岩波書店「世界」2016年4月号 脳力のレッスン168 ドイツ史の深層とオランダとの交錯― 一七世紀オランダからの視界(その35)
オランダを「低地国」(Low Countries)と表現することがある。「国土の二六%が海抜ゼロ以下」といわれるが、確かにスイス・アルプスに源を発しボン、ケルン、デュッセルドルフとドイツ主要都市を流れる全長一二三三kmの大河ラインの河口に形成された低地帯に存在する国なのである。英語のDutchはもちろんオランダの意だが、俗語的にはドイツを意味することもある。つまりドイツ系というイメージがオランダ人に寄せられ、事実オランダはライン川を遡った地域との交流によって歴史を重ねてきた。後述のごとく、オランダが正式に神聖ローマ帝国から離脱したのは一六四八年のウェストファリア条約からであり、ブルゴーニュ公国がハプスブルク家の所領となった一四八二年以降一六六年間ドイツの原型ともいえる神聖ローマ帝国に組み入れられていたわけで、オランダの考察にはドイツを視界に入れることが不可欠である。
ドイツがドイツ帝国として統一されたのは一八七一年、日本では明治四年のことであった。この第二帝政、プロイセン主導の統一ドイツに日本近代史は大きな影響を受けた。「大日本帝国」のモデルである。だが、第二帝政の伏線となった第一帝政、すなわち神聖ローマ帝国の挫折という歴史を理解せぬままの模倣が日本近代史の失敗につながったともいえる。
ドイツとは何なのか―神聖ローマ帝国という擬制
フランス人アンドレ・モロワの『ドイツ史』(一九六五年、邦訳桐村泰次、論創社、二〇一三年)は、「ドイツの歴史を書くことは困難な試みである。というのは、ドイツは一度も確たる国境線も、一つの安定した中心も持ったことがないからである」で始まる。確かに、一九世紀に至るまで統一されたことのないドイツという存在を論ずることは容易ではない。
ドイツの原点は「ヨーロッパの父」フランク王国のカール大帝(七四二~八一四年)が西ローマ帝国を復活させ、英国を除く今日のEUに匹敵する空間を支配したことに遡る。三九五年にローマ帝国が東西に分裂、四七六年に西ローマ帝国が滅亡して以来混迷を続けていた西ヨーロッパだったが、八〇〇年にカール大帝がローマ教皇レオ三世から皇帝位を授けられ、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という秩序枠が形成された。だが、そのフランク帝国もカール大帝の孫たる三人の兄弟によってあっけなく三分割(ヴェルダン条約、八四三年)され、その一つ「東フランク王国」がドイツの原型といえる。
その後紆余曲折を経て、ドイツの歴史に埋め込まれた世界史の謎ともいうべき「神聖ローマ帝国」の登場を迎える。その淵源は、九六二年にドイツ王オットー一世がローマ教皇ヨハネス一二世より「皇帝」位を授かったことにある。皇帝とは諸王の中の王という意味で、ドイツ的伝統でもある諸侯による地域特権の割拠を束ねる上で宗教的権威を必要としたのである。かのヴォルテールは「神聖でもなければ ローマ的でもなく そもそも帝国でもない」と言い放ったが、確かに明確な境界も単一の言語も特定の国民も持たないまま、千年近く中央ヨーロッパを支配した「擬制としての神聖ローマ帝国」を理解することは容易ではない。一〇世紀に皇帝称号が登場したものの、「神聖ローマ帝国」の国号が公式文書に登場したのは一二五四年である。
また、帝国としてのシステムが明確になったのは一三五六年で、カール四世により「金印勅書」が出され、皇帝選挙規定と帝国議会規定が定められ、皇帝を選ぶ選帝候としてマインツ、ケルン、トリーアの聖職諸侯とボヘミア、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの俗諸侯の七選帝候が定められた。正式呼称として「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」が登場したのは一五一二年で、ケルン帝国議会においてである。
この間一一世紀末からの約二〇〇年間が所謂十字軍の時代であった。セルジューク朝の勢力拡大に対してビザンツ皇帝からローマ教皇に救援要請があり、クレルモン宗教会議(一〇九五年)で「聖地回復の義務」が宣言され、欧州は憑りつかれたように五回にわたりエルサレムを目指した。
神聖ローマ帝国形成期のドイツも、一一九〇年に第三回十字軍を率いたフリードリヒ一世が遠征中の小アジアで溺死したり、一二二八年に第五回十字軍で遠征したフリードリヒ二世は病のため帰還し教皇グレゴリウス九世によって破門され、破門のまま再遠征してエルサレムを制圧、エルサレム王になるなど様々な悲喜劇を生んだ。十字軍への参戦は現代的視界からは壮大な徒労に映るが、キリスト教共同体を率いるという神聖ローマ帝国のアイデンティティーを高める過程だったともいえる。
宗教改革という大波とドイツ史―領邦国家の分立
神聖ローマ帝国にとっての大きな衝撃は宗教改革であった。一五一七年、大学の神学教授マルティン・ルターが「九五箇条の論題」をヴィッテンベルク城の礼拝堂の扉に張り出した。ルターが放った火は燎原の火のごとく燃え広がり、瞬く間に神聖ローマ帝国を揺るがす存在となった。ザクセン選帝候フリ-ドリヒ三世は敬虔なカトリックであったが、ローマ教皇や皇帝カール五世の再三の引き渡し要求にもかかわらず、ルターをヴァルトブルク城に匿い通した。
この時「聖書中心主義」に立つルターが、それまでラテン語の定本のみだったドイツ語訳聖書を完成させたこと(一五二二年出版)が宗教改革を勢いづけた。一五世紀半ばのグーテンベルクによる印刷技術革命で文書の大量配布が可能となり、ルター訳のドイツ語聖書は瞬く間に多くの人の目に触れることになった。「九五箇条の論題」からわずか一二年後、一五二九年の帝国議会においてルターを支持する五人の諸侯と一四の都市が、帝国を率
いていたカール五世の強圧的な異端根絶の姿勢に強く抗議する(プロテスト)という事態が起った。プロテスタントの語源はここにある。
翌年にはこれらの新教諸侯は軍事同盟を結び、神聖ローマ帝国への圧力を高めていった。その後、神聖ローマ帝国はオスマン帝国の脅威に直面して新教諸侯への譲歩を余儀なくされ、一五五五年のアウクスブルクの宗教和議に至る。
和議の原則は「領主の宗教は領民の宗教」で、静かに皇帝権の衰退が始まったといえる。和議は実現したものの、和議の対象だったルター派とは別にカルヴァン派も北ドイツにかけて勢力を拡大していく。カトリックと新教諸侯の対立は深まり、バイエルン候を担ぐ旧教徒連盟(リーグ)とプファルツ選定候を盟主とする新教徒連合(ユニオン)という軍事同盟が相対峙する。こうした緊張を背景に、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世が皇帝権再確立を狙って三〇年戦争(一六一八年~四八年)を主導したのである。三〇年戦争は四段階で、全欧州を巻き込む戦争へと拡大していく。
第一段階はボヘミア戦争(一六一八~二三年)で、スペイン軍の支援を得た皇帝軍はユニオンの盟主プファルツ選帝侯を破った。自信を深めた皇帝は傭兵隊長ヴァレンシュタインを総司令官に擁してデンマーク王クリスチャン四世を駆逐。これが第二段階のデンマーク戦争(一六二五~二九年)である。皇帝は勝利に増長、「回復勅令」を出して新教諸侯に没収された教会領のカトリック側への返還を命じた。皇帝権の強大化に危機感を抱いた諸侯は皇帝を支えるはずの選帝侯団を含めて強く反発、ハプスブルクの勢力拡大を警戒するフランスの支援を受けてスウェーデンがプロテスタント救済を名目に参戦。フェルディナント二世がバルト海に艦隊を建造しバルト海のスウェーデンの覇権を脅かそうとしたことへの反発でもあった。これが第三段階のスウェーデン戦争(一六三〇~三五年)である。三〇年戦争は性格を変え宗教戦争から皇帝権の拡大を抑制しようとする周辺国を巻き込む政治権力抗争となっていった。国王グスタフ・アドルフに率いるスウェーデン軍は三〇年戦争最大の会戦プライテンフェルトの戦いに勝利し皇帝軍を追い詰めるが、翌一六三二年に王が不慮の戦死、戦況は膠着に向かった。
そして仏の直接参戦で第四段階、フランス戦争の局面を迎える。カトリックの仏が新教諸侯を支援して介入る構図は分かりにくいが、フランスにとって神聖ローマ帝国が強大な教皇権を握る中央集権国家に改造されることは脅威であり、国王ルイ一三世の下宰相リシュリューはデンマーク、スウェーデンに軍資金を提供、三〇年戦争の影の介入者であった。それがついに直接参戦に動き、戦況はさらなる膠着状態を迎え、引き金を引いたフェルディナント二世は一六三七年に、リシュリューも一六四二年に死去。両陣営ともに厭戦気分が高まり和平に動きが始まった。その帰結がウェストファリア条約である。
オランダの正式の独立としてのウェストファリア条約
条約に向けた和平会議はヨーロッパ最初の国際会議である。一六四四年に始まった交渉が終結したのは一六四八年、ヴェネチアやポルトガルを含む欧州諸国とドイツ諸邦の君主一九四人と全権委任者一七六名が参加する大会議であった。条約にはドイツ諸邦など六六か国が署名、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」という表現があるがハプスブルク家はオーストリアに封じ込められフェルディナンド三世は父フェルディナンド二世が夢見た「皇帝権の強化と絶対王政化」を諦め世襲領に限定された王となった。「領主の宗教が領民の宗教」の原則が再確認され、この条約こそが神聖ローマ帝国という大仰な「宗教的権威」の呪縛からの政治の解放であり、「勢力均衡」という近代国際秩序の原型の構築といえる。ただし、この「第一帝政(神聖ローマ帝国)の挫折」が領邦国家の分立というドイツの分断を存続させ、やがてビスマルクの第二帝国、さらにヒトラーによる第三帝国への挑戦につながる下絵ともなっていく。
この条約の「勝ち組」と表現するならば、ハプスブルクの野望を封じ込めドイツの分断を成功させたフランスとスウェーデン、また正式の独立を確認したオランダもそうかもしれない。オランダが一五六八年にスペインに対する独立戦争に踏み込んだ事情は、本連載108「なぜオランダは近代の揺籃器となったか」で論じた。
激しい戦いを経て一六〇九年に一二年間の休戦協定が成立、実質的な独立は実現した。ただし、「正式な独立」が承認されたのは一六四八年のウェストファリア条約である。厳密にいえばそれまでオランダは法的には神聖ローマ帝国の領土であり、神聖ローマ帝国と折り合いをつけねば「自立」とはならなかったのである。そして一七世紀のオランダが「自由な共和国」として生きることを可能にしたのは、隣国ドイツが領邦国家の分立として存在し、強力な統合国家となっていなかったという背景があることに気付く。
ウェストファリア条約で神聖ローマ帝国は死に体となったが、その後一五〇年間名前は残り、ナポレオン軍に敗れたフランツ二世が帝国の解散を宣言したのは一八〇六年であった。
帝国の終焉を目撃したゲーテ(一七四九~一八三二年)は『ファウスト・第一部』(一八〇八年)で「神聖ローマ帝国が 余命保つぞ摩訶不思議」と語らせる。ファウストは一六世紀南西ドイツに実在した人文学者・錬金術師で真理探究の情熱のために悪魔に魂を売る運命が描かれている。ルターの同時代人ファウスト的人間の生き方こそ近代の苦悶の象徴である。意思する精神としての自我の探求、「我思う、故に我あり」という意思が抱え込む光と影をゲーテは見つめていた。
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