寺島文庫

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寺島文庫 近隣探訪記

 寺島文庫と蕃書調所 ~その2~

 蕃書調所の前身は、江戸幕府の暦の研究機関「天文方」です。天文方は、1685年、日本独自の暦・貞享暦を編纂した渋川春海に始まりました。これまで日本では、中国の宣明暦が862年に採用されて以来、800年以上も使用されていました。渋川は和暦を編み出すことで日本の暦を自立させたのです。これは、中国文化の相対化と日本の自己意識の高まりを促しました(「脳力のレッスン 日本の大航海時代――鎖国とは中国からの自立でもあった――17世紀オランダからの視界(その8)」)。

 この後、1798年にケプラーの法則など西洋天文学の成果を取り入れた寛政暦が作られました。編纂を主導したのは天文方・高橋至時で、彼は20歳年長の弟子である伊能忠敬(至時と初めて面会した時は51歳)に暦学・天文学を教授した人物です。伊能は至時の助力を得て全国を測量しました。また、伊能の死後は、至時の長男で天文方の高橋景保が事業を引き継ぎ「大日本沿海輿地全図」完成させました。

 1811年、景保は西洋暦学研究の必要から、天文方の中に洋書の翻訳機関である蛮書和解御用の設置を建議しました。景保はシーボルト事件(1828年)で処罰されたことで知られています。この事件は、シーボルトが高橋より贈呈された「大日本沿海輿地全図」を国外へ持ち出そうとしたもので、事件発覚後、景保は捕えられ、翌29年、獄死しています。景保の洋書類は没収され、後の蕃書調所に引き継がれました。
 天文方にまつわる人物の物語には、年齢差や国境を越えた科学への情熱が刻み込まれています。そして彼らの学問的成果によって、日本人の世界観や自己認識が形成されていくのです。(続く)

(2015年1月4日)