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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2019年 岩波書店「世界」2019年3月号 脳力のレッスン203 キリスト教の世界化とローマ帝国―――一七世紀オランダからの視界(その54)

岩波書店「世界」2019年3月号 脳力のレッスン203 キリスト教の世界化とローマ帝国―――一七世紀オランダからの視界(その54)

  キリスト教がユダヤ教の一分派から世界宗教に飛躍する契機は、ローマ帝国の国教になったことにある。「全ての道はローマに通ずる」と言われた時代、古代地中海世界にとって「ローマこそが世界」だった。キリスト教とローマは、二重構造になって西欧社会の価値基軸になっていた。

 

 

 ローマにおけるキリスト教国教化———欧州史の深層底流

 

キリスト教とは「ナザレ出身のユダヤ人イエスをメシアとし、さらに彼を『神の子』にして救世主とする宗教」であるが、この宗教を世界化させた基点が、使徒パウロであった。イエスが十字架にかけられたAD33年頃、パウロ(AD10〜67年頃)は23歳前後だった。律法主義に立つパリサイ派のユダヤ教徒だったパウロは、キリスト教の迫害者であったが、エルサレムからダマスカスに向かう途上で、新約聖書でも知られた天(イエスの声)の啓示を受けて、「キリスト者への回心」(AD37年)を遂げ、伝道者として小アジア、ギリシャ、ローマを巡り、キリスト教を地中海地域に布教して歩いた。ハイデルベルク大学神学部教授だったゲルト・タイセンの『イエスとパウロ———キリスト教の土台と建築家』(教文館、2012年)は示唆的である。パウロの根源的な問い掛けは「神はユダヤ人の神でしかないのか」に始まり、神は社会的な差別なしに、すべての人間の神であることへと向かう(パウロ書簡、パウロ福音書)。つまり、イエスの十字架の死を人間の原罪を償うための死へと昇華させ、「イエスを救世主と認める者は人種、階級、性別に関わりなく救われる」(ガラテヤ書3章28節)という普遍主義に至ることによって、民族を超えた宗教になる転換をもたらした。「パウロがキリスト教を創った」という研究者もいるが、誇張とはいえない。
 余談だが、最近、皇帝ネロ(在位54〜68年)のコインを手に入れた。AD66年製のネロの肖像の入った銅貨である。AD64年にローマで大火が起こり、ネロはキリスト教徒の仕業として断罪したと伝承されてきたが、最近の研究では「後世の誇張」とされる。キリストの死から30年ほどで、ローマにおいてはユダヤ教とキリスト教の区別がつかない状況だったといわれ、「キリスト教弾圧」というのはキリスト教優位の歴史観からの歪曲だといえよう。ネロの銅貨を見つめながら、歴史の深淵を想う。
 ただし、使徒パウロの時代からAD312年のコンスタンティヌス帝のキリスト教改宗に至るローマ帝国において、キリスト教は悩ましい存在であった。英国の歴史学者ピーター・ブラウンの『古代末期の世界———ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』(原書1971年、邦訳は刀水書房、2002年)によれば、キリスト教が静かに浸透したというよりも、3世紀になって「突如、目立つ存在になった」という。ローマにとって、キリスト教はローマの伝統的な神々の祭事や儀式には加わらず、妥協なき姿勢を貫いていた。また「奴隷も自由民も同じ」という平等主義はローマの政治社会体制を揺さぶるものであった。
 3世紀の半ば、AD250年に至っても、デキウス帝(在位249〜251年)による伝統的神々への祭儀の執行勅令が出され、多くのキリス教徒が殉教した。4世紀を迎え、AD303年に皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305年)による最後の大迫害がなされたが、コンスタンティヌス帝(在位306〜337年)のキリスト教への改宗(312年)と翌年のミラノ勅令(キリスト教寛容令)によるキリスト教の公認がなされ、ついにAD392年、テオドシウス1世によってキリスト教はローマ帝国の国教とされるに至った。何故、ローマはキリスト教を受容し、国教化したのかを考察してみると、ローマ帝国の統合の危機とともに、帝国の解体を避け、統一を維持するためにキリスト教による権威付けが必要になったといえる。比類なきローマ帝国の栄光には、唯一の絶対神による正統性の確立が必要だったのである。
 ところで、コンスタンティヌス帝がローマ教皇シルウェステル1世(在位314〜3335年)に出したとされる「教皇領の寄進状」なるものが、その後の欧州を悩ませ続ける。この寄進状は15世紀に「偽文書」と証明されるのだが、神聖な精神的指導者としてのローマ教皇というだけでなく、領土を有する地上の政治的権力者としての教皇権を主張するバチカンの正統性の根拠となって、実に1929年のムッソリーニの時代に至るまで欧州の政治力学を揺さぶるのである。
 ローマ帝国によるキリスト教の受容は、「下からの受容」というよりも「上からのキリスト教化」だった。ローマ帝国の権威の正当化のための皇帝によるキリスト教化という意味が重かったのである。
 宗教が国家権力と結びつくことは、宗教の堕落、腐敗に帰結する。キリスト教の国教化後の歴代ローマ皇帝の中で教会の権威と正対した例外的な存在がユリアヌス帝(在位361〜363年)であった。キリスト教の側からは「背教者」という烙印を押されるユリアヌス帝であるが、伯父のコンスタンティヌス帝の時代から30年で、早くも堕落する教会という現実を意味詰めざるをえなかったのである。
 欧州でのキリスト教の受容はその変容をもたらした。本連載39「科学革命の影としての魔女狩り」で触れた如く、中東一神教は「父性宗教」であり、「旧約聖書」は女性蔑視的記述が満ちていた。キリスト教が欧州に浸透するためには、宗教的古層に埋め込まれた「古代地中海地域を淵源とする大母神信仰」との調和が必要だった。そこで聖母マリア信仰が浮上したのであり、それが反転、増幅したのが「魔女狩り」であった。そして、聖母マリアを淑徳と愛の象徴とする教義を巡る対立が、のちにキリスト教の分裂を招くのである。
 ギリシャ・ローマの宗教は、地中海地域の文化伝承としての多様な神話と神の概念を吸収し、最後にローマ帝国のキリスト教化に収斂したといえる。新約聖書の成立は、1世紀後半といわれるが、「旧約」・「新約」という二つの聖書、さらにイスラム教の「コーラン」に至る中東一神教の「体験や教義を文字にして残す」という伝統を考える時、ユダヤ人の元祖アブラハムが「人類最古の文字」たるシュメル文字を生み出したメソポタミアのシュメル文化最後の中心都市ウルの出身地だったという伝説に思いが至る。

 

 

ローマ帝国の分裂と西ローマ帝国の運命

 

  コンスタンティヌス帝はAD330年ビザンティウムに遷都し、コンスタンティノポリスと改称、ローマ帝国の重心を東に移した。「第二のローマ」の誕生であり、ここからローマ帝国の分裂とキリス教の核分裂が始まった。AD395年、ついにローマ帝国は東西に分裂する。そして、今日の西欧社会の原型ともいえる西ローマ帝国が崩壊していく。
 AD410年に西ゴート王アラリックによって西ローマ帝国の首都ローマは占拠され、476年にはゲルマン人傭兵隊長オドアケルに退位を迫られた皇帝ロムルスによって西ローマ帝国は滅亡した。権力の分裂が東西教会の分裂を誘発し、教義を巡る対立からコンスタンティノポリス司教のアカキオスの離反を招き、西ローマ帝国滅亡の8年後、AD484年に東方教会とローマ教会は分断されてしまう。
 西ローマ帝国が滅んだ要因は「ゲルマン民族の移動」といわれるが、西ゴート、東ゴートといわれたゲルマン民族のドナウ川の西への移動は、中央アジアのウラル=アルタイ族系の遊牧騎馬民族・フン族の西への移動によって押し出されたものであった。背景には、4世紀後半からの地球寒冷化があった。超長期的には約1万年前から今日まで、地球は温暖化期(間氷期)にあるのだが、その中での短期サイクルとしての寒冷化によってユーラシアでの人口移動が起こったのである。
 西ローマ帝国は滅亡しても、ローマ教皇は存続し続けた。「ローマ教皇」(ポープ)とは不思議な存在で、公式にはAD1世紀のペテロ(在位67年)が初代とされるが、ローマ司教が首位教会として「教皇」の名前で教令を発したのは、ローマ帝国分裂を背景に、教会の権威の保持に腐心したシリキウス(在位384〜399年)で、それ以降が実体的「教皇」といえる。476年に西ローマ帝国が滅亡した後も、ゲルマンのフランク王国を取り込み、496年にフランク王クロヴィス1世がキリスト教に改宗、800年にはローマ教皇レオ3世がカール大帝を戴冠させて「西ローマ帝国」を形式的には再興させるなど、西欧社会の宗教的権威の中核として生き抜いていく。
 8世紀に入ると、ウマイヤ朝イスラムの攻勢は欧州に及び、711年にはイベリア半島を制圧し、732年にはピレネーを超えてカール・マルテル率いるフランク王国軍と激突した(連載34回参照)。この時、欧州に「キリスト教共同体」という意識が芽生えたという。「フランスとはラテン化したゲルマン」ともいえ、現在のフランスの原型ともいえるフランク王国の欧州史における意味は大きい。
 フランク王国は、5世紀末にクロヴィス1世によってローマの属州だったガリアに興り、9世紀にはフランス、ドイツ西部、イタリア北部までを支配した。カール大帝(742〜814年)が「ヨーロッパの父」といわれる理由はここにある。
 ローマ教皇の影は歴史を超えて生き延び、十字軍の時代(1096年の第一次から1270年の第8次まで約200年間、参照本連載41,46)を経て、「神聖ローマ帝国」という形で影響を与え続ける。1517年にM・ルターが狼煙をあげた「宗教改革」については本連載その10で触れた通りだが、プロテスタントとは「神聖ローマ帝国に抗議する者」という意味であり、ローマ・カトリック教会の堕落・腐敗への抗議という意味において、宗教改革が、かつてゲルマンと言われた北欧州地域に広がったことに欧州史の深層底流を感じる。
 「西力東漸」で欧州が東洋に迫った「大航海時代」も、そのエネルギー源には宗教改革の圧力を受け止めたカトリックの「対抗宗教改革」としての危機感があった。1534年にイエズス会が設立され、(同年、英国教会は教皇の権威を否定)、1540年にはローマ教皇が認可、それがF・ザビエルなどの来日にも繋がる。ザビエルもスペイン・バスク出身で、ゲルマン主導の宗教改革への強い危機感を抱いていた。
 欧州史に埋め込まれたキリスト教が、宗教改革を経て「近代」なる時代を衝き動かした。実は、この連載「17世紀オランダからの視界」も、1648年のウェストファリア条約までのカトリックのスペインに対するプロテスタントのオランダの80年におよぶ独立戦争を注視することから始まっており、虚構化したローマに対するきた欧州の意義が世界史を動かしたことを確認してきたといえる。

 

 

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