江戸時代、「鎖国」といわれた状況下で、長崎出島のオランダ東インド会社の代表たる「商館長(カピタン)」が江戸に赴き将軍への通商免許のお礼と献上品の贈呈儀式が一六七回(通常参府一六六回、特派一回)も行われた。一六〇九年(慶長一四年)に始まり一六三三年(寛永一〇年)からは毎年、一七五〇年からは五年に一回だが、幕末の一八五〇年まで続いた。
改めて確認しておくべきことがある。オランダ商館長は、国家としてのオランダを代表する外交官ではなく、あくまで私企業である「オランダ東インド会社」の日本駐在代表だということだ。インドネシアのバタビアにアジアの本部を置く東インド会社の出先の代表、つまり支店長のような立場であった。したがって、幕末の一八五八年(安政五年)にそれまでカピタンだったD・クルチウスの江戸参府が行われるが、この時彼は既に「初代日本和蘭領事館長」となっており、日蘭修好通商条約締結のための参府であった。ともあれ一六七回もカピタン一行が通常約九〇日間かけて長崎と江戸を往復したことは、出島に閉じ込められていたイメージのあるオランダ人と日本人との直接交流として大きな意味を持ったのである。
江戸参府と日本橋長崎屋
カピタン江戸参府の一行は、通常は商館長、書記、医師の三名程度だが、オランダ側の従僕、日本側の付添検使、同心、通詞(大通詞、小通詞、稽古通詞)、荷物運搬人、駕籠かきなど総勢一五〇人を超す大行列だったという。「NVOC」というオランダ東インド会社の紋章を染め抜いた旗や法被を着た一行の行進は三万石の大名の参勤交代級の壮観だったと思われる。
江戸までの経路は初期は船で長崎から小倉に出たようだがやがて陸路で筑豊の飯塚から遠賀川沿いを、直方を経て小倉に向かった。実は私は小学校時代の二年を直方近くの炭鉱に生活したが、あの遠賀川沿いの道をカピタン一行が歩いたかと思うと胸の高鳴りを覚える。小倉からは瀬戸内を船で兵庫に、そこから陸路で大阪、京都を経て東海道を江戸へ向かった。
道中において、街道沿いの日本人が示した関心は高く、特に随行の医師に患者を診てもらいたいという住民たちが列をなしたという。「紅毛人の医術」は重い患者を抱える者にとっては奇跡の魔法にすがる思いだったのであろう。また一行が携行していた食料品(ワイン、バター、チーズ、コーヒー、燻製、砂糖菓子など)や世話になった有力者に贈ったガラス器、ペン、指輪、ボタンなどの品は、一六七回もの往復の中で日本人に静かに「舶来品」への評価を高め、影響を与えていった。
一行が江戸に入る時期は毎年四月上旬になるよう調整されていた。初期は一月中旬に長崎を立っていたが、冬場の江戸は火事が多いということで、一六六〇年(万治三年)以降春に江戸に入るようになった。四月一日は新暦の五月中旬で現在では初夏に近いが、一七世紀の地球は寒冷期でこの季節に桜が満開だったという。一六七九年(延宝七年)松尾芭蕉も桜満開の季節のオランダ商館長江戸参府を目撃している。
阿蘭陀も 花に来にけり 馬に鞍
一七〇〇年頃の江戸は既に百万都市であった。一八〇〇年頃のロンドンの人口が八五万人、パリが五五万人というから世界一の巨大都市であった。この江戸と上方を結ぶ起点たる日本橋に一行の定宿となった長崎屋はあった。日本橋本石町三丁目、現在の日本橋室町四丁目(JR新日本橋4番出口付近)である。長崎屋に関しては、片桐一男『阿蘭陀宿 長崎屋の史料研究』(雄松堂、二〇〇七年)や坂内誠一『長崎屋物語』(流通経済大学出版会、一九九八年)など近年優れた研究が進み、その実体が明らかになってきた。通常三〇日前後の逗留期間に、幕府の役人や学者のみならず、好奇心旺盛な数多くの人が長崎屋を訪れ、日欧文化交流の基点となったことは間違いない。建前上長崎屋への訪問は制限されていたが、実際にはシーボルト事件が起きる幕末までは緩やかな交流が可能であった。
長崎屋を訪ね日本における洋楽(蘭学)研究の道を切り拓いた人物として、新井白石を挙げるべきであろう。「草創においては新井白石、中興においては青木昆陽」という見方が的確である。潜入宣教師シドッチの尋問において、その心情と知性に正面から向き合い西洋事情への偏見を正そうとした儒学者白石については既に述べた。彼は参府のカピタンや通詞を訪ねて知識を補強し我が国最初の世界地理書というべき『采覧異言』(一七一三年)と西洋事情を伝える『西洋紀聞』(一七一五年)を著した。世界に目を開いた先駆的知性であった。
一行が往復の途上、京都で滞在したのが河原町三条大黒町の海老屋であった。東側が高瀬川に面しており大量の荷物を運ぶ一行には便利であった。海老屋に関しても片桐一男『阿蘭陀宿海老屋の研究』(一九九八年、思文閣)などにより、詳細が解明されてきた。京都での滞在は通常三~四日程度であったが、一行にとって京都は楽しみだったようで、理由をつけて滞在の延長を試みる例も少なくなかったという。時には遊郭の女性との時間を楽しんだ。一七八八年、一行に光格天皇が接触し、二巻の最高級の巻紙を贈り一巻は進呈するがもう一巻に「オランダ語の表現や文字を書いて送り返すように」との要望があった。様々な逸話を残して江戸参府は行われた。
将軍綱吉の好奇心と吉宗の探求心
五代将軍綱吉の評価は難しい。側用人柳沢吉保の過剰なまでの登用、生母桂昌院(家光の側室お玉)への偏愛とその親族の異様な立身、さらに「生類憐みの令」に見られる個人の嗜好の偏執的強制を考えると賢君とは思えない。一六四六年、三代将軍家光の四男、つまり大権現家康の曽孫として生まれた綱吉は、将軍の弟として上州館林の二五万石を領し日陰の存在として三五歳までを過ごした。兄家綱(四代将軍)の死により、一六八〇年(延宝八年)突然将軍に就任することとなり、以後一七〇九年(宝永六年)まで二九年間もの綱吉時代が続く。
偏執狂的なエピソードを残す綱吉だが、徳川幕藩体制も安定期を迎え文化的な爛熟期(元禄文化)が到来し、陰湿な幕閣内での権力闘争に弄ばれた孤独感が「過敏で小心な専制君主」という綱吉像をもたらしたと思われる。その一方で、綱吉は教養豊かな文化人としての側面を持ち、湯島に聖堂を建てるなど儒学を重視、仏教・神道を学んで寺社の再興・修築を進めた。天文方に渋川春海を登用して和暦(貞享暦)を採用、自ら和歌・古典を学び、味わい深い書画を残してもいる。知的好奇心の強い人物だったことは将軍職にあった期間、江戸参府のオランダ商館長に真剣に向き合った姿勢に表れている。
『日本誌』を書いたケンペルが、参府に医師として同行し、一六九一年と翌年の二回にわたり江戸を訪れたことはこの連載(133)でも触れた。二度も綱吉に拝謁し、その求めに応じて幕府高官や大奥の女性が見守る中ドイツの恋の歌を歌い、踊りを披露している。商館長のみの短時間の謁見だけでなく非公式の面談をしたのは綱吉が最初で、彼はオランダからバタビア・長崎までの距離や東インド会社総督の地位を質問し、特に健康と長寿、医薬に関して強い関心を示したという。
綱吉の死後七年の一七一六年(享保元年)、徳川吉宗は宗家の血統断絶という危機を受け紀州藩主から八代将軍に就任した。「好奇心」のレベルを超えて吉宗はオランダからの情報に並々ならぬ関心を示した。一七二〇年には洋書輸入禁止令を緩和し青木昆陽や野呂元丈らに蘭語習得を命じた。彼の海外への関心は「探求心」というべき次元に高まっていた。毎年のように参府のカピタンと面談し、オランダの政治制度や社会体制(七つの州と統治体制、結婚制度など)、地理(オランダとバタビアの緯度、北方に迫るモスクワ公国の動きなど)、軍事・技術(航海術や武器、望遠鏡、日時計、時計、甲冑など)、医薬品に驚くべき広範囲の御下問を続け、商館長ギデオン・タントの報告書(一七四〇年)にも「将軍の質問に全て答えるには全知全能の人間でなければならない」と困惑の言葉が残されている。
その「探求心」が突き進んでいったのが洋馬輸入であった。彼は商館長から贈られたヨンストンの『動物図誌』で見た西洋馬に注目し、再三「大きな西洋馬の輸入」を要請、ついに一七二五年(享保一〇年)に五頭のペルシャ馬が連れてこられ、以後一七三七年(元文二年)までに計二七頭の大型馬が破格の値段で購入された。三代家光の頃(一六三五年)から何回かペルシャ馬が献上された記録もあり初めての洋馬導入ではないが、馬好きの吉宗は日本の馬の体格改良を望んでいた。当時の日本の馬は概ね馬高一三五cm前後の小型馬で、馬高五尺(一五二cm)以上のアラビア馬(ペルシャ馬)の導入を期待した。ここで我々は「戦国武将が乗っていた馬は滑稽なほど小さかった」という事実と、TV時代劇『暴れん坊将軍』で吉宗役の松平健が乗り回す大型馬は「ありうる設定」だと気付く。吉宗は洋式馬術にも興味を抱き、一七二六年にはオランダ人馬術家ハンス・ユンゲン・ケイゼルの派遣を実現し、吹上の馬場での騎乗射撃に感服している。入手した洋馬の中には南部藩に下賜され南部馬の品種改良をもたらしたものもある。
本格的蘭学研究のスタート
一八世紀の後半になると、時代は異国への関心の段階から「蘭学・洋学の萌芽」へと動き始める。中央区明石町の聖路加国際病院の付近に「蘭学・洋学発祥之地」の記念碑が立つが、これは前野良沢が『解体新書』を翻訳した場所という意味である。聖路加国際病院は豊前中津藩の中屋敷跡地でその敷地内に前野良沢宅があり、ここで良沢が長崎屋で刺激を受け長崎に遊学して入手した『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組み、一七七四年『解体新書』を完成させたのである。前野良沢(五一歳)を支える形で、杉田玄白(四一歳)、中川淳庵(三五歳)が『解体新書』に関わったが、杉田が『蘭学事始』で語るごとく、『解体新書』こそ蘭書翻訳の嚆矢であった。翻訳の期間を通じて、前野も杉田もカピタンの長崎屋滞在の機会をとらえて、何度となく足を運び疑問点を質している。
吉宗の命を受けて蘭語習得に打ち込んだ青木昆陽や野呂元丈が育ち、蘭学興隆期を支えた。野呂元丈はドドネウスの『植物図誌』を翻訳し、昆陽は『和蘭文字略考』(一七四三年)を著して語学としてのオランダ語研究に向かった。また昆陽は小石川御薬園で薩摩より取り寄せた甘藷の試作を行い「サツマイモ」の普及者としても名を残した。その弟子と称して長崎屋に入り込んだのが電気(エレキテル)の実験で知られる平賀源内であった。源内は一七六一年から二〇年近く長崎屋に出入りし、博物学関係の書籍を買い求めて博覧強記ともいえる知識を身に着けていった。一七七九年に源内は自宅で激昂して人を殺傷し、牢獄で生涯を終えるが蘭学の鬼才であった。
『オランダ商館長の見た日本―――ティツィング往復書簡集』(横山伊徳編、吉川弘文館、二〇〇五年)などオランダ側の記録を読むと、蘭学興隆をもたらした要素としてオランダ側にも受け皿としての知性の存在を感じる。単なる商人の一行ではなく、歴代商館長や同行した医師がケンペルやツェンベリー、後のシーボルトのごとく日本の知を刺激し啓発する知識人であった。最後の潜入宣教師シドッチが小日向のキリシタン屋敷で死んだのが一七一四年、キリシタン屋敷も一七九二年に廃止された。キリスト教への恐怖心が薄れ、西洋近代、とりわけ科学技術に対する畏敬の念が静かに江戸に高まり始めた。やがて良沢が『解体新書』を訳した中津藩の藩邸内に、藩命によって一八五八年に福沢諭吉が開いた蘭学塾が一八六八年(慶応四年)に慶應義塾と名を変える時代が訪れるのである。
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