岩波書店「世界」2019年10月号 脳力のレッスン210 仏教の日本伝来とは何か―――一七世紀オランダからの視界(その60)
日本への仏教伝来が、六世紀の東アジアの政治力学を投影したもので、日本の仏教受容が当時の日本の大和王朝内の政治力学を反映するものだったことを確認しておきたい。
そして、仏教が政治権力と結びついて伝搬する一方、その教理の真髄に人間の内面を省察する「気付きの宗教」という性格を内在させているために、「招福神」として伝来した仏教が権力をも超越し、日本精神史の基底を形成したことに気付くのである。
朝鮮半島の仏教史―――三韓それぞれの受容
朝鮮半島が統一される以前、四世紀末の「三韓」といわれた三国時代に仏教は朝鮮半島に伝来した。東アジア史の中で考えると、この頃の中国は「五胡一六国」といわれる時代で、漢民族支配の時代から、非漢人の北方・西方民族が力を付け、民族の複合化が進み、統一王朝による縛りの無い中で外来の仏教が周辺にも浸透していったといえる。
まず、高句麗には三七二年、前秦の王が僧順道を派遣する形で仏教が伝えられたという。三九二年には広開土王が平壌に九つの寺院を建てたと記録され、六世紀の平原王の時代には、北斉に僧義淵を派遣するなど、仏教が深く受け入れられていたことが窺える。三国時代の高句麗の版図は現在の北朝鮮より大きく、山東半島を含む中国東北部からアムール川南岸までに及ぶ。七世紀に、高句麗が新羅・唐の連合軍に敗れて滅亡した後、満州ツングース系の国家として渤海国(698~926年)が興ったが、その支柱は高句麗復興を目指す高句麗の遺臣たちだった。
日本に仏教を伝えた百済には、三八四年の枕流王の時代に東晋から仏教がもたらされ、仏教国家として歩み始めた。百済は高句麗、新羅との緊張を背景に、日本への接近を図り、仏教も日本を惹きつける先進的文化・文明の象徴であった。百済は六六〇年に新羅と唐の連合軍に敗れて滅亡するのだが、百済の遺臣は日本に亡命していた王子の余豊璋を擁立して日本との連合で復活を試みるが、「白村江の戦い」(663年)で新羅・唐の連合軍に再び敗れた。この頃、多数の百済からの渡来人が日本に身を寄せ、百済王氏という姓を与えられた氏族も生まれた。桓武天皇(在位781~806年)の母がこの百済王氏の出身で、天皇は百済王子一族を「外戚」と宣言している。
白村江の戦いは、日本と百済の関係の深さを示しており、中大兄皇子(のちの天智天皇)の指揮の下、上毛野稚子等の率いる二万七千人の軍勢を派遣しており、この敗戦が日本の支配層に与えた衝撃は大きく、律令国家体制の整備に真剣に取り組む契機となった。朝鮮半島東岸の新羅には、五世紀前半になって高句麗を通じて仏教が伝来し、法興王の時代、五二八年に公認したという。朝鮮半島の仏教史を貫くのは、王権が仏教の受容を主導したことである。それは王権の強化と中央集権統治のために、「一次元上の聖徳による統治」という正当性が必要だったということであろう。
現在の韓国の宗教状況が、キリスト教二八%、仏教一六%、無宗教五六%(2015年推定)とされ、李氏朝鮮王朝時代(1392~1910年)の朱子学重視により「儒教の国」というイメージを抱きがちだが、改めて朝鮮仏教史に触れてみると、教理研究のレベルの高さを印象付けられる。七世紀に聖徳太子の師となった僧・慧聡、日本の初代僧正となった観勒はともに百済僧である。朝鮮半島の仏教史に関して、日本にはあまり知られていなかったが、近年研究が深まり、金龍泰「韓国仏教史」(春秋社、2017年)など翻訳された好著もあり、正確な知識が確認できるようになった。
朝鮮半島の仏教史を振り返ると、三国時代に伝来した仏教が、慶州仏国寺を建立して鎮
護国家仏教を重んじた統一新羅時代(676~935年)、仏教を国教化した高麗王朝時代(936~1392年)と約七〇〇年にわたる隆盛期を経て、仏教教学も深まり、民衆にも浸透したことが分る。この間、多くの僧侶が中国のみならずインドにまで留学している事実に驚かされる。モンゴルの影響を受けた高麗王朝をクーデターで倒した李氏朝鮮王朝の時代を迎えると、「儒教国家」が標榜され、「儒仏交替と廃仏」という試練の局面を迎えるが、仏教は民衆の中を生き延びた。
日本への仏教伝来―――招福神として
「元興寺縁起」によれば五三八年、「日本書紀」によれば五五二年、いずれにせよ欽明天皇期に百済の聖明王によって、高度の文明の象徴としての仏像と経典と仏具が日本にもたらされたという。渡来人たちによる個別的伝来は先行していたと思われるが、国家的伝来という意味での仏教の到達である。この仏教伝来こそ、この時点での東アジアの政治力学を投影するもので、百済の意図は、先述の如く日本との親交を深め、三韓の中での優位性を高めようというものであった。
「日本書紀」における百済の聖明王の上表文をみると、仏教は「無限の福徳果報」を生み、「祈ることがなんでもかなう」と語られ、「招福神」として紹介されたことが分る。この時、欽明天皇は礼拝すべきか否かを群臣に下問した。百済系の豪族たる蘇我稲目は「諸国が信奉している」として受け入れを進言、物部尾輿と中臣鎌子は「外国の神」を祭るならば「国神の怒りを招く」として否定、迷った天皇は、とりあえず稲目に預けて礼拝させることにした。稲目は向原の家を清めて寺にして仏像を祭った。ところがその後、疫病が流行り、五八五年、仏教のせいだとする意見を受けて敏達天皇の命で、仏像を難波の堀江に廃棄(当時の外国との交流の出入口)、向原の寺を焼き打ちしたが、天皇の大殿が火災に襲われ、敏達天皇は疫病で死んでしまった。
崇峻元年(588年)、蘇我馬子は物部守屋を討伐、崇仏派が巻き返しを図る。この年、馬子は日本最初の出家者善信尼を百済に留学させるのだが、日本初の仏教者が女性であったという事実は、「卑弥呼」伝説のごとく女性が祭祀の中心にあった日本において、初期仏教がどのように受け止められていたかを考える上で興味深い。善信尼は五九〇年に帰国、大和桜井に寺を構えたという。
同じく崇峻元年、本格的な寺院建設の勅令がだされ、蘇我馬子にその役が託された。百済から僧六人、大工、瓦師が来日、塔の心礎に仏舎利が収められたのが推古天皇元年(593年)で、五九六年に完工したのが元興寺(現在の飛鳥寺)である。六〇五年には大仏建立の詔勅が出され、百済から招かれた止利仏師によって日本最古の仏像たる六〇九年に飛鳥大仏が創られたのである。
私自身、何度となく大和三山を見渡す明日香の甘樫丘の麓、飛鳥寺を訪れて、飛鳥大仏を見つめてきた。大和を愛した歌人、会津八一の歌集「南京新唱」に、 「 みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の やまとくにばら かすみて ある らし 」がある。「香薬師を拝して」とあり、新薬師寺で詠まれたというが、私には飛鳥大仏の表情が想い浮かぶ。ヘレニズムの影響を残す端正な表情―――シルクロードを超え、中国、朝鮮半島を経て大和の地に根付いた日本仏教の原点を見る想いで、「日本はユーラシアとのつながりで形成されてきた」ことを実感する。
さて、仏教伝来を「日本宗教史」の中で改めて熟考するならば、百済系渡来人に連なる蘇我氏が普遍的宗教としての仏教の受容を主張し、宮中祭祀に関わる物部、中臣氏が仏教を拒否するという構図が浮かび、仏教対古来の神道の対立という見方に傾斜しがちとなるが、仏教伝来の時点で、宮中祭祀はあったが、体系的な教義を持つ「神道」はなかったという。つまり、仏教伝来という刺激が神道を形づくったといえる。
本格的に天皇主導の仏教になったのは、六三九年に天皇と最初の官寺「百済大寺」を建立した舒明天皇、六四五年の大化の改新後に即位し、「天皇が仏教を主導すること」を宣言した孝徳天皇、薬師寺を建立した天武天皇(在位673~686年)あたりからであろう。
仏教の伝来とは、先進的文化の伝来でもあった。教義、経典もさることながら、文物、土木技術、寺院建築、薬剤、医療、絵画、音楽の伝来でもあり、その上に日本文化が形成されたのである。
神仏習合の起点としての聖徳太子
日本における仏教の受容に際立った役割を果したのが聖徳太子だといってよい。但し、「聖徳太子」という人物は伝説と謎に包まれており、その実在を否定する説や、その「厩戸の皇子」という呼び方が「キリストの出生」と類似していることから、景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を指摘する説(明治期の久米邦武説)なども存在する。
確かに、「聖徳太子」の名は「書紀」には見えないが、用明天皇の息子で、推古天皇の皇太子として、名は「厩戸の皇子」、別名「上宮」「豊耳聡聖徳」「法主王」など様々な呼び名で呼ばれた常人を超えた聖人の存在が日本精神史には必要だったと考えるべきであろう。つまり、決して天皇にはならなかったが「摂政」として、仏教教理の最初の理解者たる聖徳太子(574~622年)が「一七か条の憲法」「官位一二階」を制定し、遣隋使を派遣するなどの事績を残した青年指導者という象徴的な存在が求められたのである。
聖徳太子には二人の仏教の師がいたという。高句麗からの慧慈(えじ)、百済からの慧聡であり、太子の仏法の教義理解は深く、単なる「招福神」としてではなく真剣に「三宝興隆」(仏法僧を崇敬する姿勢)を主導した。太子の仏教理解は、妃であった橘大郎女が描かせた天寿国繍帳にある「世間虚仮、唯仏是真」(世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり)という言葉に凝縮されている。最澄、空海、親鸞、日蓮など、後の多くの仏教者が、聖徳太子を「和国の救主」として尊崇するのも、天皇と仏教と衆生済度を結びつけた存在として、聖徳太子が「神仏習合」の結節点に立つからである。
末木文美士の「日本宗教史」(岩波新書、2006年)などに刺激を受けて「神仏習合」について再考するならば、仏教優位の「神仏習合」が「中世における神道の自己主張」の登場まで続いていたことに気付く。輪廻の世界の「六道」(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天)の最上位の「天」の領域にあると位置づけられた日本古来の「神」を「仏」の力で救い、「神」が仏教を支えるという構図で「神仏習合」が成立していたのである。我々は、江戸期の「国学」成立以降、とくに明治期からの神道優位の展開に視界を引き寄せられがちなのである。
日本は七世紀以来「神仏習合」の歴史を積み上げてきた。江戸期、幕府の正学は儒教であったが、徳川家は仏教を敬い、上野の寛永寺、日光の輪王寺など天台宗を基軸としながら、芝増上寺の如く浄土宗も大切にした。寛永寺には、一六四七年に後水尾天皇の第三皇子を「法親王」という形で招き入れて以来、幕末まで皇室が支える形をとった。
ところが、大政奉還後の一八六八年(慶應4年、9月に明治に改元)三月に、太政官布告で「祭政一致制度の回復」「神仏判然令」が出され、神道国家を志向する「廃仏毀釈」「敬神廃仏」の流れが打ち出された。明治国家体制は、一九四五年の敗戦によって否定されたが、実は天皇と仏教の関係にはほとんど変化がない。仏教伝来以来の一五〇〇年間の天皇と宗教の関係においては、むしろ異例といえるほど天皇が神道とだけ結びついている時代が戦後日本にも続いているのである。
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