岩波書店「世界」2016年9月号 脳力のレッスン173 二〇一六年参議院選挙に見るシルバー・デモクラシーの現実―それでもアベノミクスを選ぶ悲哀
七月一〇日の参議院選挙の朝、TBSの報道番組「サンデーモーニング」への出演に際し、報道関係者から、各紙、各局の最終予想について、「与党圧勝は間違いなく、自民党単独過半数、改憲勢力三分の二は確実」という情勢説明を受けた。私が「国民はそれほど愚かではないはず」と私見を述べると、「いや、愚かなんですよ」という答えが返ってきた。
午後八時、投票が締め切られると同時に、各TV局は予想を出した。NHKは与党大勝を前提にしたかのように自民単独過半数となる議席「五七」や改憲発議に必要な三分の二に至る「一六二」などを要注目の数字として示し、出口調査などを踏まえそれらの数字を上回る大勝と予想していた。
しかし、結果として自民党は「五六」議席に留まり、単独過半数には届かなかった。また「改憲勢力が三分の二」という議論にしても、当初は自民、公明、おおさか維新、日本のこころという「改憲四党」で三分の二という話だったが、この四党では一六一議席と一議席届かなかったため、改憲に前向きな無所属議員も含めることで一六五議席となった。
直前のメディア予測は外れた。にもかかわらず、自民党六、公明党五と与党で一一議席増だし、無所属も含む改憲勢力で三分の二を超えたことで、「与党大勝ということにしておこう」という報道に収斂させ、何故直前の予測が当たらなかったのかについては沈黙を決め込んでいる。NHKの開票速報開始時点での民進党の議席予想は二二~二九、結果は三二だった。意外に健闘したなどと寝ぼけたことを言っているのではない。民進党が主体的に流れを創ったなどという話は一切ない。国民に納得のいく選択肢を提示することもなく健闘といえるレベルではない。ただ何故与党・自民党は予想外に伸びなかったのか。さらに言われていたほど共産党も伸びなかったかを解明することは日本の政治の今後を考察する上で重要である。
本当に与党大勝なのかーーー国民の迷いとためらい
結論をいえば、「投票には行っても入れるべき候補者がいない」という貧困なる選択肢の中から、国民はぎりぎりのバランス感覚を見せたというのが今回の結果であった。国民はそれほど愚かではなかったのであり、ただ安倍政治に代わる政策軸を見出せないまま立ち尽くしているということでもある。
基本的な数字を確認しておきたい。参議院全国比例区での自民党の得票率である。ここに政権への国民の評価・認識が現れるからである。全国比例区での自民党得票率は三五・九%で、前回は三四・七%だったから一・二%増えたことになる。しかし、投票率が五四・七%だったことを思うと、有権者総数の一九・六%の得票、つまり有権者の二割に満たない得票で改選議席の四六・三%を占めることができるという、選挙制度の魔術で「圧勝」を実現したのである。今回、公明党の全国比例得票率は一三・五%で、前回より〇・七%減らしているので与党の得票率は前回より〇・五%増えたにすぎない。
民進党の全国比例区の得票率が二一・〇%と前回の民主党の得票率一三・四%から七・六%も増えたかのようだが、前回の日本維新の会(一一・九%)とみんなの党(八・九%)の得票率を考えると、その大部分を吸収・統合した野党再編の割には伸びなかったと見るべきである。政党支持率という世論調査の動向を見れば、民進党の支持率は今回の全国比例での得票率の半分程度であろう。
さて、直前の予想が当たらなかった大きなポイントが前回の参院選挙で与党の二九勝二敗だった一人区(前回は三一選挙区)で二一勝一一敗となったことである。野党共闘の効果と見ることもできるが、現場の事情を聴くと、共闘効果というよりTPPインパクトの大きさに気付く。TPPの交渉経過がみえてくるにつれ、農業関係者が「裏切られた」ことに反発を強めた。その結果、東北六県中秋田を除く五県で野党統一候補が勝利し、長野・新潟といった農業県でもJAグループの政治団体が自主投票にしたことが自民敗北をもたらした。北海道は定数三だが民進党が二議席を確保し自民党候補が次点に泣いた理由もTPPへの反発にあるといえる。
さらに、最後のところで与党の得票が伸びず票が野党に向かった理由は、アベノミクスに象徴される経済政策、安保法制に象徴される外交安保政策について現政権が推進する政策への懸念と逡巡が「ここは野党に入れておこう」というぎりぎりの投票行動をもたらしたとみるべきであろう。日本は間違った方向に進んでいるような気はするが、どう進むべきかの代案も見えない。そうした投票行動をもたらした社会構造は後述することにして、今回選挙で気になる何点かを明らかにしておきたい。一つは、慶応大学名誉教授小林節が率いた「国民怒りの声」の惨敗である。全国比例の得票四六・七万票、小林節個人はわずかに七・八万票に終わり、比例区で一人を当選させるのに必要な約一〇〇万票の半分にも満たなかった。安保法制の違憲性についての問題を提起し、議論を主導した存在に国民は関心を示さなかった。連携する政党など組織論的戦略に欠けるマイナー運動に終わり、悲しい結末を迎えた。「国の在り方」を問う根本問題よりも、「生活と経済が大切」という国民の本音の壁に弾き返され、風車に向かったドン・キホーテのような敗退であった。
二つ目は、直前予想でいわれていた「共産党の躍進」が外れ、前回の参院選の当選者八人を下回る六人にとどまったことである。比例区での共産党の得票率は前回より一%伸びたとはいえ、直前予想では「一〇人以上の当選も」とみられていたにもかかわらず躍進は幻に終わった。共産党が主導した野党共闘は与党に対抗可能な選択肢を提示したともいえるが、共産党候補に対する民進党内の拒否反応で共産党自身の議席につながらなかった。むしろ共闘によって「確かな野党」といってきた共産党の輪郭がぼやけ党勢拡大にはならなかったと指摘できる。共産党としてはジレンマを抱えながらも国民政党への脱皮に向け今回の結果を前向きに総括すべきであろう。
三つ目は、一八歳からの政治参加がもたらした意味である。今回の参院選から投票年齢が一八歳に引き下げられ、約二四〇万人の若者が投票権を得たが、注目された一八歳・一九歳の投票率は四五・五%であり、予想外に高かった。全体の投票率は五四・七%である。これまでの投票行動の傾向では、総じて高齢者層の投票率が七割近い水準を推移してきたのに比し、二〇代の投票率はその半分程度であった。この傾向が続けば、日本の政治的意思決定は、「老人の老人による老人のための政治」となるであろう。話は逸れるが、六月の英国のEU離脱を巡る国民投票において、英国の二〇代の若者の六六%はEUに留まることを支持した。四三歳が分岐点で、それ以下の若者の過半はEU残留を支持、それ以上の年齢の層においては離脱派が過半を占めたという。つまり、未来により大きな責任を担う若者が欧州共同体の中で生きることを期待しているのに、老人たちがその道を塞ぐ選択をしたということで、深く考えさせられる。そして、注視すべきは、現代日本の社会的意思決定における高齢者が持つ意味であろう。
政権の政策の行き詰まりと代替案なき野党の悲劇
選挙戦の最終局面で国民の迷いが交錯したとはいえ、大勢として国民はアベノミクスの継続を選んだ。正気の議論をするならば、アベノミクスの論理などとっくに破綻しており、「道半ば」「この道しかない」などといえるものではない。二〇二〇年に名目G D Pで六〇〇兆円を実現してその果実を国民が享受することなど虚構にすぎないと気付きながらも、国民の多くが「株高誘導の景気刺激」という共同幻想に乗っている。何故か。それが都合がよいと思う人たちがいるからである。
表「アベノミクス三年半の総括」を凝視したい。経世済民、経済の根幹である国民生活、実体経済は全く動かない。米国がリーマンショック後の緊急避難対策とした異次元金融緩和を見習って「第一の矢」とし、日銀のマネタリーベースをほぼ四〇〇兆円の水準にまで肥大化させ、金利もマイナス金利などという異常事態に踏み込んだ。ご本尊の米国が実体経済の堅調を背景に量的緩和を終え、政策金利の引き上げ局面を迎えているのに、日本は「出口なき金融緩和」に埋没している。
また、財政出動を「第二の矢」とし、消費税引き上げも出来ぬままさらなる財政出動を模索し続けている。「金利の低い時だから赤字国債を出しても利払いが少ない」という誘惑に駆られ、「市場はさらなる景気刺激策を求めている」などという無責任な経済メディアの甘言に乗って「ヘリコプターマネー」と称する無利子の日銀からの借金で財政出動を加速させるべきだとの議論さえ生まれている。既に一〇〇〇兆円を超す負債を抱える国だという事実を忘れてはならない。自分が生きている時代だけは景気刺激を、という考えは後代負担、後の世代に負担を先送りする自堕落な思考である。問題に気付きながら、日本は慢性金融緩和依存症に陥り、リフレ経済学なる金融政策に依存して脱デフレを図る呪術経済学に引き込まれている。野党民進党の経済政策もリフレ経済学を許容する中での格差批判程度で、アベノミクスを否定できるものではない。新自由主義とリフレ経済学の複雑骨折の中を迷走し、産業の現場に軸足を置いた経済政策に踏み込めていない。
また、与党が「戦後レジーム」からの脱却を腹に、戦後民主主義を否定して国権主義、国家主義への回帰する意思を明らかにしつつある中、野党は本気でその流れと対峙する政策軸をみせていない。それは民進党の外交安全保障政策の空疎な中身を見れば明らかである。普天間基地移設問題に関して「辺野古しか移転先はない」とする点において民進党は疑似与党でしかなく、翁長知事の下オール沖縄で辺野古を拒否する沖縄において一切の存在感がないことが象徴している。憲法と沖縄は相関して戦後日本を次のステージでどこに持っていくのかという、ごまかしのきかない課題なのである。
進む貧困化と世代間格差ーーー高齢者がアベノミクスに幻惑される理由
それでもアベノミクスの継続を望む社会構造を再考してみたい。二〇一五年五月号の本連載157「内向と右傾化の深層構造」において、勤労者世帯可処分所得が、二〇〇〇年~一四年の間に年額五八・八万円減少し、「中間層の貧困化」が進行していること、さらに全国全世帯の家計消費支出がこの間、年額三二・四万円も減少したことを指摘した。そして、この間の家計消費で極端に減少した支出項目としての「こづかい、交際費、交通費、外食、酒類」などに象徴されるごとく日本人は行動的でなくなり、「仕送り金、授業料、教養娯楽、書籍」などへの支出減に象徴されるごとく学ばなくなり、学べなくなったという事実を解析・指摘した。こうした時代の空気が、日本人の視界を狭め、内向と右傾化の土壌となっていることに注目した。一五年の勤労者世帯可処分所得は、月額四二・七万円(前年比三〇〇〇円増)で若干増えたように思えるが、一九九七年のピーク時の年額五九六万円から、一五年には五一二万円と、実に八四万円も減少している。ちなみに、全国全世帯の消費支出もピーク時一九九三年の四〇二万円から一五年の三四六万円と年額五六万円も減少しており、いかに消費が冷却し生活が劣化しているかが分る。
この段階で確認しておきたいのは、働く現役世代の可処分所得がピーク比で、年額八四万円も減ったという状況では、この世代が高齢化した親の世代の面倒をみて経済的支援をする基盤が失われているということである。もっとも、戦後七〇年というプロセスにおいて、「親に孝行」といった儒教的価値を失わせる社会構造を作ってしまったともいえる。都市に産業と人口を集中させて高度成長期を走ったことにより、「核家族化」が進行し、一九八〇年に三八%にまで増やしていた核家族(単身者、夫婦のみ世帯、母子・父子家庭)の比重は、二〇一〇年には六一%となり、現在は六五%になっていると推計される。つまり、「家族」の性格がすっかり変わってしまい、世代間の支えあいが困難な社会となっているのである。
働いている現役世代でさえ生活が劣化している状況の中で、働いていない人が多い高齢者の経済状況は、さらに厳しい。六〇歳以上の無職の世帯の可処分所得(年金+所得-社会保険)は、平均年額一七八万円で、平均生活費は二四八万円(「家計調査年報」)、年間七〇万円足りないとされ、その分は資産を取り崩していると思われる。それ故に高齢者の就業志向は高まっており、総務省就業構造基本調査(二〇一二年)によれば、男性における就業者の比重は六〇~六四歳で七三%、六五~六九歳で四〇%、七〇~七四歳で三二%、七五歳以上一六%となっているが、ここでの「就業者」には雇用者、役員、自営業主も含まれ、六五歳以上の雇用者は一三%程度であり、雇用条件も非正規雇用が大半となるため大きな所得は望めない。だが、高齢者層は現在の勤労者世帯を形成する世代(現役世代)よりも相対的には恵まれているといえる。日本が右肩上がりの一九六〇年代から八〇年代にかけて壮年期を送り、勤労者世帯の可処分所得が増え続けた環境の中で一定の貯蓄と資産を確保できた世代だからである。東京に吸収されたサラリーマン層をイメージしても、郊外にマンションの一部屋程度は手に入れローンを払い終えて定年を迎え、一定の貯蓄と金融資産を手にしているというのが一般的高齢者であろう。
総務省家計調査・貯蓄篇を基に、国民の金融資産保有状況(二〇一四年)をみると、貯蓄の五八%、有価証券七二%は六〇歳以上の世代が保有している。つまり、株価の動きに最も敏感で、金融政策主導で、日銀のETF買いだろうがGPIFによる株式投資の拡大だろうが、株高誘導政策に最も共感する土壌を形成しているのが高齢者である。ただし、高齢者の経済状態は一般論で単純に判断できないほど、二極分化が進んでいる。人口の二七%、三四〇〇万人が二〇一五年時点での高齢者人口だが、あえて高齢者を経済状態で分類するならば、約二〇%(七〇〇万人)が「金融資産一〇〇〇万円以下で、年金と所得の合計が二〇〇万円以下の「下流老人」であり、約一五%(五〇〇万人)が「金融資産五〇〇〇万円以上で、年金と所得の合計が一四〇〇万円以上の「金持ち老人」で、残りの約二二〇〇万人が「中間層老人」といえるが、この中間層老人が「病気・介護・事故」などを機に、下流老人に没落する事例が急増しているという。生活保護受給世帯一五九万世帯のうち七九万世帯が高齢者世帯であり、「貧困化する高齢者」問題も深刻である。高齢者のうち所得のすべてが年金の人が約五割を占め、厚生年金に加えて企業年金を得る最も恵まれた年金受給者でも年金収入の上限は五五〇万円前後である。確かに、高齢者の平均貯蓄額(二〇一四年)は二四六七万円と意外なほど高いが、一〇〇〇万円以下が三六%、二〇〇〇万円以下が六〇%で富は偏在しているのである。つまり安定した経済状態にある高齢者層が確実に圧縮しているといえよう。
「老後破産」について、NHKスペシャル(二〇一四・九・二八放送)を単行本化した『老後破産—――長寿という悪夢』(新潮社、二〇一五年)は注目すべき現実を報告しており、年金生活は些細なきっかけで破産へと追い込まれる危うさを思い知らされる。また、週刊東洋経済は、下流老人特集(二〇一五・八・二九日号)やキレる老人特集(二〇一六・三・一九日号)と支えるコミュニィティーを失った高齢化社会の断面に迫る企画を積み上げており、高齢化の現実を深く考えさせられる。 こうした潜在不安を抱える高齢者、とりわけ中間層から金持ち老人にかけての約二七〇〇万人が金融資産、株式投資に最も敏感な層であり、「とにかく株が上がればめでたい」という心理を潜在させ、アベノミクス的資産インフレ誘発政策を支持する傾向を示す。結局、アベノミクスの恩恵を受けるのは、資産を保有する高齢者と円安メリットを受ける輸出志向型企業だという構図がはっきりとしてきた。ここから生ずる世代間格差と分配の適正化という問題意識を持たねば、金融政策に過剰に依存して調整インフレを実現しようとする政策は社会構造の歪みを招き、間違った国へと向かわせるであろう。
人生は欲と道連れであり、高齢者が潜在する経済不安の中から、アベノミクスを支持する心理に至るのも分からなくはない。しかし、歴史の中での高齢者の役割を再考するならば、社会活動の現場で体験を重ねてきた世代として、後から来る世代に道筋をつける知恵を働かせるべきである。とくに、戦後日本の産業化と国際化の現場を支えた世代として、マネーゲームと金融政策では経済社会が空洞化することに厳しい視点を向けるべきではないのか。少なくとも、後から来る勤労者世代の貧困化に目を配らねばならない。自分の生活だけが安定していればよいというのではなく、高齢者らしい社会への配慮と成熟した知性が問われている。三浦展が『下流老人と幸福老人』(光文社新書、二〇一六年)で描き出すごとく、「資産がなくても幸福な人」と「資産があっても不幸な人」が存在するのが高齢者社会の実態である。我々は可能な限り幸福な高齢者社会の実現を図るべきで、「多世代共生」、「参画」「多元的価値」が幸福老人を増やす鍵であることは確かであろう。高齢者自身が与えられるのではなく、自分でやるべきこと、やりたいことに向き合うことがまず大切であり、そうした視界からは、日本が「この道しかない」として向かおうとしている方向には静かなる疑問が浮かび上がるはずである。
公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。