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岩波書店「世界」2017年1月号 脳力のレッスン177 オスマン帝国という視角からの世界史 一七世紀オランダからの視界(その41)

 一五世紀にアジアへの回廊を求めてポルトガル・スペインによって動き始めた大航海時代が、中東における「イスラムの壁」を迂回してアフリカ大陸の南からインド洋に入るルートを探るという事情があったことは既にこの連載(その6)で触れた。改めてグローバルな視界から一七世紀を考える時、この世紀の世界に与えたイスラムの影響の大きさを思わざるをえない。オスマン帝国への理解は西欧近代史を立体的に捉える前提であり、イスラムへの的確な認識は今日の世界情勢の理解にも不可欠である。今日、シリアの混乱と難民の悲劇を見る時、「歴史的シリア」について感慨を覚えざるをえない。ムハンマドの死去(六三二年)から一〇〇年も経たない七一五年にイベリア半島を席巻した「最初のイスラム王朝」たるウマイア朝の首都はダマスカスであった。歴史的シリアという概念は、アラビア語で「シャーム」といわれる地中海東岸地域を意味し、現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル、パレスチナとトルコの一部をも含み、イスラム発展の基盤となった地域である。キリスト教社会が送り出した十字軍も聖地エルサレムの奪還を目指したシリアへの遠征であった。

 

 

オスマン帝国栄光の時代としての一七世紀

 

 

一七世紀の中東はイスラム最後の世界帝国ともいえるオスマン帝国の時代であった。一三世紀末、小アジア北西部にトルコ族のオスマン一世を始祖とする国家が形成され、隣接するビザンツ帝国を浸食して領土を拡大、メフメト二世(在位一四五一~八一)が一四五三年に「第二のローマ」たるコンスタンチノープルを陥落させビザンツ帝国を滅亡に追い込んだ。コンスタンチノープルはイスタンブールと改称されオスマン帝国の首都になった。四七六年西ローマ帝国滅亡後のローマ帝国の唯一の継承者がオスマン帝国によって滅亡させられた衝撃は大きかった。ビザンツ帝国は三三〇年から一四五三年まで続いた「千年王国」であり、三九五年に東西に分裂後はギリシャ正教を国教としヘレニズム文化を継承してきた。東西文化の交流の接点にあって、ギリシャ文化とイスラム文化の交流に大きな役割を果たした。

 バルカン半島の大半を支配下に置いたオスマン帝国は、欧州に「血に飢えたトルコ」という恐怖のイメージを浸透させた。イタリアのヴェネチアも絶えず攻撃にさらされ、交易・商活動の自由と引き換えにオスマンへの貢納体制に組み込まれた。「大帝」といわれた最強のスレイマン一世の治世(在位一五二〇~六六年)には、ハプスブルクの出身で、スペイン王も兼ねた神聖ローマ帝国皇帝のカール五世との宿命の対決を迎え、一五二九年には第一次ウィーン包囲を敢行する。この時、一二万の軍を率いたスレイマン一世は、ウィーンを陥落寸前にまで追い詰めるが、冬将軍の到来で包囲を解き撤退する。欧州は肝を冷やし、以来トルコは欧州のトラウマとなる。

 さらに一世紀を経た一六八三年、大宰相ムスタファ・パシャの率いる一五万のオスマン軍は再びウィーンを包囲、ハプスブルクの皇帝レオポルト一世はウィーンから逃亡、正に風前の灯であった。この時、ウィーンの北十数kmのカーレンベルクの丘の上に救援に駆け付けたポーランド王ヤン三世の旗が翻った。それから三〇〇年後の一九八三年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がヘリコプターでこの丘に降り立ち大地に口づけをした。ポーランドやドイツの諸侯などが力を合わせてイスラムを押し返した象徴ともいえる場所には教会が建てられている。この丘に立つと、ウィーン市街とドナウ川の美しさに息を呑むが、イスタンブールから約一〇〇〇km、ここまで一六~一七世紀に二度も攻め込んだのである。ちなみに、ウィーン解放を記念して作られたのがクロワッサンで、「トルコを食べる」という意味でイスラムの印である三日月型になったという。

歴史のインパクトは連鎖し波のごとく伝搬する。一五世紀におけるオスマン帝国によるビザンツ帝国の滅亡がユーラシアの歴史にいかに大きなインパクトを与えたかを考える時、視界に入れるべきはロシアである。そもそもスラブ民族がキリスト教化された大きな転機は九八八年にキエフ大公がビザンツ帝国皇帝の妹との婚姻に当たり「洗礼」を受けたことにある。そのキエフが一三世紀にモンゴルに制圧されたため、一二九九年に主教座がモスクワに移り、これがロシア正教の原点となる。その後ビザンツ帝国が崩壊し、「第二のローマ」コンスタンチノープルが失われたため、独立した「ロシア正教」としての性格を強め、正教会の権威を統治に利用したロマノフ王朝はモスクワを「第三のローマに」という意識を強めた。ロシア理解の不可欠の要素として正教の存在があるが、その歴史にはモンゴルとオスマンが絡み付いていることに気付く。それが社会主義に代わる統合理念として「正教大国」を掲げるプーチンのロシアという今日的状況にまでつながっており、これもグローバル・ヒストリーへの重要な視界なのである。

 オスマン帝国の興隆は欧州史に複雑な影響を与える。オスマンはハプスブルク=スペイン体制と激しく衝突し、フランスとは不思議な同盟関係を結ぶ。「敵の敵は味方」という関係である。この連載(その4)で触れたごとく、一五二五年、カール五世に敗れて、マドリードで虜囚の身となった仏王フランソワ一世は「反ハプスブルク」の情念に憑りつかれ、英国のヘンリー八世ばかりかオスマン帝国のスレイマン一世に救援を求めた。この時の返書に示される自負、「我こそスルタンの中のスルタン、王の中の王、地球上のすべての帝王に王冠を与える者」、この思いが「フランスを同盟者」とする翌一五二九年の第一回ウィーン包囲へと駆り立てる。オスマン帝国は、ウィーン包囲七年後の一五三六年にフランスへ、さらに一六一二年にはオランダにもカピチュレーション、すなわち通商相手としての認証を供与した。つまり、アジア・地中海貿易に関して、スペイン・ポルトガルには壁になるが、仏、蘭に対しては貿易免許を与えるという姿勢をとったのである。

 

 

伏線としての十字軍―――余燼の中のオスマン帝国

 

 

 イスラムの圧力に怯え続けたビザンツ帝国=東ローマ帝国が、オスマン興隆以前の広域の「歴史的シリア」に十字軍を引き込み、キリスト教対イスラムの血生臭い対立と遺恨の基底を作るのである。そして、オスマン帝国のウィーン包囲に至る欧州への攻勢は、一一世紀末から二〇〇年以上にわたる十字軍へのイスラムの逆襲という歴史の力学の象徴でもあった。その意味で十字軍とは何かについて掘り下げておく必要を感じる。F・ギゾー『ヨーロッパ文明史』(安士正夫訳、みすず書房、一九八七年)は一八五三年、日本にとってはペリー来航の年に書かれた欧州史の古典だが、十字軍について述べている部分が心に響く。「十字軍士の方では回教徒の間にあった富裕なところと風俗の優雅なところに打たれた」、そして「通過点としてローマを目撃したこと」でローマの現実に軽い失望を覚え、権威の相対化が起こり、それが「心の自由な解放」への契機となったこと、さらに十字軍が東方より「羅針盤、印刷術、火薬の知識」を得たことなどに言及している。

 十字軍についての文献には、定番のごとく「セルジューク朝トルコの攻勢に耐え切れなくなったビザンツ帝国皇帝の救援要請(一〇九五年)を受けて、ローマ教皇ウルバヌス二世が十字軍の派遣を決断」という説明が登場するが、事態はより複雑である。約四〇年遡る一〇五四年、教皇レオ九世、ビザンツ帝国の総大主教ミカエルを破門し、東西教会の分裂という事態を迎えた。したがって、一〇九五年の救援要請はビザンツ帝国としては面子を捨てての要請で、「援軍の派遣」を期待したが、ローマ教皇は「聖地エルサレム回復の義務」という大仰な目的を掲げた大軍派遣を試みた。背景には教皇の権威の揺らぎという事情がある。ウルバヌス二世は前任の教皇グレゴリウス七世が世俗的権力の皇帝ハインリヒ四世との抗争・葛藤で消耗するのを側近として目撃してきた。後を継いだウルバヌス二世は「キリスト教共

同体の統合への意思」を強く抱き、教皇の権威の再建の手段として、「十字軍の派遣」を考え始めており、

援軍の要請は好都合であった。

 十字軍とは、一般に一〇九六年の第一回十字軍宣布、一〇九九年のエルサレム占領から、一二一七~二一年のドイツ皇帝フリードリヒ二世主導の第五回十字軍までを意味することが多いが、一二七〇年の第八回など何度となく形骸化した「十字軍」の派遣が宣言された。聖地奪還という目的は次第に変質し、東地中海を舞台にした経済活動への関心が高まっていく。この第八回十字軍当時の一三世紀後半のアナ

トリアに国家形成されたのがオスマン帝国であり、十字軍の攻勢の余燼燻る中で台頭したオスマンは「対抗十字軍」的意識を内在させていた。ともあれ、二〇〇年にわたる十字軍は、地中海貿易の発展、イタリア諸都市の発展を促し、ルネサンスの土壌となった。

 

 

西欧史におけるイスラムの貢献

 

 

オスマン帝国は宗教的、文化的には寛容で、その支配下にあったエルサレムが象徴的である。一五一六年にセリム一世が無血入城、次のスレイマン一世は城壁の修復を進め岩のドームなどイスラムの聖地でもあるエルサレムを重視した。一六世紀央、一・三万人程と推定されるエルサレムの人口のうち、約三〇〇〇人がユダヤ教徒かキリスト教徒であり、欧州で抑圧されたユダヤ人の受け入れなど多様な共存が図られていた。それが二〇世紀のオスマン解体前後の「カナンの地への帰還」というユダヤ民族主義運動の伏線になったともいえる。

現在、欧州におけるイスラム人口は六千万人に迫り、「欧州のイスラム化」さえ言われ始め、その脅威だけが強調されがちだが、実は西欧史にとっての「イスラムの貢献」という視点も重要である。何よりもイスラムこそヘレニズム文明文化の継承者であった事実は重い。とくに、アッバース朝(七五〇~一二五八年)は、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献を翻訳、第二代カリフのアル・マンスール(在位七五四~七七五年)はバグダッドを首都としてアラブ科学の黄金期を築いた。この王朝期に「知恵の館」(バイト・アル・ヒクマ)という学術機関には、ビザンツ帝国支配下の国々からギリシャ科学の文献を集積・吸収した。後に、欧州では消失していた文献のアラビア語からの再翻訳がルネサンスを触発する。イスラムの文化性の高さが十字軍の兵士を驚かせたことは既に述べたが、欧州を震撼させたオスマン帝国も文芸・文化の興隆に力を入れ、剣による支配だけでなくペンによる支配にも腐心した。紙は力であり、政治の長期安定には官僚制が機能することが重要である。スレイマン一世が残した公文書の壮麗さは驚くべきもので、トゥグラといわれる芸術的飾りと王の署名、「セリム・カーンの息子 スレイマン 永遠の覇者」とアラビア語で書かれた文書は、オスマン統治の厚みを印象付ける。

 七世紀のアラビア半島に忽然と登場したイスラムはキリスト教を否定せず、共存を前提にキリストも預言者の一人と評価したが、「キリストの神性=神の子キリスト」の否定が、既に欧州の権威・権力の中核となっていたキリスト教、特にローマ法王庁には許しがたい冒瀆でありイスラムは敵対者とされた。ここから今日まで一四〇〇年にわたる対立の火花が、屍の山を築いた。だが同時に相互に刺激を与え双方の文化に重い影響を与えたことも確かである。一〇〇年前の一九一六年、オスマン帝国解体後の勢力圏を線引きする英仏間の秘密協定サイクス・ピコ協定が結ばれた。今日の中東混乱の伏線となる大国の横暴の象徴であり中東は悲劇の現代史へと入っていく。

 

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