寺島文庫

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 メディアが発達し、ネットワーク情報技術革命が世界動向へのアクセスを飛躍的に拡充した今日においても、時代を的確に捉える情報の確保は容易ではない。ましてや「鎖国」といわれた江戸期日本、限られた情報回路で世界を認識することは至難だった。それでも、長崎オランダ商館長の一六七回にわたる参府の機会を通じて様々な交流があったことは既に述べた。だが、点と線での接点を超えて江戸期日本がいかなる情報に基づき、いかなる世界観を抱いていたのかは興味の尽きないテーマである。当時、世界情勢を伝える回路として「オランダ風説書」といわれた継続的情報源が存在した。相当程度の情報が幕府の指導層に伝わっていたのである。


オランダ風説書という情報源

 「オランダ風説書」とは、日本との貿易の許可を得る条件にオランダ商館長が幕府から要求された世界情勢、とりわけスペイン・ポルトガルなどカトリックの動向を伝える報告書である。ただし商館長が書いた文章ではなく、オランダ船の船長や乗員から通詞が聞き出した情報を書きとめ整理した書状を商館長が確認のサインをして江戸に送られたものである。
 一六四一年(寛永一八年)から一八五七年(安政四年)まで続けられ、これとは別に「別段風説書」と呼ばれるバタビアのオランダ東インド政庁の植民局が制作した蘭文の報告書が長崎で翻訳された和文を付して一八四〇年から一八五七年まで幕府に届けられた。背景には、アヘン戦争など極東情勢が緊張を増す中、より詳細な情報を掌握したいという意図が存在した。オランダ風説書については、戦前の板沢武雄『阿蘭陀風説書の研究』(一九三七年)などの先駆的研究があるが、近年の松方冬子『オランダ風説書と近世日本』(東京大学出版会、二〇〇七年)『別段風説書が語る一九世紀』(同、二〇一二年)など研究が一段と深化している。
 興味を惹かれるのが風説書が伝えた情報の中味である。つまり、江戸期の日本に当時の欧州情勢の激変がいかに伝わったかである。例えば一七八九年に始まったフランス革命について、風説書は五年も経過した一七九四年に初めて言及、その記述も「臣下の者ども徒党仕り、国王並びに王子を弑し、国中乱暴におよび候」としてあくまで暴動騒ぎとして報告している。市民革命などという事態は理解の外だったのである。
 また、江戸時代二六〇年間にオランダという国はナポレオンとの戦争に敗れて占領され消滅した期間がある。正確に言えば、一七九五年にフランス革命軍に敗れ、オランダ総督ウィレム五世は英国に亡命、「バターフ共和国」というフランスの傀儡政権期を経て、一八〇六年には皇帝ナポレオンがこれを廃しホラント王国として弟ルイ・ナポレオンを国王に任じた。共和国オランダは王国になったのである。さらに四年後の一八一〇年には、弟の治世に失望したナポレオンはオランダをフランスに併合、オランダという国は地上から消滅した。その後ナポレオンの失脚を経て一八一三年一一月には亡命していたウィレム五世の息子ウィレム六世が「ネーデルランド王国」の国王として復活、王国としてオランダは蘇った。
 この間の事情を風説書はどう伝えたのか。一八〇九年に「フランス国王ナポレオンの弟ルイがオランダ国王の養子として迎えられて国王に就任」と触れられているだけで、オランダが消滅していた時代の空白・沈黙を経た一八一七年の風説書で「養子に迎えたルイが死去し元のオランダ国王の血脈の者に王が戻った」と記され、虚実を織り交ぜてオランダの体制が継続的に維持されてきたかのように装ったのである。
 オランダ風説書がもたらした情報を吟味するならば、伝わった情報の限界に気づく。大半はオランダ人と通詞のフィルターを通した断片情報のみで、詳細な分析情報ではなく簡略化された見出しのようなものにすぎない。松方冬子は風説書の内容を「江戸時代の日本が聞いたオランダ人の囁き」と表現するが、適切な捉え方だと思う。また、幕府側の情報の受け止め方について「人間は興味のあることしか知ろうとしない」とも語るが、それは情報伝達の本質ともいえるポイントであろう。結局、情報は受け止める側の制約という枠でしか伝わらないのである。
 風説書の提供を求めた幕府側の意図は、前述のごとく当初はカトリック、とくにポルトガルの動向の掌握であったが、次第に迫りくるロシア、英国などの「西力東漸」の動きの探照灯的な意味を持ち始め、一八四〇年以降の「別段風説書」に至るとアヘン戦争に象徴されるアジアの緊迫を伝えるものとなった。オランダ側の本音が他の外国を日本市場から排除することにあったとはいえ、一八〇四年のロシア使節レザノフの長崎来航に際しても、本国より情報を得たオランダ商館長ドゥーフは長崎奉行に二カ月前に予告している。だがその情報は何故か江戸には報告されなかった。
      

ラックスマン来航と松平定信

 「海防」の必要を説いた先駆的作品である林子平の『海国兵談』が、寛政の改革を率いた老中首座松平定信(八代将軍吉宗の孫)により「虚構妄説徒に人心を惑わすもの」と裁断されて版木を毀たれたのが一七九二年(寛政四年)の五月であったが、皮肉にも同年九月ロシア使節ラックスマンが根室に来航した。この時送り届けられたのが大黒屋光太夫であった。彼は一七八三年にカムチャツカに漂流、助けられてサンクトペテルブルクに送られエカテリーナⅡ世と面談の機会を得、九年後に祖国の土を踏むことができたのである。
 来航の報を受けた定信は目付石川忠房らを蝦夷に派遣、ラックスマンに松前に回るよう要望、翌年七月まで一〇カ月も待たせた挙句、通商の要求を拒絶、時間稼ぎの意味で長崎において対応するとして「信牌」(入港許可証)を発行して交渉を打ち切った。これが後のレザノフ来航の伏線となる。海防の必要を悟った定信は自ら伊豆・相模の沿岸を視察し海岸警備に腐心し始めた。
 定信が長崎のオランダ通詞に加えた圧力は特筆すべきもので、この間の事情は木村直樹『?通訳たち?の幕末維新』(吉川弘文館、二〇一二年)に詳しい。定信は幕府による長崎の統制が弛緩しているとの問題意識を強く抱き、一七八八年(寛政元年)に大通詞堀門十郎をオランダ商館からの贈賄の疑いで解任したのを初め、幕府の通達「貿易半減令」を故意に誤訳して商館に伝えたとして通詞目付吉雄幸作他三名を入牢とした。この時解任した堀門十郎が薩摩藩に召し抱えられ、やがて倒幕に動く西南雄藩の蘭学興隆を支える存在になったといわれ、歴史の因縁を思わずにはおれない。その一方で定信は洋書、特に地理・軍学書を収集して天文方蘭書訳局(「蕃書調所」の前身)を拡充するなど世界情勢への並々ならぬ関心を示し、通詞石井庄助を自らの白河藩で召し抱え、蘭和辞書「ハルマ和解」の作成に関与させた。長崎通詞依存を脱し、自前で世界を見る力を確保しようという意思が見てとれる。
 ラックスマンからレザノフ来航という一九世紀初頭、ペリー浦賀来航の半世紀も前の、ロシアの北からの揺さぶりが日本近代史における覚醒期だったことに気づかされる。一八〇一年に、ケンペルの『日本誌』の一部が長崎の通詞志筑忠雄によって「鎖国論」と訳され、「鎖国」の語の由来になったと既に触れたが、対外政策における「祖法としての鎖国」を幕府が強く再確認した過程がこの時期であった。それが自縄自縛となり、やがて攘夷論の攻撃にさらされることになる。定信の本音は「幕府の威信を傷つけない形でのロシアとの通商容認」であったと彼の意見書から窺えるが、幕閣は「鎖国は祖法」という思想に硬直化していた。レザノフ来航当時は柔軟に「開国」に転じていく可能性があったが、そこでの対応で生じた不幸な亀裂と不信がその後の日本の選択肢を狭めていった。
      

レザノフ来航とオランダの果たした微妙な役割

 それから一〇年、ロシアは準備を整え新たな使節としてレザノフを派遣した。アレクサンドル一世の裁可の下、ミンツェフ商務大臣によって「対日通商」を求める国書が準備され、遣日大使に任命されたレザノフがバルト海へと出港したのが一八〇三年七月二六日であった。ラックスマンが得た「信牌」を持ち、駐露オランダ公使の長崎オランダ商館長への紹介状も持参していた。日本人漂流民の送還も手配され、一七九三年にカムチャツカに漂着した石巻の若宮丸の生存者のうち津太夫他四名が乗船していた。これは世界周航の試みでもあり、この四人が「最初に世界を一周した日本人」となった。
 一行は南米南端ホーン岬を超えハワイ、カムチャツカを経て、一年以上をかけて一八〇四年九月八日長崎に到着。長崎奉行からの報告を受けた幕府は対応に苦慮し識者に意見を求めるが、定信が去った後の戸田正氏を老中首座とする幕閣は使節の江戸参府拒否のみならず、「鎖国は祖法」との方針をエスカレートさせて通商開始どころか皇帝からの土産の受け取りすら拒否。半年も使節を長崎に待たせた上、北町奉行遠山金四郎景元の父、目付遠山景晋を長崎に派遣し漂流民だけ受け取って追い返す結末となった。乗員の上陸も許されず半年の幽囚生活の後一八〇五年三月、一行は虚しく帰途に就いた。
 この時オランダ商館は微妙な役割を果たした。日本側の要請を受けて日露交渉に立ち会ったのである。日本の通詞の能力もあり交渉はオランダ語で行われ、ロシア側通訳は博物学者でオランダ語に通じたラングスジルフであった。商館長ドゥーフは、駐露オランダ公使の紹介状もあり、ロシア使節への一定の配慮も見せつつ、交易独占という既得権益を守ろうという心理も交錯し、ロシアを排除しようとした。彼の『日本回想録』では露蘭間の駆け引きも述べられている。
 激怒したレザノフは部下に報復を指示。樺太南部や択捉島の番屋を襲って邦人の番人を拉致、礼文沖やノサップ沖で日本船を襲撃するなど暴行を繰り広げた。これを受けて一八〇七年、幕府は蝦夷地全島を直轄とし松前藩を奥州梁川に移封(一八二一年に返還)、奥州の諸大名に出兵を要請し、ロシア船打ち払い令を出すなど緊張を高めた。
 この文化年間のロシアとの紛争が、「鎖国は祖法」という思い入れを募らせ、幕末に向けての日本の選択肢を硬直化させた。同時にこの緊張感が海外情勢への関心を高め、「風説書」を超えた多様な回路からの情報へと注意を向けるようになった。大黒屋光太夫から桂川甫周が聞き取り編纂した『北槎聞略』、津太夫らの取り調べを大槻玄沢がまとめた『環海異聞』など漂流民の見た異国情報も海外認識を深める契機になった。しかし、あくまでも情報は受け手の受け入れ能力に比例してしか伝わらない。決定的事態に直面するまで自己変革は難しいのである。
 和辻哲郎の『鎖国』は敗戦直後の一九五〇年に書かれ、戦争に至った日本人の「科学的精神の欠如」の淵源を二一五年間の鎖国に求め、「近世の精神を遮断した」と論じた。確かに体制的制約が思考の回路を狭めたが、確認してきたごとく情報面で完全に隔絶された江戸期との認識は正しくない。指導層・知識層には一定の情報は伝わっていた。問題は自らの心の鎖、自己規制した固定観念でしか世界を見ないという壁である。思えばこれは今日的課題でもあり、「戦後」という枠組みの中で「米国を通じてしか世界を見ない」現代日本の時代認識に共通するものがある。

 

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