岩波書店「世界」2017年7月号 脳力のレッスン183 東南アジアの基層と西欧の進出―ーーバタヴィア経由のオランダを見つめた江戸期日本 ―一七世紀オランダからの視界(その45)
「アジア」という言葉の語源については諸説あるが、トルコの地名「アッソス」に由来するという説が有力だという。小アジア半島のエーゲ海に面した町をギリシャ側からみたとき、あの背後に横たわる謎めいた世界、中国、インドやペルシャをも包含する地域の総称を「アジア」とイメージしたのだという。つまり、「アジア」という概念自体が「西欧」の対置概念であり、西欧社会が設定した視界なのである。中国、インド、メソポタミア、それぞれ優れた古代文明を持ちながら、その後の大航海時代、そして植民地化という時代を経て、「アジア」概念の受動化が定着した。
東南アジアという地域の基層
「東南アジア史」という講座が最初に設けられたのはロンドン大学で、一九四九年だったという。この講座の初代教授はD.G.E.HALLで、一九五五年には、この分野の先駆けともいえる「東南アジア史」(A History of South―East Asia)を出版した。東南アジアといっても、ユーラシア大陸側の「大陸のアジア」とフィリピン、インドネシアなど島々から成る「海のアジア」とでは地勢を異にする。大陸のアジアは「インドシナ半島」と呼ばれる地域で、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)を意味し、「インドシナ」、つまりインドとシナ(チャイナ)の周縁地域というイメージが付きまとう。
確かに、今日ではマレー半島と繋がっているシンガポールを訪れ、セントーサ島にある「ユーラシア大陸最南端の碑」に立ってマラッカ海峡を眺めると、シンガポールが大陸と海のアジアの接点であり、東南アジア全体がそれぞれの地域文化の基層の上に「インドと中国の文化的浸透力」を受けたことが分る気がする。
東南アジアの「インド化」という視点の由来は、フランスのアジア学の先駆者ジョルジュ・セデス(1886~1969年)の「インド化」論にあるといわれる。東洋学者として、仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の首都ハノイにあったフランス極東学院で研究を続けたセデスは、「インドシナおよびインドネシアのインド化した諸国」(1948年刊)において、紀元前からあったインドとの交易を通じて、インド文明を起源とする五つの要素(①ヒンドゥー教、大乗仏教、②インド的王権概念、③インドの神話・伝説「プラーナ」、④宗教法典「ダルマ・シャーストラ」、⑤サンスクリット語)の組織的受容が西暦紀元頃から始まり、東南アジア地域での古代国家形成を促したことを検証しようとした。その後、東南アジア研究も進化し、「インド化」が交易を通じて浸透したのは紀元後四~五世紀とされているようである。
中国と東南アジアの歴史的関係は「インド化」以上に重層的である。秦の始皇帝の時代に現在のベトナム北部に版図を広げ、統治体制に組み入れていた時代もあるが、交易と交流という関係において、中国はインドシナ半島との長い歴史的関係を有し、紀元一~二世紀には、中国とインドを結ぶ交易ルートができ上がり、扶南(現在のカンボジアにおけるメコン河口)やベトナム中部の林邑(チャンパー)に港湾都市が形成され、七世紀ごろまで活況を呈していたという。
中国の歴代王朝の隆替が東南アジアに与えた影響は大きい。とくに、異民族支配という時代を体験したのが中国史の特色で、モンゴル族による「元」、満州族による「清」という時代を経て、南に逃れた漢民族が、今も東南アジアにおける三五〇〇万人といわれる「華人・華僑」の淵源になっているのである。東南アジアの中国系と言われる人たちに漢民族が多いのはそうした事情がある。加えて、近代に入っての辛亥革命や一九四九年の共産革命によって、中国を離れ東南アジアに移住した人たちもいる。
さらに、東南アジアにおける「イスラムの浸透」という要素も無視できない。七世紀にアラビア半島に生まれたイスラムは、六四二年にはササン朝ペルシャを破りペルシャを制圧、八世紀にはインド亜大陸へと浸透した。そして、イスラム化したアラブ商人やインド商人がインド洋を交易圏として動き回り、東南アジアへと浸透したのである。
インドネシアのスマトラ島中北部にイスラム国家サムドラ・パサイが誕生したのは一三世紀後半であった。インドシナ半島には「インド化」が定着し、大乗仏教やヒンドゥー教が受容されていたためイスラムの浸透に時間を要したといえるが、征服王朝として侵攻したのではなく、交易を通じてイスラムが「商人の宗教」として徐々に浸透したためで、このスマトラのサムドラ・パサイは東南アジアにおけるイスラム信仰の中心となった。現在、東南アジア諸国連合の十か国には、二・六億人ものイスラム人口が存在する。世界最大のイスラム国家といわれるインドネシアに二・三億人、人口の六一%がイスラムといわれるマレーシアに一九〇〇万人、フィリピンに五一五万人、タイ二九三万人などである。
一六世紀の東南アジア―植民地化の始まり
こうした基層を抱える東南アジアに、一六世紀、欧州が登場した。そして、欧州は東と西からアジアに現れたのである。スペインは太平洋を越えて東からフィリピンに現れた。ポルトガルに遅れをとったスペインは、まず大西洋を越えてメキシコを制圧した。一五二一年、コルテスによるアステカ征服の後、太平洋を渡り、一五四三年にはミンダナオに到着、皇太子フィリッペの名に由来する「フィリピナス」と名付け、一五七〇年にはマニラを占領、一九世紀末の米西戦争に敗れて米国に割譲するまで三〇〇年以上もフィリピンを支配した。今日でも、フィリピンの人口の八割がカトリックだという理由はここにある。
大航海時代の先陣を切ったポルトガルは、一四八八年にはアフリカ南端の岬の周回に成功し「喜望峰」と名付けた。一四九八年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド南部のカリカ
ットに到達し、一五一〇年にはゴアを征服、一五一一年にはマラッカを制圧して、香料諸島モルッカへと突き進んだ。華々しいアジアへの登場であり、一五一三年には中国にも到達,国交を求める大使まで派遣したが明国は拒絶、なんとかマカオに東アジアの拠点を確保したのは一五四四年であった。いかに先行してポルトガルがアジアに登場したのかが分る。ただし、既に論じてきたごとく、明の永楽帝が派遣した鄭和の大航海が一四〇五年から一四三一年まで七回にわたって行われたことを思うと、東南アジアからインド洋にかけて繰りひろげられた大航海時代が、決して西欧人の専売ではないことも視界に入れておくべきであろう。
ところで、先行してアジアに動いたポルトガルであったが、本国、イベリア半島での「スペインの隆盛」によって、一五八〇年にポルトガルという国自体がスペインに併合されてしまった。ウィーンのハプスブルク家のカール五世をスペイン王カルロス一世として迎え、その息子でフィリピンの由来にもなったフィリッペ二世の治世(1556~98年)にポルトガルを併合、以後六〇年間にわたりポルトガルは消滅していたのである。つまり、日本史において、本能寺の変(1582年)から関ヶ原の戦い(1600年)を経て「鎖国の完成」とされる家光の時代の「ポルトガル船の来航禁止」という頃まで、厳密に言えばポルトガルという国は存在しなかった。
なぜ西欧はアジアを目指したのか。そこに「胡椒」が存在したからである。M・シェファーの「胡椒――暴虐の世界史」(白水社、2014年、原書2013年)やE&F・B・ユイグの「スパイスが変えた世界史――コショウ・アジア・海をめぐる物語」(新評論、1998年、原書1995年)に描かれているように、アジアの胡椒はヨーロッパが大航海時代という名の「世界探検、征服、植民地支配」に乗り出す起爆力となり、資本主義の発展と経済のグローバル展開、ネットワーク化の触媒となったことは間違いない。
古代ローマ帝国の時代において、胡椒は料理における調味料というよりも健康に良い万能薬として評価されており、インドと胡椒の取引がなされていたという。中世においては「アドリア海の真珠」といわれたヴェネチアが胡椒取引の中継拠点で、ヴェネチア商人がアラブ商人と結んで胡椒取引を支配していた。
ポルトガルが先行して大航海時代に動いた事情については、既に述べたごとく(連載その6)「ジェノバの果たした役割」が重要で、一三七八年の海戦でヴェネチアに東地中海の通商権を奪われたジェノバ商人がポルトガルを支えたという要素があるのだが、ヴェネチアもオスマン帝国の東地中海制圧の中で交易の主導力を失っていったことが大きい。一四五三年、オスマンによってコンスタンチノープルが陥落、ビザンツ帝国は滅亡に追い込まれた。オスマン帝国の壁がアジアへの道を塞いだのである。それがアフリカ回りでのインドへの道の開拓に挑む大航海時代を促したのである。
オランダの登場とバタヴィア経由の世界認識の限界―江戸期日本
そこで、オランダの登場である。オランダがジャワ島のバンテンに到達したのは一五九六年であり、一六〇三年には商館が置かれた。一五九九年にはマルク諸島に香辛料を求めて展開、一六〇五年にはポルトガル(スペイン併合下の)のアンボン攻略、一六一一年西部ジャワのジャカルタに商館、一六一八年にジャカルタの英国商館焼き払うなど攻勢を強め、翌一六一九年にバタヴィアと改名、アジア展開の中核拠点とし、一六七〇年頃までにはジャワ島をほぼ支配する体制を敷いた。
一六〇〇年にオランダ船リーフデ号が太平洋を越えて大分に漂着した時代背景が見えてくる。先行したポルトガルやスペインに邪魔されないアジア・ルートを探っていたのである。一六〇二年にオランダ東インド会社(VOC)が設立され、議会がVOCに東インドにおける条約締結権、自衛戦争、要塞構築、貨幣発行を認めた。正に東インド会社は国家機関に準ずる国策商社だった。
こうしたオランダの攻勢は他の欧州諸国にとっては不快な脅威となり、「紅毛の蛮人」として忌み嫌われた。一六二二年にはカトリックの中国拠点マカオを蘭東インド会社の艦隊が攻撃するが失敗、一六二四~六二年までは台湾を占拠し、台南にゼーランジャ城を建設する。中国が明から清への混乱期であり、明朝の遺臣鄭成功による台南攻略でオランダは台湾を去り、その鄭成功政権も清朝政府の「遷界令」(海上交易禁止)などで追い詰められ崩壊する。この間の争乱を背景に、オランダがバタヴィアに連れ帰った中国人が増え、一七四〇年には、バタヴィアの人口一・五万人のうち三割は中国人になっていたという。
そのバタヴィア経由で長崎出島にやってくる蘭東インド会社と向き合っていたのが江戸期の日本であり、欧州情勢はバタヴィア経由のものだった。オランダ商館長の江戸参府やオランダ風説書を通じて世界認識を形成していた事情については既に触れた。意外なほど情報は伝わっていたという面もあるが、不都合な情報は遮断されていた。例えば、一八世紀末からの「オランダ史の空白と混乱の二〇年」の伝わり方である。
フランスの革命議会は一七九三年に英蘭に宣戦布告、アムステルダムは陥落、九五年には蘭総督ウィレム五世は英国亡命を余儀なくされる。オランダはフランス傀儡の「バターフ共和国」となるが、一八〇六年にはナポレオンの弟がオランダの王となる「ホラント王国」に移行、さらに一八一〇年にはフランスに併合され、オランダという国はナポレオン失脚までの間、地上から消滅してしまう。
この間の英蘭関係の微妙な変化を象徴する人物がかのラッフルズである。トーマス・ラッフルズは一八〇五年に英東インド会社の職員としてマレー半島のペナンに赴任する。一八一〇年にオランダがフランスに併合されたことの余波で、ジャワ島・バタヴィアもフランス属領となる。これを受けて、英国インド総督の指示で、ラッフルズはジャワ遠征を試み、一八一一年から一八一六年までジャワ島を占領、その英国総督となる。長崎出島もその「付属地」だったことから、ラッフルズは一八一三年~一四年にかけて三回にわたって長崎に使節を送り、英国との交易を迫る。オランダ商館長に対しても、英国支配下のバタヴィアへの服従を迫ったのである。欧州政治の変動を背景にした英国の対日圧力は一八〇八年のフェートン号事件(オランダ国旗を掲げた英国軍艦の入港と商館の引き渡し要求)からナポレオン戦争終結後の一八一六年のオランダへのジャワ返還まで繰り返されたが、欧州情勢を理解できない日本側はオランダという国は存在し続けていると思い込み、出島と向き合っていたのである。ラッフルズは一度帰国した後、一八一九年にシンガポールに上陸し、歴史に名を残すのである。
公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。