岩波書店「世界」2019年5月号 脳力のレッスン205 中東一神教の近親憎悪―イスラムVSキリスト教、ユダヤ教― 一七世紀オランダからの視界(その56)
一九七九年、イランでホメイニ革命が起き、当時私が勤務していた三井物産がイラク国境近くで推進していたIJPC(イラン石油化学事業)の建設現場がサダム・フセインのイラク空軍によって二〇数回の空爆を受けていた一九八〇年代前半、このプロジェクトの打開策を探る情報活動で、私はイスラエル、湾岸産油国、イラン・イラクと中東諸国を動き回っていた。中東理解が次第に深まる中で、中東一神教と言われるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が唯一の「絶対神」に帰依する同根の宗教であることは理解していたが、何故に相互に憎悪し合うのかは謎であった。
セム族一神教の教祖モーゼから派生したユダヤ教のヤハウエ、キリスト教のエホバ、イスラムのアッラーは同じ「神」であるが、イスラムとキリスト教、そしてイスラムとユダヤの関係は、世界史を血塗られたものにしてきたのみならず、今日も紛争の火種となり続けている。そして、その反目の原点が、七世紀のアラビア半島に忽然と台頭したイスラム、その起点となったムハンマドなる人物のユダヤ教とキリスト教との不幸な接点にあったことが次第に分かってきた。
中東一神教との相関の中でのムハンマドの生涯
ムハンマド(570~632年)は、イエスの死から五〇〇年以上を経て誕生した「遅れてきた預言者」であり、その生涯についての文献も比較的残っている。彼が生きた時代は、日本では、仏教が伝来し、蘇我馬子が飛鳥に飛鳥寺を建立した頃であった。ビルジル・ゲオルギウの「マホメットの生涯」(河出書房新社、2002年、原書1962年)や、カレン・アームストロングの「ムハンマド」(国書刊行会、2016年、原書2006年)などを参考に人間ムハンマドを考察すると、その人生そのものがイスラムなる宗教に投影されていることが分る。キリスト教がローマ帝国と向き合う時代を背景に形成されたように、イスラムも七世紀のアラビア半島の地政学の中で形成されたのである。
ムハンマドは、当時のアラビア半島で「商人」として市場経済を牽引し始めていたクライシュ族に生まれ、六歳で両親と死別、父方の叔父に育てられ、羊飼い、隊商の一員として働き、「正直者のムハンマド」として商人道を歩んだ。二五歳の時、一〇歳以上も年長の富裕な未亡人ハディージャと結婚、二男四女をもうけた。聡明な妻ハディージャこそムハンマドの理解者となった。六一〇年、四〇歳の頃、メッカ近郊のヒラー山で瞑想中に突然「神の啓示」を受け、神の声を伝える者としての人生を生きる転機を迎えた。
仮に「神の啓示」を受けたとしても、それを受け入れる「基盤」無しには啓示の意味さえも分からない。本連載でも「キリスト教を創った」といわれる聖パウロや、キリスト教に帰依した最初のローマ皇帝コンスタンティヌスが受けた「神の啓示」に触れてきたが、潜在意識に「啓示」が火をつけたといえる。
ムハンマドが生きた時代のアラビア半島は、ビザンツ帝国が現在のトルコからシリア、ヨルダン、パレスチナ、エジプトまでを版図としており、ペルシャ湾の北には、今日のイラン・イラクの大半を含む形でペルシャ帝国が鎮座していた。当時のアラビア半島の宗教状況は多神教の民族宗教が主潮で、メッカのカアバ神殿には三六〇体もの偶像が祀られていたという。カアバ神殿の中心にある黒石は天から来た隕石で、アブラハムが天使ガブリエルから授かったとされるもので、メッカでの神の啓示を伝える活動を始めたムハンマドも、伝統を配慮し、カアバ神殿を敬っていた。また、アラビア半島にもユダヤ教、キリスト教が浸透してきており、とくに、キリスト教については、四三一年のエフェソス公会議で「異端」として追放されたコンスタンティノポリス大司教ネストリウスの教義を信奉するネストリウス派(参照、連載55)が流入しており、それが大きな意味を持った。
私は、ムハンマドのキリスト理解に関心を寄せてきたが、イエスの「神性」を否定し預言者の一人とするムハンマドの捉え方に、ネストリウス派との近似性を感じていた。文献に当たるうちに、キリスト教の「異端」の研究(参照、D・クリスティ・マレイ「異端の歴史」、教文館、1997年、原書1976年)において、根拠のあることが分ってきた。ムハンマドが最初にキリスト教を学んだのが、ネストリウス派修道士のバヒーラであったという。
イスラムにおけるイエス・キリスト観は、「コーラン」にも明確に描かれている。コーランにおいて、イエスは「イーサー」と表記されて登場する。確認してみると、コーランにおける二五の節でイーサーについて語られている。「イーサーも諸預言者」(3章84節)とされ、「現世と来世における尊者」(3章45節)として敬意を払われているが、イーサーは神自身ではなく、神の子でもないとされる。つまり、イエスの「人性」にこだわるのである。既にローマ帝国の国教となり、権威となっていたキリスト教にとって、「一つの神格にお
ける三位格」として「父と子と聖霊」を位置づけることは揺るがし難い教理であった。イエスの神性を否定し、預言者の一人にすぎないことなど、許されない侮辱であった。神の啓示を受け、六一三年頃から「神の声を伝える預言者」としての活動を始めたムハンマドは、自らの神性や優越性を語ることなく、彼の伝えるメッセージは「アブラハム、モーゼ、ダビデ、ソロモン、イエスたちが伝えた神の意思」(コーラン2-129~132、6-6)であった。
メディナへの聖遷の意味―――ユダヤ教との決別
メッカでの布教を始めて約一〇年、「絶対神の下での平等」を訴えるムハンマドの活動は多神教徒をイスラムに改宗させ、貧者、奴隷にも訴え始めた。それはメッカの支配層との対立を引き起こした。多神教を掲げる守旧派にとっては、「最後の審判」といったユダヤ・キリスト教的教義を掲げるイスラムは秩序を破壊する危険な勢力と見られ、イスラム教徒を迫害する圧力が高まった、危険を察したムハンマドは六二二年、ムスリム勢力を引き連れてメディナに移住(ヒジュラ=聖遷)し、イスラム共同体を形成し始めた。この時を、カレン・アームストロングが「イスラムの誕生」と表現(「イスラームの歴史」、中公新書、2017年、原書2002年)するのも頷ける。イスラムとは個人の宗教というよりも、「ウンマ」といわれる共同体として意味を持つからである。
ムハンマドは六二二年に「メディナ憲章」(世界史資料2、岩波書店)を発表し、メディナ住民との共存を意図する契約において「ユダヤ教徒の宗教と財産を保障し、義務と権利を明確にした」が、ユダヤ教徒との関係は微妙であった。当初、ムハンマドは一神教の長兄としてのユダヤ教に敬意を払い、融和的に向き合っていた。日々の礼拝に当たり、信徒たちには「メッカの方角(南)ではなく、北のエルサレムの方角に向けて行うように」指示していたという。しかし、ユダヤ教徒は「アラブ人は神の計画から締め出された存在」として「アラブ人の予言者」を認めなかった。つまり、アブラハムを大祖先とし、旧約聖書とモーゼを尊崇する祖同宗教における新たな預言者とは認めなかったということである。
ユダヤ教の教典トーラ、タルムードにおいて、ユダヤ人は強烈な選民意識に立ち、ユダヤ人以外を預言者としては認めない。六二二年、ムハンマドは「神の啓示」により、礼拝の方角をメッカとするように指示した。以来、イスラム教徒はメッカに向けての礼拝を始めた。ユダヤ教との決別であった。中東一神教の不幸な対立の淵源はここにあるといえる。
イスラムとは「服従」を意味し、全身全霊でアッラーに服従することに徹し、あの平伏礼は傲慢・思い上がりを制する象徴的な儀礼である。富の公平な分配や相互の思いやりを重視する共同体(ウンマ)をすべての基盤とした。メディナでの体制を整えたムハンマドは、六三〇年には一万人の信徒を率いて進撃を開始してメッカを征服、カアバ神殿の偶像を破壊し尽くした。宗教指導者が政治的・軍事的統治者となって権力と権威を掌握するというムハンマド自身が実践した史実が「聖俗一体の共同体を目指す」というイスラムの原動力となっていくのである。
イスラムにおける聖俗一体―――「片手にコーラン、片手に剣」の意味
今日、中東のシリア・イラクの混乱に乗じ、突然「イスラム国」(ISIS)などが登場し、テロや殺戮を繰り返すと、「イスラムは暴力的」というイメージが形成されがちである。また、一九七九年のイランのイスラム原理主義革命において、ホメイニ師なる聖職者が、唐突に政治の最高指導者として登場するのを目撃すると、その聖俗一体の権力に違和感を覚えながら圧倒される。こうした構図が蘇るのがイスラムの特質であり、その淵源はイスラム共同体の長としてのムハンマドが聖職者であり政治的・軍事的指導者として、メッカに突撃したことにあることに気付く。
イスラムの教義は、神の意思の下での「平和と公正」を志向するもので、ウンマ(共同体)の平穏を求めるものだが、敵対するものには「片手にコーラン、片手に剣」で、妥協することなく「ジハード(聖戦)」を掲げて対峙する可能性があるということである。メッカ征服の二年後、六三二年にムハンマドは死を迎える。後継者を巡る展開がその後のイスラムに影を投げかける。初代カリフとなったアブー・バクルから四代アリーまでのカリフはムハンマドを直接取り巻いたことのある指導者で「正統カリフ」と呼ばれる存在であったが、それ以後の対立が今日のスンニ派とシーア派の対立の淵源となる。「カリフ」とはアラビア語で「代理者」「継承者」を意味するが、ムハンマドの代理者としてイスラムの保全政治を執行するという意味である。
六六一年にムハンマドの従兄弟で娘婿でもあった四代目カリフのアリーが暗殺された後、ウマイヤ家出身のムアーウイヤがウマイヤ朝(661~750年)を開き、ダマスカスを拠点にその後一四代にわたってカリフの座を独占する。アリーの系統の正統性を支持し、ウマイヤ朝に反発する勢力がシーア派イスラムの原点なのである。今日、世界のイスラム人口は約一六億人(世界人口比二三%)とされ、その約八〇%をスンニ派(正統派)が占め、シーア派はイランを中心に一五%程度である。
このウマイヤ朝が瞬く間に勢力を拡大して、北アフリカを席巻、ジブラルタルを渡り七一五年にはイベリア半島を制圧、七三二年にはピレネーを超えてフランク王国と激突する。フランク王国は「ラテン化したゲルマン」であり、ローマ皇帝によってキリスト教化された存在であったが、ウマイヤ朝と戦うことが「キリスト教共同体としての欧州」を自覚する契機となったことは既に述べた。(参照、連載54)ダマスカスのウマイヤ朝は七五〇年の革命によってアッバース朝に滅ぼされるが、アンダルシアのウマイヤ朝は後ウマイヤ朝(756~1021年)として生き延び、アルハンブラ宮殿を拠点としたイベリア半島最後のイスラム政権ナスル朝が崩壊するのは、実に一六世紀末であった。欧州のトラウマとしてのイスラムが埋め込まれたのである。
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