岩波書店「世界」2019年9月号 脳力のレッスン209 漢字になった経典の意味―――仏教伝来:中央アジアから中国へ ―――一七世紀オランダからの視界(その59)
百済の聖明王によって日本に仏教が伝えられたのは五三八年とされ、ブッダの入滅の年BC三八三年から約千年近くが経過していた。この時間の意味を注視することで、我々日本人が身に着けた仏教とは何かを考えておきたい。朝鮮半島の百済に中国・東晋から仏教がもたらされたのが三八四年という。さらに、その中国に仏教が伝来したのは、史書によれば後漢の明帝の時代の紀元六七年に大月氏国(中央アジアの古代民族、現在のウズベキスタン、タジキスタンの南部とアフガニスタン北部に当り、南東をガンダーラに接する)からブッダの教えを集約した「四二章経」が伝わったとされる。
紀元前二世紀には「シルクロード」が開かれており、インドと中国を結ぶ回廊によって、仏教も多様な形で中国に伝わっていたようである。つまり、ブッダが悟り、布教していた時代から約五〇〇年で仏教は中国に至り、さらに五〇〇年を要して日本に辿り着いたのである。ブッダの死から約千年の経過の中で、仏教はどう変質していったのか、それは我々自身の中を流れるユーラシアの風を確認することでもある。
改めて、紀元一世紀頃の世界を見渡すと、この頃「救済の宗教」が動き始めたことが分る。ユダヤ教から普遍的愛を語るキリスト教が登場したごとく、自己の解脱を目指す「ブッダの仏教」(初期仏教)から他者の救済をも視界に入れた「大乗仏教」が登場した。人類史的に言えば、定住革命から約八千年を経て、人間社会の政治的関係が複雑化し、部族、民族を超えた「帝国の登場」(ローマ帝国、クシャーナ帝国、古代イランのパルティア帝国など)という局面を迎え、人々の心に部族・民族を超えた「救済」を求める志向が芽生え始めた。人間の内なる世界に厳しく向き合い、弟子たちを突き放すように「自燈明(自らを照らせ)」と言い残して入滅したブッダの思想は、大乗、つまり「衆生救済の大きな船」
に向かい始めたのだが、それを必要とする「救済を求める心」が存在していたといえる。
中央アジアを経由した仏教―――シルクロードを超えて
イラン系騎馬民族クシャーンは、大月氏国に服属していたのだが、紀元一世紀後半に大月氏を倒してクシャーナ帝国を形成、紀元一世紀末には「パックス・クシャーナ」の時代を迎えた。インド西北部のガンダーラから中央アジア、敦煌など中国北西部を版図とし、最盛期の王カニシカが仏教に帰依し、中国に仏教を本格的に伝える触媒となった。ローマ帝国との交流でもたらされた金貨に王とブッダの姿を刻印し、シルクロードに仏像など仏教美術を花開かせた。本来、仏教は偶像崇拝を否定し、内なる気付きに向かう「ブッダの仏教」においては仏像は存在しえなかった。ブッダ入滅の後、仏舎利(釈尊の遺骨)を八つに分けて、八つの仏塔を建てたことにより、「仏塔」(ストゥーパ)は大切にされたが、仏像は存在しなかった。仏教が「救済の宗教」という性格を帯びるにつれ、「ブッダの姿を見たい」という衆生の願望を受けて、救済者を象徴する像が求められ、紀元一世紀頃にガンダーラとマトウラーで仏像が創られ始め、中央アジアに、「仏像」という形で仏教美術が花開き始めた。
シルクロードはタクラマカン砂漠で西域北道と西域南道に分かれ、オアシス都市を繋ぐ形で、敦煌で合流、玉門漢を経て中国に入る。ローマ帝国、インド、中国を結節するルートであり、西域南道にはミーラン遺跡(3~4世紀)、桜蘭遺跡、ホータン遺跡群(3~7世紀)西域北道にはキジル石窟(3~8世紀)、そして中国の西域の出入口たる敦煌には莫高窟(4~9世紀)が残っている。インド側の起点、カシミールにはバーミアンの大仏があったが、二〇〇一年にイスラム過激派集団タリバンによって爆破されてしまった。西域仏像にはヘレニズムの影響を色濃く残すものが多く、顔立ち、頭髪、衣服など、ユーラ
シアの交流を投影している。
中央アジアを経由することで、仏教は世俗社会との関係を深め、「衆生救済」「国家鎮護」という性格を帯び始めた。「仏像」の発展もその象徴といえる。修行による解脱に専心するよりも、あるいは仏教教理を深く受け止めるよりも、直接的な救済の希求に傾斜し、仏菩薩像に「南無」(帰依すること)と念ずるという「行法の単純化」が図られた。また、多様な部族宗教との接触、融合によって、仏教は民族の特性を反映するものとなっていった。
紀元七世紀以降、イスラム教が浸透し、九世紀から一〇世紀にかけて、中央アジアから仏教が消えた。一三世紀にはモンゴルが中央アジアを席巻するが、モンゴルはチベット仏教の影響下にあったが、宗教には寛容であった。そして、中央アジアというフィルターを通じて中国に伝わった仏教は「経典の漢字への翻訳」を通じて、全く新たな局面を迎える。
中国の仏教受容の歴史――漢字文化圏の仏教の意味
中国に仏教が伝わったのは、前記のごとく紀元六七年とされるが、前漢の時代(BC2年)には、大月氏の使者・伊存によってもたらされたとの説もあり、紀元前後には中央アジアから仏教が流入していたといえよう。中国において、仏教は大きく変化した。何よりも、民衆に定着していた在来思想としての儒教、道教との葛藤と結合を通じた「仏教の中国化」が進んだ。
中国への仏教伝来の初期、道教の黄老思想と結び付けられて、ブッダは「不死の存在」とされ、「不老長寿と福を祈る教え」として仏教が受け入れられたという。また、「老子化胡説」(老子がインドに行ってブッダとなったという説)や「三聖化現説」(孔子、老子などの中国の聖人はブッダの弟子だったという説)が生まれたという。
儒教の孔子(BC552~479年)は紀元前五世紀の人であり、道教の老子は「孔子より100年後の人」とするのが有力だが、例えば、儒教の「孝経」の影響を受ける形で、先祖への供養を大切にすることを仏教も受容する形で定着したのが「盂蘭盆」だという。また、大乗仏教の中核たる「空」という概念も、中国伝来の初期には、道教における「無」と受け止められ、「無生」「無相」などの造語で説明されていたという。
仏教の中国化において最も重要な要素が、漢字による仏教理解をもたらした中国語への翻訳である。本来、インドは「インド=ヨーロッパ語」という文明圏に属し、宗教観、価値観などが言語となって存続しており、中国の漢字に表象された儒教・道教などの体系とは全く異なる世界であった。そのインドに生まれた仏教という思想を漢字に翻訳することは極めて困難な壁であった。
そのことを深く掘り下げた書が、船山徹「仏典はどう漢訳されたか―――スートラが経典になるとき」(岩波書店、2013年)であり、訳と意訳を組み合わせ、漢字で仏教思想を伝えようとした先達の試みの意味が心に迫ってくる。我々「漢字圏」に生きてきた人間がいかに仏典由来の漢字に囲まれてきたか、例えば、この「世界」という雑誌の「世界」という言葉も、「縁起」などと同じく仏教語(仏典の漢訳のために作られた言葉)であり、文字通り我々の「世界観」の起点となっているのである。
最初の仏典の漢訳者は安息国出身の安世高(2世紀)だとされる。その後三世紀末には、初期仏教の仏典翻訳者として、大月氏系で敦煌生まれの竺法護(239~316年)が活躍、四世紀後半になって、本格的な仏典漢訳者として亀茲(クチャ)国出身の鳩摩羅什(クマラジーヴァの音訳、350~409年)が登場、三五部、二九七巻の経典を漢訳したという。鳩摩羅什までの翻訳を「古訳」といい、鳩摩羅什は「旧訳」の雄とされる。
鳩摩羅什と並ぶ仏典漢訳の巨頭が唐の玄奘三蔵法師(602~664年)であり、ここからが「新訳」とされる。法相宗の開祖とされる玄奬は六二九年インドに向かい、一六年間滞在して六四六年(日本の大化の改新の翌年)に帰国、経典の漢語翻訳に優れた足跡を残した。六四九年に大乗仏教の象徴的概念を凝縮した「般若心経」を訳出、今日の日本でも最も知られる経典となっている。「空」という概念を浸透させた「色即是空・空即是色」と、「応無所住・而生其心」(とらわれないこころ)という訳語は天才的閃きの結晶であろう。
「零」と「空」の同根性について
「空」という概念は、何故道教の「無」とは異なるものとして「空」と訳されたのか。このことを考えていて、重要なことに気づいた。「空」はサンスクリット語の「シューニャ:SŪNYA」の中国語訳だが、このシューニャは数字のゼロのことでもあるというのだ。インドにおける「ゼロの発見」と仏教の「空」は基を一にする。このことは思索を駆り立てずにはおかない。
岩波新書の名著に吉田洋一の「零の発見」という本がある。一九三九年発行だから八〇年も前の作品で、三回も改版がだされており、インドの記数法における「ゼロ」の発見が、アラビア、そして欧州の数学、科学技術に革命的影響を与えたことを論じた作品で、目を開かれた記憶がある。つまり、六世紀のインドにおいて、位取りの記数法に「ゼロ=0」という概念が生まれ、七世紀のインドの数学者ブラーマグプタの書に「いかなる数にゼロを乗じてもゼロ」という考え方が記述されているという。吉田はインドの記数法におけるゼロの登場を、インドの哲学思考における「空」と結びつけることには踏み込んでいない
が、かの龍樹が「空」なる視界を体系化したのが三世紀の前半とされ、大乗仏教思想における「空」という思想が、記数法における「ゼロ」に投影されたと考えるのは不自然ではないと思われる。何故なら、「空」も「ゼロ」も、「無」ではなく、「空」「ゼロ」として存在・機能する概念だからである。現代科学の基点ともいえる「ゼロ」なる概念と仏教思想における「空」が同根であるという事実は重い。空は決して無ではない。「色即是空」が「空即是色」としてポジティブに反転する意味を潜在させ、空は「万物を生み出す母胎」という両義性をもつ。数理における零のごとく。
ところで、漢字で経典を理解することの意味を考える時、「漢文字の魔術」を語っていた鈴木大拙を想い出す。大拙の「大乗仏教概論」は、一九〇七年、三七歳の時の英語で書かれた作品であり、九六歳まで生きた大拙だが、「未熟な作品」として翻訳を望まなかったという。欧米人に仏教を理解させるための「単純化」も目立つが、仏教の特性として「無神、無霊魂」を抽出し、絶対神を掲げるキリスト者達の度肝を抜いた若き大拙の意気を感じる。
大拙は後年、表意文字たる漢字で考えることの「アジア的思考」の重要性を指摘していた。「東洋的な見方」(上田閑照編、岩波文庫、1997年)において、西洋的見方は「分割的知性」であり、分割は知性の基点で、主客分別することで「一般化、概念化」という知が成り立つとする。一方、東洋的見方は「主客未分化」で、自然という全体の中で生かされていることを意識して「円融自在」の視界で思考するとし、漢字という表意文字で思考することの意味を語っていた。我々も、例えば「般若心経」における「観自在」とか「色即是空」いう文字を見つめると、象徴的概念の意味が湧き上がる体験をする。それが中国を経た仏教の意味かもしれない。
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