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寺島文庫 近隣探訪記

 寺島文庫と蕃書調所 ~その4~

  

 蕃書調所は洋書の翻訳にとどまらず、欧文辞書や語学テキストを印刷し出版しました。印刷技術の導入に尽力したのは教授手伝役・市川斎宮(兼恭。1818~1899年。広島藩医の家に生まれ、後に福井藩士)です。緒方洪庵の適塾に入門し、また杉田成卿(杉田玄白の曾孫)から蘭学を学んだ市川は、器械の扱いに長けており、オランダから幕府へ献じられた電信機の操作を習得した上で蕃書調所に据え付けています。1858年3月、市川は、オランダ語教本(『レースブック』)の活版印刷に成功しました。

 蕃書調所は1862年に洋書調所、翌年には開成所へと名称を変更します。そこでの翻訳業務は、西洋事情の紹介を通じて国内の攘夷意識や排外思想を啓蒙・教化するという政治的役割を担っており、『バタビヤ新聞』(オランダ東インド総督府の機関紙)や清国で宣教師などが発刊していた漢文新聞を翻訳して訓点本として発刊しました。

 また、開成所の教官及び洋学者は、翻訳業務で得た海外新情報を共有するための団体として会訳社(会訳局)を結成し、日本初の定期刊行雑誌『西洋雑誌』(1867年)を創刊しました。会訳社の中心人物であった柳川春三(1832~1870年。尾張生まれ、開成所教授・頭取)は、『中外新聞』を創刊しています(1868年)。「中外」とは国内と国外の事情を合わせて報道するという意味で、日本全国で読者を獲得し、上野での彰義隊の戦闘について号外を出すなど現在の新聞の原型を形作りました。

 海外の先進情報を収集・翻訳し、その成果を出版していく技術・人材・ノウハウを蓄積させた蕃書調所とその後身機関は、日本における近代ジャーナリズムの母胎であったともいえるのです。
〈主要参考文献:宮地正人「混沌の中の開成所」東京大学編『学問のアルケオロジー』東京大学、1997年、岩田高明「官板海外新聞の西洋教育・学術情報」『安田女子大学紀要』第37号、2009年〉

  (2015年2月21日)