2020年 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020.html Sun, 28 Apr 2024 17:24:41 +0900 ja-jp webmaster@terashima-bunko.com (寺島文庫) 岩波書店「世界」2020年4月号 脳力のレッスン216 現代日本人の心の所在地 希薄な宗教性がもたらすもの―――一七世紀オランダからの視界(その64) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1581-nouriki-2020-4.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1581-nouriki-2020-4.html  

 世界認識における「宗教」の重要性を注視し、本連載では「人類史における宗教の淵源」から世界宗教史を踏み固めてきた。とくに、仏教に関して、ブッダの仏教と日本に伝わった大乗仏教の違いを確認し、中国を経て漢字の教典となった仏教の意味、さらに仏教伝来後の日本における仏教史を追ってきた。宗教に関する「全体知」の試みを踏まえ、いまを生きる日本人の心の所在地を探っておきたい。

現代日本の宗教人口と宗教意識

   文化庁の宗教年鑑(平成30年版 )によれば、日本には八五三三万人の仏教信徒、八六一七万人の神道信徒、一九二万人のキリスト教徒、その他宗教の信徒七七四万人を合わせ、一億八一一六万人の宗教信者が存在する。つまり、総人口をはるかに上回る宗教信者が存在するということになる。もちろん、これは宗教教団側からの檀家、信徒、氏子を積み上げた申告の累計であり、国民意識において宗教に帰依していると自覚している人の数とは大きなギャップがあり、ここに日本の宗教がおかれた特徴があるといえる。
国民意識の中での宗教に関し、NHKの「国民意識調査」(2018年)をみれば、現代日本人の宗教に関する意識が透けて見える。同調査での「宗教とか信仰とかに関係すると思われることがら」で、「あなたが信じているものは」という問いに対して、複数回答可という条件の中で、「何も信じていない」という回答が三一・八%で、これは一〇年前の二〇〇八年調査の二三・五%に比べ大きく増えており、一九七三年に調査が始まって以来の高い数字となっている。「神」を信じると答えた人は三〇・六%(1978年調査時37・0%)、「仏」を信じる人は三七・八%(78年時44・8%)、「聖書・経典の教え」を信じる人は五・七%(78年時9・3%)という数字の変化は、明らかに宗教教理の受け止められ方が希薄になってきたことを感じさせる。一方で、「奇跡」を信じる人は一四・〇%(78年時14・9%)、「お守り、お札の力」を信じる人は一五・七%(78年時15・8%)、「易・占い」を信じる人は四・六%(78年時8・3%)と、一定の安定的な支持を維持しており、「グッド・ラック宗教」「お守り宗教」とでもいおうか、自分と身内の幸福を願う「招福を期待する心理」は根強く存在し続けていることが分る。
 日本人には宗教性が無いのか、というとそうでもない。山折哲雄は「近代日本人の宗教意識」(岩波書店、1996年)において、「日本人は非宗教的世俗論者ではない」として、「漠然とした無神論的信条と自然の背後に『神』のみじろぎを感ずる鋭敏な無常観が背中合わせになっている」と論じているが、それはかつて寺田寅彦が「天然の無常」(「日本人の自然観」、1935年)と表現した日本人の自然観、「山も川も木も一つ一つが神であり人でもあった」にも通じる納得のいく視界であろう。「神のみじろぎを感ずる鋭敏な無常観」は、潜在意識に置いて時代を超えて日本人に受け継がれていると思われるが、そこにも微妙な変化が起こっていることも直視しなければならない。

 

世代交代の意味―――戦後日本がもたらしたもの

   日本人の価値意識の変化の背後には「世代の入れ替わり」という要素が重く存在している。「日本国民」の既に九割以上がアジア太平洋戦争後の日本を生きた世代になっていることを注視したい。二〇二〇年の初頭の日本において、八〇歳以上が一一三一万人、総人口の九・〇%となっている。八〇歳は一九四〇年(昭和15年)生まれである。つまり、平成が終わった今、明治・大正世代、昭和一桁世代の人口比重は五%を割り、この意味で日本人を構成する中身が変わったのである。それは、「教育勅語」に基づく教育(注:1947年教育基本法公布、1948年教育勅語の排除・失効国会決議))を受けた日本人はほとんどいなくなったということでもある。すなわち、今生きている日本人の圧倒的多数は、戦後民主教育を受け、戦後なる日本の七五年間と並走した存在なのである。
本連載63「明治近代化と日本人の精神」において、明治期日本人の精神を考える素材として、新渡戸稲造の「武士道」に触れた。宗教心が無いかに見える日本人だが、「武士道」に凝縮される価値を身に着けていることを論じた作品で、南部藩士の子として生まれた新渡戸の三七歳の作品であった。江戸期の日本が、幕府の正学とされ、武士階級の知の基軸となった儒学を含む「神仏儒の交渉の時代」であり、「武士道」が書かれた一八九九年の日本には、まだ武士道こそ魂の基軸といえる土壌が残っていた。しかし、現代日本において武士道を語りうる人間はほとんどいない。社会構造の変化が日本人を変えたのである。
 スポーツ・イベントを盛り上げるために、現在も「サムライ・ジャパン」などの勇ましいキャッチフレーズは飛び交うが、儒学・漢籍の素養も「神仏儒」の知見も全く持ち合わせない日本人になっているのである。戦後日本は産業と人口を大都市圏に集積したために、鎮守の森の神社も檀家だった寺も田舎に置いて若者は都会に動いた。「盆暮の里帰り・墓参り」は続いたが、都会生活も二代目、三代目となり、田舎との接点は希薄となり、それは宗教との関係も希薄化させた。三橋美智也、春日八郎、千昌夫、吉幾三などを思い起こしても、一九六〇年代から八〇年代まで、日本の歌謡曲の柱は「田舎と都会の応答歌」であり、都市新中間層は故郷を想いながら都会に生きた。だが、既に両親の住む帰る故郷はなく、過疎化のなかで、全国に七・七万も存在する寺のうち、二万以上の寺に僧侶はいなくなった。「葬式仏教」と「観光仏教」、そして「お祭り神道」「教会結婚式」は生き延びているかにみえるが、教理を心に刻み、人知を超えた大きな宗教的意思に心を配る宗教性は加速度的に失われている。
例 えば、東京を取り巻く国道一六号線に沿って、戦後日本は「団地」「ニュータウン」「マンション群」を建設して首都圏における居住空間を形成した。ここが工業生産力モデル日本を支えたサラリーマン、都市中間層の集積地帯であり、今やこのゾーンが急速に高齢化しているのである。田舎との距離感の変化は宗教との疎遠化にも投影され、「寺じまい」「墓じまい」を加速化させている。大都市部では「死して散骨」は珍しくなくなった。

 

戦後日本人の心の基軸――経済主義の行きづまり

   戦後日本人の中核となった都市新中間層の心の基軸となったものは何だったのであろうか。あえていえば、都市新中間層の宗教ともいえるのが「PHPの思想」(豊かさを通じた幸福と平和)だった。PEACE AND HAPPY THROUGH PROSPERITYは、敗戦の翌年一九四六年に松下電器の創業者・松下幸之助が提起した概念であり、翌年発刊された雑誌PHPの創刊号には政治学者・矢部貞治や詩人・室生犀星が寄稿している。松下のPHPについて、GHQ(進駐軍)に対するカムフラージュ、プロパガンダという見方もあるが、敗戦後の混乱に直面した松下が心に描く理想社会への真摯な思いだったといえよう。

 とくに、GHQからの追放指定を受け、解除嘆願に動いてくれた労働組合への熱い想いが「労使の共存共栄」の基本哲学としてPHPを強調したと感じられる。「労使対決」という戦後日本の新しい対立を克服する概念として、「まずは会社の安定と繁栄が大切」というPHPは定着した。やがて松下幸之助は「経営の神様」といわれるようになり、晩年の松下は「徳行大国日本の使命」を語るようになっていた。また、ものづくり国家日本のシンボルとして、本田宗一郎、SONYの井深大、盛田昭夫などと共に「神格化」される存在となった。現在の日本には、そうした存在の産業人が全くいなくなったことに気付く。
 ひたすら「繁栄」を願う「経済主義」が戦後日本の宗教として、都市中間層に共有されていった。だが、そこには、明治期の日本人が、押し寄せる西洋化と功利主義に対して「武士道」とか「和魂洋才」といって対峙した知的緊張はない。「物量での敗北」と敗戦を総括した日本人は、「敗北を抱きしめて」、アメリカにあこがれ、アメリカの背中を「追いつけ、追い越せ」と走ったのである。そこには米国への懐疑は生まれなかった。
 資本主義と対峙しているかに見えた「社会主義」も、ある意味では形を変えた経済主義であった。階級矛盾の克服にせよ所有と分配の公正にせよ経済関係を重視する視点であり、経済主義において同根であった。

 日本の勤労者世帯可処分所得がピークを迎えたのが一九九七年であったが、以来二二年も経った二〇一九年においても、勤労者への分配は水面下のままである。帰属する会社の社歌を歌う「会社主義」への思い入れは、江戸期の藩へのご奉公にも通じるものであり、それに応えるように「年功序列・終身雇用」のシステムにおいて会社は安定した分配を提供出来た。そうした右肩上がり時代には違和感なく受容されたPHPの思想も、平成の三〇年間で軋みが生じ始めた。会社は右肩上がり分配を保証できなくなり、PHPに共鳴していた勤労者の中核たる都市新中間層も高齢化し、定年を迎え会社を去った。
「経済さえ安定していれば、宗教など希薄でも生きていける」という時代を生きた都市中間層が改めて気づいたことは、経済主義だけでは満たされないものの大切さであり、それは老いと病、そして人間社会を生きる苦悩・煩悩の制御である。そして、「宗教無き時代」を生きる日本人の心の空漠を衝くかのように、カルト的新宗教教団の誘惑と戦前の祭政一致による「国家神道」体制の復活を求める動きが蠢き始めているのである。不安と苛立ちの中で、我々は無明の闇に迷い込んではならない。戦後日本の共同幻想というべき「工業生産力モデル」とそれを支える心の所在地としての「PHP主義」という枠組みは静かに機能不全に陥っている。この先に進む心の再生こそ真の「戦後レジームからの脱却」である。

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2020年 Mon, 26 Jul 2021 03:51:41 +0900
岩波書店「世界」2020年3月号 脳力のレッスン215特別篇 令和の暁鐘が問いかけるもの ―――(下)日本の内なる再生の基軸 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1550-nouriki-2020-3.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1550-nouriki-2020-3.html  

令和日本の三つのメガトレンドと課題

  

 令和日本の進路に関する大方の議論を集約すると、三つのキーワードに収斂するといえよう。一つは、「アジアダイナミズム」であり、今後二〇年、実質年率六%台の成長を続けると予想されるアジア(除く日本)のGDPは、少なくとも日本の一五倍に達していると推定される。ちなみに、二〇一九年の段階で、日本を除くアジアのGDPは既に日本の四倍となった。日本の貿易総額におけるアジアの比重は現在五割を超しているが、二〇年後には、間違いなく七割に迫っているであろう。また、二〇二〇年代に六千万人の外国からの来訪者を期待し、「観光立国」で活性化を図ろうとする日本にとって、インバウンドの七割がアジアからという実体を直視すれば、四千万人を超すアジアからの来訪者を想定しているわけで、貿易・人流など、あらゆる意味でアジアの成長力を吸収し、日本の新たな前進を実現するという認識に立つ必要がある。そのことが日本に突きつけるものは何か。それはアジアを正視し、相互理解と相互交流の流れを造る覚悟である。その前提として、日本がアジアにとって魅力ある存在たりうるのかという課題がみえてくる。アジア広域を巻き込んだ戦争が終わって七五年を迎える今、中国の強大化と強権化が際立つ今、日本の立ち位置が問われる。
 アジアの国でありながら、日本近現代史はその大半をアングロサクソン同盟で生きたという特色をもつ。一九〇二年から二三年までの「日英同盟」、そして敗戦後の一九五一年から今日までの「日米同盟」を国際関係の基軸としてきた。日本人の多くは、二つの同盟を挟む期間が「戦争から敗戦」という悲惨な迷走期だったため、「アングロサクソン同盟は成功体験」と認識する深層心理がある。つまり、「脱亜入欧米」を基調とし、ご都合主義的にアジアと関わってきた国が、経済的利害でアジアに接近しても、その成果は限られている。何よりも、相互理解の得られる「国造り」が重要である。近代史を省察し、アジアの脅威とならない「非核平和主義」の徹底、民主国家としての政治の透明性、日本モデルと言わしめる産業・技術における先行性・創造性など日本の基軸が求められる。
二つは、「デジタル・トランスフォーメーション(DX)」であり、産業のみならず社会総体がデータリズム、IoT、AI(人工知能)を積極的に取り込んだ構造転換を真剣に模索せねばならない。GAFAなど巨大IT企業による「デジタル専制」の潮流がみられる今、DXの光と影を直視し、受け身でDXに飲み込まれるのではなく、「人間の顔をしたDX社会」実現という問題意識が大切になる。
「サピエンス全史」以来、構造的歴史認識で発言を続けるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ハラリの近著「21Lessons―21世紀人類のための21の思考」も、「あなたが大人になったときには仕事はないかもしれない」として、AIに象徴される情報技術イノベーションが旧来の仕事に代替する時代を予想している。この問題は、一八世紀末の産業革命以来の歴史を振り返っても、IT革命の先駆者T・オライリーが「WTF経済」(邦訳、オライリー・ジャパン社、2019年)において指摘するごとく、「テクノロジーが職を奪う。だが、新しい職種の仕事もふえ、職を殺すが雇用は殺さない」という認識が正しいのであろう。ただ、それには人間の側の主体的関与・努力が重要になる。どんなにコンピュータが進化しても、人間にはコンピュータに課題を与える役割が残る、という考えもある。ただし、冷静に考えれば、課題設定力には人間の側に大きな知の力が求められる。生身の人間の機械を超えた「全体知」が問われるのである。そして、人間が課題設定力を高めなければ、DX社会は「デファクト化、ブラックボックス化」という特質によって人間が機械に振り回される状況をもたらしかねないのである。誰にでも使えるコンピュータになっている、多くの場合は原理も構造も分からぬまま、ある枠組みに受け身で組み込まれているのである。AIの時代の到来は、実は生身の人間としての「脳力」(自分の頭で考える力)を求めるのである。三つは、異次元の高齢化社会を創造的時代へと向かわせる「ジェロントロジー」(高齢化社会工学)である。二〇一九年の新生児は八六・四万人であった。団塊の世代といわれる戦後日本の先頭世代の三分の一であり、少子高齢化が加速している。二〇五〇年には六五歳以上人口が総人口の四割、四千万人に迫り、八〇歳以上が一六〇〇万人、一〇〇歳以上が五三万人と予想される。私は「ジェロントロジー宣言」(NHK新書、2018年)において、ジェロントロジーを「老年学、老人学」と訳すのではなく「高齢化社会工学」として、高齢者の社会参画によって社会を支える力になってもらう構想、制度設計を模索し始めた。日本では六五歳以上の人口を「非生産年齢人口」として括り、高齢化を社会的コスト負担(年金・医療・介護など)の増大としてのみ考えがちである。ここで「生産年齢」という概念が「工業生産力」を前提としたものであることに気付く。
 人口構造の高齢化が問題なのではなく、都市郊外型の高齢化が問題なのだ。戦後日本は工業生産力での復興成長を只管探求したことにより大都市圏に産業と人口を集積させた。その工業生産力モデルを支えた都市新中間層が「都市郊外型の高齢者」となって、都市周辺に集積し始めている。つまり、会社人間としてサラリーマン人生を過ごした高齢者を「社会的コスト」と決めつけるのではなく、社会を支える存在として参画させるプラットフォームを構築することができるかという挑戦がジェロントロジーなのである。おそらく、社会的制度設計を変えていくことが必要となるが、それには工業生産力モデルの優等生として疾走した戦後日本型社会を再考することが必要になる。

 


令和日本の基本テーマ―――工業生産力モデルからの進化

   日本人は何でメシを食べていくのか。いかなる時代でもこれが基本テーマとなる。そこで、確認してきた三つのメガトレンドが示す令和日本のベクトルを一つの焦点に収斂させるならば、日本人はこれまで常識としてきた日本の生業に関する固定観念を疑い、日本社会の基軸を再構築することが求められていることに気付く。
 日本の生業(なりわい)、つまり産業の基本性格は、工業生産力モデルに立つ通商国家である。第二次大戦以前も一定の工業化を進めていた日本であるが、厳密な意味では日本の基本産業は農業であった。戦後という時代が始まっても、一九五〇年の就業人口の四九%は一次産業であり、これが1970年には19%、1990年には7%となり、現在はわずか3%となっている。このパラダイム転換が戦後日本だった。一九五六年の「経済白書」に「もはや『戦後』ではない・・今後の成長は近代化によって支えられる」という表現が登場してからの約三〇年間が、奇跡の成長の時代であった。ここでいう「近代化」とは技術革新による産業の近代化、すなわち「機械工業主軸の産業構成と発展」を意味していた。外貨を稼ぐ鉄鋼、エレクトロニクス、自動車などの輸出産業を育て、原材料を効率的に輸入して加工貿易を行う「通商国家」として生きる「工業生産力モデル」を目指したのである。こうした路線を生きた日本の暗黙の国民目標を象徴する論稿が、一九六四年の国際政治学者・高坂正堯の「海洋国家日本の構想」だったといえる。七つの海を越えて、「東洋でも西洋でもない立場に通商国家として生きる」ことが戦後日本のコンセンサスであった。
 工業生産力モデルの成立を示す象徴的数字が粗鋼生産量の推移である。一九四六年に五六万トンにすぎなかった粗鋼生産は、一九五〇年に四八四万トン、一九六〇年に二二一四万トン、一九七〇年には九三三二万トン、二〇〇七年に一・二億トンでピークを迎えるが、その後はほとんど横ばいとなっている。
「工業生産力モデル」の成功とその代償というべきか、戦後日本は「生産性の低い農業は切り捨て、食べ物は海外から買った方が効率的」という国を造ってしまった。その結果、一九六〇年度に七九%だった食料自給率(カロリー・ベース)は、二〇一八年度には三七%となった。この食料自給率は、一九九〇年に四八%と五割を割り込んだが、この一九六〇年代からの三〇年間こそ「工業生産力モデルの探求期」だったのである。
戦後世界の通商環境の「自由化」という流れにのって、工業生産力で豊かな国を実現するために日本は走った。だが、気が付けば、世界にも稀な食料自給率の低い国になっていた。ちなみに、米国とフランスの食料自給率は約一三〇%、ドイツはこのところ自給率向上を図って九五%に、先進国の中で日本の次に低いとされる英国でも約六五%である。日本は異様なまでに「食」の足元の弱い国なのである。
 令和日本は、この工業生産力モデルを再考し、賢く「食と農の再建」を図らねばならないであろう。TPP協定(環太平洋パートナーシップ)と日欧EPA(経済連携協定)に参加し、米国との新たな貿易協定に踏み込むという「自由化」の流れを受け入れ、食料自給率はさらに低下するであろう。既に、日本のEPAカバー率は三六・七%(2018年、JETRO調)になった。農水省は「地産地消」などを柱とする「FOOD ACTION NIPPON」を推進して二〇二〇年度までに食料自給率を五〇%とする目標を掲げていたが、達成は非現実的である。「自由化政策」を含め、すべての日本の経済政策は「工業生産力にとって望ましい政策」
を志向しているといえる。輸出産業にとって「為替は円安がいい」という思い込みが働くが、食料を七・二兆円、鉱物性燃料を一七・〇兆円(2019年)も海外から輸入する日本にとって、円安のマイナス面もあり、次なる時代を睨んだ賢明な判断が要る。思えば、日本が円という単位の通貨を採用したのが明治三年で、スタート時は1ドル=1円であった。戦争に入る1年前の一九四〇年、実勢レートは一ドル=二円であった。敗戦後、一九四九年のドッジ・ラインで一ドル=三六〇円の単一レートとなった。敗戦は、日本の通貨の価値を一八〇分の一に圧縮したともいえる。その後、一九七一年のニクソンショック、八五年のプラザ合意などを経て円高基調へと向かい、現在一ドル=一一〇円前後を動いているが、二桁のデノミでも実行しない限り、原点から考えれば、極端な円安になったままともいえる
工業生産力モデルを追求するため、先述のごとく戦後日本は産業と人口を大都市圏に集積させ、食の海外依存を高めた。その結果、東京と大阪の食料自給率は一%、神奈川は二%、愛知は一二%という特殊な都市空間を生み出した。そして、「食べものは買って食うもの」として生きてきたサラリーマン群が、高齢者となって都市郊外に集積している。これらの層を農業従事者に招き入れることは難しいが、食と農への意識を変え、農耕放棄地を活用する生産システムに応分に参画し、食を支える関係人口としていくことは可能である。例えば、鶏卵のカロリーベース自給率は一三%であるが、重量ベースでは九五%であり、鶏が食べる飼料穀物を農耕放棄地で作り、鶏に与えるシステムが形成されれば、「自由化」の流れの中でも自給率は上げうるのである。
日本の農業基盤を再建すべき時代に向かいつつあることを思い知らされたのが、昨年日本を襲った自然災害であった。我々は異常気象で想定外の雨が降ったと受け止めがちである。もちろん、そうした要素も大きいが、台風一九号による被災地を注視すると、阿武隈川、千曲川、多摩川など、上流・流域における山林・農地の疲弊によって、水を制御する「保水力」「治水力」が虚弱化していることも指摘されねばならない。食を海外に依存し、自給率を下げる過程で、日本は農耕放棄地を四二万ヘクタールにまで拡大した。山林も疲弊し、このことが自然災害を増幅させているのである。
 六一億人で二一世紀を迎えた世界人口は既に七七億人を超し、二〇五〇年には九八億人になると国連は予測している。二一世紀の間に人口は倍増、一二〇億人を超すといわれる。「人口爆発」は食料問題(量と配分の問題)に直結する。また、地球規模の気候変動は「食と農」に防災力を求めている。日本はファンダメンタルズに還り、「食と農の再生」に立ち返ることから日本の再生を図るべきである。人類史は「狩猟採集社会」から「農業社会」、そして「工業社会」、さらに「情報社会」と一直線に進化するものではない。いかなる時代でも、人間は食べずには生きていけない。生身の人間の身体性を視界に入れた社会を構想する時、「食と農」は基盤であり、日本は「食と農」の安定を取り戻し、産業構造の重心を下げることに動き始めるべきである。
工業生産力モデルを否定し、農耕社会に戻ることを論じているのではない。工業生産力は日本産業の基盤であり、宝である。むしろ、この工業生産力で蓄積した技術、さらに新たなデジタル・トランスフォーメーションのなかで躍動しているAI技術なども食と農分野に取り込んで、廃棄する食の無駄を抑え、バランスのとれた産業社会を創造しようというものである。食と農に真摯に向き合うことは、生命とは何かを考えることにつながり、人間らしい社会の厚みを増すのである。

 

 

令和の隠されたアジェンダ―――「国家神道」の制御と民主主義の定着

  「令和」という年号が漢籍ではなく万葉集に拠って決められたことが強調されるところに、令和の運命が暗示されている。つまり、「からごころ」から「やまとごころ」だという心理の投影で、中国の台頭という圧力を意識した選択なのである。「令和」の典拠となった八世紀の梅花の宴を催した大伴旅人の心を「平和ならしめよという天の令」と捉えるならば、日本人は令和なる時代に「おおらかな調和」を求めなければならない。それ故に、令和日本の隠されたアジェンダは偏狭なナショナリズムの制御であり、復権を試みる国家神道を、令和を生きる日本人が「民主主義」に立って抑制できるかにかかっている。
確認したいのは「神道」を問題視しているのではなく、国家権力と結び付けられた明治期の特異な「国家神道」を問題としていることである。日本人に根付いている神社神道については、故郷の山を敬愛し、地域の氏神様を礼拝するごとく、深く共感するものがある。ただ、一神教的な思い入れで他宗教を排除し、「神の国」という過剰な選民意識でアジアに関わった日本近代史の教訓を踏まえることなく、日本の未来は語れないのである。
敗戦直後の一九四五年一二月一五日、連合国軍最高司令部(GHQ)より日本政府に対して出された「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)において、「国家神道」(STATE SHINTO)が、戦争に至った日本の「国体」を形成した中核概念であることが示された。侵略思想の神話的カムフラージュ、軍国主義の思想的信仰的支柱として機能したのが「国家と神道の結合」であるとして、国家と神道の分離を指示したのである。これを受容し、基軸としての「日本国憲法」に投影したのが戦後日本であった。
 安倍政権によって、この基盤が静かに突き崩されつつある。「憲法改正」が提起され、憲法九条、自衛隊の明記が入り口の論点とされているが、真の論点は「国体」であり、戦後民主主義への評価である。国家神道への不気味な誘惑が動き始めている。それは日本の行き詰まり感を背景に「ニッポン」を連呼するナショナリズムの高揚を土壌に忍び寄っている。日本のナショナリズムは、日本だけを讃える愛国心ではなく、アジアとの共鳴を持ったナショナリズムでなければならないはずだ。自民党憲法改正草案(2012年4月)を読むと、改正第1条「天皇は日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は日本国民の総意に基く」とあり、現行の日本国憲法の第一条が「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」という所謂「象徴天皇制」を大きく変更する案となっている。自民党の草案でも「国民主権」を規定しており、「統治権を総攬する」明治憲法下の天皇とは異なるが、「元首」と明記することが「統治権」や「行政権」における天皇の役割を拡大する「天皇制の政治化」に道を開くことになりかねない。戦前の「国体」への回帰を願望する意図が投影された改正案といえる。
また、教育勅語を擁護し復権させる安倍政権下の「閣議決定」(2018年3月)は、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることは否定されるべきでない」とされるが、教育勅語における「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己レヲ持シ・・・」という徳目が時代を超えた普遍的価値とされるにもせよ、教育勅語の本質が国家神道に立ち「主権在君」で「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」というものであったことを厳しく省察しなければならない。そのことが視野狭窄な「選民意識」に立ったアジアとの緊張(緩急)を触発し、日本を不幸な敗戦という悲劇に導いたことを忘れてはならないはずだ。
 明治期の国家神道による統治体制の二つの柱が「大日本帝国憲法」と「教育勅語」であった。国家神道に基づく天皇を中核とする「祭政一致」の絶対天皇制は、天皇制の長い歴史の中でも特異な体制であり、むしろ象徴天皇制のほうが、「権力」よりも国民との信頼関係に立つ「権威」として、本来の天皇制といえるであろう。明仁上皇、そして今上天皇と、天皇家が「日本国憲法に基づく象徴天皇制」への想い入れの強い発言をしておられることは、「象徴天皇制を安定的に定着させること」にとって筋の通った姿勢といえよう。
「戦後民主主義の教科書」ともいわれる「日本の思想」(岩波新書、1961年)において、丸山眞男は「明治日本の機軸」としての「国体」の創出に関して、興味深い事実に言及している。明治憲法制定の立役者たる伊藤博文は、明治二一年六月に枢密院議長として「帝国憲法制定の根本精神」について、次のような発言をしていたという。――「仏教は・・・今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すと雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」という認識に立ち、「我国に在て機軸とすべきは、独り皇室にあるのみ。是を以て此の憲法草案に於ては専ら意を此点に用い君権を尊重」として、「主権在君」の国体を構想した意図を明らかにしている。
ただし、伊藤博文が単なる天皇親政主義者だったというわけではない。国家神道をもって天皇の権威を固め、政治権力の中核に天皇を置きながら、一方で、近代国家としての「国家制度」を造りあげようとした。内閣制度の発足(1885年)、天皇の政治活動を支えるための枢密院を創設し初代議長に就任(1888年)、立憲主義に立つ大日本帝国憲法発布(1889年)と、世界に向き合うための国家としての体制を整えていった。
国家神道で美装した絶対天皇制を政治権力の中核とし、「元首」としての天皇を取り巻く政治力学が、結果として巨大な「無責任の体系」を生み出した。例えば、天皇が軍事における「統帥権」を持つという建前が、軍部による政治の攪乱(統帥権干犯問題)を引き起こしたのである。主権を持つ天皇を利用し合う権力闘争が皮肉にも「誰も責任を持たない」構造がもたらされたのである。
今再び、天皇を元首とし、教育勅語を賛美する流れを作ることは何をもたらすのか。軍隊への指揮・命令権を「統帥権」と呼ぶが、戦前の日本では天皇がこの権限を有し、一般国務より優越する形で、実体的には軍部が政治を支配していく導線となった。戦後は「文民統制」として、内閣の行政権の中に自衛隊への指揮命令権もあるが、もし、「天皇親政」の祭政一致国家を目指す勢力が自衛隊の一部に浸透し、代議制民主主義の堕落と政府の国家指導力の貧困に幻滅するに到ったならば、「二・二六事件」のような軍事クーデターが起こる可能性も無いとは言えないのである。
 戦後のある時代までの政治家は、その恐ろしさを記憶していた。自衛隊の現状を見る限り、そうした危険性はないとみるのが常識だが、憲法に明記され役割意識が肥大化するながれが造られれば、「緩急」あれば銃口を握っている存在の圧力が増すことを忘れてはならないのである。
 令和を迎え、天皇の即位に関する一連の儀式に置いて、宮中祭祀は神道色を際立たせる形式がとられ、仏教の僧侶などが即位関連の宮中式典に参列して祝意を示すことはなかった。江戸期の天皇家は仏教徒の側面も持ち、後水尾天皇から孝明天皇まで京都東山の泉涌寺に陵墓が創られ、菩提寺としての役割が果たされてきた。明治期の国家神道に基づく「廃仏毀釈」によって仏教は退けられ、「日本国憲法」下の今日においても、天皇家と仏教の間には距離がとられたままである。今回の即位に関わる「奈良・京都訪問」においても、「4代前の天皇への報告」という説明で、孝明天皇陵への参拝は意味づけられていたが、仏教色は極端に抑制されていた。
 戦後の日本は、先述のごとく「工業生産力モデル」を探求したことで進行した都市化の中で、団地、ニュータウン、マンション群という宗教性のない空間を造り、宗教性の希薄な都市中間層を大量に生み出してきた。これらの人達にとって、「国家神道」の復権がもたらす危険といっても、視界に入らないといえる。そうした間隙を衝いて、歪んだナショナリズムが手招きしている。令和日本がアジアと正対するためにも、戦前回帰を志向する日本ではまずい。象徴天皇制を着実に根付かせる努力が求められる。
 昨年十一月二九日、秋篠宮殿下は五四歳の誕生日記者会見において、再び「大嘗祭への国費投入は疑問」との発言をされた。国家神道と一線を画す「日本国憲法」下の宮中祭祀の在り方に関し、殿下が的確な問題意識を有しておられることが理解できる。
 令和日本の暁鐘を聞きながら、内政・外交の基軸において、改めて日本人の英知が求められていることを痛感する。それは戦後民主主義が、「与えられた民主主義」を脱してどこまで根付いたかが問われているということであり、「国民の考える力」が試されているのである。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2020年 Thu, 06 Aug 2020 08:25:31 +0900
岩波書店「世界」2020年2月号 脳力のレッスン214特別篇 令和の暁鐘が問いかけるもの 日本再生の基軸―――(上)外なる課題への視座 https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1549-nouriki-2020-2.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1549-nouriki-2020-2.html  令和時代が始まって半年が経過した。この間、令和への予兆を感じる出来事が続いた。我々は、日本が置かれた状況を直視し、事態の本質を認識して希望を拓かねばならない。
平成の三〇年間については、本誌の二〇一九年六月号に「平成の晩鐘が耳に残るうちに」を寄稿し、私自身の体験的総括を試みた。確認したことは、平成が始まる頃、世界GDPの一六%を占めていた日本の比重は、平成が終わってみたら、わずか六%にすぎなくなった。国際機関等の大方の長期予測では、二〇年後には三%前後に落ち込むとみられている。経済の埋没は、政治の埋没に相関しており、この間、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という米国への過剰依存構造に沈潜し、冷戦後の世界史への適応障害を起こしている。アジアのダイナミズムに突き上げられデジタル・トランスフォーマションという情報技術革命のうねりの中で、世界をリードする国という日本の存在感は明らかに後退、世界の有識者の間でも「日本を国連常任理事国へ」とする声は消えた。
「何となくうまくいっている感」を演出する政権の思惑を受けて、日本人に不思議なほど危機感はない。だが、現実を直視した真摯な危機感こそ改革と発展の基点であり、日本人は事実を直視する勇気を持たねばならない。
 

 

七人の経済人の本音―――日本人の深層心理

 

奇妙な体験をした。一〇月末、ある経済倶楽部のレストランでの出来事であった。七人の人物が囲む円卓の近くで、私は講演の出番を待って一人海老フライを食べていた。八〇歳代の大物経済人を囲む形で、六〇歳・七〇歳代の企業経営者が懇親会を開いている様子だった。顔見知りの人も数人いて、観察すると、七人中四人が、例の一七色のSDGs(持続可能な開発目標)バッジを胸に着けていた。つまり、建て前上は「良識」的な人達の集まりだということである。
談論風発、ワインが入るほどに大声で本音が飛び交い、衝立越しに議論の中身が耳に残った。そして、これが現在の日本の企業経営者達の深層心理なのだと感じた。まず、話題は「韓国はけしからん、厳しい態度で臨むべし」という話で盛り上がり、一人がある大企業の韓国での支社長をやっていたとかで、いかに韓国人が「恨みの民族」で、日本への恨みをバネに生きているかが語られ、「韓国人の国民性が信頼できない」という熱弁が続いた。数人の「断交すべし」の熱い議論に対して、長老格がたしなめるように、「近隣なるが故に憎しみを増幅する歴史を積み上げてきた面もあるが、百済の時代から世話にもなってきた。苛立ってはまずいだろう」と語っていた。
 次に、話題は「アベノミクスの危さ」に及び、マイナス金利にまでもっていった異次元金融緩和の長期化が経済を毀損し、経営を歪めていることが論じられていた。「マイナス金利は、借金した方が有利だという意味で、経営者の経済倫理を損ねる」と長老格が筋道立った意見を語っていた。それでも、「異次元金融緩和が、株価の上昇をもたらしているからまあ結構じゃないか」というところに七人の話が落ち着いた。
 さらに、議論は「トランプに揺さぶられる安倍外交の情けなさ」に話が及び、貿易協定で妥協し、防衛装備品を買わされ、駐留米軍経費の増額を強いられる現状に苛立つ心情が吐露されていた。一人が「日本は未だに独立国ではないな」というと、ほぼ全員が「そうなんだよ」と共鳴していた。それでも、「中国の強大化」という脅威に向き合うには「米国についていくしか選択肢はない」という何とも自虐的空気になり、もの悲しい形で寄合はお開きになった。寂しい結論のようだが、これが令和初頭の日本人の典型的な心象風景なのか。埋没の中で、低迷を安定と思いたい心理ともいえる。
確かに株は上がっている。二〇一〇年からの九年間で、日経平均は二・三倍になった。日銀主導の異次元金融緩和でマネタリーベースを五倍にした「異次元金融緩和」の余波であるが、この間の実質GDP成長率は平均年率一・三%で、実体経済から乖離した株高が進行していることになる。この秋、株高をもたらした皮肉な構造が明らかになった。二〇一九年九月末時点での日本銀行のETF買いのポジションが三一兆円となり、「日本株式会社」の筆頭株主はついに日銀になった。株高の大きな理由は、公的資金の株式市場投入であり、この中央銀行によるETF買いとGPIF(年金基金)の国内株式投入だけでもほぼ累積八五兆円を上場企業株式に注入している。外資が日本株を買っている理由も政府保証債を買っている心理であり、「日本は資本主義国家といえるのか」という疑問が湧き起こるのである。しかも、個人による株式投資の七割以上は高齢者が保有しており、公的資金を投入してまで株価を引き上げる政策は「世代間分配格差」を増幅している。(参照、拙著「シルバー・デモクラシー」岩波新書、2017年)
 この段階で、株高の背後にあるグローバル資本主義の歪みともいえる構造問題に触れておきたい。昨年十一月、IMFのゲオルギエバ専務理事が講演で、我々が生きる世界の本質に迫る驚くべき数字に言及した。「世界の公的部門と民間部門の債務が、二〇一八年に一八八兆ドル(約2京円)と過去最大規模に達した」というのである。これは、世界GDPの二・三倍に当たる規模で、世界中が「借金漬け」になっていることを意味する。つまり、金融資本主義の主導するメッセージが「借金してでも景気を浮揚させる」というもので、金融を緩和して、超低金利で借金を誘発した結果、こうした事態を招いたといえる。この債務膨張が未来への投資に繋がればよいのだが、現実はマネーゲームの財資となって「株価の根拠なき高騰」の要因となっている。そして、このことは超低金利下の借金に慣れきった政府や企業の体質を変え、金利上昇に対して虚弱になっているということで、危うさを内包した借金漬けなのである。世界の株高もこのことと深く関係している。二〇一七年初、つまりトランプ政権がスタートした時から二〇一九年一二月中旬までの3年間でNYダウは約四割上昇、日経平均も約2割上昇した。この間の米国の実質GDPの成長率が年率二・五%程度、日本のそれが一・二%程度というのに、「不自然な株高」であることに気付かねばならない。「健全な資本主義への視座」を取り戻さないと、われわれは愚かなる金融危機を繰り返すことになる。世界中にリスクが顕在化し、実体経済が「変調」局面を迎えているにもかかわらず、債務(借金)が肥大化し、株価が高騰する異常性の中で、危機意識が拡散し、あるべき姿を探求する理性が幻覚症状に浸っているといえる。
もう一つ、日本の現実を再考する素材として、令和初頭の小さな衝撃に触れておきたい。二〇一九年八月、ロシアのカザンで「第四五回技能五輪国際大会」が行われた。この大会での金メダル獲得数において、日本は七位だった。一〇年前まで、日本はメダル獲得数においてトップを争い、「中国、韓国が追い上げようが、日本の産業技術基盤は盤石だ」と誇りを感じてきた。ところが、二〇一七年のアブダビ大会で第九位に転落、不思議なことに日本のメディアはこのことを一切報道しなくなった。
 二〇二〇年、東京オリンピックが近づき、スポーツの五輪で活躍する若者に光が当たることは結構である。ただし、産業の現場で頑張る青年に関心を寄せることは、日本の生業を想う時、大切なことである。日本の名だたる製造業企業の経営者の中に、「技能五輪の結果など心配する必要はない。製造現場はコンピュータが制御している時代で、熟練工など手間暇かけて育てる必要はない」という人もいる。だが、技能五輪で競われている五六種目を直視してみるべきだ。例えば、「フラワー装飾、美容理容、ビューティーセラピー、洋裁、洋菓子製造、西洋料理、レストランサービス、造園、グラフィックデザイン、看護介護、ホテルレセプション、クラウドコンピューティング」なども競われており、つまり現場力なのだ。「経営は頭から腐る」といわれ、経営幹部の意識が現場に投影しているということだと思うが、日本の現場力が急速に劣化しているのは間違いない。
 実は、この技能五輪に関して、次々回の開催地に名古屋が立候補していた。「東京五輪」「大阪万博」「名古屋技能五輪」は三本柱の戦略プロジェクトであったが、八月のカザンでの投票においてパリに惨敗した。このこともメディアは一切報道しない。「都合の悪いことは伝えない、語らない」―--何時の間にか日本はそんな国になった。株価と為替、マネーゲームの動きだけを「経済」の話として語る国になった。


 

令和の世界構造と日本―――「米中二極」認識とその機能不全

   時代認識の基盤は、世界秩序の基本枠をどのように捉えるかにある。一九八九年のマルタ島における米ソ首脳による「冷戦の終結宣言」以来、大方の世界認識は、冷戦の勝利者としての「米国の一極支配」という捉え方から、9・11後の米国の世界秩序マネジメントの失敗(「イラクの失敗」)を経て、新興国の台頭(「BRICSの登場」)を背景に「多極化」「無極化」(Gゼロ)という捉え方が主潮であった。
 ところが、令和初頭の今、世界認識の中心に「米中二極」という捉え方が常態化してきており、いつの間にか、日本人にも、「日米中トライアングル」という視界は後退し、米中二極の中で「米国周辺国」として生きることを当然とする視界が定着し始めている。米中対立が深化、事態が通商摩擦から情報技術覇権を巡る緊張にエスカレートし、「新冷戦」という見方も登場しているが、米中それぞれが「極」を形成し、極構造の中での求心力を形成しているかというと決してそうではない。また、極を束ねる中心概念、つまり「正当性」を主張する理念があるかというとそうでもない。米ソ冷戦期には、建前上は「資本主義対社会主義」という体制選択を巡る対立があったが、米中対立は市場主義の中での覇権争いという性格で、「理念」を賭けた戦いではない。しかも、米中ともに決して世界の制御においてうまくいってはいない。そのことを確認しておきたい。


米国の失敗――象徴としての中東の液状化
 一九七九年のイラン革命以来、米国の中東政策は「失敗の連鎖」であり、中東での米国のプレゼンスは後退を続けた。約一〇〇年前、一九一九年は第一次大戦の終結を巡るベルサイユ講和会議の年であった。第一次大戦を経て、オスマン帝国は解体され、中東は欧州列強の草刈り場となった。ペルシャ湾に覇権を確立したのが大英帝国であったが、第二次大戦後の一九六八年に英国がスエズ運河の東側から撤退した後、代わって覇権を握ったのが米国であり、その米国が同盟を結んだイランのパーレビ体制がイスラム原理主義革命によって倒されたのがイラン革命だった。
 イラン革命で盟友イランを失った米国は、「敵の敵は味方」の論理で、隣のイラクのサダム・フセインを支援し、イラン・イラク戦争(1980~88年)を戦わせた。それがサダム・フセインを増長させ、クウェートへの侵攻と湾岸戦争(1990~91年)へと繋がり、その始末をつけざるをえなくなったのがイラク戦争であった。
 二〇〇一年、ニューヨーク,ワシントンという米国の心臓部が襲われた同時テロの衝撃を受け、米国は二〇〇三年、九・一一とは何の関係もなかったイラクを攻撃、フセイン体制を崩壊させた。一方、同時テロの実行犯一九人のうち一五人がサウジアラビアのパスポートで入国していたにもかかわらず、サウジアラビアは「黙認」という「二重基準外交」を続けてきた。正に失敗の連鎖であり迷走なのである。
今、中東で進行していることの本質は、第一次大戦後の一〇〇年、この地域に繰り返された「大国の横暴」の終焉であり、埋め込まれてきた地域パワーの復権である。それが「シーア派イランの台頭」であり、オスマン帝国の栄光を引く「トルコの野心」である。
 こうした中で、トランプ政権は極端なまでの「イスラエル支援政策」を展開している。中東への地政学的戦略というよりも、イスラエルのネタニヤフ政権に繋がる身内の人間関係とトランプ岩盤支持層たる福音派プロテスタント教会への配慮から、「エルサレムへの米国大使館移転」「ゴラン高原のイスラエル領有支持」「パレスチナへのイスラエル入植支持」とイスラエルに加担する政策を加速させている。このことは、「米国が中東和平の仲介者」としての役割を放棄したことを意味する。「イランとの核合意」からも離脱し、イラン制裁を強めているが、「イランの核は否定し、イスラエルの核保有は容認する」というのも二重基準で、「中東の核」を制御することにはならず、「火薬庫」とされる中東に火種を投げ込むだけである。十一月末、収賄で起訴され窮地に立つネタニヤフ首相はシリア・ダマスカス郊外のイラン革命防衛隊基地を空爆、ペルシャ湾の軍事的緊張とともに、既に中東は「戦争状態」に近づいている。
さらに事態を複雑にしているのがロシアであり、米国の迷走がロシアの中東への再登場を招いた。冷戦後、中東から姿を消していたロシアが、二〇一五年秋、シリアのアサド政権を支援する形で軍を展開し、中東に足場を再構築した。米国が中東から後退していく中で、ロシアはイラン、トルコとの関係に加え、イスラエルやサウジアラビアとの関係も深めており、「中東のパワーブローカー」たる影響力を高めつつある。米国の迷走が招いた「液状化」に中東は向かっている。問題は中東だけではない。トランプ政権は、米国にとって最も大切なはずの「同盟外交」を混乱させてしまった。しかも、同盟の基軸となる「価値」を巡る対立ではなく、カネを巡るDEAL,つまり「自分は損をしたくない」ということでNATOには「軍事費のGDP比二%への増額」、日本・韓国には「駐留米軍経費の負担増」を求めるものであり、そこには世界秩序をリードする超大国の自覚はない。つまり、第一次大戦以降の、「国際連盟」「国際連合」の設立経緯を思い起しても、米国の主導の下に形成されてきた「リベラル・インターナショナル・オーダー」(自由で開かれたルールに基づく国際秩序)の自己否定がなされているということである。「理念の共和国」といわれ、政治的にはデモクラシー、経済的には市場主義という理念を掲げてきた米国の後退の意味を重く受け止めねばならない。


中国の失敗――象徴としての香港の混乱
 昨年一〇月、中華人民共和国は建国七〇周年を迎えた。一昨年三月の全人代で、中国は憲法を改正し、これまで「二期一〇年」だった国家主席の任期制限を撤廃した。それは二期目に入った習近平が三期以上を目指すことを意味し、「終身政権」さえ目指しているとさえ囁かれている。こういう政権は「余人をもって代えがたい指導者」として評価される必要がある。東アジアに対しても、習近平政権は「強勢外交」を展開し始めた。
二〇一四年の「雨傘運動」以降、香港の民主化運動は根絶やしにされたといえるほど抑圧され、二〇一八年秋には「広州―香港高速鉄道」と「香港―珠海―マカオ海上大橋」が完成、広州・深圳・香港・マカオを一体開発する「大湾区計画」に組み込まれつつある。また、台湾について、二〇一六年に党綱領に「台湾独立」を掲げる民進党の蔡英文が総統に就任し、前政権(馬英九政権)の対中融和政策を見直すと、習近平は全人代などで「台湾統一」について並々ならぬ決意を表明、台湾の国際的孤立を図る政策にアクセルを踏んだ。昨年九月に台湾はソロモン諸島、キリバスと断交、台湾が外交関係をもつ国はわずか一五か国になった。中南米九カ国、南太平洋の島国四カ国、アフリカの一国で、欧州についてはバチカンだけとなった。十一月のローマ教皇訪日の時、台湾に立ち寄るかが注目されたが、中国のバチカン接近を背景に、訪問はなかった。

 香港の騒動が昨年六月以来、何故これほど続いているのか。その理由は中国を本土の中華人民共和国だけではなく、世界中に存在する華人・華僑とのネットワークの中で捉えることから見えてくる。この夏、香港、シンガポールでの議論を通じ、改めて確認できたのが「ネットワークとしての中国」の意味である。拙著、「大中華圏」(NHK出版、2012年)において、私は中国の持続的成長の大きな要素を台湾、香港、シンガポールなど華人・華僑圏の資本と技術を取り込んだことにあるという検証を試みた。事実、国民党の馬英九政権下の台湾では、一〇万社の台湾企業が中国本土に進出した。また、香港・シンガポールの華僑資本も、日米欧の企業の中国展開のパートナーとなって中国の経済発展を支えた。
 中国の歴史で際立つのは「異民族支配」の繰り返しである。元というモンゴル支配、清という満州族支配という時代を経て、海外に動いた漢民族が「在外華人・華僑」の淵源であり、一九四九年からの共産党支配を嫌って海外に移住した中国人も加わり、世界に七〇〇〇万人、東南アジアに三三〇〇万人の中華系の人たちが存在している。これらの華人・華僑の心理は複雑である。「中華民族の歴史的復興」を掲げる習近平のメッセージに共鳴して中国の発展に協力する意識と「民主化された地域に住んできた」ことにより、中国の強権化を警戒する心理が交錯している。香港、シンガポール、台湾の華人経済人と話すと、本土の中国が習近平の個人崇拝的強権化に向かっていることを懸念する空気を感じる。憲法に習近平思想を掲載するなどの習近平への権力集中と個人崇拝的傾向については、朱鎔基元首相(91歳)の苦言、江沢民元主席(93歳)など長老の懸念などが伝わるが、香港の混乱はそうした不安と嫌悪を象徴しているといえる。香港問題における中国の失敗は、海外における華人ネットワークの失望を招いたことである。香港の「リーダー無き騒乱」が示すのは、グローバルなネットワーク型争乱だという性格である。香港がもめればもめるほど台湾独立志向の蔡英文政権を勢いづける。第二の香港になりたくないという対中警戒心を刺激するからである。中国が国際社会の建設的参加者になりうるのか、それとも強権化した指導者の下での歪んだ「国家資本主義」体制にとどまるのかを世界が注視しているといえる。

 

令和日本の立ち位置―――米国周辺国でも、中国周辺国でもない自立自尊

   「米中二極」という世界認識は正しくない。それぞれが「失敗」というべき局面に直面している。何よりも、米中ともに世界のあるべき秩序に向けて世界を束ねる理念を見失っている。かかる状況の狭間に立つ日本は、単純に「日米同盟で中国と向き合う」という路線しかないと思い込みがちである。だが、米中二極は理念を巡る対立ではなく、利害の対立である。この大国主義志向の強い二つの国は、利害が一致すれば、米中二極で手打ちをして「世界を仕切る」方向に踏み切る可能性さえ内在させている。日米中の関係を巡る一五〇年の近代史を直視すれば、米中連携の中で日本が孤立・敗北に至った歴史の教訓に気付くはずである。在米華僑の存在の厚みなど、米中関係のパイプは日米間のそれよりもはるかに大いことを忘れてはならない。 令和日本の最大の外交課題は「同盟の質」を再点検し、米国への過剰依存を脱して、日米関係の再設計を真剣に模索することである。昨年五月に来日したトランプ大統領は、横須賀でのスピーチで「力こそ平和をもたらす」と力説した。翌週、英国を訪問した彼は「自由と法の支配」という共通の価値を有する同盟国としての英国との「特別の関係」を強調した。同じ同盟国でありながら日本には「自由と法の支配」が無いかのごとき認識であり、その後も機会あるごとに「日米安保は不公平」、「日本は豊かな国、その日本の防衛に米国は大金を払っている」として、在日米軍経費の負担増を求めている。
 在日米軍基地経費の七五%は日本側が負担している。縮軍でもしない限り、米軍を米本土やハワイ、グアムに配置するよりも、日本に置いた方が安く済むということで、米軍基地を固定化させている要因になっている。二一世紀に入って、九・一一後のインド洋、イラクへの自衛隊派遣など対米協力という形で負担したものを含め、日本は累計一五兆円を超す軍事協力をしている。米国が見直すというのであれば、好機である。三沢から沖縄まで、すべての米軍基地、施設をテーブルに乗せ、東アジアの安全保障に必要なものを検証し、段階的基地の削減と占領軍のステータスのままといえる地位協定の改定に踏み込むべきである。
 トランプ政権は、戦後日本が大切にしてきた価値を理解していない。それは戦争という途方もない擬勢を払って到達した「武力をもって紛争解決の手段としない」という決意であり、トランプが「力こそ平和」と語った後、「非核平和主義」をもってそれに対峙する政治家がこの国にいないことに怒りを覚える。米中対立に自ら沈み込むうちに、対立が昂じて台湾海峡で軍事衝突が起こった場合、台湾には米軍基地は無く、自動的に沖縄は戦闘に巻き込まれる。「集団的自衛権」に前のめりになっていることの結末を想い、「アメリカの戦争」に巻き込まれない主体的知恵を志向するのが令和日本の課題である。
 この夏、アメリカの本音を垣間見る苦笑いの論稿に出会った。フォーリン・アフェアーズ(日本語版フォリン・アフェアズ・レポート2019年7月号に翻訳所収)にAEI(アメリカ・エンタープライズ研究所)のニコラス・エバースタットが書いた「人口動態と未来の地政学――同盟国の衰退と新パートナーの模索」である。ここで衰退する同盟国とは、ユーラシア大陸の東西にある英国と日本であり、米国の目線からすれば明らかに衰退の兆候をみせる両国との関係を見直し、新しいパートナーを模索すべしという主旨で、ワシントンに動き始めた本絵ということもできる。少なくとも、米国との過剰同調が招く結末を暗示している。
 昨年十一月末、戦後日本を代表する政治家・中曽根康弘元首相が一〇一歳で亡くなった。メディアは、その足跡を「ロン・ヤス関係」を背景にした「日米同盟強化」と「憲法改正論者」として伝えた。私は一九九〇年代にワシントンで仕事をしていた時代、訪米中の中曽根氏と同行し、今世紀に入ってからも何度か対談の機会を得た。敗戦を軍人として受け止め、戦後日本と並走した中曽根康弘という人物の真髄は「自立自尊」であり、米国とも正対する気迫を持った人という印象が残っている。
とくに、二〇一一年一二月の対談は、日本テレビの番組「なかそね荘」でも放映され、書物としても残っている(参照、「なかそね荘」世界文化社、2015年)ので、心に残る中曽根発言を紹介しておきたい。この時、中曽根氏は九三歳だったが、「日本の国際的地位というのが相対的に沈下して、外国からの尊敬とか成長する力が崩れつつある」「中国民族は単細胞ではない。これに対応するには単細胞ではだめで、複眼的で総合的な外交戦略に進まねばならない」ことを強調していた。
 私が「沖縄はじめ在日米軍基地の抜本的見直しを含む冷戦後の日米関係の再設計の必要」という持論を語ったのに対して、「やるのなら、確固不抜の政策を貫かねば、外交は足元をみられる」と鳩山由紀夫政権以降の「民主党」政権の腰砕けを論難し、ロシアとの北方四島問題についても「「四島返還一貫して進むべき」と断言していた。単純な対米協調論者でもタカ派でもなく、「聞く力がなければ、決して説く力は生まれない」と語った言葉が突き刺さった。改めて、現在の指導者において「説くに値する主張」と「説く力」を持った人が存在するのかを考えさせられる。
 令和という時代を生きる日本の米中力学の間で、主体的立ち位置を確立することにつきる。その際、最も大切なことは非核平和主義を掲げアジア太平洋諸国の先頭に立つことであり、成熟した民主国家として公正な社会モデルを実現することであり、技術を大切にする産業国家としてそれを支える人材の教育に実績を挙げることである。

 

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2020年 Thu, 06 Aug 2020 08:16:37 +0900
岩波書店「世界」2020年1月号 脳力のレッスン213 明治近代化と日本人の精神―――一七世紀オランダからの視界(その63) https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1548-nouriki-2020-01.html https://www.terashima-bunko.com/terashima/nouriki/2020/1548-nouriki-2020-01.html  私たちは何故、今ここにあるのか。そんな思いで仏教伝来以来の歴史的経緯を追い、日本人の中に如何なる精神性・宗教性が醸成されてきたのかを辿ってきた。そして、江戸期の宗教状況が幕末維新を越えて、明治という時代を生きた日本人の精神性にどのような形で投影したのか、その点を再考しておきたい。

 

 

明治期日本人の精神―――江戸期に埋め込まれた魂の基軸

 

新渡戸稲造が「武士道」を書いたのは一八九九年で、三七歳であった。一八六二年に盛岡で南部藩士の子として生まれた新渡戸が「日本国民およびその一人一人を突き動かしてきた無意識的な力」、つまり魂の基軸を自己解明した作品ともいえる。
 「武士道」の序文において、新渡戸は執筆の意図に関して、欧州の有識者との対話において、宗教教育が無い日本で「どのようにして子供に道徳教育を授けるのか」と聞かれ、それに対する解答を模索したものだと語っている。「武士道」の第二章で、新渡戸は「武士道の源」に言及している。キリスト者たる新渡戸が、自らの体験的考察において、日本人の価値基軸として埋め込まれたものをどう認識していたかは示唆的であり、新渡戸は「武士道の源泉は孔子の教えにあり」という。そして、「冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳」が、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係を支える規範になってきたと述べる。さらに、儒教倫理を中核としながら、仏教と神道が日本人の精神に深い影響を刻んだと新渡戸は指摘する。仏教は「運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生よりも死への親近感をもたらした」と語り、神道は「先祖への崇敬」「自然崇拝」という価値をもたらしたという。
「武士道」の柱として新渡戸は七つの価値を提示する。「義」(支柱としての正義の道理)、「勇」(胆の錬磨)、「仁」(人の上に立つ条件)、「礼」(他人への思いやり)、「誠」(二言なき生き方)、「名誉」(苦痛と試練に耐える心)、「忠義」(何のために死ぬか)の七つである。サムライの子だった新渡戸が、儒教の「四書」(大学、中庸、論語、孟子)「五経」(易経、書経、詩経、春秋、礼記)を日本人の価値の基軸とするのも頷けるし、新渡戸自身はキリスト者として、「功利主義者や唯物論者の損得勘定哲学は、魂を半分しかもたない屁理屈屋が好むところである。功利主義や唯物論に対抗できる十分に強力な他の唯一の道徳体系こそキリスト教である」とまで言い切るが、怒涛のような西洋近代化の波に直面した明治期の日本人が、葛藤の中で自らの心を支えるものを求めて自問自答をしたことは間違いない。
 そして、多くの日本人が江戸時代を通じて身につけた精神性、それを新渡戸は「武士道」と表現してみせたが、仏教、儒教、神道の複合によって形成された価値体系を再確認したといえる。新渡戸は「武士道」の最後を「不死鳥はみずからの灰の中から甦る」というあの名言によって締めくくるのだが、近代化とともに浸透する功利主義と金銭主義の中で失われつつある日本人の精神への危機感と願望が滲み出た言葉である。
過日、山形県の鶴岡市で、江戸期に庄内藩の藩校だった「致道館」を訪ねる機会を得た。藤沢周平が描いた武士の世界の舞台が庄内藩であり、花よりも根を大事にする「沈潜の風」とされる庄内人の気風を培った基盤がこの致道館にあったことを実感した。幕藩体制下の日本に二五五校存在したといわれる藩校の多くが、儒学の中でも朱子学を学ばせたのに対して、致道館は荻生徂徠の古文辞学(徂徠学)を学ばせたのが特色だという。この藩校という仕組みが、各地の人材育成の基盤となった。一八七一年の廃藩置県で廃止されたが、旧藩校が形を変えて地域教育の中核としての役割を果たした事例が多い。また、明治期の向学心の強い士族出身の青年が東京で学ぶ時、かつての藩主の多くが藩邸を藩校の延長の寮として提供して郷土出身者を支えた。この中で醸成され、暗黙のうちに人生の規範として定着していったのが「武士道」的価値だったといえる。
 およそ明治という時代を知的に生きた知的青年は、西洋化の潮流の中で、日本人としての精神的基盤を問い直した。「日本哲学の座標軸」と言われる西田幾多郎(1870~1945年)の「善の研究」(1911年、弘道館)もこの知的緊張の中から生まれたといえる。西田四一歳の作品で、青年西田幾多郎の知の格闘の凝縮でもある。西田は「宗教」に関し、「宗教的要求は自己に対する要求である」と語り、「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるものである」と言い切る。つまり、人間が自らの内面を見つめる力に宗教の本質を見るのであり、「真摯に考え、真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである」とする西田の言葉は重い。そして、「我々は最深なる内生に由りて神に到る」という視座に立って、「宗教の真意は神人合一の意識を獲得するにある」という西田の帰結は、宗教のあるべき姿を考える者にとって視界を拓くものである。


 

和魂洋才とは何か

   明治期の日本人の精神的系譜を整理する上で、平川祐弘の「和魂洋才の系譜――内と外からの明治日本」(1971年、河出書房新社)は重要な作品である。
「和魂洋才」の起点が「和魂漢才」にあり、日本人の精神性が外からの圧力に対する緊張によって形成されてきたことが分る。日本人にとって、重い存在は常に中国の文明・文化であった。「やまとだましい」が「からごころ(もろこし)」と対峙することで形成され、「源氏物語」の「乙女」の巻の一節が紹介されている。「猶、才を本としてこそ大和魂の世に用ひらるヽ方も、強う侍らめ」という行であるが、ここで「才」とは中国の学問のことであり、平安期の教養人の理念が「和魂漢才」にあったことを紫式部は示唆しているのである。
中国渡来の先端的知識も大切だが、日本の特性にも心を配るという、和魂漢才を兼具することを評価するというものであったが、鎌倉期の蒙古襲来以降、「和魂」は「やまとだましい(大和魂)」となって神国日本思想を芽生えさせる。(参照、連載46「モンゴルという衝撃」)そして、それが江戸期には本居宣長の「からごころからやまとごころへ」という国学の思想に影響を与え、後述する「国家神道」への伏線になっていくのである。
 平川の「和魂洋才の系譜」は明治を代表する国際人、森鴎外(1862~1922年)に焦点を当て、西洋化日本と和魂の行方を追っている。そして、ドイツに留学して医学を学び、エリート軍医として生涯「官」に仕えた鴎外が残した遺言が「石見人森林太郎として死せんと欲す」であり、「あらゆる外形的取扱いを辞す」であったこと注視している。鴎外は「学問と芸術の位は人爵の外にある」という信念を貫き、官位・勲章などの栄誉に価値を置かなかった。晩年の鴎外は、「易経」にある「自彊不息」(じきょうふそく)、すなわち、自ら静かにつとめてやまない」という言葉を好んだという。西洋の知才の世界を生きながら、東洋的価値観を端然と貫いたわけで、「和魂洋才」を体現した人物といえる。
 また、日本資本主義の父といわれ、五〇〇を超す企業を興した澁澤栄一が七六歳の時に書いた「論語と算盤」(1916年)は、「道徳経済合一主義」を論じたもので、「士魂商才」という言葉が登場するが、明治の経済人の多くが、利潤追求だけではない資本主義を志向した背景には、江戸期に蓄積された価値観が強く潜在していたことを思わせるのである。

 

 

明治というあまりにも特異な時代――国家神道への傾斜

  明治を生きた青年の多くが、真剣に自らが拠って立つべき精神の基軸について苦闘していたこととは別次元で、国家としての日本は「国家神道」の確立に突き進んだ。国家統治の中心に「天皇」を置き、「尊皇」の具体化のための祭政一致の国体の実現を目指したのである。そして、そのことが「戦争」という悲劇に突き進む淵源となったといえる。一八六八年(慶応四年)三月に、明治政府は「祭政一致」の布告を行い、「神仏分離令」が公布された。江戸期の仏教優位の神仏習合を反転させ、神社の地位を仏教寺院の上に置くもので、日本各地において「廃仏毀釈」といわれる過激な寺院・仏像を破壊する運動の引き金を引いた。国家神道の展開と国民への浸透については、島薗進「国家神道と日本人」(岩波新書、2010年)に詳しく触れられており、一八八九年の「大日本帝国憲法」、翌一八九〇年の「教育勅語」という形で、上からの政治主導による「国家神道」体制が形成されていった過程が確認できる。大日本帝国憲法第二八条には「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務二背カザル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、キリスト教や仏教まで、すべての宗教の自由が保証されたともいえる。ただし、神道だけは宗教というよりも特異な国家統治のシステムの中心に置かれ、それを定着させたのが「教育勅語」であった。天皇と臣民の紐帯を中心概念として、臣民が守るべき儒教的徳目が提示され、天皇中心の「国体」を護り抜くために「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という究極の国家神道的価値が強調されたのである。明治期から一九四五年の敗戦以前の時代を生きた日本人は、「教育勅語」を基盤とする教育課程を通じて、「心の習慣」として国家神道の価値観を共有することとなった。
ここで埋め込まれた万世一系の天皇を戴く「神の国日本」という意識が、ドイツ帝国を模した「国家主義」(参照、本連載36「プロイセン主導の統合ドイツに幻惑された明治日本)と相関し合い、富国強兵で自信を深めるにつれてアジアを見下し、「日本を盟主とするアジア」という危うい国家思想に変質していったことを省察せざるをえない。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、国家と帰属組織と個人が共通の目標(坂の上の雲)を見上げて生きることのできた「幸福でもあった時代」として躍動感をもって描いている。敗戦後の戦後なる時代を生きた青年の心象風景は、一〇歳で敗戦を迎えた寺山修司の「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや 」に象徴されるのではないか。価値基軸が崩壊した時代に立ち尽くしたのである。
「昭和軍閥」のせいで真珠湾への道に迷い込んだと決めつけ、明治という時代は西洋化の潮流に青年達が「和魂洋才」で歯を食いしばった時代として認識されがちであるが、祭政一致の国家神道に国民を呪縛し、その帰結としての選民意識とアジアへの侮りが、尊大で無謀な冒険主義に日本を駆り立てた主因だったことを深く認識すべきである。戦後において、日本国憲法の下に「政教分離」がなされ、神道と国家の結合は否定されたが、今上天皇の即位に関わる一連の儀式において明らかなごとく、皇室祭祀はほぼ明治期天皇制を踏襲しており、政治リーダーの中には国家神道への回帰をもって「日本を取り戻す」ことと考えている勢力もある。

 

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takeshikojima555@yahoo.co.jp (terashimadmin_2010) 2020年 Thu, 06 Aug 2020 07:41:47 +0900