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2013年第32号より2013年第32号より

ジャパンエフエムネットワーク 「月刊寺島実郎の世界」

寺島実郎が語る歴史観
 ― 17世紀オランダからの視界『キリスト教の伝来と禁制』

 今号では、2013年7月27日(土)(首都圏28日(日))に、TOKYO FM他、全国FM各局にてオンエアされた 「寺島実郎が語る歴史観―17世紀オランダからの視界『キリスト教の伝来と禁制』」をダイジェストでご紹介します。

 ■ 収録イメージ

<ダイジェスト>
 日本にキリスト教が伝わったのは、1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる鹿児島上陸当時という説が広く知られているが、実は7世紀から8世紀にかけて、シルクロードの民・ソグド人から中国へ、そして中国から日本へ伝わっていた。記録によれば736年に「ネストリウス派キリスト教」が「景教」という形で日本に伝来。さらに遡って635年にペルシャ人僧のアロペン(阿羅本)が長安にネストリウス派キリスト教を伝え、638年には大秦寺を建てたとある。当時の日本が「大化の改新」の10年前だったことを考えると非常に興味深い歴史の流れを感じる。その後、現ウズベキスタンに住むイラン系のソグド人商人たちが東西交易に大きな役割を果たすと同時に、中国に仏教やキリスト教を浸透させていった。こうして大秦寺を拠点に、中国で景教が広まっていったが、845年武宋皇帝による道教保護のため景教は弾圧を受け、急速に衰えていった。

 なぜ、キリスト教は8世紀ではなく、800年後の1549年以降に日本で大々的な広まりをみせたのか。日本精神史の土壌と近世を迎える頃の社会構造の変化が関係していると思われる。キリスト教は大きくカトリックとプロテスタントに分かれ、16世紀初頭からフランシスコ会、ドミニコ会などの修道士がポルトガル国王の援助を受けながらインド・ゴアを拠点に東方布教を開始し、イエズス会のザビエルがリスボンからアジアに向かった。1542年、ザビエルはゴアに到着、マラッカ滞在中に日本人のアンジロウらに出会って日本での布教活動を決心、49年に鹿児島に上陸し平戸や山口、そして大友宗麟がいる大分県で2年余り布教活動に専念した。ザビエルの来日から1587年の「伴天連追放令」まで、日本人キリシタンの数は実に40万人とも言われた。現在は113万人で人口の1%にも満たないことを考えると、当時どれだけの浸透力を持っていたかがわかる。

 では、なぜこんなに短期間に浸透したのか。3つ理由が挙げられる。まず、16世紀の日本が「中世から近世への転換期」という社会的背景の中にあったこと、2つ目は親鸞の登場により、仏教が国家から民衆のものへと転換していったこと。3つ目は、宣教師たちの努力と苦闘であり、絶対神のもとでの平等を信条とするキリスト教に民の心が動いたからだ。そんな中で、突然、秀吉による「伴天連追放令」が発令された。理解ではなく、戦略として比叡山や一向宗勢力に対抗するためにキリスト教を保護した信長とは違い、実利主義を常としていた秀吉は、キリスト教を警戒しつつも、ポルトガルとの交易を重要視していたため、布教活動を許可するなど、ある程度の理解を示したが、イエズス会の準管区長コエリョが長崎から回航し、乗船した際に、イエズス会の船が大砲を積んでいることなどを知り、急激にスペイン・ポルトガルへの危機感が現実味を帯びたようだ。その後、徳川政権においてキリシタン禁制はどのようになるのか、深めていきたい。
   
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