいえた。山崎守一の「沙門ブッダの成立―――原始仏教とジャイナ教の間」(大蔵出版、2010年)など原始仏教に関する文献を読むと、ブッダの時代のインドは、四姓制度(カースト制)の最上位階層たるバラモン中心社会で、ブッダもバラモン教を基礎としながらも、それでは満たされぬ修行僧(自由思想活動家)たる沙門の一人となった。
 不思議な話だが、出家してから七年目、つまり悟りを開いた翌年、ブッダは一度故郷に帰り、父親たる王、そして妻子とも再会している。釈迦の実子ラーフラは、出家し戒律を授けられ、ブッダの十大弟子の一人に数えられており、無責任に家族を突き放したわけではなく、縁を繋いでいたとみられる。但し、肉親への愛・執着という次元を超えた「慈悲」がブッダの意思であったことも確かである。
ところで、もしブッダが出家することなく、王子の人生を生きたならば、彼のシャカ族の王国がコーサラ国の将軍ヴィドゥーダバによって滅ぼされる運命に巻き込まれ、亡国の悲哀に直面するか、あるいは剣をもって圧力を跳ね返して「轉輪王」(古代インド世界を統一する理想王)となっていたかもしれない。いずれにせよ、「血みどろの人生」を政治的人間として生きたであろう。だがブッダは、政治的争いを拒否し、非政治的人間として「解脱」の道を生き、そのことがあらゆる政治権力を超越して「仏教的価値」を屹立させる基点となったのである。ブッダが政治と距離を置いて、「善なるもの」を求めて内なる力を探究したことにより、仏教は権力を相対化する力を内在させたといえる。 四五年間の伝道を終え、涅槃に入るブッダの最後の言葉は「自燈明 法燈明」(自分自身を拠り所として生きよ、ブッダの教え(法)を拠り所として生きよ)であった。最後の二五年間、傍に侍者として仕えた弟子アーナンダへの言葉である。仏教最古の文献(BC400~300年以前の文献)とされる「スッタニパータ」(講談社学術文庫、2015/並川孝儀、岩波書店、2008年)などを読むと、生身のブッダの息遣いが感じられる。―――「ひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀そっくりになって」―――「いかなる存在をも根本的なものとして絶対視することなく」という言葉が心に残る。

 スッタとは「経」、ニパータとは「集」であり、スッタニパータは「経集」で、ブッダの死後、ブッダの十大弟子を中心に「結集」(釈迦の教えを継承する試み)がなされ、パーリ語聖典として南方上座部に伝わるものである。日本人は、日本に伝わった「大乗仏教」をブッダの教えと思いがちだが、修行者に残したブッダの生の声は「南伝の上座部仏教」に残っているのである。ただ、それだけでは仏教は世界宗教にはならなかったであろう。人間としてのブッダを見つめるならば、真摯に自らの心の内奥を問い詰め、欲望や苦悩からの解放を探究した修行者の姿が浮かぶ。ブッダ最後の言葉「自燈明」は、正に本音であろう。衆生の救済を語る前に、まず自らの心の制御に向かう意思に「ブッダの仏教」の本質があるといえる。
その後、ブッダの仏教は「大乗仏教」へと変化する。但し、それはあくまでもブッダの思索や意識を追体験した後世の弟子たちが、ブッダの悟りに至る思考基盤と格闘し、「加上」させた教理といえよう。

 

 

大乗仏教の登場――救済の宗教への転換

 

  大乗仏教の「大乗」とは「大きな船」という意味で、仏教がより多くの衆生の救済を視界に入れる方向に変化したことを意味する。中央アジアから中国、朝鮮半島、日本へと伝来した仏教が「大乗仏教」である。対照的概念として「小乗仏教」という表現があったが、見下したような響きがあるため、近年は「上座部仏教」という表現が使われている。「上座」とは出家者のことで、この上座部仏教こそスリランカ(BC3世紀頃)、ミャンマー(11世紀頃)、タイ(13~14世紀頃)などに伝わった「南伝仏教」で、修行者(沙門)としての悟りの道を探究した「ブッダの仏教」を伝える正統派と言える。
中東一神教における「聖書」「コーラン」のような唯一の教典がなく、絶対神を中心に据える原理もなく、心の内側に向かう主知主義(気付きの探求)に重きを置く仏教は、多様な解釈がなされる可能性を内包しており、「加上」のプロセスこそ仏教の真髄ともいえる。「救い」の思想を拒否していた仏教が、何故「衆生の救済」に向かったのか。それはブッダの死後、五〇〇年が経過する社会状況の変化の中で、仏教も修行者の宗教だけではいられなくなったということであろう。BC三一七年頃、チャンドラグプタがマガダ国を滅ぼし、マウリヤ王朝を創始、その孫にあたるアショーカ王(在位BC268~232年頃)
の頃、王朝は最盛期迎え、インド空前の大帝国を形成した。そのアショーカ王が仏教に帰依、仏法に基づく「正法国家」の建設に力を注いだ。仏教教団も盛大となり、それが教団分裂の伏線となった。宗教の政治化は必ず「権力に取り込まれるもの」と「それを拒否するもの」との断裂を生むのである。
大乗仏教の誕生に大きな役割を果たしたのが龍樹(150~250年頃)であった。本連載54で「キリスト教を世界化させた基点が使徒パウロである」と述べたが、仏教を世界化する理論的基盤を構築した人物が、大乗系八宗の始祖とされる龍樹である。近年の研究では、龍樹という存在は一人ではないとする複数人説が定説のようだが、仏教思想の柱である「空」への視界を体系化したのが龍樹である。
「空」とは「存在する者には実体がない」という考えに立ち、あらゆる執着からの解放(とらわれない心)を志向する視座である。大乗仏教を凝縮したともいえる「般若心経」の冒頭が意味する「観自在菩薩は、完全なる智慧の完成に向けた実践において、存在するもののすべては実体のないものと見抜き、一切の苦悩や災禍をとりのぞいた」という世界観を産み出したのである。無常なるものを常であると執着し、もがき苦しむことからの解脱を示唆しているのである。多くの日本人に「写経」などを通じてよく知られているのが「般若心経」であるが、「般若」(ハンニャ)は「完全なる智慧」(全体知)を意味し、「波羅蜜多」(ハラミッタ)は「完成」を意味するという。実体のないものに執着せず、「完全なる智慧」に近づく意思を込めた経典なのである。
二一世紀の現在、存在すると思い込んでいるものが「空」であるという視界は、デジタル革命の中で常態化し、むしろ違和感なく受け止められるのではないか。バーチャル・リアリティーにおいて「仮想」と「現実」の境界は一段と不明となり、自分に不都合な情報はすべて「フェイク」(虚構)として否定する大統領が米国に登場、さらに、アイドル、キャラクター、ゲームといわれるものへの感情移入の激しさ―――我々は、虚構を虚構と知りながらも埋没する心性に陥りつつある。積極的に虚構を受け入れる心性の先にあるものは何か。おそらく、それは虚構の影に進行する不条理を拒否する力を見失わせ、現状を変革する意思を拡散させるであろう。「空」を認識し、我執を制御することを目指した大乗仏教は、新たな真価を試される局面にある。「イマ、ココ、ワタシ」だけを優先させる虚偽意識に埋没することからは、「衆生の救済」は進まないからである。
 脳科学の進化によって、脳が意識を構成するメカニズムが検証されるにつれ、仏教に
おける「唯識」が新たな意味を浮上させている。脳神経外科医である浅野孝雄の「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」(産業図書、2014年)は「複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性」を検証するものとして興味深い。「唯識論」を大成させたといわれるのが世親(ヴァスバンドゥ、400~480年頃、諸説あり)であり、大乗仏教における「唯識」論は人間の意識の深奥を極める志向である。人間の意識には、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの識の他に六識としての「理知、感情」に加え、七識としての「末那識」(自我意識)、さらにその奥に潜在する八識としての「阿頼耶識」(虚妄分別)があるという視界が存在する。七つの識下に「特異点」(Singularity)を超した思考が創発されることを意味する「阿頼耶識」が、大脳皮質ニューロンの創発作用と呼応することが解明されつつある。人工知能(AI)を探究するコンピュータ科学と人間の脳を解明する脳科学、さらに人間の心の奥底を制御しようとする仏教という三つの研究の接点が拡大しているといえる。それが人間社会にいかなるパラダイム転換をもたらすかはまだ不明である。

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Fri, 31 Jul 2020 08:30:04 +0900
岩波書店「世界」2019年7月号 脳力のレッスン207 イスラムの世界化とアジア、そして日本― 一七世紀オランダからの視界(その57) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1534-nouriki-2019-7.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1534-nouriki-2019-7.html  六一〇年にムハンマドが神の啓示を受けてからわずか百年、イスラムは「大征服」といわれる展開を見せた。ウマイヤ朝期、ビザンツ帝国からシリア、パレスチナ、エジプトを奪い、北アフリカを西に進んだイスラム軍は七一一年にはジブラルタルを渡り、七一五年にイベリア半島を制圧する。ジブラルタルという地名はイスラム軍を率いて欧州に上陸した将軍タリクに由来し、ジャバル・アル・タリク(タリクの山)から転訛したという。
また、東進したイスラムはササン朝ペルシャ(224~651年)を滅ぼし、現在のイラン・イラクを席巻、七一一年にはインダス川下流域に到達した。さらに、中央アジアに動いたイスラムはソグド人たちを排除して、七一二年にはサマルカンドを攻略した。
ユーラシア大陸の下腹部に張り付いたイスラムが、八世紀以降の世界史の重心となった。とりわけ、中東一神教として同根のキリスト教との激突が世界を突き動かしてきた。その最初の衝突が、ピレネーを越えようとしたイスラムとフランク王朝の対決(732年)であり、この時、欧州に「キリスト教共同体」意識が芽生えたことは既に触れた。

 

 

世界史におけるイスラムの役割

 

そして、イスラムとキリスト教の第二の衝突が十一世紀末から二〇〇年に及ぶ十字軍の時代であった、アナトリアのセルジュク・トルコの脅威に対して、ビザンツ皇帝の救援要請を受けたローマ教皇が「聖地回復の義務」(クレルモン宗教会議)を宣言、キリスト教側の価値に立てば、崇高な使命に基づく進軍であったが、第四次十字軍によるコンスタンティノポリスの占領と略奪のごとく、次第に迷走し始めた。(参照、連載55)十字軍は、ローマ教皇の権威をもって、「野蛮で残忍なイスラム」を排除する意図であったが、ロドニー・スタークの「十字軍とイスラーム世界―――神の名のもとに戦った人々」(新教出版、2016年、原書2009年)が、「欧州の『無知』対イスラムの『文化』」と表現するごとく、欧州にとってイスラムの文化力を確認する展開になった。イスラムはヘレニズム文明の継承者となり、特にアッバース朝(750~1258年)は、バグダッドに「知恵の館」という学術機関を作り、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献を集積、翻訳した。欧州では消失した文献のアラビア語からの再翻訳が、一四~一六世紀のルネサンスをもたらす契機となったのである。また、多くの十字軍兵士が、ローマや聖地の現実を目撃し、教皇や皇帝の権威を相対的に認識する機会となったことが、一六世紀の宗教改革の伏線になったといえる。十字軍の時代と微妙に重なりあうのがモンゴル帝国である。一二五三年にはチンギ・ハンの孫フレグ・ハンが西アジアに侵攻しイル・ハン国を設ける。フレグはイランの地に留まり、三代目の王となったテグルがイスラムに改宗、一二九五年、五代目のガザンからは、イルハン国はシーア派イスラムを国教とする国になった。「モンゴルのイスラム化」であり、中国を支配した元王朝が「漢文明」と馴化したことと合わせ、モンゴルという存在を考える上で重要である。(参照、連載46、47、48) 十字軍の攻勢は、一三世紀後半の第八回十字軍の時代に、十字軍への対抗意識を内在させて台頭したオスマン帝国によって終焉を迎える。一四五三年にビザンツ帝国はコンスタンティノポリスを征服されて滅亡する。それからは、欧州がオスマン帝国の攻勢に震え上がることになる。二度にわたるオスマン帝国によるウィーン包囲(第1回1529年、第2回1683年)で、当時の欧州の中核たるハプスブルク帝国は風前の灯となる。このトラウマが、欧州の人々のトルコへの潜在意識に恐怖感となって今日も続いているといえる。

この連載のテーマ「一七世紀オランダからの視界」も、先行するポルトガル・スペインの背中を追う「大航海時代」を背景とするものだが、大航海時代こそ欧州がオスマン帝国を回避してアフリカ大陸を回ってアジアに接近する試みであったことは改めて触れるまでもない。オスマン帝国は二〇世紀の第一次世界大戦まで七〇〇年間も世界史を突き動かすのである。第一次大戦によるオスマン帝国の解体から一〇〇年が経過したが、この間の中東を動かしたのは欧米列強による「大国の横暴」であった。英仏間のサイクス・ピコ協定(1916年)に象徴されるごとく、列強の思惑で中東に国境線が引かれてきたのである。一九七〇年代には、英国のスエズ以東からの撤退と米国のペルシャ湾支配へと移行したが、一九七九年のイランのホメイニ革命以降、湾岸戦争、イラク戦争を経て、米国の中東からの後退が続き、中東において静かに進行しているのは「シーア派イランとトルコの台頭」である。つまり、我々はイスラムの復権を目撃しているのである。

 

アジアのイスラム―――そして、日本の死角としてのイスラム

 

  メッカでの布教を始めて約一〇年、「絶対神の下での平等」を訴えるムハンマドの活動は多神教徒をイスラムに改宗させ、貧者、奴隷にも訴え始めた。それはメッカの支配層との対立を引き起こした。多神教を掲げる守旧派にとっては、「最後の審判」といったユダヤ・キリスト教的教義を掲げるイスラムは秩序を破壊する危険な勢力と見られ、イスラム教徒を迫害する圧力が高まった、危険を察したムハンマドは六二二年、ムスリム勢力を引き連れてメディナに移住(ヒジュラ=聖遷)し、イスラム共同体を形成し始めた。この時を、カレン・アームストロングが「イスラムの誕生」と表現(「イスラームの歴史」、中公新書、2017年、原書2002年)するのも頷ける。イスラムとは個人の宗教というよりも、「ウンマ」といわれる共同体として意味を持つからである。
 ムハンマドは六二二年に「メディナ憲章」(世界史資料2、岩波書店)を発表し、メディナ住民との共存を意図する契約において「ユダヤ教徒の宗教と財産を保障し、義務と権利を明確にした」が、ユダヤ教徒との関係は微妙であった。当初、ムハンマドは一神教の長兄としてのユダヤ教に敬意を払い、融和的に向き合っていた。日々の礼拝に当たり、信徒たちには「メッカの方角(南)ではなく、北のエルサレムの方角に向けて行うように」指示していたという。しかし、ユダヤ教徒は「アラブ人は神の計画から締め出された存在」として「アラブ人の予言者」を認めなかった。つまり、アブラハムを大祖先とし、旧約聖書とモーゼを尊崇する祖同宗教における新たな預言者とは認めなかったということである。
 ユダヤ教の教典トーラ、タルムードにおいて、ユダヤ人は強烈な選民意識に立ち、ユダヤ人以外を預言者としては認めない。六二二年、ムハンマドは「神の啓示」により、礼拝の方角をメッカとするように指示した。以来、イスラム教徒はメッカに向けての礼拝を始めた。ユダヤ教との決別であった。中東一神教の不幸な対立の淵源はここにあるといえる。
 イスラムとは「服従」を意味し、全身全霊でアッラーに服従することに徹し、あの平伏礼は傲慢・思い上がりを制する象徴的な儀礼である。富の公平な分配や相互の思いやりを重視する共同体(ウンマ)をすべての基盤とした。メディナでの体制を整えたムハンマドは、六三〇年には一万人の信徒を率いて進撃を開始してメッカを征服、カアバ神殿の偶像を破壊し尽くした。宗教指導者が政治的・軍事的統治者となって権力と権威を掌握するというムハンマド自身が実践した史実が「聖俗一体の共同体を目指す」というイスラムの原動力となっていくのである。

 

 

イスラムにおける聖俗一体―――「片手にコーラン、片手に剣」の意味

 

 今日、アジアにおけるイスラム人口は、南西アジアに、パキスタンの二・〇億人、インドの一・九億人、バングラデシュの一・五億人をはじめとして約五・八億人、東南アジアに、世界最大のイスラム国家インドネシアの二・三億人、マレーシアの一九00万人、フィリピンの五二〇万人、タイの三〇〇万人をはじめとして二・六億人となっており、インド亜大陸から東南アジアにかけてのゾーンに八・四億人のムスリムが存在しており、一六億人といわれる世界のイスラム人口の過半がこの地域に生活しているのである。
 中国にイスラム教が伝わったのは意外に早く、唐の時代の貞観二年(628年)で、景教という形でネストリウス派のキリスト教が長安に伝わったよりも早いというのだから驚く。ムハンマドの死よりも五年も前のことである。現在、新疆ウイグル自治区を中心に、二六〇〇万人のムスレムが中国に存在するといわれる。インドへのイスラムの侵攻は七世紀末から八世紀にかけて開始され、七一一年には南のシンド地方を征服、イランからアフガニスタン経由の北ルートとともに南北からの二ルートで展開された。東南アジアにおけるイスラムは武力での「大征服」とは異なり、交易を通じた浸透であった。東南アジアにイスラムが伝わったのは一三世紀末以降だといわれ、「商業の時代」を背景に、ペルシャやインドのイスラム商人が海を渡ってきた影響とされる。マレー半島南西部のムラカ(マラッカ)王国をはじめ交易の基点としての港市国家が成立、次第にイスラム化していった。ムラカ王国は、一四世紀末にはマルク諸島の香辛料(丁子)、ジャワの胡椒などの交易拠点となり、一五世紀の明の永楽帝による鄭和の大航海(1405~33年まで7回)が立ち寄った頃には人口十万人の都市になっていたという。そして一五〇九年、ポルトガル人来航することによって、西欧主導の「大航海時代」を迎えるのである。
 江戸期の日本、長崎の出島の主役だったオランダ東インド会社のアジアでの中核拠点はインドネシアのジャワ島のバタヴィアであり、一七世紀に東インド会社がここに進出した時には、この島にもイスラムが浸透していた。つまり、イスラムに取り囲まれながらバタヴィアは存在したのである。
一六〇二年に設立されたオランダ東インド会社は、一六〇三年にマレー半島パタニに商館を設け、一六一九年にはジャワ島ジャカトラをバタヴィアと改称、総督を配置した。当然、長崎出島に教会はなかったが、バタヴィアには一六三二年に教会が建てられた。十字教会で、カルヴァン派の教会であった。蘭東インド会社は一六二二年に「イエスの王国に栄光あらしめること」を指示、本国の教会を支える方針を示したが、ポルトガル・スペインのアジア進出が、交易と「カトリック宣教」を一体とするものだったのと異なり、オランダ人は実利優先で宗教には冷淡であった。
そのことがオランダだけが「鎖国」下の日本において交易を許された理由でもあるが、天草・島原の乱(1637~38年)において、原城に立てこもったキリスト教徒に対して、幕府の要請を受けてオランダは陸と海から数百発の砲撃したのである。(参照、連載12)田中優子は「近世アジア漂流」(朝日新聞社、1990年)において「したたかなバタヴィアの共存力」として、江戸期のバタビアという場所が、「一攫千金を目指すヨーロッパ人、アジア人がうごめき、まじりあい、混血する場」と表現するが、この頃のバタビアの雰囲気を的確に捉えているのであろう。「バタヴィア城日誌」(全3巻、東洋文庫、1960、村上直次郎・台北帝大、1937年発行の復刻)に目を通すと、現世的利益にのみ関心を抱いて生きていた人々の姿が理解できる。その江戸期バタビアを見た日本人が何人かいる。一人は数奇な運命をたどった「ジャガタラお春」である。一六二五年、ポルトガル船のイタリア人乗組員と日本人女性との間に生まれ、幼少期に洗礼を受け、一四歳の年、家族等十一人とオランダ船でバタビアに追放、蘭東インド会社商務員のシモンセンと結婚、三男四女を設ける。日本へ郷愁を込めた「ジャガタラ文」を送ったが、一六九七年に死去したという。ジャガタラとは「ジャガ芋」の語源にもなっている地名だが、キリシタン追放令で運命を弄ばれた人達がいたのである。(参照、井口正俊「ジャワ探究―――南の国の歴史と文化」、丸善プラネット、2013)もう一人は、博多の蘭学者青木定遠が「南海紀聞」(1819年)に紹介している筑前の漁師孫七である。孫七の漂流体験は七年におよび(1764~71年)、難破の後、ミンダナオを海賊に救われ、ジャワ島を経てオランダ船で帰国した。イスラム教徒の西方に向かっての毎日の礼拝の様子が伝えられており、異様な印象を受けたようである。
 江戸期にイスラムが日本に上陸することはなかった。キリスト教の禁制が同じ中東一神教のイスラムも封殺したことになる。明治期に入って、イスラムの宣教者の来日も記録されているが、日本人として初めてイスラム教徒としてメッカ巡礼に参加したのが山岡光太郎といわれ、一九〇九年(明治42年)のことであった。明治以降も、日本におけるイスラム理解は深まらず、アジア太平洋戦争期に日本軍の南進により東南アジアが軍政下に置かれるに至って、唐突に「回教徒対策」が浮上した。大日本回教協会などの協力を得て、現地イスラム団体との連携を模索したが、結局付け焼刃に終った。
日本におけるイスラム研究者で特筆すべき存在が大川周明であろう。大アジア主義者で「大東亜戦争」のイデオローグでもあった大川周明は、三〇年にわたるイスラム研究を集約し、戦時中の一九四二年に「回教概論」(慶應書房)を出版、その前書きに「「今や大東亜共栄圏内に多数の回教徒を抱擁するに至り、回教に関する知識は国民に取りて必須のもの」と述べている。「梅毒性脳症」によって戦犯から外されて後、異様な執念でコーランを翻訳したのも、彼なりの総括と省察があったといえる。「回教概論」において、「回教は宗教に非ず、文化体系の総合」と大川は論じるが、アラビア半島に生まれたイスラムがアジアの命運をも左右する存在になっていることに大川は気付いていたのであろう。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Thu, 21 May 2020 05:08:58 +0900
岩波書店「世界」2019年6月号 脳力のレッスン206【特別篇】平成の晩鐘が耳に残るうちに―体験的総括と冷静なる希望 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1533-nouriki-2019-6.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1533-nouriki-2019-6.html  「平成の三〇年」とは「冷戦後」といわれる世界史の潮流と並走した時代であった。一九八九年の一月に平成がスタートしたが、ベルリンの壁が崩壊したのはその年の十一月であり、十二月の地中海マルタでの米ソ首脳会談(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)で「冷戦の終焉」が宣言され、この二年後の一九九一年にソ連邦は崩壊した。平成の晩鐘が耳に残る今、「平成とは何だったのか」を世界の構造変化と日本の対応を体系的に整理し、確認しておきたい。この作業が、「令和」なる日本の進路を拓く上で、不可欠と考える。
平成は、第二次大戦後半世紀近く世界を東西に二分してきた冷戦の終焉を告げる鐘の音とともに始まった。私自身は、一九八七年から冷戦の終焉を越えた一九九七年までの一〇年間、ニューヨーク、ワシントンと米国の東海岸において活動した。この間、大西洋を越えて、ソ連崩壊前後のモスクワや東欧諸国を訪れる機会も多く、そうした体験を通じて、冷戦の終焉が如何に重い意味を持ったのかを実感してきた。

 

冷戦後の世界の構造変化―――二つの革命の進行

 

「冷戦」とは、資本主義対社会主義という体制選択を軸に世界が分断され、米国とソ連を頭目として対決していた緊張状態をイメージしがちだが、冷静に振り返るならば、米ソ二極の下に、民族とか宗教など地域紛争要素と社会問題が封印されていた状況ともいえる。その封印が解かれたのが平成期だったともいえる。その冷戦後のマネジメントに失敗したのが米国であり、冷戦の勝利者だったはずの米国はリーダーとしての制御力を後退させた。
冷戦の終焉は二つの意味で世界史のパラダイムを変えた。政治的には、冷戦の終焉直後「米国の一極支配」といわれていた政治構造は、米国の後退によって変化し、明らかに世界は多極化、多次元化しているのだが、深層底流において政治とは異なる次元での構造変化が進行したことを見抜かねばならない。


金融革命の進行―――悩ましい金融資本主義の肥大化
 一九八七年五月、ニューヨークでの生活を始めた頃、私はニューヨーク・タイムズ紙上で「ジャンクボンドの帝王」といわれていたマイケル・ミルケンの存在を知った。後に、映画「ウォールストリート」の主人公のモデルにもなり、インサイダー取引で有罪とされて失脚する運命を辿るミルケンだが、彼が生み出したジャンクボンドのような金融の仕組みが、与信リスクの高いベンチャー企業にも金が回る仕組みとして機能し、IT革命を担ったITベンチャーを支えたともいえ、新たな金融が動き始めた象徴であった。
その年、一九八七年一〇月一九日にDOWの二三%下落をもたらした「ブラックマンデー」が起こり、日本における大蔵省護送船団方式によって動く産業金融に慣れきった私にとって、危うさを孕んだウォールストリートの新たな動きは刺激的だった。1990年代にはビジネスを取り巻く多様なリスクをマネジメントすることを金融ビジネスモデルとする「ヘッジファンドの帝王」ジョージ・ソロスの存在が際立ち、彼とは3度ほど面談する機会を得た。ビジネス活動に伴うリスク(例えば為替変動)をマネジメントすることを金融商品化する新しい動きがヘッジファンドだった。
新しい金融の教科書ともいわれたバートン・マルキールの「ウォール街のランダム・ウォーカー」は1973年に出版されており、原書は既に第11版(邦訳2016年)を重ねている。インデックス・ファンドなど「行動ファイナンス」といわれる金融技術は四〇年も前から研究されてきたが、冷戦の終焉がそれを加速させる転機になった。確かに、金融技術の高度化には、冷戦の終焉の持つ意味が重かった。冷戦期、米国の理工科系大学の卒業者の3分の2以上が広義の軍事産業(宇宙航空機産業や造船業を含む)に雇用吸収されていたという。冷戦が終わり、軍事予算削減の中で軍事産業がリストラの嵐に直面し、新たな採用を抑え始めた。理工科系卒業者が向かったのが「金融」であり、金融セクターが「金融工学」を支える人材を必要としたこともあり、こうした人材が入ることで金融という世界が急速に変わり始めたのである。一九九九年、冷戦後の「新自由主義」という思潮を投影し、一九二九年の大恐慌の教訓を受けて「銀行と証券の垣根」を設定した「グラス・スティーガル法」は廃止され、より手の込んだ金融工学に立つ金融商品が生まれ始めた。二〇〇八年のリーマンショックをもたらした「サブプライム・ローン」は、与信リスクの高い貧困者にも金を貸す理論と持ち上げられ、この理論枠を構築したM・ショールズとR・マートンは一九九七年のノーベル経済学賞を受賞した。金融工学がアカデミズムにおいて認知されたのである。
リーマンショックを経ても「ウォール街の懲りない人々」は一段と増殖している。二〇一六年の大統領選挙で、当初ヒラリー・クリントンを応援していたウォールストリートは、トランプ当選となると、二〇一七年の一年でDOWを二四%跳ね上げる「トランプ相場」を盛り上げ、二〇一〇年にオバマ政権がリーマンの教訓として制定した「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)を大統領令で見直しを指示し、規制緩和への法改正を実現した。
 リーマン後の金融資本主義は、「ハイイールド債」「仮想通貨」と新手の金融商品へと資金を引き込み、スーパーコンピュータを駆使したFINTECを高度な運用へと突き進んでいる。もはや全体像を理解・掌握するのは困難というレベルに至っている。「金融資本主義の総本山」たるウォールストリートが発信し続けているメッセージは「借金しても経済を拡大させよう」ということであり、今や世界中の国家、企業、個人が抱える借金(債務)の総額は、世界GDPの四倍を超したという。
 冷戦後の三〇年の「資本主義の勝利」の後に進行したものは「経済の金融化」(金融資本主義の肥大化)であり、この債務の膨張は「資本主義の死に至る病」が進行しているといえる。C・P・キンドルバーガーの「熱狂、恐慌、崩壊―――金融恐慌の歴史」は1978年に初版、2000年に第4版(日本語版、2004年)が出たが、繰り返される金融危機を制御する視界は見えていない。
そして、「経済の金融化」という流れは、マネーゲームの恩恵を受ける人と取り残される人の「格差と貧困」という問題を際立たせ、それが世界の構造不安の潜在要因となっていることは否定できない。


情報ネットワーク技術(IT)革命の進行―――データリズムの時代へ
 もう一つ、冷戦後の世界に進行したものは「IT革命」であった。そのことはクラウド,BIGDATA、AI(人工知能)といわれる時代に至るプロセスを振り返れば明らかである。一九八七年五月、米国駐在となってNYに出発した時、私は六キロ位もあるワープロ、東芝ルポを担いで成田を発った。まだ、汎用コンピュータが主流の時代であり、マイクロ・コンピュータを繋いでネットワーク化する「IT革命」前夜であった。十年後、ワシントンから帰国する時には、機内でパソコンに向かい原稿を打ち込む時代になっていた。
IT革命は冷戦後の軍事技術の民生転換を起点とした。今日、インターネットといわれる情報技術の原型は、一九六二年にペンタゴンの委託を受けたランド・コーポレーションのポール・バランによってコンセプトが創られ、一九六九年にはペンタゴンの情報システムとして完成していたARPAネットである。冷戦の時代、ソ連からの核攻撃で中央制御のコンピュータが破断されるリスクを回避するために「開放系・分散系のネットワーク情報技術」を作ったのがARPAネットであり、冷戦の終焉を受けて、軍事目的で創った技術の民生での活用を図ることで生まれたのがインターネットであった。正に一九八九年が学術ネットへの技術開放がなされた「インターネット元年」であり、その後、一九九〇年代に入って商業ネットワークへの開放がなされ、世界はIT革命の時代に入ったのである。
 ワシントンDCで仕事をしていた一九九〇年代、ワシントン郊外のバージニア州北部にIT関連企業のビルが林立するのを見つめ、アメリカ・オンライン社の日本導入などにも関与していた私だが、「パソコン」がインターネットにつながり、アップル、マイクロソフトなどの躍動を驚きをもって見つめていた。(注、当時のアップルはマッキントッシュのパソコン会社で、96年にS・ジョッブスが経営に復帰、まだiPhoneの発売前であった。マイクロソフトは90年にウィンドーズ3・0を発売してOS分野を席巻、アマゾンは94年設立、グーグルは98年設立で、まだ存在感は無かった)本年三月末現在、IT革命をリードした五社(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の株価時価総額は四・〇兆ドル(440兆円)となり、「モノづくり国家・日本」を代表する企業たるトヨタ自動車の時価総額がわずかに二一兆円、日立製作所三兆円、新日鐡住金(現・日本製鉄)二兆円という現状こそが平成三〇年間の結果なのである。

 

通奏低音としての「新自由主義」とその挫折

 

  私は本稿を「平成の晩鐘」というタイトルで書き進めているが、冷戦後の世界の通奏低音となったイデオロギーが「新自由主義」であった。金融と情報の二つの革命をもたらした背景に存在した政策思潮も「新自由主義」であった。一九八〇年代、冷戦の終焉を主導したレーガン(在任1981~89年)・サッチャー(在任1979~90年)が推進した思潮であり、シカゴ学派といわれたM・フリードマンなどの理論に依拠するもので、ケインズ主義(自由放任ではなく政府が介入・制御する)を否定し、「規制緩和、福祉削減、緊縮財政、自己責任」をキーワードとする思潮であった。かつての絶対王政と対峙し、自律的市民社会を志向して国家介入の制約を主張した古典的な自由主義とは異なるもので、その新自由主義の政策思想を推し進めた結果、直面した挫折がリーマンショックであり、この金融破綻を境に「国家による介入・制御への回帰」へと世界は反転したのである。
 「新自由主義」の旗の下に、冷戦後の米国は突き進み、その潮流の中で金融と情報という新しいテクノロジーの結合による米国経済の復権を果たしたのだが、一方で、米製造業の海外展開(空洞化)が加速され、米国への移民労働力の流入という流れが形成された。ウォールストリートとシリコンバレーには光が当たり、巨万の富を得る人達も登場したが他方で「取り残された影」の部分を生み出し、二極分化と格差を増幅したといえる。これこそが「グローバル化」を否定するトランプの登場の伏線になったのである。

 

 

日本にとっての平成の三〇年―――失速の構造

 

 日本の平成期は株価のピークアウトとともに始まった。平成元年(1989年)の年末、日経平均株価は三八九一五円と史上最高値で年を越した。その後、下落基調を辿った株価は、リーマンショック後の二〇〇九年春にはバブル崩壊後最安値の六九九四円と最高値の五分の一にまで下落した。平成が終わろうとする二〇一九年四月中旬の時点での日経平均は二・二万円前後をうごいており、「異次元の金融緩和で株価を上げる」というアベノミクスが一定の効果を挙げているように見えるが、「異次元金融緩和」という金融政策に極端に依存した景気浮揚策の長期継続が経済の歪みをもたらし、実体経済を毀損していることが次第に明らかになっている。
平成の初頭に向けて、一九八〇年代末の日本においては「途方もない不動産バブル」が膨らんでいた。八七年の東京の地価は前年比七六%上昇、八八年は六九%上昇しており、「土地本位制」などという言葉がささやかれ、「天下の興銀」といわれた日本興業銀行などが大阪の料亭の女将に二・八兆円も貸し込むという異常な事態になっていた。市街地価格指数という指標があるが、一九九〇年をピークとして、二〇一八年には商業地は七六%、住宅地は四八%も下落、不動産バブルは吹き飛んだのである。
バブルで膨らんだ金融資産が、八五年のプラザ合意後の円高を梃にアメリカに向かった。八四年に1ドル二五一円だった円ドル・レートは、八六年には一六〇円となり、日本のバブルで水膨れした資産を四割近くも優位な為替レートで運用しようと、「アメリカを買い占める日本」という嵐が吹き荒れた。「ソニーのコロンビア映画買収」「三菱地所のロックフェラー・センター買収」が話題となり、当時マンハッタンに生活していた私の周りでも「胴巻きに百ドル札を詰めてニューヨークに来た」という日本の不動産業者がマンハッタンの古いビルを買い漁っていた。その後の展開を見ると、「アスベスト問題」などを抱えた不良物件を掴まされ、地元の業者に買いたたかれて撤退、結局は幻のごとく霧消していった事例が多かった。


アメリカの衰亡論の誤り―――失速したのは日本
一九八〇年代末、平成が始まる頃、日本においては「アメリカの衰亡論」が語られていた。「アメリカを買い占める日本」が吹き荒れ、日米財界人会議において「もはやアメリカに学ぶものはない」と豪語する日本の経営者もいた。チェッカーズの「SONG FOR USA」は一九八六年の歌だが、衰亡するアメリカへの哀愁のセレナーデであった。・・・・「THIS IS SONG FOR USA  最後のアメリカの夢を  俺たちが同じ時代を駆けた証しに・・・見えないもの信じられた ティーンネイジのまま約束だよ・・・」 哀愁を帯びたメロディーとともに アメリカの挽歌を奏でていた。実は、昨年ヒットしたDA PUMPの「U.S.A」も、オリジナルは一九九二年にイタリア人のJ・イエローによる作品で、本来の曲想は「アメリカン・ドリームが交差するタイムズスクエア」など輝いていたアメリカの衰退を慰めるものだったのだが、今日の日本を投影してダンスの派手な振り付けが目立つ「元気な歌」に変質してしまった。
アメリカの衰亡論は正しくなかった。確かに、政治的には九・一一からイラク戦争における「イラクの失敗」を経て、冷戦直後に「唯一の超大国」といわれていた米国の指導国としての地位は後退した。明らかに世界を束ねる「正当性」を失ったといえる。但し、国家としての産業政策が功を奏したわけではないが、シリコンバレーとウォールストリートの自己増殖力によって米国の経済は「よみがえるアメリカ」を演出した。さらに、二〇一〇年代に入っての「シェールガス・シェールオイル革命」によって天然ガスと原油の生産量が世界一になったことも追い風となり、世界GDPにおける米国の比重は、二〇一八年に二四%(IMF推計、1988年は28%)で持ち堪えている。国家と産業の乖離である。国家としての米国は世界を制御する力を失い、産業としてのアメリカはウォールストリートのしたたかさとシリコンバレーのイノベーションに支えられ影響力を保持しているのである。なんとも皮肉な現実である。
むしろ、日本の方が「衰亡」といわれても仕方がない数字が突きつけられているといえる。世界GDPにおける日本の比重は、一九八八年の一六%から、二〇一八年には六%にまで下落した。経済が「経世済民」という言葉から成立したことを思い起こしても、最も大切なのは「民」、すなわち国民が平成期に豊かになったか否かである。驚くべき数字だが、一九九〇年比二〇一八年の消費者物価が十一・一%上昇しているのに対して、勤労者世帯可処分所得はわずか三・二%増加(注、可処分所得がピークの一九九七年からは8・5%下落)というのだから、国民生活は平成期を通じて苦しくなったことになる。「デフレからの脱却」を掲げ、何とか物価を上げようとする「リフレ経済学」がいかに国民にとって適切ではないか、論じる必要もない。
 平成元年、世界の企業の株式時価総額トップ五〇社のうち、三二社が日本企業であった。昨年、同じく五〇社中、日本企業は一社のみで、トヨタだけである。もちろん、日本産業もIT革命を真剣に受け止め、この三〇年間、日本でもIT革命は進行した。しかし、日本にGAFAは生まれなかった。日本では「工業生産力モデル」の枠組の中でしかIT革命を構想できなかった。日本のIT革命は「データリズム」の方向に進まなかった。あくまで、IT関連素材、電子部品に加え、回線業、ネット通販ビジネスに傾斜し、BIGDATAのプラットフォームを握る構想に欠けていたといえる。


中国の台頭というインパクト―――依存と苛立ち
平成三〇年間の日本を取り巻く環境の中で、日本人にとっての衝撃は中国の台頭であった。平成が始まった頃、中国のGDPは日本の八分の一であった。それが平成が終わる二〇一八年には約3倍になっていた。日本にとっての貿易相手として中国が占める比重も、一九九〇年にはわずかに三・五%であったが、二〇一八年には二三・九%(含、香港・マカオ)となり、対米貿易の一四・九%を大きく上回っている。日本人の心理は微妙で、日本産業が中国との相互依存を深めていることを実感しながらも、中国の台頭に脅威を覚えており、「複雑骨折」しているといえる。
 一九八九年は天安門事件の年であり、中国が「冷戦の終焉」という世界潮流の中で、混乱の坩堝の中にあった。その後の中国は「改革開放路線」を選択しながら、「社会主義的市場経済」として社会主義へのこだわりをみせ、国家統制型資本主義という実態を色濃くしてきた。昨年五月にはカール・マルクス生誕二〇〇年記念式典を北京で行い、社会主義に見向きもしないプーチン政権下のロシアとの対照を見せている。  
 IT革命という面で、中国はテンセント、アリババ、ファーウェイなどのプラットフォーマーズを育てた。ファーウェイは非上場企業だが、テンセント、アリババだけで時価総額一〇〇兆円という巨大企業に一気に駆け上がった。「蛙飛びの経済」と表現され、固定電話が普及していなかった中国のほうが、携帯電話が一気に普及する皮肉を意味するようだが、中国のITイノベーターとその背後にある国家は、IT革命の進路が「データリズム」(データを支配するものがすべてを支配する)にあることを見抜き、戦略意思を持って立ち向かったことは確かで、米国が中国に脅威を感じる部分がここにある。

 

繰り返された改革幻想と改革疲れ―――行き着いた「常温社会」

 

 冷戦後の日本の政治は「改革幻想」の中を走った。「改革」を支える基本思想は新自由主義であった。まず、「行政改革」で八〇年代から土光臨調などの動きを受けて、国鉄など三公社の民営化を実現、二〇〇一年からは「省庁再編」に踏み切り、一府二一省庁を一府一二省庁に再編した。だが、これによって行政が効率化されたかと問えば、公務員の数が大きく削減されたわけではなく、しかも「政治主導」の名の下に「官邸主導」の流れが形成され、行政機能そのものを劣化させた面もある。例えば、IT革命という世界潮流に対して、日本は「総務省」という枠組みで向き合うことになった。国家の情報ネットワーク技術戦略を「総務」(その他一般事項)という名前で対応したことが、構想力の欠如を象徴するものになったといえる。
 次に「政治改革」、非自民の六党連立の細川内閣の下に、一九九四年、選挙制度が「小選挙区比例代表併用制」に変更になり、政治改革論は選挙制度の変更に終わった。本来、代議制民主主義の在り方を吟味し、議員定数の削減などに踏み切るべきであったにもかかわらず、手がつかなかった。今日に至るも、人口比で米国の二倍以上もの国会議員を抱える構造は変わらず、むしろ小選挙区制の弊害だけが目立つ状況を迎えている。
 さらに、「小泉構造改革」に至り、「改革の本丸が郵政民営化」という奇妙な時代に向き合うことになった。劇場型政治と言われた刺客が飛び交う「郵政選挙」にメディアも興奮していたが、国民経済的にみて「郵政民営化」が的確だったかは答えに窮する。郵政事業の効率化という意味では妥当だったともいえるが、地方を毛細血管のように支えた郵便局が「民間会社」になることで、地域社会のコミュニティーが希薄(空洞化)になっている事例を多く目撃するからである。二〇〇七年の分割民営化から一〇年以上が経過した今、誰が、一番得をしたのかを検証すれば筋道は見えてくると思う。
冷静に再考すれば、改革幻想とは米国への過剰同調であり、新自由主義への応答歌であった。「規制緩和」「郵政民営化」と騒いでいた小泉改革期の日本であったが、二〇〇八年のリーマンショックを経て、米国が国家主導の異次元金融緩和に動くと、新自由主義は豹変、日本も「リフレ経済学」を金科玉条とするアベノミクス(金融政策に依存した調整インフレ政策)に引き込まれ、いまだにその呪縛から解放されずにいる。
 国民の多くに「改革、改革と騒いできたが、結果は空疎だな」という脱力感が広がっているといえる。また、「究極の改革」ともいえた民主党への政権交代も、民主党なる党に群がった人達のあまりの劣弱さ(政策思想の基軸のなさ、政治家としての覚悟の欠落)を見せつけ自壊していった姿を目撃し、政治に過大な期待を抱くことから後ずさりしつつあるといえる。日本の停滞、低迷を安定と認識する心理に埋没し始めているともいえる。
 平成30年において日本人の心は変わった。NHK放送文化研究所の世論調査を注目したい。「生活全体の満足度」について、一九八八年二五%が「満足」としていたが、昨年二〇一八年調査では三九%になり、「どちらかと言えば満足」と答えた人(1988年61%、2018年53%)を足して、一九八八年に八六%だったのが、二〇一八年には実に九二%となっており、多くの日本人が現状に満足している状況が確認できる。但し、「不満はないが不安がある」というのが各種の世論調査結果から浮かび上がる現代日本の社会心理といえる。二一世紀に入っての日本が「常温社会」に浸り、「イマ、ココ、ワタシ」(「未来よりも今」「期待よりも現実」「公よりも私」という価値を優先)という「内向する日本」に傾斜していることについては本誌二月号(「荒れる世界と常温社会・日本の断層」)で論じた。


三・一一の衝撃と試練
 平成日本にとって「三・一一の衝撃」は凄まじかった。二〇一一年三月十一日の東日本大震災は地震・津波によって二万人以上の犠牲者がでたことも衝撃であったが、フクシマ原発のメルトダウンは、正に戦後日本の基盤を根底から突き崩す出来事だった。脳震盪を受けたような中で、エネルギー問題に関わってきた者の責任の一端を共有しながら、本連載で「戦後日本と原子力」を再考察する格闘を続けた。(「脳力のレッスン」Ⅳに所収、2014年)フクシマは二重の意味において、日本人に戦後日本の虚構性を突き付けた。一つは、日本にはメルトダウンした格納容器を収束させる能力はないという現実であり、あの愁嘆場の中で「米軍による日本再占領」が検討されていたという事実である。国も電力会社もそんな原発を稼働させていたということである。二つは、そうした構造に依拠しているためともいえるが、フクシマ1号機をフルターンキーで建設した米GE社の製造者責任には一切踏み込まなかったことである。国会事故調査委員会など様々な調査報告が出されたが、「津波による電源喪失」を想定しなかったGEには事実関係の確認調査さえなされなかった。
 もし、日本が本気で「脱・原発」を目指すのであれば、昨年自動延長した「日米原子力協定」を見直し、日米安保条約の総体を再検討する覚悟が必要となる。「脱・原発に踏み切りたいが、米国の核抑止力には守られたい」と考えること自体があまりに日米関係の本質を知らない非現実的議論なのである。日本は「日米原子力共同体」の一翼に組み入れられており、軍事とエネルギーは一体化されているのである。
 この東日本大震災を境に、国民の心理に不安が高まり、その反動として、やたらに「絆」とか「連帯」という言葉が好まれるようになり、それが国家による統合・統制を期待する心理への傾斜に繋がったという面も否定できない。戦前の関東大震災(1923年)が「治安維持法」を生む時代の空気に繋がったように、閉塞感が統合志向を招くともいえる。


平成30年間の日本外交―――アメリカへの過剰同調という呪縛
 平成三〇年間の日本外交を振り返るならば、「対米協力」を「国際貢献」と言い換えながら、次第に「アメリカの戦争」に一体となって巻き込まれていく国を造ったといえる。始まりは湾岸戦争(1991年)で「多国籍軍への支援」として、日本は九〇億ドル(1・2兆円)を支払い、アフガン・イラク戦争では「カネだけでは評価されない」として、「ショー・ザ・フラッグ」に呼応してインド洋、イラクへと自衛隊を派遣した。
思えば、私の「世界」誌への寄稿もこの頃に始まり、「『不必要な戦争』を拒否する勇気と構想―――イラク戦争に向かう『時代の空気』の中で」(「世界」2003年4月号)以来、今日まで「安易な対米協力」がこの国の矮小化を招くことを論じてきた。
そして、ついに安倍政権下での日本は、米国との集団的自衛権の行使可能な「安保法制」に踏み込み、日米の軍事一体化を鮮明にした。この背景には、先述の中国の台頭というプレッシャーがあり、主体的に自らの運命を切り開く構想力と行動力の無い国は「米国と手を組んで中国の脅威と戦う」というレベルの国に目線を落としてしまった。
直近の体験で、アジア諸国の有識者たちと議論をしていて実感したことだが、「何故、日本はトランプをノーベル平和賞に推薦する国になったのか」「何故、日本は国連の核兵器禁止条約に入ろうとしないのか」という質問を受け、いかに日本が、平成期を通じて米国への過剰同調と過剰依存の国に変質したのか思い知らされた。「日本を国連常任理事国へ」という声はいつの間にか消えた。「アメリカの一票を増やすだけだから」というアジアの失望の眼線に気付かねばならない。
 冷戦が終わって、同じ敗戦国だったドイツが、一九九三年に在独米軍基地を全てテーブルに乗せて米国と向き合い、基地一つ一つの機能と目的を検証し、米軍基地の段階的縮小と地位協定の改定を実現し、ドイツの主権を回復したのとは対照的に、「アジアでは冷戦は終わっていない」という程度の認識で、日本は米軍基地を主体的に見直すという意思を示さなかった。実は、この硬直性が今日でも沖縄の基地問題を縛り付けているのである。確かに、これまでも「成熟した大人の関係」(1993年、細川政権)とか「対等な日米関係」(2009年、鳩山政権)という言葉での対米自立志向を漂わせるフレーズも登場したが、必ず「抑止力」(日本を守ってくれるのはアメリカだ)という言葉に引き戻され、冷戦後に相応しい対米関係を再設計する粘り強い意思も具体的構想も示されないまま萎えていった。結局、平成期の日本は呪縛の如くアメリカへの過剰同調の中に沈潜したと言える。

 

アメリカへの過剰同調を生む構造
 何故、日本は対米過剰同調を続けるのか。R・タニガート・マーフィー「日本・呪縛の構図」(早川書房、2015年)は、ワシントンDCに生まれ、一九七五年に来日して以来、四〇年以上も日本在住の知識人として、投資銀行家、さらに歴史の研究者として日米関係を注視してきた視座からの作品として興味深い。この本の著者マーフィーの視座を構築した体験は、面白いほど私の真逆である。私は、日本人として米東海岸に十年以上張付き、その後も波状的にワシントンを訪れて日米関係を注視してきた。つまり、マーフィーと私は相手の国に生活し、その立ち位置で日米関係を見つめてきたことになる。それが、不思議と同じ認識を共有しているのである。マーフィーは、米国が日本の国益など眼中にないにもかかわらず、敗戦後の日本が「従属国」の地位に埋没し続けている理由として、日米関係の固定化を自分の利益とする「ジャパン・ハンズ」という日本問題専門家達の存在を指摘している。私も、日米安保を「飯のタネ」として活動しているワシントンにおける自称「親日家」の「安保マフィア」とでもいうべき日米関係専門家たちが、日米関係の見直しを阻害していることを実感し、何回も指摘してきた。ただし、こうした状況を単純な被害者意識をもって議論することは正しくないであろう。むしろ、ワシントンの「安保マフィア」と連携し、現状の固定化を図ろうとする者が日本の政治家、外交官、メディアにも多く存在しているということである。むしろ、日本側が自ら「呪縛」の中に回帰し、閉じこもる傾向を有していることこそ問題だと思われる。「知米派」の日本人が現状固定化の中核になっているのである。コーネル大学で教壇に立つ酒井直樹の「ひきこもりの国民主義」(岩波書店、2017年)は「パックス・アメリカーナの終焉」に直面してもなお、アジアに背を向けて「アメリカの下請けの帝国」にしがみつこうとする日本のひきこもりの精神構造を解明しようとする試みは示唆的で、日本社会に存在する「無責任の体系」が変革を阻む力になっていることに溜息を覚える。日本の支配構造には「説明責任」を回避する空白が存在し、それを忖度する取り巻きが問題を霧消させる構造になっているのである。E・ボエシの「自発的隷従論」(ちくま学術文庫)は一六世紀に書かれたものだが、「支配者のおこぼれに与かる取り巻き連中が支え、民衆の自発的隷従によって圧政は成り立つ」という構図は人類史を貫いているようである。

 

 

次の扉を開く希望―――問われる主体的な構想力

 

 歴史において、「成功体験」は固定観念となって次の時代を縛り、失敗への導線になることが多い。戦前の日本では、日清日露の戦勝体験が、軍国日本への傾斜と軍部の専横の導線となり、世界認識を誤り、昭和軍閥を制御できないまま不幸な戦争に至り、敗戦を迎えた。戦後日本は、日米同盟に守られて「軽武装・経済国家」として冷戦期を生き延び、復興成長という形で工業生産力モデルの成功体験を味わったものの、平成の三〇年においてはそれが反転し、制約になったといえる。世界の構造変化と日米関係の位相の変化によって、戦後昭和の成功モデルが機能不全に陥っているにもかかわらず、固定観念にしがみついている構図は、本稿で論じてきた。「日本を取り戻す」などという後ろ向きで貧困な視界からは未来は拓けない。
 日本の未来を切り拓く希望は何か。確実に言えるのは、戦後日本の総体を再考し、それを未来の糧としていくしかない。最も大切なのは、戦後民主主義を根付かせることである。世界潮流の中での日本の埋没、中国の強大化と強権化という現実を前にして、民主主義の煩わしさに苛立ち、国権主義・国家主義への誘惑に駆られがちとなる。「反知性主義」的な言動を率直な本音と感じ、「ポピュリズム」(大衆迎合主義・大衆扇動主義)に拍手を送り、民主主義を冷笑する風潮に引き込まれがちとなる。
 だが、戦争という悲惨な代償を払って手に入れた「民主主義」の価値を見失ってはならない。自分の運命を自分で決められること、国民一人一人が思考力、判断力をもって自分が生きる社会の進路を決められることこそ戦後なる日本の宝である。とくに、平成という時代を暗黙の裡に制約してきた「米国への過剰同調」がもたらす不幸な結末を見抜き、主体的に未来を選択できるのかがこれからの日本人の課題となるであろう。そのための「知の再武装」がカギになるのだが、私は日本人の賢明さを信じたい。
 もう一つの未来への希望につながるキーワードはアジアである。十数年後、日本を除くアジアのGDPは二〇一八年の倍になっていると予想され(年平均実質6・5%成長として)、貿易・観光などあらゆる意味で、日本はアジア・ダイナミズムを吸収して活力を保つ柔らかい知恵が不可欠となる。「反中国、嫌韓国」のレベルでのナショナリズムでは閉塞感に埋没するだけである。そのためには、二一世紀を展望した「世界史的構想力」が必要であり、成熟した民主国家であり技術をもった先進国としての日本を輝かせる政策構想が練磨されねばならない。信頼と敬愛を得られる日本を創ることが重要である。
 一〇年前のことだが、ドイツのベルリンでの会議に参加し、元西ドイツの首相H・シュミット(1918~2015年)と三日間、同席したことがあった。この東西ドイツの統合に大きな役割を果した老政治家の話は深い洞察に裏付けられたものであったが、アジアの未来に関する発言の中で、「日本にはアジアに真の友人がいないね」と言い切っていた。国際関係、とくに近隣諸国との関係は決して甘いものではなく、近代史における日本のアジアとの関わりを考えたならば、「真の友人」を求めることは容易ではない。だが、過去を肯定したくなる誘惑を断ち、経済的利害だけで向き合う姿勢を抑え、素心を持ってアジアと対話し、相互利益になる未来構想を推進することへと日本を向かわせる指導者の見識と度量が求められるのである。平成の晩鐘が遠のく中で、「忘れてはならないこと」として、あの時のシュミットの表情を思い出している。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Thu, 21 May 2020 04:49:29 +0900
岩波書店「世界」2019年5月号 脳力のレッスン205 中東一神教の近親憎悪―イスラムVSキリスト教、ユダヤ教― 一七世紀オランダからの視界(その56) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1521-nouriki-2019-5.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1521-nouriki-2019-5.html  一九七九年、イランでホメイニ革命が起き、当時私が勤務していた三井物産がイラク国境近くで推進していたIJPC(イラン石油化学事業)の建設現場がサダム・フセインのイラク空軍によって二〇数回の空爆を受けていた一九八〇年代前半、このプロジェクトの打開策を探る情報活動で、私はイスラエル、湾岸産油国、イラン・イラクと中東諸国を動き回っていた。中東理解が次第に深まる中で、中東一神教と言われるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が唯一の「絶対神」に帰依する同根の宗教であることは理解していたが、何故に相互に憎悪し合うのかは謎であった。
 セム族一神教の教祖モーゼから派生したユダヤ教のヤハウエ、キリスト教のエホバ、イスラムのアッラーは同じ「神」であるが、イスラムとキリスト教、そしてイスラムとユダヤの関係は、世界史を血塗られたものにしてきたのみならず、今日も紛争の火種となり続けている。そして、その反目の原点が、七世紀のアラビア半島に忽然と台頭したイスラム、その起点となったムハンマドなる人物のユダヤ教とキリスト教との不幸な接点にあったことが次第に分かってきた。

 


中東一神教との相関の中でのムハンマドの生涯

 

ムハンマド(570~632年)は、イエスの死から五〇〇年以上を経て誕生した「遅れてきた預言者」であり、その生涯についての文献も比較的残っている。彼が生きた時代は、日本では、仏教が伝来し、蘇我馬子が飛鳥に飛鳥寺を建立した頃であった。ビルジル・ゲオルギウの「マホメットの生涯」(河出書房新社、2002年、原書1962年)や、カレン・アームストロングの「ムハンマド」(国書刊行会、2016年、原書2006年)などを参考に人間ムハンマドを考察すると、その人生そのものがイスラムなる宗教に投影されていることが分る。キリスト教がローマ帝国と向き合う時代を背景に形成されたように、イスラムも七世紀のアラビア半島の地政学の中で形成されたのである。
 ムハンマドは、当時のアラビア半島で「商人」として市場経済を牽引し始めていたクライシュ族に生まれ、六歳で両親と死別、父方の叔父に育てられ、羊飼い、隊商の一員として働き、「正直者のムハンマド」として商人道を歩んだ。二五歳の時、一〇歳以上も年長の富裕な未亡人ハディージャと結婚、二男四女をもうけた。聡明な妻ハディージャこそムハンマドの理解者となった。六一〇年、四〇歳の頃、メッカ近郊のヒラー山で瞑想中に突然「神の啓示」を受け、神の声を伝える者としての人生を生きる転機を迎えた。
仮に「神の啓示」を受けたとしても、それを受け入れる「基盤」無しには啓示の意味さえも分からない。本連載でも「キリスト教を創った」といわれる聖パウロや、キリスト教に帰依した最初のローマ皇帝コンスタンティヌスが受けた「神の啓示」に触れてきたが、潜在意識に「啓示」が火をつけたといえる。
 ムハンマドが生きた時代のアラビア半島は、ビザンツ帝国が現在のトルコからシリア、ヨルダン、パレスチナ、エジプトまでを版図としており、ペルシャ湾の北には、今日のイラン・イラクの大半を含む形でペルシャ帝国が鎮座していた。当時のアラビア半島の宗教状況は多神教の民族宗教が主潮で、メッカのカアバ神殿には三六〇体もの偶像が祀られていたという。カアバ神殿の中心にある黒石は天から来た隕石で、アブラハムが天使ガブリエルから授かったとされるもので、メッカでの神の啓示を伝える活動を始めたムハンマドも、伝統を配慮し、カアバ神殿を敬っていた。また、アラビア半島にもユダヤ教、キリスト教が浸透してきており、とくに、キリスト教については、四三一年のエフェソス公会議で「異端」として追放されたコンスタンティノポリス大司教ネストリウスの教義を信奉するネストリウス派(参照、連載55)が流入しており、それが大きな意味を持った。
 私は、ムハンマドのキリスト理解に関心を寄せてきたが、イエスの「神性」を否定し預言者の一人とするムハンマドの捉え方に、ネストリウス派との近似性を感じていた。文献に当たるうちに、キリスト教の「異端」の研究(参照、D・クリスティ・マレイ「異端の歴史」、教文館、1997年、原書1976年)において、根拠のあることが分ってきた。ムハンマドが最初にキリスト教を学んだのが、ネストリウス派修道士のバヒーラであったという。
 イスラムにおけるイエス・キリスト観は、「コーラン」にも明確に描かれている。コーランにおいて、イエスは「イーサー」と表記されて登場する。確認してみると、コーランにおける二五の節でイーサーについて語られている。「イーサーも諸預言者」(3章84節)とされ、「現世と来世における尊者」(3章45節)として敬意を払われているが、イーサーは神自身ではなく、神の子でもないとされる。つまり、イエスの「人性」にこだわるのである。既にローマ帝国の国教となり、権威となっていたキリスト教にとって、「一つの神格にお
ける三位格」として「父と子と聖霊」を位置づけることは揺るがし難い教理であった。イエスの神性を否定し、預言者の一人にすぎないことなど、許されない侮辱であった。神の啓示を受け、六一三年頃から「神の声を伝える預言者」としての活動を始めたムハンマドは、自らの神性や優越性を語ることなく、彼の伝えるメッセージは「アブラハム、モーゼ、ダビデ、ソロモン、イエスたちが伝えた神の意思」(コーラン2-129~132、6-6)であった。

 

 

メディナへの聖遷の意味―――ユダヤ教との決別

 

  メッカでの布教を始めて約一〇年、「絶対神の下での平等」を訴えるムハンマドの活動は多神教徒をイスラムに改宗させ、貧者、奴隷にも訴え始めた。それはメッカの支配層との対立を引き起こした。多神教を掲げる守旧派にとっては、「最後の審判」といったユダヤ・キリスト教的教義を掲げるイスラムは秩序を破壊する危険な勢力と見られ、イスラム教徒を迫害する圧力が高まった、危険を察したムハンマドは六二二年、ムスリム勢力を引き連れてメディナに移住(ヒジュラ=聖遷)し、イスラム共同体を形成し始めた。この時を、カレン・アームストロングが「イスラムの誕生」と表現(「イスラームの歴史」、中公新書、2017年、原書2002年)するのも頷ける。イスラムとは個人の宗教というよりも、「ウンマ」といわれる共同体として意味を持つからである。
 ムハンマドは六二二年に「メディナ憲章」(世界史資料2、岩波書店)を発表し、メディナ住民との共存を意図する契約において「ユダヤ教徒の宗教と財産を保障し、義務と権利を明確にした」が、ユダヤ教徒との関係は微妙であった。当初、ムハンマドは一神教の長兄としてのユダヤ教に敬意を払い、融和的に向き合っていた。日々の礼拝に当たり、信徒たちには「メッカの方角(南)ではなく、北のエルサレムの方角に向けて行うように」指示していたという。しかし、ユダヤ教徒は「アラブ人は神の計画から締め出された存在」として「アラブ人の予言者」を認めなかった。つまり、アブラハムを大祖先とし、旧約聖書とモーゼを尊崇する祖同宗教における新たな預言者とは認めなかったということである。
 ユダヤ教の教典トーラ、タルムードにおいて、ユダヤ人は強烈な選民意識に立ち、ユダヤ人以外を預言者としては認めない。六二二年、ムハンマドは「神の啓示」により、礼拝の方角をメッカとするように指示した。以来、イスラム教徒はメッカに向けての礼拝を始めた。ユダヤ教との決別であった。中東一神教の不幸な対立の淵源はここにあるといえる。
 イスラムとは「服従」を意味し、全身全霊でアッラーに服従することに徹し、あの平伏礼は傲慢・思い上がりを制する象徴的な儀礼である。富の公平な分配や相互の思いやりを重視する共同体(ウンマ)をすべての基盤とした。メディナでの体制を整えたムハンマドは、六三〇年には一万人の信徒を率いて進撃を開始してメッカを征服、カアバ神殿の偶像を破壊し尽くした。宗教指導者が政治的・軍事的統治者となって権力と権威を掌握するというムハンマド自身が実践した史実が「聖俗一体の共同体を目指す」というイスラムの原動力となっていくのである。

 

 

イスラムにおける聖俗一体―――「片手にコーラン、片手に剣」の意味

 

 今日、中東のシリア・イラクの混乱に乗じ、突然「イスラム国」(ISIS)などが登場し、テロや殺戮を繰り返すと、「イスラムは暴力的」というイメージが形成されがちである。また、一九七九年のイランのイスラム原理主義革命において、ホメイニ師なる聖職者が、唐突に政治の最高指導者として登場するのを目撃すると、その聖俗一体の権力に違和感を覚えながら圧倒される。こうした構図が蘇るのがイスラムの特質であり、その淵源はイスラム共同体の長としてのムハンマドが聖職者であり政治的・軍事的指導者として、メッカに突撃したことにあることに気付く。

 イスラムの教義は、神の意思の下での「平和と公正」を志向するもので、ウンマ(共同体)の平穏を求めるものだが、敵対するものには「片手にコーラン、片手に剣」で、妥協することなく「ジハード(聖戦)」を掲げて対峙する可能性があるということである。メッカ征服の二年後、六三二年にムハンマドは死を迎える。後継者を巡る展開がその後のイスラムに影を投げかける。初代カリフとなったアブー・バクルから四代アリーまでのカリフはムハンマドを直接取り巻いたことのある指導者で「正統カリフ」と呼ばれる存在であったが、それ以後の対立が今日のスンニ派とシーア派の対立の淵源となる。「カリフ」とはアラビア語で「代理者」「継承者」を意味するが、ムハンマドの代理者としてイスラムの保全政治を執行するという意味である。
六六一年にムハンマドの従兄弟で娘婿でもあった四代目カリフのアリーが暗殺された後、ウマイヤ家出身のムアーウイヤがウマイヤ朝(661~750年)を開き、ダマスカスを拠点にその後一四代にわたってカリフの座を独占する。アリーの系統の正統性を支持し、ウマイヤ朝に反発する勢力がシーア派イスラムの原点なのである。今日、世界のイスラム人口は約一六億人(世界人口比二三%)とされ、その約八〇%をスンニ派(正統派)が占め、シーア派はイランを中心に一五%程度である。
 このウマイヤ朝が瞬く間に勢力を拡大して、北アフリカを席巻、ジブラルタルを渡り七一五年にはイベリア半島を制圧、七三二年にはピレネーを超えてフランク王国と激突する。フランク王国は「ラテン化したゲルマン」であり、ローマ皇帝によってキリスト教化された存在であったが、ウマイヤ朝と戦うことが「キリスト教共同体としての欧州」を自覚する契機となったことは既に述べた。(参照、連載54)ダマスカスのウマイヤ朝は七五〇年の革命によってアッバース朝に滅ぼされるが、アンダルシアのウマイヤ朝は後ウマイヤ朝(756~1021年)として生き延び、アルハンブラ宮殿を拠点としたイベリア半島最後のイスラム政権ナスル朝が崩壊するのは、実に一六世紀末であった。欧州のトラウマとしてのイスラムが埋め込まれたのである。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Wed, 22 Jan 2020 05:46:16 +0900
岩波書店「世界」2019年4月号 脳力のレッスン204 キリスト教の東方展開の起点としてのビザンツ帝国― 一七世紀オランダからの視界(その55) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1520-nouriki-2019-4.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1520-nouriki-2019-4.html  西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は一五世紀まで生き延びた。このビザンツ帝国こそ東西の接点としてユーラシアの「近代」の触媒となる。だが、ビザンツ帝国は日本人の歴史観の死角である。何故ならば、明治以降の日本は西欧を模範として近代化を図ってきたため、歴史学においても、西欧への関心が深く、東ローマ帝国への関心は極めて薄かった。ビザンツ研究が本格化したのは戦後のことであった。
 東ローマ帝国の起源に関し、何故コンスタンティヌス帝が、三三〇年にコンスタンティノポリスに遷都したのかについて、「ローマの神々ではなく、自らが帰依したキリスト教に基づく首都を創りたかった」という説もあるが、本質的にはローマ帝国の経済基盤が東に移り、ボスフォラス海峡から黒海に繋がり、地中海世界とアジアの結節点に帝国の重心を移すことを意図したといえよう。南雲泰輔の「ローマ帝国の東西分裂」(岩波書店、2016年)などの近年の研究は、遷都後のローマ帝国が東西に分裂した要因を解析している。西ローマでは、元老院貴族による閉鎖性が食糧危機などへの対応力を失わせたのに対し、東ローマでは「専制君主」を支える官僚制・行政機構が機能して東方の経済力を柔軟に吸収した構図が理解できる。
 ローマ帝国史といえば、E・ギボン(1737~94年)の全七一章の大作「ローマ帝国衰亡史」が思い浮かぶが、ロイ・ポーターの「ギボン――歴史を創る」(中野好之他訳、法政大学出版、1995年、原書1988年)を読むと、「歴史家が歴史を創る」という視界に共感を覚える。ローマ帝国の辺境だった英国の歴史家によって、しかも一八世紀の英国に生きた人物の歴史観が投影されていることに気付くのである。
 ギボンが生きたのは、英仏植民地戦争(1757年インドでのプラッシーの戦いなど)の時代であり、産業革命期(1769年アークライトの水力紡績機、ワットの蒸気機関)であった。ポーターは、ギボンの「キリスト教への冷笑」傾向に言及しているが、確かにギボンは「キリスト教の導入、その蔓延がローマ帝国の衰亡に影響を与えた」との見解を隠さず、西ローマ帝国の滅亡について、「聖職者たちは忍耐と臆病礼賛の教義を説いて、効果をあげた。社会の活気は水をさされ、軍国精神の最後の名残が失われた」と論じた。大英帝国の進路と重なる問題意識があったのであろう。ヘンリー八世の「六人の王妃がいた」という異様な女狂いという事情からローマと断絶して英国教会が設立(1534年)されて二〇〇年以上が経過、英国が自信を深めていた時代にギボンはローマ帝国史を書いたのである。

 


ビザンツ帝国とキリスト教の核分裂―――東方正教会、東方諸教会

 

ジョナサン・ハリスの「ビザンツ帝国――生存戦略の一千年」(白水社、2018年)の原題は“The Lost World of Byzantium”で、著者がイスタンブールなど、ビザンツ帝国の栄光が埋め込まれた地域を探査した作品だが、彼が抱いたキリスト者としての感慨が「失われた世界」であった。私自身もイスタンブールを五回訪れたが、現在のイスタンブールではイスラム遺跡だけが目立ち、ここに東方キリスト教の千年王国が存在した痕跡は、かつてのギリシャ正教の大聖堂がアヤソフィア博物館となって残るだけに見える。だが、一歩踏み込むと、埋め込まれた地下宮殿(ユスティニアヌス帝時代からの地下貯水池)などビザンツ帝国の遺産が見えてくる。この街は城郭都市で、海で囲まれた旧市街の西にコンスタンティヌスの城壁(330年完成)、さらにその外にテオドシウス二世の城壁(413年完成)という二重の城壁がビザンツ帝国を護り抜いたといえる。
 三九五年にローマ帝国が東西に分裂した後、ビザンツ帝国は「ローマの栄光」を継承し、ギリシャ正教を中心にヘレニズム文化を伝承する基盤として存続し続けた。ビザンツ帝国にとっての最大の脅威は七世紀に忽然と台頭したイスラム勢力で、結局、一四五三年にオスマン帝国のスルタン・メフメト二世率いる三〇万人のイスラムによりコンスタンティノープルは包囲され滅亡する。BC七五三年のローマ建国以来二千年以上続いたローマ帝国の歴史を閉じたのである。
ビザンツ帝国のもう一つの脅威はスラブ人の北からの圧力であった。ゲルマン民族の西方移動の後を追うようにドナウの彼方から姿を現したのがスラブ民族であった。歴史は玉突きのごとく動く。五世紀の後半、ビザンツ領内に侵攻し始めたスラブ民族に対してビザンツはヘレニズム的キリスト教化を図った。大きな転機が九八八年、ロシアの原点とされるキエフ・ルーシのウラジミール大公がビザンツ皇帝の妹と結婚、洗礼を受けてキリスト教に入信したことであった。さらに、キエフがモンゴルに制圧されたことにより、一二九九年には主教座をモスクワへ移動、ロシア正教となり、一五四七年には雷帝イヴァン四世がモスクワを「第三のローマ」と呼ぶに至った(参照、連載41)
 だが、一九一七年のロシア革命を経て、レーニンは「宗教法」で、科学的社会主義の確立のために、宗教を「個人的な礼拝」に限定、ロシア正教は苦難の時代を迎えるが、一九九〇年には、ソ連崩壊直前の最高会議による「新宗教法」で「宗教に関する表現・布教の自由」が認められ、復権する。今日、奇しくもウラジミールの名を持つプーチン大統領は、ロシアの統合理念として「正教大国」を掲げ、「ロシアの正教回帰」が図られている。
キリスト教はビザンツを基点に核分裂しながらユーラシアに浸透したのだが、ビザンツ教会とローマ教会の関係は複雑である。ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後もローマ教皇がすべてのキリスト教指導における首位権を主張する「教皇至上主義」に立ち、ビザンツ教会は地域教会の総司教による合議制を重視していた。決定的な東西教会の亀裂が生じたのは一〇五四年で、ローマ教皇レオ九世の使節とコンスタンティノープル総主教ミカエル一世(在位1043~59年)が相互の破門状を投げつけあう事態を迎えた。一九六五年に相互に破門状を破棄するまで、実に九〇〇年以上も断絶を続けたのである
この間、東西が連携してイスラムの脅威と戦う十字軍の時代が存在したと思いがちだが、
ビザンツ帝国にとっての十字軍は微妙であった。一〇七一年、ビザンツ皇帝ロマノス四世は一〇万の軍勢を率いて、アナトリアのセルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンの四万の軍と激突した(マラーズギルトの戦い)。結果は、ロマノス四世が捕虜となる惨めな敗北となった。このトラウマが十字軍への伏線となる。アナトリアのセルジューク朝の勢力拡大に対して、ビザンツ皇帝からローマ教皇ウルバヌス二世への異例の救援要請を受けて、一〇九五年に「聖地回復の義務」(クレルモン宗教会議)によって第一回十字軍が送られた。だが、一二〇四年第四次十字軍によるコンスタンティノポリスの占領と略奪がビザンツの不信と怒りに火をつけた。十字軍の戦勝を受けて占領下に設立された「ラテン系諸国」は、ビザンツ帝国にとって難儀な飛び地となり、十字軍は派遣費用を負担したベネチアなどの打算を投影し、「聖地奪還」とはほど遠い醜悪な存在となった。
ビザンツ史を再考する時、ハリスが前掲書において「問うべきは、なぜ滅びたかではなく、なぜ存続できたのかだ」という言葉が心に響く。ビザンツが「偏狭な軍国主義国家にならず存続したこと」がポイントで「最大の遺産は、他者をなじませて統合する魅力」がビザンツを存続させた最大の遺産という視点であり、外交、キリスト教文化、芸術を通じた征服こそビザンツを千年王国とした理由であろう。
二〇世紀の優れたビザンツ帝国研究者たるポール・ルメルルの「ビザンツ帝国史」(西村六郎訳、白水社、2003年、原書1988年)は、ビザンツ帝国がギリシャ文化の影響をアラブ人やトルコ人に与え、スラブ民族に宗教と諸制度を受容させる装置となったことを論じ、「結語」において、「西欧の諸国では、商人や修道士、巡礼や十字軍を通じて、はるか離れた魅惑のコンスタンティノポリスから受ける影響は絶えることはなかった。そして、トルコ人による征服の後、多くの学識のあるギリシャ人が西方にやってきて、彼らの学問や蔵書の名残をもたらしたとき、ビザンツは西方にその最後の伝言を伝えた」と語る。

 

 

景教という視角からのキリスト教裏面史―――アジアに伝わったキリスト教

 

  エルサレムのゴルゴダの丘に立つ聖墳墓教会を訪れた時、強く印象づけられたのが、小さな教会の中が様々なキリスト教の分派によって分割管理されていることであった。区画ごとに、ローマ・カトリック、ギリシャ正教、エチオピア正教、アルメニア正教、コプト正教、シリア正教という形で分割管理されており、それぞれが「イエスの石棺」「イエスの十字架」などイエスに関わる聖遺物を保有していた。権威には必ず分派が生じる。そして分派の対立の中で、異端排除がなされて、それぞれが正統性を掲げて自己主張をする。他者の苦しみへの共感を語るキリスト教が民族を超えて浸透するにつれて分派活動に至る。これが人間社会の現実である。

 ローマから異端とされたネストリウス派キリスト教はユーラシア史に異彩を放っている。四三一年に皇帝テオドシウス二世によって召集されたエフェソス公会議において、イエスの「人性」を主張し、聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対したコンスタンティノポリス大司教のネストリウスが、民衆のマリア崇敬を利用した陰謀により異端として追放された。だが、ネストリウス派は小アジア、シリア、エジプト、ペルシャから中国にまで教勢を広げた。六三五年には唐の長安に「景教」という名で景教僧アロペンにより伝道され、景教寺院まで設立されたこと、さらに七三六年には入唐副使中臣名代が、大宰府に「唐人・波斯人を率いて拝朝する」が、その中に景教僧がいたらしきことは既に触れた(参照、本連載17、42)。つまり、ザビエルによる伝道の八〇〇年以上も前に、一端はキリスト教の伝道者が日本に辿り着いていた可能性を示すもので、一切定着しなかったことを含め、歴史の謎は深い。伝来と受容は相関するのである。
 ただし、七世紀における中国への伝道は史実であり、大航海時代に乗って、一六世紀末にマテオ・リッチが伝道するよりもはるかに早くキリスト教が中国に伝わっていたものの、皇帝武宗によって八四五年に禁止され、その一部の勢力がモンゴルに流れた。そのことが一二世紀半ばに奇怪な形で曲折し、欧州史に浮上する。苦境に陥った十字軍を背景に、イスラム勢力の彼方からキリスト教を奉じる王「プレスター・ジョン」が救援にやってくるという噂話である(参照、連載46)。ビザンツ帝国マヌエル1世(在位1143~80年)宛てのプレスター・ジョンからの手紙までが出回った。それらは十字軍を鼓舞するための偽造にすぎなかったが、元朝のフビライが一二八七年に欧州(コンスタンティノポリス、ローマ、パリ)に派遣したウイグル人景教僧の話など虚実入り混じった欧州の潜在願望が表出したのが「プレスター・ジョンの伝説」であった。欧州の地図には、大航海時代になってもエチオピア付近に「プレスター・ジョン」の王国を描いたものも存在する。
 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Wed, 22 Jan 2020 03:57:32 +0900
岩波書店「世界」2019年3月号 脳力のレッスン203 キリスト教の世界化とローマ帝国―――一七世紀オランダからの視界(その54) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1519-nouriki-2019-3.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2019/1519-nouriki-2019-3.html   キリスト教がユダヤ教の一分派から世界宗教に飛躍する契機は、ローマ帝国の国教になったことにある。「全ての道はローマに通ずる」と言われた時代、古代地中海世界にとって「ローマこそが世界」だった。キリスト教とローマは、二重構造になって西欧社会の価値基軸になっていた。

 

 

 ローマにおけるキリスト教国教化———欧州史の深層底流

 

キリスト教とは「ナザレ出身のユダヤ人イエスをメシアとし、さらに彼を『神の子』にして救世主とする宗教」であるが、この宗教を世界化させた基点が、使徒パウロであった。イエスが十字架にかけられたAD33年頃、パウロ(AD10〜67年頃)は23歳前後だった。律法主義に立つパリサイ派のユダヤ教徒だったパウロは、キリスト教の迫害者であったが、エルサレムからダマスカスに向かう途上で、新約聖書でも知られた天(イエスの声)の啓示を受けて、「キリスト者への回心」(AD37年)を遂げ、伝道者として小アジア、ギリシャ、ローマを巡り、キリスト教を地中海地域に布教して歩いた。ハイデルベルク大学神学部教授だったゲルト・タイセンの『イエスとパウロ———キリスト教の土台と建築家』(教文館、2012年)は示唆的である。パウロの根源的な問い掛けは「神はユダヤ人の神でしかないのか」に始まり、神は社会的な差別なしに、すべての人間の神であることへと向かう(パウロ書簡、パウロ福音書)。つまり、イエスの十字架の死を人間の原罪を償うための死へと昇華させ、「イエスを救世主と認める者は人種、階級、性別に関わりなく救われる」(ガラテヤ書3章28節)という普遍主義に至ることによって、民族を超えた宗教になる転換をもたらした。「パウロがキリスト教を創った」という研究者もいるが、誇張とはいえない。
 余談だが、最近、皇帝ネロ(在位54〜68年)のコインを手に入れた。AD66年製のネロの肖像の入った銅貨である。AD64年にローマで大火が起こり、ネロはキリスト教徒の仕業として断罪したと伝承されてきたが、最近の研究では「後世の誇張」とされる。キリストの死から30年ほどで、ローマにおいてはユダヤ教とキリスト教の区別がつかない状況だったといわれ、「キリスト教弾圧」というのはキリスト教優位の歴史観からの歪曲だといえよう。ネロの銅貨を見つめながら、歴史の深淵を想う。
 ただし、使徒パウロの時代からAD312年のコンスタンティヌス帝のキリスト教改宗に至るローマ帝国において、キリスト教は悩ましい存在であった。英国の歴史学者ピーター・ブラウンの『古代末期の世界———ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』(原書1971年、邦訳は刀水書房、2002年)によれば、キリスト教が静かに浸透したというよりも、3世紀になって「突如、目立つ存在になった」という。ローマにとって、キリスト教はローマの伝統的な神々の祭事や儀式には加わらず、妥協なき姿勢を貫いていた。また「奴隷も自由民も同じ」という平等主義はローマの政治社会体制を揺さぶるものであった。
 3世紀の半ば、AD250年に至っても、デキウス帝(在位249〜251年)による伝統的神々への祭儀の執行勅令が出され、多くのキリス教徒が殉教した。4世紀を迎え、AD303年に皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305年)による最後の大迫害がなされたが、コンスタンティヌス帝(在位306〜337年)のキリスト教への改宗(312年)と翌年のミラノ勅令(キリスト教寛容令)によるキリスト教の公認がなされ、ついにAD392年、テオドシウス1世によってキリスト教はローマ帝国の国教とされるに至った。何故、ローマはキリスト教を受容し、国教化したのかを考察してみると、ローマ帝国の統合の危機とともに、帝国の解体を避け、統一を維持するためにキリスト教による権威付けが必要になったといえる。比類なきローマ帝国の栄光には、唯一の絶対神による正統性の確立が必要だったのである。
 ところで、コンスタンティヌス帝がローマ教皇シルウェステル1世(在位314〜3335年)に出したとされる「教皇領の寄進状」なるものが、その後の欧州を悩ませ続ける。この寄進状は15世紀に「偽文書」と証明されるのだが、神聖な精神的指導者としてのローマ教皇というだけでなく、領土を有する地上の政治的権力者としての教皇権を主張するバチカンの正統性の根拠となって、実に1929年のムッソリーニの時代に至るまで欧州の政治力学を揺さぶるのである。
 ローマ帝国によるキリスト教の受容は、「下からの受容」というよりも「上からのキリスト教化」だった。ローマ帝国の権威の正当化のための皇帝によるキリスト教化という意味が重かったのである。
 宗教が国家権力と結びつくことは、宗教の堕落、腐敗に帰結する。キリスト教の国教化後の歴代ローマ皇帝の中で教会の権威と正対した例外的な存在がユリアヌス帝(在位361〜363年)であった。キリスト教の側からは「背教者」という烙印を押されるユリアヌス帝であるが、伯父のコンスタンティヌス帝の時代から30年で、早くも堕落する教会という現実を意味詰めざるをえなかったのである。
 欧州でのキリスト教の受容はその変容をもたらした。本連載39「科学革命の影としての魔女狩り」で触れた如く、中東一神教は「父性宗教」であり、「旧約聖書」は女性蔑視的記述が満ちていた。キリスト教が欧州に浸透するためには、宗教的古層に埋め込まれた「古代地中海地域を淵源とする大母神信仰」との調和が必要だった。そこで聖母マリア信仰が浮上したのであり、それが反転、増幅したのが「魔女狩り」であった。そして、聖母マリアを淑徳と愛の象徴とする教義を巡る対立が、のちにキリスト教の分裂を招くのである。
 ギリシャ・ローマの宗教は、地中海地域の文化伝承としての多様な神話と神の概念を吸収し、最後にローマ帝国のキリスト教化に収斂したといえる。新約聖書の成立は、1世紀後半といわれるが、「旧約」・「新約」という二つの聖書、さらにイスラム教の「コーラン」に至る中東一神教の「体験や教義を文字にして残す」という伝統を考える時、ユダヤ人の元祖アブラハムが「人類最古の文字」たるシュメル文字を生み出したメソポタミアのシュメル文化最後の中心都市ウルの出身地だったという伝説に思いが至る。

 

 

ローマ帝国の分裂と西ローマ帝国の運命

 

  コンスタンティヌス帝はAD330年ビザンティウムに遷都し、コンスタンティノポリスと改称、ローマ帝国の重心を東に移した。「第二のローマ」の誕生であり、ここからローマ帝国の分裂とキリス教の核分裂が始まった。AD395年、ついにローマ帝国は東西に分裂する。そして、今日の西欧社会の原型ともいえる西ローマ帝国が崩壊していく。
 AD410年に西ゴート王アラリックによって西ローマ帝国の首都ローマは占拠され、476年にはゲルマン人傭兵隊長オドアケルに退位を迫られた皇帝ロムルスによって西ローマ帝国は滅亡した。権力の分裂が東西教会の分裂を誘発し、教義を巡る対立からコンスタンティノポリス司教のアカキオスの離反を招き、西ローマ帝国滅亡の8年後、AD484年に東方教会とローマ教会は分断されてしまう。
 西ローマ帝国が滅んだ要因は「ゲルマン民族の移動」といわれるが、西ゴート、東ゴートといわれたゲルマン民族のドナウ川の西への移動は、中央アジアのウラル=アルタイ族系の遊牧騎馬民族・フン族の西への移動によって押し出されたものであった。背景には、4世紀後半からの地球寒冷化があった。超長期的には約1万年前から今日まで、地球は温暖化期(間氷期)にあるのだが、その中での短期サイクルとしての寒冷化によってユーラシアでの人口移動が起こったのである。
 西ローマ帝国は滅亡しても、ローマ教皇は存続し続けた。「ローマ教皇」(ポープ)とは不思議な存在で、公式にはAD1世紀のペテロ(在位67年)が初代とされるが、ローマ司教が首位教会として「教皇」の名前で教令を発したのは、ローマ帝国分裂を背景に、教会の権威の保持に腐心したシリキウス(在位384〜399年)で、それ以降が実体的「教皇」といえる。476年に西ローマ帝国が滅亡した後も、ゲルマンのフランク王国を取り込み、496年にフランク王クロヴィス1世がキリスト教に改宗、800年にはローマ教皇レオ3世がカール大帝を戴冠させて「西ローマ帝国」を形式的には再興させるなど、西欧社会の宗教的権威の中核として生き抜いていく。
 8世紀に入ると、ウマイヤ朝イスラムの攻勢は欧州に及び、711年にはイベリア半島を制圧し、732年にはピレネーを超えてカール・マルテル率いるフランク王国軍と激突した(連載34回参照)。この時、欧州に「キリスト教共同体」という意識が芽生えたという。「フランスとはラテン化したゲルマン」ともいえ、現在のフランスの原型ともいえるフランク王国の欧州史における意味は大きい。
 フランク王国は、5世紀末にクロヴィス1世によってローマの属州だったガリアに興り、9世紀にはフランス、ドイツ西部、イタリア北部までを支配した。カール大帝(742〜814年)が「ヨーロッパの父」といわれる理由はここにある。
 ローマ教皇の影は歴史を超えて生き延び、十字軍の時代(1096年の第一次から1270年の第8次まで約200年間、参照本連載41,46)を経て、「神聖ローマ帝国」という形で影響を与え続ける。1517年にM・ルターが狼煙をあげた「宗教改革」については本連載その10で触れた通りだが、プロテスタントとは「神聖ローマ帝国に抗議する者」という意味であり、ローマ・カトリック教会の堕落・腐敗への抗議という意味において、宗教改革が、かつてゲルマンと言われた北欧州地域に広がったことに欧州史の深層底流を感じる。
 「西力東漸」で欧州が東洋に迫った「大航海時代」も、そのエネルギー源には宗教改革の圧力を受け止めたカトリックの「対抗宗教改革」としての危機感があった。1534年にイエズス会が設立され、(同年、英国教会は教皇の権威を否定)、1540年にはローマ教皇が認可、それがF・ザビエルなどの来日にも繋がる。ザビエルもスペイン・バスク出身で、ゲルマン主導の宗教改革への強い危機感を抱いていた。
 欧州史に埋め込まれたキリスト教が、宗教改革を経て「近代」なる時代を衝き動かした。実は、この連載「17世紀オランダからの視界」も、1648年のウェストファリア条約までのカトリックのスペインに対するプロテスタントのオランダの80年におよぶ独立戦争を注視することから始まっており、虚構化したローマに対するきた欧州の意義が世界史を動かしたことを確認してきたといえる。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2019年 Wed, 22 Jan 2020 03:33:13 +0900