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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2019年 岩波書店「世界」2019年11月号 脳力のレッスン211 織田信長時代の仏教―――キリスト教との邂逅 ―――一七世紀オランダからの視界(その61)

岩波書店「世界」2019年11月号 脳力のレッスン211 織田信長時代の仏教―――キリスト教との邂逅 ―――一七世紀オランダからの視界(その61)

 六世紀の仏教伝来から約一〇〇〇年が経過した頃、戦国時代といわれた日本において仏教はどうなっていたのであろうか。この頃、一五四九年のフランシスコ・ザビエルの鹿児島への上陸以降、キリスト教が本格的に伝来し、「キリシタンの世紀」といわれるほど日本へも浸透し始めていた。この間の事情は本連載17「キリスト教の伝来と禁制」において論じたが、一六世紀後半の半世紀において、日本のキリシタン人口は三〇万人から四〇万人にもなっていた。戦国日本を統一する基点となった織田信長という人物は、宗教に関しても驚くほど柔らかい好奇心を持っていたようで、自分の目の前で宗教者たちに宗論を戦わさせ、宗教者が何を主張しているのかを見極める試みをしている。仏教にとっては試練の時期でもあった。

 

 

フロイスの「日本史」における仏教僧との対決

 

司祭フロイスが残した「日本史」(松田毅一他訳、中央公論社、全12巻、1977~80年)の第三六章(第一部八七章)に、「司祭が信長、および彼の政庁の諸侯の前で日乗上人と称する仏僧と行った宗論について」という興味深い報告がある。記録に残る仏教とキリスト教との邂逅としては、特筆すべきことである。織田信長の要請を受けて、信長ほか約三〇〇人の家臣の前で、仏教僧と教理を巡る論争を行い、あくまでフロイスの記録という形ではあるが、詳細な応答が残っているところに歴史資料としての価値があるといえる一五六九年五月六日(新暦)のことであり、信長が安土城に入る一〇年前、本能寺の変で命を失う一三年前のことである。この宗論の二年後に比叡山の焼き打ちがなされるが、その後の織田信長の宗教観にとって、この出来事は大きな意味をもったと思われる。
まず信長が、司祭(フロイス)とロレンソ修道士に対して、日乗上人という仏僧に、キリスト教の教えなるものを説明するように求める。これに対してロレンソは、日乗上人に対して「日本の宗教についてどのような見解を持ち、どの宗派に帰依しているのか」を尋ねるが、日乗は「自分は何宗にも属さず、知りもしない」と答える。そして、僧侶の姿をしているのは、「世の煩わしさと世情に嫌気がさしたからで、修行も巡礼もしていない」と答える。宗論以前に「逃げ」に入っており、この仏僧のレベルを感じさせる。
日乗上人なる仏僧は、正確に言えば仏僧と言える人物ではなく、出自は出雲出身の朝山善茂という下級武士で、戦国の世を美作の尼子、周防、京都の三好三人衆と渡り歩いた流浪の俗物であり、僧侶のなりをしながら、策謀、裏切り、犯罪行為を繰り返しながらしたたかに生きた人物像が確認されている。一時期、比叡山延暦寺の心海上人の下で学んだこともあったようだが、この対論の中で「何を学んだのか」を問われても、「忘れた」というだけで、仏教の教理を一切語ろうとしない。
実はフロイス達、キリスト教の宣教師たちは「日本に定着している仏教とは何か」について強い関心を抱いて一定の研究を積み上げていたようで、例えば叡山の心海上人とも面談しており、仏教の神髄を問い掛けている。心海上人はさすがに仏教教理に明るく、「仏性(キリスト教における霊魂)は実体も形態も色彩も備えず」と語っており、大乗仏教における「色即是空、空即是色」の「空」の思想をかなり的確に語っているのだが、フロイスは「仏教は無の原理に基づく」と理解しており、「日本人は可視的なものしか認識が及ばず」と判断したようである。仏教思想における人間の意識を深く探求する唯識論には気付かず、俗悪な日乗のような仏僧もどきの人物と向き合うことになった悲劇を想わざるをえない。
一五四九年にザビエルが来日してから、一七世紀の初めに禁止される半世紀の間に、先述のごとくキリスト教は当時の日本の人口の三%に当たる三〇~四〇万人になるほど浸透した。当初、ザビエルは日本人に定着している仏教概念を利用して、キリスト教への理解を促した。例えば、絶対神「ゼウス」を「大日如来」になぞらえて「ダイニチ(大日)」と訳したが、やがて適切ではないことに気付いた。隠語、俗語として、地域によっては「ダイニチ」が女性器を意味する言葉として用いられていたということもあるが、仏教においては創造神、絶対神という概念は無く、キリスト教理解において誤解を招くことに気付いたといえる。
キリスト教と仏教の宗論に立ち会った信長自身の肉声を感じさせる部分がある。只管「伴天連追放」を要求する日乗に対して、信長は「予は貴様が小胆なるに驚き入る」と述べ、腹を据えて教理の正しさにおいて異教と向き合えという極めて合理的な姿勢を貫くのである。また、ロレンソが絶対神ゼウスの慈愛の深さを語ったのに対して、信長が面白い質問をしている。「分別をわきまえぬ者、もしくは生まれつき馬鹿頓馬の連中はどうなのか。奴らはゼウスを讃えなくとも差支えなかろう。そうせよといっても無理な話だからな」と言い、ロレンソは「どんな人間でもゼウスの恩寵に応えて、ゼウスを賛美しなければならない」という主張を行い、信長もとりあえず「予は満足じゃ」と応じたという。
この宗論の結末はすさまじいものであった。追い詰められた日乗は逆上し、ロレンソ修道士が「死が訪れても、霊魂は破滅しないし、消滅もしない」と語ったのに対して、「人間にあるという霊魂を見せてみよ」と叫んで、刀を取り出して襲い掛かろうとする暴挙に出た。信長は日乗を取り押さえさせ、「日乗、貴様のなせるは悪行なり。仏僧のなすべきは武器をとることにあらず、根拠を挙げて教法を弁護することではないか」と叱責したという。フロイスの「日本史」は、安土山で法華宗と浄土宗間の宗論が行われたことにも触れている(第二部29章)。ただし、この記述の内容は正確を欠き、史料としての価値を欠くが、こうした宗論が一五七九年六月に安土で行われたことは、「信長公記」(太田牛一により1598年(慶長3年)までに著述)によっても確認され、信長が仏教教義の真贋に関心を抱き、その経緯を見つめた結果、やがて自らを神格化する心理に至り、激しい仏教弾圧に出たことが分る。

 この一六世紀後半の「キリシタンの世紀」に関する研究は近年深化しており、郭南燕編著「キリシタンが拓いた日本語文学」(明石書店、2017年)は、ザビエルの日本語学習努力と能力の検証や、一五七九年に巡察師として来日して以来、三回も来日したヴァリニャーノが大友宗麟の忠告を受けて採用した「順応方針」(現地文化重視)の内容など、正に日本における「多言語多文化交流の淵源」に迫っている。

 

 民衆の宗教への仏教のパラダイム転換―――親鸞・日蓮の仏教

   世界史、そして日本史に不思議な「隠し絵」のように登場するのが景教である。景教、すなわち東ローマ帝国の居城コンスタンティノポリスの総主教をしていたネストリウス(381~451年)に発するネストリウス派のキリスト教が、異端とされながらもシリアやササン朝ペルシャなどへの東方展開において粘り強く生き延び、イスラム教の創始者ムハンマドのキリスト理解に影響を与えたことには言及してきた。(参照、連載56)さらに、十字軍の時代、イスラム勢力の背後から「キリスト教を奉じる王、プレスター・ジョン」が十字軍の救援に駆けつけるという伝説が欧州に広まったが、これも東方に消えた景教への淡い願望の投影であった。(参照、連載46) 日本においても景教は間欠泉のごとく微妙な存在感を示す。六三五年には中国に景教としてキリスト教が伝わっており、日本にも七三六年に入唐副使として中国に渡った中臣名代が三人の景教僧を連れて帰国した記録があることは既に触れた。(参照、連載17)また、聖徳太子が「厩戸の皇子」と呼ばれることに関し、イエス・キリスト生誕の「馬小屋」と重ね合わせる景教の影響とする説があることも紹介した。(参照、連載60)つまり、ザビエルがやってくる八〇〇年以上も前に、日本に一度はキリスト教が伝わっていたといえる。
景教伝来以降なぜキリスト教は日本に定着しなかったのであろうか。受容される土壌がなかったといえる。ザビエルは「日本人は、水が染み入るようにキリスト教を理解する」という印象を語っているが、一六世紀までの間に起こった変化とは何か。日本人の宗教基盤が大きく変わったといえ、それは、親鸞、日蓮などの鎌倉新仏教の登場と浸透である。
 親鸞(1173~1262年)が生きた時代は「末法」の到来を思わせる荒廃した時代であった。九歳から二〇年間天台座主慈円の下で修業した親鸞であったが、二九歳の時、自力の念仏に疑念を抱き、法然の阿弥陀仏の本願を信じる「専修念仏」に参じ、三四歳の時、越後に流されて以降、「非俗非僧」を貫き、衆生救済の絶対他力の仏教を関東で布教、六二歳になって京都に戻り、九〇歳まで活動を続けた。親鸞という存在は、インドの世親の親と中国の曇鸞の鸞という二人の大乗仏教の高僧の名前を重ね合わせていることに象徴されるごとく、その存在自体が仏教教理の発展を吸収し、ユーラシアの風を体現しているといえる。親鸞の仏教は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉に凝縮されるごとく、知性の媒介無き一心不乱の阿弥陀仏への帰依を貫くこと、つまり絶対他力の平等主義をもたらすことによって、仏教を「国家鎮護」ではなく「民衆の仏教」に変えたのである。鈴木大拙は「日本仏教は弱者と普通の人の仏教」とし、親鸞の仏教を「日本人が外の世界に対してなしうる偉大な貢献」と語っている。
また、和辻哲郎は「日本精神史研究」において、「神は愛なりとする直観において両者は極めて近い」とキリスト教と念仏宗の近似性を語るが、確かに絶対他力による絶対平等主義に立つ救済を志向することにおいて、キリスト教の精神を理解しやすい土壌を親鸞の仏教が形成していたといえよう。鎌倉新仏教のもう一つの柱が日蓮(1222~1282年)である。親鸞が亡くなった時、日蓮は四〇歳であり、関東に親鸞が残した親鸞の足跡と浄土教の隆盛を見つめながら僧侶としての修業を続けた。その中から日蓮は「念仏さえ唱えれば救われるわけがない」として、浄土教を拒否し、法華経の伝道に生涯を掛けるのだが、鎌倉の政治権力、為政者さえも相対化する視界で「立正安国論」を展開した。政治的弾圧や法難に耐えながら、個々の衆生救済という視界を超えて、蒙古襲来のような国難が迫る日本への危機感に立ち、「国」「民族」の救済という視界を拓いた。キリスト者内村鑑三は、親鸞を「わが友親鸞」と語り、日蓮を「仏教を日本の宗教にした」と表現していたが、的確な眼力であろう。
 浄土真宗と日蓮宗は長く緊張感をもって対峙してきたが、より大きな視界から再考すれば、国家仏教を苦悶しながら生きる衆生の仏教へとパラダイム転換させたことにおいて重なる。こうした宗教土壌の変化が、キリスト教の上陸という刺激を受けて、日本精神史に新たな化学反応を起こしたのである。


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