寺島文庫

土曜, 5月 18th

Last update火, 14 5月 2024 4pm

現在地: Home プロジェクト 寺島文庫 近隣探訪記 寺島文庫と蕃書調所 (その5)

寺島文庫 近隣探訪記

 寺島文庫と蕃書調所 ~その5~

  

  前号で紹介した海外情報収集や翻訳活動の他に、蕃書調所は1860~61年頃より画学局・精錬方(化学)・物産方といった専門学科を設けました。ここでは、動植物・鉱物・農業・工業品に関する博物学的な調査を行った物産方に注目してみます。

 物産方は、1861年9月、伊藤圭介(1803―1901年)が蕃書調所の物産学出役を命じられた時に始まりました。尾張の町医者の家庭に生まれた伊藤は、本草学・植物学・博物学を学びました。シーボルトの江戸参府の際、熱田宿(現在の名古屋市)で面会を求めたことが縁となり、1827年に長崎に赴いて蘭学を学びました。伊藤の功績は、「分類学の父」リンネの近代的な植物分類法を日本に紹介し、今日まで使用されている綱・目・類(属)・種などの植物学用語を訳出したことで現在でも知られています。また、尾張藩の洋学研究に尽力し、藩医にもなりました。伊藤は、1861年9月より2年後の12月まで蕃書調所の物産方に出仕しました。

 物産方の伊藤は、1862年12月、幕府に「小笠原物産の収集と蓄積」を建言しています。当時の小笠原諸島は、イギリスが領有宣言を行う一方で、ハワイから移民した人物をペリーが首長に任命するなど、帰属先が定まっていませんでした。そもそも同諸島は、捕鯨船や海賊船、軍艦からの逃亡者など、欧米系の人たちが居住して独自の文化や経済活動を営んでいたのです。伊藤が建言した年、幕府は小笠原諸島を測量すべく咸臨丸を派遣、各国の駐日代表に領有権を通告しました。こうして、1876年、小笠原諸島は日本領と確定します。伊藤の建言は、純学問的な関心に加えて、領土問題への配慮から行われたのでしょう。

 明治維新後の1870年、伊藤は再び上京して文部省に勤務します。77年の東京大学の開校に際して、伊藤は71歳で理学部員外教授となり、84歳で引退するまで小石川植物園で植物研究に従事しました。この功績により、日本初の理学博士号を授与されています。さらに伊藤は、98歳で生涯を終えるまで、名古屋医学校(現在の名古屋大学医学部の前身)の創設に尽力しました。
 19世紀初頭に生を受け、20世紀初年に世を去った伊藤の生涯には、江戸幕府から明治政府へと政治体制が大きく変転する混乱期に芽吹いた日本の近代科学と教育の歴史が刻み込まれているのです。

<主要参考文献:宮地正人「混沌の中の開成所」・大場秀章「伊藤圭介」ともに東京大学編『学問のアルケオロジー』東京大学、1997年、遠藤正治「伊藤圭介と日本の科学のあけぼの」『江戸から明治の自然科学を拓いた人』名古屋大学附属図書館、2001年、石原俊『〈群島〉の歴史社会学』弘文堂、2013年>

   (2015年2月21日)