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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2017年 岩波書店「世界」2017年6月号 脳力のレッスン182 インド史の深層―一七世紀オランダからの視界(その44)

岩波書店「世界」2017年6月号 脳力のレッスン182 インド史の深層―一七世紀オランダからの視界(その44)

  ロンドンのコベント・ガーデンの近くに「パンジャブ」という人気のインド料理店がある。店内に古びた写真が沢山貼ってあり、多くはターバンに髭のシーク教徒のインド人が英国軍兵士として従軍していた時代の記念写真である。パンジャブというのはインド北西部の地名で、ヒマラヤの南西麓になる。一八四九年からインド独立の一九四七年まで、ほぼ一世紀近く英国の統治下に置かれた。人口の六割がシーク教徒で、インド独立時に西はパキスタン、東はインドに分離編入された。インドの複雑さの象徴的な地域である。
日本人のインド人観は、戦前の欧州航路で見かけたインド人のイメージを引きずって形成されたという。つまり、船で欧州に向かう途上、シンガポール、ペナン、コロンボなどの英国支配の寄港地に駐在していたシーク兵のターバンと髭、「印度人所演の熱帯産蛇使い」のイメージが原型となり、そこに戦後の「インド人もびっくり」という即席カレーのテレビCMが重なり、定番の珍奇なイメージが出来上がった。
一方で、日本人にとってインドは御釈迦様の故郷たる「天竺」であり、特別の共感を抱いているともいえる。ブッダとは「悟れる者」という意味で、我々が御釈迦様とするゴータマ・ブッダ(BC463~383年頃)は、現在のネパール南部のインド国境寄りに存在したカピラ王国のシャカ族国王を父として生まれた。当時のインドの宗教的主流にあったバラモン教を基盤として登場した自由思想活動家・修行者(沙門)の一人であったゴータマ・ブッダの思想が没後千年を経て、中国・韓国を経由して伝来、それから約一五世紀にわたり、その影響を受けてきた日本人としてインドを訪れると、現在のインドにおける仏教の存在感の薄さに当惑する。私自身、ニューデリーの歴史博物館で、原始仏教の展示を見つめながら、二五〇〇年前のインド亜大陸に生まれた「我執を断ち、苦を滅却して生きる意味を問い詰めたブッダなる存在」に思いを馳せたものである。
インド亜大陸の地図を注視すれば、インドとは何かを考えさせられる。人口一三・三億人のインド共和国、一・九億人のパキスタン・イスラム共和国、一・六億人のバングラデシュ、さらに二九〇〇万人のネパール王国を加えれば、総計一七・一億人がこの亜大陸に住む。香港・台湾を加えた中国の人口一三・七億人を凌駕する圧倒的な人口である。
インドの空港に降りた瞬間から感じるこの人間の数と灼熱に幻惑され、インド史に向き合うと「インドは混沌」という思いが深まる。アーリア人侵入以来、異民族の侵攻の繰りかえしで持続的な統一政権がない。多様な民族・宗教・言語が交錯し、捉えどころないモザイク地域で、常に世界の歴史家を悩ませてきた。言語についてだけでも、インド共和国の公用語はヒンディー語、補助公用語が英語ということだが、憲法の指定する地方言語が二一、実体は八〇〇を超す地方言語が存在するといわれ、この国の統治が容易ではないことを暗示している。ウィル・デュラントは「誰が文明を創ったか」(原題“HEROES OF HISTORY”,PHP,2004年)において、インドを「灼熱と宗教的・軍事的・政治的分裂――侵略と忍耐強いヒンドゥー教徒」として「灼熱の文明」と呼ぶ。

 

 

 

ムガル朝に至るインド亜大陸―――ムガルとはモンゴルのこと

 

一七世紀のインド亜大陸はムガル帝国の時代であった。「ムガル」とは「モンゴル」のことであり、この中央アジアとインドのつながりを理解することでユーラシアを巡る歴史観は深まる。ムガル帝国に至るインド史の脈絡を確認したい。
古代インダス文明という先住民が築いた土壌の上に、約三五〇〇年前、つまりBC一五〇〇年ごろアフガニスタンからアーリア人が侵攻、パンジャブ地方に定住し、次第に東に動きガンジス川沿いにもアーリア人社会を形成した。約二五〇〇年前に登場したブッダはアーリア人と先住民の混血であったといわれる。
 その仏教を庇護したマウリヤ朝の第三代アショーカ王(在位BC268~232年)の時代は、最南の一部を除きインド亜大陸をほぼ統合するまで版図を拡大し、統一王朝を形成したが、王朝は次第に求心力を失う。各地の先住文化とバラモン教との融合の中からヒンドゥー教が成立する。開祖も教典も存在しない土着の宗教としてヒンドゥー教はインド社会に浸透し、仏教はスリランカと中国へと渡った。
初唐の高僧・玄奘(三蔵法師)(602年~664年)のインド訪問(629年~645年)は、「西遊記」として唐末には伝説化される。宋・元・明の時代と語り継がれ、日本でも流布する。その三蔵法師がインドを去った直後、七世紀末から八世紀にかけてインド亜大陸へのイスラムの浸透が始まる。ムハンマドによるメッカ征服(630年)からわずか一世紀を経ずに、イスラム勢力はインド亜大陸へも侵攻した。六三九年イラク占領、六四二年にはニハーヴァンドの戦いによってササン朝ペルシャを破りイランを征服、六六一年にはウマイヤ朝成立、六八〇年代にはいよいよインドに迫り、マクラン地方からシンド地方に侵攻、七一一年にはシンドを征服した。二方向からのイスラム侵攻であり、ペルシャ湾岸からインダス河口経由でシンド地方に入るルートとイランからアフガニスタン経由で北インドへというルートであった。デリー・スルタン朝という時代が続き、イスラム文化とヒンドゥー文化のモザイク構造というインド独特の状況が形成された。
 サティーシュ・チャンドラの「中世インドの歴史」(邦訳、1999年、山川出版社、原著1990年)は、古代ローマ帝国とインドとの交易に触れ、インド史がヨーロッパ史に与えたインパクトという視界を拓く。例えば、現代数学の基礎たる十進法は、五世紀のインドで発展、八世紀のイスラムのインド侵攻により、アラブ世界に伝わり、それが一二世紀に欧州に伝わったのだという。
 一六世紀、ムガル帝国の登場である。この王朝も北から現れた。初代皇帝バーブル(在位1526~1530年)は一四八三年、今日のウズベキスタンのフェルガナに産まれた。父方はティムールの血をひき、ティムールから5代目の直系子孫である。ティムール朝は、モンゴル帝国のうち、中央アジアをおさえたチャガタイ・ウルスの西方部分をティムールが再編する形で形成され、一時はインドに遠征するほど勢力を拡大し、鄭和の大航海を指示した明の永楽帝もティムールの動きを警戒していたといわれる。そのティムールの死とともに一代で王朝は衰亡したが、ティムールの血をひき、しかも母方がチンギス=ハンの末裔というのがムガル帝国の創設者バーブルということであり、「モンゴルの継承者としてのムガル帝国」とか「ムガル帝国とは第二次ティムール朝」といわれる所以がここにある。モンゴルの長い影はインドにまで及んでいたのである。
 バーブルはサマルカンド奪取の野望を抱いていたが挫折、ご先祖ティムールのインド遠征に魅かれてインドに進軍、一気にデリーとアグラを占領、一五二六年にはインド皇帝を名乗りムガル帝国の基盤を構築した。二代目のフマーユーンは、スール朝を興したアフガン族のシェール=シャーに敗れ、一時はサファヴィー朝ペルシャに亡命し、一五年にわたる亡命生活の後、スール朝の内紛に乗じてデリーを奪還、ムガル朝を復活させた。我々がよく知る世界遺産のタージ=マハール廟を妻の為に完成させたのが、デリー遷都(1648年)を行った五代目のシャー=ジャハーンであり、六代目のアウラングゼーブ(在位1658~1707)の頃が、帝国の最盛期であり、デカン高原南端を除くインド亜大陸全土を掌握したが、厳格なスンニ派イスラム政治への反発による農民・異教徒の反乱で統治力の弱体化が始まった。例えば、パンジャブでは改宗を拒んだシーク教団が抵抗を続け、地方王朝が実質的に分離国化していった。そして、ムガル帝国の衰退に止めを刺す形で海からやってきたのが西欧であった。

 

 

 

欧州の登場・インドへの道―――迫る英国と邪悪な支配構造

 

 

 インドに最初に現れた西欧はポルトガルであった。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマが南インドのカリカットに到着し、一五一〇年にはポルトガルはゴア占領した。北インドに侵攻したバーブルがムガル帝国の建国宣言をしたのが一五二六年であり、ほぼ同じ時期に、北からは中央アジアからの侵攻、南インドには海を超えた西欧からの侵攻という圧力がインド亜大陸に迫ったということである。
クリストファー・ベックウィズは「ユーラシア帝国の興亡」(筑摩書房、2017年、原題“EMPIRES OF THE SILK ROAD”2009)において中央ユーラシアにおけるモンゴル帝国に次ぐ二回目のユーラシア征服としてオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシャ、そしてムガル帝国を取り上げ、一六~一七世紀の世界史を大陸ユーラシア人の帝国に対する海洋ヨーロッパ人の帝国の抗争という構図で捉えている。
 英国がインドに橋頭堡を築いたのは、一六一二年に英東インド会社がインド西海岸スラートに商館を設けた時であり、インドの植民地化はベンガルに始まった。一八世紀央に、インドにおけるフランスとの抗争に勝利した英国は、一七五七年のプラッシーの戦いに勝利してベンガル太守をねじ伏せ、一七六五年にはベンガル、オリッサ、ビハール地域の地租徴収・民事裁判権を獲得する。私企業にすぎない東インド会社が統治権を得たのである。
一八五七年、東インド会社のインド人傭兵(セポイ)が起こした植民地支配への武装叛乱がインド全土に波及した。世に「セポイの乱」といわれる動乱であり、本国からの援軍で暴動を鎮圧した英国は、ムガル帝国を消滅させ、インドを大英帝国の直接統治下に置いた。何故インドが植民地になったのかを考えると、インドが対立と分裂的要素を内包し、そこをつけ込まれたといえる。ヒンドゥー対イスラム、カースト制、人種・多言語―――その複雑な「対立」(コミュナリズム)への介入を英国は植民地統治に巧みに利用した。いわゆる「分断統治」である。
 英国がインドでの独占的地位を確立するにつれ、インド支配の本音として、ヨーロッパ文明の優位性とインドの後進性認識に立つ「文明化の使命」認識が台頭した。大英帝国の台頭期たる一八世紀後半の福音主義、すなわち「未開社会をキリスト教によって文明化する」という自負が溢れ、黄金期ともいえるビクトリア時代の一九世紀後半には「帝国の論理」、インドへの道はインペリアル・ルートであり、インド統治は英国の国威に直結するものとされた。ユニオンジャックの栄光はインド支配を基軸に成立するものであった。
 英国が東インド会社という仕組みを通じて構築した「悪魔の知恵」ともいうべき究極の戦略が、アヘンを軸にインド・中国の支配を試みる「三角貿易」であった。英東インド会社は一七七三年にインドでのアヘン専売権、一七九七年アヘン製造独占権を獲得し、これを利用し始める。加藤祐三が「イギリスとアジア――近代史の原画」(岩波新書、1980年)において検証したごとく、一八世紀後半に産業革命期に入った英国においては中国茶、陶磁器の輸入需要が増大、支払う銀が不足し始めた。その決済のため、インド産アヘンを中国に輸出、英国からインドへは綿製品を輸出するという三角貿易構造を稼働させた。一八三三年に東インド会社への貿易独占権は全廃され、アヘン戦争時は活動を停止していたが、アヘン貿易を引き継いだのがジャーディン・マセソン商会であった。
 アヘンの災禍に怒った清国政府が、アヘンの没収・焼却に動き、始まったのが一八四〇~四二年のアヘン戦争であった。後に首相となるグラッドストンが野党自由党の若き政治家として議会で行った演説こそがこの戦争の本質を衝いている。「その起源において、これほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置くことになる戦争を私は知らない。」
英国議会はわずか九票差で遠征軍派遣を決めた。そして、大英帝国は多くのインド兵を率いてアヘン戦争を戦ったのである。近代とは単純な「進歩と繁栄の時代」ではなく、抑圧と犠牲の上に成り立ったのだという思いが交錯する。
 幕末の日本にとって、アヘン戦争で清国が敗れたことは衝撃であった。幕末長崎に足跡を残したグラバーもジャーディン・マセソン商会の代理人であり、「長州ファイブ」といわれた伊藤博文、井上馨らの英国密航(1863年)を手引きしたのも同社であった。
 大英帝国からのインドの独立の歴史については、拙著「二〇世紀と格闘した先人たち」(新潮文庫、2015)において、「『偉大な魂』ガンディーの重い問い掛け」「インドが見つめている――チャンドラ・ボースとパル判事」として書いた。英国とインドの関係は愛憎半ばし、複雑で微妙である。おそらく次のネルー首相の言葉に集約されるのであろう。「インドの知識階級は英国への隷属には反発するが、国内政治のやり方について、英国のそれは最良である」―――英国は影響力を残しながら後退する知恵を蓄積してきたといえる。

 

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