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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2017年 岩波書店「世界」2017年4月号 脳力のレッスン180 鄭和の大航海と東アジアの近世 一七世紀オランダからの視界(その43)

岩波書店「世界」2017年4月号 脳力のレッスン180 鄭和の大航海と東アジアの近世 一七世紀オランダからの視界(その43)

  シンガポール・セントーサ島の世界最大級の水族館に併設されている海洋博物館に映像と実物大模型で紹介されているのが、一五世紀の初頭から七回も行われた明の武将鄭和の南海遠征である。ポルトガル・スペインによる大航海時代に先んじて中国が東から西へと海洋大遠征を行ったという史実は「華人・華僑」には心躍る話であり、人口の四分の三が中国系というシンガポールの国民のみならず訪れる東南アジアの中国系の人々に「中華民族の栄光」を意識させる体験である。
習近平国家主席は「中華民族の歴史的成果」など、「中華民族」という言葉を繰り返し使う。中国を統合する概念として「社会主義」が色褪せた今、この言葉を統合のキーワードにする意図が窺える。二〇〇八年の北京五輪の開会式におけるショーが象徴的で、人類の四大発明とされる「紙、火薬、活版印刷、羅針盤」はすべて中国が創ったという内容であった。「中華思想の極致」という印象だが誇張とも言えない。T・F・カーターは『中国の印刷術――その発明と西伝』(邦訳東洋文庫、一九七七、原著一九二五)において、「ルネサンス初期に欧州中に広まった四大発明における中国の役割」に注目し、アラブ人やモンゴル帝国を仲介者として中国の科学技術が伝わった事実を論究している。またR・K・G・テンプルの『中国の科学と文明』(邦訳河出書房新社、一九九二年)によれば「紙」、つまり植物繊維を水につけて沈殿物から紙を作る技術はBC二世紀の中国で生まれ、欧州では一二世紀にリンネルの布切れから紙が作られたとされる。「羅針盤」は、BC四世紀の中国で天然磁石と鉄片で方位を探る技術が確立され、一二世紀に欧州へ伝わった。また「印刷」は、AD八世紀の中国で石刷、木版を超えた技術が生まれ、仏教の文献の印刷がなされたという。さらに「火薬」も、AD九世紀の中国で硝石と硫黄と炭素の混合による火薬が作られ、一二世紀に欧州に伝わった。「西力東漸」ではなく「東力西伝」なのである。

 

 

 

史実としての鄭和の大航海

 

 

織田信長の旗印は「永楽通宝」であった。朝廷の権威さえ畏れない男が何故中国の通貨を旗印に掲げたのか。明朝第三代永楽帝は信長にとって約二〇〇年も前の人物だが、その治世が隆盛を極めていたことに加え、日明貿易を通じて大量に輸入された永楽通宝が良貨として流通していたことによる。
 一二七九年に始まったモンゴルによる元王朝も一四世紀半ばには、民間宗教の白蓮教の反乱などで疲弊、紅巾の乱(一三五一)が燎原の火のように燃え広がり止めを刺された。主役に躍り出たのが極貧の放浪者からのし上がり後に洪武帝となる朱元璋(一三二八~九八)である。地方豪族を次々と破り一三六八年には明王朝を建国、北宋の滅亡後二四〇年ぶりの漢民族の統一王朝を再興した。洪武帝は異常な権力欲に憑りつかれ、明王朝創業の功臣を含め数万人を処刑する恐怖政治を繰り広げた。その四男で三代皇帝となったのが永楽帝である。北京に依拠する燕王であったが、南京を首都とする明王朝の二代皇帝の建文帝(洪武帝の孫)の抑圧に耐えかねて挙兵、建文帝を放逐して政権を奪取し永楽帝としての統治を開始した。
その永楽帝が派遣したのが鄭和の南海遠征である。鄭和は雲南省出身、先祖は西域からきたイスラム教徒で、旧姓の「馬」はムハンマドの音にあてたものである。明が雲南を制圧した際一二歳で捕虜となり、後の永楽帝、燕王の少年召使として強制的に去勢され宦官とされた。当時の権力維持のための慣習とはいえ男性機能を奪われるという屈辱を強いられた男の壮烈な生き方が胸を打つ。鄭和はメッカを訪れているが、先祖の信仰の地に立つことは感慨深かったであろう。
南海遠征は七回行われた。第一回は一四〇五年、鄭和三四歳の時で、六二隻の船団を率い、二・七万人の乗組員と共に東南アジアからインドのカリカットまで到達。最後は一四三一年で、アデン、メッカにまで到達したという。東南アジアから南西アジアを超え、中東のホルムズ、メッカ、アフリカのマリンディ(一四一五)まで航海した壮大な試みであった。ポルトガルがモロッコの交易都市セウタを占領して大航海時代に先鞭を切ったのが一四一五年、アフリカ大陸最南端の喜望峰の周回に成功したのが一四八八年である。ヴァスコ・ダ・ガマが世界一周の途上、イスラム都市マリンディ(現在のケニア)に到達したのが一四九八年だが、それより八三年も前に鄭和はこの地に立ったのである。大遠征の主目的は交易と朝貢で、輸入品として香料や象牙、輸出品として絹織物、生糸、磁器が動いているが、逃亡した先帝建文帝の探索やティムール朝の脅威の調査も目的だったという説もある。ティムール朝は一四世紀後半から一五世紀初めにかけて忽然と台頭しサマルカンドを首都として西トルキスタンを統一、中央アジアからインド西北部を制圧した。明朝には気になる存在であった。
遠洋航海を可能にしたのは明の造船技術であった。鄭和艦隊の船の大きさは驚くべきもので、旗艦は「宝船」といわれる大型船で全長一三八m、幅五六m、排水量一・五万トン、九本マストと、一〇〇年後のスペイン、ポルトガルの大航海時代の外洋船の五倍以上の規模である。これら大型船は南京郊外の長江に面した広大な宝船廠といわれた造船所で建造された。
鄭和の航海については謎も多く誇張も多い。例えば世界的ベストセラーのG・メンジーズ『1421―――中国が新大陸を発見した年』(二〇〇二、邦訳二〇〇三年、ソニーマガジンズ)は「鄭和の艦隊がコロンブスよりも七〇年前に米大陸を発見し世界一周をしていた」という。著者は一九三七年生まれの英国海軍の軍人で、退役後に中国海軍史の研究を始め、欧州で出版された初期の世界地図に欧州人が到達していなかった地域の海図や測量が反映されており、この時代に壮大な探査を行える資金・技術・人材・指導力を備えていたのは中国(明)だけだという仮説に立つが、あまりに実証性に乏しい。彼はエスカレートし二冊目の作品『1434――中国の艦隊がイタリアに到達しルネサンスに火をつけた年』(二〇〇八)ではコロンブスの私文書が中国の外交官とローマ教皇の交渉を窺わせるというが、真摯な歴史研究の成果ではない。世界史の相関を重視するグローバル・ヒストリーの視界からすれば、魅力的な素材である鄭和の航海も冷静に検証されねばならない。
 世界には六〇〇〇万人を超す華人・華僑といわれる在外中国系人口がある。とくに、東南アジアには、インドネシア(九五〇万)、タイ(八〇〇万)、マレーシア(七〇〇万)、シンガポール(三五〇万)、ミヤンマー(二〇〇万)フィリピン(一五〇万)、ベトナム(一二〇万)、カンボジア(八〇万)、ラオス(二〇万)など約三五〇〇万人もの中国系人口が存在する。その淵源は、中国がモンゴルに支配された元の時代に圧迫された漢民族が南に押しやられたことにあり、鄭和の南方遠征の明代の交流・朝貢関係を経て、再び満州族という異民族支配の清の時代を迎え、客家などの漢民族が抑圧を避けて南に向かったという事情が存在する。さらに、清朝末期の混乱や戦後の中華人民共和国成立に至る内戦期に海を渡った多くの中国人が東南アジアに広範な華人・華僑圏を形成したのである。

 

 

 

異民族支配王朝の谷間としての明朝 一七世紀東アジア再考

 

 

 永楽帝の治世が明朝の栄光のピークであり、朝貢貿易の最盛期であった。朝鮮、ベトナム(安南)、シャム、琉球、日本、ジャワ、スマトラ、マラッカ、ボルネオ、ベンガル、セイロン、マリンディなど実に六三の国・地域から朝貢がなされていた(「正徳大明会典」)。貢物を受け(納貢)、貢物への何倍もの恩賞(回賜)が下賜される仕組みであった。「天朝上国」(中国の皇帝が世界の主人という幻想)が明朝の思いであった。日本も明朝への冊封体制に組み込まれていた。一四〇一年、足利義満は建文帝のもとへ僧祖阿を正使、博多商人の肥富を副使として派遣、朝貢交易を求めた。翌年、明の使節が来航し義満を「日本国王源道義」に封じる返書を届けた。一四〇四年には永楽帝が日本に勘合を与え、朝貢による「日明勘合貿易」が始まった。正に鄭和の南海遠征の前年に日本は永楽帝との勘合貿易を始め、遣明船は中断しながらも一六世紀半ばまで一五〇年間続き、大量の銅銭「永楽通宝」が導入された。
明朝とは、モンゴル支配の元と満州族支配の清という異民族支配体制に挟まれた期間であり、北方民族の脅威という宿命に晒された中国の歴史を象徴する王朝であった。この明朝という時代を理解する上で、興味を惹かれるのが、『モンゴルに拉致された中国皇帝』(川越泰博、研文出版、二〇〇三)に紹介されている史実である。第六代皇帝英宗、正統帝(在位一四三五~四九)は、一四四九年に侵攻してきたエセン率いるモンゴル軍との「土木堡の戦い」に敗れ、捕虜となって一年間も虜囚の辱めを受ける。衝撃を受けた明朝は正統帝を退位させ第七代景泰帝を立てる。一年後に解放されて北京に戻った英宗であったが今度は幽閉生活を余儀なくされる。ところが一四五七年に起こった政変によって英宗は再び皇帝に返り咲き、第八代天順帝(在位一四五七~六四)となる。わずか三七歳で死んだこの人物は生涯で「捕囚―退位―幽閉―復位」という数奇な運命を辿った。オスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし(一四五三)、日本では室町幕府将軍足利義政が遣明船を送っていた頃中国大陸では奇怪な事態が展開されていたのである。
岡田英弘は『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店、二〇一〇)において、清朝の正統性の根拠は元朝の流れを汲む北元のダヤン・ハーン直系のリンダン・ハーンからヌルハチの息子のホンタイジが元朝の玉璽を引き継いだことにあるとしているが、清朝がモンゴルの継承政権であったことは視界に入れておかねばならない。二七六年間続いた明朝も、一六四四年にはヌルハチ率いる満州族によって滅ぼされ、「清」という時代を迎える。この年、越前から日本海を漂流した日本人一五人が北京に殺到する満州族の軍と一緒になって北京に向かい、体制転換期の中国を目撃し初代清朝皇帝によって日本に送還されることになったことは本連載(「世界を見た漂流民の衝撃――韃靼漂流記から環海異聞」二〇一五年七月号)でも論じた。
明朝期の日本は中国に対して朝貢関係にあり冊封体制に組み込まれていたともいえるが、一方で倭寇の跋扈が明朝を苦しめ、一六世紀末の秀吉の二度にわたる朝鮮出兵など、東アジアにおける日本は御し難い危険な存在でもあった。江戸期を迎え、その前期において中国大陸が明から清への混乱期にあり、また朝鮮出兵からのダメージ・コントロールが必要だったこともあり、徳川幕府は中国への対応に苦慮した。それが、長崎、対馬、松前、琉球の四つの口を窓口に、中国産品(絹織物、生糸など)の交易はするが正式な国交関係を持たない「国交なき交易」という特殊な政経分離の関係を持った理由である。この距離感が重要であって、江戸期は日本の歴史過程の中で、長く文化・文明的にその影響を受け続けてきた中国からの自立の過程にもなったのである。
 一六七〇年の古銭禁止令で中国の銭の通用を禁じて「寛永通宝」など日本の銭の定着を図り、一六八五年の渋川春海の「大和暦」採用が八〇〇年以上続いた中国の暦(宣明暦)からの自立を意味し、さらに本居宣長らの国学の確立が儒学を正学としていた日本において「からごころ」から「やまとごころ」へという文化的自立への試みであったことは既に論じた。その江戸期・幕末維新を経て日本は「脱亜入欧」へと動き、そして一八九五年、日清戦争に勝ったあたりから中国への蓄積してきた劣等感を反転させ、戦争に向けて迷走に入る。

 

 

 

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