寺島文庫

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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2019年 岩波書店「世界」2019年12月号 脳力のレッスン212 江戸期の仏教への再考察――日本人が身につけたもの―――一七世紀オランダからの視界(その62)

岩波書店「世界」2019年12月号 脳力のレッスン212 江戸期の仏教への再考察――日本人が身につけたもの―――一七世紀オランダからの視界(その62)

 江戸幕藩体制三〇〇年において、仏教は形骸化し、堕落したとみるのが、日本仏教史の定説(辻善之助「日本仏教史」など)であった。確かに、本山が末寺までを統括する「本末制度」、さらに寺院が村落の檀家を束ねる「寺檀制度」によって国家権力の統治機構に組み込まれた仏教となることによって、仏教教理の原点が見失われ、仏教の形式化が進んだことも否定できない。仏教は衆生救済の宗教というよりも民衆統治の機構の一部になったともいえる。幕府は1635年に寺社奉行を配し、一六六五年には「諸宗寺院法度」を出し、寺院統制に踏み込んだ。
幕府による仏教統制はキリシタン禁制との相関で強化されていった。既に秀吉の時代から「伴天連追放令」(1587年)が出されていたが、本格的に徹底されたのは、江戸幕府によって一六一二年(慶長17年)に「伴天連門徒 御禁制也」という禁止令がだされ、「宗門改め」が制度的に強制されたことによる。全国的に寺院単位で「寺請制度」による住民の統制がなされ、これが実体的に戸籍管理の制度化となった。島原の乱(1637~38年)を経てキリシタン禁制が強化され、それは仏教統制を通じて展開された。

 

 

徳川家と仏教---浄土宗と天台宗

 

本来、徳川家は浄土宗の檀家であった。三河岡崎の領主であった時代から岡崎の大樹寺が菩提寺だった。そのため浄土宗の増上寺が江戸における徳川の菩提寺となった。ところが、家康が天台宗の僧侶天海(1536~1643年)を重用し、しかもその天海が当時としては驚きの一〇七歳までの長寿を全うしたことが、三代家光までの徳川初期の宗教政策に大きく影響した。天海により一六二五年(寛永2年)に開山された天台宗の上野寛永寺(寺領・境内合わせて32万坪)が重きをなし、一六一六年、家康の死後は天海の「神仏習合神道」に基づき、家康を神格化して「東照権現」として日光に祀り、天台宗の輪王寺が取り仕切った。
三代家光は日光に、四代家綱、五代綱吉は寛永寺に葬られたが、以後歴代将軍は増上寺と寛永寺が半数ずつ将軍家の菩提寺としての役割を分担した。幕府は朝廷に皇子の「東下住持」を要請、皇族が寛永寺と輪王寺の門跡となって権威づけをする体制をとった。徳川御三家の宗派も実に微妙で、尾張は浄土宗、紀州は天台宗であり、水戸だけが二代光圀の影響で儒教にこだわり、葬祭に仏教の関与を許さなかった。水戸出身の一五代慶喜は朝廷に配慮し、遺言で神式での葬儀を寛永寺で行い、谷中墓地に埋葬された。
徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉が仏教の統制に手を焼くのを目撃してきた。そのため、「仏教を保護しつつ統制すること」に腐心した。一六〇一年から一五年にかけて寺院法度を宗派ごとに発布して統制を図った。とくに、本願寺系の一向一揆の抵抗を恐れ、浄土真宗の分断統治を図り、一六〇二年に第一二世相続に当たり、顕如の長男教如に対して、家康は京都烏丸に寺地を与えて東本願寺(真宗大谷派)を別立させた。仏教宗派の多くが、幕府の体制維持装置になっていく中で日蓮宗不受不施派の頑強な抵抗と幕府による弾圧には特筆すべきものがある。一五九五年に豊臣秀吉が大仏妙法院で行った千僧供養会に各宗派の僧侶一〇〇人を招いたが、一切応じなかったのが妙覚寺の日奥(1565~1630年)であり、「不信の者から施しは受けない」という姿勢を貫く日奥は、一五九九年の徳川家康の千僧会にも応ぜず、流罪となった。以後、幕末まで日蓮宗不受不施派へのおびただしい検挙、斬首、流罪が繰り広げられた。
江戸幕府の権力機構に組み込まれた仏教に自立的役割はあったのであろうか。末木文美士の「近世の仏教」(吉川弘文館、2010年)は江戸期における仏教を「堕落」と決めつけるのではなく、「民衆世界に華ひらいた」という視界を提起しており、示唆的である。中国からの黄檗宗の影響と出版文化の隆盛という要素が江戸期における仏教の民衆への浸透をもたらしたという指摘は重要である。
一七世紀中国における漢民族支配の明王朝から満州族支配の清朝への政権交代が、中国の儒学者や僧侶の日本への亡命をもたらしたことは既に触れた(参照、連載8「日本の大航海時代――鎖国とは中国からの自立でもあった」)。とりわけ、明の復興を目指して台湾を支配した鄭成功が仕立てた船で、一六五四年に来日した隠元(1592~1673年)による黄檗宗の登場が仏教界に与えた刺激は大きかった。宇治の万福寺を基点に活動した隠元によって導入された明朝禅林の生活規範たる「黄檗清規」が仏教界を動かす一方で、世俗に配慮した柔軟な「心の染浄」(自己の本来有する仏性の顕現)を重視する姿勢は江戸期仏教に静かに影響を与えた。黄檗系の僧侶が中国の木版技術によって「大蔵経」などの経典を普及させ、木版の「仮名法語」は民衆に仏教理解を促したことも大きかった。
また、江戸期における日本各地の村落における寺院の役割や寺子屋の活動に関する文献をみると、ソーシャル・キャピタルとしての仏教寺院の果した機能を印象付けられる。元禄期(一七世紀末)、幕藩体制下の日本において六万三二七六の村が存在したという。農耕社会を形成するそれぞれの村に「名主、庄屋、惣代」などの村役人が存在し、村のまとめ役として年貢の徴収などを担っていた。また、ほぼすべての村に寺が存在し、秩序の支柱となっていた。先述のごとく寺請制度、檀家制度などで統治機構の一翼を担っていたわけだが、日常的には寺子屋での手習い教育、貧窮者の救済、家事もめごとの仲裁など、福祉という概念もなかった時代にソーシャル・キャピタルとしての機能を果たしていた面も見逃してはならないだろう。明治期に近代的学校制度が始まる前に、日本人の識字率が極めて高かったのも、「読み書き算盤」を教える寺子屋が機能していたためであり、江戸期に蓄積された知の基盤が大きな意味を持った。
もちろん、越後の自然と子供たちの中に身を置き、寺さえ無き僧侶として清貧に生きた良寛(1758~1831年)のような僧侶ばかりとはいえぬが、仏僧が村落の日常において持った意味は大きかった。良寛の句に「 鉄鉢(てっぱつ)に 明日の米あり 夕涼 」があるが、こうして質実に生きる姿が、彼を取り巻く人々の心の灯であった。


 

江戸期の天皇と仏教――「泉涌寺」という存在

   江戸期、寺檀制や菩提寺の定着により、ほぼすべての日本人が仏教徒だったといえる。将軍から武士、町人、農民まで誰もがどこかの寺の檀家であり、天皇とて例外ではなかった。天皇家にも菩提寺が存在し、それが京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)だった。泉涌寺は平安時代初期に草創されたが、その後荒廃、鎌倉時代に再興され、健保六年(1218年)からは、律、天台、真言、禅、浄土という五宗兼学の道場として栄え、一二歳で亡くなった四条天皇(87代、在位1232~1242年)の陵墓が設けられて以降、朝廷にとって特別の存在となった。とくに、江戸期の朝廷と泉涌寺の関係はより密な関係となり、一〇八代の後水尾天皇から一二一代の孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は一貫して泉涌寺が執り行い、その陵墓(月輪陵、後月輪陵、後月輪東山陵)もすべて境内に造られた。
明治期に入り、「廃仏毀釈」の中で、泉涌寺の陵墓はすべて国に没収され、宮内省(現宮内庁)の管理下に置かれた。寺領を圧縮された泉涌寺は苦難の時代を迎える。国家神道を際立たせた明治憲法下の仏教寺院として、「御寺」とまで呼ばれた天皇家の菩提寺でありながら限られた御下賜金での運営を余儀なくされた泉涌寺であるが、一九四七年の日本国憲法で政教分離が定められて以降は、「国家神道」の圧力は回避できても、天皇家の内廷の私費の御下賜だけでは檀家の無い寺門の維持は苦しく、「伊勢神宮、橿原神宮、泉涌寺」を三大聖地とする宗教法人「解脱会」の支援などにより護持されてきたが、一九六六年以降は三笠宮崇仁親王(現在は秋篠宮文仁親王)を総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が設立され、民間篤志家が支援する形で維持されている。日本人の多くは、今日でも天皇と神道の関係だけを認識しているが、一五〇〇年に及ぶ日本仏教史の中で築き上げられてきた天皇と仏教の関係を忘れてはならない。
ところで、江戸期の日本は「儒教の時代」というイメージが強い。家康の「侍講」として儒書を講じた林羅山の孫・林信篤が「大学頭」に任じられてからは林家が大学頭を世襲していたが、正式に儒教が幕府の「正学」とされたのは、十一代将軍下の一七九〇年松平定信の「寛政異学の禁」(湯島聖堂での朱子学以外の教授を禁止)からであった。
江戸初期の儒学を支えた藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎という三人は仏門(臨済宗)から還俗して儒者となっており、儒学は宗教というよりも世俗社会を生きる規律に関する学問体系だったというべきかもしれない。
江戸期儒学の世界に屹立する二人、新井白石と荻生徂徠の果した役割については既に論究した(参照、連載25)儒学の側からの仏教批判は手厳しく、仏教の出家主義や現世否定的傾向、檀家制度に依存した僧侶の権勢と安逸、教理における「輪廻転生、地獄極楽」による民衆恫喝などが、現世への主体的関与を重視する儒学の主知主義とは相容れないものになっていった。新井白石の「鬼神論」はその意味で刺激的である。
 国学・神道の側からも仏教批判の動きが胎動し始めた。国学の祖とされる本居宣長については、「本居宣長とやまとごころ」(参照、連載26)において論じたが、「もののあわれ」から「古学」に踏み込んだ宣長の真髄は、「からごころ」、すなわち中国の文明文化に依存した世界観(華夷思想)の呪縛を解き、日本人の精神性を古層に求めることであり、「やまとごころ」の復権にあった。その目線からは、儒教は「唐土の道」であり、仏教は「天竺の道」が漢字文化を通過して伝わったもので、外来の道であった。
 こうした、儒教、国学・神道側からの仏教批判の鳴動こそ、明治期に吹き荒れる「廃仏毀釈の前史」であり、伏線であった。こうした仏教への論難に対して、仏教側からの対応の軸となったのは浄土宗の大我(1709~82年)などによって主張された「三教一致論」であった。すなわち、儒教、仏教、神道の帰するところは「天下を安んじるための勧善懲悪の倫理性」にあるとする姿勢であった。「三教一体」と単純に括れるものではないが、現代世界を生きる日本人として、自らの心の中に在る価値基準を問うとき、個人差はあっても、何らかの形で儒・仏・神の重層的価値の影響を受けていることに気付く。
 そして、それが江戸期という期間を通じて醸成されたものだということも間違いなかろう。幕府の正学として、武士層の思想の軸になっていった儒教、寺檀制度を通じ、日常性の中で民衆の精神の基層を形成した仏教、土着の自然崇敬と祖先祭祀を基盤として掘り起こされた古層としての国学・神道、これらが複合化して化学反応を起こし、日本人の「魂の基軸」を形成したといえる。それを新渡戸稲造のごとく「武士道」と呼ぶか、「和魂洋才」論における「和魂」と呼ぶかは別にして、日本人の深層意識における価値は、明治以降の日本近代史にも投影されていくのである。


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