岩波書店「世界」2019年6月号 脳力のレッスン206【特別篇】平成の晩鐘が耳に残るうちに―体験的総括と冷静なる希望
「平成の三〇年」とは「冷戦後」といわれる世界史の潮流と並走した時代であった。一九八九年の一月に平成がスタートしたが、ベルリンの壁が崩壊したのはその年の十一月であり、十二月の地中海マルタでの米ソ首脳会談(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)で「冷戦の終焉」が宣言され、この二年後の一九九一年にソ連邦は崩壊した。平成の晩鐘が耳に残る今、「平成とは何だったのか」を世界の構造変化と日本の対応を体系的に整理し、確認しておきたい。この作業が、「令和」なる日本の進路を拓く上で、不可欠と考える。
平成は、第二次大戦後半世紀近く世界を東西に二分してきた冷戦の終焉を告げる鐘の音とともに始まった。私自身は、一九八七年から冷戦の終焉を越えた一九九七年までの一〇年間、ニューヨーク、ワシントンと米国の東海岸において活動した。この間、大西洋を越えて、ソ連崩壊前後のモスクワや東欧諸国を訪れる機会も多く、そうした体験を通じて、冷戦の終焉が如何に重い意味を持ったのかを実感してきた。
冷戦後の世界の構造変化―――二つの革命の進行
「冷戦」とは、資本主義対社会主義という体制選択を軸に世界が分断され、米国とソ連を頭目として対決していた緊張状態をイメージしがちだが、冷静に振り返るならば、米ソ二極の下に、民族とか宗教など地域紛争要素と社会問題が封印されていた状況ともいえる。その封印が解かれたのが平成期だったともいえる。その冷戦後のマネジメントに失敗したのが米国であり、冷戦の勝利者だったはずの米国はリーダーとしての制御力を後退させた。
冷戦の終焉は二つの意味で世界史のパラダイムを変えた。政治的には、冷戦の終焉直後「米国の一極支配」といわれていた政治構造は、米国の後退によって変化し、明らかに世界は多極化、多次元化しているのだが、深層底流において政治とは異なる次元での構造変化が進行したことを見抜かねばならない。
金融革命の進行―――悩ましい金融資本主義の肥大化
一九八七年五月、ニューヨークでの生活を始めた頃、私はニューヨーク・タイムズ紙上で「ジャンクボンドの帝王」といわれていたマイケル・ミルケンの存在を知った。後に、映画「ウォールストリート」の主人公のモデルにもなり、インサイダー取引で有罪とされて失脚する運命を辿るミルケンだが、彼が生み出したジャンクボンドのような金融の仕組みが、与信リスクの高いベンチャー企業にも金が回る仕組みとして機能し、IT革命を担ったITベンチャーを支えたともいえ、新たな金融が動き始めた象徴であった。
その年、一九八七年一〇月一九日にDOWの二三%下落をもたらした「ブラックマンデー」が起こり、日本における大蔵省護送船団方式によって動く産業金融に慣れきった私にとって、危うさを孕んだウォールストリートの新たな動きは刺激的だった。1990年代にはビジネスを取り巻く多様なリスクをマネジメントすることを金融ビジネスモデルとする「ヘッジファンドの帝王」ジョージ・ソロスの存在が際立ち、彼とは3度ほど面談する機会を得た。ビジネス活動に伴うリスク(例えば為替変動)をマネジメントすることを金融商品化する新しい動きがヘッジファンドだった。
新しい金融の教科書ともいわれたバートン・マルキールの「ウォール街のランダム・ウォーカー」は1973年に出版されており、原書は既に第11版(邦訳2016年)を重ねている。インデックス・ファンドなど「行動ファイナンス」といわれる金融技術は四〇年も前から研究されてきたが、冷戦の終焉がそれを加速させる転機になった。確かに、金融技術の高度化には、冷戦の終焉の持つ意味が重かった。冷戦期、米国の理工科系大学の卒業者の3分の2以上が広義の軍事産業(宇宙航空機産業や造船業を含む)に雇用吸収されていたという。冷戦が終わり、軍事予算削減の中で軍事産業がリストラの嵐に直面し、新たな採用を抑え始めた。理工科系卒業者が向かったのが「金融」であり、金融セクターが「金融工学」を支える人材を必要としたこともあり、こうした人材が入ることで金融という世界が急速に変わり始めたのである。一九九九年、冷戦後の「新自由主義」という思潮を投影し、一九二九年の大恐慌の教訓を受けて「銀行と証券の垣根」を設定した「グラス・スティーガル法」は廃止され、より手の込んだ金融工学に立つ金融商品が生まれ始めた。二〇〇八年のリーマンショックをもたらした「サブプライム・ローン」は、与信リスクの高い貧困者にも金を貸す理論と持ち上げられ、この理論枠を構築したM・ショールズとR・マートンは一九九七年のノーベル経済学賞を受賞した。金融工学がアカデミズムにおいて認知されたのである。
リーマンショックを経ても「ウォール街の懲りない人々」は一段と増殖している。二〇一六年の大統領選挙で、当初ヒラリー・クリントンを応援していたウォールストリートは、トランプ当選となると、二〇一七年の一年でDOWを二四%跳ね上げる「トランプ相場」を盛り上げ、二〇一〇年にオバマ政権がリーマンの教訓として制定した「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)を大統領令で見直しを指示し、規制緩和への法改正を実現した。
リーマン後の金融資本主義は、「ハイイールド債」「仮想通貨」と新手の金融商品へと資金を引き込み、スーパーコンピュータを駆使したFINTECを高度な運用へと突き進んでいる。もはや全体像を理解・掌握するのは困難というレベルに至っている。「金融資本主義の総本山」たるウォールストリートが発信し続けているメッセージは「借金しても経済を拡大させよう」ということであり、今や世界中の国家、企業、個人が抱える借金(債務)の総額は、世界GDPの四倍を超したという。
冷戦後の三〇年の「資本主義の勝利」の後に進行したものは「経済の金融化」(金融資本主義の肥大化)であり、この債務の膨張は「資本主義の死に至る病」が進行しているといえる。C・P・キンドルバーガーの「熱狂、恐慌、崩壊―――金融恐慌の歴史」は1978年に初版、2000年に第4版(日本語版、2004年)が出たが、繰り返される金融危機を制御する視界は見えていない。
そして、「経済の金融化」という流れは、マネーゲームの恩恵を受ける人と取り残される人の「格差と貧困」という問題を際立たせ、それが世界の構造不安の潜在要因となっていることは否定できない。
情報ネットワーク技術(IT)革命の進行―――データリズムの時代へ
もう一つ、冷戦後の世界に進行したものは「IT革命」であった。そのことはクラウド,BIGDATA、AI(人工知能)といわれる時代に至るプロセスを振り返れば明らかである。一九八七年五月、米国駐在となってNYに出発した時、私は六キロ位もあるワープロ、東芝ルポを担いで成田を発った。まだ、汎用コンピュータが主流の時代であり、マイクロ・コンピュータを繋いでネットワーク化する「IT革命」前夜であった。十年後、ワシントンから帰国する時には、機内でパソコンに向かい原稿を打ち込む時代になっていた。
IT革命は冷戦後の軍事技術の民生転換を起点とした。今日、インターネットといわれる情報技術の原型は、一九六二年にペンタゴンの委託を受けたランド・コーポレーションのポール・バランによってコンセプトが創られ、一九六九年にはペンタゴンの情報システムとして完成していたARPAネットである。冷戦の時代、ソ連からの核攻撃で中央制御のコンピュータが破断されるリスクを回避するために「開放系・分散系のネットワーク情報技術」を作ったのがARPAネットであり、冷戦の終焉を受けて、軍事目的で創った技術の民生での活用を図ることで生まれたのがインターネットであった。正に一九八九年が学術ネットへの技術開放がなされた「インターネット元年」であり、その後、一九九〇年代に入って商業ネットワークへの開放がなされ、世界はIT革命の時代に入ったのである。
ワシントンDCで仕事をしていた一九九〇年代、ワシントン郊外のバージニア州北部にIT関連企業のビルが林立するのを見つめ、アメリカ・オンライン社の日本導入などにも関与していた私だが、「パソコン」がインターネットにつながり、アップル、マイクロソフトなどの躍動を驚きをもって見つめていた。(注、当時のアップルはマッキントッシュのパソコン会社で、96年にS・ジョッブスが経営に復帰、まだiPhoneの発売前であった。マイクロソフトは90年にウィンドーズ3・0を発売してOS分野を席巻、アマゾンは94年設立、グーグルは98年設立で、まだ存在感は無かった)本年三月末現在、IT革命をリードした五社(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の株価時価総額は四・〇兆ドル(440兆円)となり、「モノづくり国家・日本」を代表する企業たるトヨタ自動車の時価総額がわずかに二一兆円、日立製作所三兆円、新日鐡住金(現・日本製鉄)二兆円という現状こそが平成三〇年間の結果なのである。
通奏低音としての「新自由主義」とその挫折
私は本稿を「平成の晩鐘」というタイトルで書き進めているが、冷戦後の世界の通奏低音となったイデオロギーが「新自由主義」であった。金融と情報の二つの革命をもたらした背景に存在した政策思潮も「新自由主義」であった。一九八〇年代、冷戦の終焉を主導したレーガン(在任1981~89年)・サッチャー(在任1979~90年)が推進した思潮であり、シカゴ学派といわれたM・フリードマンなどの理論に依拠するもので、ケインズ主義(自由放任ではなく政府が介入・制御する)を否定し、「規制緩和、福祉削減、緊縮財政、自己責任」をキーワードとする思潮であった。かつての絶対王政と対峙し、自律的市民社会を志向して国家介入の制約を主張した古典的な自由主義とは異なるもので、その新自由主義の政策思想を推し進めた結果、直面した挫折がリーマンショックであり、この金融破綻を境に「国家による介入・制御への回帰」へと世界は反転したのである。
「新自由主義」の旗の下に、冷戦後の米国は突き進み、その潮流の中で金融と情報という新しいテクノロジーの結合による米国経済の復権を果たしたのだが、一方で、米製造業の海外展開(空洞化)が加速され、米国への移民労働力の流入という流れが形成された。ウォールストリートとシリコンバレーには光が当たり、巨万の富を得る人達も登場したが他方で「取り残された影」の部分を生み出し、二極分化と格差を増幅したといえる。これこそが「グローバル化」を否定するトランプの登場の伏線になったのである。
日本にとっての平成の三〇年―――失速の構造
日本の平成期は株価のピークアウトとともに始まった。平成元年(1989年)の年末、日経平均株価は三八九一五円と史上最高値で年を越した。その後、下落基調を辿った株価は、リーマンショック後の二〇〇九年春にはバブル崩壊後最安値の六九九四円と最高値の五分の一にまで下落した。平成が終わろうとする二〇一九年四月中旬の時点での日経平均は二・二万円前後をうごいており、「異次元の金融緩和で株価を上げる」というアベノミクスが一定の効果を挙げているように見えるが、「異次元金融緩和」という金融政策に極端に依存した景気浮揚策の長期継続が経済の歪みをもたらし、実体経済を毀損していることが次第に明らかになっている。
平成の初頭に向けて、一九八〇年代末の日本においては「途方もない不動産バブル」が膨らんでいた。八七年の東京の地価は前年比七六%上昇、八八年は六九%上昇しており、「土地本位制」などという言葉がささやかれ、「天下の興銀」といわれた日本興業銀行などが大阪の料亭の女将に二・八兆円も貸し込むという異常な事態になっていた。市街地価格指数という指標があるが、一九九〇年をピークとして、二〇一八年には商業地は七六%、住宅地は四八%も下落、不動産バブルは吹き飛んだのである。
バブルで膨らんだ金融資産が、八五年のプラザ合意後の円高を梃にアメリカに向かった。八四年に1ドル二五一円だった円ドル・レートは、八六年には一六〇円となり、日本のバブルで水膨れした資産を四割近くも優位な為替レートで運用しようと、「アメリカを買い占める日本」という嵐が吹き荒れた。「ソニーのコロンビア映画買収」「三菱地所のロックフェラー・センター買収」が話題となり、当時マンハッタンに生活していた私の周りでも「胴巻きに百ドル札を詰めてニューヨークに来た」という日本の不動産業者がマンハッタンの古いビルを買い漁っていた。その後の展開を見ると、「アスベスト問題」などを抱えた不良物件を掴まされ、地元の業者に買いたたかれて撤退、結局は幻のごとく霧消していった事例が多かった。
アメリカの衰亡論の誤り―――失速したのは日本
一九八〇年代末、平成が始まる頃、日本においては「アメリカの衰亡論」が語られていた。「アメリカを買い占める日本」が吹き荒れ、日米財界人会議において「もはやアメリカに学ぶものはない」と豪語する日本の経営者もいた。チェッカーズの「SONG FOR USA」は一九八六年の歌だが、衰亡するアメリカへの哀愁のセレナーデであった。・・・・「THIS IS SONG FOR USA 最後のアメリカの夢を 俺たちが同じ時代を駆けた証しに・・・見えないもの信じられた ティーンネイジのまま約束だよ・・・」 哀愁を帯びたメロディーとともに アメリカの挽歌を奏でていた。実は、昨年ヒットしたDA PUMPの「U.S.A」も、オリジナルは一九九二年にイタリア人のJ・イエローによる作品で、本来の曲想は「アメリカン・ドリームが交差するタイムズスクエア」など輝いていたアメリカの衰退を慰めるものだったのだが、今日の日本を投影してダンスの派手な振り付けが目立つ「元気な歌」に変質してしまった。
アメリカの衰亡論は正しくなかった。確かに、政治的には九・一一からイラク戦争における「イラクの失敗」を経て、冷戦直後に「唯一の超大国」といわれていた米国の指導国としての地位は後退した。明らかに世界を束ねる「正当性」を失ったといえる。但し、国家としての産業政策が功を奏したわけではないが、シリコンバレーとウォールストリートの自己増殖力によって米国の経済は「よみがえるアメリカ」を演出した。さらに、二〇一〇年代に入っての「シェールガス・シェールオイル革命」によって天然ガスと原油の生産量が世界一になったことも追い風となり、世界GDPにおける米国の比重は、二〇一八年に二四%(IMF推計、1988年は28%)で持ち堪えている。国家と産業の乖離である。国家としての米国は世界を制御する力を失い、産業としてのアメリカはウォールストリートのしたたかさとシリコンバレーのイノベーションに支えられ影響力を保持しているのである。なんとも皮肉な現実である。
むしろ、日本の方が「衰亡」といわれても仕方がない数字が突きつけられているといえる。世界GDPにおける日本の比重は、一九八八年の一六%から、二〇一八年には六%にまで下落した。経済が「経世済民」という言葉から成立したことを思い起こしても、最も大切なのは「民」、すなわち国民が平成期に豊かになったか否かである。驚くべき数字だが、一九九〇年比二〇一八年の消費者物価が十一・一%上昇しているのに対して、勤労者世帯可処分所得はわずか三・二%増加(注、可処分所得がピークの一九九七年からは8・5%下落)というのだから、国民生活は平成期を通じて苦しくなったことになる。「デフレからの脱却」を掲げ、何とか物価を上げようとする「リフレ経済学」がいかに国民にとって適切ではないか、論じる必要もない。
平成元年、世界の企業の株式時価総額トップ五〇社のうち、三二社が日本企業であった。昨年、同じく五〇社中、日本企業は一社のみで、トヨタだけである。もちろん、日本産業もIT革命を真剣に受け止め、この三〇年間、日本でもIT革命は進行した。しかし、日本にGAFAは生まれなかった。日本では「工業生産力モデル」の枠組の中でしかIT革命を構想できなかった。日本のIT革命は「データリズム」の方向に進まなかった。あくまで、IT関連素材、電子部品に加え、回線業、ネット通販ビジネスに傾斜し、BIGDATAのプラットフォームを握る構想に欠けていたといえる。
中国の台頭というインパクト―――依存と苛立ち
平成三〇年間の日本を取り巻く環境の中で、日本人にとっての衝撃は中国の台頭であった。平成が始まった頃、中国のGDPは日本の八分の一であった。それが平成が終わる二〇一八年には約3倍になっていた。日本にとっての貿易相手として中国が占める比重も、一九九〇年にはわずかに三・五%であったが、二〇一八年には二三・九%(含、香港・マカオ)となり、対米貿易の一四・九%を大きく上回っている。日本人の心理は微妙で、日本産業が中国との相互依存を深めていることを実感しながらも、中国の台頭に脅威を覚えており、「複雑骨折」しているといえる。
一九八九年は天安門事件の年であり、中国が「冷戦の終焉」という世界潮流の中で、混乱の坩堝の中にあった。その後の中国は「改革開放路線」を選択しながら、「社会主義的市場経済」として社会主義へのこだわりをみせ、国家統制型資本主義という実態を色濃くしてきた。昨年五月にはカール・マルクス生誕二〇〇年記念式典を北京で行い、社会主義に見向きもしないプーチン政権下のロシアとの対照を見せている。
IT革命という面で、中国はテンセント、アリババ、ファーウェイなどのプラットフォーマーズを育てた。ファーウェイは非上場企業だが、テンセント、アリババだけで時価総額一〇〇兆円という巨大企業に一気に駆け上がった。「蛙飛びの経済」と表現され、固定電話が普及していなかった中国のほうが、携帯電話が一気に普及する皮肉を意味するようだが、中国のITイノベーターとその背後にある国家は、IT革命の進路が「データリズム」(データを支配するものがすべてを支配する)にあることを見抜き、戦略意思を持って立ち向かったことは確かで、米国が中国に脅威を感じる部分がここにある。
繰り返された改革幻想と改革疲れ―――行き着いた「常温社会」
冷戦後の日本の政治は「改革幻想」の中を走った。「改革」を支える基本思想は新自由主義であった。まず、「行政改革」で八〇年代から土光臨調などの動きを受けて、国鉄など三公社の民営化を実現、二〇〇一年からは「省庁再編」に踏み切り、一府二一省庁を一府一二省庁に再編した。だが、これによって行政が効率化されたかと問えば、公務員の数が大きく削減されたわけではなく、しかも「政治主導」の名の下に「官邸主導」の流れが形成され、行政機能そのものを劣化させた面もある。例えば、IT革命という世界潮流に対して、日本は「総務省」という枠組みで向き合うことになった。国家の情報ネットワーク技術戦略を「総務」(その他一般事項)という名前で対応したことが、構想力の欠如を象徴するものになったといえる。
次に「政治改革」、非自民の六党連立の細川内閣の下に、一九九四年、選挙制度が「小選挙区比例代表併用制」に変更になり、政治改革論は選挙制度の変更に終わった。本来、代議制民主主義の在り方を吟味し、議員定数の削減などに踏み切るべきであったにもかかわらず、手がつかなかった。今日に至るも、人口比で米国の二倍以上もの国会議員を抱える構造は変わらず、むしろ小選挙区制の弊害だけが目立つ状況を迎えている。
さらに、「小泉構造改革」に至り、「改革の本丸が郵政民営化」という奇妙な時代に向き合うことになった。劇場型政治と言われた刺客が飛び交う「郵政選挙」にメディアも興奮していたが、国民経済的にみて「郵政民営化」が的確だったかは答えに窮する。郵政事業の効率化という意味では妥当だったともいえるが、地方を毛細血管のように支えた郵便局が「民間会社」になることで、地域社会のコミュニティーが希薄(空洞化)になっている事例を多く目撃するからである。二〇〇七年の分割民営化から一〇年以上が経過した今、誰が、一番得をしたのかを検証すれば筋道は見えてくると思う。
冷静に再考すれば、改革幻想とは米国への過剰同調であり、新自由主義への応答歌であった。「規制緩和」「郵政民営化」と騒いでいた小泉改革期の日本であったが、二〇〇八年のリーマンショックを経て、米国が国家主導の異次元金融緩和に動くと、新自由主義は豹変、日本も「リフレ経済学」を金科玉条とするアベノミクス(金融政策に依存した調整インフレ政策)に引き込まれ、いまだにその呪縛から解放されずにいる。
国民の多くに「改革、改革と騒いできたが、結果は空疎だな」という脱力感が広がっているといえる。また、「究極の改革」ともいえた民主党への政権交代も、民主党なる党に群がった人達のあまりの劣弱さ(政策思想の基軸のなさ、政治家としての覚悟の欠落)を見せつけ自壊していった姿を目撃し、政治に過大な期待を抱くことから後ずさりしつつあるといえる。日本の停滞、低迷を安定と認識する心理に埋没し始めているともいえる。
平成30年において日本人の心は変わった。NHK放送文化研究所の世論調査を注目したい。「生活全体の満足度」について、一九八八年二五%が「満足」としていたが、昨年二〇一八年調査では三九%になり、「どちらかと言えば満足」と答えた人(1988年61%、2018年53%)を足して、一九八八年に八六%だったのが、二〇一八年には実に九二%となっており、多くの日本人が現状に満足している状況が確認できる。但し、「不満はないが不安がある」というのが各種の世論調査結果から浮かび上がる現代日本の社会心理といえる。二一世紀に入っての日本が「常温社会」に浸り、「イマ、ココ、ワタシ」(「未来よりも今」「期待よりも現実」「公よりも私」という価値を優先)という「内向する日本」に傾斜していることについては本誌二月号(「荒れる世界と常温社会・日本の断層」)で論じた。
三・一一の衝撃と試練
平成日本にとって「三・一一の衝撃」は凄まじかった。二〇一一年三月十一日の東日本大震災は地震・津波によって二万人以上の犠牲者がでたことも衝撃であったが、フクシマ原発のメルトダウンは、正に戦後日本の基盤を根底から突き崩す出来事だった。脳震盪を受けたような中で、エネルギー問題に関わってきた者の責任の一端を共有しながら、本連載で「戦後日本と原子力」を再考察する格闘を続けた。(「脳力のレッスン」Ⅳに所収、2014年)フクシマは二重の意味において、日本人に戦後日本の虚構性を突き付けた。一つは、日本にはメルトダウンした格納容器を収束させる能力はないという現実であり、あの愁嘆場の中で「米軍による日本再占領」が検討されていたという事実である。国も電力会社もそんな原発を稼働させていたということである。二つは、そうした構造に依拠しているためともいえるが、フクシマ1号機をフルターンキーで建設した米GE社の製造者責任には一切踏み込まなかったことである。国会事故調査委員会など様々な調査報告が出されたが、「津波による電源喪失」を想定しなかったGEには事実関係の確認調査さえなされなかった。
もし、日本が本気で「脱・原発」を目指すのであれば、昨年自動延長した「日米原子力協定」を見直し、日米安保条約の総体を再検討する覚悟が必要となる。「脱・原発に踏み切りたいが、米国の核抑止力には守られたい」と考えること自体があまりに日米関係の本質を知らない非現実的議論なのである。日本は「日米原子力共同体」の一翼に組み入れられており、軍事とエネルギーは一体化されているのである。
この東日本大震災を境に、国民の心理に不安が高まり、その反動として、やたらに「絆」とか「連帯」という言葉が好まれるようになり、それが国家による統合・統制を期待する心理への傾斜に繋がったという面も否定できない。戦前の関東大震災(1923年)が「治安維持法」を生む時代の空気に繋がったように、閉塞感が統合志向を招くともいえる。
平成30年間の日本外交―――アメリカへの過剰同調という呪縛
平成三〇年間の日本外交を振り返るならば、「対米協力」を「国際貢献」と言い換えながら、次第に「アメリカの戦争」に一体となって巻き込まれていく国を造ったといえる。始まりは湾岸戦争(1991年)で「多国籍軍への支援」として、日本は九〇億ドル(1・2兆円)を支払い、アフガン・イラク戦争では「カネだけでは評価されない」として、「ショー・ザ・フラッグ」に呼応してインド洋、イラクへと自衛隊を派遣した。
思えば、私の「世界」誌への寄稿もこの頃に始まり、「『不必要な戦争』を拒否する勇気と構想―――イラク戦争に向かう『時代の空気』の中で」(「世界」2003年4月号)以来、今日まで「安易な対米協力」がこの国の矮小化を招くことを論じてきた。
そして、ついに安倍政権下での日本は、米国との集団的自衛権の行使可能な「安保法制」に踏み込み、日米の軍事一体化を鮮明にした。この背景には、先述の中国の台頭というプレッシャーがあり、主体的に自らの運命を切り開く構想力と行動力の無い国は「米国と手を組んで中国の脅威と戦う」というレベルの国に目線を落としてしまった。
直近の体験で、アジア諸国の有識者たちと議論をしていて実感したことだが、「何故、日本はトランプをノーベル平和賞に推薦する国になったのか」「何故、日本は国連の核兵器禁止条約に入ろうとしないのか」という質問を受け、いかに日本が、平成期を通じて米国への過剰同調と過剰依存の国に変質したのか思い知らされた。「日本を国連常任理事国へ」という声はいつの間にか消えた。「アメリカの一票を増やすだけだから」というアジアの失望の眼線に気付かねばならない。
冷戦が終わって、同じ敗戦国だったドイツが、一九九三年に在独米軍基地を全てテーブルに乗せて米国と向き合い、基地一つ一つの機能と目的を検証し、米軍基地の段階的縮小と地位協定の改定を実現し、ドイツの主権を回復したのとは対照的に、「アジアでは冷戦は終わっていない」という程度の認識で、日本は米軍基地を主体的に見直すという意思を示さなかった。実は、この硬直性が今日でも沖縄の基地問題を縛り付けているのである。確かに、これまでも「成熟した大人の関係」(1993年、細川政権)とか「対等な日米関係」(2009年、鳩山政権)という言葉での対米自立志向を漂わせるフレーズも登場したが、必ず「抑止力」(日本を守ってくれるのはアメリカだ)という言葉に引き戻され、冷戦後に相応しい対米関係を再設計する粘り強い意思も具体的構想も示されないまま萎えていった。結局、平成期の日本は呪縛の如くアメリカへの過剰同調の中に沈潜したと言える。
アメリカへの過剰同調を生む構造
何故、日本は対米過剰同調を続けるのか。R・タニガート・マーフィー「日本・呪縛の構図」(早川書房、2015年)は、ワシントンDCに生まれ、一九七五年に来日して以来、四〇年以上も日本在住の知識人として、投資銀行家、さらに歴史の研究者として日米関係を注視してきた視座からの作品として興味深い。この本の著者マーフィーの視座を構築した体験は、面白いほど私の真逆である。私は、日本人として米東海岸に十年以上張付き、その後も波状的にワシントンを訪れて日米関係を注視してきた。つまり、マーフィーと私は相手の国に生活し、その立ち位置で日米関係を見つめてきたことになる。それが、不思議と同じ認識を共有しているのである。マーフィーは、米国が日本の国益など眼中にないにもかかわらず、敗戦後の日本が「従属国」の地位に埋没し続けている理由として、日米関係の固定化を自分の利益とする「ジャパン・ハンズ」という日本問題専門家達の存在を指摘している。私も、日米安保を「飯のタネ」として活動しているワシントンにおける自称「親日家」の「安保マフィア」とでもいうべき日米関係専門家たちが、日米関係の見直しを阻害していることを実感し、何回も指摘してきた。ただし、こうした状況を単純な被害者意識をもって議論することは正しくないであろう。むしろ、ワシントンの「安保マフィア」と連携し、現状の固定化を図ろうとする者が日本の政治家、外交官、メディアにも多く存在しているということである。むしろ、日本側が自ら「呪縛」の中に回帰し、閉じこもる傾向を有していることこそ問題だと思われる。「知米派」の日本人が現状固定化の中核になっているのである。コーネル大学で教壇に立つ酒井直樹の「ひきこもりの国民主義」(岩波書店、2017年)は「パックス・アメリカーナの終焉」に直面してもなお、アジアに背を向けて「アメリカの下請けの帝国」にしがみつこうとする日本のひきこもりの精神構造を解明しようとする試みは示唆的で、日本社会に存在する「無責任の体系」が変革を阻む力になっていることに溜息を覚える。日本の支配構造には「説明責任」を回避する空白が存在し、それを忖度する取り巻きが問題を霧消させる構造になっているのである。E・ボエシの「自発的隷従論」(ちくま学術文庫)は一六世紀に書かれたものだが、「支配者のおこぼれに与かる取り巻き連中が支え、民衆の自発的隷従によって圧政は成り立つ」という構図は人類史を貫いているようである。
次の扉を開く希望―――問われる主体的な構想力
歴史において、「成功体験」は固定観念となって次の時代を縛り、失敗への導線になることが多い。戦前の日本では、日清日露の戦勝体験が、軍国日本への傾斜と軍部の専横の導線となり、世界認識を誤り、昭和軍閥を制御できないまま不幸な戦争に至り、敗戦を迎えた。戦後日本は、日米同盟に守られて「軽武装・経済国家」として冷戦期を生き延び、復興成長という形で工業生産力モデルの成功体験を味わったものの、平成の三〇年においてはそれが反転し、制約になったといえる。世界の構造変化と日米関係の位相の変化によって、戦後昭和の成功モデルが機能不全に陥っているにもかかわらず、固定観念にしがみついている構図は、本稿で論じてきた。「日本を取り戻す」などという後ろ向きで貧困な視界からは未来は拓けない。
日本の未来を切り拓く希望は何か。確実に言えるのは、戦後日本の総体を再考し、それを未来の糧としていくしかない。最も大切なのは、戦後民主主義を根付かせることである。世界潮流の中での日本の埋没、中国の強大化と強権化という現実を前にして、民主主義の煩わしさに苛立ち、国権主義・国家主義への誘惑に駆られがちとなる。「反知性主義」的な言動を率直な本音と感じ、「ポピュリズム」(大衆迎合主義・大衆扇動主義)に拍手を送り、民主主義を冷笑する風潮に引き込まれがちとなる。
だが、戦争という悲惨な代償を払って手に入れた「民主主義」の価値を見失ってはならない。自分の運命を自分で決められること、国民一人一人が思考力、判断力をもって自分が生きる社会の進路を決められることこそ戦後なる日本の宝である。とくに、平成という時代を暗黙の裡に制約してきた「米国への過剰同調」がもたらす不幸な結末を見抜き、主体的に未来を選択できるのかがこれからの日本人の課題となるであろう。そのための「知の再武装」がカギになるのだが、私は日本人の賢明さを信じたい。
もう一つの未来への希望につながるキーワードはアジアである。十数年後、日本を除くアジアのGDPは二〇一八年の倍になっていると予想され(年平均実質6・5%成長として)、貿易・観光などあらゆる意味で、日本はアジア・ダイナミズムを吸収して活力を保つ柔らかい知恵が不可欠となる。「反中国、嫌韓国」のレベルでのナショナリズムでは閉塞感に埋没するだけである。そのためには、二一世紀を展望した「世界史的構想力」が必要であり、成熟した民主国家であり技術をもった先進国としての日本を輝かせる政策構想が練磨されねばならない。信頼と敬愛を得られる日本を創ることが重要である。
一〇年前のことだが、ドイツのベルリンでの会議に参加し、元西ドイツの首相H・シュミット(1918~2015年)と三日間、同席したことがあった。この東西ドイツの統合に大きな役割を果した老政治家の話は深い洞察に裏付けられたものであったが、アジアの未来に関する発言の中で、「日本にはアジアに真の友人がいないね」と言い切っていた。国際関係、とくに近隣諸国との関係は決して甘いものではなく、近代史における日本のアジアとの関わりを考えたならば、「真の友人」を求めることは容易ではない。だが、過去を肯定したくなる誘惑を断ち、経済的利害だけで向き合う姿勢を抑え、素心を持ってアジアと対話し、相互利益になる未来構想を推進することへと日本を向かわせる指導者の見識と度量が求められるのである。平成の晩鐘が遠のく中で、「忘れてはならないこと」として、あの時のシュミットの表情を思い出している。
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