岩波書店「世界」2019年2月号 脳力のレッスン202特別篇 荒れる世界と常温社会・日本の断層――二〇一九年への覚悟
年の瀬のニューヨーク、ワシントンと米東海岸を動いた。改めてタイムズ・スクエアに立ち、その変貌に驚いた。つい五年前まで、この広場を取り巻く広告の多くは日本企業で埋められていた。だが、今や日本企業の名前は全く消えてしまった。広場を北に向かって立つと、ブロードウェイと七番街が交差する三角帯の広告に目が行くが、中国の「新華社通信」と韓国のSAMSUNG、HYUNDAIのサインが目立つ。そこには他に米国の金融のプルデンシャルと飲料のコカコーラの広告があり、正に、「時代」を象徴している。
日本企業の存在感が後退しているだけではない。東海岸での多くの面談を通じて得た印象では、日本を「トランプの都合の良い追随者」とするイメージが定着し、「米朝首脳会談」に象徴されるごとく東アジアが世界の焦点だった年にもかかわらず、日本への関心と敬意が希薄化したといえる。米国が掲げてきた「市場主義と民主主義」を自ら否定してはばからないトランプ政権との過剰同調を重ねる日本は「守るべき価値」を混乱させてしまった。
世界がポピュリズムへの誘惑と強権化した政治指導によって「対立と分断」を強める中、日本は「内向と自己満足」に沈潜している。この断層を直視し、二〇一九年をどう見るか、思索を深めてみたい。
ロンドン・エコノミスト誌の二〇一九年展望
ロンドン・エコノミスト誌の恒例の新年展望“THE WORLD IN 2019”が発刊された。一昨年、二〇一七年版は、直前の「トランプ当選」という想定外の事態によって、発刊が一二月中旬にずれ込み、一二月上旬にロンドンで入手する予定だった私は同誌の編集部に日本への送付を依頼して帰国した思い出がある。
同誌の新年展望は一九八七年から刊行されており、冷戦の終焉とその後の世界を展望する上で多くを示唆されてきた。とくに、専門家や有識者の見解を適当に集めて特集するアプローチとは異なり、同誌の「インテリジェンス・ユニット」というシンクタンクの活動を踏まえ、世界を突き動かす優先事項を提示する資料として有効である。また、日本人の世界認識が「アメリカを通じてしか世界を見ない」という傾向を有する中で、欧州・ロンドンからの目線は重要である。
さて、想定外のトランプ当選を受けて出された「二〇一七年の展望」が提起した印象的キーワードが「プラネット・トランプ」であった。「プラネット」という言葉は「惑星」を意味するが、「トランプによって地球全体が惑わせられる」という意味と、「迷走するトランプ」という意味を込めた表現であった。あれから二年、世界はこの一人の人物によって振り回され、惑わされ続けている。
さて、同誌二〇一九年展望における編集長ダニエル・フランクリンの総括と優先テーマを集約するならば、「待ち構える経済の変調の中でのグローバルな政治リスクの高まり」といえる。つまり、世界同時好況といわれた二〇一七~一八年という局面が終わり、中間選挙を終えたトランプ、全人代を経て権力基盤を確立したかに見える習近平がともに危うさを内包しながら対立を深めている構図、そして、BREXIT後の英国および欧州が抱える構造不安、さらに、デジタル・エコノミーの深化の中で、AI(人工知能)が新たな局面を迎えていることなどにアクセントが置かれた展望となっている。
その中で、エコノミスト誌らしい展望と思われるのが、世界的な「多様性志向」の高まりの指摘である。ジェンダーにおけるSELF-ID尊重、“SLOW SOCIAL”志向(社会的多様性の許容)などが世界的潮流になることを注目しており、秩序や価値観が柔らかく再構築されねばならない深層底流を炙り出している。
日本についての展望といえば、消費税の増税が成長を抑える壁になることと、“YES WE RYOKAN”なるタイトルで、外国人観光客の取り込みに狂奔する日本を揶揄する記述があるだけで、世界秩序に主体的に関わる日本という見方はどこにもない
さて、「世界経済の変調」だが、変調なのか正常化なのか微妙である。IMF統計ベースでは世界全体の実質成長率は二〇一六年からの三年間、三・三%、三・七%、三・七%(見込み)と推移してきた。二〇一九年についても、IMFは三・七%成長を見込んでいるが、OECDは十一月の段階でこの数字が下振れして三・五%に減速するという見通しを発表している。おそらく、この見通しはさらに下振れすると思うが、それでも世界全体が三%成長というのは、歴史的に見ても高水準で、堅調ともいえるのである。
「変調」というのは、専ら株価の動向である。トランプ政権スタート直前の二〇一七年年初のダウ一・九九万$から二〇一八年初の二・四八万$まで二五%もの異常な株高が進行した。「強欲なウォールストリート」のしたたかさは驚くべきもので、大統領選ではH・クリントンを支援していたが、トランプ当選となると豹変、「金融規制緩和」「企業減税」「インフラ投資」へとトランプをからめ捕り、「トランプ相場」を盛り上げていった。二〇一八年に入って、米国の長期金利(一〇年物国債)の三%台への上昇を受けた新興国リスク(米国への資金還流)や米中貿易戦争リスクなどにより、ダウは乱高下、年初を若干下回る水準で越年となりそうだが、そもそも「トランプ相場」が異常だったのであり、変調とは金融資本主義の飽くなき肥大化の行き詰まりと理解すべきである。この実体経済を超えた金融経済肥大化がもたらす危険については、本誌二〇一八年十一月号に「二〇一八年秋の不吉な予感―――臨界点に迫るリスクと日本の劣化」において論及したが、年末にかけて鮮明に顕在化したと言えよう。過剰なマネーゲームは必ず破綻し、実体経済を毀損するのだ。
トランプ・リスクの顕在化と世界情勢
一一月の中間選挙を経て、トランプ政権は第二段階を迎え、この政権のリスクも新たな局面に入った。上院は、五三対四七で共和党が多数を維持したものの、下院は一九九対二三四と共和党は過半数を失った。大統領を罷免する弾劾裁判には、上院の三分の二以上の同意が必要で、ハードルは高い。だが、一二月七日に検察当局から出されたトランプ陣営の顧問弁護士コーエンへの訴追報告は、ロシアのトランプ陣営への関与を明示しており、「ロシア・ゲート疑惑」について訴追の現実性が高まってきた。首席補佐官だった制服組の軍人出身のJ・ケリーも年末には政権を去り、一段と重心を失いつつある。二〇一九年は「トランプによる既存秩序の創造的破壊」に拍手を送っていた人たちも、政権の卑しさが国益を損なうことに気付き始めれば、上院の壁も揺らぐ可能性もある。ただし、トランプ弾劾成立となればペンス副大統領が昇格となり、福音派プロテスタントのシンボルといえるほど強硬な宗教右派のイデオロギーに染まった人物の登場を警戒する意見も聞かれ始めている。
後世に振り返るならば、トランプ政権とは「ホワイト・ナショナリズムの最後の仇花」とされるのかもしれない。二〇一六年大統領選挙の時点で、米国の人口構成において白人は五七・六%と、既に六割を割った。マイノリティーの比重は四二・四%で、ヒスパニック一七・六%、黒人一三・三%、アジア系五・六%である。米国は間もなく白人の国ではなくなる。そのことへの焦燥が「白人貧困層」をトランプへと掻き立てたともいえる。
二〇一八米中間選挙の結果に関し、いかにトランプが「勝利」を装っても、下院において民主党が過半数を制した事実は重い。この結果をもたらしたのは投票率が四七%へと上昇したことであった。通常、中間選挙の投票率は四〇%程度で、それだけ多くの有権者が登録をして投票行動を起こしたことを意味する。このことが「多様化するアメリカ」を表出させ、マイノリティー、ムスリム、女性の代議者を多数当選させた。米国の場合、世論調査と選挙結果のギャップが大きい理由は、「登録しなければ投票できない」という制度の壁があり、現実にはマイノリティーの投票率の相対的低さが、国民の声を投影できない政治の要因となってきた。その山が動いたのである。
トランプ当選を支えた白人貧困層の集積点とされた中西部の「ラスト・ベルト」(錆びついたベルト)のミシガン、ウィスコンシン、カンザスにペンシルバニアを加えた四州の州知事選挙で民主党が勝利した理由も、トランプに危機感を高めたマイノリティーが投票行動を起こしたからに他ならない。米国の政治は確実に流動性を高めていくであろう。トランプ現象に触発され、世界情勢も新たな局面を迎えた。中国にとって「九」という数字の年は激動を招く因縁の年らしい。一九一九年、ベルサイユでの山東利権を巡り「抗日の五・四運動」が始まった。一九四九年には内戦を経て「中華人民共和国」が成立し、一九八九年には「天安門事件」が起こった。二〇一八年の全人代を経て一段と実権を掌握したかに見える習近平体制だが、強権化への長老たちの反発、対米摩擦を高めた政策手法への国民の不安もあり、政権基盤維持の正念場にあるといえる。国民の米国への怒りが体制批判に転じないように細心の政権運営を余儀なくされるであろう。
一二月に中国の通信インフラ・機器大手ハーウェイの幹部拘束という事態が起こり、米中摩擦が単なる「貿易赤字問題」ではなく、デジタル・エコノミー時代における情報技術覇権を巡る緊張という性格を際立たせ始めている。「データリズム」(データを支配する者がすべてを支配する)と言われる時代において、中国がデジタル権威主義国家として力をつけることへの危機感がトランプ政権を突き動かしているといえる。
だが、こうした展開をもたらした経緯を冷ややかに振り返るならば、米国自身の責任は重い。この二〇年を振り返っても、一九九七年のアジア金融危機、二〇〇八年のリーマン・ショックに際し、危機の深刻化回避のために、中国が投資と市場を拡大させて米国を支えたともいえる。米中蜜月で米金融資本主義延命の受け皿となったのが中国でもあった。この間、IT革命といわれる時代に「シリコンバレー・ビジネスモデル」を学習し、中国版GAFAを育てた構図も「米中相互依存」の深化の中で推進されたといえる。
「米中新冷戦の時代」などと呼ぶ向きもあるが、日本としては慎重に事態を注視する必要がある。歴史の教訓に学ぶならば、米中はともに大国主義アプローチを好み、対立の極限で「手打ち」をし、米中二極でアジア太平洋を仕切るような合意形成をする傾向を内在させている。「日米で連携して中国の脅威を封じ込める」と思い込むのは短慮であり、米国自身がアジア秩序の中心を中国と認識していることを忘れてはならない。
多民族国家中国を束ねるには、求心力を持つ「統合理念」が要る。かつての「社会主義」だけでは束ねきれず、このところ「中華民族の歴史的復興」に拘るのも、統合の危機を意識するからであろう。その危機感が強権化に拍車をかけ、近隣の東アジア、香港、台湾、北朝鮮、モンゴルにもグリップを強めている。その統合手段の一つの柱が「デジタル権威主義」というべきで、データによる国民支配だといえる。
中国だけではない。トランプの横紙破り的な自国利害へのこだわりに触発されるように、プーチンのロシア、エルドアンのトルコ、そしてイランを殺気立たせ、トランプが支援するサウジアラビア、イスラエルを増長させて緊張の火種を作りだしている。欧州各国でも右派のリビジョニストを活気づけ、異様な緊張が高まりつつある。冷戦の終焉直後、「唯一の超大国」とまで言われた米国が「冷戦後の世界のマネジメント」に失敗して、リーダーの正当性を失うことによって、世界は制御軸を失いつつある。
常温社会日本が直面するもの
戦後なる日本を考える時、一九四五年八月一五日、敗戦の日に河上肇が詠んだ「おおいなる饅頭蒸して ほうばりて 茶を飲むときも やがて来るらん」という歌を思い出す。日本の戦後はここから始まった。今や、「ホームレスも糖尿病」といわれる飽食の時代を迎えた日本においては、饅頭どころか様々なスイーツが溢れている。
戦後七二年が経ち、復興・成長という過程を経て、バブルの崩壊から四半世紀、二一世紀日本の社会状況を再考しておきたい。日本の勤労者世帯可処分所得、つまり働く中間層が収入から税金、社会保険、年金拠出などを差し引かれた実際に使える所得は、一九九七年がピークで、二〇〇〇年の五六八万円で二一世紀を迎え、二〇一七年は五二一万円と、年間四七万円も減った。また、全国全世帯の消費支出も、二〇〇〇年の三八〇万円から二〇一七年の三四〇万円へと年間四〇万円も減少しており、二一世紀に入って日本人の貧困化が進んだことが確認できる。
また、二一世紀に入って、外国人来訪者は二〇〇〇年の五二七万人から二〇一七年の二八六九万人へと五倍以上に増えた。だが、日本人出国者は二〇〇〇年の一七八二万人から二〇一七年の一七八九万人へと横ばいのままである。「グローバル化」の掛け声とは裏腹に、日本人はグローバル化疲れとでもいうべき局面に入った。内向の日本なのである。こうした現実を背景に、二一世紀に入って一七年間での日本人の意識の変化を各種の世論調査の動きで確認するならば、博報堂の生活総合研究所が四半世紀にわたる「生活定点調査」の結果として示している「常温社会化」という表現が適切と思われる。「日本の行方は、現状のまま特に変化はない」と考える人が、二〇〇八年の三二%から二〇一八年の五六%へと二四ポイントも上昇しているごとく、全般に「公よりも私」「先よりも今」「期待よりも現実」(イマ、ココ、ワタシ)という価値観が浸透していることが分る。内閣府の「国民生活に関する世論調査」(2018)においても、「現在の生活に対する満足度」は七五%と十年前に比べ一四ポイントも上がっているのだが、「不満はないが不安はある」というのが現在の日本人の心理だといえる。
現代日本の社会心理は「不安を内在させた小さな幸福への沈潜」といえる。多くの人がうつむきがちにスマホを見つめ、休日には全国に三五〇〇を超したショッピング・モールに行って小さな幸福(常温社会)を享受するライフスタイルへと引き寄せられている。
こうした状況は、ある意味では幸福な日本の断章かもしれない。だが、これこそがケジメと筋道を見失う日本の温床になっているともいえる。例えば、森友・加計問題を巡る当事者と忖度官僚の国益を忘れたかのごとき無責任、政治主導の「異次元金融緩和」という呪縛から逃れきれず、「健全な経済」を見失いつつある経済政策、安保法制から防衛装備品購入、沖縄問題まで、米国に過剰同調して日本の主体性を失いつつある外交安保政策の現状など、国民的議論がなされるべき課題にまで、不思議なまでの諦念と無関心が蔓延している。だが、迫りくる世界経済の変調とリスクの高まりは「常温社会への埋没」を許さないであろう。それが鮮明になるのが二〇一九年と思われる。
二〇一九年の試練―――問われる二二世紀日本への構想力
戦静かに一九三〇年代を思い起こさねばならない。一九二九年に世界経済が「大恐慌」に陥り、経済基盤が不安を高めるにつれて台頭したのがファシズムであった。自国利害と民族主義は経済不安によって増幅され、力への誘惑、統合への意思が高まったのである。
論じてきたごとく、世界経済はここ数年続いた「同時好況」から「変調」という局面を迎えている。とくに、「株価」への「根拠なき熱狂」が、様々なリスク要素の顕在化に対して敏感に反応し始めている。二〇一九年、もし株価下落が触発する金融不安が起こるならば、日本も試練に晒されるであろう。「常温社会」に埋没する日本にとって、この試練に冷静に対応することは容易ではない。何よりも懸念されるのは、この国の指導者に時代を見据える構想力がないことである。
長期的・構造的視野に立って世界を認識し、課題を制御する新しい秩序形成をリードする構想、しかもその中で日本が果たす役割を強く自覚した構想が求められる。中国脅威論に怯えて「日米連携で中国の脅威を封じ込めよう」という次元での構想では、再び「国権主義」と「偏狭なナショナリズム」の誘惑に吸い込まれていくであろう。常温社会がどんなに快適であっても、結局は国民を不幸にする時代を招来することになりかねない。予想される激流の中で、民主主義を守る連帯が必要なことに、日本人が自覚を高めうるのか、それが試される局面を迎えている。
二一世紀が「アジアの世紀」になることは間違いない。現在、世界GDPに占めるアジアの比重は約三分の一だが、二〇五〇年までには五割を超し、今世紀末には三分の二を超すと予想される。この潮流に、技術をもった先進国として協力・支援すること、とりわけ、アジアの相互メリットになる連携を実現することこそ日本への役割期待であろう。また、「核抑止力」という固定観念に国の運命を預託するのではなく、国連の核兵器禁止条約の先頭に立ち、「アジア非核化」構想を速やかに実現すべきであろう。それこそが「二一世紀の世界史における日本の役割」である。
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