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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 岩波書店「世界」 脳力のレッスン 2015年 岩波書店「世界」2015年8月号 脳力のレッスン160【特別篇】  戦後七〇年の夏、日本外交の貧困―――安保法制を超えた視界へ

 

 吉田茂は外務官僚が提出する書類に「経綸に欠ける」と書いて突き返していたという。サンフランシスコ講和会議・日米安保条約を主導し戦後外交の基盤を創った吉田であったが、講和を支えた若い官僚たちには、東西冷戦に向かう世界情勢の中で、自分は西側陣営の一員として日米同盟に踏み込み、戦後復興を急ぐという構想に突き進むが、「君たちは将来に備え柔らかい日本の選択肢を研究するように」と語っていた。
 驚いたことに、一九五四年に吉田茂は「日本の英連邦加盟が望ましい」と発言している。その意図を調べてみると、吉田は『回想十年」(一九五八8年、新潮社)において、「私は英連邦という自由な国家結合を偉とし、賢明としている」と述べ、「独善に陥りがちな米国流」を指摘して「対米外交の上で対英考慮の大切さを忘れてはならない」と語る。「対米隷属」を拒否した吉田の真情として、日米同盟を基軸としつつも、植民地帝国としては後退しながら「強制なき自由な連邦」として隠然たる影響力を世界に保持する英連邦のソフトパワーとしての意味が見えていたのであろう。広く深い世界観を持ち、日本の国際関係を模索していたわけで、それも経綸なのである。その意味において、現在の日本の指導層の「経綸」は劣化しており、そのことがこの国を悲劇に導こうとしている。


「安保法制」という試練とその屈折


 経綸は歴史への洞察によってのみ生まれる。戦後七〇年という節目の年、安倍首相は「アジア・アフリカ会議(バンドン会議)六〇周年記念首脳会議」(於ジャカルタ、四月二二日)と「米国連邦議会上下両院合同会議」(於ワシントン、四月二九日)において重要な演説を行った。そこに、安倍首相個人というより首相を取り巻くこの国の外交政策を牽引する人たちの経綸のレベルが滲み出ている。気付くのは、驚くほどの歴史認識の浅薄さである。まず一九五五年に行われたバンドン会議の意味を理解していない。「アジアに冷戦の構図を持ちこまないために」というインドのネルーやインドネシアのスカルノの思惑が、台湾の蒋介石との緊張関係にあった中国の周恩来の戦略と交錯して行われ、その四年前に日米安保を選択した戦後日本にとって、米国が当初は会議そのものを否定する中での「及び腰のアジア還り」の起点でもあった。「バンドンの先人達の知恵」を讃えるならば、何が讃えられるべき知恵であり、それを二一世紀の状況の中で「アジアの日本」としてどう守るのか構想が盛り込まれるべきだ。中国を牽制して「強い者が弱い者を力で振り回すことがあってはならない」と語る前に、アジアと向き合ってきた過去と未来について真摯で筋道の通った、米国頼みだけではない経綸を語るべきである。

 米上下両院での演説は、硫黄島の栗林大将からスノーデン中将、自らの米国留学体験までに触れ周到に準備されていたが、脈絡を精査するとここでも歴史認識の希薄さに気付く。リンカーンの存在によって「一九世紀後半の日本が民主主義に開眼させられた」というが、民主主義への理解の欠落が軍国主義をもたらした戦前の歴史をどう活かそうとしているかは見えず、「戦争への反省」も、「米国のようなすごい国と戦争したこと」への反省は窺えるが、戦争の総体を正しく省察しているとは思えない。アジア太平洋戦争は「アメリカへの敗戦」だけでなく「米国と中国の連携に敗れた」のであり、アジアの理解と結束が得られなかったが故に敗北したのである。


 戦後七〇年、二〇一五年の夏、日本は安保法制を巡る試練に直面している。憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認し、日米の軍事同盟関係を強化して「積極的平和主義」の名の下海外の紛争に共同対処する方向に踏み込もうとしている。国連憲章第五一条に規定されるごとく、武力攻撃を受けた場合に安保理が必要な措置をとるまでの間に認められる自衛権の発動に関し「個別的自衛権」と「集団的自衛権」があるという考え方は国連加盟後の日本においても認識されてきた。ただし「集団的自衛の権利はあるが憲法制約で行使できない」という公式見解であった。それを変えてまで「集団的自衛権の行使容認」を基点とする安保法制の整備とは何か。
 突き詰めれば、「冷戦期の議論の残滓」と言わざるをえない。冷戦終結後の一九九〇年代、ドイツでの米軍基地縮小と地位協定改定の動きを横目で見ながら、日本における米軍基地縮小の流れを予感した日米双方の現状固定化に利害を抱く外交・防衛官僚とその周辺に連なる「日米安保マフィア」が指摘し始めたのが「日米同盟の片務性」であり、基地縮小を回避するためのハードルとしての「集団的自衛権」であった。日米安保条約の枠組みでは「米国は日本を守る責任を負っているが日本は米国を守る義務はない」という論点が、アーミテージ・グループに象徴される米側の日米同盟に利権を有する論者の定番の牽制であり、生真面目な日本側の呼応者が「日米安保の双務性」を求めて「日本も米国を守る必要」を語り始めたのが「集団的自衛権の行使容認」への一歩であった。
 首相が何度なく語る「いかなる国も単独では平和を守れない」というフレーズこそ典型的な冷戦期の世界認識である。ソ連を中心とする東側に対抗して西側の結束を図る論理であり、今日の世界ではNATOのような軍事同盟でさえ国際テロ組織IS攻撃の例を見ても分るごとく、個別の事態にそれぞれの国が主体的判断で行動を選択する傾向を強めており、単純に他国に自らの安全保障を預託するなどありえない。日本は冷戦期にさえ踏み込まなかった「集団的自衛権」を周回遅れで持ち出し、時代遅れの議論に熱中していると思えてならない。


 さらに、話を複雑かつ難解にしているのは本来の集団的自衛権の話から逸脱し始めていることである。憲法改正せずに解釈改憲で集団的自衛権に踏み込んだために、議論は複雑骨折を起こしてしまった。第二次安倍政権がスタートし、首相を取り巻く安保法制懇談会が提出した「集団的自衛権に踏み込むべし」とする報告書の内容は、その後の公明党との与党協議による曲折を経て、「現行憲法内でやれること」に限定されていくにつれ、これまでの個別的自衛権の枠組みでもやれるものに収斂した。防衛大臣が「これまでと自衛隊員のリスクは変わらない」と言い続ける代物になり、全ての当事者が首を傾げるファジーな内容になってしまった。そして、ファジーな規準での「存立危機事態」の認定は、「時の政権の判断による」として、立憲主義という近代民主国家の基軸に関わる議論を誘発して憲法違反論と格闘する事態となり、政権運営そのものが「木を見て森をみない混迷」に陥っている。


 さらに議論を混濁させているのは、野党第一党の民主党の外交・安保政策である。政府与党の外交安保政策よりも矮小なレベルでの迷走を続ける民主党の混乱は滑稽でさえある。自らが政権を担っていた時代にコミットした「辺野古移転を容認した日米合意」の金縛りの中で沖縄県民の意思と連携できない現実は悲惨である。この党の外交安保政策の中核を担う政治家には「活米という流儀」などと言い、日米同盟を現状のまま固定化する役割を担う「安保マフィア」の一翼を占める人々が存在し、本質的には安保法制を推進する勢力と差異のない疑似保守政党に堕している。民主党政権の迷走の淵源は、鳩山政権が普天間・辺野古問題を沖縄の負担軽減問題としか捉えきれず、「抑止力」なる言葉に幻惑され、冷戦後の米国との同盟関係を再設計する意思を貫けなかったことにある。戦後七〇年たっても外国の軍隊がほぼ占領軍同様のステータスを維持し存在することに疑問も抱かぬ者に変革を語る資格はない。

      
「安保法制」を進める人達の本音


 このところ、安保法制を推進する安倍政権を支える政治家・官僚の訪問を受け意見交換をする機会を得ている。彼らとて集団的自衛権の行使と安保法制の整備が日本の未来にとって望ましいと信じて職務に当たっているはずである。「何故安保法制を進めねばならないと信じるのか」という率直な質問をぶつけ、静かに耳を傾けてみるとその本音が伝わってくる。

 第一に湾岸戦争のトラウマである。米軍のクェート展開に多国籍軍支援と周辺諸国援助の名目で一・七兆円(一三〇億ドル)ものカネを提供したが、それでは評価されなかった。軍事力への誘惑の芽生えで、「一国平和主義ではだめだ。何らかの軍事的貢献を」という理屈が後のアフガン攻撃での「ショウ・ザ・フラッグ」、イラク戦争での「ブーツ・オン・ザ・グランド」という米側からの囁きに触発されて紛争解決の手段として憲法で否定したはずの武力に引き寄せられ、遂により広範な「国際貢献という名の対米協力」に踏み出そうというのだ。
 第二に中国の脅威への危機感である。この心理的ストレスが安保法制に駆り立てているともいえる。尖閣・南沙へと近隣への領土的野心を「核心的利害」として押し出す軍拡の脅威という認識と共に、中国が二〇一〇年に日本のGDPを追い抜き、二〇一四年には早くも倍になったという焦燥が、AIIB(アジア・インフラ投資銀行)設立構想などで揺さぶられる孤独感と絡まり、「米国と連携して中国を制御しよう」という意図を増幅させている。しかし、中国の脅威への賢い解答が集団的自衛権なのか。二〇〇〇年を超す日中の歴史を振り返れば、外交において脅威を制御してきた先人の知恵に気づくが、むきになって軍拡中国を語る中に賢人の視界はない。
 第三に、今回、安保法制を取り巻く人々との議論で改めて発見したことだが、頼りにならぬアメリカ、とりわけオバマへの失望感が「日本による補完・肩代わり」という心理を芽生えさせ、新次元の日米協力を持ち出させているのだ。米国の力に関して妙に冷めており、冷戦終結後唯一の超大国といわれた米国の世界を制御する力が「イラクの失敗」を経て急速に衰え、いま中東やウクライナで見せている「動かないし、動けない」状況を踏まえ、日本が「価値を同じくする同盟国として」米国の後退を補い、場合によっては肩代わりしようという役割意識の肥大化が芽生えている。実はこれが日米の微妙な温度差を生んでいる。米国の戦争に駆けつけてくれる同盟国という歪んだ期待と米国が望まぬアジアの紛争に引き込まれる不安の交錯を惹起し、この温度差は禍根を残すだろう。
 かれらに決定的に欠けているものは何か。一言でいえば、軍事の議論があって外交の議論がないこと、国家の危機の議論だけがあって国民にとっての守るべき国を創る議論がないことである。それは何故か。時間軸と空間軸で世界を見渡し、世界がどう動いているのかという視界がないからである。

      
動き始めた世界史のゲームの転換

  H・キッシンジャーの新著『世界秩序」(“World Order”, Penguin Press, 2014)は、一九二三年生まれの彼が一九五七年の処女作『復元された世界」以来の六〇年以上にわたる世界観察の総括を試みた作品である。彼は今「世界秩序」が、近代世界システムの原点ともいうべき「一六四八年のウェストファリア条約」以来の四〇〇年の枠組みの転換点にあることを直感している。彼は「世界秩序」を「広く世界に適用できると考えられる公正なアレンジメントとパワー分配の本質について各地域や文明がもつ概念」と規定する。確かに、政治とは価値の権威的配分であり、その時代の共有価値によって信じ難いような配分がなされる。一四九三年、ローマ教皇の詔勅で大西洋を二分してポルトガルとスペインの権益の境界が定められ、翌年のトルデシリャス条約によって境界線は西経四六度三七分とされ、バチカンの権威が世界を分割した。


 今世界を直視すれば、中東におけるイスラム・ジハード主義勢力の台頭、ロシアの軍事志向回帰の圧力を受けた欧州のリベラルな価値規範の動揺、中国の経済的台頭と権益拡大志向とアジア近隣の緊張という新たな動きが際立ってきており、それらは四〇〇年という視界に立てば、近代世界システムを支えた「国民国家、民族自立、内政不干渉、そして宗教的呪縛からの解放」という暗黙の規範の変更を予感させる。また戦後史の視界からしても、中国主導のAIIB構想に象徴される動きはIMF・世界銀行という米国中心の戦後秩序枠(ワシントン・コンセンサス)を突き動かすものとして注目されねばならない。AIIB構想について、英国が支持に動いて五七カ国参加の流れが一気に形成されたことを理解すべきだ。英連邦五三カ国は「自由な連合体」にすぎず、集団的自衛体制も強制力もないが、英語圏、英国法、英国文化を共有するソフトパワーが時に政治的にも機能することがあり、AIIBについても豪、ニュージーランドなどが連動して流れを形成した。実はこの構図は一九七一年に国連が中国招請・台湾追放を決めた時と同じで、日米など二二カ国は逆重要事項指定決議案を出したが否決、中華人民共和国が国連に議席を得た。あの時も英国が動いた。英国は香港問題もあり一九四九年の共産中国成立直後から中華人民共和国を承認、意思疎通を行っていた。

 世界は確実に新たな局面へと動いている。そう確認させたのが、六月七・八日に独バイエルン州エルマウで行われたG7サミットであった。ウクライナ問題でロシアを排除してG8からG7に戻った主要国首脳会議は、南シナ海、ウクライナ、北朝鮮などの課題に結束して対処することを確認したといっても、グローバル・ガバナンスに関してG7なるものが何一つ主導できないことを示す「貧相なサミット」であった。
 振り返れば、二〇〇〇年沖縄サミットはプーチンが初めて登場した会議であった。冷戦後一〇年が経過しロシアの混迷が続き、冷戦の勝利者としての米国の一極支配という世界認識が底流に存在した。ところが八年後の二〇〇八年洞爺湖サミットでは一変し9・11後の「イラクの失敗」は明らかで、「世界は多極化している」ことが印象付けられた。「環境」と「アフリカ支援」が重要テーマとされ、拡大会議には中、印、ブラジル、メキシコ、南アなど新興国に加え、アフリカ諸国首脳も集まっていた。あれから七年、今回のサミットの貧相さは参加者が少ないという次元ではなく世界をいかなる方向に牽引するかについてのビジョンも構想も見えない。かつて「核なき世界」をぶち上げていたオバマの米国の後退も顕著だが、アジアから唯一参加した日本も対中警戒心だけを際立たせ、中、印、ASEANなどとの意思疎通をもって台頭するアジアを世界秩序にリンクさせる器量を見せることはなかった。来年、伊勢志摩サミットはいかなる性格になるのだろうか。

      
沖縄問題が炙り出す日本外交の金縛り
 

 日本外交の貧困は沖縄を直視すれば明確である。「普天間問題の唯一の解決策は辺野古」と言い続ける政府、外務防衛官僚、そして野党民主党の固定観念を支えるものは何か。何故二〇一〇年の日米合意なるものに固執して金縛りになるのか。
 本連載「江戸期の琉球国と東アジア、そして沖縄の今」(二〇一五年四月号)で、四〇〇年を振り返って日本との歴史的相関の中での沖縄を論じた。その論稿を受け翌五月号では翁長雄志沖縄県知事との対談『沖縄はアジアと日本の架け橋となる」の機会を得た。深めた感触は、鳩山政権が迷走の挙句に辿り着いた「辺野古容認の日米合意」から五年、問題の本質は変わったということだ。まず県民の意思がある。県知事選や国政選挙結果で明らかなごとく、「振興予算を貰って基地を引き受ける」ことを拒否し、しかも「他のどこかに基地が移転すればいい」という次元ではなく、「東アジアの紛争の場ではなく安定と交流の基点としての沖縄」という視界を開き始めている。そして「尖閣で炙り出された日米同盟の本質への覚醒」だ。米国の本音が「日中間の領土紛争に巻き込まれて米中戦争になるのは避けたい」であることは明らかになった。日本は必死に「日米で連携して中国の脅威を抑止する」つもりでいるが、米国のアジア戦略の本質はアジアにおける米国の影響力の最大化であり、同盟国としての日本も二一世紀の大国中国も重要で、日本が尖閣の施政権を有することは支持するが領有権にはコミットしないという姿勢に象徴されるように双方への影響力を最大化させる曖昧作戦を採っている。注目すべきは米中関係であり、二〇〇九年からの閣僚級の米中戦略・経済対話が既に七回積み上げられ、二国間問題ばかりか地球環境問題などグローバル・ガバナンスに関する意思疎通を深めている。「米中覇権争いの時代」という認識は表層的で、アジア太平洋の共同管理に重要な交渉相手として向き合っていることを見誤ってはならない。太平洋戦争の教訓は「米国と中国の連携に敗れた」ことに凝縮されるのである。


 六月初旬にかけ翁長知事が訪米した。日本のメディアの受け止めは「意味のない二元外交」「自治体外交の限界」れ、米側からも「辺野古が唯一の解決策」と突き放されたとしている。だが、賢いアメリカのメディアやアジア外交専門家は、日本リスクの高まりの中での沖縄問題の変質に気付き始めている。日本が東アジアの緊張を高める方向で軍事志向を強めれば、米国をアジアの紛争に巻き込む危険が現実味を帯びていくこと、そして、尖閣で日中の軍事衝突が起こりかねないとすれば、在沖米軍基地の数万人の家族はグアム・ハワイのラインに引き揚げさせる必要があることを。「沖縄のやっかいな自己主張」という次元を超えて、米国側から沖縄を見直さざるをえない局面を迎えているのだ。そして、このまま放置すれば、沖縄が自立志向を加速させ独立さえ主張しかねないことも、沖縄を知るワシントンの関係者は視界に入れている。五月の英国総選挙で、スコットランド民族党が六議席から五六議席へと躍進し自立志向が一段と高まっているが、スペインのカタルーニャを加え、沖縄は「世界史的視界から見て、先進国の中で独立するかもしれない三つの地域」とされつつある。沖縄を押さえつける日本ではなく、沖縄とともに東アジアの安定に向け米国と本質を議論できる日本でなければならない。漠然とした抑止力幻想に埋没して、米国への過剰依存に自らを誤魔化すことなく、辺野古見直しを含む在日米軍基地全体のあり方を戦略対話のアジェンダとして提起すべきである。辺野古問題の原点は事故を起こした「危険な普天間基地問題」であり、移転か米軍内での統合縮小なのか米国が決断すべきで、日本側が代替地を準備すべきものではない。そこに「在沖基地の七四%は海兵隊基地」という現実が横たわる。実は国防省内部の利害調整問題なのである。日米が東アジア安全保障のために必要な米軍基地というテーマをテーブルにのせ、全基地の機能と規模を再点検する作業からしか解答は得られない。「全体解の中でしか局地解はない」と主張する理由はそこにある。これは戦後七〇年の日本の国益をかけた課題であり、安保法制の整備前に日本人は真剣に追求すべきである。

      
戦後七〇年―――見開くべき世界観
 

 一〇年前の二〇〇五年、本連載で「戦後六〇年の夏の意味――ミズリー号艦上にて」とい(『脳力のレッスンⅡ』所収)を書いた。東京湾に浮かぶ戦艦ミズリー号の甲板で、鈴なりの米軍将校に取り囲まれ日本側全権重光葵が降伏文書にサインする写真と映像が、「日本は米国に敗れた」という認識が刷り込まれる上で極めて効果的な演出であったことに論及した。蒋介石の国民党政権が内戦に手間取り日本占領に進駐しなかったこともあり戦後日本人の心理に「米中の連携に敗れた」という認識が生まれなかった。この時「大東亜戦争」を標榜していた日本人から「東亜(アジア)」が消え、「先の大戦」の意味はそれまで米国の用語であった「太平洋戦争」になったのである。
 二〇〇五年の夏、日本は郵政民営化を巡る小泉政権下の総選挙に燃えていた。郵政民営化が戦後六〇年の日本が国を挙げた優先課題として議論すべきことであったか、軽重判断を見失い意味のない興奮に走る日本人の性を思わずにはおれないが、あの夏、日本の国連常任理事国入りに中韓が反対するなど「近隣との相互理解を構築しえないまま戦後を生きた日本」の壁が見え始めていた。日中韓ともに「ナショナリズムを政権浮揚の基盤とする傾向」に引き寄せられ始めていた。

 冷戦後二五年が経過したが、日本人は未だ冷戦期の世界観を脱しきれていない。イデオロギー対立の時代は終わったというのに、「自由と繁栄の弧」的価値観に埋没して中国封じ込めの誘惑に苦しんでいる。グローバル化の中でヒト・モノ・カネ・技術の国境を超えた交流を加速し、一つの亀裂が世界を巻き込む「相互依存の過敏性」の時代を迎えている。潜在的敵対者をも次第に新しいゲームのルールに引き込んでいく関与政策が成熟国家の賢い選択であり、例えば、中国をWTOに招き入れたことは世界貿易秩序という意味では正解だった。
 高齢化が進む日本において、総じて年配者が興奮して「強い国」を目指して集団的自衛権と安保法制を論じている。だが、戦場に行くのは若者である。いくら法制度を整備して「戦える国」にしても、若者が「守るに値する国」と思える状況を創らねば機能しない。寺山修二の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」を思い出す。戦後七〇年、我々は守るべき日本を創ってきただろうか。

 

    


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