寺島文庫

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寺島文庫 近隣探訪記

 寺島文庫と蕃書調所 ~その3~
 

  19世紀に入ると、西欧列強が頻繁に日本に来航します。特に1853年のペリー来航は、江戸幕府に強い衝撃を与え、外交文書の翻訳や軍事、航海術などに代表される洋学研究の必要性が急速に高まりました。天文方が蕃書調所へと拡充されるのは、正にこの時でした。
  蕃書調所の頭取に就任したのは、儒者と洋学者の二つの顔を併せ持つ古賀謹一郎(1816~84年)でした。彼は、時代の風潮が攘夷へと流れていく中、毅然として開国を訴えたことで知られています。

  例えば、西洋諸国が領事の日本駐在を求めた時、幕府内では「領事はスパイである」との非難の声が上がりました。古賀は宗教・風俗が異なる国家間で意思疎通するためには、領事が必要であると主張しました。また、1855年にアメリカが日本近海の測量を行った際に湧き上がったアメリカ非難の中で、むしろこの機会にアメリカから測量方法を学ぶべきであるとも唱えました。さらに、開国を国辱と捉える意見に対しては「目睫の論」(目先の小論)であると反論し、鎖国のもとで自由闊達の気性に乏しい日本人の「狭い了見」を難詰しています。

  開国による視野の広がりと富国強兵を目指した古賀が精力を注いだのが蕃書調所です。設立に際して古賀が記した意見書には、書物の他に実験設備を整えること、教授法や試験方法は教授間の相談で自由に決めること、洋学者に対する手当は身分や貴賤によらず学力で決めること、身元正しく人物が良ければ幕臣のみならず陪臣や浪人の入学も認めることなどが書かれています。

  同所が設立されたのは、寺島文庫近くに位置する、九段坂下交差点付近でした。今は昭和館が建っていますが、ここには後に高杉晋作らの英国公使館焼き打ち事件や、生麦事件に際して外国奉行として交渉役を担った竹本正雅の屋敷がありました。武本屋敷の改築が終わる1858年11月までの間、古賀は毎日通ったといわれています。湯島聖堂に生を受け、蕃書調所創設の前後には祖父の別荘(九段坂上蛙原:現在の靖国神社構内か)に住み、後に現在の神保町(三省堂書店付近)に居を構えた古賀は、寺島文庫から徒歩圏内に生まれ、住み、そして世界を睨みながら幕末日本を生きたのです。(続く)
(主要参考文献:小野寺龍太『古賀謹一郎』ミネルヴァ書房、2006年)

  (2015年1月16日)